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旅、映画、食べ物、哲学?

Fifteenth Night PART3

「昼の夜市とジャズバークエスト」

国父記念館から、昼の臨江街夜市へは、大した道のりではない。曇りだったから日差しも大した事はないし、かなり広い大通りを伝ってゆけば、いつの間にかたどり着く。途中で派手でゴテゴテとした中国式神社があり、そこのすぐ隣が、夜市のメインストリートだ。

 

朝に比べて、少々人足は減っていたが、昼の市場もかなり活気があった。わたしは食事場所が並んでいる、ひときわ汚いエリアへと向かい、目つきの鋭いおばさんがやっている屋台に並んでみた。一番人が並んでいたのだ。ただし、何を頼めばいいのか全く見当もつかないので、事前に知っていて、今まで食べていなかった「魯肉飯(ルーローファン)」なるものを食べてみる事にした。

「うぉーしゃんやお、るうろうふぁん(ルウロウファン、クダサイ)」

というと、おばさんは一瞬、「?」という表情を浮かべたが、数秒後にわたしの発音が悪すぎる中国語をなんとか理解したらしく、

「你想要魯肉飯嗎?(ルーローファンが欲しいのね?)」と聞き返してきた。わたしはとりあえず頷く。叔母はさんはまた何やら聞いてきた。全く理解ができないので、「?」という表情を浮かべると、向こうの方を指差し、その後で地面を指差した。なるほど、ここで食べるか、それともテイクアウトかと聞いているのだろう。わたしは地面を指差し、ここで食べる事を伝え、料理が出るのを持った。数秒で、小さなお椀に入った魯肉飯が出てきた。わたしは屋台に貼ってあった紙に書いてあった「30元」を払った。するとおばさんはまた何やら言った。わたしはまた「?」の表情を浮かべる。おばさんは今度は屋台の向かい側にあった、食堂のような場所を指差した。ああ、あそこで食べるのか。わたしは

「しえしえ(アリガトゴザマス)」

と言って、食堂へと向かった。

といっても、本当にここで食っていいのかよくわからない。というのも、あの屋台以外にも、食堂のそばにいろいろな屋台が立っていて、もしかするとどこか別の屋台の食堂かもしれないような雰囲気があったからだ。だが、間違っていたら、誰かが何かを言うはず。わたしはとにかく椅子に座り、初めての魯肉飯を口にした。見た目は牛丼。だが肉が薄切りではなく、でかいままドンと置かれている。

食べてみると、とてもうまい。現状、台湾で食べたもののうち一番にうまい。柔らかく煮込まれた肉が、無数の豆腐のようなものと、「台北味」とでも名付けられそうな、例の八角香る茶色いタレで味付けされ、白米の上にボトンと乗っている。ご飯と肉、その相性はぴったりで、口の中に入れれば、肉はトロけ、香りが口いっぱいに広がる。使い古された表現だが、箸が止まらなくなるのである。

一瞬にして食い終わり、わたしは皿を、食堂の端で食器を洗っているおばさんに、「しえしえ」と言って渡し、市場に出た。まだ何か食えそうだ。

 

だが、結論から言うと、そのあとは何も食べなかった。色々ありすぎて、目移りしているうちに、食欲がどこかに行ってしまったのだ。「総統饅頭」という謎の肉まんや、普通の肉まん、餃子、涼麺(本場の冷やし中華)……。どれも旨そうだったが、どうにも店に入る気になれなかった。やはり言語の壁に疲れつつあった。

結局、わたしは果物屋で「檸檬愛玉(リーモンアイユー)」という台湾スイーツを買って食べただけだった。いや、食べたというよりも、飲んだという方が正しいだろう。というのも、このスイーツは檸檬ジュースに、寒天のような「愛玉」を入れて、ストローでチュルチュルっとすするものなのだから。これがさっぱりして美味しい。だが問題点もある。これをすすったら最後、お腹がいっぱいになってしまうのだ。そういうわけもあって、わたしは昼の市場で他には何も食べなかった。潮時のような気がしたので、わたしは市場を離れ、駅へと戻った。

 

天気は好転していた。曇り空は晴れ空に変わり、むしっとした暑さが吹き返して、むしろ増していた。わたしは、次の台風がやってくる前のこの晴れ模様をなんとか活用したくなった。そうだ。夜にジャズバーに行こう。わたしはそう思った。

ヴェトナムを旅した時、わたしは友人とともに、ジャズバーに入った。偶然見つけたところだったが、かなり良かった。ヴェトナム一のサックスプレーヤーがたまたま出演していて、旅の中でのちょっとした刺激となった。台湾滞在四日目にして、少々、早々、疲れが出始めていたわたしにとって、ジャズバーのようなちょっとした洗練された空間の刺激が必要な気がしたのだった。

 

そのあとは、ガイドブックをめくっていて見つけたジャズバーを探し出そうと奮闘し続けた。台北101/世貿中心駅でおり、なんとかそのジャズバーを探すべく、歩きに歩いた。だがなかなか見つからない。その途中で、「台北最後の秘境」ともいうべき、昭和の日本がそのまま残っているような場所に遭遇したり、いまだ正体のわからない建設中の螺旋状ビルを発見したり、きみのわるい銅像を見つけたり、かなり面白かったが、肝心のジャズバーは姿を現さない。わたしはwifiスポットへ行き、最終手段、「グーグル先生」を頼ることにした。すると、入り口がわかりづらいところにあることがわかり、最後には場所を確認できた。だがかなり体力を消耗していたので、わたしはとりあえず、ホテルへと戻ることにした。夜に向けて、だ。

Fifteenth Night PART2

「PATER PATRIAE」

昼間の夜市を離れて、わたしはテキトーに歩き始めた。

今思うと、あの時はどこか、中国語を使うことに疲れていたように思う。市場のエネルギーはわたしのエネルギーをチャージしてくれたが、結局のところ人と話してみようなどということは、この時、思いつきはしても、実行に移す力が残されていなかった。人に話しかけてみる、ということは、日本では「無駄な人に話しかけない」という都会のルールが、海外では「外国語を使う勇気」が邪魔してなかなかできない。それを超えて、いろいろな人と話すエキサイティングな旅へと自分を導くためには、それなりの量のエネルギーが必要である。残念ながら、わたしはまだそこまでのチャージができていなかった。だからこそ、「ああ、ここは美味しそうな餃子を売ってるな」とか、「ああ、この肉まんはうまそうだな」とか思いながらも、「いや、でもまだ昼食どきではない」というくだらないこと極まりない言い訳を自分で用意してしまっていたのだ。だが、仕方がなかったとも言える。全然知らない言語の場所で、三日間疲れずにやっていただけで上等である。このちょっとした倦怠感を超えたところに、真の自由はあるのだ。

小難しい「自己分析」はさておき、わたしは大通りに出てそれをそのまま直進していた。道の広さといい、交通量といい、いつか訪れたヴェトナム南部のホーチミンシティに似ている。先ほどの市場のあったレトロな雰囲気の地区を離れれば離れるほど、街は近代的な雰囲気になっていった。小綺麗な(といっても、他の台北の建物と比べて、である)アパートのような建物が並び、その一回はおしゃれなパン屋などが入っていた。きっと、開発しているのだろう。

そんな背丈の高い、小綺麗な建物の並ぶ中に、一軒だけ、平屋のバラックのようなものが、まるで開発に抵抗するかのように存在する。この建物は食堂である。餃子やら何やらを出していた。人は結構来ていて、この客数こそが、この建物を開発の魔の手から守ってくれているのだろう。中国の餃子は水餃子が中心だというが、台北では結構焼き餃子も売っている。この店のものも焼き餃子で、プーンと餃子の焼ける匂いがして、食欲をそそった。だが、この店に入って食べるほどの行動力は残されていない。わたしはそこを、まあ後で来れる、と片付け、一本道をひたすら歩いた。結局、その後も行かずじまいだった。次行く時はもしかすると、高層ビルになっているかもしれない。そう思うと、なんと愚かなことをしたんだろう、と今になって後悔してしまう。

さて、しばらく歩くと、右手の方にどでかい公園のようなものが見えた。シュロだかヤシだかの木がすっすっと何本も立っていて、その周りには別の木が植えられている。公園だろうか。公園ならば入ってみたい。なぜだか、公園に行けば、また行動力をチャージできるような気がした。「奇跡を生むのは積極性」という映画「旅情」のセリフが正しいならば、こんなにどの店にも入らずに、ただただ無言で歩くような馬鹿な真似は早く辞めて、もっと入り込んで行かねば面白くない。だから公園に行きたい。そんな、公園に行けば失ってしまった何かをまた手に入れられるような、謎の啓示があったのである。

さて、目的地は決まった。あの謎の公園だ。いや、見当はついていたのだ。わたしは、この「信義安和(シンイーアイフー)」駅の前の駅が「大安(ダーアン)森林公園」だということを知っていたので、この公園はきっと森林公園に違いないと考えていたのである。

ところが、公園に入ってみるとそれは間違いだとわかった。公園に入ったつもりが、目の前に現れたのは、オレンジ色の、でかい、中国の宮殿風の屋根に覆われた建物だったのだ。これは一体なんなのか。建物の前は「広場」という言葉がふさわしいような、かなり広い空間が広がり、そのど真ん中にはすっとポールが立ち、そのポールの先には台湾こと「中華民国」の国旗がはためていた。一体なんだというのだ。わたしはとりあえず中に入ってみることにした。気になったら迷わずに足を向ける。それが今回のルールだ。

階段を登り、建物の中に入ると、まず目についたのは入り口付近の人ごみだった。その人ごみの中心では、白い制服に白いヘルメットの台湾の衛兵が交代式をしていた。なるほど、ここはそういう場所か。そう思いながら交代式から少し目をそらすと、衛兵の後ろには巨大な男の坐像があった。それはまるで、アメリカのワシントンD.C.にあるリンカーン大統領の像のようだった。あれとは違い、その男の像は黒い色をしていて、あごひげではなく口ひげをはやしている。髪の毛は薄く、見えないくらいだ。服装は軍服のようだった。この人物は、もしかすると「蒋介石」かもしれない。

結論から言うと、それは間違いだった。「蒋介石」ではなく、「孫文」だったのである。隣の部屋に入ってみると、そこは孫文記念館で、孫文の生涯と業績についての展示がされていた。

この建物は、「國父記念館(グォーフージーニエングァン)」という名前だった。国父とは、孫文のことである。孫文というのは、中国がまだ清朝だった頃に日本などの留学し、「清朝を倒して民主制国家を立ち上げる」という一種の「夢」にとりつかれ、仲間たちと革命を決行し、ついには成功させ、「中華民国」を立ち上げた男である。それゆえに、中華民国の系譜を引く台湾では「國父(グォーフー)」と呼ばれているようだ。そんな孫文の業績と人生を、この記念館では紹介し、さらには、その孫文の「夢」がいかにして実現されているのかを紹介していた。孫文は、「孫中山(スン・チョンサン。間違っても「ソンなかやま」と呼んではいけない。元サッカー選手みたいになる。日本語の名前も持っており、「高野長雄」というらしい)」という方がむしろ一般的のようである。

展示室に入ると、右手に大きな石板があり、そこには中華民国の「国民政府建国大綱」という、いわばマニフェストのようなものが刻まれていた。これはもちろん孫文が書いている。そこには、「この革命で、我々国民政府は、「三民主義」と「五権憲法」をもとに中華民国を成立させる」というような文言が書かれていた。その横には孫文の母親の写真などが並び、しばらく歩くと「いかにして中華民国国旗ができたのか」というような展示もある。そして、世界史を学んできた人にとっては少し感動的な、孫文が発行していた「民報」の第一号が展示されていた。

ここを回っていると、「夢」にかけた孫文の情熱が伝わってきて、台湾政府の思惑通りなのか、孫文にかなり好感が湧くようになってくる。そもそも、世界史の授業で出てきた孫文もかっこよかった記憶がある。夢にかけ、幾多の困難を超え、中華民国が成立したらしたで、分裂していこうとする中国をまとめようとしつつ、最後には「革命未だならず」の一言だけを残して死んでいった。その姿は理想に燃えつつも現実を直視し、最善を尽くしながらも現実の前に倒れ、強い心を持ちながらも、どこか切なさを感じさせた。そんな一人の男のいきざまというようなものを、よく分からない言語の展示(日本語もあったが、あえてあまり見なかった)を見ながら、思い出すことができた。

隣の展示室では、孫文の外交を描いていたが、その辺は(難しすぎて)よく分からず(ただ、下関条約の全文が読める形で展示されていたのは面白かった)、その先にあった中華民国の現在の姿の展示へと歩いて行った。そこは、「三民主義」、つまり、孫文の理想であり夢でもあり実現されるべきものである考え方を中心に展示されていた。

三民主義」とは、「民族」「民主」「民生」の三つのことを重視することを言う。「民主」のコーナーには、日本の投票所では考えられないくらいの厳重な投票所を模擬体験できる場所があった。そして「民生(人々の生活)」のコーナーには、バスや、電車網についての展示があった。面白かったのは「民族」だ。民族主義というと、第二次世界大戦後の世界に住む私たちは、なんとなくネガティヴな風に聞いてしまう。だが、そこの展示では違うことを言っていた。台湾は多民族国家だ。先住民、客家、日本統治時代以前からいたその他の漢民族内省人)、中華民国統治に切り替わってからやってきた人々(外省人)……。現代の民族主義とは、そのどれかを重視するのではなく、それぞれが共生することを目指すのだという。だから、(と展示はいう)台湾には、中国語のチャンネル、台湾語のチャンネルの他に、客家チャンネル、原住民チャンネルがあるのだという。なるほど。まあこれについてはカナダの話も含めて、またいつかこのブログで語りたいと思うが、なんとなく、台湾の「理想」というものを見たような気がした。

一通り展示室を回り、外に出た。初めにやってきた孫文像のある入り口とは違うところだった。わたしはバルコニーにあった椅子に座り、地図を開いた。地図上では「建設中」となっているスタジアムが、実際にはもう出来ていた。しばらくぼーっとしていたが、なんとなく歩き始めたい気分になったので、国父記念館をぐるりと外から一周してみようと思った。

少し歩くと、バルコニー部分で、若者たちがダンスをしている。やはり台湾の若者はダンスをしているようだ。こんなところでもやってのけるというのは面白い。中華民国の理想を見せつけようとする台湾政府の思惑(わたしはまんまと引っかかった)とは裏腹に、若者らにとってはあそこは格好のステージなのだ。思えばヴェトナムでも、「統一公園」という名前の公園の、ホー・チ・ミン像の前でデートをしたり、健康器具で体を鍛えている人たちがいた。そう、それでいいのだ。それぐらいがいいのだ。イエス・キリストは神殿の前で商売をしている人を叱責し、露店を破壊したというが、それは意味のないことだ。現に教会の前は市場になっていることが多い。理想や信仰というものは、生活とともにあるからこそ、生きた理想や信仰になる。最後に判断するのは、人々なのだ。ある意味、それこそが、「民族・民生・民主」なのかもしれない。

公園にはバリエーション豊かな格好の孫文像が並んでいる。握手しているか、手を振っているだけのホーチミン、犬を散歩しているだけの西郷隆盛とは大違いだ。まあ、その辺はいいだろう。

わたしは公園の部分にやってきた。緑がいっぱいだった。ヤシの木があり、池があった。池には台北101が映っている。なんとなく、自然と人工物、昔の台湾と今の台湾が共存しているような場所だった。わたしはとりあえず、ぼーっとしながら公園を歩いた。しばらく歩くと、わたしはお腹が空いていることに気づいた。そうだ。あの市場に戻るんだ。そして何かを食おう。わたしはそう思い、市場へと戻っていった。

Fifteenth Night PART1

「NIGHT in DAY」

朝起きてホテルの窓の外を眺めたら、青空だったものだから、てっきりこれが台風一過の晴れ模様だと思っていた。だが、朝食を食べ、ホテルの外へ出るとそうでもないとわかったのだ。空は雲で覆われ、時折雨も降る。わたしはとりあえずビニール袋の中に傘と、台風の前日に買った透明なかっぱを入れて、出直すことにした。

台風14号「莫蘭蒂」は台湾の南部をかすめて直進し、少しだけ北上しながら中国大陸へと消えていった。と言っても、大陸の果てへとどこまでも進んで行くはずもなく、消滅した台風の余波がまだ台湾には残っていたようだ。だから、わたしの台北滞在四日目は、若干ぐずついた、いいとも悪いともつかない天気のまま開始した。

台北滞在四日目

 

二日目のように、一日乗車券もないまま、テキトーな地下鉄利用を繰り返せば、金が持たない。もうあの失敗を繰り返すまい、とわたしは「台北車站」(台北駅)でワンデイパスを購入することにした。だが、買い方がわからない。インフォメーションセンターで聞いてみると、「どちらに行かれるのですか?」と聞いてきた。

