Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

街がいきづく〜一度きりの出会いと懐かしい香り:赤坂−溜池−六本木〜

 

今日も例によって昼の時間を潰すべく赤坂へと向かった。日差しは強いが、サイゴンほどではない。湿気はあるがバンコクほどではない。私には今日赤坂へと向かう確固たる理由があった。それは、「街が生きている」と題した記事の中でも触れた、赤坂に出没するガーナ料理の屋台カーで昼食を食おうと思ったからだった。

ガーナ料理とは一体どんなものなのだろう。ガーナといえば西アフリカ。その辺りの料理ならかつてセネガル料理を食べたことがある。確かあれは吉祥寺の店だったが、なかなかうまかった。クスクスにピーナッツバター風味のカレーみたいなやつがかかっていて……などと思いながら、照りつける日差しの中、大通りをワクワクしながら歩いた。水を持っていなかったので、喉が渇いたが、そんなことは関係ない。とにかく、ガーナ料理だ。足早に歩いて行く。ところがだ。いつまでたってもあの屋台カーが見当たらない。あれを最後に見たのは二週間前の金曜日。曜日単位で動くなら、今日も止まっているはずだ。それなのに、いない。

くまなく探したが、やはり見当たらなかった。そうか。出会いは一度きりなのだ。偶然という運命に動かされる私たちの人生で、一度きりではない出会いなんてない。もちろん、偶然の重なりはあるし、やけにかぶって出会う人というのは確かに存在する。だが、あのような屋台カーとの出会いは、やっぱり、一度きりなのだ。く。やらかした。出会いをなめていたようだ。前回通りかかった時はもうすでに昼食を済ませた後だったから気乗りがしなかったけど、運命は非常にも、私たちの出会いを一度きりと決めていたのか……などとくだらないことを考えつつ、ちょっとがっかりしながらファミリーマートで水を買い、私はもっと現実的な問題について考えることにした。その問題とは、人類共通の問題。「さあ、今日の昼食はどうしようか」である。

赤坂で食ってばかりでも、芸がない。また牛肉麺ではおもしろくない。だけど、他にいい店があっただろうか、と考えるうちに、私の脳裏に振り払えない一つのひらめきがよぎったのだった。「知らない赤坂を探すんだ」と。「ガーナ料理に出会えなかったのは、知らない赤坂を探すためなんだ」と。そんなこんなで、気温33度の暑さの中、私は無謀な散歩へと向かった。行くあてもなく、食うあてもなく、ただ一つ、水だけを携えて。ちなみに、このときの所持金が800円であるということは秘密である。

赤坂のアパホテルやらフーターズやら中國銀行やらが立ち並ぶ大通りを私はとにかく駅とは逆方向に行く戦略をとった。そうすればきっと、知らない赤坂が現れる。その戦略は間違っていなかった。少し道をそれると、土色の建物が並び、小洒落た料亭、ハングル表記がたくさん書いてあるホステル、老舗のトンカツ屋、やっているのかやっていないのかよくわからない太麺スパゲッティの店立っている知らない界隈に行き着いたし、そこから大通りに戻ると、高層ビルが並びながらも、弁当屋などが軒を連ねている「生きた都会」が広がっていた。

 

途中で気づいたのだが、実はそれはもはや「知らない赤坂」ではなく、「溜池山王」だった。雰囲気もだいぶ違っていて、赤坂の「生きている」感じというよりむしろ、開発された場所に人々が「息づいている」感じがあった。どことなく、海外の街に来たような雰囲気もある。

高速道路が走る高架橋の下を通る別の大通りと今まで歩いてきた大通りとがぶつかって十字路になるところまで来た時、ハッとした。なぜなら、その場所は私の知っている場所だからだ。「知らない赤坂」を探した結果、赤坂から離れた上に、「知っていた」場所に来たのである。そこは、高速道路沿いの道を右に行けば六本木、左に行けば日比谷・丸の内へと繋がる場所だった。それは私が高校卒業の年に来たところだった。

私は訳あって(という謎めいた言い方をしなくても、要するに推薦入試だったので)人よりも大学に早く受かってしまっていた。そのため、一月二月三月とかなり暇をもてあそんでいた。その時、私は美術館に通うようになっていたのだ。その中でも、興味のある特別展を何個かやっていたのが、六本木からほど近い乃木坂にある「国立新美術館」だった。美術館に行った帰り、私はよく散歩をしたものだった。渋谷まで行ったこともあったし、六本木ヒルズの方まで行ったこともあったが、日比谷に行くこともあった。その時通ったのが、この道だったのだ。六本木方面から進んで行くと、急な坂があり、その坂を登ったら日比谷。そんな日比谷へと至る坂道が、私の左に見えた。こう繋がっていたのか。たしか新美術館から赤坂方面に行こうと思ったこともあったのだが、あの時は遠いような気がして断念していた。でも、実はこんなにも近かったのだ。

私は感慨に耽りながら、針路を右に向けた。日比谷もいいが、食事場所は少ない。奈良六本木方面の方がいい。かつてここを歩いた時、ネパール料理やらエジプト料理やら妙ちきりんなものがたくさんあった記憶がある(残念なことに、ネパール料理もエジプト料理も最近じゃ、見知ったものになってしまった。高校生の時分、「なんだこれは!」と目を輝かした自分が懐かしい)。行ってみよう。

と行ったのはいいのだが、重要なことを忘れていた。そう、私の所持金は今、800円なのだ。ネパール料理もインド料理も1000円はするのだ。といっても、ワンコインランチの店に行く気には、なぜだかならなかった。これはという店がないまま歩き続け、軽い熱中症になりかけては水を飲み、回復させながら、進んだ。

すると、ふと「ドイツソーセージ」の店を見つけた。ホットドッグなら650円だという。悪くない。私はすーっと、その店へと足を踏み入れた。

 

そこは、ドイツ式の軽食屋Imbisだった。決してお洒落とは言えない店構え、決してお洒落とは言えない内装、そしてやけに清潔な感じ。それはまさにドイツの店だった。伝わるかわからないのを承知で言うと、日本のカメラ屋さんが一番近い。今ではあまり使わなくなったが、フィルムの現像とかをしてくれるような店である。

店員は二人。働いているのは実質一人。ドイツ人と思しき、がっしりした体つきのお兄さんだった。彼はなぜか小声で、

「いらっしゃいませ」と言った。私はホットドッグランチをお願いしますと答える。なにやら選べるとのことだったので、お勧めを聞いて、それに従うことにした。

「サラダはなにになさいますか?」というので、私はザウアークラウト、つまり酢漬けのキャベツを食べることにした。

実は、6歳の時、私はドイツのベルリンに住んでいた。人格形成において、案外一番大事かもしれない幼稚園年長時代である。おかげで、ドイツ語の発音は客観的に見てやけにいいし、カルチャーショックをあまり受けない人間に育った。一方で、弊害は、ドイツが余りすぎではなくなったことだ。それは、ドイツで何か嫌な思い出があったわけではない。単純に、「ドイツ=ダサい」というイメージが染み付いてしまったのである。大学に入るとドイツ語を選択する人も出てきて、ドイツをかっこいいと言っているが、どうも解せない。ドイツ語の発音は、ハキハキやれば軍隊だし、普通にやれば田舎臭い。料理もジャガイモ、ソーセージとハム、酢漬けのキャベツ、豚肉を煮たやつと、かなり原始的である。そのなにがかっこいいというのか。要するに、田舎で育った人が、田舎に対して、「おらこんな村嫌だ」と思うのと同じ感じで、ドイツが好きではなくなってしまったのだ。

そんな私が今、なぜか思いつきで入ったインビスにいる。そして不思議と、その無機質でムダに清潔感のある店内を眺めていると、懐かしい気持ちになってくるのだ。しばらくしてやってきたホットドッグは、本場ドイツとは違って日本人向けのミニサイズだったし、熱々だった(奴らは基本的に猫舌なので、あまり熱々は食べない)が、食べてみるとどことなく懐かしかった。ザウアークラウトも、酸味には欠ける(本場のはものすごくすっぱい)が、ちょっと気持ちが落ち着く香りだった。なぜだか、またドイツに行きたいと思う自分がいることに私は気づいた。

気持ちを振り払うように、私は「ごちそうさま」と言って、店を出た。お腹いっぱいにはなれなかったが、あの懐かしい雰囲気に触れられたので良しとしよう。普段は外国の方が経営している外国料理の店では、できるだけその国の言葉でありがとうというようにしているが、なぜか今回は恥ずかしくて「Danke」と言えなかった。また今度来たら、言ってやろうと思う。

ちなみに、次の旅では、ドイツにはいかない。

f:id:LeFlaneur:20170715000628j:plainこれが私の知らない赤坂

街が生きている(赤坂)

東京の面白いところは、いろいろな場所によって、それぞれの個性が光っているところだと思う。新宿には新宿の、四谷には四谷の、麹町には麹町の、丸の内には丸の内の、八重洲には八重洲の、銀座には銀座の、有楽町には有楽町の空気がある。ちょっと離れるだけで、まるで異国のような雰囲気がある。疑う人がいたら、日本橋から上野に行ってみるといい。もう、全然違う文化圏に移動したような感じがするはずだ。

その中でも、赤坂という街は独特で、僕の好きな街の一つでもある。そして、実は今、僕は赤坂にいるのだ。

赤坂は、僕の生活圏内から近く、よく立ち寄る場所である。特に金曜日の昼は、休み時間がだいぶあるため、赤坂まで足を延ばすことが多い。もちろん今日も、それが理由で赤坂にいるっていうわけだ。

江戸城の外堀を超えて、横断歩道を渡ると、赤坂の街が始まる。細いタイル張りの道が適度に汚いビルの間を突き進んでゆく。道は碁盤の目のようになっていて、赤坂で迷うということはおよそないだろう。だけど、南北に走る道と、東西に横切る道(というか小さな路地)では、これまた雰囲気がだいぶ違って、歩いているだけで楽しくなってくる。南北に走る道にはスペイン、イタリア、タイ、イギリス、中国、韓国、国内では大阪、名古屋などなどのいろいろな「文化」を表現するレストランやらバルやらパブやらが立ち並び、東西に横切る道にはひっそりと昔からあったんだろうなというような小料理屋やすし屋などが生きている。

赤坂の道を歩いていて気づくのは、そこが適度に汚いことだ。ビルも、道も、どことなく「使用感」がある。坂のせいで、碁盤の目のようになっているはずの道も、どことなく歪んでいる。ちょっとだけいびつで、ちょっとだけ汚い。道に並ぶ店も統一感はなく、イギリス式のパブがあったかと思えば、料亭があったり、料亭があるかと思えばタイ料理屋があったり、かと思えばホテルがあったり、ちょっと卑猥な店があったり、とにかくごちゃごちゃしている。だがこのごちゃごちゃ感こそ、「街が生きている」証拠なのだ。東京の街は多様な文化を持っているとはいえ、徐々に綺麗になってきていて、このごちゃごちゃ感を出せる街並みは少なくなっていると思う。そんな中でも、赤坂はごちゃごちゃ感、適度な汚さを保ち、街をエネルギッシュに保ってくれている。だから、僕はこの街が好きなのだ(ただし、夜歩くのはちと怖いかも)。

赤坂はかつて、高級住宅街だったという。江戸時代には大名屋敷(今でいう「大使公邸」「大臣公邸」)や旗本屋敷(今でいう高級公務員の家)が立ち並び、明治時代には高級官吏や軍人のための料亭がたくさんあったという。戦後になると、大使館の人たちなどの外国人の遊び場として赤坂は発展し、キャバレーなどが出来上がり、1955年にTBSが本社を赤坂に構えると文化人やファッション関係の人の溜まり場となっていたという。おかげで、今の赤坂はまるでTBSの城下町のようである。TBSがちょっと小高いところにあるので、赤坂の城下町感が倍増している。

もちろん、本当はきっと、赤坂を挟んでTBSの反対側にある「日枝神社」の「城下町」なのだろう。日枝神社というのもなかなか面白いところで、神社なのにエスカレーターがついている。神社といえば長い階段のイメージがあるが(東照宮などにはすごく長い階段があるではないか)、なぜか日枝神社はそれを機械化、白い巨大な階段の隣にエスカレーターがあるのである。神社の中はかなり立派で明治神宮にも劣らないだろう。日枝神社の目の前の道は、赤坂の街のごちゃごちゃ感とは裏腹に、だいぶ整った大通りが駅の方へと貫いている。と、思わせておいて、並ぶ店はスペインバルに中國銀行アパホテルに、よくわからないドイツ語の名前の企業と、だいぶ異様な雰囲気を漂わせている。今日歩いていたら、派手な車が止まっていて、なんだろうと思ったら「ガーナ料理」の車だった。昼に台湾の「牛肉麵」をTBS城のお膝元で食ってしまっていたので断念したが、今度見かけたら、絶対に行ってやるから、待ってろよ、と心の中で捨て台詞を言って、立ち去った。

 

 

