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Play Back〜ハードボイルド大学生活〜

ある大学生の日常をハードボイルドなエッセイ調に書く。

ノンかダーか、スウアかデンか

ヴェトナムといえば、と聞かれたら、多くの人はなんと答えるんだろう。アオザイ、春巻き、そして最近ではポピュラーになってきたフォー、そして頭にかぶる浅い三角錐の形をした「笠」のイメージもある。若い女性には「キッチュな雑貨」が有名かもしれないし、少し年配の人にとっては「ヴェトナム戦争」を思い起こさせるかもしれない。

だが、一つ忘れがちなものがある。それは、「コーヒー」である。あまり知られていないがヴェトナムはコーヒーの原産国なのだ。バンメトートやダラットといった南部の産地ではコーヒー作りが盛んであり、あのブラジルと張り合えるほどの生産量を誇る(2012年には、輸入に関してブラジルを抜いて世界第一位になったそうな。『地球の歩き方 ベトナム』より)。そしてヴェトナム国内での消費も盛んで、どの都市に行っても必ずカフェが存在し、地元の人で賑わっている。ヴェトナムで観光客のいないところを探すなら、カフェに行けば間違いない、と言えるほど、カフェは地元の人のたまり場である。

ヴェトナムのカフェ。それは他の国のカフェとは形状が少し違う。その姿はまるでヴェトナムの食堂のようで、例えるならガレージのような形である。外壁?何それ、と言わんばかりにオープンで、席は道の外まで出ている。たいていの席はなぜだか道の方を向いているため、店に入ってコーヒーを飲んでいると、必然的に道行く人を観察したり、道路を行く車やオートバイを眺めるようになる。中には日本のカフェ並みの広い空間がカフェの店内になっているような店もあるが、ヴェトナムでは日本の普通のガレージ並みの大きさのカフェもたくさん存在している。その占有面積の多様性から考えるに、おそらくハノイなどの都市にはきっと、世界の他の都市よりもたくさんのカフェがあるに違いない。なぜなら、パリやメルボルン(こちらもカフェ都市として知られる)ではある程度の大きさの面積を持っていなければカフェとして成立しないが、ヴェトナムでは小さくても路上をカフェにしてしまうことができるからだ。

 

今回のヴェトナムの旅では、いろいろなカフェに入ったと思う。それはまず一つに、ハノイでは腹痛を抱え、フエは大雨、ホーチミンは暑かった、という理由もあるが、やはり前回行ってみてヴェトナムはコーヒーの国だと実感したからである。

私が一番好きだったのは、ハノイの旧市街の「グエン・フウ・フアン通り」にある「ナンズコーヒー」のコーヒーであった。それは、看板の言葉を信じるなら1958年(ヴェトナム戦争の開戦前夜)から営業しているという、おそらくハノイ市内限定のチェーン店だ。「グエン・フウ・フアン通り」には何店舗かあって、どこも地元の人で賑わっている。私たちが入ったのはその中でも割と大きめの店舗で、日本のガレージ二つ分くらいの大きさの店である。そんな店の目の前には、まだ貧しかった頃のヴェトナムを再現している大型チェーンの「コン・カフェ」があり、そちらも結構賑わっているから、なかなか挑戦的である。

何もわからないままカフェに入り、とりあえず人数を伝える。すると店員が椅子を店内から持ってきて道路のそばに置いてくれた。メニューでもあるのかと、とにかく椅子に座ると、何も頼んでいないのにコーヒーが出てきた。向こうも外国人ということで面倒だったのかもしれない。

ヴェトナムコーヒーは、バターで焙煎された香り高いコーヒーを濃厚に淹れ、そこにコンデンスミルク(練乳)を入れ、それを混ぜて作る。混ぜ合わせると、色はコーヒー独特の黒ではなく、白みがかった茶色になり、味もコーヒーというよりもミルクチョコレートを溶かしたような味がする。ただし、甘くはあっても苦味もやはり生きており、複雑な味わいだ。これを「カーフェー・スウア」という。一方で練乳を入れないバージョンが「カーフェー・デン」。「デン」とは「黒」のことである。これは今回は飲まなかったが、前回飲んだ感じだと、ものすごく苦い。ポピュラーなのは「カーフェー・スウア」の方だ。これにはアイスかホットかがあり、冬の北部(気温は20度から27度程度)ではホットの「カーフェー・スウア・ノン」が落ち着くし、うまい。酷暑の南部(冬でも気温は30度越え)ではやっぱりアイスの「カーフェー・スウア・ダー」に限る。

などと言いつつも、その時出てきたのは「カーフェー・スウア・ダー」、すなわち「アイスヴェトナムコーヒー」であった。苦みがどれくらい入っているのか、は店舗によって違うが、ナンズコーヒーの場合は、苦すぎず、かといって甘すぎず、のちょうどいい配合である。少々肌寒くはあったが、美味しかった。

驚いたのは値段である。正確な値段は忘れたが、一人一万ドン台、すなわち日本円にして60〜120円だった。日本でカフェでコーヒーを頼んだら、おそらく一番安いであろうベローチェでも200円はする。それでいて、味はすごく美味しかった。

ただ、この衝撃価格も、店によってはある程度高い場合がある。私たちが去年ハノイを訪れて初めて入ったカフェ(ホアンキエム湖近くのカリナコーヒー。去年はWi-Fiのパスワードが12345678だったのが、今年はもっとマシになっていた)のヴェトナムコーヒー(カーフェー・スウア・ノン)の価格は一杯29万ドンだった。日本円にして約180円である。まあ日本からすると安いのに変わらないが、ハノイ的には高めだ。旧市街の中で落ち着いた雰囲気のある地区のこじんまりとしておしゃれなコーヒー専門店のコーヒーが確か27万とかその辺だったから、高いと言っていいだろう。