そこでハッとしたが、わたしはどこに行くのか決めずに駅まで来ていたのだ。だが、ワンデイパスなら行き先など決まっていなくてもいいはずだ。わたしはとりあえず、「いや、ただワンデイパスがもらえればいいんです」と答える。

するとインフォメーションセンターの女性は、「ですが台北駅には、二つの線路が走っていて……」といった。

それくらい知っている。板南線と淡水信義線だ。親切に教えてくれているのはわかっているが、こちとら淡水まで行ってきた口だぞ、と少々語気が荒くなってしまう。「ええ、でもワンデイパスはどの線路でも平気だと思っていたんですが? どこに行くかはノープランです!」

女性は、「ああ、そうですか」と少々困惑しながら、「それでしたら彼方に行けば一番近い改札口があるので、そこで購入できます」

わたしは、「ありがとう」と語気が少々荒くなってしまったことに対する精一杯の謝罪をこめて言った。おそらく、気づいていないだけでちょっとばかし外国語での会話に疲れていたのだろう。まずは落ち着かねば。わたしはエスカレーターを降りて、改札口へと向かった。そこの窓口でバスと地下鉄両方に使える一日乗車券を買い、勢いで改札の中に入っていった。

そういえば、改札を超えた今も、わたしはまだノープランだった。とにかく行き先を決めないと。そうは言ってもこれと言ってあるわけでもなく、わたしはとりあえず台北の真ん中の方へと行くであろう「淡水信義線」の、淡水とは反対の台北101の方へと行く路線に乗った。

電車の中で路線図を開き、どうするか考える。そうすると、台北101駅の一つ前の「信義安和(シンイーアイフー)」駅が目に止まった。ガイドブックを暇つぶしにめくりながら、夜市について読んでいた時、その名前を見た気がしたのだ。だが、そこにどの市場があったのか、あるいは店があったのかは全く覚えていない。だがこの際だ。わたしはとりあえずそこで降りることにした。

 

信義安和駅の出口には、確かに件の市場のことが書かれていた。だが、どうやっていけばいいのかわからないし、まず第一にそれは夜市、すなわちナイトマーケット、すなわち夜に開かれる市場なのである。そして現在時刻は午前(台湾風に言えば「上午」)10時くらい。全くもって夜ではない。だから、やっているかもわからないのである。

とにかくわたしは街に出た。街は道幅が広く、日本でも見かけそうな建物がたくさんある。もしかすると、ハズレの駅で降りてしまったかもしれない。人もいないし、日本の牛丼チェーンばかりが目に入る。だがここで引き返すのも癪にさわるので、わたしは大通りから一本外れてみることにした。

するとどうだろう、栄えてはいないが、台湾の古い風景を残していそうな場所が出てきた。電線がズズッと伸び、露天が立っている。その前では人々が何やら黄色い紙を燃している。そこには人々の生活があった。なかなか面白そうだ。わたしは歩いて回ることにする。

紙を燃やす行事はずいぶんいろいろなところで行われていて、店の前、祠の前、あらゆるところで燃やしている。祠、そう、台湾を語る上でこれは逃せないだろう。台北の街を歩いていると、突如派手な建物が現れ、そこが祠になっている。いつかハノイを旅した時に嗅いだウスターソースに少しだけ似た匂いのお香が漂い、中では人々がひざまづいて祈る。決まってそこの入り口のあたりには何やら情報の流れる電光掲示板があり、太鼓やシンバルのような楽器の音と歌声のCDが流れている。日本で中国の信仰が見れるところといえば横浜中華街の「関帝廟」と「天后宮」だろうが、観光地化されてしまっているあそこでは絶対に見ることのできない猥雑さが、台北の祠(というか神社というか、廟というべきなのか、なんといっていいのかよくわからない)にはある。きっと紙を燃やす行事も、この祠を中心に行われている信仰と関わりがあるのだろう。一瞬何をしているのか聞いてみようかと思ったが、中国語疲れか、やめてしまった。

建物は大抵が三、四階建てで、かなり古い。窓には格子がはめ込まれ、煤けている。建物の幅は日本と比べてかなり狭く、びっしりと、そこそこの高さの建物が並んでいる光景は異様である。どの建物も縦書きの看板を掲げていて、何やら商店のようだ。さすが「台北101/世貿中心」駅の一駅前の駅だけあって、101も良く見える。古めかしい建物郡の先に近代的な101がすっと立っている様子は、まるで台北の歴史を一気に見つめているようで、感慨深かった。映画「K-20 怪人二十面相伝」で描かれる、敗戦しなかった日本の首都東京が、猥雑な下町と高層ビルの立ち並ぶ中心部に分かれているあの光景に、少なからず似ている。(タイのバンコクも似たところがあった)

しばらく歩いていると、再び大通りに出た。だがそれは先程の通りではなく、別の大通りだった。そこはそこそこ人通りがあり、「食放題」や「足の舞」などといった、わけのわからない日本語の看板も趣深く掲げられていた(実はこの通りに出る前の下町風の通りにも、「可愛い」みたいな名前の店があった。この辺りは珍妙な日本語で溢れているようだ)。この通りは、「通化街」という。まるで間違って発音してしまった「中華街」みたいな名前だ。この通りを横切り、再び下町風の界隈を歩いていると、突如として身の回りの人口が5倍に膨れ上がった。

そう、そここそ、わたしがガイドブックでちらっと見かけた「臨江街観光夜市」だったのである。それも、昼の姿だ。雨がシトシト降り始めたが、たくさんの人が押し寄せていた。メインストリートでは道のど真ん中でおじいさんおばあさんが何やら果物を売っている。一瞬売っていたゼリーを買おうかと思ったが、いくらか忘れたが非常に高い。そのせいか誰も買っていないのでやめた。ピーナッツを売る人、ジャガイモを売る人、とにかくいろいろな物を売る人がそこにいり混じる。朝の買い物にやってきた台北マダム達、おっさん達がそこに群がる。エネルギッシュとはこのことか。わたしは流れに流れるように歩いた。

メインストリートから少し曲がれば食堂(なのか?)街があり、ずらりと屋台が並び、そこで買ったものを食堂のような場所で食べている人がいる。その場所とは逆方向にメインストリートを横切り、メインストリートを平行に走る通りに出ると、そこにはやはり祠があって、人々が紙を焼いている。その信仰の場の隣では肉まんを売る店がたくさんあるんだから面白い。

買い食いして歩けばもっと良かったのだが、きっとどこか疲れていたのと、昨日は台北駅周辺にしかいなくて行動力が鈍っていたせいもあり、なぜか市場を見て回るだけで満足してしまっていた。わたしは「食事にはまだ早いんだ」と勝手な言い訳をし、とにかくこの市場を歩き回って、店の商品をたまに見たりして、いわゆる「露店を冷やかす」という行為をして回った。

すると雨が強くなってきた。わたしは傘をさしていたが、人ごみの中で傘をさし続けるのが億劫になってきて、カッパを着ることにした。とりあえず市場から離れると、良さそうな公園があった。わたしは公園の椅子に座り、カッパに着替え、再び市場へと向かった。

台湾の人はあまりカッパを着ない。それは昨日の台風「体験」で感づいてはいた。みんな傘なのだ。わたしはその理由はよくわからなかったが、カッパを着て市場を歩き回るとそれがよくわかった。というのも、カッパを着るとものすごく体温で暑くなり、汗を大量にかき、正直言って雨に濡れているよりもびしょ濡れになるのである。わたしは即刻カッパを脱いで行動することにした。

この市場は非常に楽しかった。食べ歩きはしていないが、歩いているだけでそのエネルギーに圧倒される。特に少しだけ疲れの出始める「四日目」のスタートにはもってこいだった。わたしはメインストリートを直進し、さらなるでかい通りに出ると、昼食までの時間を、散歩しながら潰そう、とそのでかい通りを歩くことにした。そう、昼食は絶対この市場でとってやろうと思ったのだ。

そしてその時間つぶしに過ぎないはずの散歩は、別の面白い場所への道しるべとなっていたのである……。

台風の日〜莫蘭蒂の巻〜

フィリピン沖で発生した「莫蘭蒂」こと台風14号は、その勢力を拡大しながら台湾へと迫っていた。初めは台湾に上陸する予定だったが、神のご加護か、単なる偶然か、進路を南よりに切り替えて、台湾の南側をかすめて行くルートをとることになっていた。

だが、慈悲深き神とて甘くはない。実を言うと、台風14号に加えて、「馬勒卡」こと台風16号がフィリピン沖で発生、台湾の北側をかすめながら通って、日本へ向かうルートで動き始めていたのだ。さすがは台風のデパート。わたしは滞在中台風を2度も経験することになるのだ。いざとなればホテルに引きこもる覚悟はできていたが、二回も来るとは、なんともまあ、悲しい運命である。

だがとにかく、どちらの台風も台湾に上陸はしないという予報であった。そして台北滞在三日目は「莫蘭蒂」の方が台湾に近づいてくるまさにその日であった……

 

台北滞在三日目

台湾の台風はひどい。日本のものなど比べものにならない威力だ。そういう話を聞いていたので、朝起きて窓の外を見た時は驚いた。空を分厚い雲が覆ってはいるものの雨すら降っていなさそうなのだ。もしかすると、これが本物の嵐の前の静けさかもしれない。そう思いつつ、わたしは一階へと降り、朝食をとった。

余談だが、朝食は、朝食券をホテル併設のカフェまで持って行き、カウンターでそれをわたし、コーヒーか紅茶か、どちらを飲みたいのかをオーダーするシステムになっている。そうするとコーヒーか紅茶と、サンドイッチが出てくる。サンドイッチの味はどこか「台北味」で、甘辛い鶏肉の具が入っていることが多かった。わたしは毎回コーヒーを頼むのだが、最初に必ず中国語で質問を受ける。そんなことはもう慣れっ子だったが、一瞬何を言われたのかわからなくて混同したものだった。とにかく、なんとか英語にしてもらい、ものすごい量の、ものすごく熱い、だがなかなか美味しいコーヒーを頼む。これが、カフェ周辺の効き過ぎたエアコンの環境では、暖かくて良い。毎回、口にやけどをしながら飲んでいる。

そんなことはさておき、わたしは食事をすませると、外に出てみようという気になった。結構多くの客がホテル外に出て行く姿を見たし、行けそうな気がしたのだ。

外は小雨だった。風はまあまあある。そしてむわっと蒸し暑い。そりゃそうだ。今台北の南東にはどでかい台風があるのだ。この台風は、台湾のテレビの漢文を何とかして読みくだした結果によれば、100年の歴史を塗り替えるほどのでかさらしい。だがそれも、遠く離れているためか、強い風がむしろ気持ちよくさえ感じられてくる。

わたしはホテルのそばの「二二八和平記念公園」にある、「国立台灣博物館」に行こうと思った。台風の予定日に、さすがにどこか電車に乗って遠出する気にはならなかったが、最寄りの博物館くらいなら平気そうだと思ったからだ。

「国立台灣博物館」は、日本統治時代に作られた、質実剛健な感じの、どことなくロンドンのナショナルギャラリーに似た、青いドームつきの塔にギリシア神殿風の建物という建物の中にある。強い風で、ドームのてっぺんに掲げられていた中華民国の国旗がはためいていた。台風の日にやっているのだろうか。そう思いながら建物を眺めていたら、別の観光客が博物館へと繋がる階段を登り、入り口あたりで立ち止まった。やはりやっていないのか。そう思った時、扉が開き、警備員が観光客を迎え入れた。わたしは今だとばかりに階段を登り、便乗して中に入ったのだった。

警備員が傘は外に置いておいてくれというので、わたしは傘を外へ置き、エアコンのよく効いた館内に入り、故宮博物院の二の舞にはなるまじとチケットカウンターでチケットを買い、入館した。チケットの値段は30台湾元だった。思い出してみると故宮博物院は250台湾元。なんという差だろうか。

中に入るとホールがある。そこは日本の国立博物館の大階段と同じ作りだが、天井は丸く、ドームを下から見上げることができるようになっている。明治大正のロマンがそこにはあるような気がした。それが良いことか、悪いことかはわからない。だがとにかく、この博物館のホールに立つと、すっと背筋を伸ばしたくなる。

わたしは2階へ上がり、とりあえず回ってみることにした。

国立台湾博物館は、大きく分けて二つの展示コーナーがある。まずは、「台湾の自然と動物」コーナー。そしてもう一つは、「台湾の先住民族」コーナーだ。自然と動物の方は、まあ、よく知床などで見かけるビジターセンターのようなものだったが、「先住民族」コーナーはなかなか充実していた面白かった。台湾には何種類もの原住民族がいるらしく、それぞれの衣装とともに、映像も流され、工芸品も置かれ、その生活ぶりを伝えていた。「布農族」という人々のコーナーでは歌を聞くこともできた。というのも、彼らは歌で名の知れた民族らしい。試しに乾杯の歌を流すと、どことなく懐かしいような、それでいてどことなくエキゾチックな歌が流れてきた。低音を響かせ、高い音で歌い上げる、いわゆる「ポリフォニー(多声音楽)」とよばれるものらしい。楽器も展示されている。わたしはしばらくそのコーナーを回ったが、ふと、動物のコーナーと同じように、この人たちのことを展示するというのはどういうことだろう、と思った。

たまには動かない旅もいい。わたしは椅子に座って、誰かが展示コーナーで流した原住民族の音楽を聴きながら、ぼーっとしていた。

途中で日本人のグループを見かけた。彼らは何やら建物を見ているようだ。ガイドが壁を指さし、「この部分は大理石です」とか、「この部分は日本統治時代から……」とか言っている。確かにこの建物は、そういう回り方も十分にできる建築だったと思うが、彼らは視察団か何かなんだろうか。

しばらくして、わたしは博物館の外へと出た。天気の具合が気になったのだ。といってもその前にミュージアムショップにより、古い台湾の地図が描かれたポストカードを買うかどうか迷っていたのだが。

案の定、外は全くもって変化していなかった。小雨、まとわりつくような暑さ、そして風。わたしは安心して公園を一周してみた。昨日よりはやはり人が少ないようだ。だが、思ったよりはいる。しばらく歩くと、徐々に雨が強くなっていくのを感じ、わたしは壊れかけのアンブレラをさすことにした。

ホテルの方へと歩いていると、何やらでかい石造りの建物があった。これもやはり何か日本時代のものなのだろう。よく見ると、そこは「国立台灣博物館」の分館だった。とりあえず入ろう。やることもない。そう思って、わたしは警備員に軽く会釈をして中に入ってみた。

ここの料金も30元である。先ほどのところも楽しかったし、正直、故宮博物院よりコスパがいい気もしてくる。どうやらこちらでも何やら視察があるらしく、今度はスーツやドレスで決めた台湾人が大勢いた。

分館の展示は、自慢の巨大な台湾出土の恐竜の骨を中心にしていた。確かにそのスケールは凄まじく、しかも上から見下ろしたり、近づいてみたりできる設計になっているため、かなりのものだった。とはいえ、それよりも面白い展示がそこにはあった。

それは入り口付近にある金庫室だった。この建物は、どうやら日本統治時代に、日本勧業銀行(現:みずほ銀行)が入っており、その後は台灣土地銀行という大きな銀行が入っていたようだ。そのため、その金庫室ではその時代の展示をしていた。昔のテレビ映画で日本の植民をたたえている映像を見るのは、日本人としては苦々しいものだったが、そういう時代もあったのだと感じられた。また、その時代の台北市の歌は、時代を感じられる代物であった。何より面白いのは、昔の機材があることだ。今の機械と比べて、昔の機械は美しい。機能美を備えている。そんな機械が数多く並んでいるのはなんとなく、男心をくすぐってきた。

金庫室を出て、巨大な恐竜の展示に感嘆し、戻ろうと部屋を出ようとすると、警備員のおっさんが、「こちらです」と日本語で言った。台湾では日本語が通じるというが、メニューの日本語表記以外だと、実はこの時が初めてだった。三日ぶりの母語の響きはくすぐったく、はにかみつつ、「ありがとう」とわたしは展示室を出た。だが、そこは出口ではなかった。今度は台湾独立後(正確には、台湾が日本の統治下から解放され、再び中華民国に戻った「光復」後)の銀行「台灣土地銀行」の展示があったのだ。当時の社内が再現された展示室には、当時の形の計算機が並んでいた。歯車式らしい。使い方の説明動画が流れていたので、わたしは食い入るように見つめてしまった。やはり古い機械は男のロマンだ。だが途中、例の視察団御一行様がやってきて身動きが取れなくなったので、足早に立ち去り、今度はこの建物の修復作業の展示を見た後で(当時の建築技術が説明されていて面白い)、わたしは博物館を後にした。

 