さて、以上が、僕の見た、いい意味で「ごちゃごちゃ」、エネルギッシュな赤坂の街の姿だが、今日新しい一面を見つけた。TBSの前を横切って、坂になっている「一ツ木通り」を歩いていると、「浄土寺」という寺があったのだが、そこが面白かったのだ。ビルの合間にぼんぼりが吊る下げてあり、中が入ってみると、参道があって、その先には寺があった。おばあさんとその娘がゆっくりと山道へと向かい、穏やかな風が流れていたその寺は、四方を住宅に囲まれていたのだ。まるで、昔の街のように、家が立ち並ぶど真ん中に寺がある。エネルギッシュな繁華街に見える赤坂にも、そんな穏やかで、別の意味での生活感にあふれたところがあるとは、想像もしなかった。吹けば飛びそうな寺だったので、ぜひずっと残っていってほしいなと思わざるをえなかった。

赤坂。今、朝ドラでも出てきている街。そこには生活とエネルギーとごちゃごちゃの文化がある。歩く人の人種もバラバラ。売っている食べ物もバラバラ。それでも隅っこには日本的な要素が静かにいきている。あの街は確かに、生きているのだ。

f:id:LeFlaneur:20170630145602j:image

浄土寺

『知と愛』のはなし

この前、友達と一緒に西田幾多郎の『知と愛』というエッセイを読んだ。読んでいる様子はツイキャスにあげているので、私のTwitterを知っている人なら、遡って見つけることができるだろう。このエッセイは、西田の『善の研究』という大著のエピローグのようなもので、もともとは独立したエッセイだったという。

彼は言う。知と愛は、同じ精神作用だ、と。知るということは、自分の思い込みを捨て、知識へ身を委ねることである。そして愛するということは、自分を捨て、相手を想うことである。どちらにも、「自分」は消え去ってしまい、そこには「純粋経験」だけがある、と(純粋経験とは、私たちが普段やっている経験である。例えば夕日を見ている時、私たちは決して、「私は今、夕日を見ている」などと感じはしない。じっさいには、ただただ目の前に夕日を感じているのである。そのとき、「自分」は消えている)。いや、それどころか、西田は、「知即愛、愛即知」と言って見せる。つまり、相手のことを知るがゆえに、相手をますます愛し、何かを愛するがゆえに、何かを知るのである。

なかなか納得させられる。高校生の時、私は古代ローマの本を読み漁った。そのおかげで今、ローマの歴史の流れをそらんずることができる。「ラティウムに住む男たちが、ローマの土地に国を建て、指導者ロムルスが王になり、王政が始まって、ヌマなどの前世を敷く王様の時代が続き、その中で隣国エトルリアの文明を吸収していくが、最後の国王タルクィニウス・スペルブスは……」と。これは正真正銘「知識」だ。それも、世界史の勉強の役にも立たないし(国王の話なんて、高校の教科書では「ロムルスがとレムスが建国。その後、エトルリア人の国王を追放して」で終了である)、実生活の役にも立たない知識である。だが、私にとっては意味があって、ローマ史の話をしろと言われて国王の話から始めるのは、二代目国王ヌマから六代目セルウィウス・トゥッリウスの業績が、最後の王様のせいで無に帰せられるのがかわいそうだからだ。それはある種、ローマの歴史という一連の流れを愛するからである。実際、ローマ史を調べていた頃は、しょっちゅうローマ人の話を私自身していたと記憶しているが、それはよく考えてみると、恋をした人が恋する相手の話をすぐにしてしまうのと非常に似たところがある。私はどうも「熱っぽい」性格のようで、ローマだけではなく、物理学(特に相対性理論量子力学の歴史)、数学(特にフェルマの最終定理)、江戸の歴史、幕末〜明治に活躍した榎本武揚フランス第二帝政を作ったナポレオン3世、世界の言語などに同じような感覚を抱いていた。今から思えば、あれこそまさに「知即愛、愛即知」だったと思う。逆に言えば、このような「愛」がなければ、本当に楽しんで「知る」ということはできないだろうし、ただ覚えただけの知識はすぐにどこかへ消えてしまうのだろう。もし、教えるのが上手い先生がいたとすると、それは話が上手いだけではやっぱりダメで、その知識への「愛」を豊富に持ち合わせた人に違いない。知ったかぶりや知識自慢ではなく、純粋な愛あってこそ、聞き手もその愛に飲み込まれ、知識を「人格的なもの」「いきいきしたもの」として受け取ることができるはずである。

人に関しても、間違いなくそういうことはある。初めは見た目が好きとか、声が好きとかだったとしても、だんだんとその人のことを知るにつれて、その人を好きになって行き、好きだから、知りたくなるのかもしれない。星野源の「くせのうた」という歌を思い出す。「君の癖を知りたいが、ひかれそうで、悩むのだ……」知ることは、愛することへと近づいてゆく。もちろん、知るからといって愛するわけではない。だが、愛していなければきっと、知るというよりも、決めつけて終わると思う。「あいつはこういうひとだから」「お前はこういうやつだよな」「お前が考えそうなことだ」などということは、「知る」ことではない、と思う。確かに初めは知ろうとしたのかもしれないが、もはや分析する方向へと進んでいて、それは愛とは言えないし、知ってもいない。嫌いな人に対してやりがちなことだ。いや、もしかすると相手を盲目的に好きになると、これまたやりがちなことなのかもしれない。

そうやって考えてみると、科学を「未来を予測するためのもの」と考えるのは、一つ間違いなのかもしれない。確かに、ニュートン力学は、ハレーという人がニュートンの数式を使って彗星の出現を予測した時、確かなものになった。自然科学とは違うが、経済学は経済の動きを予測する役目を期待されているし、気象学は気象予報を求められている。だが、科学の精神って、本当にそこにあるんだろうか? 今、理論物理学でホットな話題は、「TOE(=万物の理論)」だろう。これは何かというと、予測するというよりはむしろ、この宇宙を動かすあらゆる力(ちょっとマニアックな話をすると、四つの力であり、一つは万有引力、もう一つは電磁気力(静電気や磁石の持つ力)、最後の二つは原子を成立させている「強い力」と素粒子を変化させる「弱い力」。電磁気力と強い力と弱い力は、「統一理論」で統一されそうだ)を一つの理論によって説明し尽くそうという動きだ。これは予測ではなく、過去に遡って、全ては一つであったことを説明しようとしている。それはひとえに、「知りたい」という思いである。それは「愛」にも似たものである。予測することは、自分の知ったことを元に、相手をいわば「決めつけ」、次の出来事を読むことだ。これは愛とは違う。

西田幾多郎はあまり書いていなかったと思うが、「決めつけ」の問題は随分と根深いし、他人事ではない。人はみんな何かや誰かを愛しながら生きている。だがそれは、「決めつけ」に走る可能性を秘めている。ストーカーや、自然破壊はその極致と言っていいだろうが、どの人もそれをやりかねない可能性を持っている。歴史を楽しんで学ぶと、いつの間にか、現代という時代を変えてやりたくなってくる。相手を知ると、自分が相手にできることに思いを馳せ、いつの間にか自分が相手を変えてやろうという気持ちになる。必ずしもその全てが悪いわけではないし、それは歴史や人生を動かす原動力に確かになっている。だが、それは時に暴力的で、危険な側面も持つ。ちょっとした「君って〜な人だよね」「この民族の歴史は〜な感じのサイクルをいつもたどる」「日本人は〜な民族だ」は、いつか、危ないものになるのかもしれない。私たちは微妙な位置で生きていて、愛と知は微妙な位置にある。人を本当の意味で愛し続けるには、もしかすると何もしないという選択肢しかないのかもしれないし、何かを本当の意味で知るということは応用的なことは一切してはいけないということなのかもしれない。だが、行動や応用がない限り、人は歴史や人生を前に動かすことができないのもまた事実だ。

大切なのは、純粋な愛、純粋な知を楽しむ経験を持つことかもしれない。それを大事にした上で、それをいかに前に進めるかが問題だ。そうやって考えると、西田幾多郎のいうとおり、「純粋経験」へとたちかえらないといけないのかもしれない。そして、それこそ現代において哲学のできることなのかもしれない。それは一人で行うことでもいいし、誰かとともに対話することによってなのかもしれない。フランス人哲学者のベルクソンはこんなことを言っている。

「科学者は、自然に服従し、命令する。哲学者は、服従も、命令もしない。ただ、共感することを求める」

ヴェトナムの方がやってきた

6月10日と11日は、代々木がヴェトナムになる日だった。5月ごろから代々木公園では、カンボジア、タイ、ラオスと東南アジアの国々を紹介するフェスが開かれ、6月10日と11日はヴェトナムフェスティバルが開催されていたのだ。

去年、一昨年と連続してヴェトナムに行った私としては、このフェスティバルには行かなければならなかった。そう、もう行きたいどころの騒ぎではなく、行かなければいけなかったのだ。そんなわけで、私は後輩二人とヴェトナムフェスティバルに繰り出したというわけだ。

面白かったのは、このフェスティバルが、ヴェトナムという東南アジアの国に興味がある酔狂な日本人が集まる場ではなく、ヴェトナム人たちが集まってくる場でもあったことだった。というのも、去年同じ会場でやっていたアラビアンフェスティバルは、イスラーム圏の人の集まる場というよりも、日本人が集まっている状態だったからである。それはたぶん、イスラーム圏の人は、毎週金曜日、いやほぼ毎日モスクで集う習慣があり(本当に「集って」いる。一昨年モスクを訪れた時のあの雰囲気は忘れがたいが、それはまた今度話そう)、ヴェトナム人と違って文化的な何かを確かめ合う場が多いからではなかろうか。その点、日本にはヴェトナム寺院(大乗仏教の寺だが、明らかに雰囲気が違う)といっても、数えるほどしかないだろうし、集まるにしても、年に一度のテト(旧正月)くらいではないか。まあ、どれも憶測に過ぎない。単に祭りと聞いたら血がさわぐたちなのかもしれない。

とにかく、ヴェトナムフェスティバルの会場に入ると、いや会場への道のりから、だいぶ異質な雰囲気を醸し出している。周りからはヴェトナム語が聞こえ、男女ともにアオザイで着飾った人もいるし、会場に入れば、独特のハーブやら肉やらの混ざった匂いがしてくる。看板にはアルファベットに細々とした飾りをつけたヴェトナムアルファベット(クォッグー)が並んでいた。ライヴは無名の日本人アーティストの謎のナンバーもお届けしていたが、たまにヴェトナムのスターが現れ、ヴェトナム人たちは歓声をもって彼らを受け入れ、スターたちはポップな曲やバラードをやったかと思うと、一曲は必ずヴェトナム演歌を演奏していた。まるで、ヴェトナムである。会場の裏手にあるスペースではヴェトナム人たちがピクニックを催していて、「モッハイッバー、ゾー(1、2、3、いくぞ!)」という掛け声とともに乾杯し、盛り上がっていた。その脇を、子供達が駆け回る姿も、ヴェトナムっぽさがあった。

そこには、ヴェトナムがあった。「ヴェトナム」自体が出展されていた。もちろん、日本でやっているのでどこか小綺麗な感はあるが、やはり、あれはヴェトナムだったのだ。食事の方はというと、やっぱり本場にはかなわないが、ビールの「333(バーバーバー)」も「ビア・ハノイ」もあの時の味だったし、それに嬉しかったのは、本場ヴェトナムのチェーン店チュン・グエンの系列店が「本物の」ヴェトナムコーヒーを出していたことだった。あれはあまり日本では味わえないので、嬉しかった。チョコレートのような濃厚な味の、コーヒーと練乳のマリアージュ、である。

それにくわえて、あのフェスティバルは8時まで続いた、というのもヴェトナムらしい。テンションを一切変えず、一日中やり続けるヴァイタリティ。他のフェスティバルは普通5時には終わるものを、8時まで延長し続ける力強さがそこにはある。まさにヴェトナムという感じである。

かつて、エスニック料理の店の魅力について書いたことがある。あの時、私は、こんなことを書いた。エスニック料理は、日本にいながら他の文化の濃厚な部分への扉を開いてくれるものだ、と。なぜなら、食べ物の味はもちろん、その店の雰囲気、働いている人々、そして店の中の香り、流れている曲……それは完璧にではないが、その国の文化を確かに立体的な形で伝えてくれるからだ。ヴェトナムフェスティバルは、実際にヴェトナムに行ってみて考えると、確かに代々木をヴェトナムに変えていた。言葉、香り、音楽、人々、そして味、エネルギー。もっと大規模な形でヴェトナム自体を伝えてくれていた。そう、五万円払ってヴェトナム航空のチケットを買わなくても、そこにはヴェトナムが、ヴェトナムの方がこちらにやってきたのである。

偶然か、必然か、それとも運命か

人と人との出会いは偶然なのか、運命なのか、という話に、二日続けてなったことがある。メンバーも違うので、どうやらあの時は、この話をする「運命」にあったというわけだが、私は正直どちらでも良いと思っている。

すべての人はそれぞれの人の意思で動き、時に誰かに影響されつつもどうにかこうにか生きている。動物もある程度は自分の思うままに行動しているのかもしれない。出会いなんてものは、人と人がそれぞれの思惑で動く中でたまたま起こるもの。そう考えてみると、いろいろな偶然が重なり、いろいろなことが起きているような気がする。だって、運命に動かされて人は普通何かをしないからだ。何かがあってから、運命を感じる。行動する時はいつも自分本位で、何かが起こってみて、「運命だったのかもしれない」と思うわけである。

