Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

残すということ

日本のとある城が修復されるという1つの「事件」があった。その城はかつて白鷺城と呼ばれ、その修復事業はその元のままの白い色を再現しようとして行われたのだった。そしてそれはうまく行き、その城は今や白い白になっている。光りかがやかんばかりの白色に、である。

 

もう数日前のことになるが、私はカンボジアのアンコール遺跡を訪れた。初めは自転車で行こうとしていたがトゥクトゥクと呼ばれるバイクに乗客を乗せる荷車をつけた乗り物の運転手にしつこく勧誘され、根負けしてトゥクトゥクを使った。結果としては正解だったと思う。トータルで二人で2000円だったし、あの広大な遺跡群を案内なしに回れるはずもない。

アンコール遺跡の一帯を首都としたアンコール王朝は日本でいう鎌倉時代から室町時代ごろまで、ヨーロッパでいう十字軍の時代から百年戦争の終わりくらいまで、中国でいう宋代から明代初期まで栄えた王朝である。要するに、長い間東南アジア世界に君臨していたということだ。その勢いはヴェトナム南部を制圧し、タイ東北部とラオスを領有するほどだった。だが、この王朝も他の王朝と同じく、滅びてしまう。壮大な建築事業や果てし無い政争の末に、変わって力を持ったタイのアユタヤ王朝による侵略を許し、アンコール王朝は首都であるアンコールを放棄する。それからカンボジアはタイ、ヴェトナム、そして19世紀に入ってからはフランスによる支配のもとに入ることになる。

そんなアンコール遺跡の中でも有名なのが何と言ってもアンコールワットだろう。巨大であり、かつ精密。ここにそのようなものを作ってしまうような文明があった、それだけでも感動に値する。

だが、私はそのことよりもむしろ「ありのまま」の姿がそこにあることに心揺さぶられた。というのも、ここの遺跡は、無論後世の人の手は加わってはいるものの、冒頭で紹介した白鷺城とは対照的に、そのままの姿なのである。特にバイヨンなどの、アンコール王朝の首都であるアンコールトムに点在する遺跡群は、アンコールワットと比べても「打ち捨てられた」という過去を背負ったような、どことなく哀愁を抱えていた。そしてそれと同時に人間の作った壮麗な文明の賜物である遺跡が、自然との一体化を見せてすらいた。祠に入ると頭上ではそこをすみ方する鳥が鳴き、橋の上にはニホンザルに似た姿の猿が座っている。遺跡の奥まった場所に座って、少し目を閉じてみると、まるで文明などそこにはなく、単にジャングルがそこにあるだけかのようだった。

自然だけではない。「今」という時間がアンコール遺跡では「過去」と1つになっていた。人々は石の上に座り、石段をよじ登るようにして登って行く。遺跡の保存という観点からは由々しき事態である。だが、そこには過去と今の交差点があるように見えた。

時は流れて行く。だから全ては移り変わる。かつて栄えた文明は、木々に覆われて朽ち果てて行く。だが完全になくなるまでにはまだ時間がある。保存とはその時間を伸ばすことだ。間違っても過去を取り戻す事ではないと私は思う。アンコール遺跡は単に政治的理由などから保護することができなかっただけなのかもしれない。だけどそれが結果として、白鷺城などよりもずっと良いものを残しているような気がする。

 f:id:LeFlaneur:20170213103429j:image

 

同じことを私は三日前にヴェトナムのフエという街でも見た。そこは十九世紀に成立した阮朝の首都があったという。ちょうど雨季だったようで(中部だけ雨季だという。ガイドブックにも書かれていなかったし、奇妙なことだとは思ったが、フエの運転手も、電車で出会ったフエの人も同じようなことを言っていたので、これは間違いないのだろう。ガイドブックが正しいってわけではない)、初日はろくに観光もできず、挙げ句の果てにシクロ(自転車力車)にぼったくられかけ、服もびちょびちょで大変だったわけだが、二日目には雨も小ぶりとなってようやくかつての宮殿跡に入ることができた。

宮殿の入場料をごまかされるというセンセーショナルな事件があったが、まあそれはさておき、宮殿の中には穏やかな風が吹いていた。陳腐でなんの面白みもない表現をするなら、悠久の時が流れているかのようである。入場料は千円したし、観光化されてはいるのだが、中は公園のようになっていた、自由に歩き回れる。ヴェトナム戦争中に受けた空爆で大破した跡地、そんなことなど我関せずというようにどっしりと構える邸宅などが軒を連ね、それは決して、見せるためにあるのではなかった。あるから、ある。国は滅びても、失わぬ誇りというものなのだろうか。

ツアーのガイドも良かったのだろう。旗を振って大勢にわーっと話すというよりも小規模のグループに話しかけているように説明をしていた。決して、どうだ、すごいだろう、という風ではなく、まるで物語を語るように静かに語りかけていた。

だからだろう。フエでは過去と現在がやはり1つになっていたのだ。一通り回っても、時間が許すならもう少しここにいたいと思わせる何かがあった。

f:id:LeFlaneur:20170213103507j:image

 

時の流れを断絶させずに、保存する。それは難しいことだろう。特に日本人はそれが苦手なように思う。京都や奈良にはそう言った空気感がなくはないが、日本の普通の街並みを見て見ると、やはり断絶の上にあるように思う。だからだろう。日本では保存よりも再現が流行る。新しく立て直す方に良さを感じる。片手の色を取り戻すなどと言った事業をよく聞く。それもまた面白くはあるが、過ぎ去って行った時の流れを今のものとして伝えることはできないのだ。

だが、現代もいつかは古代になる。アンコール遺跡には1800年代の落書きが残っていた。落書きすらも時の流れを背負えるのだ。いつかコクーンタワーやスカイツリーが保存されてくれることを望みたい。

おやじ〜続・プノンペンにて〜

プノンペンにきて二日目、私たちは朝早くにバスに乗り込んで、6時間ほどでアンコール遺跡のあるシェムリアップへと向かうことになっていた。朝食をどこで買おうかと、とりあえずホステルの人に聞いてみるも、満足な答えは帰って来ず、私たちは昨晩見つけたマーケットのようなところに行ってみた。

すると、やたらとたくさんの人が入ったガレージのような店が目に入った。とりあえず入ってみようか、と私たちは店員に何とかして意思を伝えようと、身振り手振りとスマイルも使って何らかの麺料理を頼んだ。

しばらくすると、何処と無くフォーに似た麺料理が運ばれてきた。何肉かはわからないが、とにかく旨みのたっぷりな肉、ハーブ、もやしが一緒になっただしのきいたスープに、米製の麺と、ガーリックで焼いたナッツやネギが入る。これがなかなか旨いのだ。

しばらく食っていると、店員が小皿に魚醤と唐辛子を入れて運んできて、私たちの前にポーンと置いた。それからクメール語ににやら伝えてきた。が、わからない。わからないぞオーラを出していたら、店員は「話になんねぇ」と奥の方から一人の「おやじ」を連れてきた。

するとおやじは肉を箸で掴み、魚醤につけた。なるほど、刺身のように魚醤につけて食べるなか。私たちはすぐにその真似をした。なかなかいける。

おやじは英語を使ってそのソースについて語り始める。曰く、そのソースは市場から買ってきたオリジナルなものであり、配合はおやじの家に伝わる伝統的なものらしい。そしてずっとそこでこの「おやじ麺」を売っているという。そして、新しい客がくるたびにおやじは食べ方を指南しているらしい。

おやじはさらにいう。俺は日本に行ってみたい、と。だが、地震が怖いのだという。そこから、海外の人の日本に対する1つのイメージが垣間見えたような気がした。

それはともかく、その店の客のごった返し方は、店主のおやじが丁寧に食べ方を指南してきた結果でもあるだろう。だがもちろんそれだけではなく、あそこの麺はうまかった。もしかくるとうまさというのは、舌だけで感じられるものではないのかもしれない。

おやじ 〜プノンペンにて〜

それは、カンボジアの首都プノンペンの名前の由来ともなったワットプノムという寺院から伸びるだだっ広い道を一本入ったところにあった。その店では、エプロンをした「おやじ」がひたすらに屋台に陳列された肉やらつくねやらを串に刺しては少々怪しげな緑がかった灰色の汁で煮込んでいる。お客はやってくるとそのおやじの作業を手伝いながら注文し、時にはおやじの10歳くらいの娘さんが一人前の顔をして手伝っていることもある。

ビールをつまみと一緒にやれるところはないかと探していたら、偶然この「おやじ」の屋台にたどり着いた。そこは閑静な場所で、カンボジア名物の「トゥクトゥク」と呼ばれるバイクが引く人力車のような乗り物の勧誘もない(カンボジアの町、特にシェムリアップに足を踏み入れるや否や「Tuk Tuk, sir!」とドライバー達が声をかけてくる。それがない界隈というのはずいぶん珍しいのだ)。おやじはただ一人、黒いエプロンをイクメンのごとくぶら下げて、ひたすらに串焼きになった食べ物をなる作業をしていた。私はとりあえず、目に入ったイカのような形のものを指して、オーダーした。ビールはあるかいと聞くと、ない、という。隣の店で買ってきてくれ、だそうだ。

 

その日、2月1日はカンボジア滞在の初日であった。今回は友人一人との旅路である。到着が夕方であったので、私たちはドミトリーに荷物を置いたら、夕食を探しがてら、ぶらぶらし始めた。ワットプノムという寺院にも行った。そこでは不思議な、ディープな信仰と出会ったのだが、それはまた今度書くとしよう。

公園のそばでチキンラーメン風の面に何処と無くおでんのような具が入っただしたっぷりのスープをかけたものを食べ、私たちはいよいよ中央市場へと入る。焼き鳥、なます、ドリアンやら何やらがごちゃ混ぜになったジュースを飲んだ後で、やはりここにきたからにはここの酒が飲みたいという話になった。とはいえ私たちはもう満腹、一方のお時間はというとまだ8時を回っておらず、どこかで飲むべしと時が告げているようだった。

さて、「おやじ」である。友人にビールを買ってきてもらうと、前菜のハーブ類ときゅうりとなますを「おやじ」が持ってきた。どうやらソースにディップして食べるらしい。ハーブときゅうりとなますを一気にディップさせるとよりうまかった。ハーブは見た感じはそこら辺の葉っぱみたいなのだが、何かと一緒に食べると不思議な旨味を出してくる。香りが独特で、草らしさもあり、硬いって食えないきつさではなく、強いていうなら、いい意味でワイルド、である。

しばらくして、イカのようなものが茹で上がったらしく、出てきた。ところがそれはイカではなかったのだ。日本で言うところの「鶏皮」に肉もくっついたものだった。独特のコリっとした歯ごたえと肉の旨みがうまく合わさっていた。後味が酸っぱい「アンコールビール」を飲みつつ、「おやじの鶏皮」をかじる。店内は客でいっぱいだ。忙しく駆け回るおやじの娘さんに、おやじに声をかけてはその作業を手伝いながら料理を待つ近所の人々。それはまるで一昔前の光景のようだった。きっとそれはどこの国にもあったであろう、古き良き時代の香りだったのだ。

すると新たな「客」がやってきた。それは物乞いの人である。私たちがいるテーブルにもやってきた、手を合わせながらクメール語で何やら呟く彼に、私たちは動じてしまい、何もできず、ただただ目を合わせまいとしてしまった。他の人たちも同じであった。きっとこの国には結構な数いるのだろう。だが、「おやじ」だけは違った。彼は、手を合わせる男に対して、串焼きを一本取り出し、渡した。私は黙って鶏皮を食べた。ベンヤミンという哲学者は、人のために何かをした人を見た何もしなかった傍観者は、その人によって裁かれると言った。その意味で、私たちは「おやじ」に裁かれたのだった。

別れ際、お代の2ドルを支払い、「オークン(ありがとう)」と一言かけると、おやじはまるで私たちが数年来の客のように肩をポンポンと叩いた。また、ここに来たい、そう思った。

 

結局私たちはおやじの店にもう一度行くことは叶わなかった。そのあたりについてもまたいつか話せたら良いと思っている。だが、その理由は私にとって現在進行形の理由であり、そして私たちは今日、東へと向かう飛行機に乗り、ヴェトナムはハノイに入ろうと(ヴェトナム語の表現では、「ハノイに出る」というのだが)思っている。そんなナウな話はかけない。そんなわけで、次はカンボジアで出会ったもう一人の「おやじ」の話でもしようかなと思っている次第である。

Money, Money, Money

数日前のことだが、NHKの「美の壺」という番組を見ていた。

この番組は、色々な芸術品、あるいは民芸とでも言えるような実生活に使われているようなものに焦点を当て、木村多江のしっとりとしたナレーションと、時々草刈正雄のコミカルな演技を交えつつ、その隠れた美をスタイリッシュなジャズをバックで流しながら明らかにしてゆく番組である。テレビをつけっぱなしにしていると、11時くらいから突然始まることがあるので、わたしはたまにこの番組を見ている。

前回は「ぽち袋」がテーマだった。お年玉を入れるぽち袋に秘められた粋と心遣い。確かに今まで何も考えてこなかったが、あのようなものは海外では見ないし、結構あそこに凝った絵が描かれていることもあったと思う。番組によるとその歴史はまだ浅く、明治時代からだという。当時よく描かれていたのは、浮世絵だそうで、それをただ描くのではなく、ピンポイントで一部だけを描くことで、そこに「粋」な美しさを表現したという。

 

その番組を見ている時に、ふと思い出した。それはお金についての話だ。

その番組を見る数日前、英語をバイト先で教えている時のことだった。「How」を使って色々な疑問文を作るという授業だったと思う。そこで英語で「いくらですか?」を意味する「How much」を扱ったのだが、ふと、これって「お金」という言葉が入っていないなと気付いたのだ。

muchというとご存知、「不可算名詞」の量を表す言葉だ。不可算名詞、つまり数えられない名詞というのは、「水」などが代表的だが、個数を数えられない、流動的なものだったり、切り分けてゆくものだったりすることが多いが、不思議なことに英語では、「お金」もまた数えられない名詞という扱いになる。だからこそ、お金がどれくらいか聞く時に、「How much」というわけなのだが、これでは、水の量がどれ位か聞きたい時にも「How much」と聴けるんじゃないかと思ったのだ。だが実際はそうではない。「How much」といえばお金のことであり、水の量を聞くには「How much water」と聞かねばならない。一方でお金を「How much money」と聞くことはまずないだろう。

同じことが日本語でも起きている。

「いくらですか?」というのは、文をそのままとるのなら、単に量を聞いているにすぎない。だから、「東京から京都までいくらですか」と聞いて、「500km」と答えても、「新幹線で大体2時間」と答えてもいいことになる。だが実際には、「8000円」という答えだけが期待されているのだ。「いくら」と言っただけで、なぜだか、金のことを聞いていることになるのである。

はてさて他の国の言葉となると、フランス語では「C'est combien?」で、やはりお金という言葉は一言も発していない。ヴェトナム語では、「Cái này bao nhiêu tiền?」といって、「tiền」がお金を意味しているが、これは省略ができる。ドイツ語の「Wie viel kostet das?」は、「いくらかかる?」という意味であり、こちらもお金という言葉は発していないのである。アラビア語では、「ビ・カム・ハーザー(بكم هذا)」といい、「カム」が「いくら」で、「ビ」が「〜で」、「ハーザー」が「これ」であり、こちらも「お金(ナクドゥンなど)」は言わない。

これは一体どういうことなんだろう?

