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旅、映画、食べ物、哲学?

4都市目:アヴィニョン〜グリーングリーン〜

9時20分の在来線TERで、わたしはフランス南部の都市アヴィニョンへと向かった。今までフランスというとパリとリヨンにしか行ったことがなく、リヨンより南に至っては通過したこともなかったから、初めての「南仏」であった。

車窓から見える風景は徐々に変化していた。パリからストラスブールへと向かう列車の中から見えたどこまでも続く緑の畑と小さな町も、ディジョンからリヨンへと向かう列車から見えたワイン用のぶどう畑も、そこにはもう存在しない。畑は徐々に小麦色に変わり、太陽はより大地に近づいてくる。北部の空はどこまでも高く、雲は大地を覆わんばかりに近かったのに、南部に来るとそんなダイナミックな空はない。雲は散り散り、晴天続き。少し赤茶けた青空がムワーッと空にある。ホールのチーズのような形をした藁の束が畑には転がっていた。それは、ゴッホの絵のような雰囲気だった。格好つけていっているわけではない。現にゴッホの拠点は南仏だった。

音楽を聴きながら電車に乗っていると、前に座っていた女性が、隣にいる若い女性に話しかけている。「ヴァカンスなの?」「そうなんです、ヴァカンスです」というようなことを言っている。前にいる女性とは席に着いた時に挨拶だけ交わしたが、もしかしたら話しかけたかったのかもしれない。すると、イヤフォンで音楽を聴くというのは、実は凄く失礼な行動だったのかもしれないな、とわたしは少しだけ反省した。

偶然にも、前にいる女性もアヴィニョンで降りた。わたしはその後に続いて駅に降りた。暑いんだろうと踏んで、ディジョンでは前のチャックまでぴっちりと締めていたコートを腰に巻き、眼鏡に装着できる形のサングラスを眼鏡にくっつけた。予想は大当たりである。暑い。突然夏に引き戻されたようだった。と言っても8月13日である。夏真っ盛りだ。

駅を出て、町の中心に向かって、人通りが多そうな方へと歩いて行くと、不意に目の前に巨大な城壁が現れた。分厚く、見張り台もある、立派な城壁。わたしは、これがアヴィニョンなんだと感心した。なぜなら、アヴィニョンにはかつて、城壁で守るべき人が住んでいたからである……

 

ことの起こりは1303年にさかのぼる。

当時フランス王国を治めていたのは、フィリップ四世、あだ名はル・ベル(イケメン王)。彼はフランス国王の力を強めるべく邁進した人だった。彼は、予てからボルドー一帯の「アキテーヌ(ギュイエンヌ)地方」に居座っているイングランド王国から、アキテーヌ地方を奪還するため、戦争を起こしていた。だが、戦況はあまり芳しくない。問題は戦費調達だった。そこでフィリップ国王が目をつけたのが、広大な領地を持ちながらも税金を一銭も払うつもりがない教会だった。教会は税金免除というのが慣例のところを、フィリップは教会から税金を取ると宣言したのである。

これにカンカンになったのが、時のローマ教皇ボニファティウス8世だ。彼は、弱まりつつあった教会の力を取り戻すことを目指し、陰謀によって先代教皇の精神を蝕んで生前退位に追い込み、教皇の位に上り詰めた男だ。ローマへの巡礼を義務化したり、今のバルセロナを中心とする海の覇者アラゴン連合王国からシチリア島を奪還しようとしたり、ローマの貴族でアラゴンと仲のいいコロンナ家を粛清したりと強行な政策を推し進め(教皇だけにね)、ローマの繁栄の最盛期を築き上げた彼に、フィリップ王の言い分が認められるはずはない。

教皇を敵には回せないので、フィリップは一度自分の祖父を聖人に認定してもらうことで手を打ったが、しばらくすると国内の貴族、平民、そして聖職者を集めた「全国三部会」なる会議を開いて、教会への課税を再び認めさせた。「みんなが言ってるんで」とフィリップは課税に踏み切る。これに対し教皇は、「教皇(パパ)のいうことが聞けない奴はみんな地獄行きだから」と宣言。今では某米国大統領の脅し文句くらいにしか聞こえないが、当時は重みがあった。教会は死後の世界をも司っていた。フィリップ王は1303年、ついに部下に命じて、アナーニというところにある教皇の別荘を急襲させ、監禁した。名目は、「今の教皇は陰謀で位についた悪徳教皇」。その後教皇はすぐに解放されるが、病状を悪化させ、死去。勢いに乗ったフィリップは、1309年、自分が使いやすいフランス人司教を教皇の位につかせ、あろうことか、教皇の住まいをローマから当時は田舎町だったアヴィニョンに移動させてしまった。いわば、フランス国王が人質として教皇をフランスにおいたのだ。これがいわゆる「アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)」である。

この状況は事実上、実に約100年続いた。歴史の表舞台となったアヴィニョンは、田舎町から徐々に整備が施され、一方ローマは最盛期から一気に転落し、貴族が好きかってをする廃れた街になってしまった。70年目に一度教皇はローマへ戻ったが、新しい教皇の選挙を不服としたフランスはすぐに別の教皇をフランスで任命させ、二人の教皇が存在するという状況にまで至ってしまう(「教会大分裂(シスマ)」)。こうしたゴタゴタのせいで教会の権威は失墜し、ルネサンス、ひいては宗教改革へと続いてゆく。そんな大事な出来事の舞台となったのがこのアヴィニョンなのだ。城壁も、この歴史を語っている。

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城壁

城壁を抜けると、メインストリートらしき道がある。街路樹が植えられ、風が気持ち良い。そして太陽はジーンと降り注いでいる。日曜日だったので服屋などは軒並みシャッターが閉まっていたが、カフェやアイスクリーム屋の類は小規模なテラスを出していて、地元の人たちがそこに座っていた。時間の進み方が、ゆったりとしているような気がする。

わたしは道を歩く途中で見つけた、まるで城のような形のツーリストインフォメーションに入り、町の地図を手に入れた。アヴィニョンに長居をするつもりはなかった。しても良いのだが、アヴィニョンはあまりアクセスが良くないので、これからスペインに入ったりすることも考えると宿泊地は変えたかった。そして、前日のディジョンの経験から、10kgのバックパックを背負いっぱなしで町歩きをし続けるのは無謀である。そう考えると、観光に取れる時間は大体二時間。

近くにあったキャルフール(大手スーパー)で本場のオランジーナを買って、私は再びメインストリートに舞い戻った。太陽の光が街路樹の葉を照らし、葉の緑はまるで新緑のような明るいグリーンである。穏やかな風、カラッとした空気。なんならここに捕囚されてもいいなと思ってしまうような気持ちの良い道だ。ただ、カラッと暑いので喉の渇きは凄まじい。私はオランジーナを一口飲んだ。思えば、佐藤二朗が出ている「コマンタレヴー(お元気ですか)」と聞きまくるオランジーナのCMは、南仏の雰囲気があるような気がする。

しばらく歩くと、ついに街の中心にたどり着いた。そこはちょっとした広場になっていて、ど真ん中にはメリーゴーラウンドがあった。その脇にはレストランのテラス席。建物は限りなく白に近いクリーム色で、太陽の光によく映えている。その雰囲気はどことなくイタリアに似ているが、イタリアにメリーゴーラウンドはない。ストラスブールでも、ディジョンでも、リヨンでも、フランスの街にはメリーゴーラウンドを置きなさいという法律でもあるのだろうか。

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広場

この広場から伸びる路地を進めば、かつて教皇が住んでいた教皇宮殿である。少しワクワクしながら、私は狭い路地を進んだ。道は間違っていないはずだ。路地にはたくさんの人が歩いている。

案の定、路地を抜けると突然開けた場所に出て、さっきの広場よりはるかに広い空間が出現した。左を見ればテラス席、そして右を見れば二つの尖塔に、のこぎり型の狭間、頑丈そうな壁を持った巨大ないかつい城塞が少し小高いところに立っている。サンピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂のイメージとはかけ離れている厳しい建物だが、これが間違いなく教皇宮殿だった。

基本的に大きな荷物を持った人はこういうところには入れないので、私ははなから入ることは諦め、宮殿を外からしばらく見つめていた。ここが、アヴィニョン捕囚の舞台か。この明らかに住居でも教会でもなく、城塞でしかない建物は、きっとフランス王の人質である教皇は閉じ込めるものなのだろう。そう、彼はやはり人質だった。こんな気候のいいところなら捕囚されてもいい気もしたが、これだけの城塞の中に閉じ込められたら満足に外にも出られまい。そして言われるのだ。「聖下、これは牢獄ではありませんよ。貴方様をお守りするものでして…」

広場は高低差があって、宮殿は小高いところにある。広場の入り口から向かって奥に進むと段差があり、宮殿に近づいて行くことができる。おそらく、山のような地形を街にしたのだろう。私は高い方へと進んでみた。そこにはジャコメッティみたいな細い像が立っていて、バンザイポーズを見せている。その像の前には記者の形をしたバスがいて、観光客を満載してちりんちりんという音を立てながら走っていた。

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教皇宮殿 Palais des Papes

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表示を見ると、この広場を通り抜けて街の城壁の外に出れば、有名なサンベネゼ橋がある。通称、アヴィニョン橋。この橋は、かつてアヴィニョンに住んでいた羊飼いのベネゼが神のお告げによって建てたという。時を経て半分も残っておらず、橋というよりもむしろ埠頭、横浜の大桟橋のようになっているらしいが、世界遺産にもなっている。この橋がどうして有名なのか。それはこの橋が落成した時に歌われたという、有名な歌のおかげだ。きっと今これを読んでいるみなさんも聞いたことがあるだろう。


アビニョンの橋で

アヴィニョンの橋で Sur le Pont d'Avignon

踊るよ、踊るよ On y danse, on y danse

アヴィニョンの橋で Sur le Pont d'Avignon

輪になって組んで On y danse, tous en rond

広場を抜けるとまた狭い路地があり、急な坂になっていた。狭くて急な階段と、それを取り囲む白っぽい建物と空から入ってくる日の光。これまたイメージ通りの南仏だった。写真を撮ろうとスマホを出すと、ちょうど階段の下で写真を撮ろうとカメラを構える初老の男性がいた。そりゃそうだ、ここは写真を撮りたくなる場所だ。世に言う、フォトジェニック、だろうか。私はカメラを持つ彼をみて、スマホで撮ろうとしている自分が急に恥ずかしくなり、彼の写真の邪魔にならないようにその場を立ち去った。

土産物屋の横を通って、しばらく閑散とした道を歩くと、城壁に出会う。城壁をくぐれば、突然道路が現れる。車がたくさん走っている。思えば城壁の中では車なんて、観光用の汽車型のやつくらいしかいなかった。突然現実世界に引き戻された気でいると、奥に水色の川があるのに気づいた。そして、その川には、シンプルなデザインの、美しい橋が途中までかかっていた。これが、あれか。私は感心した。だが、どうやってはいるのかわからない。まあそれも仕方ない。外から見るのも美しいんだ。私は橋をくぐって、近くにあった城門から市内に再び入った。

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サンベネゼ橋。よく見て欲しい。この橋は向こうまで繋がっていない。

すると、どうやら城壁の上に登ることができるらしい。せっかくだ。アヴィニョンで何もしないのもつまらない。わたしは見張り塔のような施設に入り、螺旋階段を伝って塔の上まで登った。前には家族連れがいる。急ぐ子供、ぐんぐん進むお父さん、待ちなさいと追いかけるお母さん。どの国でも見る光景である。階段はぐるぐるぐるぐるぐるぐると上へと伸びていて、狭い。時折、塔の外側が見えるようになっているが、わたしはあえてそれは見ないで、頂上でのお楽しみとした。

しばらくして、わたしは塔のてっぺんにたどり着いた。塔を出ればそこはもう城壁。気分は「真田丸」である。太陽が照りつけて暑いし、荷物は昨日より離れていてまだマシだが、やはり重い。わたしはオランジーナの最後の一滴を飲み干した。衛兵になったような気分で中世の城壁をつたって、より上の方を目指す。この城壁はどうやら、アヴィニョンの町の頂上に続いているようだ。

登りながら町の外を見ると、水色の美しい川が流れ、そこに向かってサンベネゼ橋が突き出していた。歌詞とは裏腹に、橋はきちんとした欄干がない上に狭いので、話になって組んで踊ると危険だという話を聞いたことがある。こうやって上から見るとそれはよくわかった。川の手前には車が走り、川の向こう側は文明とは程遠いような森と山だけの世界があった。きっと、ユリウス・カエサルがガリア地方、今のフランスにやってきたときは、全てがあのような森と山の世界だったんだろう。反対側には、城下町がある。街の外の街である。赤茶けた素朴な家が立ち並び、まるで中世の街並みを見ているようだった。そこでは時間の進み方が、川沿いを走る車のスピードよりも確実にゆっくり流れているように見えた。この、中世の城壁からは、現代と過去が見渡せた。

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頂上の公園で、しばらくベンチに座って空を眺めた。随分とたくさんのところに行ったようだが、まだ三日目に過ぎない。普段の東南アジア旅行なら、1都市目が終わるくらいだ。だが今回は、移動する旅。幸いまだ疲れは来ていない。

立ち上がり、山を下ることにした。方向がどちらかはよくわからないが、まあなんとかなるだろう、ととりあえず歩いていると、教皇宮殿が現れた。なるほど、宮殿を伝って降りてゆくわけか。かくしてわたしは知っているアヴィニョンに戻ってきたのだった。宮殿前にある小さな階段に腰掛け、宮殿前に設置された巨大な十字架を見た。そろそろ、アヴィニョンを離れる時間が近づいている。面白い街である。長期滞在したい街かと言われるとよくわからない。だが、気持ちの良い街ではあった。風と太陽と緑と、そして歴史。アヴィニョンには時の流れがあったからだ。

わたしは再び駅の方へと向かい、昨日一昨日の不節制を戒めるべく、駅のパン屋のぱさぱさのハンバーガーを食べた。5.20ユーロ。大体700円くらい。昨日のワインとムール貝に比べれば大きな差である。次の目的地は、アヴィニョンからほど近いニーム。ニースではなく、ニーム。今日はニームに滞在するつもりだ。

3都市目:リヨン〜リベンジするは我にあり〜

ブルゴーニュ地方からリヨンのあるローヌ・アルプ地方までは在来線TERで行けば良い。所要時間は2時間だから、すぐについてしまう。

リヨンというと、フランス第二の都市とも言われる都会である。その歴史は古代ローマまで遡る。フランスの地がローマ帝国の「ガリア地方」と呼ばれていた時、ガリア地方は三つに分かれていたのだが、ルグドゥヌムことリヨンはそのうちの一つ「ガリア・ルドゥグネンシス州」の州都であった。この州は今のパリも含んでいるため、このころはルテシアことパリよりも大都市だったのだろう。リヨンはローマ帝国亡き後も反映し、そして現在に至る。

