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旅、映画、食べ物、哲学?

7都市目:バルセロナ(2)〜心地よい風の街〜

ホテルのロビーで地図をもらい、治安の悪そうな路地を歩いて、わたしは再びランブラス通りに出た。

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La Rambra

ラ・ランブラ。名前以外は何も知らなかった道。今Wikipediaで調べてみると、「水路」という意味らしい。そして、これは全く知らなかったことだが、ポケモンの聖地だそうだ。あいにく機種変更でポケモンGOはアンインストールしてしまっていて、モントリオールケベックシティ、台北やヴェトナムで捕えたポケモンどもはもういない。ちょっと残念。だが、ポケモンの聖地の部分には「要出典」と書かれていたので、真偽は不明である。それにしても、行ってみて一番頷けるのは、スペインの詩人ガルシア・ロルカが言ったという「終わってほしくないと願う、世界に一つだけの道」という言葉だ。これは、至言だと思う。

ランブラス通りは、カタルーニャ広場という広場から地中海へと開けた旧港までを一直線につなぐ通りだ。この前の記事でも述べたように、巨大な通りのど真ん中に、歩行者専用の通りが貫き、その周りを並木が囲んでいるという形になっている。歩行者専用通路にはキオスク(水やお菓子、雑誌、お土産を売っている売店。スペインにはよくある)が並び、時にはランブラス通り沿いのレストランがテラスを出していたり、アンティークを売る屋台があったり、絵かきや大道芸人があったりする。並木道のおかげで道は涼しく、海のおかげで乾燥しすぎていない。心地よい風に吹かれながら、この町の熱狂を感じられる道だ。まさに、ずっと歩いていられる、「終わってほしくない」道なのだ。

歩けばすぐにわかるが、明らかにスリもいる。何も持たず、単独行動で、すーっと道に入ってきては、警戒されていると気づくと外に出る。随分と見え見えなので、素人だろうが、これが何人かいる。また、絶対に買うことはないであろう商品を売る人たちもいる。フランスの閑散とした道を歩いてくると、初めはドキドキしてしまうが、そのうち、正しい気の使い方を覚えてゆくものだ。

わたしは道を歩いているうちに楽しくなって、港が見える広場までたどり着いてしまった。その広場には大きな円柱が一本そびえ立っていて、その先には海の方を指差した男の像が立っている。誰だろう、と思って地図を見てみると、「クリストバル・コロン」というらしい。ご存知、クリストファー・コロンブスのことだ。たしかに、衣装の感じは彼である。彼はイサベル女王に謁見し、スペイン王国カスティーリャ王国カタルーニャを含むアラゴン連合王国の同君連合)の支援で新大陸を見つけた。後で知ったのだが、その謁見の場は、このバルセロナにあった王宮だそうだ。‥‥にしても‥‥今コロンブス像が指差しているのは地中海。コロンブスが目指したのは真逆の大西洋なのだが……その辺はいいのだろうか。などと、いらぬツッコミを入れずにはいられない。

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あとでランブラス通りから反対側から撮った「港の見えるコロンブス広場」のコロンブス像。地中海をさしても、地中海の東半分はもうすでにカタルーニャのものなのに。

こういう、歩いているだけで楽しい道の問題点がひとつある。それはレストランを見つけようにも見つけられないことだ。なぜなら、食欲を歩きたい欲が圧倒してしまうので、いつまでたっても歩き続けちまうのだ。時刻は2時ごろ。スペインでは昼食どきに突入した時間帯だ(遅い)。

そういうこともあろうかと、一応レストランは当たりをつけていた。今までの旅の記録をお読みの方なら、わたしがいかに初めてのイベリア半島に警戒心を持っていたのかがお分かりだろう。わたしが旅の最中に入る店をガイドブックで調べるなんて、ハワイに雪が降り、サハラ砂漠で洪水が起こるような確率の出来事である。

選んだレストランは、値段も手頃で、カタルーニャ料理を現代風にアレンジしたものが食べられるという「Les Quinze Nits(レス・キンサ・ニッツ)」だった。名前が、フランス語のような、スペイン語のような、へんてこりんな綴りだが、これがカタルーニャ語だ。このレストランはランブラス通りにあるのではなく、ランブラス通りから一本入ったところにあるレイアール広場にあるらしい。というわけで、わたしは「港の見えるコロンブス広場(勝手に命名)」からランブラス通りを引き返し、レイアール広場に入ることにした。

レイアール広場は、ランブラス通りから東の方へと伸びる路地を入るとあった。広場、と言っても大きさはそこまで広くはなく、むしろ中庭に似ていた。真四角の形をしていて、四方を建物に囲まれ、石でできた地面が広がる。時折シュロの木が植えられている。そこにはパフォーマンスをする人や、物売りがいて、建物の周りにはテラス席が並んでいた。薄暗いが、活気がある。なぜか大きな建物にはフィリピンの旗が掲げられていた。そういえばフィリピンは、スペイン国王フェリペ2世に捧げられた島であり、米西戦争(スペインvsアメリカ)で奪われるまで、スペインの植民地だったはずだ。しかし、それとこれとは関係あるのだろうか。

おめあての店はすぐに見つかったが、異常に混んでいる。他にないものか、と広場の外にあるもう少し小規模な広場や、そこのさらに外にある猥雑そうな雰囲気とアーティスティックな街灯が不思議な感じを作り出している通りも見てみたが、やはりよくわからない。仕方がない。例の店に入ろう。わたしはヨーロッパの店の入り方が未だよくわかっていなかったが、とにかく体当たりで中へと向かった。するとアジア系、おそらくはフィリピン系のお兄さんがいたので、

「ウン・ペルソン」とお一人様であることを告げた。お兄さんは上へ行けというような仕草をした。混んでいるからだろう。

上の階にゆき、別の人に話しかけた。英語は話せますか(¿Habla inglés?)と尋ねたら、ちょっと待ってろという表情をし、わたし席につけた。どうやらフランスよりも英語の通じは良くないようだ。これは、カタルーニャ語を話せるようになっておくんだった、と思った。