でも、そんな偶然の重なりは、もしかすると運命と言えるのかもしれない。ブラジルで羽ばたいたチョウの羽ばたきが、台風を起こすというような話があるが、それはある意味で、奇跡的なことである。もし、チョウがその時羽ばたかなければ台風が起きなかったかもしれない。これは人と人との間も同じことで、あの時の選択がなかったら、あの人とは合わなかったかも、ということもある。そしてそれは、それぞれの人の思惑を後から繋げていって考えると「運命」や「必然」があったような気がしてくるわけだ。そして、偶然であるがゆえに、それはなかなか起きないことだから、その「運命」はより感動的な「運命」として受け取られることになる。まさに、「あの日あの時あの場所で君に出会わなかったら、僕らは、いつまでも、見知らぬ他人の……まま」ということだ。

偶然か必然か、はこんな風に見方次第である。だから、人と人との出会いは運命か、偶然か、などとはなしあってもなにもえることはない。それはいわば、カタツムリを見ながら、「これはデンデンムシか?」「いやいや、これはマイマイだ」とやりあっているようなものである。要するに、起こっていることは同じなのだ。

だが、面白いのは、偶然だからこそ、運命だという点である。偶然は、滅多に起こらない。逆に必然はしょっちゅう起こる。もし、りんごが木から落ちるのを見て、「こりゃあ、運命だ!」などと言ったら笑われるに違いない。これは必然だけど、運命じゃないのだ。だけど、人と人との出会いは違う。偶然であり、だからこそ、私たちは「運命かもしれない」と感じる。偶然と言って仕舞えば、何度でも起こる気がする。運命と言って仕舞えば、すべて昔から決まっていたような気がする。だが真相は違う。偶然は滅多に起きない。そして運命は昔から決まっている必要はない。「君の前前前世から僕は探し続け」る必要なんてどこにもない。むしろ、滅多に起こらない偶然の中で、人と出会うから、運命なのではないだろうか。だからこそ、衝撃があるのではないだろうか。

そう考えると、実はどの人との出会いも、運命であり、偶然なのだ。いや、偶然だから、運命なのである。好きになった人も、嫌いになった人も、大して何の興味も湧かない人も、離れ離れになる人も、腐れ縁になる人も、そう、誰でも。そこに取り立てて、「運命の人」などと言いたがるのは、きっとそれぞれの運命の中でも、「運命だ」と思いたいくらいエモーショナルな出会いがあると信じるからだ。だけど、実際はどれも変わらぬ、偶然という運命の出会いなのだと思う。運命は、偶然だからこそ、何度でも訪れる。何度でも訪れるからといって、侮ってはいけない。だって、それは70億人のうちの一人との偶然の出会いなのだから。

などと、書いてみると、案外恥ずかしいものである。しかし、どうやらこれを公開する「運命」にあるようなので、「公開する」ボタンをクリックしてしまおうと思う。

思い出がいっぱい

「懐かしいって感覚って何なのか、気になってるんです」と、ある人が言った。この前の木曜日のことである。あの日、僕を含めた十人の年齢も性別も違う仲間で「懐かしいってどういうこと?」についてみんなで考えた。

その人はいう。この季節になると、空気にも少し湿り気が出てきて、暖かくなってくる。そうなると、決まって高校の時の体育祭を思い出す、と彼女は言っていた。その時ではないが、彼女は体育祭や学園祭に随分打ち込むたちだったという話を聞いたことがあったから、きっと彼女にとっての体育祭は、随分と濃密な記憶だったに違いない。

彼女はその後、懐かしいというのはポジティヴな感情だと言った。どことなく、嬉しさにも似た感情だと。だが、僕はそうは思わなかった。確かに、ずっと会ってなかった人と会った時は、嬉しいし、懐かしいね、というだろう。だが、ふっと何かを思い出す時、嬉しさよりも、物悲しい、かと言ってあまり激しい感情ではないメランコリックな気分になることの方が、経験上多いからである。

僕の場合、それはオートバイのクラクションや、木を焼いたような匂いで起こる。クラクションが鳴ると、ヴェトナムを思い出し、木を焼いた匂いを嗅ぐと小学校まで入っていたボーイスカウトを思い出すのだ。ヴェトナムは楽しい思い出だったし、ボーイスカウトはあまり好きではなかった。だが、今ではそれを思い出すと、どことなく物悲しいメランコリックな気持ちになってくる。前に書いた音楽の話の表現を使うなら、「ざらり」と感じるのである。

 

懐かしいって何だろう?

普通はそんなこと考えず、「懐かしい!」と反射的に思い、「懐かしい!」と反射的に言っている。だがよく考えると、不思議な感覚である。

まず、思い出すこと、とは決定的に違う点がある。僕たちは何かを思い出しながら生きているが、何かを思い出せば、あの「懐かしい」というエモーショナルな感情が出てくるかというとそれは違うのだ。例えば、持ってこないといけないものを家に忘れてきたと咄嗟に思い出した時、だれもエモーショナルにはならないだろう。「あ、家に財布忘れてきた……財布かぁ……懐かしいなあ」といちいちなっていたら社会生活が送れない。普通は急に焦るが、あの、「懐かしい」という感情じゃないだろう。

ただ、思い出さないことでもない。対話の中で、ある人が特定の曲を聴くと懐かしくなる、というふうに言っていた。それは、何かを思い出しているわけではない、という。もちろん、そんな経験はある。僕の場合は、Bob Dylanの歌がそうだし、そうでなくても、ラジオから流れてきた全然聞いたことのない曲に泣きそうになったこともある。だが、それは懐かしいというよりも、「懐かしさに似た感情」のような気がする。だって、そういうメランコリックな音楽を聴いた時に、「懐かしい」とは普通言わないからだ。もし、「この歌聴くと懐かしくなるんだよね」と言われたら、きっと「何か思い出があるの?」と聞きたくなるはずだ。そして、「いや、別にないけど」という答えが返ってきたら、すかさず「ないんだ!」とツッコミたくなるはずである。もちろん、あの感情が「懐かしさ」にすごく似ているのはわかるが、ちょっとだけ違うような気もする。

じゃあ、思い出すだけではなく、何が必要なんだろう? きっと、それは、「忘れること」であり、「思い出す必要がなくなること」である。すっかり忘れていて、しかも思い出す必要のない、今とは関わりのないことをふとした瞬間にフラッシュバックする時、あのメランコリックな感情が湧いてくる。先ほどの忘れ物の例だと、「忘れていた」のは確かだが、明らかに「今の状況と関係がある」。だから、焦る。トラウマというのも、フラッシュバックしたものが今、そして未来と関わっているから恐怖感を覚えるが、懐かしいとは思わないのだ。また、あの状況が起こるかもしれない、とか、あの状況が今に蘇って危害を加えてくるような気がするから、怖いのだ。だが、懐かしいと思う時は違う。ヴェトナムも、体育祭も、カナダも、思い出す必要性は一つもないのだ。一つもないのに、思い出してしまう。しかも、普段の生活では意識にのぼっていなかったのだ。

懐かしさはいつも不意打ちなのか、と言われると、それはYESであり、NOなのだろう。というのも、思い出話をしたり、(対話している間にやった人がいたのだが)思い出そうとして、懐かしさを感じることもできるからだ。だが、やはり僕は、そこにも「不意打ち」があるような気がしている。僕たちが思い出そうとして思い出せるものは、情報だけではないだろうか。例えば、「中学校時代」を思い出してみるとしよう。「中学校の校舎!通学路!」と念じ、思い出そうとすると、写真みたいな光景が思い出されてくる。「先生!」と念じてみると、先生の顔や名前が思い出される。こうやって頑張って思い出そうとして出てくるのは、一つ一つの情報にすぎない。この時はまだ、「懐かし」くはないのではないか。だが、こうやっていくうちに、ある時ふと、「不意に」、情報を超えた生き生きとした記憶がフラッシュバックしてくる。「通学路ってこんな匂いしたな、あの先生は笑うと優しそうだけど、目はいつも笑ってなかったよな、そうそう、通学路は夜になると真っ暗になるから、部活終わりとかはなんかスリル満点だったよな……」と次々と、思い出そうとして想定していたものとは全然違うものが出てきて、僕たちは記憶に飲まれてゆく。その時、僕たちは「懐かしく」感じているのだ。思い出そうとして思い出す情報から、不意に思い出してしまう、忘れていたディテールがどんどんどんどん目の前に現れる。

こんな体験を共有する誰かがいる時は、もしかすると嬉しい気分になるのかもしれない。だから、今まで会ってなかった人と会う時は、嬉しい気分になるし、みんなで「そうそうあのときさ!」と話しているとなぜか話に花が咲くのだろう。それは多分、その生き生きとした記憶が、今に蘇るからだろう。現実のものとして、話題として、生きたまま蘇るからだろう。だが、思い出話はどこかで止まり、みんなが虚空を見つめながら、「懐かしいね……」とだけ言い始める瞬間がくる。その時、メランコリーが始まる。きっと一人で思い出す時、そしてフラッシュバックしたものを言葉でうまく表現できない時(懐かしいけど、具体的には思い出せない感覚はあるはずだ。あれは思い出していないのではなく、むしろ思い出したけど、「なんなのか」「どこなのか」「いつなのか」といった情報面が思い浮かばないのではないだろうか)、メランコリーはわりかしすぐに出てくるのだろう。

なんであんなに懐かしさは胸を打つのか。それはよくわからない。もしかすると、もう終わってしまったからかもしれない。記憶は蘇るが、もう現実のものではない。そんな、時の流れを意識してしまうからかもしれない。「あの時は」と過去を思い出す時、過去形を使う時、人は今とは違うんだと意識する。人は過去のことを、キラキラしたものと感じることが多いようで、楽しかった思い出も、逆に辛かった思い出も、みんな「自分の中で生きている」と感じる。そのことがなければ今の自分はない。そんな人生の中で起きたことが、まるで蘇ったかのように出てくる。その時、どこかで「今」は「あの時」ではない、という当たり前と言えば当たり前な、愛しい記憶との「別れ」を感じるのだろう。だが、それは当然のことで、思い出すという経験の、その中に浮いたような虚しさ、あの時は今とは違うというもの悲しさは、逆に今への道のりでもある。だからそれは悶えるような悲しさではなく、今の自分が歩いてきた過去の長い道を振り返る、「もう引き返すことはできないが、ここまでやってきたんだ」という良い意味でのため息でもある。「あの日」との隔たり、その隔たりが持つもの悲しさ、そして「あの日」が確かに自分の中で生きているという充足。懐かしさには色々なものが混ざっている。

 

思い出し、懐かしいと思うことは不意に襲ってきて、しみじみとした、メランコリックな気持ちを呼ぶ。過去に生きるのはよせ、という言葉があるが、好むとも好まずとも、人生を生きていれば、きっと懐かしさに襲われることがある。それは、人生はしっかりと「生きてきた」証拠でもあるのだと思う。それに…………蒸しっとした梅雨や夏の気温で思い出す思い出が増えたおかげで、昔は嫌でしかなかった夏がちょっと楽しくなった気もする。思い出がいっぱいだから、今に彩りが加わって行くってこともあるのだ。

 

 

常連になる

少し前、行きつけのトルコ料理屋に行った。

行きつけ、といっても、そんなにしょっちゅう行くわけでもない。なぜなら、僕の生活圏から考えると、ちょっとだけ遠い場所にあるからだ。大学のある街から2、30分歩いたところにある店である。そして、ランチ1000円と、学生にはちょいと厳しいお値段設定となっているのも、そこまでいかない理由だ。だが、時間とお金に余裕ができたら、「よし、行こう」と思わせてくれるものがあの店にはある。というのも、そこで出している「イスケンデル・ケバブ」が絶品なのだ。おっと、この料理を知らない人の方が多いだろう。イスケンデルケバブは、鶏肉を炙ったものにトマトソース、ヨーグルトソース(日本のプレーンヨーグルトよりも酸味が強く、調理用)、そしてちぎったトルコ風パン(エキメッキ)を和え、煮込んだ料理だ。エキゾチックでありながら素朴、遠い異国の料理でありながらなんとなく懐かしい。そんな料理だ。僕は初めてそれをこの店で食ったとき、うますぎて、涙が浮かびそうになるほどだった。

あの店に行くと、いつも小柄で声が若干高い(かといって甲高いわけではない微妙なライン)お兄さんがいる。彼が店主なのか、店長なのかはよくわからないが、本店は別にあるようなので、さしづめ暖簾分けしてもらった店長というところに違いない。僕が初めてこの店を訪れた時は、彼はウェイターをしていた(ウェイターなら店長じゃないじゃないかって? そんな気もするが、ただのウェイターにしては、他の店員の顔ぶれが変わる中、三年間そこに居座り続けているのだから、ただ者ではない)。それがあるとき、彼はコックになっていた。理由はわからないが、とにかく料理をしていたのだ。初めは、「やっぱり最初のコックの方がうまいな」と思いながら、イスケンデルケバブを食っていたが、だんだん腕が上がったようで、最後に食べたときには、明らかに最初のコックのイスケンデルケバブを凌駕していた。