街には二つの川が流れ、「山がちなエリア」、「真ん中」、「駅のあるエリア」の三つに分けられると思う。「山がちなエリア」は旧市街も旧市街で、古い建物が残り、ローマ時代の遺跡もある。それに夜には山のてっぺんからはリヨンの夜景が楽しめる。「真ん中エリア」は、リヨンの市街地という感じで、旧市街ほどの古さではないが、日本人の感覚としてはやはり古い街である。広い道、ルイ十四世の像のある広場、そしてレストラン街に、スイスのジュネーヴを思わせるでかくて漕ぎれない建物……美しいヨーロッパの街という感じだ。そして「駅のあるエリア」を見ると、驚く。そこは別世界であり、高層ビルが立ち並ぶ、新市街なのだ。

実を言うと、リヨンは初めてではなかった。一昨年、私は大学の友人5人とフランスを訪れたことがあり、その際に立ち寄ったのが、パリとリヨンだったからである。一昨年は「山がちなエリア」のてっぺんにあるユースホステルに泊まった。夜景、夕焼け、そして朝焼けが素晴らしい場所だったと記憶している。だが、今回はそこまで行くのはやめた。なぜなら、ディジョンの町歩きで疲れ切ってしまっていたからだ。背中が痛いし、足にも負荷がかかっている。私はとにかくホテルに泊まりたかった。そもそもリヨンでの滞在は予定外だったこともある。

列車が駅に着くと、私は大手チェーンのホテルibisを探すことにした。ホテルを探す元気がないし、ユースのようなドミトリーではなく、個室でゆっくりとしたかった。それに、外はずいぶん暑い。パリ→ストラスブールディジョン→リヨンとやってきたが、気温がここにきてグッと上がったと感じた。だから、衣替えをして、パッキングを見直す必要がある。そうなれば、個室の方が都合がいい。ちょっと値ははるが、ibisなら耐えられるくらいだと信じた。

ところが、駅周辺の新市街は初めてだったということもあり、私はだいぶ迷ってしまった。それもそのはず。ホテルのある通りはなんと、高架下の狭い通路を行く道であり、道に見えなかったのだ。そのことを理解し、高架下を通り抜け、新宿西口の都庁周辺にも似た風情の街を歩いていると、ibisはあった。70ユーロ。昨日のホテルは57ユーロ(これでもだいぶ高い)。日本円にすると8000円くらい。非常に高い。だが、時には仕方ない。何しろ疲れていた。私は倹約旅など忘れちまえとibisに部屋を取った。

ibisはパリの空港にあったものに泊まっていたので、部屋に入るとなんだか懐かしい雰囲気だった。私はテレビをつけた。ドキュメンタリー調の番組をやっている。余談だが、私にとってテレビと旅は切っても切り離せない。なぜなら、テレビはその国を映す鏡でもあるからだ。街を見ているだけではわからないことがわかってくる。例えば、ヴェトナムのテレビではたまに外国の映画をやっているが、実はこれは字幕でも吹き替えでもない。なんと、同時通訳なのだ。だからどんなに緊迫したシーンでも、どんなイケメンも、どんな美女も、みんな同じトーンの女性の声になっている。ヴェトナムにはそんな事情がある。これはテレビを見なければわからなかったことでもあると思う。ちなみにフランスで、私が大好きだった番組は、France 2で平日の23時くらいからやっているバラエティだ。ゲストたちが、「曲に合わせて口パクしろ!」とか「この商品をお題に合わせて紹介しろ!」とか「ジェスチャーで伝言ゲーム!」とかいう無理難題系めちゃくちゃゲームに挑む超くだらない番組である。確かこれは、リヨンで見つけたんだったと思う。

テレビを見ながら、明日の列車の予定を考えていると、ふと、帽子をどこかに落としたことに気づいた。多分ロビーだ。でも、正直もうヨレヨレで、かなり黒ずんでいたので、よしとしよう。どこかで買えばいい。私はそう思い、ベッドに倒れこんだ。明日は朝9時20分のTER(在来線。ユーレイルパスで無料になる)に乗って、アヴィニョンへ向かおう。それからは、それから次第。だが、アヴィニョンはあまり交通の便が良くないので、宿泊はもっといい場所に行ったほうがよさそうだ。今回のディジョンでの一件を考えれば、アヴィニョン観光は二時間。それでも、ただ列車で移動するだけの旅よりは、少しでも街を見て、風を感じたほうがいいに決まっている……とまあ、あれこれ考えているうちに、私は眠りに落ちてしまった。

 

起きると、18時くらいだ。フランスのレストランが開くのは7時から。本番は8時からだという。街を観光するのも面倒だったから、とりあえず夕飯を食べに行くとして、30分くらいは部屋にいてもバチは当たらない。

リヨンは美食の街として名高い。フォアグラが名産で、イタリア由来の独特の食文化があるらしい。そして、パリのビストロとは少し違った、大衆食堂ブションで出す料理が有名だという。全部伝聞調なのは、実を言うとまだ知らないからだ。一昨年来た時は、あいにくの日曜日であり、店が軒並み閉まっていた上に、どこにブションがあるのかよくわからず、適当なブラッスリー(レストラン)に入ったのだ。しかも、そこで食べた鴨料理マグレ・ド・カナルは「とろけるように柔らかい」という前情報とは違い、わりかし硬くて、しかも味がなかった。あの旅では食に関してハズレを引き続けていたが、リヨンよ、お前もか!(Et tu, Lugdunum!)と思ったのを記憶している。

と、なれば、である。今回は、リヨンをリベンジしてやろうではないか。リヨンの本当の力を見せてもらおう。正直、ホテル代、昼のムール貝と浪費しすぎな感はあるが、リヨンにいるのだ。真骨頂を見せてもらおう。私は闘志をみなぎらせ、ベッドから起き上がり、ガイドブックでレストラン街を探した。ホテルのある「駅のあるエリア」から川を一つ越えて「真ん中エリア」の奥に行かねばならない。地下鉄もあるが、ええい、ここは歩いてやろう。案外いけそうだ。私は珍しく計画を練ったうえで、外に飛び出した。日は傾きかけており、眩しい。サングラスを出すべきだったと後悔した。

レストラン街までの道のりは、案外難しくはなかった。というのも、ホテル沿いの道を川までだーっと歩き、途中の橋を渡り、それから目の前の大通りをバーっと歩けば、すぐ左にレストランのあるメルシエール通り。日中と違って日が陰ると風が気持ち良い。川辺は特に良くて、ゆっくり歩きたくなった。そういえば、大学の後輩がここに住んでいたという話を聞いた。随分いいところにいたもんだ……だが、まだリヴェンジを果たしていない。散歩は食後だ。私は勇み足でレストラン街を目指した。

レストラン街は見てすぐにわかる雰囲気を持っていた。狭い路地にずらりとテラスが並び、人々が食べている。少し早めに着きすぎたので、行ったり来たりを繰り返してみたが、一人、また一人と客が入る。値段は大抵一皿19ユーロくらい。だいたい2000円か。それにワインを入れると、少し高くなるだろう。小さな路地でフォークとナイフの音、人々の話し声が反響している。この街は生きていると感じられる風景だ。周りの路地も見てみたが、やはりここが一番だった。

しばらくうろついて、私はリヴェンジマッチにふさわしい店を探した。値段、客の入り含めて一番良いのはどこか。白羽の矢が立ったのは、メルシエール通りと別の通りのT字路にある紫色のモダンな装飾の店だった。看板にはしっかりとBouchon(ブション)と書かれている。しかも、テラスでは店員と常連が楽しそうに話しているではないか。

フランス語で話すということにハードルを感じていた私は、一瞬ためらいを感じつつも、この店しかない、と店に飛び込んだ。

「Bonsoir, une personne(こんばんは、一名です)」

すると髭面の若い店員は、中か外かと聞いてくる。あの雰囲気を味わいたいので、私は外を所望した。店員の言われるまま席に着くと、しばらくして、女性の店員がやってきた。フランス語だったのでわかりづらかったが、どうやら予約が入っているらしい。仕方ない。私は流れに身を任せ、店内で食べることにした。

この店のこの日のオススメは、なんと、一昨年リヨンで失敗した「マグレ・ド・カナル」だった。これはもう、運命だ。注文を取りに来た若い女性の店員に私は早速マグレ・ド・カナルを注文した。喉が渇いていたので、飲み物はビールである。

「焼き方は?」と聞かれたので、とりあえず覚えていた語彙を使ってみた。

「あー、ロゼ」ロゼとは、ピンク色のこと。だから肉がピンク色になるくらい、という意味だったと思う。

白を基調とした店内は小さく、客の入りもまばらだったが、アットホームな空間だった。二階席もありそうな雰囲気で、行き来する人がいる。部屋の奥にはバーのようなものがあって、そこで酒を出しているようだ。作り自体はカフェと変わらないが、なんとなく人を落ち着かせる空気感が流れている。

しばらくして、先ほどの髭面の店員がマグレ・ド・カナルを運んできた。鴨肉に珍しく白いソースがかかっている。付け合せはフランス名物のフレンチフライ(フリット)。店員の「Bon appétit(召し上がれ)」という言葉とともに、リヴェンジマッチが始まった。

肉を切ってみる。ものすごく柔らかいというわけではないが、柔らかい。口に運ぶ。白いソースが絡んで、とてもうまい。これは間違いない。リヴェンジマッチに勝利したのである。私は大事にマグレ・ド・カナルを食べた。このマグレ・ド・カナル、フランス料理にしては珍しく、あまり大量には出てこない代物だからだ。それにしてもうまい。臭みのない鴨肉と、バター風味のソースがうまく合っている。

食べ終わって満足し、店の外を見ていると、若い女性の店員が、

「食べ終わりましたか? いかがでした?」と聞いてきた。私は、

「C'était très bien(とてもよかったです)」といった。très bon(とてもおいしい)と言おうとして、いつも言い間違えてしまう。私は、「parfet(完璧でした)」と付け加えた。

「デザートはよろしいですか?」と聞いてきたので、私は、

「じゃあ、コーヒーをお願いします」と答えた。今日は腹の余裕はあったが、懐の余裕があるか不安だったからだ。

店員はエスプレッソコーヒーを持ってくると、おもむろにペンを取り出し、

「会計はテーブルではなく、あちらのバーで行います。コーヒーが終わりましたら、テーブル番号を向こうで教えてください」といって、紙でできたテーブルクロスに「9」と書いた。

「わかりました」私はそう言って、うなづいた。

ヨーロッパではテーブル会計が普通だ。こんな会計は初めてである。なるほど。やっぱりリヨンの食文化は、他の街とは違うのか。私は、面白いな、と思いながら、濃厚なエスプレッソコーヒーを飲んだ。美味しいけど少し重いヨーロッパ料理を食べた後は、エスプレッソに限る。口の中がさっぱりして、胃が動き出すのが感じられるからだ。私にとってのデザートである。

しばらく食休みをして、私は恐る恐るバーのところへ向かった。

「L'addition, s'il vous plaît, eh, table numéro neuf(お会計お願いします。えーっと、テーブル番号9番です)」

おそらく店長なのであろうサバサバした感じの女性が、

「parfet(完璧ですね)」とにっこり笑いながら言い、会計を出した。26.50ユーロ。チップはいらないと何かに書いてあったので、ちょうどの金額を払い、Merci(ごちそうさまでした)と礼を言って外に出た。外はまだ明るい。

 

その後は、川沿いを歩き、それから一昨年行ったパン屋と公園を探してみた。結局見つからなかったが、一昨年行った広場には行き着いた。真ん中にはルイ十四世の騎馬像がある。フランスで20時は夕暮れ時なので、広場も夕焼けに包まれていた。リヨンはもういいかと思っていたが、なんの巡り合わせか、来てみてよかった。一昨年の旅の記憶と、今年のリベンジ。リヨンの街は祝福してくれているようだ。広場を抜け、大通りを歩こうと横断歩道を待っていると、一昨年泊まったユースホステルのある山が夕焼けに染まっている姿が見えた。今度来るときは、この街で何をするんだろう。私はそんなことを思いながら、大通りを歩き、川を渡って、ホテルへと向かった。

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明日は、ついに南仏のアヴィニョンへ出発だ。

2都市目:ディジョン〜Carry that Weight〜

5時半頃にホテルをチェックアウトして、ホテル・ル・クレベールを出ると、案の定空は真っ暗、そして小雨が降っていた。コートのボタンを留め、トラム乗り場に行ってみたはいいが、乗り方がよくわからない。トラムを待っている女性に聞いてみて、なんとかチケットを手にすると、目当てのトラムに乗り込んだ。こんなに暗いのに、治安はそれなりに良さそうである。また来るときは、もう少し長く滞在してみたい、観光というよりも暮らしてみたいと思えるような街だった。だが、今回はもうお別れである。

中央駅(Gare Centre)でジュースを買い、列車に乗る時には、徐々に日が昇り始めているところだった。約二時間ほどの旅だ。着くのは8時15分くらい。朝食はディジョンで何か温かいものを食べよう。などと考えているうちに高速列車TGVは南西に向かって動き始めた。車窓を見ると、どこまでも続く緑の畑が見える。パリからストラスブールへの列車でも見えたのだが、フランスのこの辺りの風景は、広大な田園とその真ん中に見えるちょっとした村でできている。その村の真ん中には必ず高い尖塔のある小さな教会が見えた。村の真ん中に教会、小規模な家の集まり、そしてそれを取り囲む田園。その構図は歴史の資料集で紹介されるヨーロッパの都市の特徴そのものであり、なるほど、一緒くたにヨーロッパと言われてるのはここなんだなと思った。それにしても、こういう村の暮らしはどうなっているんだろう。みんな知り合いなのだろうか。スーパーはないのだろうか。あるいはもう進出してきているのだろうか。外の世界を夢見ているのだろうか……私はこの村の住人ではなく、列車の中にいる。そんなことすら不思議に思えてくる……

列車は国境の街ストラスブールからアルザスの土地を南西へと抜け、スイスの隣に位置するフランシュ・コンテを通過して、ブドウ畑が広がるブルゴーニュ地方へと入った。目的のディジョンはこの地方の中心都市である。この地にはかつて、ブルゴーニュ公国と呼ばれる独立国家があった。少し今回も歴史に思いを馳せてみよう。

 