これがホーチミンに入ると物価が上昇する。コーヒーは基本3万ドンになるのだ。ヴェトナム風サンドイッチのバインミーより高く、ちょっとした麺類と同じ値段である。やはりこれが都会の価格、ってなわけか。

 

実は、濃いめのコーヒーにコンデンスミルク、と言うのはカンボジアにもあった。シェムリアップの街で歩き疲れた時に入った、「ノワールコーヒー」と言うガソリンスタンドのそばのカフェで飲んだ「クメールコーヒー(カンボジア風コーヒーという意味だろう)」も同じようなものだった。外はかなり暑かったので、砂糖と苦いコーヒーと氷の組み合わせは体を蘇らせてくれた。

 

そんなヴェトナムコーヒーだが、初めはどろりとして甘ったるいあの感じに驚くかもしれないけれど、ハマるとハマるのである。それはあのコーヒーが甘いがゆえである。暑い日差しに照らされて歩き回った時には、甘いものが欲しくなるのが人情だ。そんな時にヴェトナムコーヒーがうってつけで、飲めば疲れた体にじわーっと届き、体と心が蘇る。寒い日には(今回の旅だとフエが寒かった)、ホットの「ノン」を頼めば、体が芯から暖まる。日本でももっと普及すればいいのにな、なんて思ったりする。

f:id:LeFlaneur:20170223163025j:imageナンズコーヒーにて。コーヒーに人が入っているみたいである。

河内(ハノイ)、孤独の演歌路

※ 20日、フエ近郊で、先日このブログでも紹介したヴェトナム南北鉄道がトラックに激突して脱線し、トラックの運転手と運転助手、列車の運転手の三名が死亡、乗客も重軽傷とのこと。トラックの踏切無視が原因らしい。三名のご冥福と、乗客の方々の早期回復を祈るとともに、このような事故は日常茶飯事ではなく、この列車の持つ魅力はあくまでそのままであることを強調したい。

  

それは、ハノイについて二日目の夜、しょぼめの繁華街で焼きそばを食っているときのことである。どこからともなく演歌のようなメロディの歌が聞こえて来たのだ。

それ自体としては珍しいことではない。ヴェトナム人は演歌に非常に似たヴェトナム歌謡が好きだからである。珍しかったのは、それがCD音源でもラジオでもなく、スピーカーを台車に乗せて、それをゴロゴロ倒しながらマイクで歌い上げるおじさんの声だったからである。

流しの音楽家というのは、一度だけ吉祥寺で見たことがあるが、流しのカラオケとは驚きである。しかも、出だしで必ず音が外れるのだ。飯食う人々はそんな彼の歌声を聴いたり、遠巻きに見たりしている。そんな彼の心行きに、いやぁ真似できないけどいいな、と少しだけ思い始めた時のことだ。欧米の観光客が物珍しげに彼を取り囲み、何やらからかい始めた。だがそれでも男は歌い続けた。

流しのカラオケ。それは一人だけのものかと思っていたが、そうではない。というのも、そのあと別のところで別の人がやっていたからである。そちらでは屋台で何やら食っているおじさん連中がその男を呼び止めて、そばで歌わせていた。そうか、そういう風に楽しんでいるのか。そしてカラオケ男もそうやって生計を立てているのだろう。

 

ヴェトナム演歌。私はヴェトナムにいると自然と耳に入ってくる哀愁漂う音楽をそのように勝手に命名していた。それは単に、ガイドブックで知った本当の名前を忘れてしまったからだけではない。それらの曲は、やはり演歌に非常に似ていたからである。

メロディとしては、八代亜紀系統であり、演歌にカウントしていいのかわからないが「いい日旅立ち」や「まだ君に恋してる」、「川の流れのように」や「与作」にも似ている。歌声は男性は色々だが、女性歌手は大抵、石川さゆりのような声の人が多い。決定的に違うのは、盛り上がりである。日本の演歌が必ず盛り上がりがドバーッとあるのに比べて、ヴェトナム演歌ではそれが緩い。だからここで盛り上がるかな、と思わせていて盛り上がらない、という吉本新喜劇だったらみんなが一斉によろけるようなことがよく起こるのだ。

 ヴェトナム人は、なぜか老いも若きもこの「ヴェトナム演歌」が大好きである。例えば、フエからホーチミンに向かう列車でのこと。昼の二時くらいから五時くらいまで続いた昼寝のあと、我らがヴェトナム人一家ハオ家のみなさんは夕食を食べ、スマホでヴェトナム演歌を流し始めた。するとどうだろう、さっきまでかたや私のベッドまでよじ登ろうとしてくるほど元気が有り余っていて、かたやハオさんのベッドで泣いていたのに、楽しそうに歌い始めるではないか。ヴェトナムでは子供をあやすのに演歌を使うのかもしれない。それはどの家庭でもそうなのか、隣の個室からも演歌が聞こえてくる。

列車の旅では、他にもヴェトナム演歌を耳にする機会があった。それは車内販売のお姉さんである。時折、突然歌い始めるのだ。それもうまい。演歌演歌してるわけではない。だが、うまいのである。それは大河ドラマおんな城主 直虎」で柴咲コウ演ずる次郎法師のお経に似たような感じで、ヴェトナム演歌を歌っている。ちょっと鼻歌で、というよりもクオリティが高く、実はこの人は歌手になりたかったんじゃないか、というような感じだ。「歌上手いですね」と一瞬言ってみようかと思ったが、あまりにチャラい旅人になってしまうので、やめた。