しばらくして、これまたフィリピン系のおばさんがやってきた。このレストランはフィリピン系の人がやっているようだ。

「Korean? Japanese?」と聞かれたので、

「Japanese」と答えると、日本語のメニューが出てきた。日本語はそこまで変ではなさそうだ。

値段はピンキリのようなので、安めのものを頼もうと考えたが何が良いのだろう。周りを見回してみるとみんながみんなパエリアを食べている。パエリアというとスペイン料理の定番とされているわけだが、細かく言えば、バレンシア地方の料理だ。バレンシア地方とはバルセロナのあるカタルーニャのすぐ南にあり、1474年にカタルーニャを中心とするアラゴン連合王国と今のスペインの前身とも言えるカスティーリャ王国が合体するまではアラゴン連合王国の一部であったから、カタルーニャ語が通じる範囲でもある。ようするに、パエリアはどちらかといえばカタルーニャに近い場所の料理ということになる。

といっても、パエリアは普通大勢で食べるもので、一人用ではない。メニューを見ても、二人から承っている。しかたあるまい。それでは、となんとなくカタルーニャ語っぽいものが描かれているもの、しかも魚介を使ったものを頼まんと考え、白身魚のカネロネスなるものを頼んだ。飲み物は、単純な性格なので「バルセロナビール」である。

いざ出てきてみると、カネロネスとはパスタの一種「カネローニ」のことだった。筒状のパスタが白身魚を包み込んでいる。これはイタリア料理だろうか、と思いながら食べてみると、思いの外うまい。クリーミーなソースがカネロネスにからみ、ホッとする味だ。イタリア料理なのかもしれないが、地中海でつながっている。そもそもシチリアナポリはもともとアラゴン王国である。うまけりゃいい。(追記:カタルーニャ料理でも使うようで、他のところで同じようなものを見た。それには「カネロネス・カタラン」というようなことが書いてあったと思う。そして、カネロネスはカスティーリャ語スペイン語)であった。カタルーニャ語では「カネロンス」らしい)

バルセロナビールのほうはというと衝撃的な味だった。これは軽いワインなんじゃないか、と思わせるほどにフルーティな味わいなのだ。いや、今の表現は不適切かもしれない。ワインというよりもむしろ、「白ぶどうジュース(マスカットジュース)」と言っても過言ではないくらいフルーティだった。日本、台湾、ヴェトナム、カンボジア、タイ、カナダ、ドイツの地ビールを現地で飲み、日本でもトルコ、インド、ラオスミャンマーといろいろ試してきたが、こんなのは初めてだった。スカッとしていて、フルーツジュースのような味わい。また飲んでみたいが、日本はおろか、スペイン、フランスではついぞ見かけなかった。

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食事を堪能し、会計をすませると、レイアール広場に出た。さあ、次はどうしよう。次は、実はもう計画があった。憧れの地中海クルーズ(1000円以下)と行こう。地中海までは、ランブラス通りを再び歩き、コロンブスのいる円柱を超えてゆけばいい。実は今までアドリア海は見たことがあっても、地中海は見たことがなかった。これは古代ローマファンとしては恥ずかしい。

(つづく)

7都市目:バルセロナ(1)〜ピレネーを越えてゆけ〜

トゥールーズのやばいホテルを出たのは七時十五分くらいだったろうか。オーナーは部屋で寝ていたが、声をかけて鍵を返すと笑顔で、「Au revoir!(さようなら)」と言ってくれた。もしかするとそこまで悪いホテルはじゃあないのかもしれない。

駅の方向へと運河のような細い川沿いに歩き、トゥールーズに入った時初めて使った道に出た。これでフランスの旅も一旦終わり。少し感慨深い。駅に着いたのは七時四十分くらいだったが、朝食を買いたいので、わたしは朝食をチェーン店のパン屋ポールで調達した。

これが間違いだった。並んでおり、買えたのは八時くらいだったのだ。列車の時間はなんと八時六分。わたしはチケットに刻印をし、エスプレッソとサンドイッチを手に駅構内を走った。途中でエスプレッソがこぼれたのでゴミ箱に捨て、なんとかホームに着いたときは八時五分。これはもうおしまいだ、と思いながら、何とかして車両に入った。危なかった、と思って時計を見ると八時六分をすぎている。これはどういうことだ?と思ったら、車内放送で、

「この列車は遅れて発車いたします」という。おかげで助かったわけだが、いきなりスペインの洗礼を受けたという感じだ。

今回は一等席だった。それというのも、二等席が満員だったらしく、10ユーロ払えば一等車の予約ができると言われ、そうしたからだった。これもトゥールーズでの節約生活の一つの理由だった。一等車は静かで、アメリカ人の老夫婦のグループがいる。スペイン語も聞こえてくるが、基本的には静かである。子供が泣くわ、みんな喋るわだった二等車とは大きな違いだ。間違いない、わたしは二等車の方が好きだ。

二十分ほどだっただろうか。TGVは動き始めた。ピレネーを直接超えるのではなく、もう一度カルカソンヌやベジエなどのオクシタニアの街方へと引き返し、地中海のそばまで戻って南下して、山の横にあるペルピニャンを通って、山脈を超える。そして、晴れてカタルーニャに入るわけだ。

バルセロナは近年の観光客集中で宿が足りていないらしい。宿探しが大変そうだ。だからわたしは、列車に乗りながら、ネットでホテルを予約することにした。調べてみると案の定立地の良いところは満員が多いが、一箇所、手頃な値段でかつ、メインストリートだというランブラス通りからすぐ入ったところにあるホテルを見つけた。あまり治安の良い界隈ではないようだが、ランブラス通りよりなのでトゥールーズの例のホテルよりはマシなはずだ。調べてみると学生寮を貸し出しているという。それなら安心もできる。わたしはネット上でホテルを予約した。ラクな時代になったものである。

電車は地中海沿いの場所まで引き返し、南下を開始した。窓の外には幻想的な水の景色が広がる。地中海か、湖か。それは実はわからない。それからフランス側のカタルーニャの中心地(カタルーニャ語をしゃべっているらしい。恐るべし、陸続き)のペルピニャンを超えて、いよいよピレネー山脈を超える。山の横を通るはいえ、やはり山がちな光景だ。しばらくしてトンネルに入った。