大して根拠があるわけではないが、それは「お金」にどこか「ケガレ」の要素を感じ取っているからではないか。「お金」という言葉には、どこか汚さが漂う。「カネと政治」というとスキャンダルを意味するし、「金がものを言う」といえば、あまりよくない社会状態を示す。金は人類の大きな発明品だが、金によって苦しめられる人もいるし、金によって人間としての道を踏み外す人もいる。金はどこか、「必要悪」であって、「汚れたもの」であって、あまり口にするのは憚られるのではないだろうか。だからこそ、日本における親指と人差し指をくっつける仕草とか、海外の親指と人差し指をこすり合わせる仕草が生まれたのではないだろうか。そして、もっと身近なところでも、先輩が後輩に、「じゃあ……今日は1でいいよ」ということを言う。これは「1000円」という意味だが、なぜか、「000円」の部分を省略する。「円」という言葉の生々しさを避けようとするが故の言葉ではないだろうか。「1000円でいいよ」というふうに露骨に言うのはあまり好まれず、「1」という。ここにもまた、人間とお金の面白い関係があるような気がする。

金に「ケガレ」のイメージがあるのとともに、金は、人間にとって本当に大事なものを与えてはくれないという事実も、きっと私たちの中にはっきりと存在する。ビートルズは「Can't buy me love」と歌った。だがそれでも、ビートルズは他の歌で「Money... that's what I want!」とも歌う。それだけ金は複雑なものなのである。

 

そう考えると、である。

日本の「ぽち袋」とか「お年玉」は非常に面白いものだ。というのも、「ケガレ」であり、「即物的」なものであり、「必要悪」であるはずの「お金」が、別の価値を持って現れるからだ。

ぽち袋のぽちは、「これっぽっち」の「ぽち」だという。「少ないですけど(これっぽっちですけど)気持ちです」と渡すときの、「これっぽっち」である。面白いことに日本語では、「お金」を、正反対であるはずの「気持ち」と表現してみせる。そしてその「気持ち」を新年にあげるのが「お年玉」だ。どうしてなのだろう? その理由はわからないが、この極東の島国では、「カネ」が「気持ち」に変わる、という事実だけは確かである。あえて、口に出すのは憚られる存在を、すごく尊い存在として語るのだ。

「お金」にも「気持ち」が込められる。そういう発見があったのかもしれない。思えばお金をプレゼントするというのは一見珍しく見える。だが中華文化圏では、割とお金が大事にされているという。その影響を受けたヴェトナムで、でっかい銭型のSONYの看板を見たことがある。また、台湾では何かの儀式で擬似の札束を燃やしていた。そう思うと、実は、お金を良いものとして扱うのも、珍しくはないのだろうか。

だが一つ言えることがある。

金には罪がないのだ。その使い方、その捉え方に「善」や「悪」が宿るのである。「気持ち」を金では買えないが、金は「気持ち」の表現形態とはなる。それは「気持ち」を買うことではなく、金が「気持ち」になることである。そして金の使い方にこざっぱりしたものや、美を見出せば、「粋だねェ」とすら言われるのだ。そして、「コイン」愛好家なんてのもいる。金自体が、芸術になりうる。そう考えると「お金」はとても面白い。

 

‥‥‥と色々と理屈をこねている間にも、金が溜まっていればなあと思うが、これは「ケガレ」た考え方というものだろうか。

Star Wars

新年初投稿、というわけなので、「あけましておめでとう」と言っておこう。今年もよろしくお願いします。このような駄文の集積のようなブログでも、時間をつぶすくらいの役には立つはずだ。

去年の話になるが、12月18日、「ローグ・ワン」という映画が公開された。映画史上に残る大シリーズ「スター・ウォーズ」のスピンオフにあたる作品だ。一昨年の同じ時期に、「スター・ウォーズ エピソードⅦ フォースの覚醒」が十年の沈黙を破って公開され、その次にあたるエピソードVIIIのいわば「中継ぎ」として公開された作品だったが、正直、私としては、「フォースの覚醒」より「ローグ・ワン」のほうが面白かったと思う。何もこれは独りよがりの意見ではなく、このシリーズをずっと制作し続けてきたジョージ・ルーカスもこの「ローグ・ワン」を認めていて、映画評論家の間でも「シリーズ最高の出来」と言われているという。まあ、シリーズ最高の出来、とまでいってしまうと、今までの「スター・ウォーズ・サーガ(スター・ウォーズ・シリーズのことを普通、サーガと呼ぶ。サーガとは北欧神話を集めた「サガ」から来ており、壮大な神話体系のようなこのシリーズにはふさわしいと思う)」はなんだったんだよ、という話になるので、その言い方は避けたいところだが。

さて、スター・ウォーズである。小学校中学年あたりで少年時代の私はこのシリーズにはまり込み、しばらくの鎮静期間を経て、シリーズ再開とともにまた熱〜くなってきているわけだが、きっとわからない人にはわからないだろう。実際のところ、この映画シリーズを一度も見ていない人には、さっきのくだりも全くわからなかったはずだ。だから、ちょっとばかし、今年2017年に実に四十年目を迎えるこのシリーズの歩みを説明してみたいと思う。

1977年、「地獄の黙示録」のコッポラ監督とも親交があった新進気鋭のジョージ・ルーカスが一つの作品を世に出した。それこそが、「スター・ウォーズ」であり、のちにシリーズ化されると、「スター・ウォーズ 新たなる希望」と名付けられる作品だ。この作品は全世界的に大ヒットし、三年後の1980年には続編「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」が公開された。これもまた大ヒット。時のレーガン政権が、当時仮想敵国だったソヴェートを「悪の帝国」と呼び、アメリカによる宇宙規模の軍事作戦を「スター・ウォーズ計画」とニックネームをつけるほどであった。そして1983年、さらに三年後には三部作の完結編「スター・ウォーズ ジェダイの復讐(のちに改称され、「ジェダイの帰還」になる。こちらで知ってる人の方が多いのではないか)」が公開された。

物語の舞台は「遠い昔、遥か彼方の銀河系(A long time ago, in a galaxy far, far away...)」。時は宇宙を支配する「銀河帝国」と、その強権的な支配体制に異を唱える「反乱軍(同盟軍)」による内戦の真っ只中。辺境の砂漠の惑星に住む青年ルーク・スカイウォーカーは、遠い宇宙へと出て行くことを夢見ていた。そんな彼は偶然、ドロイド(ロボット)のR2-D2とC3-POと出会ったことから、自分が、帝国が宇宙を支配する前に銀河を統治していた「銀河共和国」を守る騎士ジェダイの子供だと知る。父の師匠だったベン・ケノービとともに、ルークは、オルデラン星のレイア・オーガナ姫率いる反乱軍に加わることを決意し、闇の運び屋ハン・ソロとチューバッカの操縦する「ポンコツ」船ミレニアムファルコンに乗り込んで、ルークの父を殺したというダース・ヴェイダー卿率いる帝国軍との戦いに挑んでゆくのだった……とまあ、あらすじを言えばそんな感じである。と言ってもこれは「新たなる希望」のあらすじであり、そのあとあんなことやこんなことが起こる。だがそれいついてここに書いてしまってはつまらないので、是非知らない人は本編を見ていただければと思う。

さて、この三部作(旧サーガ)でこのサーガは完結したと思われていた。だがジョージ・ルーカスはさらに、いかにして帝国が生まれ、いかにしてダース・ヴェイダー卿が帝国の将軍となったのかを描く新しい三部作(新サーガ)を計画していた。そうして公開されたのが、1999年の「スター・ウォーズ/エピソードI:ファントム・メナス」である(一番最初の物語ということでエピソードIである。これにより、「新たなる希望」はエピソードIV、「帝国の逆襲」はエピソードV、「ジェダイの帰還」はエピソードVIとなる)。これは大きな注目を浴び、3年後の2002年に「エピソードII:クローンの攻撃」、さらに3年後(ファンの皆さん、スター・ウォーズの公開年の覚え方は、「三年毎」ですよ。次のエピソードVIIIも結果的にVIIの3年後になりそうですしね)の2005年には完結編「エピソードIII:シスの復讐」と続く。私たち、つまり大学生の世代の人間にとって、「エピソードIII」が多分初めての同時代のスター・ウォーズだと思う。

これで、シリーズ(サーガ)は完結した……わけではなかった。ジョージ・ルーカスの会社のディズニーによる買収などを経て、新たなに「続三部作(続サーガ)」が制作されることが決定(構想自体は80年代からあったという)。その中で、スター・ウォーズ・サーガを扱った非公式の小説などが世の中にあまた出ている現状を打開しようと、「カノン(正史)」として公式のスピンオフ制作も決まったのだった(それ以外は「レジェンズ(非正史)」とされる。まるでカトリック教会による「正統/異端」区分みたいである。それだけシリーズも大きくなったというわけだ)。2015年、「エピソードVII:フォースの覚醒」が公開。これはエピソードVIの30年後を物語の舞台としている。そして去年に、初めての公式スピンオフ「ローグ・ワン」が公開された、というわけだ。こちらはというと、「エピソードIV:新たなる希望」の10分前までを舞台としており、エピソードVIでルーク率いる反乱軍航空部隊が破壊する最強兵器デス・スターの設計図を反乱軍の部隊「(自称)ローグ・ワン」が奪う、という物語だ(ちなみにローグ・ワン、にたいしてローグ・ツーというのも存在する。これは実は「エピソードV」に登場する。此の前見返していて気付いたのだが、1980年公開のエピソードVではローグ・ツー、ローグ・ファイヴなどは出てくる一方、ワンは出てこない。これはいわば伏線の回収なのだ)。

 

ローグ・ワン」が良かったのは、一つはスター・ウォーズ愛に溢れているからだったと思う。

私は特に、スター・ウォーズを見始めたきっかけが「エピソードIV:新たなる希望」(旧三部作)をみたことだったから、その10分前を描いている「ローグ・ワン」にはかなり期待していた。行ってみると、期待通りだった。この物語の結末は、少し考えてみると予想できてしまったのだが、それでも十分だった。特に、旧三部作を思わせる戦闘シーン、兵器、登場人物などが出てきたときには、本当に嬉しかった。そう、嬉しかったのだ。

そういう観点から見ると、「エピソードVII」は少しばかり新しいことを求めすぎていたような気がする。それは、物語の面で、ということではない。形式的なところである。例えば、三部作の中で、一番目の作品では偉大な師を失い、最後は勝利を祝う宴で終わる、二番目の作品では状況が悪化、そんな中で二人の人物の愛が描かれる、三番目の作品はそれぞれの物語の結末が示される……というように進んできた。それは旧サーガも新サーガもである。エピソードVIIでは、この形式が少しいじられ、最後は勝利を歌う宴ではなく、まるで次回予告のような終わり方をしていた。だからなんだ、と言われれば終わりだが、それが少々寂しかったのだ。蛇足のような感もした。正直、終わり方は宴で終わればいいのに、と思った。そして、新しいドロイドとしてエピソードVIIに登場したBB9が、評価する人は結構いたけれど、私はあまり好きではなかった。正直、キャラが他のドロイドと被っている割に、能力では劣る。

もちろん、物語の面では、帝国の再興を求めるカイロ=レンという悪役の思い悩む姿など、今までの悪役にはない、悪の危うさ、というような面が大きく描かれているのは話に深みを出しているようにも思える。ただ、そちらでも、新サーガ(エピソードI〜III)の中で描かれるダース・ヴェイダー卿の誕生の方が、がんじがらめになりながら、もがいている様はこちらにひしひしと感じられてくるものがあった。そこからすると、カイロ=レンなど、ただの反抗期に過ぎないようにも見える。ストーリーはそれなりにいいと思うのに、最後に変なシーンを付け加えてしまったりすることで、別の映画のようになってしまう。もっと上手く描けたんじゃないか、と思う。もっとも、もう一度見てみたら変わるかもしれないが(ちなみに批評家はかなりの評価をしているらしい。それにカナダ人の友達も二回見たと言っていたし、もしや、私が勝手に嫌がっているだけか?)。

一つの要因は、ルーカスが作り上げたスター・ウォーズシリーズなのに、ルーカスの脚本は却下されたということではないか。形式を守る、ということについては、ルーカス自信が「嫌いだ」と言って、否定的だが、やはり本人の脚本の中には、無意識的に、脈々と続くスター・ウォーズの伝統が染み付く。そこにこそやはり、「ああ、これこそがスター・ウォーズだ」というような感覚を生み出させる何かがある。伝統とはそういうものなのだ。そういう意味で「ローグ・ワン」には独特の懐かしさがあった(こちらもルーカスは参加していないが)。エピソードVIIももちろん、ハリソン・フォードキャリー・フィッシャーマーク・ハミル、と旧サーガの面々が出てきてあれは「おぉー」と心踊らされたものだが、やっぱり第一印象としてはまるで別の映画みたいだという感覚が出てしまったのだ。良くも悪くも、あれだけ見てもわかってしまう。まあ、文句をたれる前に、もう一回くらいVIIを見直してみなければならないだろう。

 