時は紀元476年。イタリア半島よりも西のヨーロッパを勢力圏としていた「西ローマ帝国」が滅亡した。この国は、かつて北は現在の英国、西はモロッコポルトガル、南はエジプト、東はシリア・トルコまでを支配したローマ帝国が東西に分裂してできた片割れである。強大な帝国が分裂し、その西部分が滅亡した理由はさまざまあるが、その一つの理由は、ゲルマン人と呼ばれる今のドイツに住んでいた民族が大挙して西ローマ帝国領内に押し寄せて、勝手に国を作ったからだった。そんな中でできた国にブルグント王国がある。これは今のフランスの東部一帯を支配する王国だ。そしてこの「ブルグント」、フランス語読みにすると他ならぬ「ブルゴーニュ」になる。このブルグント王国は始めこそ力を持ったものの、フランスの北部を中心に勢力を拡大していた大国フランク王国に敗れ、滅亡。その後フランク王国が弱体化すると、その領土内では幾つかの小国が争うようになるが、現在ブルゴーニュと言われる地方はフランス王の支配下に入った。とはいえ、フランス王が直接支配するにはいかんせんブルゴーニュは遠い。そこでフランス王はそこに公爵を派遣し、支配させた。かくして「ブルゴーニュ公国」が整理するのである。ところがこれがフランスにとっては痛手となった。それは特に、フランス王国の王家がカペー家からヴァロワ家に変わり、ブルゴーニュ公爵の地位もヴァロワ家になってからのことである。

ブルゴーニュ地方の北には先ほども紹介したフランシュ・コンテやアルザスがあるが、そのさらに北にはフランドル地方がある。今のベルギーだ。ここは当時、毛織り物、とどのつまりは服やカーペットなどの生産で有名だった。ヨーロッパは寒いので、こういった商品は売れる。そのため、フランドル地方は経済の中心となっていた。時のフランス王の弟でブルゴーニュ公爵となったフィリップ豪胆公はフランドルを支配するフランドル伯爵家の女性と結婚し、なんとこの地方を手に入れてしまう。フランス王国としては、国王家の人間がフランドルを手にしたのはありがたい話のはずだったが、問題はその後である。

当時、フランス王国イングランド王国との百年戦争を遂行中だった。フランス国王は精神を錯乱、側近たちはそんな宮廷の中で権力争い。フランスに勝ち目はなかった。そしてそんな宮廷の中で権力争いをしていたうちの一人がブルゴーニュ公爵だった。間のゴタゴタは端折るが、なんとフィリップの次の公爵ジャンはイングランドと同盟したのである。経済の中心を手に入れ、裕福なブルゴーニュ公国が、フランス王国を見限り、イングランドと同盟する。フランス王国はこのことにより、かなりの痛手を被った。一方のブルゴーニュ公国は、ジャンの次の代のフィリップ善良公の時代に最盛期を迎え、フランドル地方ではファン・エイクなどの画家が活躍し、宮廷では優美な騎士道物語と言われる物語や音楽が流行った。食文化もかなり進み、上質なワイン、エスカルゴ(かたつむり)料理、そしてマスタードが生まれた。フィリップ公爵はしたたかな外交を行い、イングランド不利と見るやフランスに傾いたが、独立国家としての体裁は保ったままだった。次の王シャルル突進公は領土拡大を求め、近隣諸国との戦争を繰り返した。その前に立ちはだかったのが、百年戦争イングランドになんとか勝利したフランス王国だった。百年戦争の英雄シャルル七世の子、ルイ十一世は巧みな外交と陰謀戦略によってシャルルと対峙、ついにシャルルが戦死すると、ブルゴーニュを手に入れ、晴れてこの地もフランス王国のものとなった。そして、今に至るわけだ。

 

ディジョンに到着すると、私はトイレを済ませ、街の中心に出ることにした。外に出るとかなり寒い。パリやストラスブールよりも寒い気がした。アルプスが近いためか、それとも、単純に朝だからなのか。10kgのリュックを背負って、街の中心へと伸びる一本道を歩く。道の真ん中にはトラムが走っていて、街の色は明るいベージュである。しばらく歩くと公園が見えてきて、公園の目の前には由来のよくわからぬ大きな凱旋門風の門があった。門のそばに朝食を食べられそうなところは幾つかあったが、とりあえず街の見物だ、と門を超えてみたり、有名らしい緑の尖塔が美しい教会の方に行ってみたりしたが、いかんせん朝8時なので人がいない。いいかげん朝食を食べよう。私はそう思い直して、凱旋門側のカフェに入った。後々知るが、この、リアルなクマの顔がトレードマークの「コロンブス・カフェ」はチェーン店である。

「ボンジュール」と挨拶をし、陳列棚を見る。何かパンが食べたい。するとクロックムッシューに目が止まった。パリで会うはずだったRくんの友達のHくんに日本であった時のことだ。「フランスに行くんなら、クロックムッシューを試すといいぜ。クロックっていうのは、なんていうか、その、むしゃっと食べること。ムッシューはムッシュー(旦那)。わかるだろ? カリカリのパンの上にハム、その上にはチーズが乗ってて、すげーうまいんだ」と、彼はオススメしてくれた。そうだ、いまこそクロックムッシューを食う時だ。わたしはクロックムッシューとカフェ・オ・レをオーダーした。フランスの朝といえば、カフェ・オ・レと聞いたことがあったからだ。店員のお姉さんは、「あいよ」と頷き、クロックムッシューを電子レンジに入れた。それから、「コーヒーの大きさはどうなさいますか?」と私に聞きながら、カップの大きさを見せる。とりあえず、クラシックってやつにしておいた。そうこうするうちにクロックムッシューとカフェ・オ・レが出来上がった。800円くらい。安くはないが、高すぎでもない。私は肌寒いテラス席へと向かった。

クロックムッシューは電子レンジで温めたやつだったが、中がとろっとしていて美味しかった。カフェ・オ・レも朝にぴったりのまろやかな味である。テラス席は始めは客が1人だけだったが、徐々に増えてきた。フランス人の朝はどうやら遅いみたいである。しばらく肌寒さと朝食のあたたかさのギャップを楽しみながら時間を過ごした。人通りが増えるのを待つという意味もあった。

しばらくして、私は再びメインの道を歩いてみた。人通りは以前まばらだったが、体があったまったこともあって、気分は好調だった。建物はベージュ、屋根は紺っぽい。その屋根から赤い煙突がちょこっと頭を出している。そんな建物がディジョンには並んでいた。そして空気はあいからわずキーンと冷え込んでいた。時折、古そうな木と漆喰の建物がある。だが、ストラスブールのそれとは雰囲気が違う。何が違うのかは説明しづらいのだが、おそらく屋根の作りに違いがあるようだ。それに、ディジョンの建物の方がずっと背が低い。ずっと歩いて行くと、ウィルソン公園という公園に突き当たった。私はそこで少し休むことにした。それは、あまりに荷物が重かったからである。私のリュックは全てを詰め込んだため、10kgもある。それを背負って街歩きはさすがにきついのだ。しばらく公園のベンチに座って、体力の回復を待った。

 

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案内板を見ると、どうやらこの公園から伸びる道を行けば、ブルゴーニュ公爵の住んでいた宮殿に行けるらしい。私はひとまずそこに行くことを目標とし、重い荷物をまた担いで、道を進んだ。途中で巨大な教会にいきあたったり、劇場の前に着いたりしたが、徐々に、荷物の重さに私の精神は蝕まれていった。

しばらく歩くと、地面が突如大理石になった。そこは紛れもなく、公爵の宮殿の前の広場だった。噴水があり、昼に近づき風も気持ちよく、空は真っ青だった。私は宮殿の前にある石でできた椅子に腰掛け、ひとまず荷物を置いた。中に入ろうと思ったが、こういうところはこの大荷物では入れないだろう。私は断念し、外側からその歴史を感じることにした。宮殿から突き出たタワー、そしてこの美しい広場全体が、在りし日の公国の栄華を物語っている。私はふと、芭蕉の「夏草や つわものどもが ゆめのあと」という歌を思い出した。これは東北地方に君臨した奥州藤原氏の都平泉が廃墟となっているのを見て歌った歌だ。正直、ディジョンには全くふさわしくない。なにせ、未だにここまで美しいのである。だが、この土地がかつてはフランスから独立せんばかりの勢いだったことと比べて、日本での「ディジョン」の無名さはなんということだろう。パリ、マルセイユ、リヨン……最近ではストラスブール知名度を獲得してきているが、ディジョンなど誰が知ろうか。歴史とは気まぐれだ。

そんなことを思っていると、家族連れのおじさんがフランス語で、「!£*™(‡°·フォト?」と聞きながらスマートフォンを差し出してきた。写真を撮ってくれということか。わたしは「ウイ(はい)」と答え、写真を撮った。「ボンジョルネ(良い1日を)」と家族全員が言ってくれたので、私も「ボンジョルネ」と返した。気持ちの良いところだ………そう、このリュックさえなければ。

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リュックを背負い、昼食場所を探しながら町歩きを続けることにした。昼食場所と言えば聞こえがいいが、名高いブルゴーニュワインが飲みたい、という魂胆である。相変わらず重いが、仕方あるまい。しばらく歩き、私は街の中心のようなところに出た。先ほどと違って、人でごった返している。真ん中にはメリーゴーラウンド、それを取り囲むのは古い木と漆喰の建物。メリーゴーラウンドはストラスブールの広場にもあったから、不思議なもんだなあと思った。

広場の周りには幾つかレストランがある。だが、朝ごはんにはまだ早い。私はとりわけ人にいる方を目指して歩いた。すると、大道芸人の音が聞こえ、狭い道にさらに人がたくさんいる。どうしたものかと思っていたら、そこはなんと、市場であった。市場があったら入れ。それが私の旅の掟。リュックは重く、私の肩に食い込んでいるが、私は市場に入った。

魚、肉、野菜、そしてワインスタンド。活気と生臭さで満ち溢れている。最高だ。だが、一つ問題がある。リュックが重いのだ。無理して歩いたためか、徐々に頭痛までし始めていた。良い市場なのに楽しめない。私は休むことにして、市場から一度出た。が、座る場所が見当たらない。階段があればいい。だが階段もない。私は歩き回った末、ベンチを見つけて、座った。ひとまずの休憩である。負荷がかかっているせいか、太もももパンパンだ。

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しかし、座っていると、どうしても市場に行きたくなってくる。私は、回復した、と判断し、また街の中心へと向かった。だが、重いせいなのか、逆に「ワインスタンドに入ってみよう」とか、「何が売られているか見てみよう」とかいったことを考えられない。ワインスタンドの椅子は高く、リュックをどこに置けば良いのだろう、と考えてやめてしまった。だが、もはや限界だったため、私は地元民で賑わうカフェに入った。

注文の仕方がよくわからないので、店内にいるおばさんに、「一人です」と告げる。するとおばさんは警戒した感じで、「何が欲しいの?」と聞いてきた。私はとりあえず思いつきに任せて、「コーヒー」と答え、適当なところに座った。あまり余裕がなかった。しばらくしてコーヒーが出てきたので、私はコーヒーを飲んだ。フランスでコーヒーと言えば、エスプレッソのことだ。小さいカップに濃厚なコーヒーが入っている。

観察していると、どうやらおばさんに注文し、椅子に座るのが流れらしい。あるいは、外側の席に陣取ってしまうのが正しいようだ。するともう一人のおばさんがオーダーを取りに来る。なるほど。何事も慣れである。ストラスブールにはカフェがあまりなかったから、練習ができなかった。

しばらくして、私はこの店を出たが、うまいレストランを探す気力もなく、とにかく駅の方へと向かった。だが、ブルゴーニュに来てブルゴーニュワインを飲まずに別の都市に移るわけにはいかない。そう、ディジョンに泊まるつもりはなかったのだ。とりあえず、今日のうちに南のアヴィニョンへと移るつもりだった。それもこれも、フランスを抜けてスペイン入りを果たすためである。今思えば、泊まっておけばよかったとも思う。なんにせよ、もうディジョンとはお別れだった。私はワインを飲むべしと目に付いた賑わっていそうな店に入った。

「いらっしゃいませ。テラスにいたしますか、それとも店内ですか?」とウェイターが言うので、わたしはテラスを選んだ。哲学の世界では「外的」と訳される「extérieur」が「テラス席」を意味するということに若干面白さを感じながら。「外的善」は「テラス席の良さ」である。いいではないか。

メニューを開けてみて驚いた。割と高いのだ。これはまずい。名物のエスカルゴでも食べようかと思ったが、エスカルゴ12個ではお腹が空いてしまう。私は次点で一番安かったムール貝のワイン蒸しと、ブルゴーニュワインで一番安かったピノ・ノワールを頼んだ。ワインはすぐに運ばれてきた。フルーティーでまろやかでおいしい。フランスワインの渋みの強いイメージとはだいぶ違った。やはり、現地で飲めてよかった。しばらくしてムール貝が運ばれてきたが、これがえげつない量である。店員同士の会話を解釈するに、きっとこれは一人分ではないのだろう。だが、頼んだんだ。もう意地でも食ってやる。私はムール貝の鍋に突っ込んでくる蜂やハエたちと格闘しつつ、うまいワイン片手にムール貝との戦いを始めた。とはいえ、相手は貝。実を言うと案外簡単に食べ終わってしまった。問題は付け合せのポテトだったが、それもなんとかなった。食後にコーヒーを頼み、アヴィニョンまでの行き方をスマートフォンで検索した。

すると、である。どうやらアヴィニョンまでの列車は出ていない。必ずリヨン乗り換えである。どう調べても、そうなる。今のリュックを背負って歩いて疲弊した体には、それは非常に面倒だった。しかもアヴィニョンという街を知らないので、ホテルも取らねばならないかと思うと気が遠くなった。それなら‥‥‥リヨンに泊まれば良い。リヨンは一昨年行った町である。また行けばいいじゃないか。しかも、ディジョンからリヨンの列車は、予約料なしで乗れるTERだった。私は行き先を急遽変更し、リヨンへ行くことを決めた。

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1都市目:ストラスブール(2)〜戦争と平和の狭間の街〜

ストラスブールの教会は、歴史の積み重ねを感じさせる場所だった。赤みがかった石の一つ一つに歴史が刻み込まれている。天井の高い巨大な空間全体が、歴史を語っているようだ。そしてその古くから続く祈りの場にはなにやら神がいそうな気もしないでもなかった。静謐、荘厳。ここ以上にその言葉がふさわしい空間はない。

教会の構内の端には小さな部屋があり、そこにはなぜかコペルニクスのモチーフのされた巨大で程よく豪華な機械時計がある。時間になると何がしかのからくり装置が動き、時を知らせるらしく、大勢の人々がそれを待っている。私も待ってみたが一向に始まる予感はない。時計を見てみると、時計は半端な時刻を指している。どうやら、ここにいる人たちは待っているのではなく、余韻に浸っているようだった。私はその場を離れ、教会の中のベンチに座った。人々が祈るベンチに座ってこそ、教会の本当の効果がわかる。なぜなら、教会は信者が神を感じられるように作られているからだ。しばらく座り、祭壇を見つめると、そこにはやはり、何かがいるように思えてきた。