国境のトンネルを越えると、そこはイベリア半島だった。とは言っても見た目はよくわからない。緑色の山に囲まれた、牧歌的な風景が広がるだけだ。ポンポーンという電子音と共に車内アナウンスがなった。

「Proxima estacion, Figueres」

あ。フランス語じゃない。まぎれもないスペイン語だ。先ほどまではフランス語、スペイン語、英語の順だったものが、スペイン語、フランス語、英語の順に変化した。スペインに入ったのである。いや、スペインに入ったというと問題発言になりかねない。少なくともわたしは今、イベリア半島カタルーニャに入ったのだ。

 

カタルーニャ入りした日にはそんなこと考えもしなかったが、一ヶ月半後の2017年10月1日、カタルーニャ自治州で「独立を問う国民投票」が行われた。カタルーニャ自治州は、プッチダモン自治州首相の下、特に最近独立運動を激化させている。独自の大統領を持ち、独自の議会を持つ自治州であるカタルーニャがそこまでスペイン王国からの独立を望むのはなぜか。一つは経済的な要因であり、それは観光業などで潤うカタルーニャの税金が財政難のマドリード政府の方へと取られて行く現状に腹を立てたから、という。だがもう一つは、根深い反マドリード感情がある。彼らはスペイン語ことカスティーリャ語とは異なるカタルーニャ語を話し、歴史もマドリードを中心とする現スペイン王国とは異なるものを歩んできた。にもかかわらず併合された過去を持つカタルーニャはある種不満を持って当然なのである。

カタルーニャ語は、カスティーリャ語スペイン語)やポルトガル語などの「イベリア・ロマンス語」と違い、むしろフランス語、もっと言えば南仏でかつて話されていたオック語と系統を同じくしている。分かりやすい例で言えば、「〜ください」という時に(英語で言えばPleaseに当たる言葉)、カスティーリャ語では¡Por favor!(ポルファボル!)といい、ポルトガル語ではPor favor!(プルファヴォール)という。しかし、カタルーニャ語では、Si us plau!(スィスプラゥ!)で、むしろフランス語のS'il vous plaît(シルヴプレ)に似ている。ちなみにオック語はSe vos plai(セボスプライ)だそうだ。

どうして、ピレネーの向こう側なのに、こんなことが起こるのか。それは歴史を見れば一目瞭然である。

時は中世。スペインの南半分は北アフリカからやってきたイスラーム王朝ウマイヤ朝が治めていた。ウマイヤ朝の軍隊は一度ピレネー山脈を超えて攻め込んだこともあったが、フランク王国はこれを撃退、ピレネーの南にイスラーム勢力を封じ込めた(いわゆる「トゥール・ポワティエ間の戦い」である)。ウマイヤ朝の侵攻の前、スペインは西ゴート王国が支配していたが、ウマイヤ朝の猛攻の前に国家は崩壊し、北部アストゥリアス地方でゲリラ戦を展開しながら抵抗したゴート貴族のペラーヨが作ったアストゥリアス王国が残るのみであった。フランク王国はそんなスペイン北部、それもアストゥリアス王国のある北西部とは反対側の北東部に進出したのである。

フランク王はスペイン北部を「スペイン辺境伯領」とし、そこに幾人かの「伯爵(グラーフ)」を置いた。そのうちの一人がバルセロナを治めるバルセロナ伯爵だった。歴代のバルセロナ伯爵は徐々に勢力を拡大、いつしかスペイン辺境伯領のほぼ全土を治めるようになる。さらにイスラーム勢力との戦いで武功を挙げ、名誉の死を遂げるものもいた。そのうちの一人は、駆けつけたフランク王に看取られ、その時王は4本の指を血に浸し、バルセロナ伯爵の持っていた金色の盾に縦線を描き、その武功をたたえたという。金地に赤の4本線は、今でもバルセロナ、ひいてはカタルーニャのシンボルだ。

だが、フランク王国の時代は長く続かない。フランク王国は相続の関係上三つに分かれ、スペイン辺境伯領は西フランク王国(のちのフランス王国)の配下となるが、代々国王を輩出してきたカロリング家が断絶してしまうのだ。カペー家のユーグ・カペーが国王に選出されると、予てからフランクの支配下にあり続けることに不満を持っていたバルセロナ伯爵は、ユーグ・カペーの王位を承認せず、事実上独立を果たす。当時のイベリア半島は群雄割拠の時代である。南のイスラーム王朝があるのはもちろん、アストゥリアス王国は首都をレオンに移し、レオン王国と名乗りイベリア半島北西を中心に勢力を拡大していた。また、ピレネー山脈西部には、この土地にローマ時代から住み、独自の言語、独自の文化を持つバスク人たちの国であるナバラ王国があった。

1004年、ナバラ王国でサンチョ3世が即位。彼はナバラ王国と婚姻関係にある諸国を次々と併合。バルセロナ伯領も例外ではなく、臣下にくだらざるをえなくなる。サンチョ3世は、1034年にはレオン王国を武力的に併合、レオン王となるや否や、「イスパニア皇帝」を名乗り、スペイン北部を統一して見せた。が、翌年1035年、サンチョは急死、イベリアは戦国の世に逆戻りする。その中で新たに生まれたのがスペイン中部を拠点とするアラゴン王国だった。さらに、レオン王国内部では有力貴族カスティーリャ伯爵が台頭、ついにはレオン王国を軍門に降らせ、レオン王国全土を乗っ取り、カスティーリャ王国が誕生する。この情勢の変化の中で、バルセロナ伯領はアラゴン王国との友好を図って行くことになる。そして1137年、時のアラゴン国王レミロ2世には男子が生まれず、娘ペトロニーナが一人娘だった。レミロは俗世から離れ、聖職者になることを望んでいたが、当時は強大な軍事力を持つカスティーリャ王国が勢力を拡大する時代であり、この状況で娘に王位を継がせるのは危険と判断した。そこでレミロはバルセロナ伯爵であるラモン・バランゲー4世と娘を結婚させることを考えた。そして、それぞれの国政は変えぬまま合同する「同君連合」を築こうというのだ。バルセロナ伯爵もこれをのみ、ここにアラゴン連合王国が誕生する。