雨は激しくなっており、部屋に戻ったわたしは、昨日セブンイレブンで買った弁当を食べることにした。それは海苔の上に米をのせ、その上に台湾風な甘辛い味付けの鶏肉と、甘辛い味の染み込んだゆで卵をおき、その海苔を半分にぱたん通ってある、「おにぎらず」風のものだった。どうやらどこかの駅の駅弁の復刻版のようだ。日本統治時代に持ち込まれたらしい駅弁文化は、まだ健在のようである。

さて、これはなかなかにうまかった。単純だが、肉はどことなくジューシー、そして米の炊き方もなかなかだ。日本で売ってもかなりの売れ筋になるのではなかろうか。わたしはそれをばくばくっと食べ、カットフルーツに手をつけた。南国風のフルーツが詰まったカットフルーツも、味がないグアバ以外はうまかった。

ふとテレビを見ると、台風が近づいている様子がわかる。どうやら南部では大変な被害を出しているようだ。こちらではちょっとした雨という感じだもんだから、変な気分である。映像で流れる南部の高雄の様子は、バイクが横転し、看板がバイクに激突し、歩いている人は風のせいで歩けなくなり、家にいるおばあさんは割れた窓のせいで流血していた。台湾は小さいと思っていたが、こうやってみるとかなり違うようである。家族や友人からも、大丈夫かという連絡が入ったが、こちらとしてはどうも現実感がわかなかった。

それどころか、だ。雨が小降りになると、外に出てみようという気にさえなった。

外に出てみると、どうだろう。人々は普通に生活し、店も普通に営業している。わたしは傘をさすのが面倒だったので、なんとか雨をしのげるルートを使って台北駅の站前地下街まで向かってみた。あの弁当だけではお腹が空いたのだ。

 

地下街もかなり普通に営業していた。いつも通りの場所で、いつも通りのおばさんが、いつも通りのいかがわしいカッパやシャツやバッグを売っている。そして、いつも通りの匂いがする。臭いような、いい匂いのような、そんな複雑な香りがした。わたしは以前から目をつけていた、「客家(ハッカ)料理」の店に行くことに決め、黄色い店内が目印のその店へと足を速めた。

客家とは、中国内陸部にもともとは住んでいた流浪の民のことである。各地を客のようにわたりあるくから、「客家」というわけだ。彼らはさながら「中国版ユダヤ人」というような感じで、各地で邪魔者扱いを受けつつも、たくましくコミュニティを作って生き延びてきた。そして彼らの優秀さ、特に他の定住する漢民族たちが抱きがちな古い考えからいとも簡単に抜け出てしまう「優秀」さも有名である。中華民国の父で、台湾では「国父」と呼ばれる孫文(台湾ではむしろ、「孫中山」という呼び名で通っているようだ)、中華人民共和国の父である毛沢東は、客家出身だと言われている。

そんな、客家の料理。台湾にもかなりの客家がいるらしい。わたしは店に入ると、この三日間で有効だと判断した、とりあえずメニューがないかどうか聞いてみる作戦を開始した(というのも、ヴェトナムでは一軒の店に着き一品しか出していなかったので、人数を言うだけで魔法のように料理が出たが、台湾ではそうはいかず、メニューがないとなんともできない。そのメニューは店先に貼ってあるのだが、読み上げることもできない。だから、ゆびさし用のメニューが欲しかったのだ)。

「よう・めいよう・つぁいたん?(めにゅハアリマスカ?)」とわたしは片言でいう。すると店先に立っていたおばさんとおばあさんの間という感じの人は、

「没要!(ないわよ!)」といい、何やら付け加えた。呆然としていると、おばさんは店の壁に書かれたメニューを指差す。なるほど、あれがメニュー代わりだ、というわけか。わたしは「しえしえ(アリガトゴザマス)」といい、店の中に入っていき、メニューを見た。今回ばかしは、本当に何かわからない。だから、とりあえず一番安くて(50台湾元=200円)、「客家」という言葉の書かれた一品を頼んでみた。

出てきた料理は、甘辛い茶色いタレがかかって、上にもやしがのったきしめんだった。わたしはこれを勝手に「客家フェットチーネ」と呼ぶことにした。だが幅はフェットチーネきしめんヤフォーなどより断然広く、どちらかといえば、「客家風ラザニア」というべきかもしれない。だが、煮て、ソースをかける調理法はラザニアではない。だから、フェットチーネである。よくメニューを見ると、「客家板麺」と書かれていた。この麺はフニャリとしていて、口当たりが柔らかく、甘辛のタレと良く合う。クニャッとしている感じは、日本の麺やパスタに慣れていると奇妙な感じもしなくはないが、あれが慣れてくるとうまいのだ。かなり美味しかった。初日二日目と牛肉麺を食いつづけ、あの八角風味のあの香りに少々飽きが来ていたところだったので(早いかもしれないが)、少々違う味の「客家フェットチーネ」は非常に満足できる味であった。付け合せで出てきた白濁したわんたんスープは、何かの骨のダシが出ている。これは身にも心にも染み渡る味だ。似たようなスープを、わたしは日本の「香港麺」の店で飲んだのだが、あれもうまかった記憶がある。ワンタンも中のつくねがプリッとしていてうまい。

客家料理に舌鼓を打った後、わたしはしばらく地下街を回って、外に出た。雨はもはや影すらもなかった。わたしはまだ小腹が空いていたので途中で肉まん(鮮肉饅頭。豚まんのことだが、日本のものよりも皮が饅頭に近い)を買い、セブンイレブンで念のために部屋で籠城したときのための食料を買った。昼に食ったやつと同じシリーズのもので、海苔とコメは同じだが、中身が違うものだった。そしてあのカットフルーツは同じである。それから、夜に部屋で飲むための台湾ビールも欠かせない。隠してわたしは台風のさなかの穏やかな台北から二畳以下の我が家へと戻ったわけだ。

テレビをつけ、ベッドに寝そべり(テレビを見るには、ベッドに寝そべるしかない。それくらいの狭さなのだ)、高雄を中心とした台湾南部の惨状を伝えるニュースを見ていた。そうこうするうちにわたしはだんだんと眠くなっていった……

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嵐の前の激しさ PART4

「Tansui、あるいは暗雲」

台北郊外にあるちょっとした保養地「淡水(タンスュイ)」は、台北中心地から40分ほどで行ける距離にある。日本でいうなら、どうだろう、鎌倉といったところだろうか。だが、アクセスの良さは圧倒的に違う。というのも、「台北101」、「士林」、そしてわたしのホテルのある「台北車站」を通っている「淡水信義線」一本でたどり着くのだ。つまり、市内交通に使う地下鉄に乗っていれば、いつの間にやら淡水についてしまうのである。

だが淡水は鎌倉よろしく、歴史もある場所である。というのも、台南を本拠地にしてオランダが入植を進めていた頃、それに対抗しようとしたスペインが北部の淡水に「サン・ドミンゴ城」を立て、スペインの植民活動を開始していたのである。ただし、この植民活動は17年間しか続かなかった。なんと、わたしの年齢よりも短い。こうなった理由は、台湾の西側、つまり中国大陸側の制海権をオランダ海軍が握っていたため、スペインは東回り(日本側を通って)で台湾北部へ向かわねばあらなかったからだ。台湾東部、すなわち日本側は、台風の宝庫である。そして台風が来るたびに東側は被害を受ける。そのため、補給路はすぐに立たれてしまうのだ。しかも、当時台湾北部ではマラリアが発症していたという。その結果としてスペイン軍は撤退を余儀なくされた。追い打ちをかけるように始まった、オランダ軍による「北伐」も理由の一つだった。とまあ、事前に買ってあった台湾の歴史の本を読んでいろいろと学んだのである。台風のくだりは興味深かったが、この翌日、そして滞在の最終日、押し寄せる台風の中で身を以て知ることになる。

さて、3時15分、わたしは思いつきで淡水へ行くことにした。昼間は激しいとしか言えないような日差しだった台北の街も、徐々に涼しい風が吹いていた。だが、それは喜ばしいことではない。遠くの空は暗く、その風は確実に、雨を呼ぶような風だからである。だが、こうなったらもう、淡水まで行ってしまいたかった。日は5時頃に沈む。台北に流れる川、「淡水川」をその名を冠した淡水で、夕日を眺める。どうしてもそれがやりたかったのだ。

わたしは台北車站へ行き、地下鉄に乗り込んだ。地下鉄は、「圓山(ユェンシャン)」駅で地上に登り、高架鉄道に変貌する。今日はこの路線に何度もお世話になった。故宮博物院に行くために、「劍潭(ジエンタン)」駅で間違って降り、「士林(チーリン)」駅に一駅だけ乗って、そこからバスに揺られて博物院へ行った。お金が底をついたと思い込み、「台北101/世貿中心」駅まで行って銀行を探したあげくに見つからず、後々お金が底をついていないことに気づき、全エネルギーを奪われつつホテルへ戻った。この一日だけで何度この路線を使っただろう。

そんなことを思いながら窓の外にふと目をやると、シュロの木が揺れていた。台風は確実に近づいている。予報によれば、3時ごろに台北市内で雨が降るという。窓の外には雨のあとはない。雨からの逃亡。わたしはそんな気分になった。淡水の方へと落ち延びることは、さてできるだろうか。

客は少しずつ降りて行き、温泉があるという「北投(ベイトウ)」駅にたどり着く頃には、もう電車内の客はまばらだった。保養地であり、デートスポットだというものだから、もっと人が残るのかと思っていたが、きっと火曜日と台風のせいである。

高架鉄道はものすごいスピードを出して進んで行く。日本ではありえないスピードだ。一瞬脱線しないかと不安になるくらいである。だが、大事なのは信頼することだ。わたしはそのスピードに少し恐れを抱きつつ、楽しさを感じていた。風は感じられないが、スイスイと走って行く電車に乗って窓の外を見れば、気分は爽快だった。

しばらく経って、電車は淡水駅に停車した。やはり、観光地なのだろう。駅はほかの駅とは比べならぬほどにでかく、レンガ色のタイルが貼られていた。エスカレータを降り、広い改札(ほかのところでは改札機は4つずつくらいしか並んでいないのにもかかわらず、淡水では10は並んでいる)を出ると、相変わらず空気はむわっとしており、風もそんなになかった。もしかすると、逃亡は成功したのかもしれない。そう思いつつ街の雰囲気をつかむべく、道を歩いてみた。

どうやら、淡水側は駅から出て左側にあり、右側は街になっているようだった。わたしはとりあえず左へと曲がり、川の方へと向かった。

川はなかなかの圧巻であった。日本の川より広く(もちろん、カナダの川よりは狭い)、向こう岸には山がそびえていた。空は青く、ふわっとした雲が浮かんでいる。川は風が吹くと波打ち、ゆっくりと流れてゆく。

わたしはなぜだかわからないが、川に行くのが好きだ。モントリオールでもしきりに川へいこうと努力し、タイでも川に向かった。ヴェトナムは街が楽しすぎてそういうことはしなかったが、パリへ行ったときも、ローマへ行ったときも、わたしは川辺に行った気がする。川は静かで、さりとて止まることなく流れてゆく。そして、海とは違って渡りきることができるような気がするのだ。先へ行ってみたい。そう思いながら、川を眺めると、なんとなくワクワクするし、あの静けさは心を鎮めてさえもしてくれる。川を見つめていると、静かに考え事ができる。そして、川面に向こう岸の様子が映ると、非常に美しいのだ。夕日が沈むと、海とは違って、夕日が向こう岸、こちら側のあらゆるものを照らしながら、沈んでゆく。あれがたまらない。

といっても、別にこれといった理由がはっきりとあるわけでもなしに、わたしは川が好きだ。わたしは川を見ながらしばらく遊歩道を歩いた。風が涼しい。それは悪天候の予兆だったが、それでも気持ちよかった。しばらく歩くと、賑やかな界隈に入った。屋台ではイカを焼いていて、観光客たちはそれを食っている。わたしはふとお腹が空いた。だが、とりあえずまずは歩いてみようと、川の反対方向へと、街中に入ってみた。

そこの風情は台北とは違って、少しレトロな建物が多かった。清の統治時代から栄えていたらしく、おそらく日本統治時代にも栄えていたのだろう。街並みはどこかノスタルジックな雰囲気があった。まるで戦前の繁華街にいるようだ。人々が賑やかに歩いている。周りから何かを焼いたり煮たりしている匂いが漂い、夏祭りのようだった。

現地の人の行く場所だけを狙い、観光地をツンとした顔で嫌う人もいる。だが、街の楽しみ方には二つあるとわたしは思うのだ。現地人でに賑わう場所にはその良さがある。わたしはそれが大好きだ。だが一方で、観光地に漂う賑やかな感じもわたしは好きだ。物売りがいて、くだらないTシャツをたくさん売っている。白人もムスリムもインド系もモンゴロイドも黒人も、みんながみんなで買い食いをする。あの一体感と言ったらたまらない。淡水は台湾人の観光客が多かったが、十分観光地の良さが出ていた。そろそろ何かを食べたいな、とわたしは思った。

わたしはイカを揚げたものがたくさん売っていることに目をつけ、それを食うことにした。日本人向けなのか、「イカ揚げです」とメニューに書かれた屋台と、「イカ燃焼」というわけのわからない、まるで「本能寺炎上」のようなメニューが書かれた屋台があった。これはもう、「イカ燃焼」を食うしかない。わたしは例の体当たり中国語でイカを購入した。屋台ではイカが丸ごと串に刺さっていたので、それを売ってくれるのかと思いきや、わざわざ細かく切ってくれたものがやってきた。わたしはそれを口に頬張ってみた。熱い。かなり熱い。しかも味が塩味だけであり、脂がコテコテについているのだ。これは台北で食べた、最初で最後のはずれ食品であった。なんとか完食しようとしたが、果てしなく多く、果てしなく脂っこかったため、わたしはいつもの「出されたものは全て食すべし」という戒律を破り、泣く泣くそっと捨ててしまった。悪いことをしたが、あのまま食べていたら、わたしはその後果てしなく続く胃もたれに悩まされただろう。

といっても、口の中の油は消えない。まるで血を拭うマクベス夫人の気分である。「口の中の脂っこさが消えないわ」と。わたしは何かフレッシュなものが飲みたかったが、どうもそれがない。そこでたくさんの人が飲んでいた緑色の飲料を買うことにした。それはおそらく、「サトウキビジュース」である。『深夜特急』の中で沢木耕太郎が飲んでいたものだ。はてさてどんな味がするのか。わたしはおばあさんが二人で経営する店に行き、「にいはお、うぉーしゃんやおいーがじぇーが(コンニチハ。コレヲ一個クダサイ)」と頼んだ。おばあさんは小麦粉で真っ白になっている手でジュースのカップを取り、渡してくれた。カップの飲み口にはビニールのようなものがはられている。わたしが「しえしえ(アリガトゴザイマス)」と立ち去ろうとすると、おばあさんは何やら言ってくる。ああ、そうか。ストローをもらうのか。わたしは、「ああ」と言って、ストローをもらい、今度こそ「しえしえ」と「立ち去った。

ストローでビニール部分をぶっ刺して、わたしは川の方へと向かった。「イカ燃焼」の影響で、もう何も食いたくなかったのだ。ジュースをすすると、少々エグく、甘みのすぐない生暖かい液体がぐっと入ってきた。そんなに美味しいわけではない。だが、さっぱりはした。サトウキビの匂いがハナにつくが、決して悪くはない。わたしは手ごろなベンチを見つけて、ジュースをすすりながら川を眺めた。

しばらくすると、韓国人と思しき女性の二人組がやってきて、

「写真撮ってもらえますか?」と、声をかけてきた。わたしは「もちろんです」と頷いた。カメラを向けると、山と川をバックに、二人はポーズを決める。シャッターを切ると、もう一枚お願いという。今度は彼女たちは山の方を向いて手でハートマークを作った。撮り終わってカメラを手渡すと、二人のうちの一人がわたしの後ろの方を指差し、

「虹がでてますよ!」と教えてくれた。わたしは振り向き、

「おお、綺麗ですね」と言ってみたものの、その虹の後ろにある黒い雲にどうしても目がいってしまった。悪天候は、淡水にまで近づいていた。夕日まで持ってくれるだろうか。

その二人組と会話が続くわけでもなく、わたしはベンチに再び腰掛けた。太陽は今にも沈もうとしていた。風は徐々に吹いてきて、気持ちがよかった。嵐の前の静けさとは、このことを言うのだろう。夕日が沈む山の右側が快晴なのに対して、左側は徐々に真っ白になっていた。わたしはそれでも逃げることなく、夕日を見届けたかった。

