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ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

ノンかダーか、スウアかデンか

ヴェトナムといえば、と聞かれたら、多くの人はなんと答えるんだろう。アオザイ、春巻き、そして最近ではポピュラーになってきたフォー、そして頭にかぶる浅い三角錐の形をした「笠」のイメージもある。若い女性には「キッチュな雑貨」が有名かもしれないし、少し年配の人にとっては「ヴェトナム戦争」を思い起こさせるかもしれない。

だが、一つ忘れがちなものがある。それは、「コーヒー」である。あまり知られていないがヴェトナムはコーヒーの原産国なのだ。バンメトートやダラットといった南部の産地ではコーヒー作りが盛んであり、あのブラジルと張り合えるほどの生産量を誇る(2012年には、輸入に関してブラジルを抜いて世界第一位になったそうな。『地球の歩き方 ベトナム』より)。そしてヴェトナム国内での消費も盛んで、どの都市に行っても必ずカフェが存在し、地元の人で賑わっている。ヴェトナムで観光客のいないところを探すなら、カフェに行けば間違いない、と言えるほど、カフェは地元の人のたまり場である。

ヴェトナムのカフェ。それは他の国のカフェとは形状が少し違う。その姿はまるでヴェトナムの食堂のようで、例えるならガレージのような形である。外壁?何それ、と言わんばかりにオープンで、席は道の外まで出ている。たいていの席はなぜだか道の方を向いているため、店に入ってコーヒーを飲んでいると、必然的に道行く人を観察したり、道路を行く車やオートバイを眺めるようになる。中には日本のカフェ並みの広い空間がカフェの店内になっているような店もあるが、ヴェトナムでは日本の普通のガレージ並みの大きさのカフェもたくさん存在している。その占有面積の多様性から考えるに、おそらくハノイなどの都市にはきっと、世界の他の都市よりもたくさんのカフェがあるに違いない。なぜなら、パリやメルボルン(こちらもカフェ都市として知られる)ではある程度の大きさの面積を持っていなければカフェとして成立しないが、ヴェトナムでは小さくても路上をカフェにしてしまうことができるからだ。

 

今回のヴェトナムの旅では、いろいろなカフェに入ったと思う。それはまず一つに、ハノイでは腹痛を抱え、フエは大雨、ホーチミンは暑かった、という理由もあるが、やはり前回行ってみてヴェトナムはコーヒーの国だと実感したからである。

私が一番好きだったのは、ハノイの旧市街の「グエン・フウ・フアン通り」にある「ナンズコーヒー」のコーヒーであった。それは、看板の言葉を信じるなら1958年(ヴェトナム戦争の開戦前夜)から営業しているという、おそらくハノイ市内限定のチェーン店だ。「グエン・フウ・フアン通り」には何店舗かあって、どこも地元の人で賑わっている。私たちが入ったのはその中でも割と大きめの店舗で、日本のガレージ二つ分くらいの大きさの店である。そんな店の目の前には、まだ貧しかった頃のヴェトナムを再現している大型チェーンの「コン・カフェ」があり、そちらも結構賑わっているから、なかなか挑戦的である。

何もわからないままカフェに入り、とりあえず人数を伝える。すると店員が椅子を店内から持ってきて道路のそばに置いてくれた。メニューでもあるのかと、とにかく椅子に座ると、何も頼んでいないのにコーヒーが出てきた。向こうも外国人ということで面倒だったのかもしれない。

ヴェトナムコーヒーは、バターで焙煎された香り高いコーヒーを濃厚に淹れ、そこにコンデンスミルク(練乳)を入れ、それを混ぜて作る。混ぜ合わせると、色はコーヒー独特の黒ではなく、白みがかった茶色になり、味もコーヒーというよりもミルクチョコレートを溶かしたような味がする。ただし、甘くはあっても苦味もやはり生きており、複雑な味わいだ。これを「カーフェー・スウア」という。一方で練乳を入れないバージョンが「カーフェー・デン」。「デン」とは「黒」のことである。これは今回は飲まなかったが、前回飲んだ感じだと、ものすごく苦い。ポピュラーなのは「カーフェー・スウア」の方だ。これにはアイスかホットかがあり、冬の北部(気温は20度から27度程度)ではホットの「カーフェー・スウア・ノン」が落ち着くし、うまい。酷暑の南部(冬でも気温は30度越え)ではやっぱりアイスの「カーフェー・スウア・ダー」に限る。

などと言いつつも、その時出てきたのは「カーフェー・スウア・ダー」、すなわち「アイスヴェトナムコーヒー」であった。苦みがどれくらい入っているのか、は店舗によって違うが、ナンズコーヒーの場合は、苦すぎず、かといって甘すぎず、のちょうどいい配合である。少々肌寒くはあったが、美味しかった。

驚いたのは値段である。正確な値段は忘れたが、一人一万ドン台、すなわち日本円にして60〜120円だった。日本でカフェでコーヒーを頼んだら、おそらく一番安いであろうベローチェでも200円はする。それでいて、味はすごく美味しかった。

ただ、この衝撃価格も、店によってはある程度高い場合がある。私たちが去年ハノイを訪れて初めて入ったカフェ(ホアンキエム湖近くのカリナコーヒー。去年はWi-Fiのパスワードが12345678だったのが、今年はもっとマシになっていた)のヴェトナムコーヒー(カーフェー・スウア・ノン)の価格は一杯29万ドンだった。日本円にして約180円である。まあ日本からすると安いのに変わらないが、ハノイ的には高めだ。旧市街の中で落ち着いた雰囲気のある地区のこじんまりとしておしゃれなコーヒー専門店のコーヒーが確か27万とかその辺だったから、高いと言っていいだろう。

これがホーチミンに入ると物価が上昇する。コーヒーは基本3万ドンになるのだ。ヴェトナム風サンドイッチのバインミーより高く、ちょっとした麺類と同じ値段である。やはりこれが都会の価格、ってなわけか。

 

実は、濃いめのコーヒーにコンデンスミルク、と言うのはカンボジアにもあった。シェムリアップの街で歩き疲れた時に入った、「ノワールコーヒー」と言うガソリンスタンドのそばのカフェで飲んだ「クメールコーヒー(カンボジア風コーヒーという意味だろう)」も同じようなものだった。外はかなり暑かったので、砂糖と苦いコーヒーと氷の組み合わせは体を蘇らせてくれた。

 

そんなヴェトナムコーヒーだが、初めはどろりとして甘ったるいあの感じに驚くかもしれないけれど、ハマるとハマるのである。それはあのコーヒーが甘いがゆえである。暑い日差しに照らされて歩き回った時には、甘いものが欲しくなるのが人情だ。そんな時にヴェトナムコーヒーがうってつけで、飲めば疲れた体にじわーっと届き、体と心が蘇る。寒い日には(今回の旅だとフエが寒かった)、ホットの「ノン」を頼めば、体が芯から暖まる。日本でももっと普及すればいいのにな、なんて思ったりする。

f:id:LeFlaneur:20170223163025j:imageナンズコーヒーにて。コーヒーに人が入っているみたいである。

河内(ハノイ)、孤独の演歌路

※ 20日、フエ近郊で、先日このブログでも紹介したヴェトナム南北鉄道がトラックに激突して脱線し、トラックの運転手と運転助手、列車の運転手の三名が死亡、乗客も重軽傷とのこと。トラックの踏切無視が原因らしい。三名のご冥福と、乗客の方々の早期回復を祈るとともに、このような事故は日常茶飯事ではなく、この列車の持つ魅力はあくまでそのままであることを強調したい。

  

それは、ハノイについて二日目の夜、しょぼめの繁華街で焼きそばを食っているときのことである。どこからともなく演歌のようなメロディの歌が聞こえて来たのだ。

それ自体としては珍しいことではない。ヴェトナム人は演歌に非常に似たヴェトナム歌謡が好きだからである。珍しかったのは、それがCD音源でもラジオでもなく、スピーカーを台車に乗せて、それをゴロゴロ倒しながらマイクで歌い上げるおじさんの声だったからである。

流しの音楽家というのは、一度だけ吉祥寺で見たことがあるが、流しのカラオケとは驚きである。しかも、出だしで必ず音が外れるのだ。飯食う人々はそんな彼の歌声を聴いたり、遠巻きに見たりしている。そんな彼の心行きに、いやぁ真似できないけどいいな、と少しだけ思い始めた時のことだ。欧米の観光客が物珍しげに彼を取り囲み、何やらからかい始めた。だがそれでも男は歌い続けた。

流しのカラオケ。それは一人だけのものかと思っていたが、そうではない。というのも、そのあと別のところで別の人がやっていたからである。そちらでは屋台で何やら食っているおじさん連中がその男を呼び止めて、そばで歌わせていた。そうか、そういう風に楽しんでいるのか。そしてカラオケ男もそうやって生計を立てているのだろう。

 

ヴェトナム演歌。私はヴェトナムにいると自然と耳に入ってくる哀愁漂う音楽をそのように勝手に命名していた。それは単に、ガイドブックで知った本当の名前を忘れてしまったからだけではない。それらの曲は、やはり演歌に非常に似ていたからである。

メロディとしては、八代亜紀系統であり、演歌にカウントしていいのかわからないが「いい日旅立ち」や「まだ君に恋してる」、「川の流れのように」や「与作」にも似ている。歌声は男性は色々だが、女性歌手は大抵、石川さゆりのような声の人が多い。決定的に違うのは、盛り上がりである。日本の演歌が必ず盛り上がりがドバーッとあるのに比べて、ヴェトナム演歌ではそれが緩い。だからここで盛り上がるかな、と思わせていて盛り上がらない、という吉本新喜劇だったらみんなが一斉によろけるようなことがよく起こるのだ。

 ヴェトナム人は、なぜか老いも若きもこの「ヴェトナム演歌」が大好きである。例えば、フエからホーチミンに向かう列車でのこと。昼の二時くらいから五時くらいまで続いた昼寝のあと、我らがヴェトナム人一家ハオ家のみなさんは夕食を食べ、スマホでヴェトナム演歌を流し始めた。するとどうだろう、さっきまでかたや私のベッドまでよじ登ろうとしてくるほど元気が有り余っていて、かたやハオさんのベッドで泣いていたのに、楽しそうに歌い始めるではないか。ヴェトナムでは子供をあやすのに演歌を使うのかもしれない。それはどの家庭でもそうなのか、隣の個室からも演歌が聞こえてくる。

列車の旅では、他にもヴェトナム演歌を耳にする機会があった。それは車内販売のお姉さんである。時折、突然歌い始めるのだ。それもうまい。演歌演歌してるわけではない。だが、うまいのである。それは大河ドラマおんな城主 直虎」で柴咲コウ演ずる次郎法師のお経に似たような感じで、ヴェトナム演歌を歌っている。ちょっと鼻歌で、というよりもクオリティが高く、実はこの人は歌手になりたかったんじゃないか、というような感じだ。「歌上手いですね」と一瞬言ってみようかと思ったが、あまりにチャラい旅人になってしまうので、やめた。

 

このヴェトナム演歌の嵐は大都会ホーチミンでは下火となる。が、無論消えたわけではない。

去年ホーチミンに行った時に立ち寄ったカフェをたまたま再び訪れたのだが、その店では大音量でヴェトナム演歌を流していた。去年は気づかなかったが、それはもう、モーレツである。

やはりヴェトナムではヴェトナム演歌、なのか。

それにしても日本の演歌に似ている。そのため、ヴェトナム演歌が流れてくると、不思議と落ち着いた気分になってくるのである。いや、日本で演歌を聞くよりも、ヴェトナムでヴェトナム演歌を聞く方がよっぽど落ち着いてくる。これがなんとも不思議なことである。

調べてみると、ヴェトナム演歌の旋律も、日本の演歌の旋律も、元はと言えば中国の音楽をルーツとしているらしい。ヴェトナムの言葉には、多くの漢語が含まれており(たとえば「カ〜ムウン(ありがとう)」は「感恩(恩ヲ感ズ)」)、そういう言葉と触れるたびに、日本もヴェトナムも中華文化圏の中の国なのだなと実感するが、このように音楽という形で1つの延長線上にあると思うと、面白さと懐かしさとそれでいてヴェトナムの背負ってきた中国との争いの日々を思わせるような、複雑な心境になる。

 

実を言うとヴェトナムだけではない。

カンボジアにも、「カンボジア演歌」があって、時々テレビでカラオケ番組をやっている。そして街中でも、どこからともなく大音量の演歌が聞こえてくる。

 

私は別に演歌が好きだったわけではない。だが、旅先で聞こえてくる、そんな民謡のような歌にノスタルジーを感じたりしたものである。だから今度東南アジアを訪れる時は、スマートフォンに演歌のCDでも入れてみて、是非とも知り合った人に聞かせてみたい。そしていうのだ。