スター・ウォーズ」の魅力は、「あそこに行けること」だと思う。ファンファーレが鳴り(ローグ・ワンでは有名なあの歌が流れなくてちょっと寂しかったが‥‥)、前口上が流れると、もう見ているこっちはその世界に入って行ける。それだけ上手くできていて、世界観が完成しているのだ。言語(発音も含めてかなりリアルに出来上がっており、共通語として登場する英語の方も、訛りが反映されている)、種族、惑星、街、哲学(ジェダイは、フォースと呼ばれる宇宙の原理との合一を目指す武士であり、僧侶であり、そして何より哲学者である)……どれを取ってもまるで外国にいるような楽しさを味わせてくれる。歴史の流れもよく研究されていて、銀河共和国が滅亡し、銀河帝国が台頭する流れはまさに、かつての古代ローマ、フランス、ドイツで起きたことを焼き直していている。他のどんなSF映画が、「満場の拍手とともに自由が終わるのね‥‥」などというセリフを入れられるだろうか? この映画は単なるSFではなく、大河であり、ファンタジーであり、ノンフィクションであり、文化であり、伝統であり、思想であり、DVDの再生ボタンを押せば行き着くことができる場所なのだ。そしてそれぞれの登場人物は、それぞれの人生をしっかりと送っている。それぞれが思い悩んでいる。そこに話の厚みがある(もしかすると、エピソードVIIはそこにスポットライトを当てすぎたのかもしれない。厚みも、厚みだけを目指すと、どろりとしてしまう)。かといって、そこばかりではなく、バランスもいい。だからこそ、この物語は、見るたびに新しい発見がある。だから何度見てもいいのである。

そんなスター・ウォーズだが、最近関わってきた人が次々と死んでいる。一昨年には、銀河帝国皇帝が皇帝になる前に弟子としていたドゥークー伯爵役のクリストファー・リーシャーロック・ホームズロード・オブ・ザ・リングの白の魔法使いとしても知られる)がなくなり、去年の暮れには反乱軍トップのレイアを演じていたキャリー・フィッシャーがなくなっている。フィッシャーは、続三部作でも麗亜役として重要な役回りを担っていたため、今後どうするのだろう。これらの別れは悲しいことだが、やはりスター・ウォーズ・サーガは続いてゆくのだと思う。それこそが大きなシリーズの宿命であり、そして伝統の宿命である。

エピソードVIIIはどんな作品になるんだろう。個人的には次のスピンオフがメインキャラクターのハン・ソロの若き日を描くというから非常に興味があるが、やはり続サーガの展開もきになる。そのためにも、もう一度、「エピソードVII」を見直してみるか。また違って見えることを期待して……。

 

それでは最後に、ここまで読んでくれたみなさんに、スター・ウォーズの有名なセリフを送ろう。ある意味で、新年にふさわしい、といえるかもしれない(「なんだか嫌な予感がするぜ」ではない)。

 

「フォースとともにあらんことを(May the force be with you)」

過去の感じ方

イタリアの首都ローマの街を歩いていた時のことだ。

独特の赤みを帯びたベージュ色、とでも言えるような建物が立ち並んでいる道を進み、わたしは古代ローマの神殿「パンテオン」を目指していた。だが一向にパンテオンは現れず、途方に暮れていた。季節は12月だったが、空気は湿っている。足は、午前中にフォロ・ロマーノ(フォールム・ローマーヌム)と呼ばれる古代ローマ時代の中心地だった遺跡を歩いたので疲れていた。

大通り沿いにしばらく歩いていたら、目の前に橋が見えた。といっても、日本橋のような橋ではない。どちらかと言うともっと平凡な、道路がそのまま橋につながっていて、橋には何の装飾もついておらず、ただ柵だけが付いていて、一見すると橋なのかもよくわからないような代物である。

街を歩いていて橋にぶち当たる。そんなことは普通にあることだ。

だが、今回のケースは普通ではなかった。というのも、地図を見てみたら、ローマに流れる「テヴェレ(ティベリス)川」は、わたしが今いると思っていたところからかなり離れたところにあったのである。それだけではない。わたしが今いるところは、地図上では、明らかに橋ではなかったのだ。ははん。これはきっと途中で地図上の自分を見失ったんだろう。本当は川のところにいるんじゃないか。まったくもって、パンテオン探しは徒労だったわけだ。だって、パンテオンは川沿いになんてないんだから。

でもまあ、川を見つけてしまった以上、とりあえず川だけは拝ましてもらおう、そう思って橋の上に行ってみると、驚くべき事実が明らかになった。確かに、わたしは橋の上にいたのだが、橋の下にあったのは、川でも池でも運河でも湖でもなかったのだ。橋の下にあったのは、かつての古代ローマの遺跡、そして今の猫たちのねぐらだったのである(遺跡には猫が住み着いている、というか、遺跡の管理人が餌を与えているという。後でテレビ番組でそれを知った)。

 

ヨーロッパの街を歩くと今のような体験をする確率が高い。もちろん、「川かと思ったら古代ローマ」みたいなノリは、イタリア、それもローマでしか起こらないだろうが、似たような体験はする。

例えば、フランスはパリのカルチエラタンに行った時、今度は夏なのにもかかわらず寒いという状況だったが、坂道を登っていると、突如として左隣に古代ローマ時代の「公衆浴場(テルマエ)」の跡地と思しきものが出現したことがある。古代ローマではなくても、ロンドンにはロンドンの、パリにはパリの、ベルリンにはベルリンの古い時代の建物というものは、道を歩いているだけで見つけられるような気がする。それも、不意に、見つかるのだ。ヨーロッパでは古い建物が今の建物に混じっていて、残っている。そこには、残していこうという気概が感じられる。

 

古い建物を見ていると、その街の歴史が見える。その街の人々の手垢がいい意味で一番染み付いているのが、古い建物だからだ。そして古い建物が見えると、その街の歴史が蘇ってくる。だが、どうやって古い建物が残っていて、どうやって接するのかは地域によって違うような気がするのだ。それぞれに、それぞれの方法がある。

 

まずは北米大陸モントリオールケベック・シティに行った時には、よく「オールドシティ(ヴュー・モンレアル、ヴュー・ケベック)」、つまり旧市街を訪れたものだった。ヨーロッパでは混在している古い建物、遺跡が、一箇所に集中している感覚であり、新市街とのコントラストがなかなかすごい。

例えば、モントリオール。新市街の中心地であるダウンタウンから旧市街に行く道筋を辿ってみよう。ダウンタウンは、ニューヨークを思わせるほどの高いビルが建っていて、ビル風がびゅうびゅう吹いている。たくさんの車が走り、とにかく道幅が広い。の割に、信号がすぐに黄色になるから困る(そのうち、黄色くらいなら渡っても良い、という悟りの境地に達するが、あまり真似しないように)。大通りの「サン・カトリーヌ通り」から旧市街に歩いて行くには、とりあえずまず、東の方へと向かう必要がある。要するに、大通りと垂直の方向へ行くのだ。すると、坂が現れる。その坂をぐーっと降りて行くと、途中で「チャイナ・タウン」が出てきて、ここの雰囲気は周りと随分違う。歩いている人もアジア系、漢字の看板がきらめき、アジアなんじゃないかと錯覚させる。そしてビル風は消え失せ、割と穏やかな空気が流れている。チャイナタウンを抜けると、坂が終わる。すると右手に巨大な黄緑色のガラスを張った「コングレ」という建物がある。「コングレス(議会)」かと思いきや、実はただの「展示場」らしい。ここまでくると、再び風が吹いてくる。きっと川の方から来ているのだ。しばらく歩くと目の前にきつい上り坂がある。これを登ると突如として古めかしい大聖堂が現れ、地面も石畳になり、周りの建物は、今までのガラス張りから、石造りになる。そう、旧市街はここから始まるのだ。

そんなわけで、本当に突然、まるでテーマパークのように始まるのが北米の旧市街なのかもしれない。そのせいか、あまり旧市街に生活感がないのだ。

 

逆にアジアは、生活感が溢れている。

ヴェトナムのハノイには、カナダ同様「旧市街」がある。だが行ってみるとどうだろう。あまり、他の地域と変わらない。「新市街」と記されていた場所も行ったのだが、正直、道幅くらいしか違いがない。両方とも、同じように生活感が溢れ、同じように崩れそうな建物が並ぶ。「フレンチ・ディストリクト」の建物は、どちらかというと他のは雰囲気が違って、巨大な石造りの建物が多く、生活感は限りなくゼロに近い。だが、その周りには、「ハノイ」としか言えないような独特の空間が広がっている。

台北は、それぞれの地区でかなり毛色が違ったが、旧市街らしきところも、かなり手垢にまみれている。ヨーロッパ的な「古い建物は残さないと」というような雰囲気はなくて、ただただ、「俺たちゃここに住んでんだ。なんか文句あっか? なんか文句あっか?」という矜持が漂う。本当は歴史ってそういうものなんじゃないかなとも思うのだ。時の流れをぶった切り、過去のものを、さも偉いものかのように保護するより、そこに住み続けている方が、むしろ歴史の流れには合っている。私はだからこそ、台北やハノイの街に、いいな、と思ったのだった。

 

一方で問題は、日本だ。

試しに東京を歩いてみると、ノスタルジックさも何もない。たまに廃墟のようなものや、古めかしい建物があって楽しいが、それはやはり昭和三十年代くらいからの歴史しかなく、やはり戦前戦後の断絶を感じる。それは歴史の悲劇のせいかもしれない。だがやはり、「家と女房は新しい方がいい」というような、日本の考え方が現れているのではないか、と思うと、少し残念である。

そう、思っていた。

だが、友人と歩いていた時のこと。彼は、「ブラタモリ」みたいに、古地図と地形図を頼りにやる街歩きにはまっていたので、そういった本を持っていた。ここの部分は高くなっていて、だからこそ大通りができたとか、だからこそ、幕府はそこから責められることに危機感を持っていたとか、そういう話を聞くと、一つ考えが湧いた。

確かに日本の街には何も残っちゃいない(残っているところももちろんある。京都は顕著だし、昭和の香りは東京にも残る)。しかしそれは、そろそろ誕生日(12/25。お分かりだろう)を迎えるある御仁の言葉を借りるならば「見てはいるが、見ず」という状態であったからこそだったのだ。日本の過去は、地形や区画に宿っている。それはブラタモリが伝えようとしていたことでもあった。それに気づかず、「やはり日本はダメだね」などと抜かすようでは、「街歩キスト」として青かったのである(街歩キストになった覚えはないが)。

だからもしかすると、その街を知るとは、いかにしてその街の生きてきた一生を感じるか、その方法を知ることから始まるのかもしれない。

The End 〜旅の終わり〜

最後に少しだけ、最終日の話をしよう。後日談のようなものだ。

翌日のフライトは少しだけ遅い便だった。わたしは早めにチェックアウトしたが、ザック一つの身軽さだったし、どこかに行こうかとも思った。だが、それはやめたのだ。今回学んだ「旅することは動き続けることではない」ということが、脳裏に浮かんだからだ。せっかくなら、台北駅周辺をうろつこうと思った。

いつもの公園に行くと、インドネシア系と思われる人たちがたくさんいた。今まであまり見なかったので、何やら大きな休暇シーズンなのだろうか、などと思いながら、わたしは東屋に座り、一時間ほどぼーっと過ごした。雨は小降りで降っていたが、清々しい朝だった。

その後駅に行ってみると、何やら祭りをやっている。どうやら、ムスリム関係の祭りだ。そうか、だからインドネシア人がたくさんいたのか。駅前も、駅の中の大ホールも、大勢のインドネシア人で溢れている。

一体何の祭りなのか?

わたしは聞いてみたくなった。旅は勇気を試す場だ。わたしは見るからに優しそうなあごひげのインドネシア系の男性(ムスリムの文化というものがよくわからないので、女性にいきなり声をかけていいのかわからず、女性は控えた。ムスリムに多いあごひげを生やしていたので、きっとこの人は何か知っているはずだと考えた)に「英語しゃべりますか?」と聞いてみた。

「あー、はい、少し」と彼は言う。

「これは何の祭りなんですか?」

「あー、selmak-pegang-denang(※あくまでインドネシア語っぽい綴りを書いただけ。実際に言っていたこととは違うのでご了承を)。ごめんなさい。英語、すみません」

「あ、こちらこそすみません。ありがとうございました」

残念。

わたしは心折れつつも、他の人に聞いてみることにした。

「英語しゃべりますか?」

「しゃべりますよ」

「これは何の祭りですか?」

「@£^$(&*£&(」

「えーっと、すみません?」

「@^&(&$*(£&の祭りです。えーっと、インドネシアオリジンの」

「へえ!」

とりあえず何となくはわかった。インドネシアオリジンだそうだ。もう少しいろいろ聞きたかったがとっさに言葉が出ず、ありがとうございます(シュクラン)、と握手をして(ムスリムはよく握手をする、ということはかつてモスクに行ったときに知っていた)立ち去ってしまった。

いやはや。もっとぐいぐいいけたらなと思った次第である。

駅の地下街に入り、昼食として「牛腱麵」を食べた。3本の指に入るくらいうまかった。まだ帰りたくなくて、わたしは若者達が座っているところへ行き、一緒になって地べたに腰を下ろした。ああ、もう終わりか。しばらく本を読んだりしながら座っていると、関西の人と思しき人たちがやってきて、地べたに座りながら旅行の話をしている。何となく日本語が聞きたくなかったからか、わたしはその場から立ち去り、地下鉄の駅へと続く階段のところに行って、そこに腰を下ろした。そのそばでは欧米系のミュージシャンがパンフルートのような笛を吹いていた。どこか物悲しく、どこか力強いフレーズが流れた。

思えばいろいろなことがあった一週間だった。だが、それも今日で終わる。最後になって、やっとしたいような旅ができたような気がする。それはいろいろなところを回ることではない。右も左もわからぬ異国の地で、暮らすように旅をすることだ。たまにはどこかに行くのもいい。だが1日に一つのスポット、くらいに決めたほうがいい。1日は思ったより長いが、台風の日のように近場でうろちょろしている日が一番質が高い日を送れたような気がした。そして、見えないものも見えるようになった気がした。

ミュージシャンが二曲目を吹き始めた。すると階段に腰掛けた観衆達がざわつき始めた。何やら有名な曲らしい。見当もつかないイントロだったから、きっとこれは台湾人の心の曲なんだろう。わたしはそう思った。だがその予想は裏切られた。