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教会を出ると、入る前には降っていた雨がひとまず止んでいた。だが、快晴とは言えない。空は曇り空。またいつか雨は降りそうである。私はキンと冷えた空気の中、ストラスブールの街を歩くことにした。あてもなく、ただ、ただ、心の行くままに。石畳から石畳へ。木と漆喰でできた建物から、石造りの建物へ。アルザス語の本がないかと本屋にも入ってみたが、どうやらなさそうだった。ホテルで紹介されたレストラン街に行ってみるが、時間も時間なので空いている店はない。あたりだけつけて、歩いた。

しばらく歩くと、木と漆喰の古い建物が川沿いに並ぶ静かな界隈にたどり着いた。後で調べると、そこは「プティット・フランス(小さなフランス)」というらしい。だが、その見た目はどう見ても、フランスというより、ドイツのロマンス街道である。川には船が浮かんでいて、遊覧船になっているようだ。ストラスブールの町は川で囲まれており、それが堀の役目を果たしている。だからきっとこの川を一周するだけでもだいぶ楽しいのだろうなと思った。だが、今回は節約旅行。あまりそういうものには手を出すまい。私はひとまず木と漆喰の街並みの方へと歩いた。

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しばらく街をうろついていると、私はいつの間にかクレーバー広場に戻ってきていることに気づいた。石畳のせいもあってだいぶ足が疲れていたので、私は広場の一角にある店に入って、ビールを頼んだ。アルザスはワインで有名だが、ドイツ文化が濃厚なのだ、ビールくらいあるだろう。案の定、出てきたビールは全く知らない銘柄で、さっぱりとした味わいの少し白く濁ったビールだった。「シュトリク」というらしい。疲れに染み渡る味である。フランスやスペインはワインの国だが、足が疲れている時や、暑いときはいかんせんワインは重っ苦しい。古代ローマ人はワインに水を混ぜていたというが、確かにワインだけでは「飲み物」としてはあまり良くないような気がする(食べ物に合わせるのには抜群だが)。そういうときはどうしてもビールが良い。

会計を済ませ、再び街に出た。そろそろ夕飯の時間だ。レストラン街に戻ってみたが、当たりをつけたとは言え、どこに行けばいいのかよくわからない。アルザス名物は「シュークルート」。シューはキャベツ、これは要するにドイツ名物「ザウアー・クラウト」のことだ。酸っぱいキャベツの漬物である。漬物だけか、と思うことなかれ。この漬物に、ソーセージやベーコンやジャガイモを合わせるのがシュークルートだ。とはいえ、完全にドイツ料理であることに変わりはない。だが、ここにきたからにはこれが食いたい。

そうはいっても、どの店も大抵は置いているようだ。私は値段と雰囲気で選ぶ作戦を決行した。趣のあるレストランはあまりに高く、安い店は観光地っぽすぎる。そうやって色々と選別する中で、私は川に近いアルザス風の漆喰と木の建物にある「ヴィンシュトゥプ(ワインを出す大衆居酒屋)」を見つけた。そこのシュークルートはそれほど高くなかった。しかも雰囲気もいいし、店内にそれなりに人もいる。雨脚が突然強くなったこともあり、私は店に入った。

「ボンソワー(こんばんは)」と言いながら店に入ると、声の高い若いんだか歳をとっているんだかよくわからない店員が出てきて、席に案内した。せっかくなので私はシュークルートともにアルザスワインを頼んでみた。ドイツのワインと同じく、白ワインが充実しているみたいだ。

ワインとともに、プレッツェルのお菓子が出てきた。いよいよドイツである。私はワインをちびちび飲みながらプレッツェルを食べた。面白いのは、店内の空間はドイツっぽさがあるのは当然だが、店員同士はドイツ語に限りなく近い言葉で会話をしていることだ。そして、接客のときはフランス語に切り替わる。

しばらくするとシュークルートが出てきた。ものすごく多いが、かつてドイツに住んでいた身としては何処と無く懐かしい香りがした。真ん中に盛られたキャベツの漬物の周りに、太い二本のソーセージと分厚い二枚のベーコンが置かれ、ジャガイモがその周りに陣取っている。

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写真で見るとそうでもなさそうだが、一つ一つがヘヴィーなので、初めはうまいうまいとパクパク食べていても、最後のベーコンくらいになると、ちょくちょく休まないと食っていられなくなる。途中でワインが底をつき、ペリエを頼もうと手を挙げると、

「食べ終わったの?」と店員が言ってきた。アジア人と思って舐められては困る。私は首を振り、ペリエを頼み、休みながらもなんとか大量のベーコンを食いきってやった。

アルザス語で「セテ・デリシウ(おいしい)」ってなんていうんですか?」と、私はコーヒーを頼む時に聞いてみた。

「ゼーシュ・グート」と店員が言うので、わたしは

「ゼーシュ・グート」と言ってみた。完全に、ドイツ語ではないか。店員はにっこりと笑って、「メルシー」と言った。

不思議なもので、苦いエスプレッソコーヒーを飲めば、どんなに大量の料理を食べた後でも、スッキリして、完全復帰できる。私は会計を済ませ、まだうっすらと明るいストラスブールの街に出た。ヨーロッパの夏の1日は朝7:30ごろに始まり、夜9:00ごろに終わる。夜9:00ごろにやっと日が落ちるのだ。もう8時くらいだったが、日本でいうなら5時くらいの明るさである。

ホテルに向かって歩いていると、喉が渇いているのに気づいた。それに、部屋で飲むための水も欲しかった。だが、スーパーのようなものが見当たらないし、ヨーロッパの街は8時を過ぎると機能を停止する。店はもうほとんどやっていない。これはこまったぞと思いつつ、私はクレーバー広場の当たりをぐるぐると歩いた。すると、救いの光のように、アイスクリーム屋がやっているではないか。水も売っているようだ。私はひとまずその店に入り、移民系の店員に、

「ドゥ・ロー、シルヴプレ(水、クダサイ)」と言った。すると店員は「£$^^$%^ブテイユ%^**(^*%&&^?」と聞いてくる。ブテイユとは「ボトル」のこと。私はうなづいて見せた。すると店員はコップを取り出し、蛇口をひねり始めた。そうか、私はブテイユではない方に頷いてしまったようだ。

「ノンノン、ブテイユ(チガイマス、ボトル!)」と慌てていうと、店員は一瞬戸惑ったが「ははは」と笑ってボトルの水を私にくれた。フランス語、まだまだだなあ、と思いながら、まあ1日目だ、こうやって成長する、と自分を励まして、私はホテルへと向かった。明日の朝は、ディジョンへ向かう。

1都市目:ストラスブール(1)〜戦争と平和の狭間の街〜

パリのシャルルドゴール空港についた次の日、私はフランス版の新幹線とも言えるTGVに乗って東の果てのストラスブールを目指した。TGVは値が張るが、私はユーレイルパスという青春18切符のようなものを持っていたので、予約料だけを払えばよかった。パリからストラスブールまではだいたい2時間かかる。

正直、前日のフライトで私は疲れ切っており、ホテルを探す気にもなれず、ホテルはネットで予約をした。電車内でも、ひたすら車窓を眺めていた覚えがある。電車が駅に着くと、力を振り絞り、10kgあるリュックを背負って、駅へと降り立った。駅はヨーロッパの伝統的なスタイルのものだった。石造りの駅舎の真ん中に何本か線路が通っており、それを挟むように幾つかプラットフォームがあって、駅構内から直通していないプラットフォームに行くには、地下通路を通じてゆくしかない。そして、改札は存在せず、ただチケットに刻印をする黄色い機械が階段のそばに置かれている。だが、ストラスブールには独特の作りがあった。それは、古い石造りの駅舎を覆うように存在する、モダンなガラス張りの球状の構造だ。古さの新しさが混在する雰囲気が醸し出されていた。

翌日6時20分のディジョン行きの列車を予約し、街へと繰り出すと、なんとなく体の疲れも心の気だるさも風に洗い流されるような気分になっていった。不思議なことだが、街が、「さあ歩こう」という気分にさせてくれたのである。パリほどではなかったが、コートを羽織っていてちょうど良いくらいの温度の風が街を吹き抜け、空は曇天であったが、少しゴミゴミとした古い街並みを見ていると、外へと向かう気力も出てくる。私は街の中心地へと向かった。街の中心地にあるクレーバー(クレベール)広場に、ホテルがあったからでもあった。

街全体はどこか賑わった様子で、建物は背が高い。フランスの端というイメージがあったので、思わず「案外都会だな」と思ってしまった。よく考えれば、ストラスブールはドイツとフランスというEUの二大大国の狭間にあるわけで、交通の要衝でもあるのだろう。くだんのクレーバー広場の真ん中には仮設ステージがあったが、何かをするような雰囲気があるわけではなかった。私は広場の一角にある小さなホテルに入った。

「J'ai réservé une chambre(部屋ヲ一ツ予約シマシタ)」

とロビーにいた若い女性に伝えると、私の名前を尋ね、部屋の鍵を渡した。そのあと何事かフランス語で言ったが、正直聞き取れない。だが、「ディズール(10時)」と「フェルメ(閉まる)」と言っているので、おそらくロビーが10時で閉まるのだろう。早いな、と思いながら、私は頷いた。次は朝食の話だ。明日の列車は6時20分なので、いらないと答える。するとまた何事が言っている。今度は本当にわからない。聞き返すと、彼女は英語に切り替え、説明した。車はあるか?と。あるはずもないので、ない、と答えた。

話を聞いてみると、どうやら駅までの移動手段のことらしい。これはありがたい話だった。なぜなら、駅までの道は長く、そこまで治安も良好というようには見えなかったからだ。明るいうちなら良いのだが、明日は早朝の列車。カンボジアプノンペンで早朝のバスを降りて一度怖い目にあっているので、もうあれはゴメンだったのだ。是非、使いたい、というと、電車か車かどっちがいいかと聞く。駅までそこまで遠くない。私は電車を選んだ。正確には、路面電車すなわちトラムである。トラムの駅はホテルのすぐそこにあるらしい。私は手続きを終え、手動でドアを開ける方式の狭いエレベーターに乗り、ホテルの部屋に入った。部屋はちょうどよく狭い。私の好きなタイプの部屋だった。だが、1日の滞在だ。青年よ、ホテルを捨てよ、町に出よう。そんなわけで、私はロビーに鍵を預け、地図をもらい、レストランのある場所だけ聞いて、肌寒い外へと繰り出した。

 

ストラスブールは、先ほども言ったように、フランスとドイツの狭間にある。ストラスブールを中心都市とするアルザス地方と隣接するロレーヌ地方は、兼ねてからフランスとドイツという二つの大国の係争地帯となってきた。なんどもストラスブールというフランス語の名前とシュトラスブルクというドイツ語の名前をいったりきたりした。ことの起こりは1648年に結ばれた「ヴェストファーレン条約」である。それまではドイツ地方(その当時はドイツという国は存在せず、小さな国家が寄せ集められていたためこういう言い方をすることにする)を統合する「神聖ローマ帝国」の一員だったアルザスとロレーヌが隣国フランス王国に併合されたのだ。この条約は、当時支配的だったカトリック教会のやり方に反発するプロテスタントと立場を守りたいカトリック教会との泥沼の戦い「30年戦争」の講和条約だった。だが、この戦いは最終的に政治闘争の様相を呈し、カトリック教会と結ぶ神聖ローマ帝国と同じくカトリック教会と結んでいるが神聖ローマ帝国を潰したいフランス王国の戦となっており、アルザス=ロレーヌもその関係で争われたのである。そして、この地方は1871年までフランスのものであり続けた。だが、この地方に住む住民はドイツ系で、ドイツ語に似たアルザス語を話していた。

状況が変わるのは、ドイツ地方の完全統一をもくろむ北のプロイセン王国ナポレオン三世フランス帝国に仕掛けた「普仏戦争」だった。民衆の要望に応える形で踏み切られたこの戦いはフランス不利の戦況で進み、ついにはスダン要塞でナポレオン三世プロイセン軍によって捕虜にされるという形で戦争は終結へと向かう。プロイセン軍はそのままパリへと進軍し、絶対王政時代の中心ヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国の建国を宣言するとともに、フランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を認めさせた(割譲されるアルザスの様子を描いたのが、「最後の授業」という物語だ)。

1914年、ドイツ帝国が東欧の混乱に首をつっこむ形で第一次世界大戦が勃発すると、フランス共和国ドイツ帝国に対して宣戦布告をし、アルザス=ロレーヌ地方の奪還を目指した。アルザス=ロレーヌに位置するナンシーやヴェルダンは激戦地となった。フランスはかなりの痛手を被ったが、アメリカの支援もあってフランス側が勝利するとフランスは、奇しくもドイツ帝国の建国とアルザス=ロレーヌ割譲が宣言されたヴェルサイユでの講和会議で、ドイツから莫大な賠償金とアルザス=ロレーヌの奪還をドイツ政府に認めさせたのだった。

そして話はまだ続く。1933年にドイツで成立したヒトラー率いるナチス政権は、1939年に第二次世界大戦が勃発するとフランスに進軍、アルザス=ロレーヌを併合したどころか、最終的にはパリも含めたフランスの北半分を併合し、南半分をフランス人による傀儡政権「ヴィシー政権」の領地としてしまった。その後、北部ノルマンディー地方からアメリカ・イギリス・ドゴール将軍率いる自由フランスなどからなる「連合国軍」が上陸すると、フランス一帯は解放され、ドイツ敗戦後はアルザス・ロレーヌは再びフランスのものとなった。戦後、EU構想が持ち上がる中、ドイツとフランスは積年の争いに終止符を打つべく、この地にEUの機関を置いた。「欧州の平和はアルザス=ロレーヌにあり」と。

 

街を歩いてみると、やはりこの土地はドイツ文化の町なのだと気づかされる。例えば、アルザス語である。街を歩くと、フランス語ではない言葉を喋る人がかなり多いように思うが、私にはそれがアルザス語なのか、ドイツ語なのか判別できない。だが、レストランに入ってみると、その言葉で店員同士が話しているので、この言葉が未だに「生きているのだ」と気づかされた。さらに、標識は、フランス語とアルザス語のに言語表記だが、見てみるとやはりドイツ語みたいである。店の名前だってドイツ語みたいなものが並んでいる。ドイツ語がわかる方なら、下の写真を見て、読んでみればわかるはずだ。

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「リュ・ドゥ・ラ・アッシュ=アハトゲッセル」

「リュ・ドュ・サングリエ=ハーヴェァグラース」

街並みも、パリなどとはだいぶ違う。市の地区の紋章が並び、建物は木と漆喰でできた背の高い建物である。おそらくすべて石でできた教会は天まで届きそうな大きな塔があり荘厳だ。フランスというより、南の方のドイツのような雰囲気がある。看板の文字はドイツ特有のひげ文字で、居酒屋には「Winstub(ヴィンシュトゥプ)」。テラス付きのカフェは少ない。