その後アラゴン連合王国はメキメキ力を伸ばして行く。

ペラ2世は軍事に秀で、イスラーム勢力との戦いに身を投じ、ローマ教皇インノケンティウス3世と同盟した。その戦いの中でも有名なラス・ナバス・デ・トロサの戦いでは当時イベリアを支配していたムワッヒド朝に大打撃を与えることに成功し、カタルーニャの南、バレンシア地方の一部を獲得した。一方で親族であったトゥールーズ伯爵レーモン6世(覚えておられるだろうか?)に味方し、アルビジョア十字軍に対抗、一時優勢となったが、その戦いの中でペラ2世自身が戦死してしまう。次のジャウマ1世は教皇と和解、さらにマヨルカ島などを含む島々の王位を手にし、ペラ2世が始めたバレンシア制服の完成へと導いた。このころから、アラゴン連合王国は海の覇者となってゆく。それはバルセロナという良港をもっているためでもあり、さらにイベリア半島カスティーリャ王国が勢力を固めていたこともあった。

その次のペラ3世の時、イタリアの南、シチリア半島で事件が起こる。かつてシチリアはドイツを中心とする神聖ローマ帝国皇帝の治める土地だった。イスラーム文化やオリエントの文化とヨーロッパ文化の交差点であったシチリア島は開かれた空気を持っており、シチリア出身の皇帝フェデリコ2世は教皇庁と対立、その後の代でもその対立は続いた。教皇は自分の息のかかった人物をシチリア島の王位につけようと画策し、フランス王家のシャルル・ダンジューに白羽の矢を立てた。だがこのシャルル、かなりの野心家であった。王位につくや否や、支配層をフランス人に限定して強権的な支配を行い、密かに東のキリスト教の大国ビザンツ帝国の併合を目論む。これに恐れをなしたビザンツ帝国は、地中海の新興国アラゴン連合王国に目をつけた。ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスはペラ3世と同盟し、シチリア島でフランス人支配に反発した民衆が暴動を起こすと突如シチリア島を攻撃し、シチリア島からシャルルを追い出し、ペラ3世はシチリア王位を手に入れた。その後、アラゴン連合王国はシャルルの子孫が治めていたナポリまでも手にし、イベリア半島東部、地中海の島々、シチリア島イタリア半島南部と、西地中海の覇者に躍り出る。

一方、イベリア半島では「レコンキスタ(国土回復運動)」がカスティーリャ王国の下進行中であった。カスティーリャから独立したポルトガル王国なども共に、南を支配するイスラーム王朝と対決し、徐々に徐々に南へ、南へと領土を広げていた。特にペラ2世が活躍したラス・ナバス・デ・トロサの戦い以降はものすごいスピードで各地のイスラーム王国(タイファ)が降伏、1400年代後半には南の端にあるグラナダ王国ただ一つを残すのみとなっていた。

ここにきてカスティーリャ王国アラゴン連合王国は、それぞれの制度を残した同君連合という形で国を統合することにする。カスティーリャのイサベル女王とアラゴンのフェラン2世が結婚し、二人がこのスペインの王となった。そして1492年、ついにグラナダ王国が降伏、ついにレコンキスタが完了した。その後、両王国はそれぞれの制度を尊重しつつ、共存してゆく。イサベルとフェランの死後、一人娘フアナの夫でオーストリアハプスブルク家出身のフィリップが王位につくも、急死。精神錯乱となったフアナの摂政となった息子のカルロスがスペイン王位についた。このカルロスはカール5世としてその後ドイツやオーストリアを治める神聖ローマ帝国皇帝としても即位、さらにさらにコロンブスによる新大陸発見以降のめまぐるしい征服活動により、スペインは中南米、スペイン、ポルトガル、イタリア南部、地中海の島、オーストリア、ドイツ、ベネルクスを支配することになった。次の代のフェリペ2世の時代には、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるようになる。この時代も、カタルーニャは自国の制度を守り、カタルーニャ語で政治を行っていた。

ことが変わるのは、1700年にスペイン王カルロス2世が死去した時だった。子供のいないカルロスは次の王位をフランス王家ブルボン家のフィリップに譲ると宣言して死去。これに対してハプスブルク家のカールが反発した。

この一件を裏で手を引いていたのはブルボン朝フランス第三代国王ルイ14世である。彼は太陽王と呼ばれ、フランス王国の黄金期を築き上げた国王だった。国内では王自らが政治を行う親政を敷き、所領を持つ貴族たちがそれぞれの領土を経営する封建制度ではなく、国王に忠誠を誓う官僚が中央で政治を行い、各地を支配する体制を築いた。軍隊に来ても、国王の軍が全国を支配していた。ルイ14世は国内の統制を行うと、国外の侵略を目指すようになる。その中で神聖ローマ帝国領土だったアルザス地方の割譲などを行わせるが、スペイン王国にも目をつけるようになる。カルロス2世に次王をブルボン家のフィリップにさせたのも、その戦略のうちだった。

さて、この事態にハプスブルク家カール大公以外に危機感を感じる人たちがいた。それは、他でもないアラゴン連合王国であり、カタルーニャだった。もし、スペイン王国ブルボン家のものになれば、フランス同様貴族の特権は奪われ、国は一つにされる。今までは共同統治という形で権利が守られてきた誇り高いアラゴン連合王国ブルボン朝の下、滅ぼされてしまうのではないか。ハプスブルク家ブルボン家が戦争状態に入ると、同じ危機感を覚えるポルトガルがフランスの拡大に危機感を覚えるイギリスと共にハプスブルク側につき、1705年にカール大公を奉じてバルセロナを占領。カタルーニャはこれを機にブルボン朝に反旗を翻し、ハプスブルク側についた。この戦いはヨーロッパ全土、さらにはインドや北アメリカまで波及してゆく。世に言うスペイン継承戦争である。