「ほら、似てるでしょ?」と。

釣る人々

エジプトはナイル川の賜物、と言ったのはとあるギリシア人のおじさんである。やはり文明とは川によっているところが大きいらしい。だから古くからある街には、たいていの場合は川が流れている。プノンペンにはトンレサップ川とメコン川シェムリアップにはシェムリアップ川、ハノイには紅河、フエにはフーン川、ホーチミン市にはサイゴン川が流れているし、それが東京なら江戸川や荒川、タイのバンコクにはチャオプラヤ川、ロンドンにはテムズ川、パリにはセーヌ川モントリオールならサンローラン川、と言ったところである。

 

さてさて、今回東南アジアに行って見て気づいたことがある。それは川沿いや湖沿いを歩くと、必ず一人は釣りをしている人がいることだ。

はじめに見たのはプノンペンだった。私たちはプノンペンからシェムリアップまで午前9:00ごろにバスで出発する予定だったため、朝七時ごろに朝食を市場で済ませ(その模様については、続「おやじ」で書いた)、プノンペンに別れを告げるため、時間になるまで川沿いを散歩していた。河川敷に入って歩いていると、向こうの方に人だかりが見える。それは釣り人たちの集まりだった。浮世絵で見たような、釣竿を猟銃のように構えら男、普通に構えている男たち、そして突然やってきて「おーい、釣れとるかい?」とでも言うかのように、イツノマニカ人の釣竿で釣りを始める男……。私たちはしばらくその様子を見ていた。

だが、なかなか釣れない。

見ている間に二、三回、あれ、かかったかな、と思わせるような状況があったが、どれもゴミが引っかかったり、逃げられたりしたようであった。それでも男たちはめげずに釣り糸を垂らしていた。猟銃の構えの男も、一人我流でそのポーズをとり、一度はかかったものの、逃げられたり、ゴミを釣り上げたりしながらも、諦めなかった。負けられない戦いがそこにはあった、のだろうか。それはわからないが、なんとなく男気のようなものを感じた。

 

シェムリアップの川は細く、さすがに釣りをしていた人はいなかったような気がするが(いたっけか?)、ハノイの中心部にあるホアンキエム湖には釣り人たちがいた。カップルだらけの湖のほとりにおやじ二人で座り込み、何やらやっているなと思ったら、釣りなのだ。百歩譲ってメコン川と合流するプノンペンの川での釣りならわかる。だがこのようなところにいるのだろうか。いや、疑問を挟んではならない。釣りとは信じる心なのだ……

 f:id:LeFlaneur:20170218185238j:imageホアンキエム湖

ホーチミンサイゴン川にもやはりいる。

釣り人たちは釣り糸を垂らしつつ、いい漁場をなんとか探し当てようとウロウロしていた。

「何が釣れるんですか?」

そう、聞いてみたかった。だが、彼らの真剣勝負に水を差すのは、粋ではない……と、いうか、たんに聞いたところでなんのことかわからないだろうな、と言う弱気な姿勢が胸をよぎったのである。いつになったらこういう姿勢を脱ぎ捨てられるんだろう。

f:id:LeFlaneur:20170218185209j:imageサイゴン

私もかつて、奥多摩で渓流釣りをしたことがある。その時はビギナーズラックで随分と大量のマスを取ったものである。「天才」などとあらぬ絶賛を父の友人にされながら、まんざらでもない気分になったのを覚えている。

あの渓流釣りの場所では、時が来ると管理員のような人が来て魚を放っていた。それを思うと、東南アジアのシティー釣り人たちは本物の漁場を相手にしているのだ。管理された漁場で神童ぶっていた自分が恥ずかしい。しかも彼らが相手にするのは本物であるだけではない。汚い!ゴミが浮いている!それでもめげずに釣り糸を垂らし続ける彼らに賞賛を送りたい。

統一と平和の道〜ヴェトナム南北鉄道で行く PART2〜

2. SE9 フエ→サイゴンホーチミン

 

フエに到着すると、私たちはガイドブックで見つけたやすそうで良さそうなホテルに飛び込み、チェックインをしながら、列車のチケットが取れるかどうか聞いてみた。列車に乗る、その心地よさを知ってしまったからである。
「とれますよ。あとでフロントに来てください」
よかった。
フロントに行って、列車の中に貼られていた時刻表のメモを頼りに、列車の選定を始めた。するとホテルの女性がこんなことを言った。
「なんで飛行機を使わないの?速いのに。電車だとほぼ1日よ」
またか。逆に聞きたい。なんでヴェトナム人のホテルの人は列車がそんなに嫌いなんだ、と。私たちはまたもジャパニーズスマイルでテキトーにごまかした。
結果的に夜にでて夕方に着く第一志望の列車、そして同じくらいの第二志望の列車は共に満員だった。だが昼にでて昼に着く、ほぼ24時間の列車は空いている。私たちはそれを取ることにした。

雨が最悪すぎてあまり楽しめぬままに私たちはフエをたった。駅までの運転手は日本語が話せて、
「電車は汚いです」
と言う。私は、すかさず
「でも旅情があります」と返す。なんだかだんだんこの状況に腹立たしさすら感じてきたのである。あんなにいい列車なのに、と。だが幸いこれは彼も納得してくれた。その男によるとフエは雨季だと言う。ガイドブックには書いてないし、あとで調べても全くどこにもそんな記述はないが、現に数日続けて雨だと言うからきっと本当なのだろう。

 

ヴェトナムの列車は正確である。遅延に遅延を繰り返す日本の列車よりずっと正確だとさえ思う。そのため、乗客は列車出発の1時間から30分前にはプラットホームへ向かわねばならない。
フエ駅に出発の30分前に到着していた私たちはすぐにホームへ向かった。駅員に聞くと「プラットホームワンだよ」と言う。こう言う時は慎重にがモットーなので他の係員にも聞いてみるとやはり1だそうだ。
途中でカップ麺とオレオを買って、私たちはフエの強烈に寒い気温の中、立って列車を待った。

列車は定時より早めに着いたと思う。前回とは違って若い女性の車掌(前回は愛想のいいおばちゃんだった)にチケットを見せながらこの車両でいいかとボディーランゲージで尋ねる。彼女は始めはヴェトナム語で何かを言ったが、私が解さないとわかると、列車を指して、
「rise!」と無愛想に言った。そういえば、ヴェトナム語では「列車に上る」という言い方をするのであった。が、それをそのまま英語にしてしまうと少し不思議になるな…などと思いながら、私たちは再び南北線に乗り込んだという次第である。

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6人部屋

 

今回の「同居人」は私たちと同じくフエから乗って来た四人家族だった。親は三十代くらいで、子供は二人とも幼稚園児くらいだろう。まだ昼の一時だったが、父親は息子二人を寝かしつけたいようで、部屋の中に入れては、外に出て来ようとする息子に厳しく「ほら、中に入りなさい!」というようなことを言っていた。
私は少しだけ眠って、それから車窓の外を眺めようと部屋を出た。すると同居人の父がそこにいた。
「どちらの国からですか?」と彼は英語で言った。
「日本です」
「英語OK?」
「はい」
「ヴェトナム語OK?」
「うーん、ちょっとだけ」
私は今回の旅のために少しだけではあるがヴェトナム語をやって来たのである。とはいえ、相手の言うことはよくわからない。それに発音のせいでうまく伝わらない。だがこの際だと、私はヴェトナム語で彼に話しかけた。
「かーっあいんでぃーだう?(ドチラマデユクアルカ?)」
「ニャチャン」と彼は言う。ニャチャンはリゾート地だ。家族旅行だろうか。「君は?」
「さいごん」私は聞かれたことを予想しつつ答えた。それから私は間を持たすために名前を聞いてみた。「あいんてんらずぃー(アナタノ名前ナニデスカ?)」
「はーお」ハオさん、か。「あなたは?」
「とーいてんらS(Sデース)」
そんなこんなで、私たちは会話とカウントしていいのかわからないような、会話をしばらくしていた。本気でわからない時は辞書を使った。今回は辞書を持って来たのである。これがなかなかいい。車窓を眺めながら目に入ったものをヴェトナム語でなんて言うのか調べるのも楽しいし、会話のツールになる。
ハオさんは、私をヴェトナム語を学ぶ学生だと思ったのか、車窓を見ながらないろいろな単語を教えてくれた。

「ヴェトナムには、北部、中部、南部があるだろ」とハオさんは言う。「ここは中部。ほら外を見て。「ムア(雨)」だ。三日前からずっとこうさ」
やはりか。どうやら雨季だと言うのは正しいようだ。ちなみに三日なのか三週間なのかはよくわからないからもっと大規模かもしれない。
しばらくすると起きた子供達が外に出て来た。ハオさんは子供のためにポップコーンを買った。
「コン(こども)」とハオさんは言う。
「こんあいん(ハオさんの子供ですね)」私はとりあえず名詞変化させた。
「こんとーい(そうさ、わたしの子供だ)」

それからまたしばらくすると、ハオさんは「スリープ」と言って子供達と部屋で寝てしまった。
窓の外を眺めていると、北部と変わらない田園の世界があった。車内販売のにいちゃんがやって来て
「このマンゴーうまいぜ。食いなよ」と言ってくる。それを見ていた車内販売のお姉さんが、ひたすら笑いながら「ノーノー」と言う。意味がわからないが、わたしはお姉さんの助言に従って「多すぎるよ」と突っぱねて、部屋に戻った。この漫才みたいな光景が徐々におかしく思えて来た。

ヴェトナム人の朝は早い。六時にもなるとホテルの外ではけたたましいオートバイのクラクションが鳴る。そしてヴェトナム人の夜は早いように見えて遅い。店は早めに閉じられ、路上は閑散とするが子供は九時くらいでも走り回っている。家族は八時くらいから夜の団欒を始める。
いつ寝ているんだろう。それが私たちの長年の疑問だったが、この列車でそれがわかった。昼寝、いわゆるシエスタをしているのだ。それもすごい長い間である。個室に入ると友人も含め、全員が寝ていた。寝るとするか。郷に入っては郷に従え、である。

ハオさんの奥さんが起きた音で目を覚ました。ドアが開いて、奥さんが外に出る。ドアの向こうに窓が見える。そこにはなんと海が見えた。見たい、と私は思った。そうこうするうちにハオさんママが帰ってくる。ドアはまた閉じる。私はベッドを降りて、下のベッドにいたハオさんの奥さんに謝って、外に出た。
外はすごい光景だった。山と海の世界である。雨の影響で地面ではジョロジョロと水が流れている。私たちは絶壁の上を走っているのだ。そして目の前には海がひらけている。そして海の向こう側には、去年訪れたダナンの街が見える。後で調べたら、ここはハイヴァン峠というヴェトナムの気候上の南北を分けている峠だという。私は先ほどハオさんに習った言葉を思い出した。
「ゔぃえっなーむ、でっ、くゎー(ヴェトナムはすごく美しい!)」
列車はダナンに着くまでに、山のキワをへばりつくように走行した。時々トンネルをくぐり、時々人気のないビーチの上を走る。それは絶景以外の何者でもなかった。まさに、でっ、くゎー(Đẹp qua!)

列車がダナンに着くと、謎の歌が流れる。ダナン以外では流れなかったので、おそらく「ダナンの歌」という名前に違いない。確証はない。
ダナンを過ぎると外は徐々に暗くなり始めたので、私は個室に入った。みんな起きている。五時くらいになるとハオさん一家は夕食を始めた。早いな、と思ったが、友人が麺を購入したので、私も食べようと麺を取り出したがフォークがない。私は売り子のお姉さんに片言すぎるヴェトナム語で、
「こーでいーほん?とーいこーでいー、にゅうん、とーいほんこーでいー!(これ(フォーク)、あるか? いや、これは(麺)あるんです。でもこれ(フォーク)、ない)」
見かねたハオさんが何やら説明してくれ、お姉さんはフォークを持ってきてくれた上にお湯まで入れてくれた。二段目のベッドで食べるのは無理(天井の問題で、腰をかけることができない)だったので、外で食おうとしていると、ハオさんが1段目に座れど言ってくれる。私たちはありがたく座った。駅で買ったものだがなかなかうまい。

「シンヴィエン、ア(学生さんでしょ)」とハオ一家のお母さんがいう。
「しんゔぃえん!(学生っす)」
そのあとお母さんは何やら言ったがよくわからない。私は辞書を渡した。お母さんは「どぅーりっ(旅行)」を指差していた。私はうなづいた。
「ノースタディー?(勉強じゃないのね)」
「ノゥ」
どうやらハノイの留学生だと思われたようだ。まあ確かに、日本でも片言の日本語を喋っていたら、一介の旅行者とは思わないだろう。私はなんだか嬉しくなった。