しばらくすると、パラパラっとにわか雨が降ってきた。傘をさすと、雨はすぐに止む。だが傘を閉じると、またにわか雨が来る。そんなことの繰り返しだった。そうこうするうちに山の右側の空はオレンジに、それから赤に変わっていった。嵐の雲は山を越えて侵食しつつあり、夕日に輝く空の中にも、雨のカーテンが見えるところがあった。まるで、ターナーの絵のようだ、などというと、『坊ちゃん』の野太鼓のようで嫌なのだが、まさにターナーの絵のようだった。雲に囲まれ、夕日は沈む。真っ赤な光は淡水の町並みを照らし、夕日の写真を撮る一人旅の女性、初老のカップル、私たちのみんなを包み込む。わたしはただ椅子に座り、時に写真を撮りつつ、眺めていた。

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夕日はオレンジ色のまま沈み、最後には真っ赤になって消える。ここ淡水では、その真っ赤になるかならないかの時くらいに、雨が降り始めた。わたしは傘をさし、夕食の場所でも探そうと思った。川沿いを歩くと、船が見える。その船のそばを、真っ赤に燃える火の玉が落ちていった。

その時だ。雨は突如として、まるでシャワーのような強烈な雨に変わった。バケツをひっくり返したような、というよりも、「強」の設定のシャワーのような雨である。淡水で夕食を食う、というのは断念すべきだとわたしは判断し、とにかく駅へと向かった。なにせ、先ほどまで見えていた山が、真っ白になって見えなくなっていたのである。

雨はますます強くなり、その振り方はもう、滝のようだった。風も吹いてきて、わたしの骨が一本折れている傘では耐えられるかどうかが怪しかった。なんとか耐えながら歩き、ふと空を見ると、それはセピア色になっている。それはまるで古い写真のようだった。建物が戦前の繁華街のようなものだから、まるで古い写真の世界に入ったような気分になる。だが、それは紛れもない現実であり、大嵐であった。空は不吉にセピア色。そして雨は滝のよう。地獄に落ちたような気分にもなった。

雨はしばらくして弱くなり、代わりに風が吹き込んできた。わたしは傘をさすのをやめた。傘を閉じてみると、空は更に赤くなり、ピンクに近い色になっていた。雲で覆われているため、雲がピンク色になっていたのだ。あれほど幻想的で、奇妙で、恐ろしく、かつどこか神秘的な美しさを持った空を見たことはない。

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駅は人でごった返していた。当然だ。あの雨から避難し、市内に戻る人がたくさんいたのだから。電車に乗り込むと、どうやら電車が止まっているらしい。これはいよいよまずいかもしれない。そう思った時、電車は動き始めた。

電光掲示板によると、どうやら機械トラブルがあり、それに伴い間隔調整をしていたようだ。電車は動き出すと、行きに体験した、例のものすごいスピードで走って行った。外は嵐。雨で窓は濡れていた。窓のそばのよっかかれる場所に立っていたら、おばあさんがやってきて、荷物をわたしの足元に置いた。そういえば台湾人はすぐにお年寄りに場所を譲っていたっけ、と思い出し、わたしはその場を離れ、手でここにどうぞと合図してみた。「謝謝」とおばあさんは満面の笑みでいってくれ、窓の近くのよっかかれる場所に入った。どうも日本では手に入れることをためらってしまうような自由を手にしたような気がした。

電車はかなり混んでいる。だが、台湾人たちは相変わらず、日本の電車よりもマナーが良かった。通る時は、「ブーハオイースー(すみません)」ということが多かったし(もちろん、そうでない人もいる)、みんな行儀よく電車に乗っている。

そうこうするうちに「台北車站」にたどり着き、そこで降りる多くの客とともに電車から降り、地下鉄の駅に降り立った。さて、夕食はどうしよう。もし仮に、外が嵐だったとすると、昨日見つけた市場では食べられないだろう。わたしはそこで、駅の地下にある、「站前地下街」に行くことにした。

 

 

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嵐の前の激しさ PART3

「嵐の前の激しさ」

再びガタガタと揺れるバスに乗り、わたしは「士林(チーリン)」駅へと引き返した。昼食の時間だ。わたしは灼熱地獄の中、食べ物屋を探す。そうだ、士林観光夜市まで行ってみよう、と思った。せっかく士林にいるのだ。夜市と言ってもきっと、昼も何かやっているはずである。

だが、駅に沿って歩いてみても、何も見つからない。それもそのはず。先ほども言ったように、士林観光夜市の最寄駅は、非常にややこしいことに、「士林」駅ではなく、一駅前の「劍潭(ジエンタン)」駅だったのである。その時はそんなことにも気づかずに、やみくもに歩いた。だが、灼熱地獄に徐々に気持ちも萎えて行き、博物院で歩き回った足の疲れも出てきたので、駅前であらかじめ見つけてたった台南料理の小さな食堂へ行くことにした。

台南とは、台湾南部の都市のことだ。かつてこの島を支配したオランダ人たちが、「ゼーランディア城」と「プロビデンシア城」を築き、統治の根拠地として以来、台湾最古の都市として、19世紀の半ばに清が台湾の中心を新都市の台北に置き、日本が植民地支配の拠点を台北とするまでの間、政治と経済の中心になっていた都市である。実は台湾で一番訪れたかったのはこの街だった。やはり歴史のある都市は風格が違う。建物はどことなく戦前の雰囲気を湛えているらしいその街は魅力があった。そしてなにより、「小吃(シャオチー)」と呼ばれる屋台料理で有名なのである。歴史と美食、それほどわたしの心を惹きつけるものもない。だが、問題は台風14号であった。あの野郎は、滞在三日目に台湾南部に猛烈な被害を与えようとしていた。それは予想がされていたので、南部行きは断念せざるをえなかった。

その、台南の料理の店が士林にあったというわけだ。士林観光夜市の昼が楽しめなかったことだ。わたしはどぎまぎしつつも店に入り、「にいはお」と挨拶をした。

徐々に気づいてはいたが、かの地で店に入って「にいはお」というと、「你好」と返してくれるが、なんとなく気まずい空気感が流れる。このときもやはり流れた。仕方がないのでじーっと店員を見つめると、「何が欲しいんだい?」というようなことを聞いてくる。だが、何が欲しったって、店先に掲げてあるメニューが読めない。当たり前だが中国語は漢字表記なので、日本人にはそれを発音するのが難しい(これがヴェトナムとは決定的に違う)。そうこうするうちに店員が察してくれ、紙のメニューをくれた。博物館最寄の観光地だ。こういう展開は正直予想ができていた。わたしはメニューを見た。本当は台南名物の「台南担仔麺(タイナン・タンツーミエン)」と呼ばれるものが食べたかった。というのも、かつて日本の台湾料理屋に行って食った時、非常に美味しかったからである。だが、この台南料理屋は頑固なのか、それがない。しかたなく、次点でうまそうな「牛スジ入り牛肉麺」(日本語表記も入ったメニューだった)を指差して、「うぉーしゃんやおじぇーが(コレガ欲シイデス)」と言った。

相変わらず汚い、だが生活感あふれる素晴らしいレストランの店内で、わたしはテーブルについた。なかなか盛況である。台湾人なのか中国人なのか、はたまた日本人なのかわからないやつらがみんなで麺を食ったり、ご飯を頬張ったりしている。いや、これは多分台湾人だろう。ここで学んだのだが、ヴェトナム屋台の店ではテーブルに置かれている紙ナプキン(というかトイレットペーパー)は、台湾では店の壁にくっついており、みんな立ち上がってそこまでいき、ずずっと紙を引き抜いている。

運ばれてきたのは、なんとびっくり、前日に食べた「牛肉拉麺」のようなものだった。

前日、つまり台湾到着初日、わたしはホテルのそばをさまよっていて、小さな市場を見つけた。後で確認するとガイドブックにはただただ「市場」と書かれた場所で、狭い路地に野菜やら魚やら果物やらを売った店がぐちゃっと存在し、その間をぬって、なにやらうまそうなものを煮たり焼いたりしている店が何軒かある。この日の夜はここに決まりだった。わたしはその中でも一番いい香りのした「拉麺屋」に入った。そこのおっさんと体当たり会話をし、メニューを手に入れた。そして一番推しの商品と思われる「牛肉拉麺」を注文したのだった。肉はトロトロに茹でられ、八角の香りがし、肉出汁のでたスープは濃厚でピリ辛で、非常に旨かった。麺はぶっというどんのような麺で、日本のラーメンとは全く違う。初めはパンチのない麺に微妙な気分になったが、食べているうちにこれが病みつきになる。

そして、この日の昼。台湾到着後二件目の店で、再び同じような麺が出てきたわけだ。もう、これを食い続けるしかない。わたしはこの奇遇に面白さを覚えながら麺に手をつけた。なんとなく、昨日のものよりも薄味だ。暑かったから、もっと濃いものがよかったのだが、飲んでいるうちになかなか旨い出汁が出ていることに気づく。肉も昨日ほどやわからくはないが、「肉を食ってるぞ」というワイルドさがあって悪くなかった。

食べ終わって会計をし、わたしは再び灼熱地獄に出た。

この時気づいたのだが、ポケットに入れてあった「1000台湾元」がそろそろ底をつこうとしていた。これはまずい。両替しないといけない。だが、士林駅には銀行がなかった。

台湾に来て感じた最大の誤算は、両替だった。ヴェトナムやタイ、いやひいてはフランスやドイツ、イタリアやカナダでは、街中に両替商がいたものだ。ちょっとした商店の隣にはレートが掲げられ、そこですぐに両替が出来た。だが、台湾では両替には許可が要り、「Money Exchanger」と書かれた銀行でしかできない。これは大きな誤算で、後々まで影響を及ぼすことになるのだが、それはまだ先のことである。

わたしは銀行を探しに都心に出てみることに決意し、かなり離れた場所にある「台北101/世貿中心」駅へと向かうことにした。トークン型の切符を購入し、改札を通る。その次点でふと、台北郊外にある「淡水」という保養地に行ってみたいと突然思った。だが、金が底をつきそうだし、切符はもう買ってしまった。仕方がないので、ヘトヘトになりつつ、有名な101がどのようなものかワクワクしつつ、わたしは電車に揺られた。

何十分電車に乗っただろうか。電車は高架鉄道から地下鉄へと変わり、最寄の「台北車站」を過ぎ、それからもかなり長い旅路である。台北101駅で降りると、意外にも駅は閑散としていた。

とりあえずわたしは外に出た。すると愕然とした。何もないのだ。ただでかい台北101というタワーが天を貫くようにそびえ立っている。周りにはビルも何もない。これは誤算だった。101はわたしの頭の中で勝手に109的な存在になっていて、周りは栄えていると思ったのだ。だが、何もない。とにかく101の中に入ると、これもまたブティックしかない。ジーパンにTシャツだったわたしには用のない場所だ。案内図があったので銀行を探したが、あるにはあるものの、いつまでたっても見つからない。わたしは諦めて101の外に出た。

駅に戻って、駅周辺の地図を見た。すると、何やらありそうな大通りがあることを発見した。そこまで行けば銀行があるのではないか。わたしはそう思って、灼熱地獄を再び歩みだした。

たしかに、そこは再開発地区だった。映画館やら、ショッピングモールがある。だが、銀行はない。そして火曜日だったせいか、誰も人がいない。わたしは諦めて帰ることにした。体力も限界だった。太陽に照らし続けられたため、軽い熱中症だったのかもしれない。わたしはふらふらになりながら、近くにあった「市政府」駅を降り、電車に乗り込んだ。そして数十分間、台北車站まで、「無の境地」というような表情で電車の椅子に腰掛けた。

無の境地になったせいだろうか、わたしはとんでもなくバカな間違いをしたことに気づいた。というのは、確かにわたしのポケットにあった1000台湾元は底をつこうとしていたのだが、それはわたしが持つ台湾元の全てではなかったのだ。

10,000円でどれくらいのことができるのか、何日暮らせるのか、というのは旅をする上でとても大事なことだ。だからわたしは10,000円分を台湾元に変えていた。総計2,500台湾元ほどになる。そして日本を発つ日、そのうちの1,000台湾元をポケットにくしゃっと突っ込んで、あとは腹に巻いている貴重品入れに入れたのだった。つまり、残り1,500台湾元ほど残っていたのだ。なら、両替などする必要なかった。この事実に気づき、わたしはどっと疲れてしまった。

台北車站に着くと、まっすぐホテルに帰った。時間は2時半か3時くらいだったと思う。エアコンをつけ、ベッドの上に座り、無音のテレビをつけた。ホテルの部屋の大きさは家庭用のユニットバスくらいである。ベッドがあり、小さなテーブルがあり、薄型テレビが壁に張り付いている。テレビの音をつけると音が隣の部屋まで漏れるせいか、テレビは無音だ。ヘッドッフォンをつけないと音がわからない。その日、テレビをつけると日本語の番組をまたやっていて、渋滞に関する例文を女性が言っていた。

しばらく快適なエアコンの風にあたり、ベッドの上でぼーっとする。まだ二日目だったが、わたしにとってはもうここは我が家だった。そのせいか、徐々に力が湧いてくる。コンビニで買ったペットボトルのウーロン茶(このウーロン茶は侮れない。かなりうまい)をゴクゴクと飲み、わたしはふと思った。

「淡水に行こう」と。

嵐の前の激しさ PART2

「文化の宮殿」

士林(チーリン)は、市場で有名らしい。人呼んで士林観光夜市。だが、非常にややこしいことに、士林観光夜市の最寄り駅は「士林」駅ではなく、先ほどまでわたしがいた「劍潭(ジエンタン)」駅らしい。

嵐の前の静けさで晴れ上がっていたことをいいことに、有名な「故宮博物院」に行くことにしたわたしは、「劍潭」でテキトーに降りてみた。だが、持参していた地図には「士林」に行くべしと書かれており、再び電車に乗り「士林」を目指すことにした。「士林」は「劍潭」から一駅先にあり、駅の作りもかなり似ている。まず高架鉄道があり、その下に降りると改札口がある。そのつくりは立川などのモノレールと同じものだ。士林駅を降りると、歩行者天国のようになっており、その両側には食い物屋が並ぶ。だが、残念なことに肝心のバス停が見当たらない。故宮博物院まで行くにはバスに乗らねばならないのだ。強烈な刺すような日差しの中、わたしはバス停を探してさまよった。ああ、バス停。君はどこにあるのだ。気分はまるで、サン=テグジュペリの『人間の大地』 で砂漠に取り残されてさまよう主人公であった。

だが、バス停は意外にも近かった。歩行者天国のような場所をしばらく歩いて右折すると、そこにはすぐバス停があったのだ。バス停の前は人でごった返しており、故宮博物院への道も近いような気もする。わたしはおめあてのバスの路線図を見、今度は直通していることを確認した。

そんな時だ。明らかに狙っていたバスとは違う番号をつけたバスがバス停から50メートルほど離れた場所に停車した。不思議なことに、行き先表示には「故宮博物院」と書かれていた。番号が違う? そんなことがどうしたというのだ。わたしはそのバスに乗り込んだ。だが不安もなくはないので、地図に載っていた故宮博物院の写真を指差しながら、

「ウォーシャンチュー(俺、行きたい)」

とかなり片言の中国語で言ってみた。運転手は「YES」と英語で答える。値段は15台湾元。日本円にするとなんとびっくり六十円である。

かなりガタガタと揺れるバスは満員で、わたしは運転手のそばで立っていた。バス停に着くたびに、現地人たちはsuicaのようなものをピッとやって出て行く。どこもシステムは同じらしい。旅行者用もあるらしいので、今度から試してみよう、などと思いつつ、移り変わる台北の街を見ていた。道の感じは日本とあまり変わらない。だが、建物はどこか中国の猥雑な感じを残しており、信号があまりない感じはヴェトナムのようだった。あらゆるものの交差点、それが台北なのだろうか。

と、そんなことを考えている間にも、バスはかなり揺れていた。これはおそらく、日本ではあまりないことだろう。揺れる揺れる、かなり揺れる。立っている客にはかなり厳しいものがある。まるで起震車だった。そんな揺れの中でも、隣に立っていた女子学生風の人はかなり真剣に何かを読んでいた。ふと見ると、なんとそれは日本語の教材だった。台湾には結構いると聞いてはいたが、やはりいるものなのか。なんとなく嬉しくなって一瞬話しかけようかと思った。だが、突然わけのわからない日本人に「おう、日本語やってんじゃん」と話しかけられるのも迷惑だろう。そう思い、わたしは再びバスの窓の外を眺めることにした。

しばらくバスは走り、日本語の学生は、他の学生たちとともにバスを降りて行った。どうやらこの路線には大学があったようだ。そしてバスが満員だったのも、ほとんどの客が大学生だったからだった。そこから先はかなり空いていた。だがそんな時間もつかの間、すぐにバスは「故宮博物院」に停車したのである。