 

このヴェトナム演歌の嵐は大都会ホーチミンでは下火となる。が、無論消えたわけではない。

去年ホーチミンに行った時に立ち寄ったカフェをたまたま再び訪れたのだが、その店では大音量でヴェトナム演歌を流していた。去年は気づかなかったが、それはもう、モーレツである。

やはりヴェトナムではヴェトナム演歌、なのか。

それにしても日本の演歌に似ている。そのため、ヴェトナム演歌が流れてくると、不思議と落ち着いた気分になってくるのである。いや、日本で演歌を聞くよりも、ヴェトナムでヴェトナム演歌を聞く方がよっぽど落ち着いてくる。これがなんとも不思議なことである。

調べてみると、ヴェトナム演歌の旋律も、日本の演歌の旋律も、元はと言えば中国の音楽をルーツとしているらしい。ヴェトナムの言葉には、多くの漢語が含まれており(たとえば「カ〜ムウン(ありがとう)」は「感恩(恩ヲ感ズ)」)、そういう言葉と触れるたびに、日本もヴェトナムも中華文化圏の中の国なのだなと実感するが、このように音楽という形で1つの延長線上にあると思うと、面白さと懐かしさとそれでいてヴェトナムの背負ってきた中国との争いの日々を思わせるような、複雑な心境になる。

 

実を言うとヴェトナムだけではない。

カンボジアにも、「カンボジア演歌」があって、時々テレビでカラオケ番組をやっている。そして街中でも、どこからともなく大音量の演歌が聞こえてくる。

 

私は別に演歌が好きだったわけではない。だが、旅先で聞こえてくる、そんな民謡のような歌にノスタルジーを感じたりしたものである。だから今度東南アジアを訪れる時は、スマートフォンに演歌のCDでも入れてみて、是非とも知り合った人に聞かせてみたい。そしていうのだ。

「ほら、似てるでしょ?」と。

釣る人々

エジプトはナイル川の賜物、と言ったのはとあるギリシア人のおじさんである。やはり文明とは川によっているところが大きいらしい。だから古くからある街には、たいていの場合は川が流れている。プノンペンにはトンレサップ川とメコン川シェムリアップにはシェムリアップ川、ハノイには紅河、フエにはフーン川、ホーチミン市にはサイゴン川が流れているし、それが東京なら江戸川や荒川、タイのバンコクにはチャオプラヤ川、ロンドンにはテムズ川、パリにはセーヌ川モントリオールならサンローラン川、と言ったところである。

 

さてさて、今回東南アジアに行って見て気づいたことがある。それは川沿いや湖沿いを歩くと、必ず一人は釣りをしている人がいることだ。

はじめに見たのはプノンペンだった。私たちはプノンペンからシェムリアップまで午前9:00ごろにバスで出発する予定だったため、朝七時ごろに朝食を市場で済ませ(その模様については、続「おやじ」で書いた)、プノンペンに別れを告げるため、時間になるまで川沿いを散歩していた。河川敷に入って歩いていると、向こうの方に人だかりが見える。それは釣り人たちの集まりだった。浮世絵で見たような、釣竿を猟銃のように構えら男、普通に構えている男たち、そして突然やってきて「おーい、釣れとるかい?」とでも言うかのように、イツノマニカ人の釣竿で釣りを始める男……。私たちはしばらくその様子を見ていた。

だが、なかなか釣れない。

見ている間に二、三回、あれ、かかったかな、と思わせるような状況があったが、どれもゴミが引っかかったり、逃げられたりしたようであった。それでも男たちはめげずに釣り糸を垂らしていた。猟銃の構えの男も、一人我流でそのポーズをとり、一度はかかったものの、逃げられたり、ゴミを釣り上げたりしながらも、諦めなかった。負けられない戦いがそこにはあった、のだろうか。それはわからないが、なんとなく男気のようなものを感じた。

 

シェムリアップの川は細く、さすがに釣りをしていた人はいなかったような気がするが(いたっけか?)、ハノイの中心部にあるホアンキエム湖には釣り人たちがいた。カップルだらけの湖のほとりにおやじ二人で座り込み、何やらやっているなと思ったら、釣りなのだ。百歩譲ってメコン川と合流するプノンペンの川での釣りならわかる。だがこのようなところにいるのだろうか。いや、疑問を挟んではならない。釣りとは信じる心なのだ……

 f:id:LeFlaneur:20170218185238j:imageホアンキエム湖

ホーチミンサイゴン川にもやはりいる。

釣り人たちは釣り糸を垂らしつつ、いい漁場をなんとか探し当てようとウロウロしていた。

「何が釣れるんですか?」

そう、聞いてみたかった。だが、彼らの真剣勝負に水を差すのは、粋ではない……と、いうか、たんに聞いたところでなんのことかわからないだろうな、と言う弱気な姿勢が胸をよぎったのである。いつになったらこういう姿勢を脱ぎ捨てられるんだろう。

f:id:LeFlaneur:20170218185209j:imageサイゴン

私もかつて、奥多摩で渓流釣りをしたことがある。その時はビギナーズラックで随分と大量のマスを取ったものである。「天才」などとあらぬ絶賛を父の友人にされながら、まんざらでもない気分になったのを覚えている。