ハオさん一家は4時半にニャチャンで降りた。私はニャチャンはもっとあとだと思っていたので挨拶することもできなかった。もしかするとヴェトナム人にとって4時半などまさに朝飯前なのかもしれない。
六時くらいになると、昨日の売り子のにいちゃんがやってきた。
「ほら、買いなよ、ほら」というようなことを言っている。
朝食のようだ。よくわからないが、とりあえずもらっとこう。
「いくら?」
「えーっと……むいらむぎん」
むいらむ、とは15のことだ。で、ぎん、は千である。だからこれは1万5000ドンということとなる。日本円にして約90円。私はちょうどの値段を払った。
私がヴェトナム語を解さないと思っていたんだろう。にいちゃんはお札をもらうとやけに喜んで、手を差し出してきた。私は握手に応じて、「かむうん(アリガトー)」と言った。
やってきたのは米粉を練って蒸したものでひき肉を包み込んだ食べ物だった。初めはなんだこれはと思ったが、食ってみるとこれがうまい。ちまきのように笹の葉で包んであるので、笹の香りが良くて、肉もあたたかくてうまい。私は食べ終わった折に兄ちゃんに、うまかったと伝え、名前を聞いた。お兄ちゃんは言った。
「バインゾー!」

その後、開けっ放しにしたドアから乗務員たちがワイワイと入ってきて、私たちの個室がスタッフルームと化した事件があったり、電車が急停止して、その理由を、私の辞書に興味を示してやってきた売り子のお姉さんに辞書を使いながら尋ねてみるも、お姉さんのいう「チェンタオ」が辞書に載っていない事件などが起きたが、まあまあ平穏に旅は過ぎて行った。
窓の外では中南部の岩山の風景、南部の謎のアロエっぽいような、背の低い椰子のようなプランテーションと細過ぎる幹の木がならぶ世界、そしてホーチミンへと近づくにつれて都会的な雰囲気が漂って行く世界と、どんどん移り変わって言った。私は窓の外にあった赤いプラスチック製の椅子を拝借して、何をするでもなく、ただただ風景を眺めていた。時折売り子のお姉さんがやってきて、何やらノスタルジックな、演歌のような歌を歌っている。ヴェトナム人は演歌が好きだ。ハオさんの奥さんもケータイで流していて、子供達も歌っていた。隣の個室からも聞こえた。私たち日本人にはどことなく懐かしい旋律である。それはちょうど八代亜紀の歌のようであった。
時折売り子のお兄ちゃんが、何やら売ろうとしてくるが、もはや同僚の間でも「買ってもらえない売り子芸人」のようになっているようだ、断っても同僚は助けもせずにただ笑い、お兄ちゃんの方も滑稽な表情をしていた。車内は徐々に暑くなっていた。それは、列車の旅の終わりを示していた。私は少しだけ寂しく思った。

列車には、人がいた。それは多分バスや飛行機では気づくのが難しかったことだろう。色々な人が、入っては出て行く。私も入って、出て行く運命にある。だが少しの間でも、列車という1つの舞台に上がることで、少しだけ交流ができる。それはフェイスブックを交換したりする類のものではない。一回きりのことだし、ハオさんとももう会うことはないだろう。あの売り子のお姉さんとも、売り子芸人のにいちゃんとも会うことはない。でもそれで良いのだ。旅とは、そんなものなのだ。
あなたがもしヴェトナムに行くなら、私は誰がなんと言おうと列車の旅を進める。それもハードベッドがいい。そこにはヴェトナム人がいて、あなたを待っているからだ。ぜひ辞書を持ってriseしてほしい。

f:id:LeFlaneur:20170217000249j:image終着駅のサイゴン駅にて。

統一と平和の道〜ヴェトナム南北鉄道で行く PART1〜

1936年、当時フランスの海外植民地であったインドシナ半島で、一つのプロジェクトが完成を迎えた。それは、ヴェトナムの旧都で現在の首都であるハノイからヴェトナム南部のフランス支配の中心地であったサイゴンを結ぶ実に1726kmにわたる長大な列車の開通であった。ところが、第二次世界大戦後、フランスに対する独立戦争である「インドシナ戦争」、そしてサイゴンを中心とする南部に成立した米国の傀儡政権である「南ヴェトナム」とホー・チ・ミン主席率いる社会主義政権「北ヴェトナム」による全ヴェトナム統一をかけた「ヴェトナム戦争」によってヴェトナムは南北に分断され、列車もその機能を停止する。そして1976年、ヴェトナムは「北」による「全土解放」、すなわち日本人に分かりやすい言い方をするなら「天下統一」がなされ、くだんの1726kmを結ぶ列車も再びその役目を果たし始めたのである。そのこともあって、この鉄道は「統一鉄道」「南北線」と呼ばれ、統一されたヴェトナムのシンボルとなっている。

鉄道開通の81年後、そして南北統一の41年後の2月6日。今から実に10日ほど前のこと。私は友人と二度目となるハノイの地にいた。今回の東南アジアの旅は12日に及ぶもので、5日間のカンボジア滞在の後、私たちは無事(実はバクテリア性と思われる胃腸炎カンボジア最終日にかかったので、「無事」ではなかったが、まあ、生きていたんだ、「無事」にカウントしようじゃないか)ハノイ入りを果たした。今回の旅の1つのイベントは、ハノイ観光後に中部のフエまでくだんの南北線に乗ることである。


1. TN7 ハノイ→フエ

 

空港のツーリストインフォメーションで予約したホテルに飛び込み、チェックインの手続きをしていると、
「次はどこに行くの?」とホテルのフロントの女性が言った。
「フエに行きます」
「何で行くの? もう取ってあるの?」と女性はいう。
「列車で行くつもりですが、まだ取っていません」そう、今回はホテルはおろか列車のチケットすらなかった。
「そう。でしたらお手伝いできますよ」これはありがたい。私は早速お願いすることにした。
ところが手伝うわとかってでた割に、手続きをしながら彼女は怪訝そうな顔をして、
「なんで列車なの? みんなバスで行くわ。やすいもの」と言った。私たちは真面目に答える理由もなかったのでとりあえずジャパニーズスマイルでごまかしておく。そうこうするうちに手続きは進んで行く……
なぜ電車にしたかったのか。それはまずもって列車の名前が日本の地下鉄と同じ名前で少々おかしかったこと、いつか乗ってみたいシベリア鉄道の予行練習になりそうだったこと、おんぼろ列車でガタゴトと北から南まで行くというシチュエーションに不思議な魅力があったこと、とまあ色々とあったわけだが、一つ言えるのは、列車を使いたかったから列車を使いたかったのである。これじゃあ、言えるはずもなかろう。
始めは70ドルほどの列車があると言ってきた。100はすると思っていただけに少し安心したが、彼女は50ドルのやつもあるという。そちらの方が各駅停車で夜の20:45発12:15着らしい。私はそちらを選ぶことにしてこう言った。
「チーパー、ベター」
出発は二日後。懐かしのハノイと、世界遺産ハロン湾を巡ったあとのこと、となる。

予想とは裏腹に、この列車の旅は、予想以上に快適であった。
取ったのは、寝台車の「ハードベッドクラス」の「レヴェル2」。といってもよくわからないだろう。要するに、小さな部屋に三段ベッドが二つあり、そのうちの中断を使うということだ。そしてベッドはまるで畳のように硬い。事前にネットで調べていた通り、一夜限りの同居人はみなヴェトナム人だった。寝台車のランク的には下から二番目になる。
と、そんな風に書くと快適さが伝わらないかもしれない。だが、細くて硬いベッド、がたんごとんと揺れる列車には、飛行機や豪華列車にはないような心地よさがある。まず、支給されている毛布をたたんで、その上に枕をポンと置くと、リクライニングシートの如くなり、意外な快適さが出てくる。そして狭いベッドは一夜限りのマイルームのように思えてきて、広い部屋よりもずっと落ち着く。それは、去年の夏に台湾で一週間に及ぶ二畳一間生活を送ったからかもしれない。
そして何より一番いいのは、昼になると部屋の外に出て、窓の外を眺めることができる。これはバスにはない楽しみだろう。

朝起きて車窓の外に見えた北部ヴェトナムは広大な田園風景の世界である。果てしなく続く水田、そしてその水田の世界の中に時折現れる緩やかなカーブを描く緑の山。田園の中には茶色い牛が何頭か佇んでいる。これはカンボジアのバスで見かけた牛が白かったのとは対照的だ。そんな広い広い牧歌的な世界が流れて行く。何か見るべきものがあるわけではない。ただ目に入ってくる世界がある。そんな世界を見ていると、自分の周りにある閉ざされた世界なんざ大したことのないもののように思えてくる。
こんな田園の中で一生を暮らし、そして終えて行く人々はどんな人生を送っているんだろう。そこにはきっと私には得られないような幸福があるはずだ。しかし逆にいえば、私のようにこうやって異国の地の田園を見ながら物思いにふけるなんてことをすることはないだろう。人生は案外平等で、同じようなことを経験し、それでいて互いに互いの人生を経験することはできないのだから。

そんなことを思いながら、私はこの日からの「同居人」となった父娘の様子を見ていた。父親は穏やかな表情の人で、娘は幼稚園児か小学校低学年くらいだろう。交流こそなかったが、その二人の様子を見ているだけで心穏やかになるものがあった。北のどこかの田舎町から南へと移動する。そんな二人は時々窓の外を見てはにこやかに笑っていた。そしてしばらくするとカップ麺を食べ、タッパーいっぱいに詰め込まれた鳥の足をかじっている。母がもたした弁当だろうか。
そんな穏やかな雰囲気の中で電車に揺られていると、むしろ名残惜しくなるほどに列車はすぐにフエに到着した。フエは大雨だった。

数日後までにホーチミンに行かないと、私たちは日本に帰れま10、という状態だったので、フエからホーチミンまでの経路が問題だった。バスで行けば25時間。列車で行くと18時間。飛行機だと驚きの1時間20分である。始めは、ここは飛行機にして、案外初めての「LCC」体験にしようじゃないかと思っていたが、私は南北線を大いに気に入ってしまった。それじゃもう、南北1726km、走破しちまおうじゃねぇか。私は四日に渡る腸の痛みがなくなったこともあってそんなことを思いついた。友人も快諾してくれたため、なんと南北線の中で次も南北線を使うことを決定したのである。(つづく)f:id:LeFlaneur:20170216235340j:imageフエに到着する南北線

残すということ

日本のとある城が修復されるという1つの「事件」があった。その城はかつて白鷺城と呼ばれ、その修復事業はその元のままの白い色を再現しようとして行われたのだった。そしてそれはうまく行き、その城は今や白い白になっている。光りかがやかんばかりの白色に、である。

 

もう数日前のことになるが、私はカンボジアのアンコール遺跡を訪れた。初めは自転車で行こうとしていたがトゥクトゥクと呼ばれるバイクに乗客を乗せる荷車をつけた乗り物の運転手にしつこく勧誘され、根負けしてトゥクトゥクを使った。結果としては正解だったと思う。トータルで二人で2000円だったし、あの広大な遺跡群を案内なしに回れるはずもない。

アンコール遺跡の一帯を首都としたアンコール王朝は日本でいう鎌倉時代から室町時代ごろまで、ヨーロッパでいう十字軍の時代から百年戦争の終わりくらいまで、中国でいう宋代から明代初期まで栄えた王朝である。要するに、長い間東南アジア世界に君臨していたということだ。その勢いはヴェトナム南部を制圧し、タイ東北部とラオスを領有するほどだった。だが、この王朝も他の王朝と同じく、滅びてしまう。壮大な建築事業や果てし無い政争の末に、変わって力を持ったタイのアユタヤ王朝による侵略を許し、アンコール王朝は首都であるアンコールを放棄する。それからカンボジアはタイ、ヴェトナム、そして19世紀に入ってからはフランスによる支配のもとに入ることになる。

そんなアンコール遺跡の中でも有名なのが何と言ってもアンコールワットだろう。巨大であり、かつ精密。ここにそのようなものを作ってしまうような文明があった、それだけでも感動に値する。

だが、私はそのことよりもむしろ「ありのまま」の姿がそこにあることに心揺さぶられた。というのも、ここの遺跡は、無論後世の人の手は加わってはいるものの、冒頭で紹介した白鷺城とは対照的に、そのままの姿なのである。特にバイヨンなどの、アンコール王朝の首都であるアンコールトムに点在する遺跡群は、アンコールワットと比べても「打ち捨てられた」という過去を背負ったような、どことなく哀愁を抱えていた。そしてそれと同時に人間の作った壮麗な文明の賜物である遺跡が、自然との一体化を見せてすらいた。祠に入ると頭上ではそこをすみ方する鳥が鳴き、橋の上にはニホンザルに似た姿の猿が座っている。遺跡の奥まった場所に座って、少し目を閉じてみると、まるで文明などそこにはなく、単にジャングルがそこにあるだけかのようだった。

自然だけではない。「今」という時間がアンコール遺跡では「過去」と1つになっていた。人々は石の上に座り、石段をよじ登るようにして登って行く。遺跡の保存という観点からは由々しき事態である。だが、そこには過去と今の交差点があるように見えた。