古いアルバムめくり

ありがとうって呟いた

いつも いつも 夢の中

励まして くれる ひとよ

それは、日本(沖縄)の曲「涙そうそう」だったのだ。中国語で歌詞を口ずさむ人もいたが、それは確かに「涙そうそう」だった。

晴れ渡る日も 雨の日も

浮かぶあの笑顔

想い出 遠く褪せても

面影 探して

よみがえる日は

涙そうそう

そのフレーズを聞いた時、わたしは帰ってもいいような気がした。帰りたいわけではない。だが、帰ってもいいような気がしたのだ。異国の地にもなぜだか息づいている、日本の歌。ここでこの歌を聴くことになったのはきっと、そろそろ帰る時だと運命が告げているような気がしたのである。

演奏が終わり、拍手喝采がなった。

わたしは地下鉄の駅の方へと向かって歩き始めた。旅を終わらせるために。

 

……電車に乗って車窓を眺めて、「いや、やっぱり帰りたくない」と思ったのは秘密である。

台風の日〜馬勒卡の巻、あるいは本当の旅〜

幸福は災難の内にあることがある。むしろ災難が起こるからこそ、幸福なのかもしれない。

台風16号「馬勒卡」がフィリピン沖に発生したのは、わたしが台北について間もなくのことだった。台風14号の影響がどれほどか、それを不安に思いながら始まった旅だったが、まさかここでもう一つ発生するとは思いもよらなかった。要するに、私は一週間の旅の間に、なんと二つの台風に直撃されるという体験をしたのだ。

1度目の台風は、台北にはたいして爪痕を残さずに過ぎ去った。ただし、台湾の南側にある「高雄」などの都市はかなりの被害を被っており、テレビのニュースでは連日そのことを報じていた。それもそのはず、台風14号「莫蘭蒂」は、台湾南部を直撃したのだ。そして北部は少しかする程度だった。

だが今回の16号「馬勒卡」は違った。台湾北部に直撃するのだ。

どんな有様になっているかと怯えながら朝目覚めたが、窓の外はたいして変わらない台北駅前の街並みが広がっていた。天気は悪い。そして風は少しあるようだ。とりあえず着替えて、朝食のサンドイッチを食い、コーヒーを飲んだ。わたしは少し外を見て回ろうと思った(※良い子は真似しないでね)。

外に出ると、「ああ、台風だな」という感じの生暖かい風が吹いていた。だが雨もひどくはなく、時折やむ。遠出をする気にはなれないが、少し見て回ろう。台北の建物は、二階以降の部分がせり出していて、一階部分には雨風太陽光を防げる回廊のようなものがその代わりに存在するので、こういう日でも雨を防ぎつつある程度までは歩いて行ける。

驚いたのは、前回の台風の時は見られなかったが、今回はわりとシャッターを閉めている店が多かったことだ。もしかすると、今回の台風は尋常ではないのかもしれない。わたしは咄嗟にそう思った。ある程度歩いてみると、やっているのは、一度は行ってみたいと思いながらも入ったことのなかった旨そうな朝食定食屋だけである。それ以外はみなシャッターが下りていた。

公園の方に出ると、風邪のせいで木の葉っぱが随分と落ちていた。そういえば前回の台風の時はこの公園にある博物館に入ったなあ、などと回想に浸りながら、わたしは公園を一周した。

目に焼き付けておきたかったのかもしれない。なにせ、明日には台北を離れるのだ。一週間の間、一人住んでいた台北を、だ。思えば短かった。まだやり残したことだらけだ。例の朝食店にも行っていない。

風が強くなってきたので、わたしは戻ることにして、昼食用にと行きつけになっていたセブンイレブンで「新国民弁当」なる謎の弁当を買って帰った。その弁当には、みんな笑顔で弁当を頬張る学生、工事現場の人、農家のおばさんなどが荒い油絵タッチで描かれていて、妙に「社会主義感」が漂っていた。台湾に社会主義感、など、あっていいはずはないのだが…‥。

少し寝て、起きてみると、外の雨が強くなっている。テレビをつけると、台風情報をやっていたが、「せっかく朝から休みにしたのによう、全然雨風強くないじゃねえの! おかしいぜ、この野郎!」というようなことを言っていそうな市場の屋台のおっさんが写っていた。わたしは新国民弁当を食べた。味はなかなかいける。いや、かなりうまい。鶏肉、夜市で食べた甘い味付けのソーセージ、米、野菜炒め、と中身は至ってシンプルだが、かなりのクオリティーである。

わたしはために貯めてあった洗濯物を、コインランドリーに打ち込むべく上に上がった。前回の台風の時、ホテルの人に教えてもらったから、使いこなせるはずだ。わたしはとりあえず洗濯機に全部ぶちこみ、部屋に戻り、しばらく読書した後、乾燥機に入れるべく上に戻った。だが、乾燥機の使い方がいまいちわからない。この前はホテルの人が全部やってくれたのだ。やり方を見ていたのだが、いまいちわからなかった。はて、困った。そういうわけでわたしは何度か乾燥機を回し、結局生乾きのまま服を持ち帰ることになる。

雨が再び弱まったので、わたしはまた散歩に出かけた(※台風の時は外に出てはいけません)。

行ったことのない界隈に行きたかったので、わたしは足を踏み入れたことのなかった、ホテルのある大通りの左側へと歩いて行ってみた。

やはり多くの店は閉まっている。徐々に感づいたのだが、これは台風のせいなのか、中秋節のせいなのか、実はわからないのだ。中秋節で銀行が閉まっていたくらいだから、後者の可能性も高い。

といっても、石畳や昔の町並みを残している道(大正モダンの雰囲気がある)や、ゴテゴテで派手なおそらくイタリア系の店など、見たことのないものにたくさん出会えてかなり楽しい散歩になった。霧雨のような雨が吹きつけてきたが、蒸し暑いから逆に気持ちいい。最後の最後で、しかも、台風の最中に、本当にやりたかったことをしているような気がした。

大通りに戻ると、おしゃれな本屋を見つけた。わたしは入ってみることにした。中に入ると冷房が気持ちいい。

市場にはその土地の人々の生活が詰まっている。そして書店にはその土地の人々の思考が詰まっている。どれくらいの人が、最近日本の語学書コーナーで、ラテン語の本が増えていることを知っているだろうか。もしかすると、いつの間にやら「英語じゃなくてラテン語を学ぼう」なんてことになっているかもしれない(嘘)。そんな不思議な変化がある一方で、やはりノウハウ本、ハウツー本の類は多い。だが面白いのは、最近では「デキル男の〜」のようなものではなくむしろ、怒りをコントロールしたり、人間関係をより良いものしたりするためのものが増えているような感じがするところである。それはどこかで経済一辺倒ではなく、心の中を見つめようとする動きがあることを表しているのではないだろうか。それでいて、やはりそれは自分で考えたりするものではなく、なんらかのマニュアルによって行うこと、という「他力主義」のようなものは存在しているのだが。

わたしは台湾人の頭の中を少しだけ覗こうと本屋に入った。もちろん、理由はそれだけではない。外国の本屋は魅力的に映る、という理由も大きい。

本屋は駅の本屋に入ったことがあったが、こういう街の本屋は初めてだ。わたしは『走れメロス』の中国版を見てみたり、哲学の概説書の中からお気に入りの哲学者の中国語表記を探してみたり(Bergson:伯格森)した。しかしやはり哲学書のコーナーは少ない。それよりも理数系のものが揃っている。1年前に日本でも文学部廃止の通達が出され、「文系軽視ではないか?」という声が上がったが、それはどの国も似たようなものがあるようだ(とはいっても、日本の本屋の場合理数系の本も少ない気がする)。それと、当たり前といえばそうなのだが、台湾では哲学というと、孔子孟子老子荘子……の世界のようである。そっち関連の本が多い。一瞬驚いたが、むしろこちらの方が健全なのかもしれない。もちろん、概説書程度なら西洋哲学も置かれていた。

だが、何よりも面白かったのは、向こうの日本語学習本だった。台湾人には日本語が上手い人が多いというので、どんな風に学んでいるのか気になって開いて見たのだが、なかなかシュールなのだ。例えば、いわゆる形容動詞の例文が「彼は変な人です」というものだったり、「アイデアは画期的です」という「は/が」の使い分けが微妙におかしかったりしている。ニヤニヤしながら見ていたが、実は私たちが日本で使っている外国語の本も、それを母語とする人からすると、同じように滑稽に見えているのかもしれないと思うと、少しばかり背筋が凍る思い出あった。

さて、しばらくして、わたしは外に出た。幸い雨はまだまだ弱い。入った書店の隣にもまた別の書店があったので、今日は本屋巡りと決めた。

街を歩いているだけじゃよくわからないが、台湾は日本以上にやはり受験の国のようである。受験のための本が溢れ、中国思想の本だって、どこか試験対策っぽい雰囲気が流れる。ただ、日本と違って、英語学習は、「単語をひたすら頭に叩き込む」というよりも、「熟語を叩き込む」という感じなのかなと思った。やはり英語は熟語の言語だから、そういうやり方のほうがいいに決まっている。と、言っても台湾人と日本人の英語力は、経験上はあまり変わらないようにも思われるが。

三件ほど書店をはしごして、「タイムスリップ! 写真で見る台北地図」のような感じの題名の本を買うか買わないか迷った末に買わず、外に出た時には、雨が最高潮に降っていた。先ほどまでの小雨が嘘のように、シャワーのような雨が降っていた。幸い最後に入った本屋がホテルの隣だったので、すぐにホテルへと戻った。三時半のことだ。

その後はしばらく部屋でだらっとし、ホテルの隣にある台湾版ドトールというような「ダンテカフェ」に入ってみることにした。というのも、web雑誌のために記事を書いていたのだが、部屋には机がなくて書きにくかったからである。

ダンテカフェに入り、とりあえずブレンドを頼んで、わたしは席に着いた。内装はもう、サンマルクカフェとあまり変わらない。音楽が流れ、老いも若きも団欒している。最後の最後で、わたしはなぜか、台湾人に慣れたような気がした。

二時間ほどコーヒー一杯で粘り、文章を完成させ、わたしは豪雨の中夕食を食べることにした。最後の夕食だ。メニューはもうあれしかない。そう、「牛肉麵(ニューローミエン)」だ。台風と中秋節の間にも頑張って営業している大衆食堂に入り、拙い中国語でオーダーした。もう少し、もう一週間ここにいたら、もっとスムーズに台湾で生活できるだろうに。わたしは最後の牛肉麵を食べた。やはり最初のやつが一番良かったが、うまい。最初は味がなくて歯ごたえがすごい麵に、独特の香りのスープが変な感じがしていたが、食べ続けていると病みつきになってきた。

かして最後の晩餐が終わった。わたしは最後に、と、台湾ビールを買い、部屋飲みを決行した。台湾の夜の風景が見たかったので、電気を全部消し、カーテンも全開にしながら、わたしはビールを飲んだ。

台北はいい街だった。

もっと台北と心を通わしたかった。

哲学者のベルクソンは「哲学は共感を求める」と言っているが、きっと旅するものが求めるのは、その国との、その街との、そしてその土地の人々との、「共感」なのだろう。そしてそれはなかなかできない。言葉の壁、文化の壁、そして限られた時間という壁。それらに阻まれ、旅する人たちは不満足なまま帰ってくる。だから思うのだろう。また旅に出たい、と。

旅することは動き続けることではない PART5

「旅することは動き続けることではない」

台湾は、「親日国」で知られる。どういう風の吹き回しかはわからないが、台湾の方々は、東アジアの海に浮かぶ優柔不断で調子に乗りやすいしょうもないあのJで始まる島国のことを、それなりに認めてくれているらしいのだ。

わたしはその辺の事情も知りたかったので、「西門町(シーメンディン)」に向かった。そこは日本好きの若者が集まると噂の場所であった。前日の夜、日本語をしゃべるおっさんと電車内で話したせいか、無性に誰かと交流したくなっていたのも一つの理由かもしれない。

それにしてもこの日は動きすぎている。今日のお前はどうかしてるぜ、と自分に語りかけたいほどだ。灼熱の中、「中正紀念堂」へ行き、一度台北駅に戻ってから、慶康街というシャレオツスポットへ。そのあとは名前が面白いという理由だけで、台北郊外のエネルギッシュな街「三重」へと向かった。そして、そう、そして今、地下鉄を使って「西門町」へ向かう。「西門町」は、台北の左端を流れる淡水河の右岸の南部地域にあり、左岸の北部地域にあった三重からはわりかし遠い。

西門町についたとき、日はもう暮れかかっていた。夕日の三歩手前くらいの空の下、わたしは若者街に繰り出した。

 

西門町の雰囲気は確かに他の地区とは違った。とにかく人がたくさんいて、街の雰囲気は秋葉原やら原宿やら渋谷の路地やら上野やら中野やらを混在させたような形になっていた。台湾の街というよりも、日本の街である。かおりも、駅前地区の臭豆腐やらなにやらの匂いではなく、クレープの匂いがしてくる。軒を連ねる店ではTシャツやフィギュアを売っている。

そうは言ってもわたしは日本のアニメを全く知らないし、ゲームもマリオくらいしか知らない。漫画は読むが、『聖☆おにいさん』『チェーザレ』『テルマエ・ロマエ』『プリニウス』『ヒストリエ』……と違う意味でのオタク系漫画(歴史オタク、である)しか読まない。だから店に入ってもどうすることもできないし、別に入りたいとも思わなかった。そんなんだから交流らしい交流なんてものもできるはずはない。

そんな状態のまま、わたしは自分の足、そして目元のあたりから押し寄せてくる疲れを感じていた。このままでは持たない。何か甘いものが欲しい。今回の旅で初めて感じた欲求だった。わたしは「台湾旅行でスイーツまで食べたら女子旅になってしまう」という悲しすぎるジレンマを抱えつつ、スイーツ屋を見て回った。せっかくだから、かき氷にマンゴーソースをかけたものを食いたかったが、どうやら一人で食べきれる代物ではなさそうだ。だが、マンゴーソースをかけたかき氷(芒果冰、とか言ったと思う)のことを考え続けた結果、自家製サブリミナル効果のせいでマンゴーが欲しくなってしまった。だからわたしはマンゴー専門店に入り、フレッシュなマンゴージュース(芒果汁)を飲んだ。これはなかなかうまかった。確かに喉の渇きを潤すことはできたし、糖分のおかげで幾らか疲れは和らいだと思う。

外に出ると、ストリートミュージシャンが何か音楽を奏でていた。現代風の曲で、きっと愛を語っているんだろう。何を言っているかわからなかったが、ふと聞いていたくなった。わたしはそばにあったベンチに腰掛けた。座ると疲れがどっと押し寄せてくる。