だが、今回行ってみると、なんと彼はウェイターに復帰しているではないか。調理場にはまた別のコックが立っている。

「イラッシャイマセ」と、彼はいつにない笑顔で言った。あきらかに、「また来てくれましたね」とこちらを認識している雰囲気である。この店には通っていたものの、常連扱いを受けることはあまりなかったので、少しだけ驚きながら、僕は席に着いた(たぶん、このお兄さんがコックをやっていていそがしかったからなのだろう)。その日は暑かったので、煮込みを食う気にはなれず、今まで食べたことのなかった「トルコ風ピザ」を注文した。この店のメニューは基本均一1000円で、サラダ、スープ(日替わりで、これまたうまい! 正直どう説明したらいいかわからないが、非常にうまい)、エキメッキと呼ばれるトルコ風パン、メイン料理、デザートの「もちもちプリン(米が入った杏仁豆腐のような、それでいてもちもちした、表面を炙った、冷えた白いプリン)」、チャイ(インドのものとは違い、紅茶を濃厚に入れたもので、砂糖を入れると甘すぎず、苦すぎず、アクセントの効いた味になる)がでてくる。

トルコ風ピザもうまかった。ピザといっても、折りたたんだ形状で、スパイスの効いた肉がパンの間に挟まっている。軽食感は拭えないが、初めて食ったこともあってか、「うまい!」と脳内で連呼したほどである。

この店ではチャイがお代わりできる。僕はそれを知っていたので、プリンを食べ終わり、ゆっくりチャイを飲み終わっても、しばらく座っていた。するとお兄さんがやってきて、

「チャイのおかわり?」と言いながら、僕が返事をする前にチャイのグラスを持って行った。やっと、常連として認められたんだな、と少しだけ誇らしい気持ちになった。

今度は、新しいコックのイスケンデルケバブの腕前を見てやろうじゃないか。そう、僕はもう常連として認められたのだ。

などと、バカなことを考えている。

One on One

思えば、小学生の頃だったと思う。

当時の僕はなぜだかイギリスブームで(ハリーポッターやシャーロックホームズやアガサクリスティー、ドクターフーのせいだと思う)、とにかくイギリスのものだと言われればなんでも受容していた。大河ドラマの「篤姫」で生麦事件薩摩藩士にイギリス人が殺傷される事件、冷静に見れば、明らかにイギリス人側に非がある)をみて憤り、威風堂々を聞き、英語もブリティッシュな発音に憧れて、発音の真似事をしていた(そのせいで、今やブリティッシュな発音しかできなくなった)ときだった。

推理小説も、ファンタジー小説も(ハリーポッターナルニア国物語鏡の国のアリスライラの冒険指輪物語は小学生には分厚くて小さすぎた)イギリスを極め、イギリス国王をノルマンコンクェストのウィリアム1世征服王からエリザベス2世女王陛下まで暗記した時、次に進む道は一つしか残されていなかった。イギリスの音楽である。そうはいっても、うちがクラシック好きだったこともあり、ホルストエルガーはいくつか聞いていた(さっきも威風堂々のことを書いた)。では、他にどんな音楽かと言われればもう、ロックである。そうはいっても、母が好きだったクィーンは、小学生にはちょいとロックしすぎていた。丁度良い塩梅で、耳馴染みもあるもの、そうやってたどり着いたのがThe Beatlesであった、という次第である。

はじめはこんな具合に、くだらなすぎる理由で触れたわけだ。だが、赤盤、青盤から聞き始め、それを何周も何周もしているうちに、もっと聞きたいと思い始めた。そんな折、ニュースが流れる。The Beatlesの全アルバムがリマスター版になって再発売されるらしい! 僕は父親に頼み込み、クリスマスプレゼントにそのCDボックスをもらった。その頃から、僕はthe Beatlesを聞いていた。あまり聞かなかった時期ももちろんあったが、不思議なことに、少し聞いていないと、また戻って来たくなる魅力がthe Beatlesにはあったようである。

そうはいっても、the Beatlesなどこのご時世、古い音楽になっている。カナダに行った時なんか、カナダ人に「the Beatlesが好きなんだ」といえば、「クラシックだね」と言われ、同居人のイタリア人に「the Beatlesをよく聞くよ」といえば、「ああ、クラシックね。俺はあんまり好きじゃない」などと言われるほどである。高校時代の友人はボーカロイドが好きな人が多かったし、そうでなくても、ゆずや、いきものがかりBump of ChickenSEKAI NO OWARIの名前は出ても、the Beatlesとなるとみんな「ああ、英語でやるやつね」程度の感想しかない(不思議とQueen知名度がある)。高校の時、一人だけthe Beatlesがわかる友達がいたが、クラスがバラバラになってからはそんなに話さなかった。

 

それが、である。大学に入るとなぜだか、周りにうじゃうじゃと、わいたかのようにthe Beatlesファンがいる。面白いもんだな、と思ったし、周りのほうが明らかに詳しい。海賊版を漁る友人、コピーバンドをやる友人と、ありとあらゆるのがいる。そんな環境の変化で、またちゃんと聞こう、と僕の推定第四次the Beatlesブームが始まった次第であった。

月日を経て聞いてみると、趣味趣向も変わっているようで、小・中学性の頃は退屈だと思っていた初期作品(Please Please Me、With the Beatles、Hard Days Night、Beatles for sale)が気に入っていることに気づいた。もしかすると、最後の方のアルバムはかつて何周も何周も聞いていたため、逆におざなりにしていた初期アルバムが新鮮に聞こえたのかもしれない。だが、それ以上に、ギターの音が心揺さぶり、ハモりがカラッと響いたからだと思う。

そんなこんなで、旅先には初期作品だけを入れた古いiPodを持って行くのが慣例となった。イタリアでも、タイでも、カナダでも、台湾でも、ヴェトナムでも、カンボジアでも、若かりし日のthe Beatlesは旅のお供だった(途中から、the Animalsというthe Beatlesの同世代バンドも気に入って、旅のお供に新バンドが加わっている)。なぜだろう、初期のthe Beatlesの曲は、どの国の風景にもあっていた。あっていた、というか、風景に色を与えてくれていた。

 

そんな矢先、あるニュースが届く。

2016年度のNHK紅白歌合戦で、the Beatlesの一員だったポール・マッカートニーのビデオメッセージが移され、なんと、来日すると宣言したのだ。これは大ニュースだった。とはいえ、僕は諸事情により、お金を節約しなければいけなかった。しかも、ポールマッカートニーといえば大スターで、そう簡単にチケットは取れない。その上、僕はライヴというものに行ったことがなく、むしろCDでいいじゃん、とすら思っていた(だって、the Beatlesはどう頑張っても、もう存在しないからだ)。そういうわけで、僕は抽選に登録しなかったのだが、冬休みが終わって友達に会うと、みんな抽選に参加している。その中には、一昨年のポール来日に駆けつけた奴もいた。話を聞いていると、だんだん行きたくなってくる。そして結局、半ば煽られる形で抽選に登録したのだ。どうせ抽選には落ちるだろう、と少しばかり思いつつ。

しばらく経って抽選結果が出ると、なんと受かっている。しかも、チケットをもらってみるとアリーナ席である。かくして、僕はポール・マッカートニーの東京ドームライヴに行くことになったのだった。

 

あの日のことを、音楽評論家のようにいうことはできない。the Beatlesは聞いていても、ポールのもう一つのバンドthe Wingsに関しては、007の主題歌「死ぬのは奴らだ(Live and let die)」しか知らない始末で、ろくにセットリストがこうだなんていうこともできない。生でポールを見たのも初めてだから、今年のポールがどうこうということもできない。ただ言えるのは、幻のようだったということだけだ。

ポールのライヴは遅刻がいつものことだそうで、僕が席に着いたのも開演の18:30ちょうどくらいだった。アリーナ席とはいえ、舞台からは遠いので、よく舞台の見えない席だった。しばらくBGMとして流れてくるアレンジされたポールマッカートニーやthe Beatlesの曲に体を小刻みに揺らしていると、隣に座っている初老のおじさんが声をかけてきた。髪型はQueenブライアン・メイに似ていて、彼女はかなり年下だ。

「一度目の抽選でこの席だったんですか?」なんとまあ、テクニカルな質問である。とりあえず僕は、はい、と答えた。どうやら、おじさんの友人の中には、誤解も抽選したのに三回席の人がいるらしい。やはり、本物のファンは違う、と僕は自分の微妙な立ち位置を思って不安な気分になった。

「あなたぐらいの年でもポールマッカートニーやビートルズが好きになるんですね」とおじさんは言う。僕はまた、「はい」と答え、the Betalesが好きなんです、とwingsを聞いたことのないことをうまくごまかした。

「生でポールを見るのは初めて?」

「はい。」実は初めてのライヴだなんて言えない。

「ポールだとね、やっぱりthe Beatlesはこうだったのかな、っていうのがわかりますよ。リンゴはもうダメだね(笑)」リンゴというのは、the Beatlesのドラマーで、四人いたメンバーのうちもっとも「地味」と言われ、そして今でも生き残っているメンバーである。僕はリンゴが結構好きだし、カラオケでも、音域の関係でよく歌う。

「見た目も随分変わっちゃいましたからね」僕は答えた。リンゴは、昔は他のメンバーと同じくらいの髪の長さだったが、今や角刈り状態で、サングラスもかけており、なんとなくいかつくなってしまったのである。

「そうだね(笑)。髪の毛は伸ばしておいてほしいよね‥‥」

そのとき、会場がざわつき始め、アリーナは総立ちとなった。僕もとりあえずたち、ブライアン・メイも彼女と一緒に立ち上がった。すると遥か彼方の銀河系、ではなく、遥か彼方のステージにギターを持ったポール・マッカートニーが現れ、Hard Days Nightを歌い始めた。アリーナ席で、僕みたいな、そこそこのファンが盛り上がれるのか不安だったが、始まってしまうと、もう周りにのまれ、一体化してしまった。手を叩き、体を揺らし、ポールが手を振れば、こっちも手を振る、という次第である。

それにしても、こんなに不思議なことはなかった。ヴェトナムで、カナダで、イタリアで、小さな白いiPodから聞こえてきた音楽が、爆音で流れ、あの声の主がいま、ここで、自分の声で歌っていて、その声が聞こえている。「クラシックだね」と言われた音楽に、老若男女がダンスし、声を揃えて歌っている。いままで、the Beatlesは、一人で聞くものだった。それが、こうも、たくさんの人を巻き込むものだったとは。

そう、それでいて、きっと、ポールが歌を歌うたびに、この一つの東京ドームに集った五万人以上の人々の胸に蘇るものは、きっと違うのだろう。僕の前の席に立っていた一段は、ライヴが始まるまでは、ごく普通のおじさんおばさんだった。だが、始まると、まるで昔に戻ったように、踊り狂っている。しかも、テレビで見たことがあるような、ちょっと古いダンスの仕方で。音楽は時を超える、いや、音楽が時なのかもしれないと思った。平成の人は平成のやり方で、昭和の人は昭和のやり方で、それぞれの人がそれぞれの思い出とともに、目の前にいるポール・マッカートニーと一つになったのだ。

ライヴは3時間にわたり、ポールも3時間歌い続けた。僕らアリーナ席の住人は基本的に立ちっぱなしで、三時間一つになっていた。それだけに、ライヴが終わり、ポールが舞台からいなくなり、会場がパッと明るくなった時、僕たちはなんだか、幻を見ていたような気分になった。「終わっちゃった」という気持ちもあったが、それ以上に、一体なんだったんだろう、という気分があった。それは、悪い意味ではない。子供の頃ディズニーランドで遊び倒し、夜もふけて、そして舞浜駅から電車に乗った時の、「あれ、なんだったんだろう」という感覚である。僕は気の抜けた風船のような面持ちで電車に揺られ、多摩地方へと帰宅した。

 

「全然違うでしょ?」と隣のブライアン・メイが、ライヴの終わりに言ったのを思い出した。

「全然違います!」と僕は確か答えた。それはたしかに、CDでは得られない経験だった。だが、CDがなければ得られない経験だった。そうか、みんながライヴはいいっていうのは、こういうことだったんだな、と気づいた。

街が生きる(神楽坂)

最近、よく神楽坂にいる。毎週日曜日、飯田橋でちょっとした用事があって、それが終わるとちょうど昼の時間になるから、昼を食うには手ごろなのが神楽坂なのだ。何の因果か、飯田橋に通うようになって二回中二回、天気にも恵まれている。それに、これまた何の因果か、日曜日の夜に両日共に予定が入っていたので、時間を潰す必要があった。つまり、散歩をするのに最高の条件が整っていたってわけだ。

神楽坂は、JR飯田橋駅の西口を出たすぐのところにある。大正時代くらいから栄えていたようだ。日曜の昼は、坂全体を歩行者天国にしていて、大勢の観光客などが行き来をしている。それから、この坂の隣には東京理科大があるせいか、学生街のような雰囲気もある。スタバやドトールが軒を連ねる一方で、入ったことはないが、カレーと謎のトルコライスなるものを売る「トレド」という喫茶店のような食堂のような店もある。その一方で、何やら和菓子のようなものを売っている土産物屋もたくさんあった。