時は流れて行く。だから全ては移り変わる。かつて栄えた文明は、木々に覆われて朽ち果てて行く。だが完全になくなるまでにはまだ時間がある。保存とはその時間を伸ばすことだ。間違っても過去を取り戻す事ではないと私は思う。アンコール遺跡は単に政治的理由などから保護することができなかっただけなのかもしれない。だけどそれが結果として、白鷺城などよりもずっと良いものを残しているような気がする。

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同じことを私は三日前にヴェトナムのフエという街でも見た。そこは十九世紀に成立した阮朝の首都があったという。ちょうど雨季だったようで(中部だけ雨季だという。ガイドブックにも書かれていなかったし、奇妙なことだとは思ったが、フエの運転手も、電車で出会ったフエの人も同じようなことを言っていたので、これは間違いないのだろう。ガイドブックが正しいってわけではない)、初日はろくに観光もできず、挙げ句の果てにシクロ(自転車力車)にぼったくられかけ、服もびちょびちょで大変だったわけだが、二日目には雨も小ぶりとなってようやくかつての宮殿跡に入ることができた。

宮殿の入場料をごまかされるというセンセーショナルな事件があったが、まあそれはさておき、宮殿の中には穏やかな風が吹いていた。陳腐でなんの面白みもない表現をするなら、悠久の時が流れているかのようである。入場料は千円したし、観光化されてはいるのだが、中は公園のようになっていた、自由に歩き回れる。ヴェトナム戦争中に受けた空爆で大破した跡地、そんなことなど我関せずというようにどっしりと構える邸宅などが軒を連ね、それは決して、見せるためにあるのではなかった。あるから、ある。国は滅びても、失わぬ誇りというものなのだろうか。

ツアーのガイドも良かったのだろう。旗を振って大勢にわーっと話すというよりも小規模のグループに話しかけているように説明をしていた。決して、どうだ、すごいだろう、という風ではなく、まるで物語を語るように静かに語りかけていた。

だからだろう。フエでは過去と現在がやはり1つになっていたのだ。一通り回っても、時間が許すならもう少しここにいたいと思わせる何かがあった。

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時の流れを断絶させずに、保存する。それは難しいことだろう。特に日本人はそれが苦手なように思う。京都や奈良にはそう言った空気感がなくはないが、日本の普通の街並みを見て見ると、やはり断絶の上にあるように思う。だからだろう。日本では保存よりも再現が流行る。新しく立て直す方に良さを感じる。片手の色を取り戻すなどと言った事業をよく聞く。それもまた面白くはあるが、過ぎ去って行った時の流れを今のものとして伝えることはできないのだ。

だが、現代もいつかは古代になる。アンコール遺跡には1800年代の落書きが残っていた。落書きすらも時の流れを背負えるのだ。いつかコクーンタワーやスカイツリーが保存されてくれることを望みたい。

おやじ〜続・プノンペンにて〜

プノンペンにきて二日目、私たちは朝早くにバスに乗り込んで、6時間ほどでアンコール遺跡のあるシェムリアップへと向かうことになっていた。朝食をどこで買おうかと、とりあえずホステルの人に聞いてみるも、満足な答えは帰って来ず、私たちは昨晩見つけたマーケットのようなところに行ってみた。

すると、やたらとたくさんの人が入ったガレージのような店が目に入った。とりあえず入ってみようか、と私たちは店員に何とかして意思を伝えようと、身振り手振りとスマイルも使って何らかの麺料理を頼んだ。

しばらくすると、何処と無くフォーに似た麺料理が運ばれてきた。何肉かはわからないが、とにかく旨みのたっぷりな肉、ハーブ、もやしが一緒になっただしのきいたスープに、米製の麺と、ガーリックで焼いたナッツやネギが入る。これがなかなか旨いのだ。

しばらく食っていると、店員が小皿に魚醤と唐辛子を入れて運んできて、私たちの前にポーンと置いた。それからクメール語ににやら伝えてきた。が、わからない。わからないぞオーラを出していたら、店員は「話になんねぇ」と奥の方から一人の「おやじ」を連れてきた。

するとおやじは肉を箸で掴み、魚醤につけた。なるほど、刺身のように魚醤につけて食べるなか。私たちはすぐにその真似をした。なかなかいける。

おやじは英語を使ってそのソースについて語り始める。曰く、そのソースは市場から買ってきたオリジナルなものであり、配合はおやじの家に伝わる伝統的なものらしい。そしてずっとそこでこの「おやじ麺」を売っているという。そして、新しい客がくるたびにおやじは食べ方を指南しているらしい。

おやじはさらにいう。俺は日本に行ってみたい、と。だが、地震が怖いのだという。そこから、海外の人の日本に対する1つのイメージが垣間見えたような気がした。

それはともかく、その店の客のごった返し方は、店主のおやじが丁寧に食べ方を指南してきた結果でもあるだろう。だがもちろんそれだけではなく、あそこの麺はうまかった。もしかくるとうまさというのは、舌だけで感じられるものではないのかもしれない。

おやじ 〜プノンペンにて〜

それは、カンボジアの首都プノンペンの名前の由来ともなったワットプノムという寺院から伸びるだだっ広い道を一本入ったところにあった。その店では、エプロンをした「おやじ」がひたすらに屋台に陳列された肉やらつくねやらを串に刺しては少々怪しげな緑がかった灰色の汁で煮込んでいる。お客はやってくるとそのおやじの作業を手伝いながら注文し、時にはおやじの10歳くらいの娘さんが一人前の顔をして手伝っていることもある。

ビールをつまみと一緒にやれるところはないかと探していたら、偶然この「おやじ」の屋台にたどり着いた。そこは閑静な場所で、カンボジア名物の「トゥクトゥク」と呼ばれるバイクが引く人力車のような乗り物の勧誘もない(カンボジアの町、特にシェムリアップに足を踏み入れるや否や「Tuk Tuk, sir!」とドライバー達が声をかけてくる。それがない界隈というのはずいぶん珍しいのだ)。おやじはただ一人、黒いエプロンをイクメンのごとくぶら下げて、ひたすらに串焼きになった食べ物をなる作業をしていた。私はとりあえず、目に入ったイカのような形のものを指して、オーダーした。ビールはあるかいと聞くと、ない、という。隣の店で買ってきてくれ、だそうだ。

 

その日、2月1日はカンボジア滞在の初日であった。今回は友人一人との旅路である。到着が夕方であったので、私たちはドミトリーに荷物を置いたら、夕食を探しがてら、ぶらぶらし始めた。ワットプノムという寺院にも行った。そこでは不思議な、ディープな信仰と出会ったのだが、それはまた今度書くとしよう。

公園のそばでチキンラーメン風の面に何処と無くおでんのような具が入っただしたっぷりのスープをかけたものを食べ、私たちはいよいよ中央市場へと入る。焼き鳥、なます、ドリアンやら何やらがごちゃ混ぜになったジュースを飲んだ後で、やはりここにきたからにはここの酒が飲みたいという話になった。とはいえ私たちはもう満腹、一方のお時間はというとまだ8時を回っておらず、どこかで飲むべしと時が告げているようだった。

さて、「おやじ」である。友人にビールを買ってきてもらうと、前菜のハーブ類ときゅうりとなますを「おやじ」が持ってきた。どうやらソースにディップして食べるらしい。ハーブときゅうりとなますを一気にディップさせるとよりうまかった。ハーブは見た感じはそこら辺の葉っぱみたいなのだが、何かと一緒に食べると不思議な旨味を出してくる。香りが独特で、草らしさもあり、硬いって食えないきつさではなく、強いていうなら、いい意味でワイルド、である。

しばらくして、イカのようなものが茹で上がったらしく、出てきた。ところがそれはイカではなかったのだ。日本で言うところの「鶏皮」に肉もくっついたものだった。独特のコリっとした歯ごたえと肉の旨みがうまく合わさっていた。後味が酸っぱい「アンコールビール」を飲みつつ、「おやじの鶏皮」をかじる。店内は客でいっぱいだ。忙しく駆け回るおやじの娘さんに、おやじに声をかけてはその作業を手伝いながら料理を待つ近所の人々。それはまるで一昔前の光景のようだった。きっとそれはどこの国にもあったであろう、古き良き時代の香りだったのだ。

すると新たな「客」がやってきた。それは物乞いの人である。私たちがいるテーブルにもやってきた、手を合わせながらクメール語で何やら呟く彼に、私たちは動じてしまい、何もできず、ただただ目を合わせまいとしてしまった。他の人たちも同じであった。きっとこの国には結構な数いるのだろう。だが、「おやじ」だけは違った。彼は、手を合わせる男に対して、串焼きを一本取り出し、渡した。私は黙って鶏皮を食べた。ベンヤミンという哲学者は、人のために何かをした人を見た何もしなかった傍観者は、その人によって裁かれると言った。その意味で、私たちは「おやじ」に裁かれたのだった。

別れ際、お代の2ドルを支払い、「オークン(ありがとう)」と一言かけると、おやじはまるで私たちが数年来の客のように肩をポンポンと叩いた。また、ここに来たい、そう思った。

 

結局私たちはおやじの店にもう一度行くことは叶わなかった。そのあたりについてもまたいつか話せたら良いと思っている。だが、その理由は私にとって現在進行形の理由であり、そして私たちは今日、東へと向かう飛行機に乗り、ヴェトナムはハノイに入ろうと(ヴェトナム語の表現では、「ハノイに出る」というのだが)思っている。そんなナウな話はかけない。そんなわけで、次はカンボジアで出会ったもう一人の「おやじ」の話でもしようかなと思っている次第である。

Money, Money, Money

数日前のことだが、NHKの「美の壺」という番組を見ていた。

この番組は、色々な芸術品、あるいは民芸とでも言えるような実生活に使われているようなものに焦点を当て、木村多江のしっとりとしたナレーションと、時々草刈正雄のコミカルな演技を交えつつ、その隠れた美をスタイリッシュなジャズをバックで流しながら明らかにしてゆく番組である。テレビをつけっぱなしにしていると、11時くらいから突然始まることがあるので、わたしはたまにこの番組を見ている。

前回は「ぽち袋」がテーマだった。お年玉を入れるぽち袋に秘められた粋と心遣い。確かに今まで何も考えてこなかったが、あのようなものは海外では見ないし、結構あそこに凝った絵が描かれていることもあったと思う。番組によるとその歴史はまだ浅く、明治時代からだという。当時よく描かれていたのは、浮世絵だそうで、それをただ描くのではなく、ピンポイントで一部だけを描くことで、そこに「粋」な美しさを表現したという。

 

その番組を見ている時に、ふと思い出した。それはお金についての話だ。

その番組を見る数日前、英語をバイト先で教えている時のことだった。「How」を使って色々な疑問文を作るという授業だったと思う。そこで英語で「いくらですか?」を意味する「How much」を扱ったのだが、ふと、これって「お金」という言葉が入っていないなと気付いたのだ。

muchというとご存知、「不可算名詞」の量を表す言葉だ。不可算名詞、つまり数えられない名詞というのは、「水」などが代表的だが、個数を数えられない、流動的なものだったり、切り分けてゆくものだったりすることが多いが、不思議なことに英語では、「お金」もまた数えられない名詞という扱いになる。だからこそ、お金がどれくらいか聞く時に、「How much」というわけなのだが、これでは、水の量がどれ位か聞きたい時にも「How much」と聴けるんじゃないかと思ったのだ。だが実際はそうではない。「How much」といえばお金のことであり、水の量を聞くには「How much water」と聞かねばならない。一方でお金を「How much money」と聞くことはまずないだろう。

同じことが日本語でも起きている。

「いくらですか?」というのは、文をそのままとるのなら、単に量を聞いているにすぎない。だから、「東京から京都までいくらですか」と聞いて、「500km」と答えても、「新幹線で大体2時間」と答えてもいいことになる。だが実際には、「8000円」という答えだけが期待されているのだ。「いくら」と言っただけで、なぜだか、金のことを聞いていることになるのである。

はてさて他の国の言葉となると、フランス語では「C'est combien?」で、やはりお金という言葉は一言も発していない。ヴェトナム語では、「Cái này bao nhiêu tiền?」といって、「tiền」がお金を意味しているが、これは省略ができる。ドイツ語の「Wie viel kostet das?」は、「いくらかかる?」という意味であり、こちらもお金という言葉は発していないのである。アラビア語では、「ビ・カム・ハーザー(بكم هذا)」といい、「カム」が「いくら」で、「ビ」が「〜で」、「ハーザー」が「これ」であり、こちらも「お金(ナクドゥンなど)」は言わない。

これは一体どういうことなんだろう?