私はストラスブールでやることも指してなかったので、とりあえず目に入った巨大な教会の中に入った。それは街の中心部にあり、レストラン街のそばらしいが、おそらく街で最も有名な教会のようだ。かなりの行列ができている。私はそこに並び、順番を待った。教会前の広場では、四人組の軍人が銃を持って歩いている。平穏そうに見えるがフランスは未だ非常事態宣言発令中の国だ。軍人の姿を見ると、それをありありと見せ付けられることになる。どうやらストラスブールはフランスとドイツの狭間にあるせいか、厳重注意のようだ。かなりの軍人がパトロールしていた。

そうこうするうちに、私の番が回ってきたので、私は教会の中に入った。

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Dreadful Flight

   一ヶ月間西ヨーロッパを旅する、という計画が生まれた経緯は突拍子も無いようなものだった。
    わたしは学科の友人とアンリ・ベルクソンという知っている人は名前だけ知っている、知らない人は名前すら知らないという少々ニッチなフランスの哲学者の本を読む会をしている。その友人たちと話している時に、「ベルクソンはパリを拠点にしてたから、その「聖地巡礼」をしようじゃないか」という話になったのだ。これをきっかけに、メンバーでアパルトマンを借りて一週間パリに住むという計画がスタートした。だがわたしは一週間行くのなら、その少し前にヨーロッパを旅したいと思った。そういうわけで、十日間のひとり旅、五日間のフランス語学留学、そして四日間の西部フランスひとり旅+1日のホームステイ、それから一週間の「読書会合宿」という日程で動くことになった。そして今、わたしは最初のひとり旅パートの半分を過ぎ、スペインの首都マドリードにいる。

 

   今回の旅には、値段の関係と、ちょっとした好奇心から、ロシア経由で向かった。
わたしは旅するのは好きだが、飛行機は割と苦手で、途中で気分が悪くなるのが常である。10時間のフライトはまだ精神的に余裕があったが身体的な負担はあったようでモスクワに到着しても、お腹の調子が芳しくない。元気を取り戻すために早速ボルシチを食べてみたり、オレンジジュースを飲んでみたりしたが、どうも体が戻らない。ジュースは不思議なまでにうまかったが、体はけだるく、重かった。

   その流れでの四時間のパリへのフライトはなかなか辛いものがあり、機内では眠ってごまかすしかなかったが、天候が悪いのか(オーストリアにいる友人がすごい雨だったと行っていたのでおそらく天候が悪いのだろう)、ものすごく揺れる。このまま生き絶えるのではないか、などとありえないことを考えながらわたしは寝たりおきたりを繰り返して4時間をやり過ごした。
   そんなこんなでパリのシャルルドゴール空港に到着し、空港近くのホテルに泊まった。もちろん、体の調子は良くない。翌日はパリ市内にも入らず、パリを素通りして、ドイツ国境の町ストラスブールに入る予定だ。はじめは、カナダで仲良くなったフランス人のRくんとパリで会う予定だったのだが、彼のカナダへのフライトが早まり、ちょうど入れ違いになるということになって計画は頓挫してしまった。まあ今パリを見なくても、どうせ三週間後には散々見ることになるんだ、と悔いは全くなかった。それにRくんともついこの間東京であっている。

 

   七月の終わりに、Rくんは友人二人とともに東京にやってきた。「お前はいつパリに来るんだ?」と冗談めかしていう彼に、「この八月に行くよ」というと、その場にいたカナダで一緒だった日本人たちもふくめて驚いていたのを覚えている。Rくんはモントリオールで経済を学ぶらしく、今頃はモントリオールだろう。ちなみにRくんと一緒に日本にやってきた二人とは、わたしがパリに入った時に会うことにしている。

 

   到着の翌日、わたしは12時45分の列車でストラスブールへと向かった。

On my life

この前、生きることと死ぬことの話をした。発端は、ある高校生が、死んだ後に魂だけになるのが怖いと言ったことだった。

その時、友達が「死んだ後のことはわからないから、怖くない」と言っていた。死んだ後にはもしかするといいことがあるかもしれない。悪いこととは限らない。だから、死ぬことを恐れることはない、と。私はそれを聞いて、半分賛成半分反対というような感じであった。

私も昔死ぬのが怖かった。それは、あの高校生が言っていたように、死後の世界に行くという怖さと、本当に行けるのかという怖さだった。自分の意識がなくなってしまう。今は一生続くと思っているような意識が、なくなるとはどういうことなのか、そのわからなさが怖かった。だが、年をとるにつれて、あまり考えなくなった。

 

一つは物理学をやったことのおかげだった。この宇宙には、「エネルギー保存の法則」というものがある。それはいわば、エネルギーというものを平に保つ法則だ。そう考えると、自らエネルギーを生成するという生命のあり方は、この法則を大幅に逸脱したものである。そうすると、必ず人は死ななければならない。どんなに不老不死の技術を施そうとも、それを維持するには、「維持し続けねばならない」ので、際限がなくなってしまう。放っておけば、エネルギーを発散しながら、ついにはエネルギーが一定の、つまり「死」という状態にならざるをえないのである。中学の時物理学の本を読んでいて私は子供ながらにそう思った。なぜだかわからないが、諦めがついた。宇宙全体が自分を殺しにかかるなら、もう、それは受け入れざるをえない。

そういうわけで、私はもう悩まなくなった。というより、悩んでも仕方がないと思うようになった。死ぬ時は死ぬんだ。でもそれは今じゃない。それならいいではないか、と。この種の問題は、時に考えないことが一番の解決策であり得る。

 

そもそも、私たちは死後の世界を知らない。私たちには生きている世界しか見えない。それは仕方のないことだ。そして、想像も、論理も、なんらかの材料がなければ始まらない。馬も鳥も知らない人はペガサスを思いつくことすらない。だから、死後の世界をどう頑張って考えてみたところで、私たちは自分たちの世界をベースに考えるしかなく、単なる妄想でしかないのだ。それが、人の心を安心させるなら、それはそれで構わない。生まれ変わりも、死後の楽園も、あるいは地獄も、話としては面白い。でも、本当にあるかは、一生かけてもわからないだろう。いや、一生かけているうちはわからないだろう。そうしたら、もう、死んでみてからでないとわからないのだ。そして死んだら戻ってはこれなさそうだ。なら、もう考えるのはやめたほうがいい。物語の世界を広げる以外に、私たちには手段はないのだから、それで我慢するしかない。前世についても、私は少なくともそんなもの覚えていないし、もしあったとしても、今覚えていないということはきっと、来世でも私は何も覚えていないのだろう。なら、変わらないじゃないか。今を生きるしかない。

それでいいのか、という人がいるかもしれない。だが、それでいいのかという人に問いたい。それ以外にできるのか? 死後の世界について思い悩む時間があったら、人生に目を向けたほうがいいのではないか。もちろん、それは人の勝手だ。そして、思い悩むというのは、思い悩もうとして思い悩むというより、思い悩んでしまうものだ。だから、止めはしない。だけど、少なくとも思い悩むことを肯定することは、私にはできない。

まあひとまずのところ、私は死んでも何もないと思うようにしている。なぜなら、わからないからだ。わからないことに希望を持っていても、それが違った時に絶望しかない。だから私はもう何もないと思うことにした。すると、もし死後の世界があった時、地獄だろうと天国だろうと、なんとなく棚から牡丹餅的な幸福感に包まれそうだし、存在しなければ、そのまま消えてなくなるだけだからだ。そのほうがいい。それに、「来世がある」と思わないほうが、懸命に行きられる。「来世やろうは馬鹿野郎」である。死後の世界を考えても、得るものはどっとくる疲れと絶望感だけだ。

 

だから、私は生きるということが大事だと思う。なぜなら私たちは生きているからだ。生きるべきだから、でも、尊い命だからでもない。私たちは生きているからだ。生きているということに価値がある。神に与えられたのか、仏性を持って生まれてきたのかなどはわからない。私は否定しない。だがとにかく生きている。過去から現在へと、私たちは自分を試しながら生きている。各人各様のやり方で、だ。そうやって生きてきて、これからもそうやって生きてゆくしかない。だが生きてゆくしかない、というのは、生きて行けということであり、生きて行けるということだ。人生抜きに私たちは存在しえない。だから、この人生を生きてみようじゃないか。

「死を思え」と人はいう。だが、その前に、「死んでも悔いはない」という人生を作ることが大事だ。自分の死が意味を持つとすれば、人生あってのことだと思う。死とは人生の終わりだ。人生は、「こうもできる」という可能性の世界だ。だから死とは可能性の終わりだ。そう考えるなら、可能性に執着があるなら、生きていたほうが良い。それだから、人生は生きておいたほうがいいと思う。哲学には「自殺」の問題というものがあるが、私は「生きておいたほうがいいのに」という立場で、自殺には反対なのだ。まあもちろん、それは私が恵まれているのかもしれない。だから人のことはわからないが、とりあえず私は死ぬなんて思えないし、思ったこともない。生きているのだから、生きていくしかない。どんなに悪いことがあっても、自分を変える機会になるかもしれない。人生、悪い状態で終わるなら、それを打開してから終わったほうがいいじゃないか。

 

私は旅に出る前は、できるだけ悔いを残さないようにしたいと思っている。明後日私はヨーロッパに立つが、今回は異例の長さであり、最近のヨーロッパ情勢の変化もあり、前にもまして悔いを残すまいと思う。それは、死ぬかもしれないと恐れているのではない。むしろ、「生きる」ためなのだ。いつでも、悔いがないように行きたいが、そんなに気を張って生きられない。だからこの機会を利用して、後に伸ばし伸ばしにしていたことをやってしまいたいと望むのである。そうやってこそ、何か大変なことが起きて、どんなに対処しようとしても無理という状態になった時も、運命を受け入れることができる。

美空ひばりのいうように「生きることは旅すること」なのかは知らない。まだそんなに生きちゃいない。だが、私は旅の中で、生きることを感じる。それは本当の意味で生きることができるからだ。旅という短い期間の中で、自分を試すことができる。そして自分を学ぶことができる。そうする中で、生きることができるのだ。それは、旅の中だけではなく、旅の少し前でもそうなのかもしれない。「悔いを残さずに旅立つ」というのは、そういうことなのだと思っている。できるかはわからないし、まだまだ悔いが残りそうなことはたくさんある。でも、できるだけそういうものは少なくしたいものだ。

 

だから、私は死に希望を持たないし、生きることにしか興味がない。それでいいと思っている。どちらにせよ、生きているという事実には変わりない。だから、死とは何かを問う時間があったら、どう生きるかを問いたい。今をどう生きるかを考えたい。あんまり生きる生きるというと、薄っぺらいポエムみたいで嫌な感じだが、仕方がない。私たちは、生きているのだ。

語学、我が愛

改めて言うのもなんだが、私は語学が好きである。

 

正直、語学がどうして好きなのかは自分でもよくわからない。なぜなら、あんなもの好きなところで、そこまで使えるわけでもないからだ。

例えば、海外に行ったとしよう。場所は、そう、オーストリアザルツブルクにしよう(実話)。語学好きの私は、ドイツ語は地域によって挨拶がだいぶ違うことを知っている。オーストリアは南部地域。挨拶は「グーテン・ターク」ではなく、「グリュースゴット」もしくは「セルヴス」という。といっても、「セルヴス」はゴリゴリのオーストリアドイツ語で、ザルツブルクでは使うのかよくわからない。そういうわけで、ドイツ語の発音を完コピで、店の人に「グリュースゴット!」と話しかける。するとどうだろう。わーっと向こうはドイツ語を話してくる。だが、何を言っているか聞き取れるわけもなく、気まずい空気だけが流れる。

語学好きはこんなハプニングがある上に、危険でもある。例えば、私はいろいろな言語に触れて、記憶力がだいぶ衰えた。13個以上言語を習得すると気が狂うという謎の都市伝説があるが、あれは嘘だろう。そもそも、上限の「13」というのが意味深すぎる。だが、間違いなく、記憶力は落ちる。高校時代、人より早く大学に受かってしまった私は、一月からの三ヶ月間暇をもてあそんでいた。その中で、いろいろな言語に触れてみた。もちろん、真面目に勉強したのではない。「新書のように読める文法書」をコンセプトにしている白水社の『言葉のしくみ』を1冊ずつ読んだのだ。ドイツ語、ロシア語、スペイン語ラテン語、古典ギリシア語、中国語、ヴェトナム語、朝鮮語トルコ語フィンランド語、ポルトガル語オランダ語デンマーク語、チェコ語スワヒリ語……。何が残ったかというと、記憶力障害だけといっても過言ではない。

 

いい面もなくはない。エスニック料理屋で使ってみると喜ばれることもある。トルコ料理屋で、「テシェッキュル・エデリム(ありがとう)」といって店を出ると、いつも笑顔で「テシェッキュル・エデリム」と返してくれる。そして、もっと実践的なことを言うとたいていの文法は、すっと理解できるようになったのだ。たとえば、「古典ギリシア語」や「アラビア語」には「双数」という概念がある。これは、日本語で言えば「〜2つ」に当たるもので、単数と複数の間だ。これがある(正確には、現代まで残っている)言語は少ないので一瞬ビビるが、いろいろな言語を見てしまうと、「ああ、双数ね」という心の余裕が生まれる。だが、それは理由にはならないだろう。だって、語学をやるのに便利だ、というのは、語学が好きな理由ではない。転倒してしまっている。

じゃあ、語学をなぜやるのか。それは多分、使うためだけではない。使えたらいいと思う。だが、もし習得しきれなくても、それはそれでいいのだ。その時は英語でもなんでも使えばいい。それでも、私は語学をやめない。語学には、文化がにじみ出ている。それを味わうのが、語学の醍醐味だ。その入り口は、文法だと思う。

 

昔から文法が好きだったわけではない。むしろ、文法なんて滅びればいいと思っていた。使えればいいではないか、と。たぶん、日本語と英語しか知らなければ、その考え方は変わらなかっただろうし、英語をメインでやっている人がそう思うのも無理はないと思う。だが、三つ以上やってみると、文法の面白さに気づく。それは、文法に、その地域の色がにじみ出ていることだ。