以前来た時、私はこの「大通り」の部分しか知らなかったと思う。だからその当時は、「確かに盛り上がっているけど、アメ横の方が面白い」と思ったものだった。どこか観光地の香りがし、日本の数ある観光化された道のうちの一つ、というようにしか思えなかった。だが、神楽坂の面白さは、一歩入った通りにある。

この前行った時、私は食事できる場所を探していて、ふと路地裏に迷い込んだ。するとどうだろう、迷路である。こちらに行くとどちらに行き、あちらに行くとどちらに行くのかよくわからない、狭い通りがあった。時折、こじんまりとしたカフェや、小料理屋のようなものがひっそりと立っていて、迷い込んできた旅人や、わざわざ探し求めてやってくる強者をじっと待っていた。ここのところ私はかなり金がないので、中に入る財力も勇気もなかったので、ひとまず通り過ぎながら、路地裏から路地裏へと歩いた。ひょっとすると、迷路みたいだと言われることの多いモロッコの街は、これをもっとハードにした感じなのかな、と思いつつ、私はひたすら歩いた。迷宮、というにはあまりにイージーだが、ただのまっすぐな道よりは楽しい。そして、もしかするとイージーだと思っているのは、私のまだ見ていない道がどこかにあるからかもしれないな、と思うとこの界隈をマスターしたくなってくる。

結局、その日の昼食は、坂をもっと上に行ったところにあった「魚串」の専門店にした。途中で、鳥の丸焼きを焼いている店や、南イタリア風のコロッケを売っている店があって、ここで買って食べ歩きもいいなと思ったのだが、若干高かったこともあり、一人でも入りやすそうでありかつ安めの「魚串」にした次第である。この店は、焼き鳥のように魚を串に刺して焼いて出している店(メザシなどの類ではない。魚の切り身に串を刺して焼いているのだ)で、どうやら神保町にも店を出しているのだという(事実、魚串を食った数時間後、神保町で発見した)。その「魚串専門店一号店」が神楽坂店であった。昼は三串の定食で780円、と割安だ。そして、味はというと、明らかに780円では普通は食えないだろうというくらいうまい。鮭は脂がのっていて、アジフライはジューシーだった。そしてどれも串に刺さっている。私は串に刺さったものが好きだ。串に刺さった肉、串に刺さったフルーツ、そして串に刺さった魚。今まで行ったところで私は必ず串ものを食っている。インターチェンジによれば、必ず牛串を食う。中身が同じでも、串刺しになっているだけで、5倍はうまそうに見えるし、6倍はうまく感じるのである。ここの店長も、同じような性分なのかもしれない。店長は真剣な眼差しで、一人、カウンターの向こうで魚を焼いていた。店員は若い女性が一人だけ働いていて、アルバイトなのかもしれないが、どこかその店に思い入れがありそうな感じもあった。メニューの表紙には、「小さいお店ですが、日本の文化にしたい」というようなことが書いてあって、なんとなく、その心意気はいいな、と思った。そんなこんなで、私は魚串定食を平らげた。ただし、アジフライが熱々だったので、口の中を火傷した、という話は秘密である。

神楽坂は、「生きている」。大通りは人で溢れ、「魚串」などという新進気鋭なものが生まれたりする。一方、ちょっと道をそれると、古い街並みが残り、石畳もあり、そしてその中に、新しくできたのであろうこじんまりとしたカフェと、古い小料理屋と、まあまあ古いカラオケ屋(どでかい看板に「カラオケ」と書かれているのを見た人もたくさんいるだろう)がある。街を行く人は、学生だったり、会社員だったり、そしてフランス人だったりする。近くにアンスティテュ・フランセ(フランス政府公認の機関でフランス語教室をやったりしている)やブリティッシュ・カウンシル(英国政府公認の機関で英語教室をやったりしている)があるせいか、国際色豊かな雰囲気も流れているようだ。特にフランス人は多くて、フランス語をしゃべる子供達が遊んでたりする。そのせいか、神楽坂の坂の上の方では、フランスっぽい音楽をスピーカーで流しているのだが、うーん、あれはやめたほうがいい。やるならアコーディオン奏者か何かを雇って路上でパフォーマンスして貰えばいいのに、と思う。とにかく、神楽坂は、よいい意味で混ざり合って空間である。そしてそれでいて、いや、それだから、「神楽坂」は「神楽坂」なのだ。時代を経て現在を生きる街、色々な文化が共存する街、それが、神楽坂なのかもしれない。ステレオタイプみたいな表現になってしまったが、何度か通ってみて、そう思ったのだから、しかたがない。

哲学者のアンリ・ベルクソンは、人が街で年を重ねるとき、街もまた年を重ねる、というようなことを言っていた。かつて私が神楽坂をそんなに面白くないなと思っていたけど、今はいい街だなと思うようになったのは、きっと私が少し変わり、それに伴い、目の前に開かれる街も変わったからだろう。また次に行くときには、かの街はどんな街になっているんだろうか。

 

ざらり、音楽のはなし

この前の日曜日のことになるが、カナダで知り合った友達と再会した。というと、夏のカナダ研修以来あっていないような雰囲気が出てしまうが、実を言うと大体4ヶ月ぶりくらいになる。というのも、12月にカナダで僕らの面倒を見てくれた人が来日したからだ。その前にも一度みんなで会ったから、実に戻ってきてから三度目の「再会」である。

あまりに短すぎる制限時間の中で食事をした私たちは、ふとカラオケに行くことになった。このメンバーはみんな歌が歌える人たちで、研修の最終日などは歌の発表もやったわけだが、なぜだか、一度もみんなでカラオケに行ったことはなかった。それぞれ想い想いの歌を歌った後で、思い出の歌を歌おうということになった。それは三曲。発音のクラスの聞き取り問題になっていたジャスティン・ビーバーの「Love yourself」、フェアウェルパーティーでみんなで歌ったGreeeenの「キセキ」、そしてフェアウェルパーティーの出し物で発表した、映画「天使にラヴソングを」の「Ain't no mountains high enough」である。僕がジャスティン・ビーバーを聞くことは、ラジオで流れてきたときくらいしかない。そのせいかもわからないが、「Love yourself」が始まった時、胸に何か、ざらりとした感触を感じた。それはこの曲が嫌いで感じたことではない。長くて短かったあのモントリオールの語学研修の思い出が、曲の始まりとともに、心をざらっと、通り過ぎたからだった。

そういえば、カナダから帰ってきてすぐ、道を歩いていたら、まさにこの「Love yourself」が何かの店から聞こえてきたことがあった。あの時も、そうだった。あの時も、胸に何かざらりとしたものを感じたのを覚えている。音楽が日々を凝縮し、胸に染み入ってくる。まさにそんな感覚である。

 

少し話は広がるが、音楽にはそんな力があるのかもしれない。特に疲れている時、何か悲しいことがあった時、何かを失った時、孤独を感じている時、僕たちの胸の奥に直接やってきて、生乾きの傷跡にすっと触れてくる。そんなとき、ざらりと何かを感じる。なにも、ひどい失恋やすごい喪失感を抱えていなくてもいい。たとえば、忙しいけど楽しかった日々が過ぎ去ってしまった時。そんな時は別に、「ああ、絶望だ!!」というような大げさな感情はないが、なんとなく寂しい。それは多分、忙しいけど楽しかった日々を過ごす時、そんな日々、そこで時間を共有している人たち、そこで起こるできことはみんな、僕たちとまるで一体化しているかのようになっているからだ。だから、日々が過ぎ去り、離れ離れになると、僕らは喪失感を覚える。僕らは自分と一体になっていた時の流れとの別れを経験するのだ。そんなとき、その日々を思い出す音楽が流れると、胸の奥に、ざらりとした感触を感じる。

思い出させる音楽。それは、そんなに思い入れがなくてもいいのかもしれない。大事なのは、そこで流れていた、ということだ。「Love yourself」は、「あぁ、ジャスティン・ビーバーっていい声しているな。澄んだ声だなあ」程度の感想しかなかったが、今聞くとカナダがパッと思い出される。5年ほど前に言ったイギリスを思い出させる歌もあるが、正直あれは曲名すら知らないポップスだ。去年のヴェトナムとタイを思い出させる歌は、これもまた曲名すら知らないアメリカンなポップスである。どれもアメリカンなポップス。僕が好きなのは60年代のロックやジャズ。大して思い入れのない曲たちが、僕の心の寂しさに、ざらりとした感覚を抱かせる。いつもというわけではないが、時に泣きそうな気分にさせる。

なにも、音楽でなくてもいいのかもしれない。だが僕は、音楽が一番、心に染み込んでくるように思う。理由なんてものはわからない。だが、そんなものわからなくったって、音楽は心に押し寄せてくる感じがするのだ。往年の映画「カサブランカ」の主人公でカフェを経営するリックは、相棒のピアニストのサムに、「時の過ぎゆくままに(As Time Goes By)」という歌を弾くことを禁じていた。それは、その歌が、かつてパリで離れ離れになった恋人を思い出させるからだった。きっとリックは、「As Time Goes By」を聞くと、心にざらりとした何かを感じるのだろう。そしてそれは、彼の冷静ではいられなくする。だからこそ彼はこの曲から逃げたのだ。本年度アカデミー賞主演女優賞や作曲賞を総なめにした「ラ・ラ・ランド」では、主人公のミアがかつての恋人セブと出会った時に聞いたピアノの曲で、「自分たちにはかなわなかった日々」に想いを馳せるシーンがある。これはある種、あの「ざらり」感を映像に表現したものと言える。音楽は確かに、失われた日々を、マドレーヌ以上に思い出させてくれる。いや、思い出させてしまう。

 

過去だけではない。思い入れも思い出もない音楽が、心に直接来るってこともある。そして、その時感じている寂しさにざらりとした感触を残すこともある。

一週間台湾にいた、去年の9月。あれは確か5日目だったと思うが、僕はどことなく心に「寂しさ」を抱えていた。理由はいろいろある。たとえば、疲れていた。中国語に疲れ、体力的に疲れていた。そして、その前日日本語が喋れる台湾人のおっさんと話したことで、「誰かと話したい」というモードになってしまったということもある。だが一番大きいのは、旅のタイムリミットが近づいていたからだった。あと2日で、僕に何ができるのだろう、そう考えていた。いや、実を言うと、「あと1日」だったのだ。なぜなら、翌日は台風接近の日だったんだから。

僕はあてもなく、「西門町」という若者スポットを歩いていた。そこは日本好きが集まる場所で、もしかすると、誰かと話せるのではないか、と思っていたからだった。だが、そううまくはいかず、たださまようだけであった。そんな中、ストリートミュージシャンが歌い始めたのだ。曲名なんて知らない。とにかく高めの綺麗な声で、彼は歌い始めた。日が暮れ始めていた。中国語の曲が、僕の胸に直接やってきて、そう、あの時僕は、「ざらり」を感じたのだ。異国の地で一人なのが嫌なのではない。いや、何も嫌なことなどない。むしろもっと長くいたかった。だが、この時は心が疼いた。

同じような感覚を抱いたのは、その2日後、台北駅でだった。僕は帰るのが嫌で、地下街をうろうろしていたのだが、そこにもストリートミュージシャンがいて、しばらく聞いいていると、「なだそうそう」の中国語版を歌い始めた。みんなが歌っている。僕は歌わなかったが、ざらりと感じた。そして、ようやく、帰る決心がついた。

 

音楽は不思議だ。胸に直接来て、人の心を疼かせ、そして、人の心を踊らせるのだから(「ラ・ラ・ランド」のオープニングを聞くと、楽しげな歩き方になってしまったりする)。一体どうなっているんだろう。などと、思ったりする。

さよならハノイ、また会おう

ハノイに到着した時、私の体調は最悪だった。

カンボジアシェムリアップは楽しい思い出だったが、あそこでなんらかのバクテリアの野郎が、私の胃腸に侵入してきやがったのである。いつ、何をしている時に入ってきたのかはわからないが、とにかく胃腸がチクチクと痛み続けること三日間、私は苦しみ続けた。

面白いのは、何もあの腹痛は、動けないとか、下痢や嘔吐を続けるといった類のものではなかったことである。とにかくちくっとする。普通に歩いていた刹那、一番上の腹筋と二番目の腹筋の間あたりにぐさりと何かを刺されたような痛みが走る。そうなると、歩くことはできるが、嫌な気分になる。ハノイ滞在中はそんなことを繰り返していた。治ってきたかと思うと激痛が走り、治らないなと思っているとやんだりする。あの気まぐれのバクテリアは、困ったものだ。寝たきりになるぐらいの痛みならば、むしろ色々諦めがつくが、耐えられる程度だというのもまた腹立たしい。

そんなこんなだったので、わたしはハノイの地酒「ビアハノイ」との再会も果たせなかったし、ハロン湾ツアーでも、立ち上がると痛みが走る、座ると治る、というようなことを繰り返していた。痛みに耐えながら、知り合ったシンガポール人の家族と話し、痛みに耐えながら、あまりに人工的で毒々しいライトアップを受けた鍾乳洞を見学した。痛みに耐えながら、タニシとトマトとシソのにゅうめん(案外いける)を食べ、痛みに耐えながら魚介たっぷりのラーメンを食った。

f:id:LeFlaneur:20170412172942j:plainタニシとトマトとシソのにゅうめん(ブン)。一瞬グロいが、うまい。タニシがコリコリである。

 

f:id:LeFlaneur:20170412173042j:plain魚介ラーメン。スープは旨みたっぷり。汁をすすってる時だけは胃腸痛も引いた。

 