カール大公はバルセロナを本拠地とし、バルセロナは最後まで街を守りきった。さらに一度はマドリードを落としている。だが国際情勢は厳しかった。ヨーロッパではフランス優位であり、カール大公が皇帝となるとイギリスはハプスブルク家の拡大に危機感をみせて和平を探るようになる。そして1714年にユトレヒト条約が結ばれるとこの戦争は「終結」した。ただ一つ、カタルーニャを除いては。バルセロナバレンシアなどを失いながらもなんとか持ちこたえ続け、ブルボン朝スペインは包囲を解かない。しびれを切らしたフランス王国は援軍を派遣。その圧倒的な軍事力の前に、ついに1714年9月11日、バルセロナは陥落した。スペイン王国カタルーニャに対して、公的な場でのカタルーニャ語の禁止、自治権の停止を含む「新組織王令」を突きつけ、カタルーニャはここに独立を失った。9月11日は、屈辱の日として、カタルーニャの人々の心に刻まれている。

それからは苦難の時代だった。カタルーニャナバラバスク)とともに経済的な成功を収め、自治権を要求。だがブルボン朝カタルーニャ自治権を認めず、時代は18世紀終わりのフランス革命の時代へとうつってゆく。旧体制との戦いを繰り広げたナポレオンは、ブルボン家が治るスペインとも交戦し、ついに占領する。革命後の共和国派が地方言語を迫害したのに対し、フランスのナポレオンと戦って、その中でスペイン流の改革を志したスペインの共和国派はカタルーニャなどと行動を共にし、中央集権から地方分権を目指した。結局ブルボン朝がスペインでは返り咲き、その夢は潰える。だが、1868年、時の女王イサベル2世が追放の憂き目に会い、イタリアから呼び寄せたアマデオ王が自国に戻ると共和制が発足。カタルーニャも自治州となり発言権を手に入れた。が、さらなる力を求めようとした一部カタルーニャなど自治州の人々の反乱で共和国は倒れ、王政に戻る。その後はまたカタルーニャ自治権は無くなったが、自治権を要求するための地方政党リーガを結成、カタルーニャ語は禁止されていたものの、サッカースタジアム、カンプ・ノウのなかでカタルーニャ語は守り抜いた。バルセロナサッカーの熱気は、失われた祖国への思いでもあるのだ。そして1930年に第2共和制が発足すると、再び自治権を要求した。左派政権はこれを認めたが、右派からは大きな不評を買うことになる。この左派と右派の軋轢はついに内戦となり、スペイン内戦が起こる。

1939年にスペイン全土を右派軍事政権であるフランコ政権が制圧すると、「Si ères español, habla español(スペイン人ならスペイン語を話せ)」のモットーの下、カタルーニャ語を含む地域語は激しく迫害された。その迫害の規模はかつてないものであった。学校でカタルーニャ語を使用しようものなら、懲罰を食らったという。かつてナバラ王国が栄えたバスク地方では、この動きに抵抗し、スペインからの分離独立を求める過激派勢力ETAが結成され、中央政府へのテロも行われた。その一方、フランコ政権は第二次世界大戦ナチスが倒れるや、アメリカに接近。観光国として発展を遂げてゆく。

1975年フランコが死んだ。フランコの遺言通りブルボン朝のフアンカルロスが王位についた。フアンカルロス王はなんと民主化を宣言。スペインは、カタルーニャバスクなどを「自治州」とし、大きな自治権を与える「自治州国家」となる。カタルーニャ語の学校教育も晴れて認められた。バルセロナを中心とするカタルーニャ自治州の経済規模は首都マドリードと張り合えるほどであった。新たなるスタートを切ったスペイン王国だったが、2000年代に入ると、リーマンショックギリシア危機のあおりを受けて失業率が増加、財政難に陥った。これに不満を持ったのがカタルーニャだった。独自の経済を持ち、さらに近年、19世紀後半から20世紀にかけて活躍したカタルーニャ出身の建築家ガウディ人気、サッカーチームのバルサ人気などで勢いづいたバルセロナ観光ブームが巻き起こり、富を得たカタルーニャが、なぜか、かつて自分達を無理やり支配し、しかも歴史的に見れば全く違う国だった、財政難にあえぐスペイン王国に税金を払わねばならないのか! そんな中、カタルーニャ自治州の政権は独立派が担うようになり、ついに2017年、自治州首相プッチダモンが独立を問う国民投票を決行したというわけだ。結果はご存知の通り、中央政府による閉鎖などもあったこともあり投票率は40パーセントほどで、賛成派が9割を超えている。カタルーニャ中央政府との交渉のために二ヶ月間独立宣言を凍結し(凍結ということは解凍もできるということだろう)ているが、政府は交渉に応じていない。

さて、600年代から現在まで駆け抜けてしまったので歴史パートがかなり長くなってしまったが、これはカタルーニャという土地を知って欲しかったからだ。カタルーニャフランク王国の家臣からスタートし、一度は地中海の半分を支配した。それがスペイン継承戦争で併合され、フランコ政権では自分の言葉を禁止された。現在の独立運動や彼らの誇りはそんな歴史に裏打ちされている。だからこそ、歴史を知らねばならない。歴史を不完全な知識ながら書かねば、バルセロナの旅を書いたことにもできなかった。

 

さて、バルセロナ・サンツ駅に到着して驚いたのは、フランスのように地上に普通に到着するのではなく、地下に到着することである。地下にあることもあり、プラットフォームは異常に暑い。表示を見ると、一番目立つところにあるのはやはり、カタルーニャ語だった。ひとまず地上を目指す。

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地上に出ると、駅がかなり巨大であるのに気づく。フランスの駅の規模というのは、ずいぶん小さかったみたいだ。わたしは「M(地下鉄)」のマークを見つけ、降りて行った。ホテルはメインストリートのランブラス通りにある「リセウ駅」のすぐそばにとったので、地下鉄で向かうことにしたのだ。初めての「スペイン」で、スリに少しおびえながらチケットを買い、足早に地下鉄のホームへと向かった。

地下鉄のホームは蒸し暑い。久しぶりの地下鉄だ。パリなどとは違って、なぜか駅の線路の向こう側にモニターがあって、「改札はちゃんと出入りしましょう」という動画を流している。電車がやってきたので、リュックを体の前に持ってきて乗りこんだ。放送もやっぱり、「カタルーニャ語スペイン語、英語」の順番だ。ここは、スペインではなく、カタルーニャなのだなと思った。広告も何もかも、カタルーニャ語しか見ない。