大して根拠があるわけではないが、それは「お金」にどこか「ケガレ」の要素を感じ取っているからではないか。「お金」という言葉には、どこか汚さが漂う。「カネと政治」というとスキャンダルを意味するし、「金がものを言う」といえば、あまりよくない社会状態を示す。金は人類の大きな発明品だが、金によって苦しめられる人もいるし、金によって人間としての道を踏み外す人もいる。金はどこか、「必要悪」であって、「汚れたもの」であって、あまり口にするのは憚られるのではないだろうか。だからこそ、日本における親指と人差し指をくっつける仕草とか、海外の親指と人差し指をこすり合わせる仕草が生まれたのではないだろうか。そして、もっと身近なところでも、先輩が後輩に、「じゃあ……今日は1でいいよ」ということを言う。これは「1000円」という意味だが、なぜか、「000円」の部分を省略する。「円」という言葉の生々しさを避けようとするが故の言葉ではないだろうか。「1000円でいいよ」というふうに露骨に言うのはあまり好まれず、「1」という。ここにもまた、人間とお金の面白い関係があるような気がする。

金に「ケガレ」のイメージがあるのとともに、金は、人間にとって本当に大事なものを与えてはくれないという事実も、きっと私たちの中にはっきりと存在する。ビートルズは「Can't buy me love」と歌った。だがそれでも、ビートルズは他の歌で「Money... that's what I want!」とも歌う。それだけ金は複雑なものなのである。

 

そう考えると、である。

日本の「ぽち袋」とか「お年玉」は非常に面白いものだ。というのも、「ケガレ」であり、「即物的」なものであり、「必要悪」であるはずの「お金」が、別の価値を持って現れるからだ。

ぽち袋のぽちは、「これっぽっち」の「ぽち」だという。「少ないですけど(これっぽっちですけど)気持ちです」と渡すときの、「これっぽっち」である。面白いことに日本語では、「お金」を、正反対であるはずの「気持ち」と表現してみせる。そしてその「気持ち」を新年にあげるのが「お年玉」だ。どうしてなのだろう? その理由はわからないが、この極東の島国では、「カネ」が「気持ち」に変わる、という事実だけは確かである。あえて、口に出すのは憚られる存在を、すごく尊い存在として語るのだ。

「お金」にも「気持ち」が込められる。そういう発見があったのかもしれない。思えばお金をプレゼントするというのは一見珍しく見える。だが中華文化圏では、割とお金が大事にされているという。その影響を受けたヴェトナムで、でっかい銭型のSONYの看板を見たことがある。また、台湾では何かの儀式で擬似の札束を燃やしていた。そう思うと、実は、お金を良いものとして扱うのも、珍しくはないのだろうか。

だが一つ言えることがある。

金には罪がないのだ。その使い方、その捉え方に「善」や「悪」が宿るのである。「気持ち」を金では買えないが、金は「気持ち」の表現形態とはなる。それは「気持ち」を買うことではなく、金が「気持ち」になることである。そして金の使い方にこざっぱりしたものや、美を見出せば、「粋だねェ」とすら言われるのだ。そして、「コイン」愛好家なんてのもいる。金自体が、芸術になりうる。そう考えると「お金」はとても面白い。

 

‥‥‥と色々と理屈をこねている間にも、金が溜まっていればなあと思うが、これは「ケガレ」た考え方というものだろうか。

Star Wars

新年初投稿、というわけなので、「あけましておめでとう」と言っておこう。今年もよろしくお願いします。このような駄文の集積のようなブログでも、時間をつぶすくらいの役には立つはずだ。

去年の話になるが、12月18日、「ローグ・ワン」という映画が公開された。映画史上に残る大シリーズ「スター・ウォーズ」のスピンオフにあたる作品だ。一昨年の同じ時期に、「スター・ウォーズ エピソードⅦ フォースの覚醒」が十年の沈黙を破って公開され、その次にあたるエピソードVIIIのいわば「中継ぎ」として公開された作品だったが、正直、私としては、「フォースの覚醒」より「ローグ・ワン」のほうが面白かったと思う。何もこれは独りよがりの意見ではなく、このシリーズをずっと制作し続けてきたジョージ・ルーカスもこの「ローグ・ワン」を認めていて、映画評論家の間でも「シリーズ最高の出来」と言われているという。まあ、シリーズ最高の出来、とまでいってしまうと、今までの「スター・ウォーズ・サーガ(スター・ウォーズ・シリーズのことを普通、サーガと呼ぶ。サーガとは北欧神話を集めた「サガ」から来ており、壮大な神話体系のようなこのシリーズにはふさわしいと思う)」はなんだったんだよ、という話になるので、その言い方は避けたいところだが。

さて、スター・ウォーズである。小学校中学年あたりで少年時代の私はこのシリーズにはまり込み、しばらくの鎮静期間を経て、シリーズ再開とともにまた熱〜くなってきているわけだが、きっとわからない人にはわからないだろう。実際のところ、この映画シリーズを一度も見ていない人には、さっきのくだりも全くわからなかったはずだ。だから、ちょっとばかし、今年2017年に実に四十年目を迎えるこのシリーズの歩みを説明してみたいと思う。

1977年、「地獄の黙示録」のコッポラ監督とも親交があった新進気鋭のジョージ・ルーカスが一つの作品を世に出した。それこそが、「スター・ウォーズ」であり、のちにシリーズ化されると、「スター・ウォーズ 新たなる希望」と名付けられる作品だ。この作品は全世界的に大ヒットし、三年後の1980年には続編「スター・ウォーズ 帝国の逆襲」が公開された。これもまた大ヒット。時のレーガン政権が、当時仮想敵国だったソヴェートを「悪の帝国」と呼び、アメリカによる宇宙規模の軍事作戦を「スター・ウォーズ計画」とニックネームをつけるほどであった。そして1983年、さらに三年後には三部作の完結編「スター・ウォーズ ジェダイの復讐(のちに改称され、「ジェダイの帰還」になる。こちらで知ってる人の方が多いのではないか)」が公開された。

物語の舞台は「遠い昔、遥か彼方の銀河系(A long time ago, in a galaxy far, far away...)」。時は宇宙を支配する「銀河帝国」と、その強権的な支配体制に異を唱える「反乱軍(同盟軍)」による内戦の真っ只中。辺境の砂漠の惑星に住む青年ルーク・スカイウォーカーは、遠い宇宙へと出て行くことを夢見ていた。そんな彼は偶然、ドロイド(ロボット)のR2-D2とC3-POと出会ったことから、自分が、帝国が宇宙を支配する前に銀河を統治していた「銀河共和国」を守る騎士ジェダイの子供だと知る。父の師匠だったベン・ケノービとともに、ルークは、オルデラン星のレイア・オーガナ姫率いる反乱軍に加わることを決意し、闇の運び屋ハン・ソロとチューバッカの操縦する「ポンコツ」船ミレニアムファルコンに乗り込んで、ルークの父を殺したというダース・ヴェイダー卿率いる帝国軍との戦いに挑んでゆくのだった……とまあ、あらすじを言えばそんな感じである。と言ってもこれは「新たなる希望」のあらすじであり、そのあとあんなことやこんなことが起こる。だがそれいついてここに書いてしまってはつまらないので、是非知らない人は本編を見ていただければと思う。

さて、この三部作(旧サーガ)でこのサーガは完結したと思われていた。だがジョージ・ルーカスはさらに、いかにして帝国が生まれ、いかにしてダース・ヴェイダー卿が帝国の将軍となったのかを描く新しい三部作(新サーガ)を計画していた。そうして公開されたのが、1999年の「スター・ウォーズ/エピソードI:ファントム・メナス」である(一番最初の物語ということでエピソードIである。これにより、「新たなる希望」はエピソードIV、「帝国の逆襲」はエピソードV、「ジェダイの帰還」はエピソードVIとなる)。これは大きな注目を浴び、3年後の2002年に「エピソードII:クローンの攻撃」、さらに3年後(ファンの皆さん、スター・ウォーズの公開年の覚え方は、「三年毎」ですよ。次のエピソードVIIIも結果的にVIIの3年後になりそうですしね)の2005年には完結編「エピソードIII:シスの復讐」と続く。私たち、つまり大学生の世代の人間にとって、「エピソードIII」が多分初めての同時代のスター・ウォーズだと思う。

これで、シリーズ(サーガ)は完結した……わけではなかった。ジョージ・ルーカスの会社のディズニーによる買収などを経て、新たなに「続三部作(続サーガ)」が制作されることが決定(構想自体は80年代からあったという)。その中で、スター・ウォーズ・サーガを扱った非公式の小説などが世の中にあまた出ている現状を打開しようと、「カノン(正史)」として公式のスピンオフ制作も決まったのだった(それ以外は「レジェンズ(非正史)」とされる。まるでカトリック教会による「正統/異端」区分みたいである。それだけシリーズも大きくなったというわけだ)。2015年、「エピソードVII:フォースの覚醒」が公開。これはエピソードVIの30年後を物語の舞台としている。そして去年に、初めての公式スピンオフ「ローグ・ワン」が公開された、というわけだ。こちらはというと、「エピソードIV:新たなる希望」の10分前までを舞台としており、エピソードVIでルーク率いる反乱軍航空部隊が破壊する最強兵器デス・スターの設計図を反乱軍の部隊「(自称)ローグ・ワン」が奪う、という物語だ(ちなみにローグ・ワン、にたいしてローグ・ツーというのも存在する。これは実は「エピソードV」に登場する。此の前見返していて気付いたのだが、1980年公開のエピソードVではローグ・ツー、ローグ・ファイヴなどは出てくる一方、ワンは出てこない。これはいわば伏線の回収なのだ)。

 

ローグ・ワン」が良かったのは、一つはスター・ウォーズ愛に溢れているからだったと思う。

私は特に、スター・ウォーズを見始めたきっかけが「エピソードIV:新たなる希望」(旧三部作)をみたことだったから、その10分前を描いている「ローグ・ワン」にはかなり期待していた。行ってみると、期待通りだった。この物語の結末は、少し考えてみると予想できてしまったのだが、それでも十分だった。特に、旧三部作を思わせる戦闘シーン、兵器、登場人物などが出てきたときには、本当に嬉しかった。そう、嬉しかったのだ。

そういう観点から見ると、「エピソードVII」は少しばかり新しいことを求めすぎていたような気がする。それは、物語の面で、ということではない。形式的なところである。例えば、三部作の中で、一番目の作品では偉大な師を失い、最後は勝利を祝う宴で終わる、二番目の作品では状況が悪化、そんな中で二人の人物の愛が描かれる、三番目の作品はそれぞれの物語の結末が示される……というように進んできた。それは旧サーガも新サーガもである。エピソードVIIでは、この形式が少しいじられ、最後は勝利を歌う宴ではなく、まるで次回予告のような終わり方をしていた。だからなんだ、と言われれば終わりだが、それが少々寂しかったのだ。蛇足のような感もした。正直、終わり方は宴で終わればいいのに、と思った。そして、新しいドロイドとしてエピソードVIIに登場したBB9が、評価する人は結構いたけれど、私はあまり好きではなかった。正直、キャラが他のドロイドと被っている割に、能力では劣る。

もちろん、物語の面では、帝国の再興を求めるカイロ=レンという悪役の思い悩む姿など、今までの悪役にはない、悪の危うさ、というような面が大きく描かれているのは話に深みを出しているようにも思える。ただ、そちらでも、新サーガ(エピソードI〜III)の中で描かれるダース・ヴェイダー卿の誕生の方が、がんじがらめになりながら、もがいている様はこちらにひしひしと感じられてくるものがあった。そこからすると、カイロ=レンなど、ただの反抗期に過ぎないようにも見える。ストーリーはそれなりにいいと思うのに、最後に変なシーンを付け加えてしまったりすることで、別の映画のようになってしまう。もっと上手く描けたんじゃないか、と思う。もっとも、もう一度見てみたら変わるかもしれないが(ちなみに批評家はかなりの評価をしているらしい。それにカナダ人の友達も二回見たと言っていたし、もしや、私が勝手に嫌がっているだけか?)。

一つの要因は、ルーカスが作り上げたスター・ウォーズシリーズなのに、ルーカスの脚本は却下されたということではないか。形式を守る、ということについては、ルーカス自信が「嫌いだ」と言って、否定的だが、やはり本人の脚本の中には、無意識的に、脈々と続くスター・ウォーズの伝統が染み付く。そこにこそやはり、「ああ、これこそがスター・ウォーズだ」というような感覚を生み出させる何かがある。伝統とはそういうものなのだ。そういう意味で「ローグ・ワン」には独特の懐かしさがあった(こちらもルーカスは参加していないが)。エピソードVIIももちろん、ハリソン・フォードキャリー・フィッシャーマーク・ハミル、と旧サーガの面々が出てきてあれは「おぉー」と心踊らされたものだが、やっぱり第一印象としてはまるで別の映画みたいだという感覚が出てしまったのだ。良くも悪くも、あれだけ見てもわかってしまう。まあ、文句をたれる前に、もう一回くらいVIIを見直してみなければならないだろう。

 