 

そして、痛みのハノイの日々は、最終日に至って、最大級の痛みを用意していた。低気圧の影響か、強烈な頭痛が襲ったのである。頭がガンガンする。ガンガンしすぎて、胃腸などどうでもよくなる。が、頭痛が少し治れば、胃腸痛が復活する。いたちごっこである。そんな状況の中で、ミイラ化したホーチミン主席と対面し、フォーを食った。友人も同じような状況で、「このままこんな感じだったら、とりあえず電車でフエまで行ったら(電車は予約してしまっていた)、その後はホーチミンLCCで行って、ホテルに引きこもろう」という超ネガティヴな計画を立てたほどであった。

頭痛、胃腸炎、そして耳をつんざくバイクのクラクション。クラクラしながら私たちは、ヴェトナムコーヒーを飲んだ。するとどうだろう、ゆっくりしているうちに、まずは頭痛が、ついで胃腸痛が消えてゆくではないか。科学的に見れば、ヴェトナムコーヒーのあの甘くてドロッとした感じが解決してくれたのはきっと頭痛だけである。胃腸炎のほうは、この日から飲み始めた正露丸のおかげだろう(なぜこの日からかというと、バクテリア性胃腸炎の場合、正露丸で下痢を止めるよりも、ふんばって出したほうがいい、という情報を得たからである。決して、薬による治療を嫌がったわけではない、念のため)。だが、多分それだけではない。私たちがコーヒーを飲んだのは、去年ハノイを訪れた際のホテルのそばで、見覚えのある界隈だったのだ。そのせいか心もなんとなく落ち着いていた。

ハノイは、大好きな街だった。だから、最後の最後であの体調が治ってよかった。すっかり元気になった私は、心も軽やかに湖の方へと向かい、最後のハノイの景色を目に刻み込んだ。ちょうど「旧正月(テッ)」のころだったもんだから、若い男女がアオザイ姿で写真を撮っている。

f:id:LeFlaneur:20170412174056j:plainヴェトナム(李朝大越)初代国王リータイトーの前で写真を撮る人たち

夕暮れの公園を歩いていると、剣の舞をしている女性がいる。そういえば去年も見たなあ、などと思いながら友人と話していると、突如おばあさんがやってきて、

「あれはヒップホップよ。あなたたちはやるの? ヒップホップ」と流量な英語で言ってきた。明らかにヒップホップではなく剣の舞だが、私たちはともかく「No」と答えた。若干警戒しつつ、おばあさんの話を聞く。

「どこから来たの? 韓国?」とおばあさん。

「日本です、ニャッバーン」

「あら、そうなの。ゴクサンテンプルにはいった?」おばあさんはなおも喋る。ゴクサンテップルというのは、ハノイの象徴ホアンキエム湖のど真ん中にある寺院で、中には亀が祀られている。去年行ったので、

「行きましたよ」と言っておく。

「あそこには亀が祀られているの」とおばあさんは言った。それにしても英語がうまい。外国人相手に練習したかったのかもしれない。

「俺は亀を飼ってます」と友人が言った。

「あら!」とおばあさんは無邪気に笑う。

「バントーイ・コォ・ズア(彼は亀を飼っている)」私はヴェトナム語の小さな辞書を開きながら言ってみた。おばあさんが英語の練習なら、私だってヴェトナム語の練習だ、というわけである。

「あら」とおばあさんは、ヴェトナム語ね、という表情をし、「バントーイ・コォ・モッ・コン・ズア」と添削して見せた。私はリピートした。おばあさんは嬉しそうに、ベンチに座っているおばさんを指差し、

「あの人に挨拶するときは、チャオ・コよ」と言った。そしておじさんを指し、「あっちは、チャオ・オン」という。そう、ヴェトナム語では二人称が相手の年齢によって違うのである。そしておばあさんは自分を指し、「わたしには、チャオ・バ。ほら、(見事な白髪を指す)わたしはグランド・マザーだから。あそこにグランドマザーがたくさんいるわね。そのときは、チャオ・カッ・バ」

ヴェトナム語の挨拶は基本「シンチャオ」というふうに習うが、それだけではまだまだ片言だという。こうした二人称を覚え、相手にあった表現をして、やっと一人前だ。

「いつまでいるの?」とおばあさん。

「今夜の電車でフエに向かいます」と私たちは言った。そして、「チャオ・カッ・バ!」といって、別れた。最終日に限って、いい出会いが待っている。だからこそ、また来たくなってしまう。ハノイにはそんな力があるのかもしれない。私は頭痛も胃腸痛も全部忘れていた。いまはただ、またハノイに行こう、と決意するだけだった。

時の流れを感じながら

ヴェトナムに行くのは二度目だった。去年の二月半ばに、私は今回行ったのと同じ友人と、東南アジアの旅に出かけており、その時に最初に訪れたのがヴェトナムだったのである(東南アジアの旅と言っても10日間であり、ヴェトナム以外にはタイのバンコクにしかいっていないのだが)。二度目でしかも一年後、というのは面白いもので、町を訪ねるだけで時の流れを感じることができる。

例えば、ハノイでは、ホアンキエム湖に新しくできた自動販売機と信号機を見た。ネットで調べて動向を確認してみると、おそらくこれは去年の夏くらいにできたものなのであろう(といっても、全くもって根拠がない。そもそも去年の春になかったというのも私の曖昧な記憶である。だが、なかった気がするのだ)。それは、番号を打ち込んで、飲み物が出てくる、というヨーロッパやアメリカにあるようなものだった。ヴェトナムで飲み物と言ったら、おばちゃんが売っているものを買うのがスタンダードなので、ちょっとだけ寂しさを感じるとともに、やはりこの国は変わってゆくのだなということを実感した。

f:id:LeFlaneur:20170315232506j:plain

ハノイでいうと、バイクの路上駐車の取り締まりも、最近始まったことらしい。この現場にも今回は居合わせた。路上食堂で焼きそばを食べていた時のことだ。突然、拡声器を通したのであろう声がし、店の人やバイクの主がその声を聞くや否や道路に止められているバイクの方にすっ飛んで行く。「やべえ、サツがきやがった!」と、まるで違法賭博の人たちのように、車道に出ているバイクを歩道に入れてゆくのである。そして、警察車が通り過ぎるのをやり過ごす。ただ、奇妙なことがある。後で知ったことなのだが、この取り締まりは「歩道占拠の取り締まり」のはずなのだ。車道に出ているバイクを歩道に入れたのでは、逆に歩道占拠を促進しているのではないかと思うが……。

とまあ、いろいろな変化を通じて、私はヴェトナムという国の変化を感じ取っていたのだが、一つかなりショックな変化があったのである。

それは、ホーチミンでのことだ。去年はブイヴィエン通りというバックパッカー、というか欧米人が集まってどんちゃん騒ぎする通りにある「アンアン2」というホテルに泊まっていたのだが、そこがあまりにどんちゃん騒ぎだったので、今回は少し離れた場所に宿泊した。だがやはり今までいた場所というものはきになるもので、私たちはかつて泊まった界隈に行ってみたのだった。

すると、ない。どこを探しても「アンアン2」がないのである。「アンアン2」があったはずのところには、なんと別のホテルが建てられ、外観も黒くなっていたのだ。泊まっていたところだったし、綺麗なホテルだったので、随分と驚いた。「地球の歩き方」にも載っていたし、日本人がやっている現地旅行社とも合体していたようなホテルだったし、まさかなくならないはず、と正直なところ思っていたので、これにはショックである。

そういえば、今思い出したのだが、ハノイでも似たようなことがあった。去年ふらりと立ち寄った、「たい焼きの王」という怪しげな鯛焼き屋があったのだが、そこも跡形もなく亡くなっていた。「たい焼きの王」の鯛焼きは、正直あんこがパサパサで、生地は美味しいのだが明らかにパイという有様、店員たちは店の外でくっちゃべっているような店だった。だがそれでも彼らは日本の接客を真似てなのか、満面の笑顔で客を迎えていた。そんな店が今やないとは。彼らはどうしているのか。発展とはこういうことを言うのか。いろいろなことを考えたものであった。

あったものがなくなる。それはショッキングなことである。その一方で、自動販売機のようななかったものが存在するようになることもある。ホーチミンでは今、地下鉄が建設中のようで、去年よりも工事現場の規模がでかくなっていた。それはいいことなのかもしれない。だが、そのおかげで、鳩が集まる広場はなくなっていた。

f:id:LeFlaneur:20170315232627j:plain

それに気がついた時、私に一つの不安がよぎった。「あのジャズバーは……」

去年、私はホーチミンのジャズバーに行った。そこは、ヴェトナム随一のサックスプレイヤーだというブラザートムのような男が演奏していた場所で、私が初めて行ったジャズクラブであった。去年の貧乏旅行の中に一時の豊かな時間を流れさせてくれた場所であり、今回も行こうと思っていた。いや、むしろここに行くためにホーチミンに行こうとしていたのである。

案の定、そのジャズバーは残っていた。そして、また例のブラザートムがサックスを吹いていた。今回は彼の娘もいて、二人でサックスを演奏するという一幕もあった。やはり時代は変わってゆくのだ。こうやって、バトンを託しながら。だが、ジャズクラブは変わらない。残りつつ、変化してゆくのである。

そのジャズクラブで、一人の初老の紳士と出会った。大阪出身だという彼も、ホーチミンは二度目だったらしい。いや、そう言うと嘘になる。彼の一度目は、ホーチミン市ではなく、サイゴンだったのだから。ジャズクラブでは、さすがにそのことを詳しく聞くことはできなかった。南ヴェトナムの時代の話だ、非常に好奇心をそそられたが、あの場はジャズを楽しむ場である。そうは言っても、別れた後で、「いや、やっぱり聞いておけばよかったな」と心残りになっていたのだが、なんとその翌日、彼とはホーチミンの中華街「チュロン」で再会を果たしたのだ。私たちは再会を祝ってカフェに入った。サイゴンの話を聞きたかったから、という理由もなかったわけではない。

彼が喧騒の街サイゴンを訪れたのは1976年だという。その当時は、北ヴェトナムによる奇襲作戦「テト攻勢」を経て、米軍が南ヴェトナムから撤退するころであり、戦況は相当悪化していた。彼が、当時の友人に会って見せようと思っていたという色あせた写真には、鉄条網がつけられた大学が映る。ちなみに見せられなかったという。彼の友人はどこにいるか、今ではわからなくなってしまったらしい。

彼が泊まっていたのは、今では高級ホテルだらけの川沿いの地区。川の向こう側には北ヴェトナム解放軍が迫っていた。そのためだろう、彼の話では、夜中絶えず銃声が聞こえたという。

「ああいうのは、慣れてる人じゃないと眠れない」

そう、彼は言った。だが、それ以上は語らなかった。

今のヴェトナムでは、バイクの音で目がさめる。朝六時になると、大量のバイクが動くからである。やはり時代は、変わった。今度はたぶん、いい方に。

LA LA LAND

果てしなく続く渋滞。その列は一向に進まず、車に乗る人々は、皆思い思いのことをして、なんとかその苛立たしい時間を潰している。だがそれは、単なる非生産的な時間ではない。誰もが自分の目指す先を思い、その道へと進もうともがく時間だからである。なんとなれば、その道の先にあるのは、「スターの街」なのだから……。

今年のアカデミー賞の作曲賞、主演女優賞などの六部門の賞を総なめにした、デミアン・チャゼル監督の映画「ラ・ラ・ランド」は大渋滞のシーンで始まる。見ているだけでも気が滅入ってくるような大渋滞が、少しずつ大きくなってゆく音楽とダンスの力で大舞台に変化するのだ。そのオープニングのシーンはどこか、フランスの「ロシュフォールの恋人たち」という映画の冒頭のダンスシーンを思わせるものがあり、監督が実現したかったという古き良きミュージカルの復活という仕事の成功を感じた(後で知ったのだが、「ロシュフォールの恋人たち」はチャゼル監督に大きな影響を与えていたのだという。見て貰えばわかるだろうが、オープニングの雰囲気が似ているし、音楽も「ロシュフォール」のミシェル・ルグランの曲に少しだけテイストが似ている)。舞台も現代、ストーリーもある意味現代的だが、あくまで技術にこだわりすぎず、歌と踊りの始まりも「レ・ミゼラブル」と比べてもいい意味で不自然であり、これぞ昔のミュージカル、という感じがしていた。だからかもしれない。この映画を観た後は、昔の映画を観た後のような、不思議な満足感に包まれたのであった。

 

実を言うと、私はこの映画をこんなに早く見る予定はなかった。これを観たのは一昨々日のことだが、その発端というのが我ながら面白いものであった。

その日、私は午後から用事があり、午前中は500円で見れる「午前十時の映画祭」を見ることにした。その日やっていたのは、高峰秀子主演の「浮雲」だった。この映画は自己破壊型ラブストーリーという感じで、その恋の発端が仏印、すなわち現在のヴェトナムのダラットだという。ちょうどヴェトナムに行ってきた帰りだったし、主演の高峰秀子も私の好きな作家沢木耕太郎のエッセーによく出てくるので観に行ってみよう、というわけである。