リセウ駅までは、サンツから青色の線に乗って、U字状の路線を行く。明らかに遠回りな気がするが、仕方ない。違う雰囲気、違う言語。ついにイベリア半島か、とわたしは少しテンションを上げた。

リセウ駅から地上に出ると、そこはすぐにランブラス通りだ。事前情報も何もなく通りに出てみると、広い通りの真ん中に、歩行者用の道があり、それの周りには並木がある。暑いが、海風のせいか湿気もあり、風が気持ち良い。ランブラス通りの木々はまるで新緑のような、明るい緑色をしていた……とはいいつつも、スリに気をつけつつ、私はおめあてのホテルのある通りに入った。

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その通りの前には客引きがおり、これはまずいところに来ちまったかなと思ったが、工事現場用の足場で覆われた学生寮は、外見はともかく中は清潔そうである。

「Hola!(こんにちは)」と声をかけてみたら、通じた。当たり前だが、Bonjourではない新鮮さをかみしめる。といっても、これ以上は無理なので、英語で予約してあると伝えた。フロントのおばさんは不思議そうな顔をしている。どうやら、直前に予約したために、紙には印刷されていないようなのだ。パソコンからわたしのデータを見つけたおばさんは鍵を出し、外に出るときは鍵を返してくれと伝えた。

「Gracias!(ありがとうございます)」と伝えて、わたしはエレベーターで四階にある部屋へ向かった。一応カタルーニャ語のつもりなのだが、この辺はカスティーリャ語と同じなので困る。

部屋は適度に狭く、ちょうどよかった。黒を基調としたシックな部屋で、きちんとテレビもある。テレビはその国の文化を見る窓。ここに来て見られてよかった。

顔を洗い、レストランの当たりをつけ、わたしは外に出ることにした。

(続く)

6都市目:トゥールーズ(3)〜バラ色の意味〜

エスキロル広場をまっすぐ歩くと、トゥールーズに流れるガロンヌ川にたどり着く。川面は日光を受けて輝き、川の向こう岸にはドームのある建物と観覧車が見える。暑さのせいか少しぼやけていて、太陽のせいで真っ暗な影のように見える。

わたしは新しい街に行くと、川を見たくなる。エジプトはナイル川の賜物で、文明は川から始まる。その街に流れる川とは、その街を作り上げたもの。だから川を見つめることが、街を見つめることでもある……などと、格好つけたことを言ってみても、意味がない。わたしが川に行きたいのは、単純に気持ちが良いからだ。川の風、流れる水。街中ではわからない世界の広さを川が教えてくれる。そんな広さを感じながら川辺を歩くのは気持ちが良い。細い川でも水の流れが良い。それを見つめていると、何か答えを与えてくれるような気がする。

川辺の道路から、降り坂を下りて行くと、公園のようになっており、老若男女が川辺の穏やかな時間を楽しんでいる。芝生にはたくさんの人が寝っ転がっている。わたしもやってみたくなって、芝生のところまで行くと、空いている場所に寝っ転がってみた。が、太陽が眩しすぎる。ホテルを急いで出たため、サングラスを置いてきてしまった。仕方がないのでわたしは起き上がって、芝生に腰掛けた態勢でいることにした。

「Bateau! Bateau!(船だー、船だよー!)」

どこからか男の子の声がする。川には観光船がいて、たくさんの観光客を乗せていた。川幅は広く、船が二隻は通れそうだ。あの船はどこまで行くんだろう。船は、あの小さい子にとっても、ロマンの塊なのだろうか。船は男のロマンだ。

わたしはふとバンコクのことを思い出した。かつてバンコクに行った時、友達がダウンして、わたし一人で歩いていたことがある。あの時わたしは川の船着場を見つけ、舟に乗った。どこに行くのかもわからない舟だった。時間はたっぷりある、どこにでも行けばいい。きっとなんとかなるだろう。そう踏んでいた。しかし、行き先は対岸にあるワットアルンという寺院だった。少しがっかりしたが、川を渡るときは気持ちがよく、寺院も良い雰囲気だった。

また乗ろうか。だが、今は倹約中。節約が、何か成長を促してくれるんじゃないかと貧乏旅行をしてみたが、思い返すと、節約が明らかに制約にもなっている。わたしは乗らなかった。ただ、川を見つめて時間を潰した。

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夏の川辺は笑顔が絶えない。わたしは立ち上がり、ひとり坂を登って街へと戻った。時間はまだまだある。わたしはもう一度ローマ通りの方へと向かった。

相変わらず賑わっている。入るべき店があるわけでもないので、ストリートミュージシャンの音楽を聴いたり、路地に入ってみたりした。路地裏には、何やら博物館があった。だが、閉館時間が近い。入るのはやめて、道という名の博物館にい続けることにした。

五時くらいになって、もう一度ホテルに戻ることにした。パソコンが無事かどうか確認しておきたかったからだ。エスキロル広場を川の反対方向に、アルザスロレーヌ通りという歩行者天国風の通りを進んだ。レンガ色のオーギュスタン美術館が道の隣にはある。道の真ん中には平たい円柱型のベンチがあり、並木がある。ローマ通りのように、ここもトゥールーズ人の生活の中心なのだろう。途中でベンチに座ったりしながら街を歩くと、ゆったりとしたトゥールーズの空気感を感じた。するとキャピトル広場が目の前に現れた。

先ほどは気づかなかったが、キャピトル広場の地面にはオクシタン十字が描かれている。こうやって街を歩くとわかる。ここは間違いなくパリとは違う場所なのだと。ここはトゥールーズオクシタニアの首都である。

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オクシタン十字架。カタリ派結集の象徴であり、ラングドックの紋章。https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Creu_occitana_amb_fons.svgより。

なんとなくまだ歩き足りない気がして違う道に入ってみた。しばらく歩くと小規模な広場がある。それを超えると、再び川辺についた。対岸への橋に近い場所で、眼下に先ほどまでいた岸が見える。上から見ると、川はより輝いていた。男女がゆっくりと散歩し、街が生きている。そろそろ、ホテルに戻ってもいいなと思った。