例えば、私がこっそり「助詞会(じょしかい)」と呼ぶ言語のグループがある。それは、日本語、朝鮮語モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語などだ。いわゆる「膠着語(こうちゃくご)」。つまり、「助詞」を使う言語であり、特徴として、言葉に文法的な要素を付け加えることで文を作る(「食べる」という動詞は、語幹が「食べ」。そこに、「る」「ない」「よう」「た」などの要素を足すことで意味をもった語になる。英語の過去形で「ed」を足すのと同じか、と思ったら大間違い。日本語は何個も要素を足すことができるが、英語は無理だ。「食べ-たく-ない-だろう」は、三つ繋がっている)。それは、基本的には、ユーラシア大陸をぐーっと横断して存在している。語族は違えど、似た文法を持ちながら。そんな「助詞会」の隠れた特徴は、中央アジアチベット、モンゴル、満州遊牧民由来の言語が多いということだ。モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語は、どれもアジアの遊牧民にその由来がある(ビルマ語も「助詞会」で、ビルマ族はもともとチベットの民族だったらしい)。朝鮮語も地域的に言えばかなり近い位置にいる。日本語はどこから来たのか不明だが、地域的にはかなり近い。ただし、遊牧民だけではないというのは注意しなければならない。例えば限りなく世界最古の言語といえそうなシュメール語も「助詞会」メンバーらしいが、彼らは明らかに遊牧民ではなく、農耕民である(それも、世界最古の)。そして、インド映画「ムトゥ〜踊るマハラジャ〜」で一躍有名になったインド南部の「タミル語」も「助詞会」メンバーだが、こちらは正直よくわかっていない。だが、どれも、現代影響力のあるヨーロッパ系の「印欧語族(英仏独露伊西葡希・ペルシア・ヒンディー……と挙げればきりがない)」や中東系の「セム語族アラビア語ヘブライ語)」、東アジアの「シナチベット語族シナ語派(中国語)」や「タイカダイ語族(タイ語ラオ語)」などは膠着語ではなく、膠着語はそれら大語族の中でひっそりと暮らしているのである(中央アジア膠着語勢力が強い)。そう思うと、少しロマンがある。このユーラシア大陸の向こうにも、「助詞会」があるのだ。いつか、そんな国に行ってみたい。いつかは、「助詞会」縛りの旅でもしてみたい……。

 

さて、マニアックな話が過ぎたかもしれない。

言いたかったのは、言語だけでいかに文化と風俗をまとっているか、と言うことだ。言語には民族の歴史がある。そしてその言葉の響きはその土地の音を形作る。面白いことだが、どんなに語族が違っても、場所が近い言語は音が似ていることが多い。例えば、ペルシア語とトルコ語は語族が違うが、ちょっとくぐもった音は似ている。その土地にあった音というのがあるのかもしれない。

とにかく、言語には人々の文化が詰まっている。言語をやることは、文化に触れることだ。他の言語の音を出せるようになることは、そこにいる人々の声を内側から感じることだ。そして文字が読めるようになることは、その言語の話者の目を手に入れることだ。

言語は窓のようなもので、たくさんの言語をやればたくさんの窓が手に入ると言った人がある。確か私の高校時代の先生だ。だが、私は色々やった今、ちょっと違う感想を持っている。言語はそれ以上だ。そして実はそれ以下だ。外国語をやっても私たちはそこまで変わらないし、むしろ傲慢になることもある。だが、語学をやると自由になることもある。母語の言葉の枠から、そして、言葉という枠からさえも。

街がいきづく〜一度きりの出会いと懐かしい香り:赤坂−溜池−六本木〜

 

今日も例によって昼の時間を潰すべく赤坂へと向かった。日差しは強いが、サイゴンほどではない。湿気はあるがバンコクほどではない。私には今日赤坂へと向かう確固たる理由があった。それは、「街が生きている」と題した記事の中でも触れた、赤坂に出没するガーナ料理の屋台カーで昼食を食おうと思ったからだった。

ガーナ料理とは一体どんなものなのだろう。ガーナといえば西アフリカ。その辺りの料理ならかつてセネガル料理を食べたことがある。確かあれは吉祥寺の店だったが、なかなかうまかった。クスクスにピーナッツバター風味のカレーみたいなやつがかかっていて……などと思いながら、照りつける日差しの中、大通りをワクワクしながら歩いた。水を持っていなかったので、喉が渇いたが、そんなことは関係ない。とにかく、ガーナ料理だ。足早に歩いて行く。ところがだ。いつまでたってもあの屋台カーが見当たらない。あれを最後に見たのは二週間前の金曜日。曜日単位で動くなら、今日も止まっているはずだ。それなのに、いない。

くまなく探したが、やはり見当たらなかった。そうか。出会いは一度きりなのだ。偶然という運命に動かされる私たちの人生で、一度きりではない出会いなんてない。もちろん、偶然の重なりはあるし、やけにかぶって出会う人というのは確かに存在する。だが、あのような屋台カーとの出会いは、やっぱり、一度きりなのだ。く。やらかした。出会いをなめていたようだ。前回通りかかった時はもうすでに昼食を済ませた後だったから気乗りがしなかったけど、運命は非常にも、私たちの出会いを一度きりと決めていたのか……などとくだらないことを考えつつ、ちょっとがっかりしながらファミリーマートで水を買い、私はもっと現実的な問題について考えることにした。その問題とは、人類共通の問題。「さあ、今日の昼食はどうしようか」である。

赤坂で食ってばかりでも、芸がない。また牛肉麺ではおもしろくない。だけど、他にいい店があっただろうか、と考えるうちに、私の脳裏に振り払えない一つのひらめきがよぎったのだった。「知らない赤坂を探すんだ」と。「ガーナ料理に出会えなかったのは、知らない赤坂を探すためなんだ」と。そんなこんなで、気温33度の暑さの中、私は無謀な散歩へと向かった。行くあてもなく、食うあてもなく、ただ一つ、水だけを携えて。ちなみに、このときの所持金が800円であるということは秘密である。

赤坂のアパホテルやらフーターズやら中國銀行やらが立ち並ぶ大通りを私はとにかく駅とは逆方向に行く戦略をとった。そうすればきっと、知らない赤坂が現れる。その戦略は間違っていなかった。少し道をそれると、土色の建物が並び、小洒落た料亭、ハングル表記がたくさん書いてあるホステル、老舗のトンカツ屋、やっているのかやっていないのかよくわからない太麺スパゲッティの店立っている知らない界隈に行き着いたし、そこから大通りに戻ると、高層ビルが並びながらも、弁当屋などが軒を連ねている「生きた都会」が広がっていた。

 

途中で気づいたのだが、実はそれはもはや「知らない赤坂」ではなく、「溜池山王」だった。雰囲気もだいぶ違っていて、赤坂の「生きている」感じというよりむしろ、開発された場所に人々が「息づいている」感じがあった。どことなく、海外の街に来たような雰囲気もある。

高速道路が走る高架橋の下を通る別の大通りと今まで歩いてきた大通りとがぶつかって十字路になるところまで来た時、ハッとした。なぜなら、その場所は私の知っている場所だからだ。「知らない赤坂」を探した結果、赤坂から離れた上に、「知っていた」場所に来たのである。そこは、高速道路沿いの道を右に行けば六本木、左に行けば日比谷・丸の内へと繋がる場所だった。それは私が高校卒業の年に来たところだった。

私は訳あって(という謎めいた言い方をしなくても、要するに推薦入試だったので)人よりも大学に早く受かってしまっていた。そのため、一月二月三月とかなり暇をもてあそんでいた。その時、私は美術館に通うようになっていたのだ。その中でも、興味のある特別展を何個かやっていたのが、六本木からほど近い乃木坂にある「国立新美術館」だった。美術館に行った帰り、私はよく散歩をしたものだった。渋谷まで行ったこともあったし、六本木ヒルズの方まで行ったこともあったが、日比谷に行くこともあった。その時通ったのが、この道だったのだ。六本木方面から進んで行くと、急な坂があり、その坂を登ったら日比谷。そんな日比谷へと至る坂道が、私の左に見えた。こう繋がっていたのか。たしか新美術館から赤坂方面に行こうと思ったこともあったのだが、あの時は遠いような気がして断念していた。でも、実はこんなにも近かったのだ。

私は感慨に耽りながら、針路を右に向けた。日比谷もいいが、食事場所は少ない。奈良六本木方面の方がいい。かつてここを歩いた時、ネパール料理やらエジプト料理やら妙ちきりんなものがたくさんあった記憶がある(残念なことに、ネパール料理もエジプト料理も最近じゃ、見知ったものになってしまった。高校生の時分、「なんだこれは!」と目を輝かした自分が懐かしい)。行ってみよう。

と行ったのはいいのだが、重要なことを忘れていた。そう、私の所持金は今、800円なのだ。ネパール料理もインド料理も1000円はするのだ。といっても、ワンコインランチの店に行く気には、なぜだかならなかった。これはという店がないまま歩き続け、軽い熱中症になりかけては水を飲み、回復させながら、進んだ。

すると、ふと「ドイツソーセージ」の店を見つけた。ホットドッグなら650円だという。悪くない。私はすーっと、その店へと足を踏み入れた。

 

そこは、ドイツ式の軽食屋Imbisだった。決してお洒落とは言えない店構え、決してお洒落とは言えない内装、そしてやけに清潔な感じ。それはまさにドイツの店だった。伝わるかわからないのを承知で言うと、日本のカメラ屋さんが一番近い。今ではあまり使わなくなったが、フィルムの現像とかをしてくれるような店である。

店員は二人。働いているのは実質一人。ドイツ人と思しき、がっしりした体つきのお兄さんだった。彼はなぜか小声で、

「いらっしゃいませ」と言った。私はホットドッグランチをお願いしますと答える。なにやら選べるとのことだったので、お勧めを聞いて、それに従うことにした。

「サラダはなにになさいますか?」というので、私はザウアークラウト、つまり酢漬けのキャベツを食べることにした。

実は、6歳の時、私はドイツのベルリンに住んでいた。人格形成において、案外一番大事かもしれない幼稚園年長時代である。おかげで、ドイツ語の発音は客観的に見てやけにいいし、カルチャーショックをあまり受けない人間に育った。一方で、弊害は、ドイツが余りすぎではなくなったことだ。それは、ドイツで何か嫌な思い出があったわけではない。単純に、「ドイツ=ダサい」というイメージが染み付いてしまったのである。大学に入るとドイツ語を選択する人も出てきて、ドイツをかっこいいと言っているが、どうも解せない。ドイツ語の発音は、ハキハキやれば軍隊だし、普通にやれば田舎臭い。料理もジャガイモ、ソーセージとハム、酢漬けのキャベツ、豚肉を煮たやつと、かなり原始的である。そのなにがかっこいいというのか。要するに、田舎で育った人が、田舎に対して、「おらこんな村嫌だ」と思うのと同じ感じで、ドイツが好きではなくなってしまったのだ。

そんな私が今、なぜか思いつきで入ったインビスにいる。そして不思議と、その無機質でムダに清潔感のある店内を眺めていると、懐かしい気持ちになってくるのだ。しばらくしてやってきたホットドッグは、本場ドイツとは違って日本人向けのミニサイズだったし、熱々だった(奴らは基本的に猫舌なので、あまり熱々は食べない)が、食べてみるとどことなく懐かしかった。ザウアークラウトも、酸味には欠ける(本場のはものすごくすっぱい)が、ちょっと気持ちが落ち着く香りだった。なぜだか、またドイツに行きたいと思う自分がいることに私は気づいた。

気持ちを振り払うように、私は「ごちそうさま」と言って、店を出た。お腹いっぱいにはなれなかったが、あの懐かしい雰囲気に触れられたので良しとしよう。普段は外国の方が経営している外国料理の店では、できるだけその国の言葉でありがとうというようにしているが、なぜか今回は恥ずかしくて「Danke」と言えなかった。また今度来たら、言ってやろうと思う。

ちなみに、次の旅では、ドイツにはいかない。

f:id:LeFlaneur:20170715000628j:plainこれが私の知らない赤坂

街が生きている(赤坂)

東京の面白いところは、いろいろな場所によって、それぞれの個性が光っているところだと思う。新宿には新宿の、四谷には四谷の、麹町には麹町の、丸の内には丸の内の、八重洲には八重洲の、銀座には銀座の、有楽町には有楽町の空気がある。ちょっと離れるだけで、まるで異国のような雰囲気がある。疑う人がいたら、日本橋から上野に行ってみるといい。もう、全然違う文化圏に移動したような感じがするはずだ。

その中でも、赤坂という街は独特で、僕の好きな街の一つでもある。そして、実は今、僕は赤坂にいるのだ。

赤坂は、僕の生活圏内から近く、よく立ち寄る場所である。特に金曜日の昼は、休み時間がだいぶあるため、赤坂まで足を延ばすことが多い。もちろん今日も、それが理由で赤坂にいるっていうわけだ。

江戸城の外堀を超えて、横断歩道を渡ると、赤坂の街が始まる。細いタイル張りの道が適度に汚いビルの間を突き進んでゆく。道は碁盤の目のようになっていて、赤坂で迷うということはおよそないだろう。だけど、南北に走る道と、東西に横切る道(というか小さな路地)では、これまた雰囲気がだいぶ違って、歩いているだけで楽しくなってくる。南北に走る道にはスペイン、イタリア、タイ、イギリス、中国、韓国、国内では大阪、名古屋などなどのいろいろな「文化」を表現するレストランやらバルやらパブやらが立ち並び、東西に横切る道にはひっそりと昔からあったんだろうなというような小料理屋やすし屋などが生きている。

赤坂の道を歩いていて気づくのは、そこが適度に汚いことだ。ビルも、道も、どことなく「使用感」がある。坂のせいで、碁盤の目のようになっているはずの道も、どことなく歪んでいる。ちょっとだけいびつで、ちょっとだけ汚い。道に並ぶ店も統一感はなく、イギリス式のパブがあったかと思えば、料亭があったり、料亭があるかと思えばタイ料理屋があったり、かと思えばホテルがあったり、ちょっと卑猥な店があったり、とにかくごちゃごちゃしている。だがこのごちゃごちゃ感こそ、「街が生きている」証拠なのだ。東京の街は多様な文化を持っているとはいえ、徐々に綺麗になってきていて、このごちゃごちゃ感を出せる街並みは少なくなっていると思う。そんな中でも、赤坂はごちゃごちゃ感、適度な汚さを保ち、街をエネルギッシュに保ってくれている。だから、僕はこの街が好きなのだ(ただし、夜歩くのはちと怖いかも)。

赤坂はかつて、高級住宅街だったという。江戸時代には大名屋敷(今でいう「大使公邸」「大臣公邸」)や旗本屋敷(今でいう高級公務員の家)が立ち並び、明治時代には高級官吏や軍人のための料亭がたくさんあったという。戦後になると、大使館の人たちなどの外国人の遊び場として赤坂は発展し、キャバレーなどが出来上がり、1955年にTBSが本社を赤坂に構えると文化人やファッション関係の人の溜まり場となっていたという。おかげで、今の赤坂はまるでTBSの城下町のようである。TBSがちょっと小高いところにあるので、赤坂の城下町感が倍増している。