つまらない映画だったわけではない。よかったと思うし、実際引き込まれた。ただ、その後に用事があって、それから会食に行かないといけない、というのが問題であった。エンディングもエンディングだし、なんとなく観終わった後の気分が良くなかったのである。さらに悪いことに、隣で上映中だったのが「ラ・ラ・ランド」で、しかもその扉が開いていたのだ。重い気分で映写室を出て、通りかかった別の映写室の扉の向こうから軽快な音楽が聞こえてくる。そうなると当然、観たくなってくる。この重苦しい雰囲気をなんとか断ち切りたくて断ち切りたくて仕方がなってくるのである……。

 

そんなこんなで私は見ることにした。結果はよかったと思う。これもまた恋の話ではあったが、少なくとも自己破壊的ではない。いやむしろ、「ラ・ラ・ランド」のミアとセブはその逆なのかもしれない。「浮雲」の二人が恋愛にある種の依存を見せていたのに対し、ミアとセブはそれをなんとか抜け出すからである。

ラ・ラ・ランド」はハッピーエンドではないという意見があるが、それはそのせいだろう。ネタバレ覚悟で言うと、彼らは確かに恋愛を成就させることはできないのである。つまり、結婚とか、付き合い続ける、とか言うことには至らない、と言うことだ。

だが別の観点からすると、彼らは確かに恋愛を乗り越えたのだ。

 

主人公のミアは叔母に憧れて女優を目指しているが、オーディションはいつでも失敗する。一方もう一人の主人公セブはジャズピアニストを目指しているが、ジャズの伝統に固執するがゆえに周りには理解されず、道を開けずにいた。そんな二人は、はじめは互いを馬鹿にするが、映画やジャズを通じて恋に落ちてゆく。二人とも夢を抱えていたからかもしれない。ミアは女優として成功する夢を、そしてセブはジャズピアニストになってジャズクラブ「チキンアンドスティック」を開くことで死に体のジャズ文化を救うという夢を。だが、セブはそんな時に、ミアとミアの母親の電話を聞いてしまう。

「彼はジャズピアニストなのよ、いいえ、まだレギュラー出演はないの、大丈夫よ、彼はジャズクラブを開くの、大丈夫、きっとなんとかなる……」

セブは自分のこだわりが彼女の親が求めるような安定を妨げていると気づき、かつての友人で、自分とは音楽の方向性が合わないキースとのバンド活動に参加する。そして案の定このバンドは成功するのだった。

そこから、「破綻」が始まってゆく。ミアは一度セブたちのライブに行くが、それがセブのやりたかったことではないことに気づいてしまうのだ。そのことがきっかけで喧嘩になり、また、バンド活動がますます多忙になることで、セブはミアの念願の一人舞台を見に行くことができなくなる。しかも悪いことに、この芝居は大不評で、ミアはもう田舎に帰ろうと決意したのだ。互いの夢に恋した二人はすれ違ってゆく。

だが、思いがけない形で「夢」は実現の方向へと向かう。ミアの一人芝居を見ていたという映画のプロデューサーが是非ミアを主役に、との話をセブのもとに持ってきたのだ。しかもその映画の舞台はパリ。それはミアの叔母が訪れた場所であり、ミアと叔母の思い出の映画「カサブランカ」で重要な意味を持つ土地であった。すっかり自信を喪失していたミアをセブは半ば強引にオーディション会場へと連れてゆくのだ。

 

二人の恋の終わりが描かれるのは、物語の中盤。それはつまり、その恋の終わりがこの物語の結末ではないということである。二人は確かに別の道を歩む。だが、自信喪失したミアをセブは放っておけずにハリウッドに連れてゆくし、ミアだってそれについてゆく。これは「悲恋」ではない。恋を乗り越え、ある意味で「愛」に変わったのではないだろうか。

それが顕著に現れるのが、最後のシーンだ。

ミアは別の男と結婚し、子供もできて、大スターになっている。一方のセブは、ジャズクラブのオーナーになっていた。そのクラブにたまたま訪れたミアは、セブとの思いがけぬ再会を果たすことになる。セブのピアノが始まると物語は映画の序盤、初めてセブとミアが出会うシーンとなり、そこから、「もしセブとミアが結ばれていたら」というある種の「if」ストーリーが走馬灯のように流れてゆく。見ていて気づくのは、そのシーンがどことなく違和感のある映像であることだ。特に、最後にセブとミアがセブのクラブを訪れるカットになると、それが顕著になる。前でピアノを弾く男はどこか生命力のない感じで、音も平べったい。やはりピアノの前にはセブがいないといけないのである。もっとも、それは私の主観でそういう風に見えたのかもしれないが。

ピアノが終わると、場面は現実世界に戻るが、ミアはセブに声をかけることもなく、そっと夫とともに外へと出てゆく。セブはそれを見守り、最後には二人とも、少しだけ寂しそうな顔をしながらも、笑顔を見せ、離れ離れになってゆくのである。私はこれが二人とも相手の行く先を認めたが故の表情だと思う。二人は恋を乗り越えたのだ。そして、互いの夢が叶ったことを知り、二人の「愛」は成就した。互いの夢は今や現実のものとなって、それ以上のことを望むことはない。これはハッピーエンドなのだ。

 

これは「現代的だ」という人もいるだろう。だがやはりこれは古い映画へのリスペクトに溢れていた。というのも、蛇足ながら、この映画のエンディングもどことなく「カサブランカ」を感じさせるものがあるからである。

サマキマーケットの夜〜シェムリアップにて〜

アンコール遺跡観光の後だから、2月3日のことになる。日本で言えば、節分に当たるのだろうが、カンボジアの街シェムリアップは相変わらずの日差しとトゥクトゥクの喧騒であった。そんな中で、私の友人が体調を崩した。

アンコール遺跡から帰ってきて(その道中、中国人カップル観光客と一言二言会話を交わしたが、まあそのことはいずれ書こうと思う)、友人は「夕食はいらない」とだけ残して眠りについた。そうは言っても私は何かを食べないと、逆にこちらが体調を崩してしまう。そんなわけで私は夕食に出ることにした。

 

はじめは、アンコール遺跡の近くにあるという庶民的なナイトマーケットに行ってみたかったのだが、妙に遠い。トゥクトゥクに乗れば良いのだが、正直値段交渉が面倒である。ホテルのそばに「サマキマーケット」なる市場があるらしいのだが、そこが夜もやっているのかはわからなかった。だから私はフロントに聞いてみるという力技に出ることにし、部屋を後にした。テレビでは日本を舞台にした謎の中国か韓国かタイのドラマを放送していた。

「すみません、一つ伺いたいんですが」と私はフロントのお兄さんに聞いた。にっこりと笑うとニッコリと笑い返してくれる人の良さそうなホテルマンである。

「なんですか?」

「この近くのレストランだったらどこがいいですか?」そう言うと、お兄さんは考え込んだ。

「どんなものがいいんですか? ビュッフェ?」このビュッフェ、という言葉とともに、そばで聞いていたトゥクトゥクドライバーと思しき人がパンフレットを持ってきた。

「お兄さん、このカウランって店がいいですよ。アプサラショーもやってるし……」なるほど。アプサラというのはカンボジアの伝統舞踊のことである。だが一つだけ問題があった。というのも……

「あー、えーっと、そこは昨日行ったんです」

そうなのだ。私はそこに昨日行ってしまった。クレジットカードが使えず、ヒヤヒヤした思い出とともに、私の脳裏にアプサラダンスが浮かんだ。私はその思い出を必死に振りほどき、「えーっとですね、僕はもう少し安い……マーケットで食べられるような……」となんとか路上食堂や屋台料理の食べ物を食べたい旨を伝えようとすることに努めた。トゥクトゥク親父はここで退場し、お兄さんだけが残される。お兄さんはしばらく考えた末、

「ああ、ストリートフードね」と言った。そうか、ストリートフードというのか。どうもあの庶民的な食べ物と、「ストリートフード」という横文字が合わないような気がしたが、私はとりあえず、そうだ、と伝えた。

「じゃあ、サマキマーケットがあります。(地図を出して)ここです。ここからすぐです。でもストリートフードしかないですよ」という。大丈夫。私は東南アジアでストリートフード以外のものを滅多に食べたことがないくらいである。私は「オークン(ありがとう)」と礼を言い、外に出た。お兄さんは一緒についてきて道順を見せてくれた。これから、つかの間の一人旅が始まる。

 

ホテルとサマキマーケットの間には、国道6号線という太い道が横たわっていた。信号なんてあってないようなもんだから、渡るのは難しい。とはいえ、その問題は「去年とった杵柄」が解消してくれた。日はまだ暮れ切っていない。うっすらと太陽が見えて、風が心地よい。広い、車通りの多い、砂だらけの道路の脇を私はひたすらに歩いた。

だが、いつまでたってもつかない。どこを見ても商店か、駐車場があるばかりである。時折小さな食堂があるが、時間が早いせいか、あまり人がいない。その様子はどこか、西部劇に出てくる「しけた街」のようであった。

この道でいいのだろうか、と思いながら、しばらくひたすら道に沿って歩いていると、徐々に路上食堂が増え、最終的には密集している場所にたどり着いた。こじんまりとはしていたが、どうやらここが「サマキ・マーケット」のようだ。

食事時にはまだ早いので、とにかく市場内に入ってみる。するとこんな時間でもしっかり野菜や肉を売っている。地面におばあさんやおじいさんが座り、そこに置かれたザルには血が流れている魚だったり、肉だったり、野菜だったりが無造作に置かれていた。目があうと「安いよ!」というようなことを言ってくるが、こちらが外国人だと気付くと、すぐに興味を失ったように魚や肉の手入れを始める。市場の中心には大きな食堂があり、おじさんたちがそこで晩酌をしながらテレビを見ていた。そこに入ってみたかったが、どこが正面なのかもわからず、結局入れなかった。

市場の外に出ると、肉を焼く店、バイク客相手にひたすら炊いた米を売る三人娘、麺だか粥だかよくわからないものを調理するおばあさん、などいろいろな店がひしめきあっている。やはりこちらの方が賑わっているようで、家族総出で席に座って食べている人たちもいた。私はとりあえずなんか買おうと、肉を焼いているおじさんのところへ行った。というのも、その店はバーベキュウのごとく鉄板で肉を焼き、ひときわその煙で目立っていたのである。

「チョムリアップスオー(コンニチハ)」と私はおじさんに声をかけた。「英語話せますか?」

「アー」とおじさんは言うと、隣のおばあさんにバトンタッチする。東南アジアではよくある光景である。おばあさんは眼力鋭くこちらを見つめた。私はとりあえず鉄板で焼いているものを指して、

「これはいくら?」と尋ねた。おばあさんは間髪入れずに、

「2ドルだよ」という。ここでもドルか。カンボジアでは「リエル」という自国の通貨とともにアメリカドルも流通していて、これが旅行者の金銭感覚を狂わせてゆく。私は時に、去年の夏カナダに語学研修に行っていたため、下手に「ドル感覚」ができてしまっており、かなり苦しめられた。

「じゃあ、これをください」

おばさんはよくわからない、腸のようなものに何かが詰まった肉をぶつ切りにし、焼き始めた。これは一体なんだろう。そう思いながら見ているうちに、それはいい焼き具合になり、ぼかぼかとお弁当箱のようなものに入れられた。おばさんは慣れた手つきでそれに輪ゴムをかけ、袋に入れた。「まいどあり!」

私は、「オークン(アリガトゴザイマス)」と手を合わせ、にっこりと笑った。するとおばさんもにっこりと笑った。

 

問題は、その肉を食べるところがないということである。そして肉だけでは多分厳しいというのも一つの問題。そこで私は入ったときから気になっていた、なんだかよくわからない麺料理を出している店に行ってみた。

だがそこには中国人観光客が大量で群がっており、席がなくなりそうであった。どうしよう、と見ていると、観光客たちはすぐに別のところに移動した。私はよしきたと、店を切り盛りするおばあさんに、指差し注文して、席に着いた(「チョムリアップスオー! アー」と初めて、「ン」と言いながら料理を指差し、「ムーイ(1つ)」という。何か聞かれたらとりあえず頷いておく。そうしたら何かしら出てくるだろうという魂胆である)。斜め前には多分同い年くらいの若い女性が座っていて、こちらを興味ありげに見ていた。観光客が気になるようである。まあ、仕方あるまい。

しばらくすると、その女性よりも年長の若い女性がやってきた。彼女は流暢な英語を話し始めた。

「ここの麺を食べたいのね? なら手伝うわよ」

「ありがとう。じゃあ、一つくれと伝えてください」どうやらおばあさんが、私のあまりにボディーランゲージすぎる注文に不安を覚えたようで英語の出来る女性をよこしたようだ。

「えーっとね」まだわからないのか、というように彼女は厳しい顔をした。「クマーエとカリーとどっちがいいの?」

なるほど。ここの麺には種類があるようだ。そういえば最初の注文の時、おばあさんが何やら聞いてきたのを覚えている。私はテキトーに頷いたのだった。そりゃ、不安にもなるだろう。私は「クマーエ」が「カンボジア風」という意味だということを思い出して、「クマーエで」といった。