スター・ウォーズ」の魅力は、「あそこに行けること」だと思う。ファンファーレが鳴り(ローグ・ワンでは有名なあの歌が流れなくてちょっと寂しかったが‥‥)、前口上が流れると、もう見ているこっちはその世界に入って行ける。それだけ上手くできていて、世界観が完成しているのだ。言語(発音も含めてかなりリアルに出来上がっており、共通語として登場する英語の方も、訛りが反映されている)、種族、惑星、街、哲学(ジェダイは、フォースと呼ばれる宇宙の原理との合一を目指す武士であり、僧侶であり、そして何より哲学者である)……どれを取ってもまるで外国にいるような楽しさを味わせてくれる。歴史の流れもよく研究されていて、銀河共和国が滅亡し、銀河帝国が台頭する流れはまさに、かつての古代ローマ、フランス、ドイツで起きたことを焼き直していている。他のどんなSF映画が、「満場の拍手とともに自由が終わるのね‥‥」などというセリフを入れられるだろうか? この映画は単なるSFではなく、大河であり、ファンタジーであり、ノンフィクションであり、文化であり、伝統であり、思想であり、DVDの再生ボタンを押せば行き着くことができる場所なのだ。そしてそれぞれの登場人物は、それぞれの人生をしっかりと送っている。それぞれが思い悩んでいる。そこに話の厚みがある(もしかすると、エピソードVIIはそこにスポットライトを当てすぎたのかもしれない。厚みも、厚みだけを目指すと、どろりとしてしまう)。かといって、そこばかりではなく、バランスもいい。だからこそ、この物語は、見るたびに新しい発見がある。だから何度見てもいいのである。

そんなスター・ウォーズだが、最近関わってきた人が次々と死んでいる。一昨年には、銀河帝国皇帝が皇帝になる前に弟子としていたドゥークー伯爵役のクリストファー・リーシャーロック・ホームズロード・オブ・ザ・リングの白の魔法使いとしても知られる)がなくなり、去年の暮れには反乱軍トップのレイアを演じていたキャリー・フィッシャーがなくなっている。フィッシャーは、続三部作でも麗亜役として重要な役回りを担っていたため、今後どうするのだろう。これらの別れは悲しいことだが、やはりスター・ウォーズ・サーガは続いてゆくのだと思う。それこそが大きなシリーズの宿命であり、そして伝統の宿命である。

エピソードVIIIはどんな作品になるんだろう。個人的には次のスピンオフがメインキャラクターのハン・ソロの若き日を描くというから非常に興味があるが、やはり続サーガの展開もきになる。そのためにも、もう一度、「エピソードVII」を見直してみるか。また違って見えることを期待して……。

 

それでは最後に、ここまで読んでくれたみなさんに、スター・ウォーズの有名なセリフを送ろう。ある意味で、新年にふさわしい、といえるかもしれない(「なんだか嫌な予感がするぜ」ではない)。

 

「フォースとともにあらんことを(May the force be with you)」

過去の感じ方

イタリアの首都ローマの街を歩いていた時のことだ。

独特の赤みを帯びたベージュ色、とでも言えるような建物が立ち並んでいる道を進み、わたしは古代ローマの神殿「パンテオン」を目指していた。だが一向にパンテオンは現れず、途方に暮れていた。季節は12月だったが、空気は湿っている。足は、午前中にフォロ・ロマーノ(フォールム・ローマーヌム)と呼ばれる古代ローマ時代の中心地だった遺跡を歩いたので疲れていた。

大通り沿いにしばらく歩いていたら、目の前に橋が見えた。といっても、日本橋のような橋ではない。どちらかと言うともっと平凡な、道路がそのまま橋につながっていて、橋には何の装飾もついておらず、ただ柵だけが付いていて、一見すると橋なのかもよくわからないような代物である。

街を歩いていて橋にぶち当たる。そんなことは普通にあることだ。

だが、今回のケースは普通ではなかった。というのも、地図を見てみたら、ローマに流れる「テヴェレ(ティベリス)川」は、わたしが今いると思っていたところからかなり離れたところにあったのである。それだけではない。わたしが今いるところは、地図上では、明らかに橋ではなかったのだ。ははん。これはきっと途中で地図上の自分を見失ったんだろう。本当は川のところにいるんじゃないか。まったくもって、パンテオン探しは徒労だったわけだ。だって、パンテオンは川沿いになんてないんだから。

でもまあ、川を見つけてしまった以上、とりあえず川だけは拝ましてもらおう、そう思って橋の上に行ってみると、驚くべき事実が明らかになった。確かに、わたしは橋の上にいたのだが、橋の下にあったのは、川でも池でも運河でも湖でもなかったのだ。橋の下にあったのは、かつての古代ローマの遺跡、そして今の猫たちのねぐらだったのである(遺跡には猫が住み着いている、というか、遺跡の管理人が餌を与えているという。後でテレビ番組でそれを知った)。

 

ヨーロッパの街を歩くと今のような体験をする確率が高い。もちろん、「川かと思ったら古代ローマ」みたいなノリは、イタリア、それもローマでしか起こらないだろうが、似たような体験はする。

例えば、フランスはパリのカルチエラタンに行った時、今度は夏なのにもかかわらず寒いという状況だったが、坂道を登っていると、突如として左隣に古代ローマ時代の「公衆浴場(テルマエ)」の跡地と思しきものが出現したことがある。古代ローマではなくても、ロンドンにはロンドンの、パリにはパリの、ベルリンにはベルリンの古い時代の建物というものは、道を歩いているだけで見つけられるような気がする。それも、不意に、見つかるのだ。ヨーロッパでは古い建物が今の建物に混じっていて、残っている。そこには、残していこうという気概が感じられる。

 

古い建物を見ていると、その街の歴史が見える。その街の人々の手垢がいい意味で一番染み付いているのが、古い建物だからだ。そして古い建物が見えると、その街の歴史が蘇ってくる。だが、どうやって古い建物が残っていて、どうやって接するのかは地域によって違うような気がするのだ。それぞれに、それぞれの方法がある。

 

まずは北米大陸モントリオールケベック・シティに行った時には、よく「オールドシティ(ヴュー・モンレアル、ヴュー・ケベック)」、つまり旧市街を訪れたものだった。ヨーロッパでは混在している古い建物、遺跡が、一箇所に集中している感覚であり、新市街とのコントラストがなかなかすごい。

例えば、モントリオール。新市街の中心地であるダウンタウンから旧市街に行く道筋を辿ってみよう。ダウンタウンは、ニューヨークを思わせるほどの高いビルが建っていて、ビル風がびゅうびゅう吹いている。たくさんの車が走り、とにかく道幅が広い。の割に、信号がすぐに黄色になるから困る(そのうち、黄色くらいなら渡っても良い、という悟りの境地に達するが、あまり真似しないように)。大通りの「サン・カトリーヌ通り」から旧市街に歩いて行くには、とりあえずまず、東の方へと向かう必要がある。要するに、大通りと垂直の方向へ行くのだ。すると、坂が現れる。その坂をぐーっと降りて行くと、途中で「チャイナ・タウン」が出てきて、ここの雰囲気は周りと随分違う。歩いている人もアジア系、漢字の看板がきらめき、アジアなんじゃないかと錯覚させる。そしてビル風は消え失せ、割と穏やかな空気が流れている。チャイナタウンを抜けると、坂が終わる。すると右手に巨大な黄緑色のガラスを張った「コングレ」という建物がある。「コングレス(議会)」かと思いきや、実はただの「展示場」らしい。ここまでくると、再び風が吹いてくる。きっと川の方から来ているのだ。しばらく歩くと目の前にきつい上り坂がある。これを登ると突如として古めかしい大聖堂が現れ、地面も石畳になり、周りの建物は、今までのガラス張りから、石造りになる。そう、旧市街はここから始まるのだ。

そんなわけで、本当に突然、まるでテーマパークのように始まるのが北米の旧市街なのかもしれない。そのせいか、あまり旧市街に生活感がないのだ。

 

逆にアジアは、生活感が溢れている。

ヴェトナムのハノイには、カナダ同様「旧市街」がある。だが行ってみるとどうだろう。あまり、他の地域と変わらない。「新市街」と記されていた場所も行ったのだが、正直、道幅くらいしか違いがない。両方とも、同じように生活感が溢れ、同じように崩れそうな建物が並ぶ。「フレンチ・ディストリクト」の建物は、どちらかというと他のは雰囲気が違って、巨大な石造りの建物が多く、生活感は限りなくゼロに近い。だが、その周りには、「ハノイ」としか言えないような独特の空間が広がっている。

台北は、それぞれの地区でかなり毛色が違ったが、旧市街らしきところも、かなり手垢にまみれている。ヨーロッパ的な「古い建物は残さないと」というような雰囲気はなくて、ただただ、「俺たちゃここに住んでんだ。なんか文句あっか? なんか文句あっか?」という矜持が漂う。本当は歴史ってそういうものなんじゃないかなとも思うのだ。時の流れをぶった切り、過去のものを、さも偉いものかのように保護するより、そこに住み続けている方が、むしろ歴史の流れには合っている。私はだからこそ、台北やハノイの街に、いいな、と思ったのだった。

 

一方で問題は、日本だ。

試しに東京を歩いてみると、ノスタルジックさも何もない。たまに廃墟のようなものや、古めかしい建物があって楽しいが、それはやはり昭和三十年代くらいからの歴史しかなく、やはり戦前戦後の断絶を感じる。それは歴史の悲劇のせいかもしれない。だがやはり、「家と女房は新しい方がいい」というような、日本の考え方が現れているのではないか、と思うと、少し残念である。

そう、思っていた。

だが、友人と歩いていた時のこと。彼は、「ブラタモリ」みたいに、古地図と地形図を頼りにやる街歩きにはまっていたので、そういった本を持っていた。ここの部分は高くなっていて、だからこそ大通りができたとか、だからこそ、幕府はそこから責められることに危機感を持っていたとか、そういう話を聞くと、一つ考えが湧いた。

確かに日本の街には何も残っちゃいない(残っているところももちろんある。京都は顕著だし、昭和の香りは東京にも残る)。しかしそれは、そろそろ誕生日(12/25。お分かりだろう)を迎えるある御仁の言葉を借りるならば「見てはいるが、見ず」という状態であったからこそだったのだ。日本の過去は、地形や区画に宿っている。それはブラタモリが伝えようとしていたことでもあった。それに気づかず、「やはり日本はダメだね」などと抜かすようでは、「街歩キスト」として青かったのである(街歩キストになった覚えはないが)。

だからもしかすると、その街を知るとは、いかにしてその街の生きてきた一生を感じるか、その方法を知ることから始まるのかもしれない。

The End 〜旅の終わり〜

最後に少しだけ、最終日の話をしよう。後日談のようなものだ。

翌日のフライトは少しだけ遅い便だった。わたしは早めにチェックアウトしたが、ザック一つの身軽さだったし、どこかに行こうかとも思った。だが、それはやめたのだ。今回学んだ「旅することは動き続けることではない」ということが、脳裏に浮かんだからだ。せっかくなら、台北駅周辺をうろつこうと思った。

いつもの公園に行くと、インドネシア系と思われる人たちがたくさんいた。今まであまり見なかったので、何やら大きな休暇シーズンなのだろうか、などと思いながら、わたしは東屋に座り、一時間ほどぼーっと過ごした。雨は小降りで降っていたが、清々しい朝だった。

その後駅に行ってみると、何やら祭りをやっている。どうやら、ムスリム関係の祭りだ。そうか、だからインドネシア人がたくさんいたのか。駅前も、駅の中の大ホールも、大勢のインドネシア人で溢れている。

一体何の祭りなのか?