もちろん、本当はきっと、赤坂を挟んでTBSの反対側にある「日枝神社」の「城下町」なのだろう。日枝神社というのもなかなか面白いところで、神社なのにエスカレーターがついている。神社といえば長い階段のイメージがあるが(東照宮などにはすごく長い階段があるではないか)、なぜか日枝神社はそれを機械化、白い巨大な階段の隣にエスカレーターがあるのである。神社の中はかなり立派で明治神宮にも劣らないだろう。日枝神社の目の前の道は、赤坂の街のごちゃごちゃ感とは裏腹に、だいぶ整った大通りが駅の方へと貫いている。と、思わせておいて、並ぶ店はスペインバルに中國銀行アパホテルに、よくわからないドイツ語の名前の企業と、だいぶ異様な雰囲気を漂わせている。今日歩いていたら、派手な車が止まっていて、なんだろうと思ったら「ガーナ料理」の車だった。昼に台湾の「牛肉麵」をTBS城のお膝元で食ってしまっていたので断念したが、今度見かけたら、絶対に行ってやるから、待ってろよ、と心の中で捨て台詞を言って、立ち去った。

 

 

さて、以上が、僕の見た、いい意味で「ごちゃごちゃ」、エネルギッシュな赤坂の街の姿だが、今日新しい一面を見つけた。TBSの前を横切って、坂になっている「一ツ木通り」を歩いていると、「浄土寺」という寺があったのだが、そこが面白かったのだ。ビルの合間にぼんぼりが吊る下げてあり、中が入ってみると、参道があって、その先には寺があった。おばあさんとその娘がゆっくりと山道へと向かい、穏やかな風が流れていたその寺は、四方を住宅に囲まれていたのだ。まるで、昔の街のように、家が立ち並ぶど真ん中に寺がある。エネルギッシュな繁華街に見える赤坂にも、そんな穏やかで、別の意味での生活感にあふれたところがあるとは、想像もしなかった。吹けば飛びそうな寺だったので、ぜひずっと残っていってほしいなと思わざるをえなかった。

赤坂。今、朝ドラでも出てきている街。そこには生活とエネルギーとごちゃごちゃの文化がある。歩く人の人種もバラバラ。売っている食べ物もバラバラ。それでも隅っこには日本的な要素が静かにいきている。あの街は確かに、生きているのだ。

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浄土寺

『知と愛』のはなし

この前、友達と一緒に西田幾多郎の『知と愛』というエッセイを読んだ。読んでいる様子はツイキャスにあげているので、私のTwitterを知っている人なら、遡って見つけることができるだろう。このエッセイは、西田の『善の研究』という大著のエピローグのようなもので、もともとは独立したエッセイだったという。

彼は言う。知と愛は、同じ精神作用だ、と。知るということは、自分の思い込みを捨て、知識へ身を委ねることである。そして愛するということは、自分を捨て、相手を想うことである。どちらにも、「自分」は消え去ってしまい、そこには「純粋経験」だけがある、と(純粋経験とは、私たちが普段やっている経験である。例えば夕日を見ている時、私たちは決して、「私は今、夕日を見ている」などと感じはしない。じっさいには、ただただ目の前に夕日を感じているのである。そのとき、「自分」は消えている)。いや、それどころか、西田は、「知即愛、愛即知」と言って見せる。つまり、相手のことを知るがゆえに、相手をますます愛し、何かを愛するがゆえに、何かを知るのである。

なかなか納得させられる。高校生の時、私は古代ローマの本を読み漁った。そのおかげで今、ローマの歴史の流れをそらんずることができる。「ラティウムに住む男たちが、ローマの土地に国を建て、指導者ロムルスが王になり、王政が始まって、ヌマなどの前世を敷く王様の時代が続き、その中で隣国エトルリアの文明を吸収していくが、最後の国王タルクィニウス・スペルブスは……」と。これは正真正銘「知識」だ。それも、世界史の勉強の役にも立たないし(国王の話なんて、高校の教科書では「ロムルスがとレムスが建国。その後、エトルリア人の国王を追放して」で終了である)、実生活の役にも立たない知識である。だが、私にとっては意味があって、ローマ史の話をしろと言われて国王の話から始めるのは、二代目国王ヌマから六代目セルウィウス・トゥッリウスの業績が、最後の王様のせいで無に帰せられるのがかわいそうだからだ。それはある種、ローマの歴史という一連の流れを愛するからである。実際、ローマ史を調べていた頃は、しょっちゅうローマ人の話を私自身していたと記憶しているが、それはよく考えてみると、恋をした人が恋する相手の話をすぐにしてしまうのと非常に似たところがある。私はどうも「熱っぽい」性格のようで、ローマだけではなく、物理学(特に相対性理論量子力学の歴史)、数学(特にフェルマの最終定理)、江戸の歴史、幕末〜明治に活躍した榎本武揚フランス第二帝政を作ったナポレオン3世、世界の言語などに同じような感覚を抱いていた。今から思えば、あれこそまさに「知即愛、愛即知」だったと思う。逆に言えば、このような「愛」がなければ、本当に楽しんで「知る」ということはできないだろうし、ただ覚えただけの知識はすぐにどこかへ消えてしまうのだろう。もし、教えるのが上手い先生がいたとすると、それは話が上手いだけではやっぱりダメで、その知識への「愛」を豊富に持ち合わせた人に違いない。知ったかぶりや知識自慢ではなく、純粋な愛あってこそ、聞き手もその愛に飲み込まれ、知識を「人格的なもの」「いきいきしたもの」として受け取ることができるはずである。

人に関しても、間違いなくそういうことはある。初めは見た目が好きとか、声が好きとかだったとしても、だんだんとその人のことを知るにつれて、その人を好きになって行き、好きだから、知りたくなるのかもしれない。星野源の「くせのうた」という歌を思い出す。「君の癖を知りたいが、ひかれそうで、悩むのだ……」知ることは、愛することへと近づいてゆく。もちろん、知るからといって愛するわけではない。だが、愛していなければきっと、知るというよりも、決めつけて終わると思う。「あいつはこういうひとだから」「お前はこういうやつだよな」「お前が考えそうなことだ」などということは、「知る」ことではない、と思う。確かに初めは知ろうとしたのかもしれないが、もはや分析する方向へと進んでいて、それは愛とは言えないし、知ってもいない。嫌いな人に対してやりがちなことだ。いや、もしかすると相手を盲目的に好きになると、これまたやりがちなことなのかもしれない。

そうやって考えてみると、科学を「未来を予測するためのもの」と考えるのは、一つ間違いなのかもしれない。確かに、ニュートン力学は、ハレーという人がニュートンの数式を使って彗星の出現を予測した時、確かなものになった。自然科学とは違うが、経済学は経済の動きを予測する役目を期待されているし、気象学は気象予報を求められている。だが、科学の精神って、本当にそこにあるんだろうか? 今、理論物理学でホットな話題は、「TOE(=万物の理論)」だろう。これは何かというと、予測するというよりはむしろ、この宇宙を動かすあらゆる力(ちょっとマニアックな話をすると、四つの力であり、一つは万有引力、もう一つは電磁気力(静電気や磁石の持つ力)、最後の二つは原子を成立させている「強い力」と素粒子を変化させる「弱い力」。電磁気力と強い力と弱い力は、「統一理論」で統一されそうだ)を一つの理論によって説明し尽くそうという動きだ。これは予測ではなく、過去に遡って、全ては一つであったことを説明しようとしている。それはひとえに、「知りたい」という思いである。それは「愛」にも似たものである。予測することは、自分の知ったことを元に、相手をいわば「決めつけ」、次の出来事を読むことだ。これは愛とは違う。

西田幾多郎はあまり書いていなかったと思うが、「決めつけ」の問題は随分と根深いし、他人事ではない。人はみんな何かや誰かを愛しながら生きている。だがそれは、「決めつけ」に走る可能性を秘めている。ストーカーや、自然破壊はその極致と言っていいだろうが、どの人もそれをやりかねない可能性を持っている。歴史を楽しんで学ぶと、いつの間にか、現代という時代を変えてやりたくなってくる。相手を知ると、自分が相手にできることに思いを馳せ、いつの間にか自分が相手を変えてやろうという気持ちになる。必ずしもその全てが悪いわけではないし、それは歴史や人生を動かす原動力に確かになっている。だが、それは時に暴力的で、危険な側面も持つ。ちょっとした「君って〜な人だよね」「この民族の歴史は〜な感じのサイクルをいつもたどる」「日本人は〜な民族だ」は、いつか、危ないものになるのかもしれない。私たちは微妙な位置で生きていて、愛と知は微妙な位置にある。人を本当の意味で愛し続けるには、もしかすると何もしないという選択肢しかないのかもしれないし、何かを本当の意味で知るということは応用的なことは一切してはいけないということなのかもしれない。だが、行動や応用がない限り、人は歴史や人生を前に動かすことができないのもまた事実だ。

大切なのは、純粋な愛、純粋な知を楽しむ経験を持つことかもしれない。それを大事にした上で、それをいかに前に進めるかが問題だ。そうやって考えると、西田幾多郎のいうとおり、「純粋経験」へとたちかえらないといけないのかもしれない。そして、それこそ現代において哲学のできることなのかもしれない。それは一人で行うことでもいいし、誰かとともに対話することによってなのかもしれない。フランス人哲学者のベルクソンはこんなことを言っている。

「科学者は、自然に服従し、命令する。哲学者は、服従も、命令もしない。ただ、共感することを求める」

ヴェトナムの方がやってきた

6月10日と11日は、代々木がヴェトナムになる日だった。5月ごろから代々木公園では、カンボジア、タイ、ラオスと東南アジアの国々を紹介するフェスが開かれ、6月10日と11日はヴェトナムフェスティバルが開催されていたのだ。

去年、一昨年と連続してヴェトナムに行った私としては、このフェスティバルには行かなければならなかった。そう、もう行きたいどころの騒ぎではなく、行かなければいけなかったのだ。そんなわけで、私は後輩二人とヴェトナムフェスティバルに繰り出したというわけだ。

面白かったのは、このフェスティバルが、ヴェトナムという東南アジアの国に興味がある酔狂な日本人が集まる場ではなく、ヴェトナム人たちが集まってくる場でもあったことだった。というのも、去年同じ会場でやっていたアラビアンフェスティバルは、イスラーム圏の人の集まる場というよりも、日本人が集まっている状態だったからである。それはたぶん、イスラーム圏の人は、毎週金曜日、いやほぼ毎日モスクで集う習慣があり(本当に「集って」いる。一昨年モスクを訪れた時のあの雰囲気は忘れがたいが、それはまた今度話そう)、ヴェトナム人と違って文化的な何かを確かめ合う場が多いからではなかろうか。その点、日本にはヴェトナム寺院(大乗仏教の寺だが、明らかに雰囲気が違う)といっても、数えるほどしかないだろうし、集まるにしても、年に一度のテト(旧正月)くらいではないか。まあ、どれも憶測に過ぎない。単に祭りと聞いたら血がさわぐたちなのかもしれない。

とにかく、ヴェトナムフェスティバルの会場に入ると、いや会場への道のりから、だいぶ異質な雰囲気を醸し出している。周りからはヴェトナム語が聞こえ、男女ともにアオザイで着飾った人もいるし、会場に入れば、独特のハーブやら肉やらの混ざった匂いがしてくる。看板にはアルファベットに細々とした飾りをつけたヴェトナムアルファベット(クォッグー)が並んでいた。ライヴは無名の日本人アーティストの謎のナンバーもお届けしていたが、たまにヴェトナムのスターが現れ、ヴェトナム人たちは歓声をもって彼らを受け入れ、スターたちはポップな曲やバラードをやったかと思うと、一曲は必ずヴェトナム演歌を演奏していた。まるで、ヴェトナムである。会場の裏手にあるスペースではヴェトナム人たちがピクニックを催していて、「モッハイッバー、ゾー(1、2、3、いくぞ!)」という掛け声とともに乾杯し、盛り上がっていた。その脇を、子供達が駆け回る姿も、ヴェトナムっぽさがあった。

そこには、ヴェトナムがあった。「ヴェトナム」自体が出展されていた。もちろん、日本でやっているのでどこか小綺麗な感はあるが、やはり、あれはヴェトナムだったのだ。食事の方はというと、やっぱり本場にはかなわないが、ビールの「333(バーバーバー)」も「ビア・ハノイ」もあの時の味だったし、それに嬉しかったのは、本場ヴェトナムのチェーン店チュン・グエンの系列店が「本物の」ヴェトナムコーヒーを出していたことだった。あれはあまり日本では味わえないので、嬉しかった。チョコレートのような濃厚な味の、コーヒーと練乳のマリアージュ、である。

それにくわえて、あのフェスティバルは8時まで続いた、というのもヴェトナムらしい。テンションを一切変えず、一日中やり続けるヴァイタリティ。他のフェスティバルは普通5時には終わるものを、8時まで延長し続ける力強さがそこにはある。まさにヴェトナムという感じである。

かつて、エスニック料理の店の魅力について書いたことがある。あの時、私は、こんなことを書いた。エスニック料理は、日本にいながら他の文化の濃厚な部分への扉を開いてくれるものだ、と。なぜなら、食べ物の味はもちろん、その店の雰囲気、働いている人々、そして店の中の香り、流れている曲……それは完璧にではないが、その国の文化を確かに立体的な形で伝えてくれるからだ。ヴェトナムフェスティバルは、実際にヴェトナムに行ってみて考えると、確かに代々木をヴェトナムに変えていた。言葉、香り、音楽、人々、そして味、エネルギー。もっと大規模な形でヴェトナム自体を伝えてくれていた。そう、五万円払ってヴェトナム航空のチケットを買わなくても、そこにはヴェトナムが、ヴェトナムの方がこちらにやってきたのである。

偶然か、必然か、それとも運命か

人と人との出会いは偶然なのか、運命なのか、という話に、二日続けてなったことがある。メンバーも違うので、どうやらあの時は、この話をする「運命」にあったというわけだが、私は正直どちらでも良いと思っている。

すべての人はそれぞれの人の意思で動き、時に誰かに影響されつつもどうにかこうにか生きている。動物もある程度は自分の思うままに行動しているのかもしれない。出会いなんてものは、人と人がそれぞれの思惑で動く中でたまたま起こるもの。そう考えてみると、いろいろな偶然が重なり、いろいろなことが起きているような気がする。だって、運命に動かされて人は普通何かをしないからだ。何かがあってから、運命を感じる。行動する時はいつも自分本位で、何かが起こってみて、「運命だったのかもしれない」と思うわけである。