あの渓流釣りの場所では、時が来ると管理員のような人が来て魚を放っていた。それを思うと、東南アジアのシティー釣り人たちは本物の漁場を相手にしているのだ。管理された漁場で神童ぶっていた自分が恥ずかしい。しかも彼らが相手にするのは本物であるだけではない。汚い!ゴミが浮いている!それでもめげずに釣り糸を垂らし続ける彼らに賞賛を送りたい。

統一と平和の道〜ヴェトナム南北鉄道で行く PART2〜

2. SE9 フエ→サイゴンホーチミン

 

フエに到着すると、私たちはガイドブックで見つけたやすそうで良さそうなホテルに飛び込み、チェックインをしながら、列車のチケットが取れるかどうか聞いてみた。列車に乗る、その心地よさを知ってしまったからである。
「とれますよ。あとでフロントに来てください」
よかった。
フロントに行って、列車の中に貼られていた時刻表のメモを頼りに、列車の選定を始めた。するとホテルの女性がこんなことを言った。
「なんで飛行機を使わないの?速いのに。電車だとほぼ1日よ」
またか。逆に聞きたい。なんでヴェトナム人のホテルの人は列車がそんなに嫌いなんだ、と。私たちはまたもジャパニーズスマイルでテキトーにごまかした。
結果的に夜にでて夕方に着く第一志望の列車、そして同じくらいの第二志望の列車は共に満員だった。だが昼にでて昼に着く、ほぼ24時間の列車は空いている。私たちはそれを取ることにした。

雨が最悪すぎてあまり楽しめぬままに私たちはフエをたった。駅までの運転手は日本語が話せて、
「電車は汚いです」
と言う。私は、すかさず
「でも旅情があります」と返す。なんだかだんだんこの状況に腹立たしさすら感じてきたのである。あんなにいい列車なのに、と。だが幸いこれは彼も納得してくれた。その男によるとフエは雨季だと言う。ガイドブックには書いてないし、あとで調べても全くどこにもそんな記述はないが、現に数日続けて雨だと言うからきっと本当なのだろう。

 

ヴェトナムの列車は正確である。遅延に遅延を繰り返す日本の列車よりずっと正確だとさえ思う。そのため、乗客は列車出発の1時間から30分前にはプラットホームへ向かわねばならない。
フエ駅に出発の30分前に到着していた私たちはすぐにホームへ向かった。駅員に聞くと「プラットホームワンだよ」と言う。こう言う時は慎重にがモットーなので他の係員にも聞いてみるとやはり1だそうだ。
途中でカップ麺とオレオを買って、私たちはフエの強烈に寒い気温の中、立って列車を待った。

列車は定時より早めに着いたと思う。前回とは違って若い女性の車掌(前回は愛想のいいおばちゃんだった)にチケットを見せながらこの車両でいいかとボディーランゲージで尋ねる。彼女は始めはヴェトナム語で何かを言ったが、私が解さないとわかると、列車を指して、
「rise!」と無愛想に言った。そういえば、ヴェトナム語では「列車に上る」という言い方をするのであった。が、それをそのまま英語にしてしまうと少し不思議になるな…などと思いながら、私たちは再び南北線に乗り込んだという次第である。

f:id:LeFlaneur:20170217000158j:image

6人部屋

 

今回の「同居人」は私たちと同じくフエから乗って来た四人家族だった。親は三十代くらいで、子供は二人とも幼稚園児くらいだろう。まだ昼の一時だったが、父親は息子二人を寝かしつけたいようで、部屋の中に入れては、外に出て来ようとする息子に厳しく「ほら、中に入りなさい!」というようなことを言っていた。
私は少しだけ眠って、それから車窓の外を眺めようと部屋を出た。すると同居人の父がそこにいた。
「どちらの国からですか?」と彼は英語で言った。
「日本です」
「英語OK?」
「はい」
「ヴェトナム語OK?」
「うーん、ちょっとだけ」
私は今回の旅のために少しだけではあるがヴェトナム語をやって来たのである。とはいえ、相手の言うことはよくわからない。それに発音のせいでうまく伝わらない。だがこの際だと、私はヴェトナム語で彼に話しかけた。
「かーっあいんでぃーだう?(ドチラマデユクアルカ?)」
「ニャチャン」と彼は言う。ニャチャンはリゾート地だ。家族旅行だろうか。「君は?」
「さいごん」私は聞かれたことを予想しつつ答えた。それから私は間を持たすために名前を聞いてみた。「あいんてんらずぃー(アナタノ名前ナニデスカ?)」
「はーお」ハオさん、か。「あなたは?」
「とーいてんらS(Sデース)」
そんなこんなで、私たちは会話とカウントしていいのかわからないような、会話をしばらくしていた。本気でわからない時は辞書を使った。今回は辞書を持って来たのである。これがなかなかいい。車窓を眺めながら目に入ったものをヴェトナム語でなんて言うのか調べるのも楽しいし、会話のツールになる。
ハオさんは、私をヴェトナム語を学ぶ学生だと思ったのか、車窓を見ながらないろいろな単語を教えてくれた。

「ヴェトナムには、北部、中部、南部があるだろ」とハオさんは言う。「ここは中部。ほら外を見て。「ムア(雨)」だ。三日前からずっとこうさ」
やはりか。どうやら雨季だと言うのは正しいようだ。ちなみに三日なのか三週間なのかはよくわからないからもっと大規模かもしれない。
しばらくすると起きた子供達が外に出て来た。ハオさんは子供のためにポップコーンを買った。
「コン(こども)」とハオさんは言う。
「こんあいん(ハオさんの子供ですね)」私はとりあえず名詞変化させた。
「こんとーい(そうさ、わたしの子供だ)」