わたしは聞いてみたくなった。旅は勇気を試す場だ。わたしは見るからに優しそうなあごひげのインドネシア系の男性(ムスリムの文化というものがよくわからないので、女性にいきなり声をかけていいのかわからず、女性は控えた。ムスリムに多いあごひげを生やしていたので、きっとこの人は何か知っているはずだと考えた)に「英語しゃべりますか?」と聞いてみた。

「あー、はい、少し」と彼は言う。

「これは何の祭りなんですか?」

「あー、selmak-pegang-denang(※あくまでインドネシア語っぽい綴りを書いただけ。実際に言っていたこととは違うのでご了承を)。ごめんなさい。英語、すみません」

「あ、こちらこそすみません。ありがとうございました」

残念。

わたしは心折れつつも、他の人に聞いてみることにした。

「英語しゃべりますか?」

「しゃべりますよ」

「これは何の祭りですか?」

「@£^$(&*£&(」

「えーっと、すみません?」

「@^&(&$*(£&の祭りです。えーっと、インドネシアオリジンの」

「へえ!」

とりあえず何となくはわかった。インドネシアオリジンだそうだ。もう少しいろいろ聞きたかったがとっさに言葉が出ず、ありがとうございます(シュクラン)、と握手をして(ムスリムはよく握手をする、ということはかつてモスクに行ったときに知っていた)立ち去ってしまった。

いやはや。もっとぐいぐいいけたらなと思った次第である。

駅の地下街に入り、昼食として「牛腱麵」を食べた。3本の指に入るくらいうまかった。まだ帰りたくなくて、わたしは若者達が座っているところへ行き、一緒になって地べたに腰を下ろした。ああ、もう終わりか。しばらく本を読んだりしながら座っていると、関西の人と思しき人たちがやってきて、地べたに座りながら旅行の話をしている。何となく日本語が聞きたくなかったからか、わたしはその場から立ち去り、地下鉄の駅へと続く階段のところに行って、そこに腰を下ろした。そのそばでは欧米系のミュージシャンがパンフルートのような笛を吹いていた。どこか物悲しく、どこか力強いフレーズが流れた。

思えばいろいろなことがあった一週間だった。だが、それも今日で終わる。最後になって、やっとしたいような旅ができたような気がする。それはいろいろなところを回ることではない。右も左もわからぬ異国の地で、暮らすように旅をすることだ。たまにはどこかに行くのもいい。だが1日に一つのスポット、くらいに決めたほうがいい。1日は思ったより長いが、台風の日のように近場でうろちょろしている日が一番質が高い日を送れたような気がした。そして、見えないものも見えるようになった気がした。

ミュージシャンが二曲目を吹き始めた。すると階段に腰掛けた観衆達がざわつき始めた。何やら有名な曲らしい。見当もつかないイントロだったから、きっとこれは台湾人の心の曲なんだろう。わたしはそう思った。だがその予想は裏切られた。

古いアルバムめくり

ありがとうって呟いた

いつも いつも 夢の中

励まして くれる ひとよ

それは、日本(沖縄)の曲「涙そうそう」だったのだ。中国語で歌詞を口ずさむ人もいたが、それは確かに「涙そうそう」だった。

晴れ渡る日も 雨の日も

浮かぶあの笑顔

想い出 遠く褪せても

面影 探して

よみがえる日は

涙そうそう

そのフレーズを聞いた時、わたしは帰ってもいいような気がした。帰りたいわけではない。だが、帰ってもいいような気がしたのだ。異国の地にもなぜだか息づいている、日本の歌。ここでこの歌を聴くことになったのはきっと、そろそろ帰る時だと運命が告げているような気がしたのである。

演奏が終わり、拍手喝采がなった。

わたしは地下鉄の駅の方へと向かって歩き始めた。旅を終わらせるために。

 

……電車に乗って車窓を眺めて、「いや、やっぱり帰りたくない」と思ったのは秘密である。

台風の日〜馬勒卡の巻、あるいは本当の旅〜

幸福は災難の内にあることがある。むしろ災難が起こるからこそ、幸福なのかもしれない。

台風16号「馬勒卡」がフィリピン沖に発生したのは、わたしが台北について間もなくのことだった。台風14号の影響がどれほどか、それを不安に思いながら始まった旅だったが、まさかここでもう一つ発生するとは思いもよらなかった。要するに、私は一週間の旅の間に、なんと二つの台風に直撃されるという体験をしたのだ。

1度目の台風は、台北にはたいして爪痕を残さずに過ぎ去った。ただし、台湾の南側にある「高雄」などの都市はかなりの被害を被っており、テレビのニュースでは連日そのことを報じていた。それもそのはず、台風14号「莫蘭蒂」は、台湾南部を直撃したのだ。そして北部は少しかする程度だった。

だが今回の16号「馬勒卡」は違った。台湾北部に直撃するのだ。

どんな有様になっているかと怯えながら朝目覚めたが、窓の外はたいして変わらない台北駅前の街並みが広がっていた。天気は悪い。そして風は少しあるようだ。とりあえず着替えて、朝食のサンドイッチを食い、コーヒーを飲んだ。わたしは少し外を見て回ろうと思った(※良い子は真似しないでね)。

外に出ると、「ああ、台風だな」という感じの生暖かい風が吹いていた。だが雨もひどくはなく、時折やむ。遠出をする気にはなれないが、少し見て回ろう。台北の建物は、二階以降の部分がせり出していて、一階部分には雨風太陽光を防げる回廊のようなものがその代わりに存在するので、こういう日でも雨を防ぎつつある程度までは歩いて行ける。

驚いたのは、前回の台風の時は見られなかったが、今回はわりとシャッターを閉めている店が多かったことだ。もしかすると、今回の台風は尋常ではないのかもしれない。わたしは咄嗟にそう思った。ある程度歩いてみると、やっているのは、一度は行ってみたいと思いながらも入ったことのなかった旨そうな朝食定食屋だけである。それ以外はみなシャッターが下りていた。

公園の方に出ると、風邪のせいで木の葉っぱが随分と落ちていた。そういえば前回の台風の時はこの公園にある博物館に入ったなあ、などと回想に浸りながら、わたしは公園を一周した。

目に焼き付けておきたかったのかもしれない。なにせ、明日には台北を離れるのだ。一週間の間、一人住んでいた台北を、だ。思えば短かった。まだやり残したことだらけだ。例の朝食店にも行っていない。

風が強くなってきたので、わたしは戻ることにして、昼食用にと行きつけになっていたセブンイレブンで「新国民弁当」なる謎の弁当を買って帰った。その弁当には、みんな笑顔で弁当を頬張る学生、工事現場の人、農家のおばさんなどが荒い油絵タッチで描かれていて、妙に「社会主義感」が漂っていた。台湾に社会主義感、など、あっていいはずはないのだが…‥。

少し寝て、起きてみると、外の雨が強くなっている。テレビをつけると、台風情報をやっていたが、「せっかく朝から休みにしたのによう、全然雨風強くないじゃねえの! おかしいぜ、この野郎!」というようなことを言っていそうな市場の屋台のおっさんが写っていた。わたしは新国民弁当を食べた。味はなかなかいける。いや、かなりうまい。鶏肉、夜市で食べた甘い味付けのソーセージ、米、野菜炒め、と中身は至ってシンプルだが、かなりのクオリティーである。

わたしはために貯めてあった洗濯物を、コインランドリーに打ち込むべく上に上がった。前回の台風の時、ホテルの人に教えてもらったから、使いこなせるはずだ。わたしはとりあえず洗濯機に全部ぶちこみ、部屋に戻り、しばらく読書した後、乾燥機に入れるべく上に戻った。だが、乾燥機の使い方がいまいちわからない。この前はホテルの人が全部やってくれたのだ。やり方を見ていたのだが、いまいちわからなかった。はて、困った。そういうわけでわたしは何度か乾燥機を回し、結局生乾きのまま服を持ち帰ることになる。

雨が再び弱まったので、わたしはまた散歩に出かけた(※台風の時は外に出てはいけません)。

行ったことのない界隈に行きたかったので、わたしは足を踏み入れたことのなかった、ホテルのある大通りの左側へと歩いて行ってみた。

やはり多くの店は閉まっている。徐々に感づいたのだが、これは台風のせいなのか、中秋節のせいなのか、実はわからないのだ。中秋節で銀行が閉まっていたくらいだから、後者の可能性も高い。

といっても、石畳や昔の町並みを残している道(大正モダンの雰囲気がある)や、ゴテゴテで派手なおそらくイタリア系の店など、見たことのないものにたくさん出会えてかなり楽しい散歩になった。霧雨のような雨が吹きつけてきたが、蒸し暑いから逆に気持ちいい。最後の最後で、しかも、台風の最中に、本当にやりたかったことをしているような気がした。

大通りに戻ると、おしゃれな本屋を見つけた。わたしは入ってみることにした。中に入ると冷房が気持ちいい。

市場にはその土地の人々の生活が詰まっている。そして書店にはその土地の人々の思考が詰まっている。どれくらいの人が、最近日本の語学書コーナーで、ラテン語の本が増えていることを知っているだろうか。もしかすると、いつの間にやら「英語じゃなくてラテン語を学ぼう」なんてことになっているかもしれない(嘘)。そんな不思議な変化がある一方で、やはりノウハウ本、ハウツー本の類は多い。だが面白いのは、最近では「デキル男の〜」のようなものではなくむしろ、怒りをコントロールしたり、人間関係をより良いものしたりするためのものが増えているような感じがするところである。それはどこかで経済一辺倒ではなく、心の中を見つめようとする動きがあることを表しているのではないだろうか。それでいて、やはりそれは自分で考えたりするものではなく、なんらかのマニュアルによって行うこと、という「他力主義」のようなものは存在しているのだが。

わたしは台湾人の頭の中を少しだけ覗こうと本屋に入った。もちろん、理由はそれだけではない。外国の本屋は魅力的に映る、という理由も大きい。

本屋は駅の本屋に入ったことがあったが、こういう街の本屋は初めてだ。わたしは『走れメロス』の中国版を見てみたり、哲学の概説書の中からお気に入りの哲学者の中国語表記を探してみたり(Bergson:伯格森)した。しかしやはり哲学書のコーナーは少ない。それよりも理数系のものが揃っている。1年前に日本でも文学部廃止の通達が出され、「文系軽視ではないか?」という声が上がったが、それはどの国も似たようなものがあるようだ(とはいっても、日本の本屋の場合理数系の本も少ない気がする)。それと、当たり前といえばそうなのだが、台湾では哲学というと、孔子孟子老子荘子……の世界のようである。そっち関連の本が多い。一瞬驚いたが、むしろこちらの方が健全なのかもしれない。もちろん、概説書程度なら西洋哲学も置かれていた。

だが、何よりも面白かったのは、向こうの日本語学習本だった。台湾人には日本語が上手い人が多いというので、どんな風に学んでいるのか気になって開いて見たのだが、なかなかシュールなのだ。例えば、いわゆる形容動詞の例文が「彼は変な人です」というものだったり、「アイデアは画期的です」という「は/が」の使い分けが微妙におかしかったりしている。ニヤニヤしながら見ていたが、実は私たちが日本で使っている外国語の本も、それを母語とする人からすると、同じように滑稽に見えているのかもしれないと思うと、少しばかり背筋が凍る思い出あった。

さて、しばらくして、わたしは外に出た。幸い雨はまだまだ弱い。入った書店の隣にもまた別の書店があったので、今日は本屋巡りと決めた。

街を歩いているだけじゃよくわからないが、台湾は日本以上にやはり受験の国のようである。受験のための本が溢れ、中国思想の本だって、どこか試験対策っぽい雰囲気が流れる。ただ、日本と違って、英語学習は、「単語をひたすら頭に叩き込む」というよりも、「熟語を叩き込む」という感じなのかなと思った。やはり英語は熟語の言語だから、そういうやり方のほうがいいに決まっている。と、言っても台湾人と日本人の英語力は、経験上はあまり変わらないようにも思われるが。

三件ほど書店をはしごして、「タイムスリップ! 写真で見る台北地図」のような感じの題名の本を買うか買わないか迷った末に買わず、外に出た時には、雨が最高潮に降っていた。先ほどまでの小雨が嘘のように、シャワーのような雨が降っていた。幸い最後に入った本屋がホテルの隣だったので、すぐにホテルへと戻った。三時半のことだ。

その後はしばらく部屋でだらっとし、ホテルの隣にある台湾版ドトールというような「ダンテカフェ」に入ってみることにした。というのも、web雑誌のために記事を書いていたのだが、部屋には机がなくて書きにくかったからである。

ダンテカフェに入り、とりあえずブレンドを頼んで、わたしは席に着いた。内装はもう、サンマルクカフェとあまり変わらない。音楽が流れ、老いも若きも団欒している。最後の最後で、わたしはなぜか、台湾人に慣れたような気がした。

二時間ほどコーヒー一杯で粘り、文章を完成させ、わたしは豪雨の中夕食を食べることにした。最後の夕食だ。メニューはもうあれしかない。そう、「牛肉麵(ニューローミエン)」だ。台風と中秋節の間にも頑張って営業している大衆食堂に入り、拙い中国語でオーダーした。もう少し、もう一週間ここにいたら、もっとスムーズに台湾で生活できるだろうに。わたしは最後の牛肉麵を食べた。やはり最初のやつが一番良かったが、うまい。最初は味がなくて歯ごたえがすごい麵に、独特の香りのスープが変な感じがしていたが、食べ続けていると病みつきになってきた。

かして最後の晩餐が終わった。わたしは最後に、と、台湾ビールを買い、部屋飲みを決行した。台湾の夜の風景が見たかったので、電気を全部消し、カーテンも全開にしながら、わたしはビールを飲んだ。

台北はいい街だった。

もっと台北と心を通わしたかった。

哲学者のベルクソンは「哲学は共感を求める」と言っているが、きっと旅するものが求めるのは、その国との、その街との、そしてその土地の人々との、「共感」なのだろう。そしてそれはなかなかできない。言葉の壁、文化の壁、そして限られた時間という壁。それらに阻まれ、旅する人たちは不満足なまま帰ってくる。だから思うのだろう。また旅に出たい、と。

旅することは動き続けることではない PART5

「旅することは動き続けることではない」

台湾は、「親日国」で知られる。どういう風の吹き回しかはわからないが、台湾の方々は、東アジアの海に浮かぶ優柔不断で調子に乗りやすいしょうもないあのJで始まる島国のことを、それなりに認めてくれているらしいのだ。