キャピトル広場を通り、ウィルソン広場まで引き返し、ジャンジョレス大通りをまっすぐ進んで、わたしは例のホテルに戻った。相変わらずホテルにオーナーの姿はない。喫煙席のような臭いの二階へ上り、真っ暗な廊下から部屋に入った。相変わらず臭いが、何もとられたいなさそうだ。案外悪くないホテルかもしれない。

ベットに座ったが、ベッドもかなり臭く、仮眠しようという気分にはならない。かと言って何もすることもないので、明日のバルセロナの情報収集などをして時間を潰した。

 

七時くらいになって、わたしは外に出ることにした。フランスのレストランが開く時間だ。そろそろカスレを食いに行こう。

外はまだ明るい。フランスの夏の日没は九時だ。あまり治安が良くなさそうなので、九時にホテルに戻ってこれれば良い。そう思いながら、わたしはエスキロル広場を目指した。

この時間ともなると、レストランPère Léonも混んでいる。相変わらずどうしたらいいのかわからないので、店内に入り、一人ですと告げたが、ウェイターが来る様子もないので、テラス席に勝手に座った。中に何人か人がいたはずなのに、テラス席のあたりは一人のウェイターが回している。隣の席の赤ちゃんが皿を割ったり、新規の客の応対をしたり、それに応対するだけでも目が回りそうだ。わたしのところにはなかなか来ない。どうしたら良いかわからずずっとウェイターを見ていると、やっと気づいたようで、メニューを持ってきた。

カスレは20ユーロ。仕方ない。このための倹約だ。昨日までならワインでも頼んだろうが、今日のわたしは節約の鬼。水で結構だ。また大変な時間をかけてウェイターを呼び出し、注文を伝えた。はじめはぶっきらぼうだったが、単純に忙しいのだろう。笑顔を見せたら自然な笑顔で応対してくれた。

まるで最後の晩餐のイエスのようにパンと水だけでアペロしながら、目の前にあるバス停の人間模様を見ていた。先ほど話しかけてきた青い服の女性は、別の青い服の人と話している。市営のボランティアか何かなんだろう。ベンチには老人が座っていて、隣に座っているノースリーブの女性に少しずつにじり寄っている。日本じゃ犯罪である。

「ボナペティ(召し上がれ)」とウェイターがカスレを持ってきた。カスレというのは、カッソールという土鍋で焼き上げるからカスレらしい。だからわたしのオーダーしたものも、土鍋に入っている。一人分とは思えない量の素朴な色のカスレを、わざわざ取り皿に入れて食べる。一口食べて見て驚いた。ものすごくうまい。ちょっと塩辛いなと思うくらいの塩加減、そしてよく聞いた鴨肉の出汁。白インゲン豆はホクホクで、鴨のコンフィはほろほろで、オクシタニアでしか作られていないソーセージは濃厚、スプーンが止まらない。

と、調子に乗って食べていると、3分の2くらい食ったところで満腹になる。くるしいが、アジア人と思って舐められちゃ困る。それにうまいのである。この辺でしか作られていないという特別なソーセージも、鴨肉のコンフィも、だし汁も。わたしは懸命に食べきった。

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「デザートはいかがですか?」と店員が尋ねてきた。

「いえ、もうお腹いっぱいなので、コーヒーをください」とわたしは伝えた。たいていのコーヒーにはクッキーが付いており、デザートということにもできるし、コーヒーを頼むのは常套手段だ。だが今回は、本気でお腹がいっぱいだった。

しかし不思議なもので、エスプレッソコーヒーを飲むとパンパンの腹も落ち着きを取り戻す。わたしはクッキーもちゃっかり食べて、大満足のうちにトゥールーズの1日を終えた。最近面倒でチップというものを払っていなかったが(安心してほしい、ヨーロッパでは平気なのだ)、今回ばかしは少し払って、店を出た。

帰りがけにキャピトル広場に行くと、日はもう暮れかけていて、いわゆる「マジックアワー」の時間帯であった。夜の紺と夕暮れの赤が混ざり合い、空は薄い紫色に染まっている。わたしは日が落ちる前にホテルに着きたかったので少し焦っていたが、広場を見たときハッとした。薄紫色の空とトゥールーズのレンガが合わさると、確かに「バラ色」になっていたのである。トゥールーズは「バラ色の街」と呼ばれる。今になって、バラ色の意味がわかった。

街にはそれぞれ、最も美しくなる瞬間があると思う。それは一昨年、去年くらいからの持論であり、例えば、ローマは夜、台北も夜、バンコクは日の落ち始めた頃のオレンジ色の夕暮れ、ヴェトナムの街は朝になる。それはその街が最も美しく、最もうまくその個性を発揮しているときだ。トゥールーズは夕暮れだろう。バンコクとは違って薄い紫色の夕暮れだ。

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さて、ホテルに戻ると、太陽は落ちようとしていた。案の定何事もなく臭い部屋に入り、寝ることにした。シャワーもどこにあるのかよくわからないし、1日ぐらいシャワーを浴びなくても生きて行けるだろうと踏んで、すぐに寝ることに決めた。歯を磨き、なぜだか蛇口から出てくる七、八十度はありそうな熱湯(おそらく別室のシャワーと連動している。ストラスブールでも自分の部屋のシャワーと連動して、大変だった)でなんとか口をゆすぎ、顔はウェットティッシュで拭うと、貴重品袋から明日の列車のチケットを取り出した。

「TOULOUSE MATABIAU→BARCELONA SANTZ」

ついに、ピレネー山脈を超えるのだ。ついに、初めての、そしてわたしの家族の中でも初の「スペイン」入りをするのだ。胸を躍らせながら、わたしはタバコ臭いベッドに入り、眠った。

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6都市目:トゥールーズ(2)〜カスレクエストと理系のロマン〜