それからまたしばらくすると、ハオさんは「スリープ」と言って子供達と部屋で寝てしまった。
窓の外を眺めていると、北部と変わらない田園の世界があった。車内販売のにいちゃんがやって来て
「このマンゴーうまいぜ。食いなよ」と言ってくる。それを見ていた車内販売のお姉さんが、ひたすら笑いながら「ノーノー」と言う。意味がわからないが、わたしはお姉さんの助言に従って「多すぎるよ」と突っぱねて、部屋に戻った。この漫才みたいな光景が徐々におかしく思えて来た。

ヴェトナム人の朝は早い。六時にもなるとホテルの外ではけたたましいオートバイのクラクションが鳴る。そしてヴェトナム人の夜は早いように見えて遅い。店は早めに閉じられ、路上は閑散とするが子供は九時くらいでも走り回っている。家族は八時くらいから夜の団欒を始める。
いつ寝ているんだろう。それが私たちの長年の疑問だったが、この列車でそれがわかった。昼寝、いわゆるシエスタをしているのだ。それもすごい長い間である。個室に入ると友人も含め、全員が寝ていた。寝るとするか。郷に入っては郷に従え、である。

ハオさんの奥さんが起きた音で目を覚ました。ドアが開いて、奥さんが外に出る。ドアの向こうに窓が見える。そこにはなんと海が見えた。見たい、と私は思った。そうこうするうちにハオさんママが帰ってくる。ドアはまた閉じる。私はベッドを降りて、下のベッドにいたハオさんの奥さんに謝って、外に出た。
外はすごい光景だった。山と海の世界である。雨の影響で地面ではジョロジョロと水が流れている。私たちは絶壁の上を走っているのだ。そして目の前には海がひらけている。そして海の向こう側には、去年訪れたダナンの街が見える。後で調べたら、ここはハイヴァン峠というヴェトナムの気候上の南北を分けている峠だという。私は先ほどハオさんに習った言葉を思い出した。
「ゔぃえっなーむ、でっ、くゎー(ヴェトナムはすごく美しい!)」
列車はダナンに着くまでに、山のキワをへばりつくように走行した。時々トンネルをくぐり、時々人気のないビーチの上を走る。それは絶景以外の何者でもなかった。まさに、でっ、くゎー(Đẹp qua!)

列車がダナンに着くと、謎の歌が流れる。ダナン以外では流れなかったので、おそらく「ダナンの歌」という名前に違いない。確証はない。
ダナンを過ぎると外は徐々に暗くなり始めたので、私は個室に入った。みんな起きている。五時くらいになるとハオさん一家は夕食を始めた。早いな、と思ったが、友人が麺を購入したので、私も食べようと麺を取り出したがフォークがない。私は売り子のお姉さんに片言すぎるヴェトナム語で、
「こーでいーほん?とーいこーでいー、にゅうん、とーいほんこーでいー!(これ(フォーク)、あるか? いや、これは(麺)あるんです。でもこれ(フォーク)、ない)」
見かねたハオさんが何やら説明してくれ、お姉さんはフォークを持ってきてくれた上にお湯まで入れてくれた。二段目のベッドで食べるのは無理(天井の問題で、腰をかけることができない)だったので、外で食おうとしていると、ハオさんが1段目に座れど言ってくれる。私たちはありがたく座った。駅で買ったものだがなかなかうまい。

「シンヴィエン、ア(学生さんでしょ)」とハオ一家のお母さんがいう。
「しんゔぃえん!(学生っす)」
そのあとお母さんは何やら言ったがよくわからない。私は辞書を渡した。お母さんは「どぅーりっ(旅行)」を指差していた。私はうなづいた。
「ノースタディー?(勉強じゃないのね)」
「ノゥ」
どうやらハノイの留学生だと思われたようだ。まあ確かに、日本でも片言の日本語を喋っていたら、一介の旅行者とは思わないだろう。私はなんだか嬉しくなった。

ハオさん一家は4時半にニャチャンで降りた。私はニャチャンはもっとあとだと思っていたので挨拶することもできなかった。もしかするとヴェトナム人にとって4時半などまさに朝飯前なのかもしれない。
六時くらいになると、昨日の売り子のにいちゃんがやってきた。
「ほら、買いなよ、ほら」というようなことを言っている。
朝食のようだ。よくわからないが、とりあえずもらっとこう。
「いくら?」
「えーっと……むいらむぎん」
むいらむ、とは15のことだ。で、ぎん、は千である。だからこれは1万5000ドンということとなる。日本円にして約90円。私はちょうどの値段を払った。
私がヴェトナム語を解さないと思っていたんだろう。にいちゃんはお札をもらうとやけに喜んで、手を差し出してきた。私は握手に応じて、「かむうん(アリガトー)」と言った。
やってきたのは米粉を練って蒸したものでひき肉を包み込んだ食べ物だった。初めはなんだこれはと思ったが、食ってみるとこれがうまい。ちまきのように笹の葉で包んであるので、笹の香りが良くて、肉もあたたかくてうまい。私は食べ終わった折に兄ちゃんに、うまかったと伝え、名前を聞いた。お兄ちゃんは言った。
「バインゾー!」