わたしはその辺の事情も知りたかったので、「西門町(シーメンディン)」に向かった。そこは日本好きの若者が集まると噂の場所であった。前日の夜、日本語をしゃべるおっさんと電車内で話したせいか、無性に誰かと交流したくなっていたのも一つの理由かもしれない。

それにしてもこの日は動きすぎている。今日のお前はどうかしてるぜ、と自分に語りかけたいほどだ。灼熱の中、「中正紀念堂」へ行き、一度台北駅に戻ってから、慶康街というシャレオツスポットへ。そのあとは名前が面白いという理由だけで、台北郊外のエネルギッシュな街「三重」へと向かった。そして、そう、そして今、地下鉄を使って「西門町」へ向かう。「西門町」は、台北の左端を流れる淡水河の右岸の南部地域にあり、左岸の北部地域にあった三重からはわりかし遠い。

西門町についたとき、日はもう暮れかかっていた。夕日の三歩手前くらいの空の下、わたしは若者街に繰り出した。

 

西門町の雰囲気は確かに他の地区とは違った。とにかく人がたくさんいて、街の雰囲気は秋葉原やら原宿やら渋谷の路地やら上野やら中野やらを混在させたような形になっていた。台湾の街というよりも、日本の街である。かおりも、駅前地区の臭豆腐やらなにやらの匂いではなく、クレープの匂いがしてくる。軒を連ねる店ではTシャツやフィギュアを売っている。

そうは言ってもわたしは日本のアニメを全く知らないし、ゲームもマリオくらいしか知らない。漫画は読むが、『聖☆おにいさん』『チェーザレ』『テルマエ・ロマエ』『プリニウス』『ヒストリエ』……と違う意味でのオタク系漫画(歴史オタク、である)しか読まない。だから店に入ってもどうすることもできないし、別に入りたいとも思わなかった。そんなんだから交流らしい交流なんてものもできるはずはない。

そんな状態のまま、わたしは自分の足、そして目元のあたりから押し寄せてくる疲れを感じていた。このままでは持たない。何か甘いものが欲しい。今回の旅で初めて感じた欲求だった。わたしは「台湾旅行でスイーツまで食べたら女子旅になってしまう」という悲しすぎるジレンマを抱えつつ、スイーツ屋を見て回った。せっかくだから、かき氷にマンゴーソースをかけたものを食いたかったが、どうやら一人で食べきれる代物ではなさそうだ。だが、マンゴーソースをかけたかき氷(芒果冰、とか言ったと思う)のことを考え続けた結果、自家製サブリミナル効果のせいでマンゴーが欲しくなってしまった。だからわたしはマンゴー専門店に入り、フレッシュなマンゴージュース(芒果汁)を飲んだ。これはなかなかうまかった。確かに喉の渇きを潤すことはできたし、糖分のおかげで幾らか疲れは和らいだと思う。

外に出ると、ストリートミュージシャンが何か音楽を奏でていた。現代風の曲で、きっと愛を語っているんだろう。何を言っているかわからなかったが、ふと聞いていたくなった。わたしはそばにあったベンチに腰掛けた。座ると疲れがどっと押し寄せてくる。

 

どうしてこんなにも今日は歩いたんだろう。今日の旅のあり方は、質の代わりに量を追い求めるような代物だった気がする。とにかくいろいろなところへ行き、いろいろなものを見る。だが、深いつながりを作りはしない。わたしがよくやってしまっていたやつだ。今回の台湾ではそれをやらないようにしたかったのだ。それなのにどうしてだろう? 太陽は沈み始め、空はオレンジ色、ストリートミュージシャンの歌声が響いている。

あせり。そう、その三文字に尽きるだろう。明日は台風がやってくる。そして明後日には台湾を離れねばならない。台湾という国に馴染み始めたという段階で、するっと帰ってしまうのが嫌だった。だから焦っていた。なんでも見てやりたかったのだ。それはいつも、少ない日程の中でとにかくいろいろなところを歩き回る心情と同じだった。だが、それだけではない。おそらくわたしはうちへ内へと入っていたのだろう。初日はとにかく中国語を使おうとしていたが、今や店に入るのも最低限だ。元が「内向的」というふうに分類されるであろうパーソナリティーを持つわたしだから、うちに入ってしまうのも速い。だがそれではつまらない。冒険するために台北に来た。これで終われるか。そういう気持ちが多分、またもわたしを焦らせているのだろう。悪循環である。だが、始まってしまったら抜け出せぬのが悪循環でもある。

 

わたしはその後、西門町をぶらつき、一駅先の「龍山(ロンシャン)寺」に降り立った。そこには、ディープと言われる市場があるらしかった。蛇の肉を喰わせるらしい。そんなところに行けば疲れもとれるかもしれないと思った。だが、日本の商店街と同じ作りになっていたその市場は、日本の商店街と同じく客が少なかった。しかも、中秋節のせいか、家族連れが多い。わたしはなんとなく入りづらく、ちょっとした孤独感を感じてしまった。旅の疲れの中では、ちょっとしたことで心が揺り動かされる。

わたしはここじゃダメなんだと思い、一番賑わっているという「士林市場」に向かうことにした。それは北部にあって、かなり遠かったが、わたしはそこに向かった。案の定そこはものすごいエネルギーに満ちていた。ありえないくらいの人が集まり、歩くこともままならない。わたしはそのエネルギッシュさに触れて一度元気を取り戻した。そして地下にある食堂で、日本で一度食べて、台湾でも食べたいなと思っていた「担仔麺」をついに食した。うまかったし、ビールにあった。それから市場に戻ってマンゴーを値切ったりした。だがしばらくすると、なんとなく疲れが戻ってきて、わたしはMRTに乗ってホテルへと戻った。帰ってきて、すぐに寝てしまった。

 

動き続けることは旅することではない。まして、動き続けることは生き生きしたことではない。旅とは生き生きした中で進まなければつまらない。だから時には休み、ほんの小さな喜びを探すことに集中することが必要なのかもしれない。

 

旅することは動き続けることではない PART4

「旅はDéjà vu:新しいものと古いもののあいだ」

ほんの思いつきだった。ただただ、名前が面白かっただけだ。ただそれだけの理由で、わたしは台北MRTに乗って、「三重」に行った。

台北市の中心部は、主に「淡水河」右岸にある。三重があるのはそこから離れた「淡水河」左岸、「トラス・タンスュイ」だった。河が見てみたかったので、「大埠頭」という仰々しい名前の駅で降りようかと思ったが、ひとまず「三重」に行くことが先決と途中下車はしなかった。それに、河を渡る時くらい、電車は地上に出てくると思ったのだ。イタリアのローマで乗った地下鉄は少なくとも、テヴェレ川を渡るときには地上に出てきて、橋の上を渡っていた。

しかし、その読みが甘かった。台北のMRTは地下を通ったまま淡水河を渡ってしまったのだ。なかなかの技術である。もし、博多で起きた陥没事件のようなことが起きれば、台北のMRTは水で充満してしまうリスクもあるのだから。

「三重」は案外近かった。何があるのかもわからない状態で、わたしはとりあえず「三重」に降り立ち、エスカレーターを使って、地上に出た。一緒に降りた人がガイド役だ。わたしはとにかく彼らに従うことにした。

地下鉄の出口から出ると、そこは近代・現代・近未来が共存した街だった。広い車道ではバイクが轟音を立てながら猛スピードで走っている。トラックが体をがたつかせながら走り去ると、乗用車が猛スピードで走る。それはまさに、わたしが今年の2月に見た、ヴェトナムの光景だった。歩道を塞がんばかりにびっしりと路駐されたバイクどももまさにあのヴェトナムの光景そのものである。ヴェトナムと違うのは、車通りがそこまで多くないことを別にすれば、建物だった。高いのだ。何階建てなのだろう、と思うくらいのどでかい薄ピンクの建物や、ガラス張りの建物、コンクリートがむき出しになっている古めかしいけれど背の高い建物、緑色のモダンな高層の建物などが林立している。台北の建物は、日本よりなんとなく高いような気がしたが、「三重」のものは中でも高い方だと思う。

行く当てもないので、建物がたくさんある方向へと進んだ。建物の背が高いので、建物の森へと入っていたという表現の方が正しいかもしれない。「三重」の建物は不思議と、門のところがグニュンと円柱状になっているのが特徴だ。台北駅あたりではどちらかというと、四角いものが多かった。もしかするとこれは古い様式なのかもしれない。もしかすると日本統治時代の名残かもしれない。どことなく昭和前期の香りが、「三重」にはあった。ボロボロの看板、ボロボロのネオンからは、そんな空気感がにじみ出てきていた。

その一方で、再開発なのか、ガラス張りの建物も目につく。ここはまさに、古いものと新しいもののせめぎ合いの最前線なのかもしれない。

しばらく歩くと、古き良き時代の香りのする界隈に、市場があった。路上の市場である。わたしは反射的に市場の方へと向かった。すると時間が時間(15:00)だからか、いまいち活気はない。だかかなりいい雰囲気なのは確かで、観光用の市場などには絶対に真似できないような日常感が漂っている。もう少しいい時間に来てみたいと思った。だが、次の日は台風16号「馬勒卡」が台北に襲来する予定だ。もう来れないだろう。旅は一期一会、そういう運命だったのだ。

市場を通り抜けると、大きな通りに出た。そこは環状道路のようなもので車が猛スピードで走っていた。それなのにもかかわらず、歩道はバイクで塞がれている。なんてこたアない。ヴェトナムのハノイで経験している。わたしは慣れた足取りでバイクの外側を歩くことに成功した。内心ヒヤヒヤしていていなかった、といえば嘘になる。

「三重」はかなりいい街だった。今度台北に行ったらまた行くだろう。だが今回は徐々にわたしも疲れてきていた。「中正紀念堂」から「両替屋探し」、「両替屋探し」から「慶康街」、「慶康街」から「行天宮・吉林通り」、そして「三重」。今日は歩きすぎていた。そしてなにより、暑すぎた。きっと30度はゆうに超えている。日差しも激しい。「三重」についた頃には、小雨が降ったりしていたが、それでも、灼熱地獄が蒸し焼き地獄に変わっただけだった。わたしは右岸に戻ることにした。

 

途中でわたしは、「台北大橋」駅で降りることにした。それは、左岸最後の駅である。三重「県」ならぬ三重「區」の東端に位置する川沿いの駅だ。どうしておりたのかというと、ここで降りれば河が観れると思ったからだ。不思議と、淡水河をまだ見ていないような気がしたのだった(実際には、「淡水」という街に小旅行をし、そこでばっちり見ているのだが……。「嵐の前の激しさ PART 4」を参照)。

台北大橋駅は閑散としていた。だが地上に上るとその様子は一変する。狭くて、その上バイクが停められている道をキャパオーバーの人間が通り、広い車道は車とバイクで覆われていた。建物はやはり背が高く、「活気」という言葉を一つの街にしたらこうなる、というような見てくれをしていた。

河が観たい、という目的を忘れ、わたしは散歩を開始した。街の活気に飲み込まれてしまったのだ。

人の波に流されながら歩くと、新しく開業したジムの前で若い男がビラを配っていた。何やら色々と話しかけられたが、よくわからないし、明後日には日本に帰ってしまうので、わたしは足早に立ち去った。

とにかく盛り上がっている。ビルには看板と広告が並び、歩いている人も賑やかである。さきほどの「三重」が、どことなく哀愁を漂っているのに比べて、この「台北大橋」周辺の地区はそんなもの全くなかった。エネルギーに満ち溢れた街。ここは経済成長の中心にいるようだ。「三重」が古いものと新しいもののせめぎ合いの最前線ならば、「台北大橋」は新しいものの前線基地だった。建物はまだコンクリートむき出しの古めかしい建物ばかりだが、内実はエネルギーであふれている。

ふと、この街に来た理由を思い出し、わたしは川の方へ歩いた。すると市場があった。かなり面白そうだったが、疲れからか、通り過ぎてしまった。

結論から言うと、河を見ることは叶わなかった。なぜなら、河は大きな壁の向こう側にあったからだ。だがこの時になってやっと思い出した。そう、わたしは二日目に淡水河で美しい夕日を見たのだった。美しく、荒れ狂う空を。わたしは自分の忘れっぽさを心の中で笑いつつ、台北大橋駅に戻った。

 

電車が動き出す。そろそろ四時半だ。「西門町」に行き、そこを散策した後で、「華西観光夜市」で夕食としよう。このまま中和新蘆線に乗り、「忠孝新生」駅まで行けば、「西門町」駅に続く「板南線」に乗り継げる。だが、この歩き疲れた状態で、果たしていいのだろうか。いちど「台北駅」へ戻り、ホテルで一眠りでもしたほうがいいのではないか。

結局のところ、わたしはそのまま西門町に行く決断をした。それが、大きな間違いだったのだ。