 

どうしてこんなにも今日は歩いたんだろう。今日の旅のあり方は、質の代わりに量を追い求めるような代物だった気がする。とにかくいろいろなところへ行き、いろいろなものを見る。だが、深いつながりを作りはしない。わたしがよくやってしまっていたやつだ。今回の台湾ではそれをやらないようにしたかったのだ。それなのにどうしてだろう? 太陽は沈み始め、空はオレンジ色、ストリートミュージシャンの歌声が響いている。

あせり。そう、その三文字に尽きるだろう。明日は台風がやってくる。そして明後日には台湾を離れねばならない。台湾という国に馴染み始めたという段階で、するっと帰ってしまうのが嫌だった。だから焦っていた。なんでも見てやりたかったのだ。それはいつも、少ない日程の中でとにかくいろいろなところを歩き回る心情と同じだった。だが、それだけではない。おそらくわたしはうちへ内へと入っていたのだろう。初日はとにかく中国語を使おうとしていたが、今や店に入るのも最低限だ。元が「内向的」というふうに分類されるであろうパーソナリティーを持つわたしだから、うちに入ってしまうのも速い。だがそれではつまらない。冒険するために台北に来た。これで終われるか。そういう気持ちが多分、またもわたしを焦らせているのだろう。悪循環である。だが、始まってしまったら抜け出せぬのが悪循環でもある。

 

わたしはその後、西門町をぶらつき、一駅先の「龍山(ロンシャン)寺」に降り立った。そこには、ディープと言われる市場があるらしかった。蛇の肉を喰わせるらしい。そんなところに行けば疲れもとれるかもしれないと思った。だが、日本の商店街と同じ作りになっていたその市場は、日本の商店街と同じく客が少なかった。しかも、中秋節のせいか、家族連れが多い。わたしはなんとなく入りづらく、ちょっとした孤独感を感じてしまった。旅の疲れの中では、ちょっとしたことで心が揺り動かされる。

わたしはここじゃダメなんだと思い、一番賑わっているという「士林市場」に向かうことにした。それは北部にあって、かなり遠かったが、わたしはそこに向かった。案の定そこはものすごいエネルギーに満ちていた。ありえないくらいの人が集まり、歩くこともままならない。わたしはそのエネルギッシュさに触れて一度元気を取り戻した。そして地下にある食堂で、日本で一度食べて、台湾でも食べたいなと思っていた「担仔麺」をついに食した。うまかったし、ビールにあった。それから市場に戻ってマンゴーを値切ったりした。だがしばらくすると、なんとなく疲れが戻ってきて、わたしはMRTに乗ってホテルへと戻った。帰ってきて、すぐに寝てしまった。

 

動き続けることは旅することではない。まして、動き続けることは生き生きしたことではない。旅とは生き生きした中で進まなければつまらない。だから時には休み、ほんの小さな喜びを探すことに集中することが必要なのかもしれない。

 

旅することは動き続けることではない PART4

「旅はDéjà vu:新しいものと古いもののあいだ」

ほんの思いつきだった。ただただ、名前が面白かっただけだ。ただそれだけの理由で、わたしは台北MRTに乗って、「三重」に行った。

台北市の中心部は、主に「淡水河」右岸にある。三重があるのはそこから離れた「淡水河」左岸、「トラス・タンスュイ」だった。河が見てみたかったので、「大埠頭」という仰々しい名前の駅で降りようかと思ったが、ひとまず「三重」に行くことが先決と途中下車はしなかった。それに、河を渡る時くらい、電車は地上に出てくると思ったのだ。イタリアのローマで乗った地下鉄は少なくとも、テヴェレ川を渡るときには地上に出てきて、橋の上を渡っていた。

しかし、その読みが甘かった。台北のMRTは地下を通ったまま淡水河を渡ってしまったのだ。なかなかの技術である。もし、博多で起きた陥没事件のようなことが起きれば、台北のMRTは水で充満してしまうリスクもあるのだから。

「三重」は案外近かった。何があるのかもわからない状態で、わたしはとりあえず「三重」に降り立ち、エスカレーターを使って、地上に出た。一緒に降りた人がガイド役だ。わたしはとにかく彼らに従うことにした。

地下鉄の出口から出ると、そこは近代・現代・近未来が共存した街だった。広い車道ではバイクが轟音を立てながら猛スピードで走っている。トラックが体をがたつかせながら走り去ると、乗用車が猛スピードで走る。それはまさに、わたしが今年の2月に見た、ヴェトナムの光景だった。歩道を塞がんばかりにびっしりと路駐されたバイクどももまさにあのヴェトナムの光景そのものである。ヴェトナムと違うのは、車通りがそこまで多くないことを別にすれば、建物だった。高いのだ。何階建てなのだろう、と思うくらいのどでかい薄ピンクの建物や、ガラス張りの建物、コンクリートがむき出しになっている古めかしいけれど背の高い建物、緑色のモダンな高層の建物などが林立している。台北の建物は、日本よりなんとなく高いような気がしたが、「三重」のものは中でも高い方だと思う。

行く当てもないので、建物がたくさんある方向へと進んだ。建物の背が高いので、建物の森へと入っていたという表現の方が正しいかもしれない。「三重」の建物は不思議と、門のところがグニュンと円柱状になっているのが特徴だ。台北駅あたりではどちらかというと、四角いものが多かった。もしかするとこれは古い様式なのかもしれない。もしかすると日本統治時代の名残かもしれない。どことなく昭和前期の香りが、「三重」にはあった。ボロボロの看板、ボロボロのネオンからは、そんな空気感がにじみ出てきていた。

その一方で、再開発なのか、ガラス張りの建物も目につく。ここはまさに、古いものと新しいもののせめぎ合いの最前線なのかもしれない。

しばらく歩くと、古き良き時代の香りのする界隈に、市場があった。路上の市場である。わたしは反射的に市場の方へと向かった。すると時間が時間(15:00)だからか、いまいち活気はない。だかかなりいい雰囲気なのは確かで、観光用の市場などには絶対に真似できないような日常感が漂っている。もう少しいい時間に来てみたいと思った。だが、次の日は台風16号「馬勒卡」が台北に襲来する予定だ。もう来れないだろう。旅は一期一会、そういう運命だったのだ。

市場を通り抜けると、大きな通りに出た。そこは環状道路のようなもので車が猛スピードで走っていた。それなのにもかかわらず、歩道はバイクで塞がれている。なんてこたアない。ヴェトナムのハノイで経験している。わたしは慣れた足取りでバイクの外側を歩くことに成功した。内心ヒヤヒヤしていていなかった、といえば嘘になる。

「三重」はかなりいい街だった。今度台北に行ったらまた行くだろう。だが今回は徐々にわたしも疲れてきていた。「中正紀念堂」から「両替屋探し」、「両替屋探し」から「慶康街」、「慶康街」から「行天宮・吉林通り」、そして「三重」。今日は歩きすぎていた。そしてなにより、暑すぎた。きっと30度はゆうに超えている。日差しも激しい。「三重」についた頃には、小雨が降ったりしていたが、それでも、灼熱地獄が蒸し焼き地獄に変わっただけだった。わたしは右岸に戻ることにした。

 

途中でわたしは、「台北大橋」駅で降りることにした。それは、左岸最後の駅である。三重「県」ならぬ三重「區」の東端に位置する川沿いの駅だ。どうしておりたのかというと、ここで降りれば河が観れると思ったからだ。不思議と、淡水河をまだ見ていないような気がしたのだった(実際には、「淡水」という街に小旅行をし、そこでばっちり見ているのだが……。「嵐の前の激しさ PART 4」を参照)。

台北大橋駅は閑散としていた。だが地上に上るとその様子は一変する。狭くて、その上バイクが停められている道をキャパオーバーの人間が通り、広い車道は車とバイクで覆われていた。建物はやはり背が高く、「活気」という言葉を一つの街にしたらこうなる、というような見てくれをしていた。

河が観たい、という目的を忘れ、わたしは散歩を開始した。街の活気に飲み込まれてしまったのだ。

人の波に流されながら歩くと、新しく開業したジムの前で若い男がビラを配っていた。何やら色々と話しかけられたが、よくわからないし、明後日には日本に帰ってしまうので、わたしは足早に立ち去った。

とにかく盛り上がっている。ビルには看板と広告が並び、歩いている人も賑やかである。さきほどの「三重」が、どことなく哀愁を漂っているのに比べて、この「台北大橋」周辺の地区はそんなもの全くなかった。エネルギーに満ち溢れた街。ここは経済成長の中心にいるようだ。「三重」が古いものと新しいもののせめぎ合いの最前線ならば、「台北大橋」は新しいものの前線基地だった。建物はまだコンクリートむき出しの古めかしい建物ばかりだが、内実はエネルギーであふれている。

ふと、この街に来た理由を思い出し、わたしは川の方へ歩いた。すると市場があった。かなり面白そうだったが、疲れからか、通り過ぎてしまった。

結論から言うと、河を見ることは叶わなかった。なぜなら、河は大きな壁の向こう側にあったからだ。だがこの時になってやっと思い出した。そう、わたしは二日目に淡水河で美しい夕日を見たのだった。美しく、荒れ狂う空を。わたしは自分の忘れっぽさを心の中で笑いつつ、台北大橋駅に戻った。

 

電車が動き出す。そろそろ四時半だ。「西門町」に行き、そこを散策した後で、「華西観光夜市」で夕食としよう。このまま中和新蘆線に乗り、「忠孝新生」駅まで行けば、「西門町」駅に続く「板南線」に乗り継げる。だが、この歩き疲れた状態で、果たしていいのだろうか。いちど「台北駅」へ戻り、ホテルで一眠りでもしたほうがいいのではないか。

結局のところ、わたしはそのまま西門町に行く決断をした。それが、大きな間違いだったのだ。

旅することは動き続けることではない PART3

「フィールドワーク」

行天宮というのは、「関帝廟」の一種である。といわれても、「関帝廟」ってなんだろう? 関帝廟というのは、三国志で有名な関羽を武功と商売の神として祀る神社だ。関東に住む日本人にとっては、横浜中華街にある「関帝廟」が有名だろう。あそこもまた、関羽を祀っているというわけである。古代ローマ(皇帝は死後に神格化された。しかもそれは別にそこまで異常なことではなかった)や日本(豊臣秀吉徳川家康は神になっているし、各家の先祖も神にしてしまう)と同じく、台湾などの中華文化圏では死んだ人間を神として崇める風習があるようだ。新井白石は、

「神とは人間のことだ。日本では普通に尊敬する人物のことを「加美(かみ)」と呼ぶ。今も昔も同じ言い方である。これは「尊尚」の意味だと考えられる。現在、字をあてる段になって、「神(かみ)」と「上(かみ)」の違いが生まれた」

と言っている。本当は「神」と「上」は別の語源を持っているらしいので、この論は誤りだそうだ。だが世界各地に人を神にする信仰が残っているのも事実。もしかすると、人間を神と捉えるやり方は、人間にとってかなり自然なやり方だったのかもしれない。旧日本軍のとあるパイロットを神として崇める地区が台湾にはあるそうだ。

まあ、そんな堅苦しい話は放っておいて、わたしは行天宮にやってきた。行天宮は、台北の北の地域にある。五日目に至って台北という町がどんな風に構成されているかわかってきたのだが、行天宮の界隈に入ったことがなかった。

 

台北はだいたい北部(主に松山新店線以北)、中部(主に板南線沿線)、南部(主に淡水信義線沿線)の3つに分けられる。西のはじには「淡水河」が流れていて、それが台北中心部と郊外部を分けている。

南部は、淡水河の隣から順番に、「龍山寺(ロンシャン)」を中心とした下町エリア、「西門町(シーメンディン)」という若者スポット、その隣は我らが2畳一間のホテルがある官庁街・博物館・台北駅があるごちゃっとしたエリア、次が「慶康街」と「中正記念堂」のあるエリア、そして国父記念館と臨江街夜市のあるエリア、そして台北101やらジャズバーのある再開発エリアがある。この辺りは西の端にある若者エリアと下町エリア以外は回ったことになる。

一方の北部はというと、淡水河の隣から順番に、故宮博物院や士林観光夜市のある士林地区、行天宮などがある地区、それより東側は全体を「松山空港」が占めている。この中で行ったことのなかったと、それが行天宮のエリアだった。だからここにやって来たわけだ。(なお、台北の中部は結局あまり行かずじまいだった。松山空港から台北駅へと向かう電車の乗り換え駅「忠孝復興駅」や、ジャズバーを探したときに迷い込んだ界隈、あとは国父記念館も中部に属しているようだ)行ったことながないなら、制覇してみたい。それが男のロマンである。それに、宗教の場には、その土地の人間性がどことなく現れる。それを見てみたかった。一歩でも、近づいて見たいのだ。

 

わたしは「慶康街」のある「東門(ドンメン)」駅から、初めて乗る「中和新蘆線」に乗り込み、目的地のある「行天宮(シンティエンコン)」駅へと向かった。

降りてみると、意外と遠い出口から出たようだ。まあいいだろう。天気もいいし、昼食もうまかった。まだまだ、1時半。一日はまだまだある。

だが、やはり灼熱である。雲一つない天気は、すなわち、遮るものが一つもない焼き討ちのような天気を意味している。日差しに圧倒されながら歩いていると、不思議な日本風の建造物群を見つけた。今回の旅のモットーは、「考えるな、行動しよう(初出)」である。だから、わたしは気になるものがあれば行くことにしている。こうなったら行ってみるしかない。

結論から言うと、そこはおそらく、葬儀場であった。ズカズカ入るわけにもいかず、外から見ただけだったが、その敷地は異様にでかかった。そういえば、中国の宗教ではどのように葬儀を執り行うのだろう? 日本だったら火葬だし、西欧であれば土葬が主流。こちらではどうなっているのだろう。ふと気になったが、知るすべもないので、わたしはその巨大な葬儀場に沿って歩き、行天宮の方へと向かった。

途中、喉が渇いたのでコンビニに寄った。五日目となるともう、台湾のコンビにも慣れたもんだ。言葉は分からないが、流れがわかってくる。まず、「ニーハオ」といって商品をレジに置く。店員がピッとやって、何やら聞いてくる。だいたい、「袋はご利用ですか?」か「ポイントカードはお持ちですか?」である。わたしはとりあえず首を横に振る。すると店員が値段を言う。聞き取れないから、モニターを見るか、値段を覚えている商品だったら、それをおもむろに出す。弁当を買うと、そのあとでかならず「あたためますか?」と聞かれる。そして、コンビニの流れは終わりだ。日本とだいたい同じ。無機質で、機械的な空間である。心躍るものではないが、中国語に疲れた旅人にとってはちょっぴり優しい。