その後、開けっ放しにしたドアから乗務員たちがワイワイと入ってきて、私たちの個室がスタッフルームと化した事件があったり、電車が急停止して、その理由を、私の辞書に興味を示してやってきた売り子のお姉さんに辞書を使いながら尋ねてみるも、お姉さんのいう「チェンタオ」が辞書に載っていない事件などが起きたが、まあまあ平穏に旅は過ぎて行った。
窓の外では中南部の岩山の風景、南部の謎のアロエっぽいような、背の低い椰子のようなプランテーションと細過ぎる幹の木がならぶ世界、そしてホーチミンへと近づくにつれて都会的な雰囲気が漂って行く世界と、どんどん移り変わって言った。私は窓の外にあった赤いプラスチック製の椅子を拝借して、何をするでもなく、ただただ風景を眺めていた。時折売り子のお姉さんがやってきて、何やらノスタルジックな、演歌のような歌を歌っている。ヴェトナム人は演歌が好きだ。ハオさんの奥さんもケータイで流していて、子供達も歌っていた。隣の個室からも聞こえた。私たち日本人にはどことなく懐かしい旋律である。それはちょうど八代亜紀の歌のようであった。
時折売り子のお兄ちゃんが、何やら売ろうとしてくるが、もはや同僚の間でも「買ってもらえない売り子芸人」のようになっているようだ、断っても同僚は助けもせずにただ笑い、お兄ちゃんの方も滑稽な表情をしていた。車内は徐々に暑くなっていた。それは、列車の旅の終わりを示していた。私は少しだけ寂しく思った。

列車には、人がいた。それは多分バスや飛行機では気づくのが難しかったことだろう。色々な人が、入っては出て行く。私も入って、出て行く運命にある。だが少しの間でも、列車という1つの舞台に上がることで、少しだけ交流ができる。それはフェイスブックを交換したりする類のものではない。一回きりのことだし、ハオさんとももう会うことはないだろう。あの売り子のお姉さんとも、売り子芸人のにいちゃんとも会うことはない。でもそれで良いのだ。旅とは、そんなものなのだ。
あなたがもしヴェトナムに行くなら、私は誰がなんと言おうと列車の旅を進める。それもハードベッドがいい。そこにはヴェトナム人がいて、あなたを待っているからだ。ぜひ辞書を持ってriseしてほしい。

f:id:LeFlaneur:20170217000249j:image終着駅のサイゴン駅にて。

統一と平和の道〜ヴェトナム南北鉄道で行く PART1〜

1936年、当時フランスの海外植民地であったインドシナ半島で、一つのプロジェクトが完成を迎えた。それは、ヴェトナムの旧都で現在の首都であるハノイからヴェトナム南部のフランス支配の中心地であったサイゴンを結ぶ実に1726kmにわたる長大な列車の開通であった。ところが、第二次世界大戦後、フランスに対する独立戦争である「インドシナ戦争」、そしてサイゴンを中心とする南部に成立した米国の傀儡政権である「南ヴェトナム」とホー・チ・ミン主席率いる社会主義政権「北ヴェトナム」による全ヴェトナム統一をかけた「ヴェトナム戦争」によってヴェトナムは南北に分断され、列車もその機能を停止する。そして1976年、ヴェトナムは「北」による「全土解放」、すなわち日本人に分かりやすい言い方をするなら「天下統一」がなされ、くだんの1726kmを結ぶ列車も再びその役目を果たし始めたのである。そのこともあって、この鉄道は「統一鉄道」「南北線」と呼ばれ、統一されたヴェトナムのシンボルとなっている。

鉄道開通の81年後、そして南北統一の41年後の2月6日。今から実に10日ほど前のこと。私は友人と二度目となるハノイの地にいた。今回の東南アジアの旅は12日に及ぶもので、5日間のカンボジア滞在の後、私たちは無事(実はバクテリア性と思われる胃腸炎カンボジア最終日にかかったので、「無事」ではなかったが、まあ、生きていたんだ、「無事」にカウントしようじゃないか)ハノイ入りを果たした。今回の旅の1つのイベントは、ハノイ観光後に中部のフエまでくだんの南北線に乗ることである。


1. TN7 ハノイ→フエ

 

空港のツーリストインフォメーションで予約したホテルに飛び込み、チェックインの手続きをしていると、
「次はどこに行くの?」とホテルのフロントの女性が言った。
「フエに行きます」
「何で行くの? もう取ってあるの?」と女性はいう。
「列車で行くつもりですが、まだ取っていません」そう、今回はホテルはおろか列車のチケットすらなかった。
「そう。でしたらお手伝いできますよ」これはありがたい。私は早速お願いすることにした。
ところが手伝うわとかってでた割に、手続きをしながら彼女は怪訝そうな顔をして、
「なんで列車なの? みんなバスで行くわ。やすいもの」と言った。私たちは真面目に答える理由もなかったのでとりあえずジャパニーズスマイルでごまかしておく。そうこうするうちに手続きは進んで行く……
なぜ電車にしたかったのか。それはまずもって列車の名前が日本の地下鉄と同じ名前で少々おかしかったこと、いつか乗ってみたいシベリア鉄道の予行練習になりそうだったこと、おんぼろ列車でガタゴトと北から南まで行くというシチュエーションに不思議な魅力があったこと、とまあ色々とあったわけだが、一つ言えるのは、列車を使いたかったから列車を使いたかったのである。これじゃあ、言えるはずもなかろう。
始めは70ドルほどの列車があると言ってきた。100はすると思っていただけに少し安心したが、彼女は50ドルのやつもあるという。そちらの方が各駅停車で夜の20:45発12:15着らしい。私はそちらを選ぶことにしてこう言った。
「チーパー、ベター」
出発は二日後。懐かしのハノイと、世界遺産ハロン湾を巡ったあとのこと、となる。