故宮とは、古い宮殿のことだ。だからわたしは今の今まであれは台湾が清に統治されていた時の総督府跡か何かだと思い込んでいた。だが調べてみると、辛亥革命で政権を取った中華民国政府が公開していた清の所蔵していた宝物を北京を、満州事変などの日本軍の東北部侵攻を機に南部に政府が移し、戦後に始まった国共内戦中華民国と現在の中華人民共和国による戦い)での中華民国の敗北により、台湾に移動させたのが始まりらしい。要するに、かなり最近の建物なのだ。なんと開館したのは1965年だという(余談だが、わたしの両親より若い)。確かに建物はモダンで、ガラス張りの場所があったり、中だってかなり綺麗だった。だがそう知ってみると、かなり驚きの事実である。

バス停を降りると、巨大なタイル張りの広場がある。タイルの色は真っ白で、あの日の激しい太陽の光が反射してかなり暑かった。上からも下からも日光が押し寄せてくる。だが、太陽の光にきらめく故宮博物院は美しかった。広場の端にはヤシだかシュロだかの木がいくつも植えられており、南国の雰囲気を醸し出す。広い広場を抜け、ジグザグの大きな階段を上ると、故宮博物院にたどり着くのだが、これもまた暑い。故宮博物院前の階段を上りきって振り向けば、遠くに山が見えた。そしてもう一度正面を向くと、そこには中国の宮殿「風」の博物館がある。赤地で、左上には青い正方形、そしてその青い窓の中には白い星が輝く中華民国国旗が屋根の上にははためいていた。

中にはホールがあり、みんな荷物を預けていた。荷物の持ち込みは禁止だということは知っていたので、わたしも預けることにした。と言っても、わたしの荷物というのは、本と水と傘を入れたビニール袋だけだったのだが。

勇み足で入り口へ向かうと、係員が何やら中国語で話しかけてきた。わからない。だから「ん?」という表情をすると、チケットが必要だという。そんな気もしていたのだ。だが、どれがチケットカウンターなのかわからず、もしかすると無料かもしれない、などと甘いことを考えていた(一つ弁解させてもらうと、ロンドンの博物館はどんなに有名どころでも無料なので、海外に行くたびに、いつもいわゆる「ワンチャン」無料じゃないかなと思ってしまうのだ)。そのおばちゃんにチケットカウンターの場所を聞き、それでもよくわからず係員に聞くと、目の前だった。

チケット代は250元。日本円にすれば1000円。まあそんなものだろう。わたしは今度こそ意気揚々と博物院に入場した。

作りは、どことなく日本の国立博物館に似ている。大階段があり、それを登って行く。所蔵品はかなり多くあり、特に青磁の陶器は美しかった。椀や壺、杯などはそれぞれが薄く繊細で、シンプルな青い姿をしており、そののっぺりとした姿はどことなく引きつけてくるものがあった。なぜだかはわからない。だがあの、壊れそうなくらいに薄い、色はただ単に水色の陶器たちは、わたしの心を惹きつけたのだ。それは、もしかすると、そのシンプルさがまるで、人間が作ったようには見えないほどだったからかもしれない。誰かが作ったというよりも、まるでおのずから出来上がったかのように見える。

一方で、それとは違った意味で玉器も素晴らしかった。というのは、かなりゴテゴテしているのだが、繊細なのである。小さいにもかかわらず、丹念に彫り込まれている。そこには美しさと同時に、人間の執念があった。執念。それは人の心を固定し、ともすれば誤った道へと導きかねない。だがこの玉器は、執念のない人間なんてつまらない、と語りかけていた。執念があるからこそ、あそこまでのものは作られる。まさにいい意味での執念の塊だった。ただし、その展示室で展示されているはずだった有名な「白菜」と「豚の角煮」を模した玉が、リニューアルオープンした故宮博物院南院の方に写っていたのは残念だった。台湾を訪れたことのある友人に、「故宮博物院の角煮は必見」と言われていたからである。

芸術品は人間の心を映す。それはきっと、芸術家が触れているからだろう。芸術家たちの手垢にまみれているから、その芸術には、その芸術家の心が写り込んでしまっている。人間の執念、そして人間の自然と一致したいという思い。古代の人たちの作った、エキセントリックで、少しばかりシュールな動物たちは、きっと動物という自然からの「使者」たちの持つ、神秘的な部分を写しているのだろう。かなり滑稽に見える動物もたくさんいたが、そこには何かがあるに違いない。もちろん、もしかすると古代人の芸術家が勝手にジョークで作ったのかもしれないのだが。

二時間ばかり博物院を歩き回った後、わたしは駅に戻ることにした。食事時だったからである。暗い美術館から一歩外に出ると、そこは光の王国だった。激しい太陽が照りつけ、目の前は真っ白、灼熱の地獄である。そんな広場で、社会科見学だろうか、クラスTシャツのようなものを着た少年少女たちが、みんなで写真を撮っている。館内でもかなり見たのだが、ここはどうやら社会科見学スポットみたいだ。東京で言えば、上野、だろうか。なんにせよ、この少年たちはまだよくわかっていないだろうが、こうやって文化は継承されて行くのかもしれない。作品が彼らの目にはまったく面白くもなんともなかったとしても、「行ったよね」という思い出は残る。それが一つの文化なのかもしれない。

などと、格好つけてみても暑い。わたしはとぼとぼとバス停へと向かった。

嵐の前の激しさ PART1

「はじまり」

台北滞在二日目

嵐の前の静けさ、という言葉がある。それは、暴風雨が来る前に穏やかな気候になる、という現象からくる比喩だ。暴風がくるからこそ、暖かく、穏やかな天候になる。それはかえって不気味なことで、まるで神が未来を私たち人間にひた隠しにしているようでもある。

九月十三日の火曜日。台風14号莫蘭蒂が台湾南部に迫っていた。そして空は、そのことを隠蔽するかのように雲ひとつない青い空であった。まさに嵐の前の静けさ、ホテルの部屋から青い空を見たときはそう思った。

前の記事にも書いたように、わたしはちょうどこの前日に台北についたばかりであった。ずっと悪天候でも構うものか、当たって砕けろだ。そう思ってやってきて、まさかこんな天気になるとは予定外。わたしは朝食を済ませ、いい気分で外へと出た。目的地は公園だ。ホテルのそばに「二二八和平記念公園」という大きな公園があり、到着した日に行ってみたらよかったので、ハレの日の姿も見てみたかったのである。

朝の公園を歩くのは、今年の春に行ったヴェトナムで身につけた、わたしの旅のひとつの習慣だった。公園は、人々が集まり、思い思いのことをして過ごす場だ。そこには市場に匹敵するほど、人々の生活の跡が見える。ひょっとすると、市場以上かもしれない。だからわたしはヴェトナム以来、カナダに行った時も、散歩をして、公園を見つければ、必ず立ち寄ってベンチに腰掛けていたのだった。ベンチに腰掛け、空を眺め、何かを食べて、本を読み、そして物思いに深ければ、その土地の人々と、なんというか、一体化できる、その土地の人々の呼吸と鼓動を感じられるような気がするのである。

台北の公園は、想像通りというか、体操する人で溢れていた。これはヴェトナムでも同じだった。それも、驚いたのだが、ヴェトナム人がよくやっていた腕をぶらぶらしながら歩くだけの体操を、台湾人もしていたのである。どこも同じだな、と思いつつも、異変に気づかないわけではなかった。というのは、年齢層がかなり高いのだ。時間帯が少し遅かったせいもあるかもしれないが、公園に若者の姿はない。皆年寄りで、年寄りが集まって体操をしていたのだ。それはもしかすると、台湾の社会というものを示しているのかもしれない。そしてそれは、もしかするとだが、日本にも投影されるのかもしれない。若者たちは、年寄りたちから離れ、伝統はどこかの公園に置き去りになる。それが良いとか悪いとか言っているのではなく、単にそうなのだ。

しばらく公園にいた後、わたしはふと、有名な「故宮博物院」に行くことにした。なぜなら、「故宮博物院」は1度目の台湾なら行くべきだろうが少々遠く、これからもし暴風と悪天候が続く毎日がやってきたとすると、行く機会はなくなってしまうような気がしたからだ。コンビニで水を一本買い、駅へと向かう。太陽は徐々に高くなり、気温も上がっていた。やはり暑いな、と思った。

思いつきだったため、故宮博物院への行き方なんて知っているはずもない。だから前日に書店で買った台北の地図を開き、当てずっぽうで行くことにした。どうやら、故宮博物院台北市内の鉄道(MRT)から離れており、バスに乗らないといけないようである。わたしはとりあえず、故宮博物院と道で繋がっていそうな「劍潭(ジエンタン)」駅で降りることにした。

台湾の鉄道は距離に応じて料金が違い、運賃を払って、切符代わりの青いプラスチック製のトークンを買う。ホテルの最寄駅である「台北車站」から「劍潭」まではたしか、25台湾元、すなわちおよそ100円だったと思う。これで5駅分なのだから、日本と比べた時の破格ぶりがわかるだろう。日本で5駅も乗ろうものなら、もっと大量に取られてしまうはずだ。

台北市内を走るMRTというのは、ほとんどの場所が地下を通っている。だからほぼ地下鉄と言ってもいい。だが、目的地である「劍潭」は地上、というかむしろ、高架に駅がある。そう、初めは地下を通っていたMRTは、「劍潭」の一駅前にあたる「圓山(ユェンシャン)」で高架に登り、まるでモノレールのように地上を見下ろしながら進むのである。晴れ渡る青い空の下、まるでズートピアの冒頭のようにスーッと走って行く効果鉄道に乗るのはなかなか気分がいいものだった。

その気分の良さは天気のせいだけではない。台北の鉄道のおかげでもあった。というのは、乗客のマナーが日本と比べてかなりのレベルなのだ。儒教文化があるためか、お年寄りが電車に乗ってくると、多くの若者はすぐに、パッと席を立ち、どうぞ、すわって、と言いに行く。お年寄りの方もお年寄りの方で、すなおに「シエシエ(ありがとう)」と席に着くのだ。譲る側のマナーもよければ、譲られる側のマナーも良い。もちろん、譲らない人もいるし、何も言わずに人ごみを掻き分ける人もいる。だが、日本の電車の中に充満する倦怠感と緊張感はあまり見受けられないように思えた。

さて、「劍潭」駅で降りると、まず問題に直面した。バスがわからない。そこでわたしはとりあえず駅に貼ってあった故宮博物院などが載っている地図を見た。しっかりとバスの番号が書かれていた。そういうわけで、しばらく待とうと思ったのだが、バス停にあったバスの路線図を見ても、どうもそのバスは故宮博物院へと直行していないのだ。むずかしい。難しすぎる。悩んでいると、中国人観光客がやってきて、わたしに何やら話しかけてきた。どこでも現地人と見間違われるので、もう慣れっ子だったわたしはすぐに、「Sorry, I'm a foreigner」と言った。彼女はしばらく固まり、やっちまったという顔になってすぐに去って行った。すまないな、お嬢さん。お前さんを助けることはできない。なんせむしろこっちが教えてほしいくらいなんだぜ。

太陽はさらに昇る。10時くらいだっただろう。暑さはかなり酷いものになった。それは蒸し暑いというものではなく、太陽の直射日光が刺すという感じだった。わたしは現地の人たちに習って陰へとゆき、ふと尻ポケットに入っていた地図を見た。その地図にはツーリスト用の情報が書かれており、そこにあった故宮博物院の写真を見せれば運転手がなんとかしてくれるんじゃないかと思ったのだ。その地図の故宮博物院の解説には、なんということだろう、「士林」駅からバスが出ると書かれていた。「士林」駅は、わたしがいた「劍潭」駅の次の駅だ。やっちまったようだ。わたしはすぐにバス停から離れ、もう一度、今度は20元を払って、MRTに乗って、「士林」駅を目指すことにした。

さようなら、短い一週間

更新しよう、更新しようと思いつつ、書きあぐねている間に滞在期間の一週間が過ぎてしまった。そういうわけで私は今、再び、台北の松山機場にいる。出発まであと一時間ほどあるので、満を持して書こうと思う。

一週間に及ぶ一人旅は、実を言えば私にとって初めての体験であった。だが、使い古された言葉になるが、終わってみるとあまりに短かったと思う。

それは一つは、台風のせいもあるのかもしれない。三日目に台湾南部を台風14号「莫蘭蒂」が襲った。テレビのニュースで知ったが、台湾南部のとした顔が多大な被害をこうむったという。そして昨日、つまり台湾滞在六日目には台風16号「馬勒卡」が今度は台湾の東北部を襲っている。こればっかしは、台北も大雨と暴風雨に見舞われていたのを、身を以て知っている。昨日窓に雨が風にあおられて叩きつけられていたし、一度外に出た時も、ものすごかった。とはいえ、そんな台風も、幸運なことにあまり大きな被害を私の周りでは起こさなかったし、意外なことに、できるだけ外出を控えていた台風の日も、なかなか楽しく過ごせたのだった。だから、今回の一人旅に、台風はそんなに大きな影響は及ぼしていなかったとも言える。

では、なぜこうも短く感じるのだろう。

見るべきところは基本的に見たと思う。台北の保養地でデートスポット「淡水」にも(悲しいかな)一人で行ったし、有名な「故宮博物院」にも行った。「行天宮」という台北の人々の信仰の地にも行き、「臨江街」・「華西」・「士林」の三つのナイトマーケットにも繰り出した。ホテル最寄の「国立台湾博物館」も本館分館両方行き(分館の方が楽しい)、「台湾総統府(旧台湾総督府)」も見たし、孫文を記念する「國父記念館」、蒋介石を記念する「中正紀念堂」もくまなく見て回った。「台北101」は登りはしなかったが下からは眺めたし、台湾の代官山「永康街」や若者文化の発信地「西門町」などのオシャレスポットにも行ってきた。おそらく、これは「旅行」としてはかなり十分満足できるものだっただろう。だが、なんとなく、まだ消化不良が残るのである。

それはきっと、徐々に慣れてきたからだろう。初めは、頑張って拙すぎる中国語をしゃべったりしながら体当たりで店に入っていったりして、そして半ばではそんな生活に疲れ、そして今、やっと慣れてきて、これからもっと楽しめそうだという時に帰国だからこそ、この度は非常に短く感じられるのだ。もう少しいればもっと台北を感じられる。見るだけじゃなく、もっと感じられるはずなのだ。まだ何度も行く常連の店も作っていない。どこの「牛肉麺」(ニュウロウメン:台湾名物でこれがうまい。値段は500円くらいが相場)が一番うまいのか、どこの「魯肉飯」(ルーロウファン:ものすごく安くてうまい。120円くらい。ただ、量が少ないのでお腹がすく)が一番肉たっぷりなのか、まだつかみきれていない。それに何より、台北の人ともっと交流がしたかった。食堂での会計のやり取り、あとは一度だけ日本語が話せるおっさんと電車の中で話しただけだ。もっといろいろなことを聞きたかったし、もっと聞くべきだった。

私にとって旅をすることは、たぶん成長しようとすることだ。日本ではうまく解放できない、この20年間で「出来上がってしまった自分」をもっと解放し、もっと自由になりたい。だからやってみて、反省し、またやってみて、反省する。私は基本的に簡単にグイグイいける人ではないので、そんなことの繰り返しである。だからこそ、一週間は短いのだ。せめて二週間あれば、三週間あれば、と思う。なぜなら、街を見るのではなく、感じたいからだ。

だが、そんな消化不良感はありつつも、やはり楽しかった。それも、一週間が短く感じられる一つの要因だろう。どれが一番うまい牛肉麺かわからないくらい、どの店も牛肉麺はうまかった。それだけじゃない。どの店も、(淡水で食べたイカの揚げたやつ以外は)食事が最高にうまかったのだ。もっといろいろ試したかった。もっとここにいたい。そうすればもっといろいろな面白いものにも、うまいものにも出会える。そう思うと、まだいたいという気になるのだ。

私の乗る飛行機は、おそらく、台風と同じ軌道で飛ぶ。だから、実は今到着遅れによる遅延が起きている。だがなにはともあれ、行かなくてはいけない。次の旅に行くには帰らないといけないからだ。

 

そんな短い一週間の台湾滞在記については、また帰国してから徐々に投稿して行こうと思う。だから、(誰も期待なんざしてないかもしれないが)乞うご期待。

AVANTI!〜台湾1日目〜

志はあるが、全てを支配し尽くすことはできない。だから小さな島を分捕って、そこに理想郷を作る。そんなストーリーはわたしの憧れだった。だから、榎本武揚がその地に共和国を作ろうとした北海道、そして鄭成功蒋介石が夢を託した台湾は憧れの土地でもあった。だから高校を卒業してすぐにわたしは北海道、それも榎本武揚が政府を置いた箱館に初めての一人旅を行ったのだった。そして今、わたしはついに台湾で一人旅をしている。