買ったのは、赤いパッケージの烏龍茶だ。台湾に来てから、昼はこの烏龍茶、夜は台湾ビールというパターンになってきている。それだけこの烏龍茶はうまいのである。初日に発見したやつだ。日本でもぜひ出して欲しいと思う。大抵25元。日本円にすれば100円だ。烏龍茶の名産地なだけあって、香り高く、程よい苦味でうまい。

しばらく灼熱の中を歩き、わたしは行天宮にたどり着いた。行天宮前のバス停は木造で、風情を醸し出している。一般の人が集うというより、もはや観光地化しているのかもしれなかった。「飲食禁止」とでかでかと掲げられていたため、わたしは烏龍茶を手に持っていたビニール袋に入れて、警備員に守られた入り口から行天宮に入った。

 

中は日本の神社と同じような空気感があったが、建物はやはり中華風だった。ウスターソースに似た感じの、ヴェトナムでも嗅いだ、あのお香の香りが漂い、社殿は竜宮城のように装飾で彩られている。入ったものの、どうしたらよいか全くわからないので、渡場前にいたおばあさんについていった。

おばあさんはまず手を洗った。日本の神社でも、本来は清めるために手を洗い、口をゆすぐ。伊勢神宮などでは未だにやっていて、少し前に「お伊勢参り」をしたとき、同じことをした。行天宮では、思い切り水道だったが、わたしは蛇口をひねって手を洗った。なるほど。どこも同じのようだ。思えばカトリックでは、聖水に手を浸し、十字を切る。水というものは独特の神秘性を持っているのかもしれない。ほら、古代ギリシアの哲学者タレースはこんなことを言っている。「ἀρχη δε των παντων ὑδωρ(万物の根源は水である)」と。

と、ここでおばあさんを見失った。周りを見回すと、手を洗った人は皆、なにやら給湯器のようなところでお湯を紙袋に入れて飲んでいる。よくわからないが、もしかすると口をすすぐ代わりなのかもしれない。面白い信仰手段だ(のちに、同じものを空港で発見し、わたしの両親に聞いてみたところ、昔は日本にも紙にお湯を入れて飲むところが結構あったらしく、別に宗教的な何かではないことが判明する)。

わたしはとりあえずお湯を紙袋に入れて飲み、なんとなく神聖な気分に浸りつつ、他の人たちと一緒に本殿の中へ入った。

観光地化しているかと思ったが、祈る人たちもかなりいた。あたりはお香の煙で充満し、人々はそれぞれが本殿の奥の方か、入り口側を向いてひざまづいて、祈りを捧げていた。どうやら両方に神がいるらしい。しばらくその様子を見ていると、人々はまずひざまづき、ブツブツと何やら願いことなのかお経なのかよくわからないが、言葉を唱え、次に手を合わせてそれを上に突き上げ、それからお辞儀をし、その動作を3回ほど繰り返し、おもむろに立ち上がって、祈りを終えていた。

祈りにはパターンがある。

かつてモスクに行ったことがあるが、あそこでも順序に従って何かをしている。前でクルアーンを読み上げる人がいて、周りにいる人たちは立ち上がり、座り、お辞儀をし、もう一度立ち上がる。それがなんども続き、祈りは終わる。キリスト教だってそうだ。カトリックの祈りはまるでコールアンドレスポンスだし、プロテスタントだって、祈りの形式というものがある。神道では、「二礼、二拍手、一礼」で参拝する。それは形式に合わせることで、他の人と一体化できるからかもしれないし、祈り以外のことに集中しないためかもしれないし(初めのうちはパターンばかり気になって仕方ないだろうが、慣れれば逆に集中できるのではないか)、非日常の空間を演出するためかもしれない。わからない。きっといろいろな理由があって、あるいは、いろいろな「なんとなく」が重なって、人々は形式の中で神に祈るのだろう。あるいは、形式に神が宿るのかもしれない。「はじめに言葉があった。そして言葉は神と共にあった。そして言葉は神であった」言葉は、形式ともいえる。

またも堅苦しい話になってしまった。

 

行天宮のすぐ外には、吉林通りという通りがある。そこの界隈の地下には、「占い横丁」なるところがあって、占い師がたくさんいる。だが、バックパック一つの男一人旅に、占いなんてものは必要ない。自分の足で、未来を切り開くのだ。

とはいっても、そんな怪しい界隈、ちょいと見てみたくなるのも事実。わたしはとりあえず占い横丁を見てみた。入ってみると大したことはない、数件の占い屋がちょこちょこっとあるだけだった。わたしは地上に戻り、吉林通りをうろつくことにした。

吉林通りはまるで日本の昭和のような街並みだった。それも、昭和初期だ。看板が並び、広い道を車が走る。時間帯のせいか、かなり閑散としていて寂しげだったが、そのノスタルジックな雰囲気は面白かった。

一歩裏通りへと入ると、市場が広がっていた。花を売っているらしく、たくさん花が軒先にあった。台湾に来てから花屋を始めてみたかもしれない。狭い道をトラックが亜走り、花以外にも、竜眼などを売る人々もいる。ここでは随分とゆっくりと時間が流れているようだった。市場の入り口にある赤いぼんぼりが、青い空に映えて美しい。わたしは気分良く町歩きをした。

さて、次はどこに行こう。ここもいいが、もう少し人と関わりたい。一人旅をすると人を求めるようになる。だが、占いをするつもりはない。わたしは若者スポットの「西門町」に行こうかと思ったが、そのそばには、蛇の肉を喰わせるというディープな夜市があるらしいので、それならもう少し日が落ちてから行ったほうがいいだろう。とりあえず、わたしは行天宮駅に降り、路線図を見た。するとある言葉が目に飛び込んできた。それは、「中和新蘆線」に「東門」とは逆方向に乗って、淡水河を超えたところにあるという地名だった。

その地名は、「三重」という名前であった。

旅することは動き続けることではない PART2

「タイペイ・ダック、あるいは変わらぬもの」

台北駅へと引き返したわたしは、一つの疑念に心惑わされていた。それは、両替ができるかもしれないただ一つの希望の光である「三越」も、中秋節で休みなのではないか、ということだ。三越といえば、日系企業。さすがに休みということはなかろう。しかし万が一ということはある。

駅から出て、急ぎ足で、見慣れた街を歩く。三越台北駅の巨大な駅舎の目の前にある。目印は日本でもおなじみのライオン像である。

案の定、デパートは空いていた。中に入るとブオッと冷房の空気が体に当たる。そして化粧品と香水の匂い。まさかこの旅でデパートに入るとは思ってもみなかったが、背に腹は変えられない。わたしは両替する場所を探した。それは案外簡単に見つかった。インフォメーションセンターの隣にあったのだ。わたしは一万円を取り出し、カウンターに近づいた。するとどうだろう、カウンターの丸顔の女性はすぐに日本語で、「両替いたします」と声をかけてきたのである。

わたしは、はい、と答えて、一万円札を手渡した。だが、ふとわたしは、一万塩分も必要ないんじゃないかと思い、「すみません、五千円分だけ両替できますか?」と聞いてみた。すると女性は、「お釣りが出ません」と答えた。しかたあるまい。これもまた運命だ。わたしは一万円分両替してもらった。

両替をしたら、なんだか疲れてしまい、わたしは一旦ホテルに戻った。そこでしばらく無音テレビの映像をぼーっと見た。台風14号莫蘭蒂の影響はまだ凄まじく、南部の大都市高雄では浸水しているようだ。浸水した街で、十五夜のバーベキューを健気に行う一家の映像が放送されていた。一方で、台風16号馬勒卡が台湾に近づいている。どうやら速度は遅くなっているようで、襲来はこの日の夜か、次の日になりそうであった。できれば夜のうちに去って欲しかったが、それは無理な相談のようだ。まあ先のことで悩んでも仕方ない。今日という日を楽しもう。お腹が空いたので、昼食を食べがてら「慶康街」に行ってみようと、ホテルを出た。

 

その町は、「台北の代官山」という触れ込みだった。わたしの叔母の触れ込みだ。だが生憎わたしは東京の代官山に行ったことすらない。とにかく、おしゃれな、ナウいところなのだろう。そういうところが好きなわけではないが、行ってみるのもアリだと思ったのである。いろいろ行ってみたが、そういう若者たちのスポットを見ていない。見てみたいと思ったのだ。もしかすると、そこに行けば日本に興味がある人たちがいて、会話ができたり、中国語を教わったりできるんじゃないか、という淡い期待もあった。人間的な繋がりに、少しだけ飢えていたのかもしれない。

再び「東門(ドンメン)」駅に降り立ち、わたしは「慶康街」へと向かった。秋は明らかに他の駅と雰囲気が違った。「CNNテレビ」にも注目されたというかき氷展の宣伝がでかでかと掲げられて、街の香りもなんだか甘ったるい。今までの八角の香りが漂うアジアの町の香りとは打って変わっている。

街並みもかなり違う。マンゴーフレーバーのかき氷を各地で売っており、くだんのCNNの店にはものすごい行列があった。そういえば、慶康街を勧めてくれた叔母はこの店に行ったと言っていたような気がする。

だが、これは男一人旅だ。ワイルドさが売りである。そんなマンゴーのかき氷などに行ってたまるか。こんな若者のトレンドが集まってそうな場所にも普通の人の普通の生活を見出すのが、男の仕事だ……

などと言いながら、正直、Tシャツにジーパンという出で立ちだったため、シャレオツな服装の若者だらけのかなり周りからは浮いていて、早く今まで通りの大衆的な空間に戻りたかったという動機があったことは隠せまい。

老舗の牛肉麺の店、かき氷屋、などいろいろな店があるが、如何にもこうにも入りづらい。客がみんなシャレオツなのだ。こういうところに来たからには、テレビで紹介されそうな綺麗めの店に入るほかないのか。わたしは半ば諦め気味で、慶康街を歩き回った。

少し、外れたところを歩くと、何軒か大衆食堂があった。観光客などはなから狙っていないようなボロくて無機質で少しだけ汚い店。ほとんどの店先には、鳥の丸焼きが吊るされていた。そして、注文するカウンターあたりには人が群がる。やはりあるのだ。どんなところにも、人の生活はあるもんだ。わたしはそのうちのどれかに入りたいと思った。だが、体が疲れていてなかなか入ろうという気にならない。一旦通り過ぎてしまった。

だが、その界隈から遠ざかるほどに、わたしの脳裏に鳥の丸焼きが浮かんで離れない。絶対に後悔する、絶対にあの鳥を食えばよかったと思う……そんな心の声が聞こえてくる。わたしは引き返して、勇気を振り絞り、割と混雑していたとある大衆食堂に入った。

わたしの前に、台湾人のおばちゃんが並んでいて、何やら弁当を頼んでいた。弁当の中身を見ると、どうやら鳥を焼いたものを込めにのっけたもののようだ。

おばちゃんの注文が終わり、店を切り盛りする夫婦の視線がこちらに向いた。わたしはとりあえず、拙い

「うぉーしゃんやお(クダサイ)」

を発動し、おばちゃんの買った弁当を指差した。だが、店の女主人は、まだ何やら聞いてくる。何を聞かれているのかわからないので首をかしげると、女主人は店先につる下がってるいろんな種類の鳥を指差し始めた。なるほど。鳥の種類が選べるのか。わたしは一番でかい、一番グロテスクな格好で渡る下がっている鳥を指差した。どうやら鴨らしい。

金を支払い、わたしは奥の方のテーブルについた。この界隈に外国人がくるのは珍しいようだ。女主人はわたしの様子を見て、「まずいわね、あたし英語も日本語も喋れないわよ」という笑みを浮かべていた。客層も常連の台湾人ばかり、という感じで、本当に大衆的な店、という感じがする。なんとなく、おしゃれに変わってゆく街の中に残る、変わらない生活文化の空間に紛れ込んだような気がして、わたしは嬉しい気分になった。これで食事もうまければ、最高だろう。

食事が来るのを待っていると、おっさんがやってきて、何も言わずにわたしの座っている席の左前に座った。こういう相席文化はいい。知らない人と、言葉を使わずとも家族になれるようだ。おっさんはすぐに立ち上がり、そばにあったジャーから何やらお茶のようなものを紙コップにそそぎ、近くにあった鍋からスープを紙のお椀に注いで、テーブルに置いた。なるほど。そういうサーヴィスがあるのか。わたしはさっと立ち上がり、おっさんがやったように、スープとお茶を注いだ。スープはかき玉のスープで、コーンが入っていた。ほんのりした甘さと卵。味は標準だったが、暖かかった。お茶の方はというと、なぜか甘茶である。だが甘さはそこまできつくなく、悪くはなかった。わたしはあまりお茶に砂糖を入れない(紅茶でも)が、そこまでひどいものではない。

しばらくして、これまた紙製の、弁当箱のようなプレートが運ばれてきた。真ん中には白米、その周りには野菜炒めと、例の鴨肉がボンとおかれ、漬物もあった。早速肉をパクリと食べてみる。なかなかうまい。皮はパリパリで、中はホクホクしていて、鴨の香りがほんのりとする。米と一緒に食べるととてもうまい。表現するのが難しいが、すごくうまかった。羊肉飯を超えて、台北滞在中に食べた最もうまい料理にランクインされるくらいの味だった。さすが、店先に吊るしておくだけのことはある。

あっという間にペロリとわたしは弁当を平らげ、締めにもう一度甘茶を飲んだ。左隣のおっさんは出て行く時に会計をしていたが、わたしはもう会計を済ましていたため、そのまま出て行った。出際に店主のおばさんとおじさんに、「はおちー、しえしえ(オイシカッタデス、アリガトゴザマス)」と告げた。告げたくなるくらいのうまさだったからだ。するとおばさんはいままで、わたしを外国人だと警戒していた顔を少しほころばせて、「謝謝!(ありがとね)」と答えた。うまい料理はやはり、人の心をつなぐようだ。それもこれも、この古そうな店がずっと変わらずにいてくれたからだろう。

灼熱の外へと出て、わたしはそろそろ「慶康街」を出て行こうと思った。昼食も済ませたことだし、これ以上はもういいだろうとふと思ったのである。次の目的地は、珍しく決めていた。それは、「行天宮」という場所であった。