予想とは裏腹に、この列車の旅は、予想以上に快適であった。
取ったのは、寝台車の「ハードベッドクラス」の「レヴェル2」。といってもよくわからないだろう。要するに、小さな部屋に三段ベッドが二つあり、そのうちの中断を使うということだ。そしてベッドはまるで畳のように硬い。事前にネットで調べていた通り、一夜限りの同居人はみなヴェトナム人だった。寝台車のランク的には下から二番目になる。
と、そんな風に書くと快適さが伝わらないかもしれない。だが、細くて硬いベッド、がたんごとんと揺れる列車には、飛行機や豪華列車にはないような心地よさがある。まず、支給されている毛布をたたんで、その上に枕をポンと置くと、リクライニングシートの如くなり、意外な快適さが出てくる。そして狭いベッドは一夜限りのマイルームのように思えてきて、広い部屋よりもずっと落ち着く。それは、去年の夏に台湾で一週間に及ぶ二畳一間生活を送ったからかもしれない。
そして何より一番いいのは、昼になると部屋の外に出て、窓の外を眺めることができる。これはバスにはない楽しみだろう。

朝起きて車窓の外に見えた北部ヴェトナムは広大な田園風景の世界である。果てしなく続く水田、そしてその水田の世界の中に時折現れる緩やかなカーブを描く緑の山。田園の中には茶色い牛が何頭か佇んでいる。これはカンボジアのバスで見かけた牛が白かったのとは対照的だ。そんな広い広い牧歌的な世界が流れて行く。何か見るべきものがあるわけではない。ただ目に入ってくる世界がある。そんな世界を見ていると、自分の周りにある閉ざされた世界なんざ大したことのないもののように思えてくる。
こんな田園の中で一生を暮らし、そして終えて行く人々はどんな人生を送っているんだろう。そこにはきっと私には得られないような幸福があるはずだ。しかし逆にいえば、私のようにこうやって異国の地の田園を見ながら物思いにふけるなんてことをすることはないだろう。人生は案外平等で、同じようなことを経験し、それでいて互いに互いの人生を経験することはできないのだから。

そんなことを思いながら、私はこの日からの「同居人」となった父娘の様子を見ていた。父親は穏やかな表情の人で、娘は幼稚園児か小学校低学年くらいだろう。交流こそなかったが、その二人の様子を見ているだけで心穏やかになるものがあった。北のどこかの田舎町から南へと移動する。そんな二人は時々窓の外を見てはにこやかに笑っていた。そしてしばらくするとカップ麺を食べ、タッパーいっぱいに詰め込まれた鳥の足をかじっている。母がもたした弁当だろうか。
そんな穏やかな雰囲気の中で電車に揺られていると、むしろ名残惜しくなるほどに列車はすぐにフエに到着した。フエは大雨だった。

数日後までにホーチミンに行かないと、私たちは日本に帰れま10、という状態だったので、フエからホーチミンまでの経路が問題だった。バスで行けば25時間。列車で行くと18時間。飛行機だと驚きの1時間20分である。始めは、ここは飛行機にして、案外初めての「LCC」体験にしようじゃないかと思っていたが、私は南北線を大いに気に入ってしまった。それじゃもう、南北1726km、走破しちまおうじゃねぇか。私は四日に渡る腸の痛みがなくなったこともあってそんなことを思いついた。友人も快諾してくれたため、なんと南北線の中で次も南北線を使うことを決定したのである。(つづく)f:id:LeFlaneur:20170216235340j:imageフエに到着する南北線

残すということ

日本のとある城が修復されるという1つの「事件」があった。その城はかつて白鷺城と呼ばれ、その修復事業はその元のままの白い色を再現しようとして行われたのだった。そしてそれはうまく行き、その城は今や白い白になっている。光りかがやかんばかりの白色に、である。

 

もう数日前のことになるが、私はカンボジアのアンコール遺跡を訪れた。初めは自転車で行こうとしていたがトゥクトゥクと呼ばれるバイクに乗客を乗せる荷車をつけた乗り物の運転手にしつこく勧誘され、根負けしてトゥクトゥクを使った。結果としては正解だったと思う。トータルで二人で2000円だったし、あの広大な遺跡群を案内なしに回れるはずもない。

アンコール遺跡の一帯を首都としたアンコール王朝は日本でいう鎌倉時代から室町時代ごろまで、ヨーロッパでいう十字軍の時代から百年戦争の終わりくらいまで、中国でいう宋代から明代初期まで栄えた王朝である。要するに、長い間東南アジア世界に君臨していたということだ。その勢いはヴェトナム南部を制圧し、タイ東北部とラオスを領有するほどだった。だが、この王朝も他の王朝と同じく、滅びてしまう。壮大な建築事業や果てし無い政争の末に、変わって力を持ったタイのアユタヤ王朝による侵略を許し、アンコール王朝は首都であるアンコールを放棄する。それからカンボジアはタイ、ヴェトナム、そして19世紀に入ってからはフランスによる支配のもとに入ることになる。

そんなアンコール遺跡の中でも有名なのが何と言ってもアンコールワットだろう。巨大であり、かつ精密。ここにそのようなものを作ってしまうような文明があった、それだけでも感動に値する。

だが、私はそのことよりもむしろ「ありのまま」の姿がそこにあることに心揺さぶられた。というのも、ここの遺跡は、無論後世の人の手は加わってはいるものの、冒頭で紹介した白鷺城とは対照的に、そのままの姿なのである。特にバイヨンなどの、アンコール王朝の首都であるアンコールトムに点在する遺跡群は、アンコールワットと比べても「打ち捨てられた」という過去を背負ったような、どことなく哀愁を抱えていた。そしてそれと同時に人間の作った壮麗な文明の賜物である遺跡が、自然との一体化を見せてすらいた。祠に入ると頭上ではそこをすみ方する鳥が鳴き、橋の上にはニホンザルに似た姿の猿が座っている。遺跡の奥まった場所に座って、少し目を閉じてみると、まるで文明などそこにはなく、単にジャングルがそこにあるだけかのようだった。