全ては思いつきから始まった。

カナダから帰ってきて、旅の後の恒例行事、楽しかった日々を思い出してメランコリックになる、という状態になった時、ふと、どこかへ行ってしまおうと思ったのだ。モントリオールで使う金として用意していたのが100000円、実際に使ったのは40000円、則ち60000円も浮いている。それならその金を使って何かができるはずだ。アジアにならいけるに違いない。わたしは雨季だったヴェトナムを避け、今回の目的地を台湾に設定し、すぐに飛行機をとった。

あまりに急のことだったから、アルバイトやらなにやら大変だったのであるが、まあなんにせよ、わたしは台湾行きを決めた。

だが一筋縄で行ったわけではない。出発の二日前、気象庁発表の情報がこの度を消滅の危機へと至らしめた。フィリピン沖で台風が発生し、台湾に直撃するというのだ。色々と悩んだ結果、わたしは行くことにした。理由はと問われるとよくわからない。理由なんてなかった。だが、なんとなくここで行かないという選択肢は見出せなかったのだ。台風が来たら、部屋にいればいい。そこでカップヌードルでも食おう。それも、台湾産のやつを。それもアリだ。わたしはそうしていくことにしたのだった。

そういうわけで、台湾に今いる。

三時間のフライトは前代稀に見る快適さで、機内食も珍しくうまかった。魚がプリプリで、それに絡ませるカレーソースも旨い。つかったEVA航空がサンリオとコラボしているためにチケット、機体、機内のモニター、そしてフォークとナイフまでキティちゃん一色なのは小っ恥ずかしかったが、フライト自体は良かった。それに、三時間はあっという間だった、ということもあるかもしれない。

飛行機があっさりついたように、市内へ向かう地下鉄にもあっさりと乗り、あっさりと目的の台北駅へと到着した。電車は日本よりも入り口が広く、タイのエアポートレイルに近かった。また、切符ではなく、コイン型のトークンを使って乗車するシステムも同じだ。もしかすると、台湾のシステムを、タイが真似したのかもしれない。逆かもしれないが。

台北駅からホテルのある「重慶南路」までは少しあった。そして、天気はあいにくの雨。そこでわたしは台北駅の地下にあって、重慶南路の方へと伸びている「駅前地下街」へと向かった。そこはまるで市場で、中華文化圏らしいわい雑さがあった。色とりどりの服、色とりどりのバッグ、宝くじ屋、そして、やけにうまそうな匂いのする食べ物屋。そしてそこを抜けて地上へ出ると、ガソリンと食べ物とお香の匂いが混ざり合う、ヴェトナムでも経験したあのアジアの空間だった。だが建物はヴェトナムやタイとは違った。建物はずっと高く、ボロボロのコンクリートだった。当たり前だが看板の漢字の比率は多い。そしてネオンがある。しかし写真で見る香港よりは大人しい。空気はまとわり付くようで、歩いているとすぐに汗が出る。その上、雨がしとしとと降っている。しばらくその通りを歩けば、ホテルがあった。

フロントの人はまだチェックイン時間ではないのにもかかわらず、快くチェックインを許してくれた。わたしは言葉に甘えて汗だくになりながらチェックインした。部屋は3畳ほどで、まるで、テレビで見るオリエント急行のキャビンのような狭さだった(寝台列車にしてはでかいが、ホテルとしては狭い)。だが、幸いなことに窓がある。わたしは汗でびしょびしょのシャツを着替え、外に出た。

わたしはしばらく歩き、土地勘をつけることにした。まず、重慶南路を真っ直ぐ歩くと台北駅がある。重慶南路の並びには、繁華街や市場が並ぶわい雑な通りがいくつか走っている。台北駅をさらに奥へと進めば、庶民的な問屋街が現れる。一方、重慶南路を台北駅とは逆方向に歩くと、大きくて、中華風の祠や博物館や二二八事件という中華民国による台湾住民の反乱弾圧事件の慰霊碑がある公園、そして、省庁街、総統府(デモをやっていて近づけなかった。やはり、政治的主張に関しては激しい国なのだな、と実感した。それも、参加者はやはり若者が多いように思えた)のある小綺麗な界隈。そしてそんな小綺麗な界隈をしばらく歩くと、唐突に庶民的な食堂の並ぶ道が現れた。その頃には、初めは鬱陶しかったしとしと降る雨も気持ち良く感じるようになっていた。むしろ傘などいらない。あれだけ蒸し暑いと、むしろ雨に濡れる位が気分がいいのだ。

小綺麗な街の中にひっそりと存在する食堂だらけの道を歩いていると、小籠包を売る店を見つけた。買おうかと思ったが、中国語でどう対応すればいいのか、そもそも自分の中国語が通じるのか、あれこれと不安になってきた。初めて使う言語だ。そして初めての土地だ。そうなると、本当にうまくいくのか不安になる。だがここは勇気を出そうと思った。今までカナダやヴェトナムやタイで、徐々にできるようになっていたことだ。ここでもできるはずなのだ。

「ニーハオ」と、わたしは店に立っているおにいさんとおばさんに言った。

「ニーハオ」

「ウォーシャンヤオ……」まずい。小籠包の発音がわからない。わたしはとりあえず「小籠包」と書かれた看板のほうを指差し、「しょうろんぽう」と言ってみた。だが、店のおばさんは、「ア?」と聞き返す。まずいぞ、と思った刹那、おにいさんが、「ああ、シャオロンポウ」というようなことを言った。伝わった。するとおばさんは頷き、「&%?」と何やら聞いてくる。とりあえず聞き返すも、やはりわからない。わたしはとりあえず、

「ブーヤオ(いりません)」と答えた。

おばさんはにっこり笑って「ブーヤオ」と返した。台湾では拙い中国語を使うと、なぜか言い返してくる。これはとても面白い。

かくしてなんとかわたしは小籠包を手に入れた。どうやって食べようかと思案したが、この小籠包は肉まんのような皮で、丈夫だったので、そのまんま手づかみで、口に頬張った。あまり知るは入っていなかったが、非常にうまかった。やはり、どんどんしゃべるべし、である。

夜になってわたしは昼の散歩で見つけた市場へと向かった。その市場はホテルのそばの通りにあり、通りを歩いていたら突然市場が始まっていて驚いたものだ。とりあえずいろいろ歩き、わたしは一番繁盛していそうな「牛肉拉麺」を食べることにした。とりあえず店主らしき人に声をかけると、何やらペラペラっと喋ってくる。困っていると店主は日本語のメニューを出した。こういうものが結構あるのだろうか。あそこは特別観光客が来そうなところには思えなかった。まあとにかく頼んでみると、うどんのような麺と牛肉を煮込んだものが、茶色いスープに入っていた。麺はうどんそのものと言っていい。牛肉は柔らかくなっていてトロトロ、スープはピリ辛で、肉の出汁が良くてていてうまかった。帰りがけに「ハオチー(おいしい)」と言ってみたら、仏頂面でやはり「ハオチー」と返してきた。気持ちが伝わったのかはわからないが、とにかく初日にしては上出来である。わたしは店を出た。

店を出て少し散歩をした。すると何やらライトアップしているものが見えた。それは昼まデモの影響で見れなかった総統府だった。夜の闇にオレンジ色の光が、赤いレンガを照らし、ノスタルジックな美しさを放っている。こういうものに何の計画もなく出会うと感動する。見に行こうと思っていくのではなく、たまたま目にする方が、まるで(それが単なる勘違いだったとしても)神が用意してくれたプレゼントのように感じるからだ。気を良くして夜の台北をさまよった。爆撃の影響が東京ほどではなかったからか、日本統治時代の建物が多数見受けられた。それもライトアップされ、ノスタルジックだった。そしてその前をバイク達が疾走し、その奥には高層ビルが見え、そこに台湾の歴史が凝縮されているようであった。

そうこうするうちに駅に戻ってきたわたしは、また地下街を通ろうと思い、地下へ入った。すると見慣れない、中野ブロードウェイ的な地下街が現れた。とにかく歩こう。それが間違いだった。わたしはいつしか全く知らない駅へと迷い込んだのだ。調子に乗るのも大概にしないといけない。

それから先は大した話ではない。引き返し、コンビニで台湾ビールを買って、飲んでこれを書いている。これからわたしを待つのは明日という日だ。明日は何をしようか。正直まだ未定だ。だが、明日は明日の風が吹く臭豆腐でも食べようかと思う。

Shalom 'al Outremont

カナダで私1人が経験したことは、ケベックシティの一人旅だけではない。今日はその話をしよう。

ケベックシティ一人旅の翌日のことだ。まずはみんなと再会を果たし、みんなで朝食を店で食べ、そのあとは何をしたのかいまいち覚えていない。昼食の時間になると、私は仲間たちとともに、ヴェトナム料理屋へ食べに行った。というのも、現地人モニター曰く、モントリオールはたくさんのヴェトナム人(ヴェトナム戦争の時に逃れてきた人々だ)が暮らしており、ヴェトナム本国よりも旨いヴェトナム料理を食わせる店がある、というからだ。今年の2月にヴェトナムを旅していた私は、ぜひともその、「ヴェトナム本国よりも旨いヴェトナム料理」なるものを食べてみなければ済まなくなった。

入った店は、中華街にあった。しかし店員は皆ヴェトナム語でしゃべっており、窓に書かれた言葉もまごうことなきヴェトナム語である。店内は食堂風で、フォーや、ブン、といったヴェトナムの麺料理をすすっていた。これは期待できそうだ。ヴェトナム料理については覚えがあったので、得意げにみんなに「ああ、これはぜんざいみたいなやつだよ」とか「ブンは細麺で、フォーはきしめん」などと、まるでヴェトナム人のように説明しつつ、わたしは定番の「フォー・ガー」すなわち鶏肉のフォーを頼むことにした。

食べてみると、正直な話、本国のフォーの方が旨いと思った。というのも、あの店のフォーは南部ホーチミン風の味付けだったのだ。ヴェトナムは南北に1500kmほどの長さがあり、南北で文化も味付けも違ってくる。行ってみてふと思っただけなので、正確な情報かはわからないが、北部のフォーと違い、南部のフォーは麺の汁が甘く、出汁があまり聞いていない。一方北部は鳥のダシをふんだんに使っており、うまい。私はそんな北部風のフォーが好きだった(南部は焼いた肉が旨い。ものすごく旨い肉が、甘くてパンチのないシルに使った麺の上に乗っかる、という料理を何度かホーチミンで口にした)。そして、モントリオールのフォーは南部風、南部の人の口には、「本国よりも旨い」のかもしれない。だがわたしにとっては、確実にハノイで食べたあのフォーの方がうまかった。だが、あの店で久しぶりに飲んだ本物の「ヴェトナムコーヒー」(濃く入れたコーヒーに練乳を入れて混ぜる。その濃厚さは、生チョコレートを彷彿させる)は非常に上手くて、懐かしい思いにさせた。

そのあとはみんなでモントリオールの地下街ツアーをした。冬場は氷点下を軽く超えるモントリオールでは、地下街が発達している。東京の地下街もかなりのものだと思うが、モントリオールには負ける。北から南へ、東から西へ、たいていのところには地下を伝っていくことができるのだ。地下という場所はなんだろう、男のロマンを刺激する。地下を歩いているだけで、まるで秘密基地を歩いているような気になるのだ。しばらく地下街を探検した後、私はみんなと別れ、ひとり「ウトゥルモン地区」へ行くことにした。そこは、前々から行こうと思っていて、行く時間を見つけられていなかった場所だった。

 

ウトゥルモン地区、というのは、「山(モン:mont)」の「向こう側(ウートゥル:outre)」という意味であり、旧市街やダウンタウン、大学、中華街がある場所から、前に紹介した「モンロワイヤル」を超えた向こう側にある。そのため、ものすごく行きづらい。レジデンスからだと、地下鉄に乗って二駅のターミナル駅「ベリ・ユキャム」で乗り換え、そこから山の方へと進む地下鉄にものすごい長い時間乗って、市場のあるイタリア人街で有名な「ジャン・タロン」駅で下車、さら乗り換えて、4駅先についに「ウトゥルモン」駅がある。

なぜ、このような辺鄙な場所に行きたかったのか。

それはそこが世界随一のユダヤ人街だったからだ。世界でも大きなユダヤ人コミュニティは、ニューヨークとモントリオールにあるらしい。そのおかげか、モントリオールの伝統料理としてあげられる三つの料理「プティーン」「ベーグル」「スモークミート」のうち、「ベーグル」と「スモークミート」の二つはユダヤ文化由来のものである。

紀元135年以来、世界中に離散せざるをえなくなるという厳しい宿命に出会いながらも、自らの文化を守り続けてきた民族、いや、それだけではなく、ところどころに他の文化を受容し、周りの文化に対しては多大なる影響を与え続けている民族。そしてその文化と学問を重視する姿勢から、文化の担い手であり続けた民族。それがユダヤ人だ。哲学者としても、わたしがもっとも気に入っているアンリ・ベルクソン現象学の父フッサールレヴィナス、哲学に大きな爪痕を残したデリダ社会主義の大成者マルクス、もっと昔だとスピノザなど、科学者としては言わずと知れたアインシュタインノイマン、ボーアなど、芸術家だとシャガールなど……その名をあげたら止まらない。そんなユダヤ人たちが住んでいる町ウトゥルモンを是非とも覗いてみたかった。とくに、ウトゥルモンはユダヤ教ハシディズム派という独特な文化を持つ人たちの街だった。どんな街なのか、好奇心があったのである。(ユダヤ音楽にも興味があった。それについて調べてWEB雑誌に書いた記事があるので、もしよければ読んでいただけたら、と思う。《歴史・文化》哀愁と楽しさのあいだ〜ユダヤ音楽の世界〜 - すべての人に贈るウェブ雑誌TODOS)などといいつつ、本当は本物のユダヤ人たちが食べているベーグルやスモークミートが食べてみたかった、という気持ちが一番大きかった、という不都合な真実があることは否定できない。

さて、ウトゥルモン駅で下車し、街へ繰り出してみて愕然とした。まず、人がいない。そして、店もない。そしてなにより、ユダヤ人感が全くない。この駅で降りたら、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語の文字の一つや二つ、あると思っていた。だが、ないのだ。ただただ、閑散とした大通りがある。強いて言うなら、その大通りの名前がユダヤ人風のドイツ系の名前だった、というくらいだ。

しばらく歩いてみても、ただ暑いだけだった。どうしたものか。本当にここはユダヤ人街なのか。私の脳裏には疑念が浮かんでいた。引き返して、「ジャンタロン」のマーケットに行ったほうが楽しいのではないか。だがせっかく来たのだ。歩こう。私はさらにその大通りを歩いた。そうしていたらついに、ヘブライ語の文字が目に飛び込んできた。それは、なんたらなんたらの「家(バイト)」というもので、おそらくシナゴーグ、すなわちユダヤ教の寺院だった。しばらく遠くから見ていると、出口と思しきところから、ベールをかぶった男性が出てきて、なにやらぶつぶつ言っていた。これは確実にお祈りだろう。やはりここは、ユダヤ人の街だったのである。

他にも何か出てくるかもしれない、と大通りを歩いたが、全く見つからない。私は引き返し、シナゴーグのところへ再びやってきた。男は消えていた。シナゴーグのある通りへと右折し、木が生い茂った住宅地へと向かってみる。そこは生活感で溢れていて、どこにでもある北米の住宅地だった。ただ一つ違う点がある。暮らしている人の装束が、男性は黒いローブに黒い帽子、髪の毛は長く伸ばして、巻いて、左右に垂らしており、女性は頭に被り物を被って、薄いブルーのベストをつけ、ロングのスカートを履いていた。そう、それこそいわゆるユダヤ人の格好であり、ここに暮らす「ハシディーム」の服装だったのだ(面白い点がもう一つある。教育熱心で知られるユダヤ人だが、まさにその通りで、ほとんどが子連れなのだ)。

キッパ、とよばれる丸くて平たい帽子をかぶった十代の少年が本を抱えて歩いている。学校行事か何かがあるのだろうか。小さな公園では同じ格好の、もう少し小さな子供達が遊び、それを黒ずくめの親が見守っていた。しばらく歩いていると、年配の2人のハシディームが、なにやら喋りながら歩いていた。その言葉は、英語でもなければ、フランス語でもなかった(他のユダヤ人たちはフランス語をしゃべる人が多そうだった)。ドイツ語に似た響き、間違いない、ユダヤナイズされたドイツ語である「イディッシュ語」だった。絶滅危惧種の言語で、イスラエルではヘブライ語に取って代わり、ニューヨークでは英語にとって変わりつつあるイディッシュ語。それをここで耳にしたのは一つの感動であった。だが一方で、その人たち以外はフランス語をしゃべっているという現実に、感傷を覚えもした。言語は実用的なものだ。使われれば拡まるし、そうでなければ消えてしまう。消えゆく言語に情けをかけるのは、全くもって無意味なことだ。だが、イディッシュ語で歌われるユダヤ音楽を、所属するweb雑誌の活動の一環で調べていただけあって、イディッシュ語が消えゆく姿は寂しいものがあった。