旅することは動き続けることではない PART1

「It is hard for me to exchange money」

嵐の前の静けさは、台湾の灼熱の太陽の前では、嵐の前の激しさに変わる。その話はこの前にもしたはずだ。だが、それをまた経験することになるとは思ってもいなかった。

 台北滞在五日目

台北滞在四日目の夜は、前述したようにかなり充実したものとなった。だが、それと引き換えに失ったものがある。現金だ。そう、現金。出発前に、わたしは一万円分だけ台湾ドルに両替し、それに加えて五万円ほど日本円で持ってきていた。一万円分の台湾ドルなど、すぐに消えてしまうと思っていた。

それがだ、そこをついたのは台湾滞在四日目である。ここまできたらもう一万円だけで七日暮らしてみたかったが、さすがにそれは無理があるし、ここまで楽しんでおいてこれだけの出費だと思うと、台湾恐るべしだ。日本では考えられないだろう。一日1万円が日本やヨーロッパでの旅の原則なのだから。

思えばヴェトナムに行ったときも、同じような感じだった気がする。いや、ハノイはもう少し安かったかもしれない。

まあとにかく、わたしに今必要なのは両替だということである。

 

朝食のサンドイッチとコーヒーを受け取り、ロビーにあるカウンターでサンドイッチを頬張った。それからコーヒーを持って公園に出かけた。アジアに来たからには、朝の公園に行かなければいけない。

コーヒーをすすりながら、わたしは公園のベンチに座って空を眺めた。それぞ最高の旅のやり方だと、ケベックで気づいたからである。だが問題があった。暑いのだ。空は昨日の曇天と比べると、雲ひとつない快晴。台北では、それは地獄の始まりを意味する。ジリジリと照りつける太陽、暑い湿気が体にまとわりつく。そしてわたしの手には何と熱々のコーヒー。コーヒーをすするたび、汗が噴き出す。そんな状態で、わたしは朝の若干爽やかな空気を感じた。

今日に限っては、実は公園でのんびりするのには理由があった。というのは、日本円から台湾ドルに両替できるのは、「台湾銀行」という「外貨取引許可」を持つ銀行だけらしく、その台湾銀行の本店がホテルのそばにあったのだが、そこの開行時間が9:00だったのだ。現在時刻は8:30。30分ばかり待つ必要がある。

9:00になって、わたしはコーヒーも飲み終えたので、空いたカップをゴミ箱に放り込み、公園のすぐ隣にある、仰々しい日本統治時代の建物をそのまま使った「臺灣銀行旧字体がふさわしいような建物)」本店へと向かった。だが、みたところ、どうにも空いているようには見えない。どでかい地獄の門のようなもんはしっかりと閉じている。様子がおかしい。だがわたしはとりあえず扉を押してみた。だが、開かない。「押してダメなら引いてみな」と、引いてみても開かない。どうも、ここはダメみたいだ。

その後何件か「台湾銀行」を回ってみたが、やはりどうにも開いていない。暑い中、路頭に迷ったわたしは、現代人に大いなる英知を与えてくれる、偉大なる全知全能の存在、そう、あの、「google先生」に頼ることにした。そのためには、現代人の命の綱「wifi」だ。わたしは台北車站(台北駅)の大ホールへと向かった。そしてそこで地ベタリアンたちとともに地べたに座って、ケータイを開いた。

調べてみると、どうだろう。両替は「台湾銀行」以外でもできるというではないか。台湾では、タイやヴェトナムのようにその辺の店で両替をすることはできない(その辺の店、というのは、新宿にもあるような、両替屋である。レート表が掲げられていて、そこで両替をする)。なぜなら、台湾には「外貨取引許可」というものがあって、その許可が下りていなければ、外貨を取り扱えないからなのだ。だから、銀行で両替するしかない。あるいは、デパートやホテルでもできる。だが、銀行以外のところで両替をするとレートが悪く、確実に損をするのだ。

わたしは、台湾銀行が軒並み閉まっている上に、台北駅周辺以外で台湾銀行をあまり見ないので、台北銀行以外をあたることにした。幸い、一日乗車券を買うくらいの余裕(180 NT=¥540)はあるし、せっかくの晴天だから、わたしはどこかに出かけて、そこで両替をするという策に出た。

 

また、わたしはあてもなく地下鉄に乗り込んだ。さて、どこに行くか。わたしはとりあえず、今年の初めに台北に行ってきていた叔母のアドバイスに従ってみることにした。台湾の代官山「慶康街」へ行くことにしたのである。なぜか。それは、今まで見てきた台北とは一味違う世界を見てみたかったし、それがあるという台北中央部にはあまり行ったことがなかったからだった。そこに向かうには、「東門(ドンメン)」で降りる必要がある。だがせっかくなので、その前の「中正記念堂」駅で降りて、地図上に書いてあったおそらく有名スポット「中正記念堂」に行ってみることにした。前日に行った「國父記念館」がなかなか面白かったからだ。それに、多分無料である。

 

「中正記念堂」駅は、降りるとすぐに中正記念堂に繋がっていた。明らかに、「国父記念館」より優遇されている。駅を降りると公園があり、公園の奥へ奥へと歩くと広場があって、正面にはどでかい中国風の社殿、その向かいにも巨大な社殿、そして正面の社殿の左隣には龍語句の陶器に描かれていそうな巨大なもんがそびえ立っていた。あまりの異空間ぶりに驚きながら、わたしは灼熱の広場(照り返しがものすごい)の中心へと向かった。これはすごい。すごいの一言に尽きる。巨大な空間、門、社殿、社殿。そしてくるりと回ってみると、二つの「社殿」は実はこの空間の主人公ではないということに気がついた。そもそも、社殿と門で囲われた空間は広場ではなかった。門から、門の向かい側に存在する社殿なんかよりもさらに巨大な白く輝く霊廟へと続く広い道だったのだ。主役はそう、霊廟だったのである。それこそが、「中正記念堂」の正体だった。

わたしは記念堂に向かって歩いた。灼熱の中を。何も遮るものがないので、太陽の光が直接、道へと照りつけている。写真を撮ると太陽の光線が写真に写りこむほどだ。巨大な一本道は人がまばらで、広大な砂漠を一人で歩いているような印象を抱かせる。

道を最後まで歩けば、霊廟にたどり着く。近づいてみると、かなりの高さだ。霊廟の本殿までは、マヤ文明のピラミッドのような階段が続いていた。階段は白く輝いていて、太陽が照りつけていた。階段を上れば、まるで閻魔大王の宮殿に登る死者の気分である。冥土の階段の上の方にはたくさんの観光客が腰掛けていた。腰掛けたい気分もわかる。ものすごく暑いのである。だが、腰かけているのはそれだけのせいではなかったようだ。登り終えて、階段の方を振り向くとそれがわかった。先ほどの間で歩いてきた巨大な道が、門の方まで貫き、その両端には社殿が控えている。空は青く、雲は少ない。門の向こうには台北の街が広がっている。まさに「絶景かな」。暑くても登る価値はあったわけだし、そこに腰かければきっとすばらしい何かを感じられるだろう。

だがとりあえずは、廟の中に入ろう。わたしは巨大な入り口の中へと入ってみた。

なかには、「国父記念館」よろしく、巨大な蒋介石(号が「中正」)の像が、ワシントンDCのリンカーン像の要領で、あった。微笑む蒋介石を、中華民国国旗が隣で支え、像の後ろの壁には「科学」「民主」「倫理」の三つの文字がそびえ立っている。きっとこれが、中華民国の理念なのだろう。

蒋介石の像があるホールには、社会科見学と思しき少年少女たちで溢れていた。ずいぶんこういうことに台湾の学校は力を入れるようだ。故宮博物院でも、社会科見学の子供らを見た記憶がある。

 

そのあとは、記念堂を降りて、ホールの下の空間にあった博物館の中を見た。国父記念館と違い、蒋介石の乗った車などが展示されていて本気度が見え隠れする。蒋介石の執務室の再現などもあった。そしてこれが重要なポイントだが、冷房がかなり効いていた。

とはいえ、わたしは「国父記念館」のほうが好きだ。こちらはどうも荘厳すぎる。「国父記念館」はなんとなく居心地の良さがあったが、こちらにはないのだ。確かにすばらしい建物だし、記念堂から見下ろす例の巨大な道と門は絶景だった。だがそこには人間らしさがなかった。国父記念館には、謎のレストランがあったり、記念館のバルコニーでダンスする若者がいたり、記念館の前で遊ぶ親子がいた。中正記念堂は綺麗過ぎるのだ。だがもし行くなら、億劫がらずにあの階段を上ることをお勧めしたい。

 

中正記念堂を通り過ぎると、中国の宮殿にありそうな回廊があった。そこを歩いていると、伝統的な楽器の音が聞こえた。そして歌声も。わたしはその声のヌシを求めてさまよった。すると二人のおじいさんが回廊の端に腰掛け、一人は楽器を弾き、一人は歌を歌っていた。それはどうやら観光客向けにカネを取る類のものではなかった。単純に趣味でやっているのだ。その証拠にカネを入れるものもないし、聞いている人もいない。純粋な練習の空間だった。どんなところにも、人の生活はあるのかもしれない。わたしはそう思い直し、記念堂の敷地を出た。

 

ブーンという車の音を聞き、わたしは思い出した。そうだ、両替をしていなかった、と。これは死活問題である。わたしは大急ぎで銀行を探した。すると幸いなことに「富山銀行」という銀行を発見した。ここも、「外貨取引許可」を得ているはずだ。

しかし、この銀行も閉まっていた。何かがおかしい。しばらく銀行の閉ざされた入り口を見ていると、張り紙がしていることに気づいた。張り紙は全編中国語で、漢字だらけだったが、日本人ならなんとか意味がわかる代物だった。「閉」、「五日間」……どうやら、五日間しまっているようだ。なぜ?……「中秋節」……そうか! 中秋節! 中秋節のせいだったのか。これはやられた。日本では中秋節は国民の休日ではない。だから忘れていた。この国では中秋節が休日らしい。そういうことだったのか。

これは重大な問題だった。中秋節は9月15日で、今日は16日。帰国は17日。となると、わたしの滞在中に銀行はひらかない。ピンチだ。今両替しないと、餓死してしまう。仕方がないのでわたしはデパートかホテルで両替することにした。といっても、両替できそうなデパートというと、わたしのホテルのそばの台北駅前にある「三越」くらいしか思い当たらない。そしてわたしは今、台北駅からわざわざ「中正記念堂」駅まで来ている。ここで戻るのは面倒だった。だが、背に腹は変えられない。そう決意したわたしは、現在地から一番近かった「東門」駅へと向かい、「台北車站」へと向かうMRTに乗り込んだ。

Fifteenth Night PART4

「Fifteenth Night」

一畳一間のホテルで休息を取り、外に出てみると、もう真っ暗になっていた。台北の夜は6時に始まる。

この日の夜はジャズバーへ行こうと決めていたが、ジャズの演奏は9時半からで、それまでの間は、昼に行った「臨江街夜市」の真の姿(夜バージョン)を見に行くことにした。お恥ずかしい話だが、台北滞在四日目にして、これが初めての夜市だった。初日は、夜市というには規模が小さい、ホテルのそばの謎の市場で食事をしたし、二日目は站前地下街という駅の地下街で夕食をとった。三日目はといえば、これもまた地下街だった。何もかも台風のせいだ。だが、あれはあれで楽しかったからよしとしよう。

紫色に怪しくライトアップされている台北駅からMRTに乗り、午前中と同じように淡水信義線「象山」行へと乗り込む。目的地はもちろん臨江街観光夜市のある「信義安和」駅だ。

駅から外に出ると、真っ暗である。どうやら朝とは違う出口から出てしまったらしく、どこへ行ったら良いのかわからない。ライトアップされた101が見えたので、そこを基準に来て、頭の中の地図をたどることにした。

ウロウロしているうちに、昼間見かけた繁華街「通化街」にたどり着いた。これは幸先がいい。ネオンで輝き、人で賑わう通化街。夜になると、店員達が店の外に出てきて、何やらバーベキューをしている。それはどこか一家団欒のようで、日本にはない文化だと思った。バーベキューの煙は、わたしの食欲をそそった。こういう時に、「何やってるの?一緒に食べてもいい?」というようなずかずかとした感じになれたらいいのだが、わたしはどうにもそんなことはできない。そんなわけでわたしは通化街をたどって、遂に、臨江街観光夜市にたどり着いた。

そこは相変わらず人でいっぱいだった。昼間はメインストリートから一本外れた道もかなり盛り上がっていたのだが、夜はメインストリートだけにしか人がおらず、どことなく寂しい雰囲気をたたえていた。だが、メインストリートはもうお祭り騒ぎだ。まるで日本の夏祭りのようである。フレッシュな果物のジュースを売る店、ソーセージを焼く店、焼き鳥を焼いている店、かき氷を売る店、そして訳のわからない洋服屋……日本人が年に3日ほどしかできないことを、この国の人たちはよくもまあ毎日できるものだ。

わたしは人混みに揉まれながら、やれ焼き鳥だ、やれ先住民伝統のイノシシ肉ソーセージだ、やれ北京羊肉串だ、と食べ歩きを重ねた。焼き鳥は、まあ、屋台料理だなという感じだったが、北京羊肉串は絶品だった。どうしてわざわざ台湾で、敵国の北京の名前を冠したものを食ってしまったのかというと、匂いがたまらなかったからだ。わたしはトルコ料理に目がない。トルコ料理では肉を焼くときにクミンという、ハンバーグにも使うスパイスを使うことが多いのだが、その匂いがプーンとしてきたのだ。もはや、食うしかない。わたしはクミンの香りが大好きなのである。案の定うまかった。イノシシ肉ソーセージの方はというと、なかなかおもしろい味がした。まずいという意味ではない。うまかった。ただ、独特なのだ。甘い風味があり、そして肉はかなりジューシー。臭みという臭みはなく、少々ワイルド感にはかけたが、食ったことのない味がした。

途中で、「羊肉飯」という文字が看板に書かれた食堂に入った。わたしは羊肉に目がない。臭みが嫌だという人もいるが、わたしはあの香りが好きなのだ。そういうわけで即決でこの店に入った。店に入る前に、メモ帳に「羊肉飯」と書き、店頭にいたおじいさんに見せながら、