自然だけではない。「今」という時間がアンコール遺跡では「過去」と1つになっていた。人々は石の上に座り、石段をよじ登るようにして登って行く。遺跡の保存という観点からは由々しき事態である。だが、そこには過去と今の交差点があるように見えた。

時は流れて行く。だから全ては移り変わる。かつて栄えた文明は、木々に覆われて朽ち果てて行く。だが完全になくなるまでにはまだ時間がある。保存とはその時間を伸ばすことだ。間違っても過去を取り戻す事ではないと私は思う。アンコール遺跡は単に政治的理由などから保護することができなかっただけなのかもしれない。だけどそれが結果として、白鷺城などよりもずっと良いものを残しているような気がする。

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同じことを私は三日前にヴェトナムのフエという街でも見た。そこは十九世紀に成立した阮朝の首都があったという。ちょうど雨季だったようで(中部だけ雨季だという。ガイドブックにも書かれていなかったし、奇妙なことだとは思ったが、フエの運転手も、電車で出会ったフエの人も同じようなことを言っていたので、これは間違いないのだろう。ガイドブックが正しいってわけではない)、初日はろくに観光もできず、挙げ句の果てにシクロ(自転車力車)にぼったくられかけ、服もびちょびちょで大変だったわけだが、二日目には雨も小ぶりとなってようやくかつての宮殿跡に入ることができた。

宮殿の入場料をごまかされるというセンセーショナルな事件があったが、まあそれはさておき、宮殿の中には穏やかな風が吹いていた。陳腐でなんの面白みもない表現をするなら、悠久の時が流れているかのようである。入場料は千円したし、観光化されてはいるのだが、中は公園のようになっていた、自由に歩き回れる。ヴェトナム戦争中に受けた空爆で大破した跡地、そんなことなど我関せずというようにどっしりと構える邸宅などが軒を連ね、それは決して、見せるためにあるのではなかった。あるから、ある。国は滅びても、失わぬ誇りというものなのだろうか。

ツアーのガイドも良かったのだろう。旗を振って大勢にわーっと話すというよりも小規模のグループに話しかけているように説明をしていた。決して、どうだ、すごいだろう、という風ではなく、まるで物語を語るように静かに語りかけていた。

だからだろう。フエでは過去と現在がやはり1つになっていたのだ。一通り回っても、時間が許すならもう少しここにいたいと思わせる何かがあった。

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時の流れを断絶させずに、保存する。それは難しいことだろう。特に日本人はそれが苦手なように思う。京都や奈良にはそう言った空気感がなくはないが、日本の普通の街並みを見て見ると、やはり断絶の上にあるように思う。だからだろう。日本では保存よりも再現が流行る。新しく立て直す方に良さを感じる。片手の色を取り戻すなどと言った事業をよく聞く。それもまた面白くはあるが、過ぎ去って行った時の流れを今のものとして伝えることはできないのだ。

だが、現代もいつかは古代になる。アンコール遺跡には1800年代の落書きが残っていた。落書きすらも時の流れを背負えるのだ。いつかコクーンタワーやスカイツリーが保存されてくれることを望みたい。

おやじ〜続・プノンペンにて〜

プノンペンにきて二日目、私たちは朝早くにバスに乗り込んで、6時間ほどでアンコール遺跡のあるシェムリアップへと向かうことになっていた。朝食をどこで買おうかと、とりあえずホステルの人に聞いてみるも、満足な答えは帰って来ず、私たちは昨晩見つけたマーケットのようなところに行ってみた。

すると、やたらとたくさんの人が入ったガレージのような店が目に入った。とりあえず入ってみようか、と私たちは店員に何とかして意思を伝えようと、身振り手振りとスマイルも使って何らかの麺料理を頼んだ。

しばらくすると、何処と無くフォーに似た麺料理が運ばれてきた。何肉かはわからないが、とにかく旨みのたっぷりな肉、ハーブ、もやしが一緒になっただしのきいたスープに、米製の麺と、ガーリックで焼いたナッツやネギが入る。これがなかなか旨いのだ。

しばらく食っていると、店員が小皿に魚醤と唐辛子を入れて運んできて、私たちの前にポーンと置いた。それからクメール語ににやら伝えてきた。が、わからない。わからないぞオーラを出していたら、店員は「話になんねぇ」と奥の方から一人の「おやじ」を連れてきた。

するとおやじは肉を箸で掴み、魚醤につけた。なるほど、刺身のように魚醤につけて食べるなか。私たちはすぐにその真似をした。なかなかいける。

おやじは英語を使ってそのソースについて語り始める。曰く、そのソースは市場から買ってきたオリジナルなものであり、配合はおやじの家に伝わる伝統的なものらしい。そしてずっとそこでこの「おやじ麺」を売っているという。そして、新しい客がくるたびにおやじは食べ方を指南しているらしい。

おやじはさらにいう。俺は日本に行ってみたい、と。だが、地震が怖いのだという。そこから、海外の人の日本に対する1つのイメージが垣間見えたような気がした。

それはともかく、その店の客のごった返し方は、店主のおやじが丁寧に食べ方を指南してきた結果でもあるだろう。だがもちろんそれだけではなく、あそこの麺はうまかった。もしかくるとうまさというのは、舌だけで感じられるものではないのかもしれない。