本当は、ユダヤ人街を歩いて、人々としゃべってみたかった。ハシディズムのこととか、イディッシュ語のこととか、聞いてみたいこともあったし、話してこそわかることも多い。だが、それは思い留めることにした。なぜなら、ただただ興味本位に過ぎなかったからだ。興味がある、という人に別に嫌な気分はしないだろうが、なんとなく、別にユダヤを専門にしているわけでもなく、物書きであるわけでもない私が、「すみません、暮らしについて教えてください」というのは変な気がしたのだ。本当はそんな迷いなしにグイグイいければいいのだが、一度考えると動けなかった。そもそも、こうやって興味本位の観察者が、ユダヤ人街をうろうろすること自体が失礼にあたるのではないか、などとも思った。話しかけないほうが失礼かもしれない。ただただ、見ている。それほど気持ちの悪いことはない。色々考えるうちに、なんだか私は非常に気味が悪い覗き魔になったような気がして、自己嫌悪感を覚えた。ただ静かに暮らしている彼らを見て、おおユダヤ人だ、と見ている私は、なんと失礼で、なんと気持ち悪いやろうだろう。私は住宅街を抜け、繁華街に出た。

しばらく歩いていると、スーパーがあった。ユダヤ人用のスーパーに違いない。ちょうど喉も渇いていたし、私はとりあえず中に入ることにした。そこにはユダヤ人の生活があり、そこで一緒になって何かを買えば、「覗き魔」ではなくなれるような気がしたのだ。

案の定、そのスーパーは非常に面白かった。スーパーの中にはハシディームたちがいて、店内にある商品もどこか変わっていた。ヘブライ語の商品もたくさんあった。それはおそらく、コシェル、と呼ばれるユダヤ人の宗教上の戒律に従った食料品なのだろう。私は「マイム」とヘブライ語で「水」を表す言葉の入ったペットボトルの水(有名なフォークダンスの曲の「マイムマイム」は水が沸いたことを神に感謝する歌である。だから、キャンプファイアーに向かって「マイムマイム」と言いながら踊るのは非常に奇妙なことなのだ)を買って、外に出た。

そうこうするうちに、文化人類学者がフィールドワークと称して調査対象と共に暮らす理由がわかったような気がした。大学で文化人類学の授業を取っていたから、理由は知っていたが、この時はじめて、実感としてわかったのである。一緒に暮らさなければ、ただの観察者になる。それでは本当のことはわからない。インタビューしたところで、怪しい興味本位だけの人に成り下がるだけだ。でも同じ場所で買い、食べ、飲み、眠る、という生活をすれば、内側からその人たちのことがわかるようになってくる。だから、1日の暇な時間を見つけて、「そうだ、ユダヤ人街行こう」とやってきた私はそもそも、ただの興味本位の観察者に過ぎないわけで、本当のことなど分かるはずもないのだ。本当に「mixed culture」を知るためには、ユダヤ人街に住まないといけない。そんなことを、水を買った時に思ったのであった。

そこで私は公園を探すことにした。足も疲れていたし、公園のベンチに座ってこの土地の風を感じたかった。ウトゥルモンの大きな公園は、繁華街から少し歩いたところにあった。その公園は大きな池を中心に作られていて、落ち着いた雰囲気があった。池の前にあるベンチに座って、「マイム」を飲みながら、水面を眺めていた。風は穏やかで、ヘブライ語の挨拶「シャローム」が意味するところの、「平和」そのものだった。今度来た時は、もっと中へ入って行こう。もっと時間をかけよう。そう思った。ただ人々を眺めるのは気味悪いし、どこか失礼だし、それにそれじゃあなにもわからない。わかった気になるだけだ。だからもっと、いろんな人と言葉を交わし、生活したい。

小一時間公園でのんびりし、私は公園の小屋にあるトイレに入ろうと考えた。だが、どちらが男性トイレなのかがわからない。うろうろしていると、小屋の近くのベンチに座っていた、帽子をかぶった「ダンディ」そのものというような初老の男性が、

「向こう側だよ」

と声をかけてきた。一瞬なんのことかわからずに、聞き返すと、

「トイレだろ? 向こう側だ」

といった。

「ありがとう」

「いいんだ」

やはり、言葉を交わさないと(いろんな意味で)わからないことがある。

ケベックシティ冒険譚

 

   そろそろ、今まで書いていなかったことを書こうと思う。それは、ケベックシティへの一人旅の話だ。

 今回のプログラムでは、二週間目の週末に、それぞれがオプションでアクティビティーを選んで参加できるようになっていた。ナイアガラの滝旅行、ネイチャーアクティビティー(豪雨ともろもろの事情により「ヘルアクティビティー」の様相を呈していたという)、ホームステイ体験、そして宿泊先にとどまって自由行動、の四つから選ぶことになっていた。わたしは最後のものを選んだ。こんなにたくさんのものからよくそんな地味なものを選んだ、と言われたが、「自由行動」ほどすばらしいものはない。何処にだって行けるのだ。他の自由行動メンバーはモントリオールでショッピングやミュージカル鑑賞をしていたが、わたしが黙ってモントリオールに滞在し続けるはずがない。独りでケベックの州都ケベックシティ行きを敢行したのだった。


 だが、その道のりはなかなかハードだった。いや、ハードではない。単純にいろいろな事情がかさなって、ピンチピンチの連続だったのである。

ケベックシティに日帰りで行ってもいい?」と現地人モニターに尋ねたら、実力者Kに話を通してくれ、案外二つ返事でオーケーが貰えた。その交換条件は、「いつでもつながる携帯電話を用意すること」だった。「SIMカード」を入手すればそれができる、と聞いたので、わたしは早速SIMを入手した。
 出発は値段を考慮した結果朝の六時だったから、朝の五時には宿舎を出ねばならない。そこで四時三十分頃に起床し、シャワーを浴び、出発の一五分前くらいにSIMカードを携帯電話に入れた。愕然とした。「このSIMカードは無効です」と来たもんだ。実は日本の普通のiPhoneは海外のSIMカードに対応していないらしい。それを知らぬままにいれ、しかもエラーの内容の意味もわからない。
 そうこうしているうちに出発の時間が来た。わたしはとにかくビニール袋にもって行くものを入れ、部屋を出た。ホテルを出て雨が降っているのを感じ、気づいた。傘を忘れた。だが時間がない。そしてバスターミナル行きの市バスに乗り、気づいた。チケットの紙を忘れたのだ。このたびばかりは死ぬかと思った。だが、見送りにきてくれていたモニターのティムが、メールでチケットのデータが来ているんだから、そのメールを見せればのれるはず、という思慮深い発言をし、ことなきを得ることになった。本当に感謝しかない。焦りは禁物だ、とわたしは胸に刻み付けるのだった。

 

 そんなこんなで、わたしのケベックシティ一人旅は最悪のスタートを迎えた。バスの中で読もうと思っていた本も忘れ、なぜか前日に友だちから選別として渡されたベーグルとクリームチーズだけが袋に入っているという有様。イアフォンがあるのにiPodがないという失態。加えてバスの旅は三時間もかかるのである。まるで、ゴジラに新聞紙を丸めた棒で挑むような気分であった。
 だが、何が幸いするかわからない。何も娯楽がなかったこと(途中でバスにワイファイが入ることに気づき、スマートフォンからラジオアプリに入って、そのラジオを聞きながらバスに乗っていたから、三時間無娯楽の状態だったわけではないが)がバスの旅の醍醐味を味わわせてくれたのである。宿舎を出たときまだ暗かった空が明らみ、バスに乗って早々はねていた乗客たちが徐々におき始める。みんなそれぞれ盛っている朝食を食べ、窓の外を眺める。それは電車の旅では味わえない良さだった。ヨーロッパに行った時、六時間ほど電車に乗り続けていたことがあったが、電車だとやはり、どこか個人個人が分かれて座っている感じが強い。だがバスのような人が密集している場所だと、なんだか共同生活をしているような感じがするのだ。別に誰かとしゃべったわけではない。しゃべったとしても、「このバス停がケベックシティですか?」程度の会話しかしていない。だが、あの乗客たちと同じ朝を迎え、同じ行き先へと向かっている。そんな不思議な連帯感が生まれたのだ。あの独特な雰囲気は、ぜひまた味わってみたいなと感じた。

 

 ケベックシティには予想よりも早くたどり着いた。
 バスターミナルで町の地図を貰い、外へ向かう。手荷物はビニール袋だけ。簡素な一人旅の始まりである。
 が、外に出てみて愕然とした。全く方向感覚がつかめないのだ。バスターミナルの場所くらいは一応確認していたが、どちらにいけば町の中心である旧市街へと行けるのか、全くわからない。日本にはありがちなけばけばしい「おいでませ、旧市街」というような看板もない。ただ、だだっ広い道路があって、そこを車が走っている。しかも、朝の九時頃のため、人が極端にいないのである。わたしはとりあえず道を歩いている人に旧市街の場所を聞いた。
「この道を歩きなよ。そうすれば多分旧市街につくよ。ごめんな、俺はカナダ人じゃないんだ。でも、つくよ」
 道を聞いたおじさんはにこやかにそういうと、レンタサイクルの店へと吸い込まれて行った。わたしは言われた通り歩いた。そうするとどうだろう、確かに旧市街らしきところについた。だが、人がいない。どうしたものかと思って歩いているうちに、だんだんと地図上のどの地点にわたしがいるのかがわかり始めた。そこは旧市街でも「ロウワータウン」と呼ばれる、崖の下側の場所だった。旧市街の本体は、崖の上、すなわち「アッパータウン」にあったのである。
 しかしロウワータウンもロウワータウンで、なかなかよい場所だった。閑散としているが、落ち着いた雰囲気があり、観光客のこない旧市街、というような雰囲気があった。そこには確かに人がいきていた。こじんまりとした教会があり、町にはアートが飾られていた。それはそこか、リヨンの町並みにも似ていた。リヨンを訪れた時は、旧市街の山の頂上にあるユースに宿泊したが、その近くは似たような感じの静かな町並みがあった。エキサイティングとは言えないが、そこには独特の風格と良さがある。


 首折り坂という強烈な坂を上ると、巨大な塔が見える。それがケベックシティのランドマークであり、ホテルとしても使用されている城館だった。今では一階にスターバックスが入っている。その建物の前には巨大なサミュエル・ドゥ・シャンプラン像がある。シャンプランはフランス人探検家で、ケベックの地にフランスの植民地を建てた、いわばカナダの父だ。像のあたりは広場になっており、大道芸人がパフォーマンスをしていた。ラテン語、フランス語、英語、そしてなんと中国語の歌を歌いこなす女性、巨大なフラフープをまわす男など、いろいろな人がそれぞれの芸を見せていた。そこはロウワータウンとは違って、朝早いのにもかかわらずかなり盛り上がっていた。まるでお祭りである。

 

 しばらくして、わたしは旧市街をいったん出て、新市街からバスに乗って、「滝」を見に行くことにした。その滝はティムとは違うモニターが教えてくれた滝で、正直言えば、「写真とって来てよ」と言われたから、まあ一応いくか、程度の思い入れしかなかった。たまにはおすすめの場所にいくという旅もいい、と思ったということもある。滝の名前は「モンモランシーの滝」。わたしは市バス800番に乗り、「モンモランシー」というバス停で降りた。
 これが間違いだった。モンモランシーは、ガソリンスタンドしかないへんぴなバス停だったのだ。この近くにあるのか? そう思いながら歩いてみるも、照りつける太陽の暑さに気がめいってくる。それに、見るからに滝がなさそうな場所なのである。わたしは通りの名前を確認し、地図を見た。案の定、明らかに違う。もっとバスに乗っていなければいけなかったようだ。わたしは次のバスを待ち、今度は間違うまい、と運転手にこう尋ねた。
「Je veux aller à la chute de Mont Morency(モンモランシーの滝にいきたい)」
 フランス語を使ったのは、フランス語話者がモントリオールよりも多いと聞いたからだった。
「Ten minutes(十分くらいだよ)」
 なぜだろう、運転手はすぐに英語で返してきた。
 なんとなく屈辱を覚えつつ、席に着いた。だが不安は募る。一泊する旅立ったら別にいい。だが今回は日帰りだ。もしたどり着けず、戻ることもできなかったら? そう思うと不安でいっぱいになった。運転手はバス停の名前を言ってくれなかった。だからわたしは後ろの席の女性に尋ねた。
「滝に行きたいんですけど、どこでおりればいいかわかります?」
「ごめんなさい、カナダ人じゃないの」
 どうやらこの町にカナダ人はいないらしい。わたしは仕方なくバスの運転手のところへ行き、バス停の名前はなんて言うんですか、と聞いてみることにした。というのも、予定の「十分くらい」がもう過ぎていたからだ。
「バス停の名前………うーん、多分モンモランシーの滝じゃねえかな。後十分くらいでつくよ」

 この辺りで何かがふっきれた。もう、このままバスに乗っているしかないじゃないか。そのうちつく。多分つく。つかなかったらつかなかったでいいじゃないか。わたしはとりあえず席に着いて、窓の外を眺めた。あいかわらず、カナダの土地は広かった。
 しばらくバスに揺られていると、運転手が親切にも
「ここが滝だよ」とアナウンスをしてくれた。わたしは運転手に礼を言って、バスを降りた。
 だが、降りてみても滝がどこにあるのかはわからない。とにかく公園らしきところに入ると、昔の土塁のようなものが広がる平原に出た。その平原を少し歩いたところに東屋があって、何やらそこにたくさんの人がいる。もしやと思ってそちらへ向かうと、そこは滝だった。
 義理のつもりで来てみたが、その滝は予想以上のすごさだった。轟音と、流れ落ちる水の塊は、圧倒的な自然の力を見せつけていた。そんな力強い姿を見せる一方、滝と水面の間にはくっきりとした虹がかかっていた。滝は東屋から見ることができるだけではなく、そこから長い階段を下りて、真下から眺めることもできる。せっかくだ、行ってやろうじゃないか。わたしはそう思って階段を下り、滝の真正面にある舞台へと向かった。
 そこは圧巻そのものだった。水が吹き付け、シャツも眼鏡もズボンもずぶぬれになった。風が吹き付け、滝の威力を物語る。わたしはただただそこに立って、水が落ちるのを見ていた。

 その後公園で寝そべったり、滝を吊り橋から見下ろしてみたりして時間をつぶし、正午頃にわたしは再びケベックシティの旧市街へと戻った。時間が時間なだけあって、町には活気が生まれていた。なかでも「サンジョン通り」はすごかった。歩行者天国になっており、ストリートミュージシャンがそこら中で演奏をしている。店のテラスには観光客やら何やらが座ってビールを飲み、にぎわっていた。先ほどまでは自然に包まれていたが、いまや、人々の活気に包まれている。そんなことを思いながらわたしは、レバノン料理屋で肉団子のピタパンサンドを買い、ストリートミュージシャンの演奏を聴くことにした。
 ちょうどレバノン料理屋の前で、髭のおっさんが歌っていた。手にはトランペットをもち、たまにこれを吹き鳴らす。歌っている曲は、「プリティウーマン」など往年のヒットナンバー。おっさんの周りにはひときわ人垣ができていた。わたしは他の観客たちとともに道路に座り、おっさんの渋いけれど美しい歌声を聴いていた。最悪のスタートだったのに、今や最高の昼を迎えている。天気も快晴(モントリオールではそのとき雨が降っていたという)、本当に最高だった。

 そのあとは、何をしたわけでもない。シャンプラン像のある広場でぼーっとしながら大道芸を見たり、シタデルという昔の城塞の周りを散歩したり、絵画や写真の蚤の市を見て回ったり、ケベックシティの午後を満喫していた。バスは六時半に出発だったから、早めの夕食をとらねばならない。そのための店探しもしていた。折角ケベックシティに独りでやってきたのだから、なにかうまいものが食いたい。そう考えた時に、ふと、あのロウワータウンにならいい店があるんじゃないか、と思った。
 そこで、わたしはロウワータウンへと戻ってみた。とはいえ、戻ったのはレストランに入るデッドラインと心に決めていた五時より全然早かったので、とりあえず散策することにした。ロウワータウンも、この時間になるとずいぶんと活気が出てきていた。ビールを出している店も盛況だったし、教会の前には人だかりができていて、何やら結婚式のようなものをしていた。
 歩いていると、突如として市場を発見した。旧市街から一歩外に出たところにある、「ヴューポール市場(古い港市場)」である。市場を見つけたからには、入らざるを得ない。市場には人の生活があり、人の生活があるところほど、エキサイティングなところはない。何も買わなくとも、ただ見て回るだけで楽しいのだ。
 市場は、規模はあまり大きくないが、果物や魚介でいっぱいだった。ふと、ここでならフランス語が使えるのではないか、と思ったわたしは、スパイス専門店のようなものに入って水を一本買うことにした。実は行きに水を買っておらず、三時間水なしはかなりつらかった、という理由もある。
 ケベックシティでは、あまりアジア人がいないのか、すぐに観光客だとばれる。だから、フランス語を使っても英語で返されることが多かった。商店の人にフランス語で話しかけると、少々驚きの表情をされたが、がんばってフランス語で通してみた。そうすると、なんとなく歓迎の表情を浮かべてくれた。やはり相手の言葉を使うというのは大事なのかもしれない。

 そんなこんなで時間も時間となり、わたしは一番人気がありそうなレストランに入った。店長のひげ面のおじいさんは鼻歌を歌いながら作業をしていて、見るからに楽しそうだ。わたしは、鴨肉のコンフィと、ケベック産のロゼワインを頼んだ。かなり混雑しているのに、食事が出てくるのは速かった。ロゼワインはなぜか、白ワインに変わっていたが、独特の癖があっておいしかった。鴨肉の方はと言うと、ありえないくらい柔らかく、非常にうまかった。パリで食べたかもがものすごく固かったので、実はあまり期待していなかったのだが、ここの料理はかなりうまかった。やはり、どうやら人がたくさん入っている店を選ぶことが大事なようである。またひとつ、大切なことを学んだ。そしてなにより、うまかった。

 

 かくしてケベックシティ一人旅は終了した。またバスに乗り、三時間かけてモントリオールへと帰還した。途中豪雨が降り始めた時には、どうしたものかと思ったが、モントリオールに帰る頃には小雨になっていた。だから傘を忘れていたものの、その辺はことなきを得たのだった。

Farewell, My....