でも、そんな偶然の重なりは、もしかすると運命と言えるのかもしれない。ブラジルで羽ばたいたチョウの羽ばたきが、台風を起こすというような話があるが、それはある意味で、奇跡的なことである。もし、チョウがその時羽ばたかなければ台風が起きなかったかもしれない。これは人と人との間も同じことで、あの時の選択がなかったら、あの人とは合わなかったかも、ということもある。そしてそれは、それぞれの人の思惑を後から繋げていって考えると「運命」や「必然」があったような気がしてくるわけだ。そして、偶然であるがゆえに、それはなかなか起きないことだから、その「運命」はより感動的な「運命」として受け取られることになる。まさに、「あの日あの時あの場所で君に出会わなかったら、僕らは、いつまでも、見知らぬ他人の……まま」ということだ。

偶然か必然か、はこんな風に見方次第である。だから、人と人との出会いは運命か、偶然か、などとはなしあってもなにもえることはない。それはいわば、カタツムリを見ながら、「これはデンデンムシか?」「いやいや、これはマイマイだ」とやりあっているようなものである。要するに、起こっていることは同じなのだ。

だが、面白いのは、偶然だからこそ、運命だという点である。偶然は、滅多に起こらない。逆に必然はしょっちゅう起こる。もし、りんごが木から落ちるのを見て、「こりゃあ、運命だ!」などと言ったら笑われるに違いない。これは必然だけど、運命じゃないのだ。だけど、人と人との出会いは違う。偶然であり、だからこそ、私たちは「運命かもしれない」と感じる。偶然と言って仕舞えば、何度でも起こる気がする。運命と言って仕舞えば、すべて昔から決まっていたような気がする。だが真相は違う。偶然は滅多に起きない。そして運命は昔から決まっている必要はない。「君の前前前世から僕は探し続け」る必要なんてどこにもない。むしろ、滅多に起こらない偶然の中で、人と出会うから、運命なのではないだろうか。だからこそ、衝撃があるのではないだろうか。

そう考えると、実はどの人との出会いも、運命であり、偶然なのだ。いや、偶然だから、運命なのである。好きになった人も、嫌いになった人も、大して何の興味も湧かない人も、離れ離れになる人も、腐れ縁になる人も、そう、誰でも。そこに取り立てて、「運命の人」などと言いたがるのは、きっとそれぞれの運命の中でも、「運命だ」と思いたいくらいエモーショナルな出会いがあると信じるからだ。だけど、実際はどれも変わらぬ、偶然という運命の出会いなのだと思う。運命は、偶然だからこそ、何度でも訪れる。何度でも訪れるからといって、侮ってはいけない。だって、それは70億人のうちの一人との偶然の出会いなのだから。

などと、書いてみると、案外恥ずかしいものである。しかし、どうやらこれを公開する「運命」にあるようなので、「公開する」ボタンをクリックしてしまおうと思う。

思い出がいっぱい

「懐かしいって感覚って何なのか、気になってるんです」と、ある人が言った。この前の木曜日のことである。あの日、僕を含めた十人の年齢も性別も違う仲間で「懐かしいってどういうこと?」についてみんなで考えた。

その人はいう。この季節になると、空気にも少し湿り気が出てきて、暖かくなってくる。そうなると、決まって高校の時の体育祭を思い出す、と彼女は言っていた。その時ではないが、彼女は体育祭や学園祭に随分打ち込むたちだったという話を聞いたことがあったから、きっと彼女にとっての体育祭は、随分と濃密な記憶だったに違いない。

彼女はその後、懐かしいというのはポジティヴな感情だと言った。どことなく、嬉しさにも似た感情だと。だが、僕はそうは思わなかった。確かに、ずっと会ってなかった人と会った時は、嬉しいし、懐かしいね、というだろう。だが、ふっと何かを思い出す時、嬉しさよりも、物悲しい、かと言ってあまり激しい感情ではないメランコリックな気分になることの方が、経験上多いからである。

僕の場合、それはオートバイのクラクションや、木を焼いたような匂いで起こる。クラクションが鳴ると、ヴェトナムを思い出し、木を焼いた匂いを嗅ぐと小学校まで入っていたボーイスカウトを思い出すのだ。ヴェトナムは楽しい思い出だったし、ボーイスカウトはあまり好きではなかった。だが、今ではそれを思い出すと、どことなく物悲しいメランコリックな気持ちになってくる。前に書いた音楽の話の表現を使うなら、「ざらり」と感じるのである。

 

懐かしいって何だろう?

普通はそんなこと考えず、「懐かしい!」と反射的に思い、「懐かしい!」と反射的に言っている。だがよく考えると、不思議な感覚である。

まず、思い出すこと、とは決定的に違う点がある。僕たちは何かを思い出しながら生きているが、何かを思い出せば、あの「懐かしい」というエモーショナルな感情が出てくるかというとそれは違うのだ。例えば、持ってこないといけないものを家に忘れてきたと咄嗟に思い出した時、だれもエモーショナルにはならないだろう。「あ、家に財布忘れてきた……財布かぁ……懐かしいなあ」といちいちなっていたら社会生活が送れない。普通は急に焦るが、あの、「懐かしい」という感情じゃないだろう。

ただ、思い出さないことでもない。対話の中で、ある人が特定の曲を聴くと懐かしくなる、というふうに言っていた。それは、何かを思い出しているわけではない、という。もちろん、そんな経験はある。僕の場合は、Bob Dylanの歌がそうだし、そうでなくても、ラジオから流れてきた全然聞いたことのない曲に泣きそうになったこともある。だが、それは懐かしいというよりも、「懐かしさに似た感情」のような気がする。だって、そういうメランコリックな音楽を聴いた時に、「懐かしい」とは普通言わないからだ。もし、「この歌聴くと懐かしくなるんだよね」と言われたら、きっと「何か思い出があるの?」と聞きたくなるはずだ。そして、「いや、別にないけど」という答えが返ってきたら、すかさず「ないんだ!」とツッコミたくなるはずである。もちろん、あの感情が「懐かしさ」にすごく似ているのはわかるが、ちょっとだけ違うような気もする。

じゃあ、思い出すだけではなく、何が必要なんだろう? きっと、それは、「忘れること」であり、「思い出す必要がなくなること」である。すっかり忘れていて、しかも思い出す必要のない、今とは関わりのないことをふとした瞬間にフラッシュバックする時、あのメランコリックな感情が湧いてくる。先ほどの忘れ物の例だと、「忘れていた」のは確かだが、明らかに「今の状況と関係がある」。だから、焦る。トラウマというのも、フラッシュバックしたものが今、そして未来と関わっているから恐怖感を覚えるが、懐かしいとは思わないのだ。また、あの状況が起こるかもしれない、とか、あの状況が今に蘇って危害を加えてくるような気がするから、怖いのだ。だが、懐かしいと思う時は違う。ヴェトナムも、体育祭も、カナダも、思い出す必要性は一つもないのだ。一つもないのに、思い出してしまう。しかも、普段の生活では意識にのぼっていなかったのだ。

懐かしさはいつも不意打ちなのか、と言われると、それはYESであり、NOなのだろう。というのも、思い出話をしたり、(対話している間にやった人がいたのだが)思い出そうとして、懐かしさを感じることもできるからだ。だが、やはり僕は、そこにも「不意打ち」があるような気がしている。僕たちが思い出そうとして思い出せるものは、情報だけではないだろうか。例えば、「中学校時代」を思い出してみるとしよう。「中学校の校舎!通学路!」と念じ、思い出そうとすると、写真みたいな光景が思い出されてくる。「先生!」と念じてみると、先生の顔や名前が思い出される。こうやって頑張って思い出そうとして出てくるのは、一つ一つの情報にすぎない。この時はまだ、「懐かし」くはないのではないか。だが、こうやっていくうちに、ある時ふと、「不意に」、情報を超えた生き生きとした記憶がフラッシュバックしてくる。「通学路ってこんな匂いしたな、あの先生は笑うと優しそうだけど、目はいつも笑ってなかったよな、そうそう、通学路は夜になると真っ暗になるから、部活終わりとかはなんかスリル満点だったよな……」と次々と、思い出そうとして想定していたものとは全然違うものが出てきて、僕たちは記憶に飲まれてゆく。その時、僕たちは「懐かしく」感じているのだ。思い出そうとして思い出す情報から、不意に思い出してしまう、忘れていたディテールがどんどんどんどん目の前に現れる。

こんな体験を共有する誰かがいる時は、もしかすると嬉しい気分になるのかもしれない。だから、今まで会ってなかった人と会う時は、嬉しい気分になるし、みんなで「そうそうあのときさ!」と話しているとなぜか話に花が咲くのだろう。それは多分、その生き生きとした記憶が、今に蘇るからだろう。現実のものとして、話題として、生きたまま蘇るからだろう。だが、思い出話はどこかで止まり、みんなが虚空を見つめながら、「懐かしいね……」とだけ言い始める瞬間がくる。その時、メランコリーが始まる。きっと一人で思い出す時、そしてフラッシュバックしたものを言葉でうまく表現できない時(懐かしいけど、具体的には思い出せない感覚はあるはずだ。あれは思い出していないのではなく、むしろ思い出したけど、「なんなのか」「どこなのか」「いつなのか」といった情報面が思い浮かばないのではないだろうか)、メランコリーはわりかしすぐに出てくるのだろう。

なんであんなに懐かしさは胸を打つのか。それはよくわからない。もしかすると、もう終わってしまったからかもしれない。記憶は蘇るが、もう現実のものではない。そんな、時の流れを意識してしまうからかもしれない。「あの時は」と過去を思い出す時、過去形を使う時、人は今とは違うんだと意識する。人は過去のことを、キラキラしたものと感じることが多いようで、楽しかった思い出も、逆に辛かった思い出も、みんな「自分の中で生きている」と感じる。そのことがなければ今の自分はない。そんな人生の中で起きたことが、まるで蘇ったかのように出てくる。その時、どこかで「今」は「あの時」ではない、という当たり前と言えば当たり前な、愛しい記憶との「別れ」を感じるのだろう。だが、それは当然のことで、思い出すという経験の、その中に浮いたような虚しさ、あの時は今とは違うというもの悲しさは、逆に今への道のりでもある。だからそれは悶えるような悲しさではなく、今の自分が歩いてきた過去の長い道を振り返る、「もう引き返すことはできないが、ここまでやってきたんだ」という良い意味でのため息でもある。「あの日」との隔たり、その隔たりが持つもの悲しさ、そして「あの日」が確かに自分の中で生きているという充足。懐かしさには色々なものが混ざっている。

 

思い出し、懐かしいと思うことは不意に襲ってきて、しみじみとした、メランコリックな気持ちを呼ぶ。過去に生きるのはよせ、という言葉があるが、好むとも好まずとも、人生を生きていれば、きっと懐かしさに襲われることがある。それは、人生はしっかりと「生きてきた」証拠でもあるのだと思う。それに…………蒸しっとした梅雨や夏の気温で思い出す思い出が増えたおかげで、昔は嫌でしかなかった夏がちょっと楽しくなった気もする。思い出がいっぱいだから、今に彩りが加わって行くってこともあるのだ。

 

 

常連になる

少し前、行きつけのトルコ料理屋に行った。

行きつけ、といっても、そんなにしょっちゅう行くわけでもない。なぜなら、僕の生活圏から考えると、ちょっとだけ遠い場所にあるからだ。大学のある街から2、30分歩いたところにある店である。そして、ランチ1000円と、学生にはちょいと厳しいお値段設定となっているのも、そこまでいかない理由だ。だが、時間とお金に余裕ができたら、「よし、行こう」と思わせてくれるものがあの店にはある。というのも、そこで出している「イスケンデル・ケバブ」が絶品なのだ。おっと、この料理を知らない人の方が多いだろう。イスケンデルケバブは、鶏肉を炙ったものにトマトソース、ヨーグルトソース(日本のプレーンヨーグルトよりも酸味が強く、調理用)、そしてちぎったトルコ風パン(エキメッキ)を和え、煮込んだ料理だ。エキゾチックでありながら素朴、遠い異国の料理でありながらなんとなく懐かしい。そんな料理だ。僕は初めてそれをこの店で食ったとき、うますぎて、涙が浮かびそうになるほどだった。

あの店に行くと、いつも小柄で声が若干高い(かといって甲高いわけではない微妙なライン)お兄さんがいる。彼が店主なのか、店長なのかはよくわからないが、本店は別にあるようなので、さしづめ暖簾分けしてもらった店長というところに違いない。僕が初めてこの店を訪れた時は、彼はウェイターをしていた(ウェイターなら店長じゃないじゃないかって? そんな気もするが、ただのウェイターにしては、他の店員の顔ぶれが変わる中、三年間そこに居座り続けているのだから、ただ者ではない)。それがあるとき、彼はコックになっていた。理由はわからないが、とにかく料理をしていたのだ。初めは、「やっぱり最初のコックの方がうまいな」と思いながら、イスケンデルケバブを食っていたが、だんだん腕が上がったようで、最後に食べたときには、明らかに最初のコックのイスケンデルケバブを凌駕していた。

だが、今回行ってみると、なんと彼はウェイターに復帰しているではないか。調理場にはまた別のコックが立っている。

「イラッシャイマセ」と、彼はいつにない笑顔で言った。あきらかに、「また来てくれましたね」とこちらを認識している雰囲気である。この店には通っていたものの、常連扱いを受けることはあまりなかったので、少しだけ驚きながら、僕は席に着いた(たぶん、このお兄さんがコックをやっていていそがしかったからなのだろう)。その日は暑かったので、煮込みを食う気にはなれず、今まで食べたことのなかった「トルコ風ピザ」を注文した。この店のメニューは基本均一1000円で、サラダ、スープ(日替わりで、これまたうまい! 正直どう説明したらいいかわからないが、非常にうまい)、エキメッキと呼ばれるトルコ風パン、メイン料理、デザートの「もちもちプリン(米が入った杏仁豆腐のような、それでいてもちもちした、表面を炙った、冷えた白いプリン)」、チャイ(インドのものとは違い、紅茶を濃厚に入れたもので、砂糖を入れると甘すぎず、苦すぎず、アクセントの効いた味になる)がでてくる。

トルコ風ピザもうまかった。ピザといっても、折りたたんだ形状で、スパイスの効いた肉がパンの間に挟まっている。軽食感は拭えないが、初めて食ったこともあってか、「うまい!」と脳内で連呼したほどである。

この店ではチャイがお代わりできる。僕はそれを知っていたので、プリンを食べ終わり、ゆっくりチャイを飲み終わっても、しばらく座っていた。するとお兄さんがやってきて、

「チャイのおかわり?」と言いながら、僕が返事をする前にチャイのグラスを持って行った。やっと、常連として認められたんだな、と少しだけ誇らしい気持ちになった。

今度は、新しいコックのイスケンデルケバブの腕前を見てやろうじゃないか。そう、僕はもう常連として認められたのだ。

などと、バカなことを考えている。