しばらくすると女の人が「クマーエ麺」を持ってきた。店員なのか、それとも客なのか。両方なのか。彼女の所属はわからないが、私はとにかく「助けてくれてありがとう」と礼を言った。すると女性は、「そこにハーヴがあるから」といってどこかに消えた。私は彼女の遺言に従い、草をそのまま摘み取ってきたような見た目の薬味のハーヴを箱から取り出して、無造作に麺のボウルに入れた。

「ちがう!」と声をあげたのは、斜め前の女性である。私がキョトンとしていると、ボウルのハーヴをとって、彼女は一枚一枚葉っぱをちぎって私のボウルに入れた。そうか、そういうことだったのか。これで長年の疑問が解消されたのだ。東南アジアに行くと、草がそのまま入っていることがあるが、どうしたらいいのかわからなかった。葉っぱだけ摘むのが正解なのである。

「オークン(アリガトー)」と私はいい、ハーヴを摘んで、入れた。いざ、と食べようとすると、女性はまた「ちがう!」という。

「見てて。こうやって、まぜるの」と彼女は一本の箸を右手に、もう一本を左手に持ち、それらを麺に突き刺し、持ち上げて、おろした。汁をあえるように、混ぜてゆく。するとハーヴやら何やらがどんどん混ざってゆく。

「これがカンボジアンスタイルってことだね」と私が言うと、彼女は何も言わなかった。後で気づいたが、これはヴェトナミーズスタイルでもあったのである。

「辛いのは好き?」と彼女がいい、好きだと答えると、彼女は何やらからそうなものを取り出した。私はとりあえずかけ、また、あえた。それから、今度こそいざ、と口に運ぶ。なんだかわからないけれど美味しかった。スープは暖かいわけではないが、正直気温が気温なので、これくらいでちょうどいい。麺に乗っていた鶏肉とナッツが麺とハーヴに絡んで独特の風味を醸し出し、うまい。

「どこから来たの?」と彼女は言う。旅先では必須の質問項目である。

「日本だよ」

「ここにはどれくらいいるの?」

「昨日のバスで着いて、明日の夜行バスでプノンペンに戻る。だからカンボジアには五日間かな」去年聞かれた時、自分の滞在予定がいまいちうろ覚えだったため、今回はしっかりと覚えてきたのである。会話の種になる。が、会話が弾むわけでもなく、少しの間の若干気まずい沈黙。そこでわたしは「この国が好きだ。人は優しいし、食事もうまい」と率直な感想をつけくわえた。すると彼女はにっこりと笑った。

しばらく私たちは無言で麺を食った。隣の席で店主のおばあさんが何やらからかっているらしく、彼女はこっちを見てはクスッと笑う。なんだかよくわからないが私も笑って見せた。

「名前は?」と私が尋ねた。そういえば旅先で名前の交換をしたことがなかったことに気づいたからである。東南アジアの人は名前から何からどんどん聞くと聞いていたが、実はそうでもないらしく(列車で乗り合わせたハオさんもそうだった)、少し戸惑った様子で、

「タイホーよ」と答えた。「あなたは?」

「Sだ」というと、タイホーちゃんはリピートした。カンボジア人も、ヴェトナム人も、「Sh」の音が苦手である。私の名前にも入っているから言いづらそうである。

「いい名前ね。うん、とってもいい名前だと思うよ」と彼女は言った。

「タイホーもいい名前だ」などと、私は名前の意味も知らないのに、調子に乗って、映画の主人公気取りで言ってみた。若干、いや、わりと恥ずかしかったので、もう一生やるまいと心に決めた。

「一人旅なの?」と彼女が言うので、私は事情を説明した。友人と一緒だが、彼は今疲れて寝ているよ、と。そういえば奴は今どうしているだろうか。

とそんな時、店主のおばあさんがこっちにやってきた。私はおばあさんの方を見て、

「チュガイン(ウマイデ〜ス)」と言ってみた。するとおばあさんは、外国人がカンボジア語をしゃべった衝撃を噛み締めた後で、笑顔で、

「チュガイン?(あらおいしいの?)」といった。タイホーちゃんはそれを見て、

「へぇ、カンボジア語が喋れるのね」とニッコリと笑顔を浮かべて言った。

「めちゃめちゃ少しだけだけどね」と私は言った。おばあさんとタイホーちゃんは顔を見合わせて笑った。

しばらくして、タイホーちゃんは、「じゃあ、私は行くね。バイバイ」と言って会計を済ませ、一人バイクにまたがって街の中心部の方へと消えていった。もう少しいろいろ聞いてみたり、カンボジア語を習ってみてもよかったな、と思った。しかし儘ならぬのが旅である。彼女とはもう会うこともないのだろう。

私もすぐに麺を食べ終わったが、まだ肉を食べていないことに気づいた。路上食堂だし、隣のものを食べても構わないだろう。私はそう判断し、謎のソーセージというかタラコというか、よくわからない肉を食べた。食べてもよくわからなかったが、調理後数十分が経っているとは思えないほどの美味しさである。暖かいし、肉の味付けもいい。私はばくばくと肉を喰らって、おばあさんに会計を頼んだ。

「オークン・チラン!(アリガトゴザイマス!)」といって手をあわせると、おばあさんは嬉しそうに手を合わせ、

「オークン・チラン!(あら、ありがとうねー)」と返してくれた。

 

サマキマーケットの夜は、まさに「私がしたかった」旅の夜だった。そこにはその土地に住む人がいて、そんな人たちの笑顔がある。文化の違いなどといったものを乗り越えて、笑顔で通じ合う。言葉をかわすことで、相手のことを少しだけわかりあったような気になる。そこにこそ、旅の一つの喜びがあるからである。出会いは偶然だが、それを良いものにできるかどうかは自分自身に姿勢にかかっている。サマキマーケット、そして南北鉄道。私は時にこの二つの場所で、それを学んだ気がしている。

f:id:LeFlaneur:20170228001747j:plainサマキマーケットと私の泊まったホテルがある「国道6号線」。真ん中に写っている緑色の壺は「ゴミ箱」である。そしてその左上が「トゥクトゥク」だ。

ノンかダーか、スウアかデンか

ヴェトナムといえば、と聞かれたら、多くの人はなんと答えるんだろう。アオザイ、春巻き、そして最近ではポピュラーになってきたフォー、そして頭にかぶる浅い三角錐の形をした「笠」のイメージもある。若い女性には「キッチュな雑貨」が有名かもしれないし、少し年配の人にとっては「ヴェトナム戦争」を思い起こさせるかもしれない。

だが、一つ忘れがちなものがある。それは、「コーヒー」である。あまり知られていないがヴェトナムはコーヒーの原産国なのだ。バンメトートやダラットといった南部の産地ではコーヒー作りが盛んであり、あのブラジルと張り合えるほどの生産量を誇る(2012年には、輸入に関してブラジルを抜いて世界第一位になったそうな。『地球の歩き方 ベトナム』より)。そしてヴェトナム国内での消費も盛んで、どの都市に行っても必ずカフェが存在し、地元の人で賑わっている。ヴェトナムで観光客のいないところを探すなら、カフェに行けば間違いない、と言えるほど、カフェは地元の人のたまり場である。

ヴェトナムのカフェ。それは他の国のカフェとは形状が少し違う。その姿はまるでヴェトナムの食堂のようで、例えるならガレージのような形である。外壁?何それ、と言わんばかりにオープンで、席は道の外まで出ている。たいていの席はなぜだか道の方を向いているため、店に入ってコーヒーを飲んでいると、必然的に道行く人を観察したり、道路を行く車やオートバイを眺めるようになる。中には日本のカフェ並みの広い空間がカフェの店内になっているような店もあるが、ヴェトナムでは日本の普通のガレージ並みの大きさのカフェもたくさん存在している。その占有面積の多様性から考えるに、おそらくハノイなどの都市にはきっと、世界の他の都市よりもたくさんのカフェがあるに違いない。なぜなら、パリやメルボルン(こちらもカフェ都市として知られる)ではある程度の大きさの面積を持っていなければカフェとして成立しないが、ヴェトナムでは小さくても路上をカフェにしてしまうことができるからだ。

 

今回のヴェトナムの旅では、いろいろなカフェに入ったと思う。それはまず一つに、ハノイでは腹痛を抱え、フエは大雨、ホーチミンは暑かった、という理由もあるが、やはり前回行ってみてヴェトナムはコーヒーの国だと実感したからである。

私が一番好きだったのは、ハノイの旧市街の「グエン・フウ・フアン通り」にある「ナンズコーヒー」のコーヒーであった。それは、看板の言葉を信じるなら1958年(ヴェトナム戦争の開戦前夜)から営業しているという、おそらくハノイ市内限定のチェーン店だ。「グエン・フウ・フアン通り」には何店舗かあって、どこも地元の人で賑わっている。私たちが入ったのはその中でも割と大きめの店舗で、日本のガレージ二つ分くらいの大きさの店である。そんな店の目の前には、まだ貧しかった頃のヴェトナムを再現している大型チェーンの「コン・カフェ」があり、そちらも結構賑わっているから、なかなか挑戦的である。

何もわからないままカフェに入り、とりあえず人数を伝える。すると店員が椅子を店内から持ってきて道路のそばに置いてくれた。メニューでもあるのかと、とにかく椅子に座ると、何も頼んでいないのにコーヒーが出てきた。向こうも外国人ということで面倒だったのかもしれない。

ヴェトナムコーヒーは、バターで焙煎された香り高いコーヒーを濃厚に淹れ、そこにコンデンスミルク(練乳)を入れ、それを混ぜて作る。混ぜ合わせると、色はコーヒー独特の黒ではなく、白みがかった茶色になり、味もコーヒーというよりもミルクチョコレートを溶かしたような味がする。ただし、甘くはあっても苦味もやはり生きており、複雑な味わいだ。これを「カーフェー・スウア」という。一方で練乳を入れないバージョンが「カーフェー・デン」。「デン」とは「黒」のことである。これは今回は飲まなかったが、前回飲んだ感じだと、ものすごく苦い。ポピュラーなのは「カーフェー・スウア」の方だ。これにはアイスかホットかがあり、冬の北部(気温は20度から27度程度)ではホットの「カーフェー・スウア・ノン」が落ち着くし、うまい。酷暑の南部(冬でも気温は30度越え)ではやっぱりアイスの「カーフェー・スウア・ダー」に限る。

などと言いつつも、その時出てきたのは「カーフェー・スウア・ダー」、すなわち「アイスヴェトナムコーヒー」であった。苦みがどれくらい入っているのか、は店舗によって違うが、ナンズコーヒーの場合は、苦すぎず、かといって甘すぎず、のちょうどいい配合である。少々肌寒くはあったが、美味しかった。

驚いたのは値段である。正確な値段は忘れたが、一人一万ドン台、すなわち日本円にして60〜120円だった。日本でカフェでコーヒーを頼んだら、おそらく一番安いであろうベローチェでも200円はする。それでいて、味はすごく美味しかった。

ただ、この衝撃価格も、店によってはある程度高い場合がある。私たちが去年ハノイを訪れて初めて入ったカフェ(ホアンキエム湖近くのカリナコーヒー。去年はWi-Fiのパスワードが12345678だったのが、今年はもっとマシになっていた)のヴェトナムコーヒー(カーフェー・スウア・ノン)の価格は一杯29万ドンだった。日本円にして約180円である。まあ日本からすると安いのに変わらないが、ハノイ的には高めだ。旧市街の中で落ち着いた雰囲気のある地区のこじんまりとしておしゃれなコーヒー専門店のコーヒーが確か27万とかその辺だったから、高いと言っていいだろう。

これがホーチミンに入ると物価が上昇する。コーヒーは基本3万ドンになるのだ。ヴェトナム風サンドイッチのバインミーより高く、ちょっとした麺類と同じ値段である。やはりこれが都会の価格、ってなわけか。

 

実は、濃いめのコーヒーにコンデンスミルク、と言うのはカンボジアにもあった。シェムリアップの街で歩き疲れた時に入った、「ノワールコーヒー」と言うガソリンスタンドのそばのカフェで飲んだ「クメールコーヒー(カンボジア風コーヒーという意味だろう)」も同じようなものだった。外はかなり暑かったので、砂糖と苦いコーヒーと氷の組み合わせは体を蘇らせてくれた。

 

そんなヴェトナムコーヒーだが、初めはどろりとして甘ったるいあの感じに驚くかもしれないけれど、ハマるとハマるのである。それはあのコーヒーが甘いがゆえである。暑い日差しに照らされて歩き回った時には、甘いものが欲しくなるのが人情だ。そんな時にヴェトナムコーヒーがうってつけで、飲めば疲れた体にじわーっと届き、体と心が蘇る。寒い日には(今回の旅だとフエが寒かった)、ホットの「ノン」を頼めば、体が芯から暖まる。日本でももっと普及すればいいのにな、なんて思ったりする。

f:id:LeFlaneur:20170223163025j:imageナンズコーヒーにて。コーヒーに人が入っているみたいである。