すべてのものには始まりがあって終わりがある。某国民的アイドルグループが解散を発表し、今年もオリンピックが幕を下ろしたように。永遠に続くものなどはなにもない。全ては始まり、そして終わりへと向かって行く。それを私たちは黙って受け入れるしかない。

三日前。三週間に及んだモントリオールでの語学研修が終わった。「三週間」という期間は初めは長いように思えたが、過ごしてみると一瞬のようだった。光陰矢の如し、とことわざにはあるけれど、ここまで早いなんて誰も想像していなかったに違いない。

それにしても初めてだったことは、あの語学研修に参加していた人々のほとんどが「帰りたくない」と言っていたことだった。というのも、去年学科のメンバーでヨーロッパに行った時は、「やっと帰れる!」という声が大半だったからである。思えば四年前に行った英国の語学研修でも、「帰りたい!」という人が多かった。そんな帰りたい人々の中にあって、わたしは一人、「ああ、帰りたくない」と言っていたものだった。だが今回は違う。ほとんどみんなが「帰りたくない」と言っていた。「フェアウェルパーティー」という最終日の送別会では涙する人も少なくなかったほどである。

それは、ある意味当然だったのかもしれない。それほどにあの語学研修はいい意味で濃厚だった。予定が詰め込まれて忙しかったが、いい忙しさだったような気がする。

一週間目は、このブログにもその様子を少しばかり書いたと思う。わたしは基本単独行動で、モントリオールの街を歩き回っていた。山の方へ登り、コンビニ(デパヌールという個人商店)で水やビールを買い、夜の旧市街に繰り出し、南米フェスで盛り上がった。週末には、語学研修の仲間たちとカナダの首都オタワへと小旅行に行った。オタワはトロントモントリオールに比べて地味なイメージがあったが、意外な都会感に驚いたものだった。

二週間目は風のように過ぎていった。CBC、いうなれば「カナダ放送協会(NHKみたいなやつ)」で放送体験をしたり、手巻き寿司をみんなで食ったり、色々と予定がてんこ盛りだったのだ。だがどれも楽しかったと思う。そしてこの週の終わりは、「”大都市”トロントと”魅惑の”ナイアガラの滝の旅」、「”雄大な”カナダの大自然体験」、「カナダ人宅訪問、ホームステイ体験」、そして「レジデンスにそのまま滞在」の四つのグループに分かれてそれぞれアクティビティーをした。あいにくの天気と諸々の事情により「”雄大な”カナダの大自然体験」はあまり芳しくない結果に終わったようだったが、それぞれがそれぞれの週末を楽しんだようだった。わたしは、というと、レジデンスにそのまま滞在した。といっても、引きこもったわけではない。単身、ケベック州の州都ケベックシティーへと日帰りで乗り込んだのである。その模様はまたいつか書くとしよう。だが、最高の体験だったと言える。初めての長距離バス旅行だったし、成り行きで滝も見れたし、なによりうまい鴨料理にありつけた。

三週間目の印象は、「練習」の2文字だった。先ほども少し触れたが、出発の1日前に「フェアウェルパーティー」という送別会が開かれる予定になっていたのだが、そこで出し物をしなければいけない。だから、そのための練習をしていたというわけだ。出し物はレジデンスの階ごとに決められたグループ単位で行われる。わたしのいたグループはなぜだか妙に仲が良く、出し物も一週間目の終わりくらいには決まっていた。そして、練習は二週間目から始まっていたと思う。私たちの出し物はダンスと歌だったが、みんなダンスや歌が好きだった。だからある程度二週間目で練習が落ち着いていたものの、みんな進んで三週間目にも練習をしていたのだ。みんなで何かを作るというのはとても面白い。不思議な結束力が生まれる。初めから不思議な結束力で結びつけられていた私たちのグループは、さらに結束力が強まり、「帰りたくない」という気持ちはますます強まっていた。

そして、フェアウェルパーティーである。わたしは本番でダンス(足の位置を間違えた)も歌(なぜだか音程が外れた)も失敗してしまったが、最後のあのやりきった感じは忘れられない。歌が終わった時にはもう、みんなが家族のようであった。みんな数年来の親しい仲間みたいだった。フェアウェルパーティー自体も素晴らしかった。みんなが着飾り、それぞれのショーをする。あの空気感はなんとも言えない良さがあったし、ついにここまで来たという気持ちがあった。だが、その一方でこれで終わる、という実感は沸かなかった。このまままた新しい週が始まるような気もどこかでしていた。だが、そうはいかなかった。そう、すべてのものには始まりがあって終わりがある。終わりがなければ始まりもないし、始まりがあれば終わりがあるのだ。

そうして今に至る。

あの日から三日が経った。

時々寂しくなる。それはあの仲間たちにしばらく会えないから、という理由だけではないかもしれない。それはむしろ、あの生き生きとした現実だったものが、いつの間にか一夜の夢のように感じられてしまうことが寂しいからかもしれない。わたしは確かにモントリオールにいた。そしてあそこでいろいろなことをし、考えた。だがそんな日々は、日本に帰ってくると、いつの間にか夢のようになってしまう。あまりにいろいろなことがあったからだろうか、まるで現実感がなくなってしまうのだ。

思えば、あそこでやり残したこともたくさんあった。三週間は長いと思っていたから、次がある、次がある、といろいろなことを先送りにしていた。お気に入りだった公園にも二回行ったっきりだったし、公園のそばでスモークミートを食べることもなかった。旧市街でディナーも食べなかったし、その他にもいろいろなことをやり逃したように記憶している。そんなやり逃したことも、今ではもうできない。もうあの、夢の世界には戻れない。そう思うと、ため息が出る。

心残りのない旅はないし、いつしか心の中で現実味のない夢のようなものなってしまわない旅もない。それはどこかに行くたびに思い知らされる。帰ってくるたびにそれを思い寂しい気持ちになる。そろそろ慣れてもいいはずなのに、それでもわたしはいつもそんな気分になる。

だからかもしれない。わたしがこれからも旅に出るのは。旅を夢にしてしまわないために、そして心残りをただの後悔で終わらせないために。過去を未来へとつなぐために。

だからこそ、あの仲間たちにもまた会いたい。そうすればあの日々はまた蘇るような気がするのだ。そして、あの楽しかった日々は、未来の楽しい日々に生まれ変わる。

そんなことを思いながら、わたしは次の旅の計画でも立てようかと思う。次はアジア圏だろうか。ヴェトナム再訪、あるいは中国文化圏も悪くない、だがロシア旅行も捨てきれない、悩ましい限りである……

一人歩きの夜

みんなでしゃべったりしながら、いろいろなところに行くのは楽しいことだ。ふざけてみたり、笑ったり、色々と話したり、なかなか楽しい。わたしは喋るのが好きだし、わりと寂しがり屋だからだ。

だが、個人行動ほど楽しいものもない。一人宿舎を抜け出し、喧騒の街へと繰り出す。この、よくわからない背徳感と、そして自立感がたまらない。作家の沢木耕太郎は、一人でいると自分に話しかけるしかないから、内へ内へと行く旅ができる、と言っていた。まさにそのような感じで、一人で街へ出ると、なんだろう、ものすごく充実した気分になるのである。

数日前のこと、夕飯の後の時間は自由だと言われて、わたしは困り果てた。ブログでもかくか、それともポケモンでも捕まえるか。だが、それはなんだかもったいない気がした。そこでわたしは思い切って、夜のモントリオールへと向かうことにしたのだ。

一人では絶対に出るな、と言われていたので、わたしは同室のイタリア人を誘った。だが彼の答えはツレなかった。疲れたから寝る、というのである。こうなったら、ぜひに及ばず。わたしは一人ホテルを抜け出し、とにかく外に出たのだった。

プランなんてものは、全くない。だからわたしは何か思いつくのを待ちつつ歩いた。そうするとアイデアがわたしの頭に降ってきた。「川へ行こう。この前は遠いような気がして諦めてしまったけど、さっき調べたら以外と旧市街から近かったじゃないか。なら行ってみよう。今から夕暮れになる。きっときれいだろう」

そういうわけでわたしは川へと針路を切り替えた。モントリオールの川は、サンローラン川という。旧市街を超えたところにあって、前回の散策では諦めて引き返してしまったのだった。ぜひ川は見たい。なぜなら、ホーチミンでも、バンコクでも、ホイアンでも、わたしは川のほとりがいいなと思っていたからである。わたしは途中で「世界の女王マリア教会」なる大仰な名前の教会(ビジネス街のど真ん中にある、ドームの教会だった。バチカンの「サンピエトロ大聖堂」のレプリカらしい)に寄ったりしつつ、旧市街へと入った。この前入ったところとは違って、こじんまりとしたビストロがならび、夕日が映えている。ノスタルジックな石造りの通りをしばらく歩くと、川のそばの公園に出た。そこは、現在も幾つかの船が止められている場所だった。そのためか、大声でしゃべっているガタイのいいあんちゃんたち、ポケモンを捕まえるガタイのいい兄ちゃんたちがワイワイとやっていて、お世辞にもあまりいい雰囲気とは言えない。また、川のそばには、1センチ大の白い羽虫が盛んに飛んでいて、少しばかり気色が悪かった。しかししばらく歩くと、その虫も消え、雰囲気も変わってきた。どうやら観光地的な場所に出たようだった。

そこには幾つかの露店が並び、賑わっていた。ちょうど夕暮れ時(といっても21時である)で、オレンジ色の空が旧市街と川を照らしていた。黄昏時の風がスーッと吹き、にぎやかな音が聞こえてくる。わたしは夕食をしっかりと食べてしまったことに後悔した。なぜなら、サンドイッチやら何やらを食わせている屋台が幾つかあったからである。それを知っていれば、もっと軽く済ませていたものを!だが仕方がない。わたしはとりあえず歩くことにした。屋台街のそばにはアスレチックパークがあって、その奥には高い塔がある。そこからライトアップされたワイヤーが川の向こう岸までずーっと続いており、そのワイヤーを滑車で、ターザンのようにシャーっと降下してゆく遊びをやっていた。とてもやりたかったが、どうも一人でやるのは侘しい。そう思ってわたしはまた屋台街をほっつき歩きながら、夕日に向かって帰途に着いたのだった。

そういえば今日も個人行動をした。

まず午前中、時間が空いたので、初日に行った「サンルイ公園」へと言った。そのそばのサンローラン通りは、旧市街とは全く違う良さがあった。あそこには人が生きている。普通の人が普通に買い物をして、何かを食っている。そんな面白さがあった。平凡な街ながらも、モントリオールの人々の暮らしが覗ける場所だった。また文化の十字路でもある。イタリア語の看板、スペイン語の看板、ポルトガル語の看板、そしてヘブライ語の看板。日本語もあったし、中国語もある。モントリオールは多文化の街だ。だが旧市街やダウンタウンにいる限りそれは見えない。だがここではそれを感じられた。移民問題などで、文化の交流なんて夢物語だという人もいるだろう。だが、文化は確かに交流している。入り乱れ、変容し、そしてエキサイティングでダイナミックな街となって生きている。それを肌で感じられた。ぜひユダヤ料理の店に入りたかったが、今日は昼食に約束があったので、入るのはやめておいた。そしてサンルイ公園でぼーっとしたり、本を読んだりと、一時間以上時間を潰したのだった。

午後のアクティビティの後、わたしは洗濯をし、その出来上がりを待つ間、水を買いに出た。ここ数日で顔なじみになっていたコンビニのおっさんが、「モントリオールの冬は寒くて長い。だから夏になるとみんなクレイジーになるんだ」といっていた(蛇足になるがこのおっさんとのトークにはもう一つエピソードがある。旧市街と川の散策の後、いい気分になってビールを買ったら「歳はいくつだ?」と聞かれたので、「20だよ」と答えたのだが、なぜか今回も聞いてくる。しかも今回は水しか買っていないのである。「20だよ」というと、「ちょうど20なのか?」と聞いてくる。「ああ」といえば、「ふうん、本当かなあ」という。なぜか信頼してもらえない。多分若く見えるのだろう)。それで思い出した。宿泊先のそばで、先住民の祭りをやっているらしい、ということを。そこでわたしは洗濯をすっかりほったらかしにして祭りへと向かった。先住民は一瞬しか登場せず、「南米フェス」の方がメインだったが、南米のビートに飲まれて非常に楽しかった。

そしていい気持ちになって帰ってきて、今に至るというわけだ。

明日は6:00に朝食だという。全くもって早い。というのも、カナダの首都オタワへの旅が待っているからだ。オタワではどんなことが待ち受けているんだろう。そう思いながら、そろそろ寝ることにしようと思う。

丘の上に立つ

ケベックモントリオール滞在五日目。

モントリオールは快晴である。青い空、白い雲、とはまさにこのこと。太陽の光が道を歩く私たちにググッと差し込んでくる。多少蒸してはいるが、過ごしやすい。ここの気候は気持ちのいい5月を連想させる。

今日、わたしは山に登った。山、というのは「モントリオール」すなわち「王の山(モンレアル)」の名の由来にもなった「モン・ロワイヤル」である。だが、日本人の感覚ではあれは山ではなく、どちらかといえば「丘」と言った方が正しい。大きな丘、である。この大きな丘にはクラスのメンバーで行ったのだが、やはり丘だけあって、たいして体力を奪われることはなかった。もちろん多少の汗はかいたが、足はまだ全然元気である。

モントリオールという街は、この「大きな丘」を中心に成り立っている。

まずど真ん中に「モン・ロワイヤル」があって、そこを起点に場所を把握できる。モンロアイヤルの南東にはダウンタウンと高級ホテル&ブティック街、さらに南東に行けば中華街と旧市街があって、その奥には「サンローランス川」という馬鹿でかい川がある。北東に行くと、サンルイ公園という落ち着いた公園があり、静かで穏やかな空気に包まれている。モン・ロワイヤルの西側には、巨大な墓地があり、その奥にはモントリオール大学があるらしい。また、ユダヤ人街もこのゾーンに存在する。西側はまだ行ったことがない。というのは、わたしが滞在しているのは山の東側であり、西側とは少しばかり交通が遮断されている感があるからだ。ぜひ、これから開拓していこうと思う。

さて、そんなモントリオールのど真ん中にあるだけあって、山の頂上に立てば、街を一望することができた。西側には開けていなかったので、東側の、滞在している場所や、通っている学校、そして何度も散歩したダウンタウンが上から見えた。それはまさに圧巻だった。それはきっと、モン・ロワイヤルが、山ではなくて「大きな丘」だったおかげだろう。高すぎるとまるで街はおもちゃのように見えるが、モンロワイヤルからは、ビル群が自分の目の位置に存在していた。その光景はもう、まるで飛んでいるような、そういうなれば自分がドローンに乗っている気分であり、なかなか壮大だった。

そしておもしろかったことがもう一つある。散歩をしていると、非常に大きな街で、川はずいぶん遠くに流れていると思っていたのだが、このモンロワイヤルから見ると、実はモントリオールは小さな街なのだ。全てがほんの小さな区画に収まっている。川の向こうには、自然が見える。山が二つほどあって、遠くの方は霞んで見えない。これが、アメリカ大陸なのか。そう、ふと思った。