「うぉーしゃんやお、じぇーが!(コレタベタイデース)」と主張してみる。するとおじいさんはメモをじーっと見て、

「ah! 你要羊肉飯!(ああ、ヤンローファンが食いたいんじゃな)」とにっこり微笑みながらいった。牛肉麺が「ニューローメン」、魯肉飯が「ルーローファン」だから、「肉」は「ロー」となる。すると、「羊」は「ヤン」というわけになるな。わたしはこくりとうなずき、席に着いた。店内にはどうやら現地人しかいないようだ。

しばらくすると、羊肉には珍しく淡白な色の薄切り焼き肉がのった丼が来た。肉を一口食べると味は薄い。なるほど、これはソースをかけるやつだなとわたしは判断し、テーブルに乗っていた赤い色の「食べるラー油」に似たソースをぽそっとかけた。

これが失敗だった。ひどく辛い。咳き込むほどに辛い。わたしは米の部分を多めにしながら真っ赤な魔のソースを食べきろうとした。

その時気づいた。丼はつゆだく状態になっており、椀の下の方に肉の旨みがたっぷりの汁が入っていたのだ。あれと絡めて食べればちょうどいい塩加減。やられた。

なんとかして赤いソースを処理し、椀の下にある汁を米と絡めながら食うと、すごくうまい。辛いソースのおかげもあって、食欲は全開で、より一層美味しかった。羊肉の臭みがないのは残念至極だが、まあ仕方がない。うまいからいいじゃないか。わたしは黙々と羊肉飯をかきこんだ。

帰り際に、はじめて、「真好吃(おいしかったです)」と言ってみた。本当に美味しかったし、店に入った時に笑顔で迎えてくれたのが嬉しかったからだ。ずっと一人だと、日本語での会話よりも、むしろ笑顔に飢えてくる。

対応してくれたのはおじいさんの奥さんだったが、すごく喜んでくれた。初めは外国人だと警戒してか、ずっと強張った顔だったものだから、なんとなくこちらも自然に笑顔になった。

外に出ると、月が見えた。折しもこの日は十五夜だった。日本も台湾も、同じ中秋の名月が照らしている。いや、もっと言えばモントリオールも、ハノイも、バンコクも、ホーチミンも、ホイアンも、ロンドンも、パリも、ローマも、ベルリンも、ミュンヘンも、皆同じ空の下、同じ月に照らされている。そう思うと中国語に疲れたなんだと言ってる自分はちっぽけだ。

台湾では中秋節は結構大事にされているようで、ニュースでも、かなり猛烈な台風後だというのに、取り上げていた。

しばらく、何往復も夜市を回った。また来たいと思った。毎往復ごとに雰囲気が変わる。それは、例えば店が開いたり、あるいは閉じたり、人が増えたり、あるいは減ったりするからだ。夜の9時になるとそろそろ下火になるようで、人も減ってゆく。わたしはそのあたりで、またまた愛玉を飲んで、駅へと向かった。そう、ジャズバーへと向かうためだ。

 

台北市MRT淡水信義線の最終駅「象山」駅から徒歩5分くらいのところに、そのジャズバーはある。101のお膝元という感じで、ライトアップされたこの現代台北の象徴がそびえ立っているすぐそばに行けばバーが見つかるはずだ。ただし、入り口はわかりづらい。バーのある建物の裏口のような場所に入り口があるのだから困る。

バーに入ると、演奏はもう始まっていた。どうやらラテンアメリカのジャズ特集らしく、パナマ帽をかぶったボーカルが、スペイン語の歌を歌っている。雰囲気はさながら「マスク」で、アップテンポの音楽が流れる中、ステージのそばでは男女が踊っていた。

いきなりバーに座っていいものかわからず、バーテンに聞いてみるも意思疎通ができず、何とかして思いを伝えると、テキトーに座れという。

バーに座り、メニューを受け取る。が、メニューがよくわからないので、とりあえず、「オールドファッション」を頼んだ。出てきたものを飲んでみると、どうやらウイスキーベースのものらしい。

オールドファッションをちびちびやりながらアップテンポのラテンミュージックを聴く。それは旅のちょっとした疲れを癒す時間でもあった。ただ、店が広いのと、隣の客がかなり酒が回ったまま喋っているのとで、なんとなくミュージシャンとの一体感というものは感じられなかった。だが、エネルギッシュな音楽はわたしのエネルギー源になってくれていたような気がした。踊りたいような気もしたが、そもそも踊り方をよく知らないし、若造が誰か女性を誘うのも場違いな気がしてやめた。わたしはとりあえず、ラテンな酒をと、ダイキリを頼んだ。なかなか通じず大変だったが、最後にはありつけた。

 

つかの間の贅沢の後、わたしは帰宅の途に着いた。終電の時間もバッチリ調べた。これで平気だ。バーを出ると、空は晴れて、月の明かりがよく見えた。

MRTに乗り込む。客数は夜中なので少ない。しばらく電車に乗っていると、一人のおじさんが入ってきて、わたしに何やら声をかけてきた。どうやらわたしの隣の席にレシートが落ちていたようなのだ。わたしのものではないので、とりあえず首を振るが、まだ何やら言う。全くわからない。わたしは、

「うぉーぶぅほあいすゅえ、はんゆー(中国語シャベレマセーン)」

と言った。すると、しゃべっとるやないかい、という顔をおじさんがしたので、これはまずいぞ、と、

「I'm foreigner(スミマセン、ワタシ外国人)」と英語で伝えた。するとおじさんは、ハッとして、

「So you are nether Chinese nor Taiwanese (アナタハ中国人デモ台湾人デモナインデスカ)」

よく、わたしは現地人に間違えられる。到着双方中国語で話しかけられたし、故宮にいくためにバス停に並んでいた時もそうだった。しかたない。そういう星のもとに生まれたのだ。

「No (はい、違います)」

するとおじさんはこういう。

「Then...(それじゃ……)」

日本人だというと何か危ないことに巻き込まれるかもしれない。一瞬そう思ったが、おじさんに下心はなさそうだったし、わたしは日本人だと言った。するとおじさんは再びハッとした表情になり、

「日本の方ですか!」

話を聞くと、日本語を四年間勉強していたという。今はコリア語をやっているらしい。

「学生さんですか?」とおじさんは流暢な日本語で尋ねた。本人曰く日本語は全然ダメらしい。「日本語は曖昧だから難しい」と言っていた。わたしの経験上、日本語がうまいですねと聞いて、全然、と答え、日本語は曖昧で難しい、という人はたいてい日本語がかなりうまい。答え方まで知っているのだから。

「ええ。」

「一人で台北に来たんですか?」

「はい、一人です」

「危なくないですか?」これには驚いた。というのも、台北はかなり安全だったから、市民の人も安全だと思っているに違いないと踏んでいたからだ。

「いえ、今のところ平気です。人は優しいし、食べ物もおいしいし、とてもいいところです」そう、率直に感想を言うと、おじさんは嬉しそうだった。

「今日は、中秋節です」とおじさんは言う。「中国では、月を見るお祭りです」

「日本もそうですよ」とわたしは言った。

「そうですか。日本では何かやるんですか?」

「はい。日本では団子を食べます。団子の形が、月に似ているからです」

「台湾では……」おじさんは言った。「 みんなもう月は見ません。今はみんなバーベキューをします」

そうか。夜市に行った時に店の人たちがみんなでバーベキューしていたのは、中秋節のお祭りだったのか。それは知らなかった。やはり、現地に住む人に話を聞いてみないとわからないことってあるな。わたしはそうしみじみと思った。

「日本でオススメの場所はありますか?」とおじさんが尋ねた。わたしのオススメの場所というと、上野や大久保、荻窪などだが、ちょっとマイナーすぎる気もしたし、上野のアメ横の界隈はむしろ台湾っぽいのでやめた。

「京都に行けば、古い町並みが残っています」結局わたしは当たり障りのないことを言った。

「古い町並みといえば、萩が良かったです」とおじさんは言う。申し訳ないことをした。萩なんて、わたしも行ったことがない。京都ではなく、正直に上野と言うべきだった。

「台北のオススメの場所はどこですか?」と逆に聞いてみると、京都と答えた報い、「故宮博物院」と「士林観光夜市」というかなり有名どころを紹介された。と言っても、士林には行っていなかったのでいい情報にはなった。

「士林は夜になるとたくさんの人たちがやってきて、とても賑やかな場所です」とおじさんは言った。そういうところに行ってみるのもありかもしれないと思った。

そのあと、わたしはオススメの食べ物を聞いてみたが、悲しいかな、おじさんが考えてくれている間に電車は台北駅に到着してしまった。わたしは、「ありがとうございました」と礼を言って、駅に降りた。

 

思えば不思議な日だった。昼の夜市、国父記念館、ジャズバー探し、そして夜本番の夜市、ラテン音楽で賑やかなジャズバー、それからプチ国際交流。いろんなことがあった。これこそまさに旅。こんな1日になったのはもしかすると、それは十五夜のおかげかもしれない……などと感傷的なことを思いつつ、今日1日で日本で両替した一万円分の軍資金がすっかり消えたことに気がついた。

Fifteenth Night PART3

「昼の夜市とジャズバークエスト」

国父記念館から、昼の臨江街夜市へは、大した道のりではない。曇りだったから日差しも大した事はないし、かなり広い大通りを伝ってゆけば、いつの間にかたどり着く。途中で派手でゴテゴテとした中国式神社があり、そこのすぐ隣が、夜市のメインストリートだ。

 

朝に比べて、少々人足は減っていたが、昼の市場もかなり活気があった。わたしは食事場所が並んでいる、ひときわ汚いエリアへと向かい、目つきの鋭いおばさんがやっている屋台に並んでみた。一番人が並んでいたのだ。ただし、何を頼めばいいのか全く見当もつかないので、事前に知っていて、今まで食べていなかった「魯肉飯(ルーローファン)」なるものを食べてみる事にした。

「うぉーしゃんやお、るうろうふぁん(ルウロウファン、クダサイ)」

というと、おばさんは一瞬、「?」という表情を浮かべたが、数秒後にわたしの発音が悪すぎる中国語をなんとか理解したらしく、

「你想要魯肉飯嗎?(ルーローファンが欲しいのね?)」と聞き返してきた。わたしはとりあえず頷く。叔母はさんはまた何やら聞いてきた。全く理解ができないので、「?」という表情を浮かべると、向こうの方を指差し、その後で地面を指差した。なるほど、ここで食べるか、それともテイクアウトかと聞いているのだろう。わたしは地面を指差し、ここで食べる事を伝え、料理が出るのを持った。数秒で、小さなお椀に入った魯肉飯が出てきた。わたしは屋台に貼ってあった紙に書いてあった「30元」を払った。するとおばさんはまた何やら言った。わたしはまた「?」の表情を浮かべる。おばさんは今度は屋台の向かい側にあった、食堂のような場所を指差した。ああ、あそこで食べるのか。わたしは

「しえしえ(アリガトゴザマス)」

と言って、食堂へと向かった。

といっても、本当にここで食っていいのかよくわからない。というのも、あの屋台以外にも、食堂のそばにいろいろな屋台が立っていて、もしかするとどこか別の屋台の食堂かもしれないような雰囲気があったからだ。だが、間違っていたら、誰かが何かを言うはず。わたしはとにかく椅子に座り、初めての魯肉飯を口にした。見た目は牛丼。だが肉が薄切りではなく、でかいままドンと置かれている。

食べてみると、とてもうまい。現状、台湾で食べたもののうち一番にうまい。柔らかく煮込まれた肉が、無数の豆腐のようなものと、「台北味」とでも名付けられそうな、例の八角香る茶色いタレで味付けされ、白米の上にボトンと乗っている。ご飯と肉、その相性はぴったりで、口の中に入れれば、肉はトロけ、香りが口いっぱいに広がる。使い古された表現だが、箸が止まらなくなるのである。

一瞬にして食い終わり、わたしは皿を、食堂の端で食器を洗っているおばさんに、「しえしえ」と言って渡し、市場に出た。まだ何か食えそうだ。

 

だが、結論から言うと、そのあとは何も食べなかった。色々ありすぎて、目移りしているうちに、食欲がどこかに行ってしまったのだ。「総統饅頭」という謎の肉まんや、普通の肉まん、餃子、涼麺(本場の冷やし中華)……。どれも旨そうだったが、どうにも店に入る気になれなかった。やはり言語の壁に疲れつつあった。

結局、わたしは果物屋で「檸檬愛玉(リーモンアイユー)」という台湾スイーツを買って食べただけだった。いや、食べたというよりも、飲んだという方が正しいだろう。というのも、このスイーツは檸檬ジュースに、寒天のような「愛玉」を入れて、ストローでチュルチュルっとすするものなのだから。これがさっぱりして美味しい。だが問題点もある。これをすすったら最後、お腹がいっぱいになってしまうのだ。そういうわけもあって、わたしは昼の市場で他には何も食べなかった。潮時のような気がしたので、わたしは市場を離れ、駅へと戻った。

 

天気は好転していた。曇り空は晴れ空に変わり、むしっとした暑さが吹き返して、むしろ増していた。わたしは、次の台風がやってくる前のこの晴れ模様をなんとか活用したくなった。そうだ。夜にジャズバーに行こう。わたしはそう思った。

ヴェトナムを旅した時、わたしは友人とともに、ジャズバーに入った。偶然見つけたところだったが、かなり良かった。ヴェトナム一のサックスプレーヤーがたまたま出演していて、旅の中でのちょっとした刺激となった。台湾滞在四日目にして、少々、早々、疲れが出始めていたわたしにとって、ジャズバーのようなちょっとした洗練された空間の刺激が必要な気がしたのだった。

 

そのあとは、ガイドブックをめくっていて見つけたジャズバーを探し出そうと奮闘し続けた。台北101/世貿中心駅でおり、なんとかそのジャズバーを探すべく、歩きに歩いた。だがなかなか見つからない。その途中で、「台北最後の秘境」ともいうべき、昭和の日本がそのまま残っているような場所に遭遇したり、いまだ正体のわからない建設中の螺旋状ビルを発見したり、きみのわるい銅像を見つけたり、かなり面白かったが、肝心のジャズバーは姿を現さない。わたしはwifiスポットへ行き、最終手段、「グーグル先生」を頼ることにした。すると、入り口がわかりづらいところにあることがわかり、最後には場所を確認できた。だがかなり体力を消耗していたので、わたしはとりあえず、ホテルへと戻ることにした。夜に向けて、だ。