できるだけ先ほどのホームレスのいるところを避けながら、わたしは街の中心部へと戻った。何だか暑い。泊まる場所があんな感じだと少し元気もなくなるもののようだ。

三時にランチ場所が空いているのかよくわからないので、ウィルソン広場のハンバーガーショップ「Quick」に入ってみた。フランスで安くて美味しい店はないかとフランスに語学留学していた友達に聞いたところ、ここがいいと言っていたからだ。食券機のようなものでオーダーするというのは聞いていたので、モニターをいじってみたが、使い勝手が悪い。悪戦苦闘しながらチーズバーガーとポテトとミニッツメイドのセットを注文していると、おばあさんがやって来て何やら聞いてくる。何を言っているのかわからないので、すみません、英語は話せますか?と尋ねると、メガジャイアントを頼むのかと聞いてくる。私は違うものを頼む予定だったので、違うと答えた。するとおばあさんはどこかに去って行った。

機械に支払おうとしたが、支払いはカウンターらしい。カウンターに近づくと、お姉さんが馬鹿でかい声で数字を叫んでいる。しかし残念ながらフランス語の数字はマスターしきれていない。困っているとさっきのおばあさんだ。あなたじゃないのと指を指す。あまりにもQuickすぎるなと思ったが、案の定わたしのオーダーだった。明らかにめんどくさそうな表情のお姉さんに支払って、わたしはテーブルについた。

ハンバーガーはヨーロピアンサイズなのかと思いきや、思いのほか小さい。ポテトはべろんべろんで、パテはペタッとしていて、チーズはかなりのチーズ味。嫌いな人は嫌いそうだが、わたしは嫌いじゃない。チーズバーガーを喰らっていると、先ほどのおばあさんが前の席に座ってハンバーガーを食べ始めた。そういえばわたしの友人もディジョンのQuickでおじいさんと交流したと言っていた。そういうのもいいだろう。それに、わたしにはこの街で土地の人と喋りたい理由があった。

トゥールーズは山に囲まれていて、鹿やカモなどのジビエ料理が有名だ。中でも、鴨のコンフィ(平たくいえば素揚げ)を、ソーセージや白インゲン豆の煮込みに乗せて、さらにオーブンで焼いた「カスレ」という料理は名物である。わたしはこの料理をテレビのフランス語講座で知って、そのあと鎌倉のレストランで食べ、大好きになった。フランス料理屋を舞台にした近藤史恵のミステリ小説『タルト・タタンの夢』にもカスレが出て来て、読んでいるそばからお腹が空いたのを覚えている。トルコのイスケンデルケバブといい、ヴェトナムのフォーといい、インドのラムカレーといい、わたしは肉を煮込んだ料理に目がないらしい。とにかく、トゥールーズに来たからには、これを食べずにはいられなかったが、どこで食べられるのかすら知らなかった。だから現地人の人の協力が不可欠だったのである。

わたしは、トゥールーズ人を「Toulousain」というのを思い出し、勇気を振り絞っておばあさんに話しかけてみた。

「Vous êtes Toulousaine?(トゥールーズの方ですか?)」

「ええ、そうよ。ずっと住んでいるわ。あなたは?」おっと、カスレの話に持って行く前に世間話になってしまったが、まあいいだろう。

「日本からです」

「どれくらいヨーロッパに住んでいるの?」なぜかヨーロッパに住んでいる設定になってしまった。

「これはヴァカンスなので、一ヶ月です」

「仕事?あ、それとも大学?」おばあさんは聞く。

「えーっと、ヴァカンスです」

「家族がヨーロッパにいるの?」

「いえ、そういうわけでは」

「一人で旅行?」

「ええ、まあ、そういうところですね」

「あら!」このあと知ることになるが、ヨーロッパ人にとってひとり旅は結構驚きのようだ。これは意外だった。

「日本のどこ?」おばあさんは続けた。

「東京です」

「あらま、じゃあ、大都市ね。大都市には慣れてるのね。トゥールーズはそんなに大きくないですけどね、フランスでは大きい方よ。スペイン語はできる?」とおばあさんが聞く。きっとわたしのフランス語があまりに不自由だったからだろう。面白いのは、スペインにもほど近く、歴史的にもカタルーニャと関係の深かったトゥールーズでは、「英語<スペイン語」だということだ。正直いうと、フランス語の方ができる。スペイン語はまだ半年しかやっていないのだ。だが、なんだか嘘がつけず、

「えーっと、Un poco, un poquito(少しだけですけど)」と答えた。

「Tokyo es muy grande, grandioso, ¿no?」東京は大きいというような意味だ。うん、フランス語の時にもう聞き取れているし、スペイン語の方がきついのである。

「Si(西:はい)」と一応答え、わたしはおめあてのカスレの話を聞くことにした。「Eh, Où on peut manger de bon cassoulet?(仏:えーっと、どこで美味しいカスレは食べられますか?)」

「ああ、カスレが食べたいのね。たくさんあるけど…」おばあさんは少し悩んで、「Père Léonは美味しかったわ」と答えた。わたしはツーリストインフォメーションで手に入れた地図を取り出して、書いてくれというような仕草をした。おばあさんはあまり目が良くないらしく、今どこかと尋ねた。ウィルソン広場を指差すと、こっちの方、といいながら、「Esquirolにあるわ」といった。指差したところのそばには、「Esquille」という通りがあったので、ここかなと思った。記憶が曖昧になっている可能性もある。その通りはかなりこじんまりしているので、すごく小さな店なのだろう、などと色々と想像しながら説明を聞いた。

おばあさんと別れると、わたしはお盆を片付けて、Quickを出た。一応、その店がある通りに行ってみよう。それに、きちんとキャピトル広場も見ておきたいではないか。

ウィルソン広場を抜けて、ツーリストインフォメーションのある別の広場に入り、さらに進むとキャピトル広場がある。赤茶けた建物に真四角に囲まれた広場は直射日光をもろに受けている。美しさの本領を発揮するのは、きっと日暮れの後だ。だが、ホテルの立地から考えるに、あんまり長居はできない。広場は今は暖炉のようだ。しかしそれでも、この広場の持つ風格はある。この広場ができるかなり昔だと思うが、この街はかつてトロサと呼ばれ一国の首都であった。西ローマ帝国が弱体した後にフランスの南半分からイベリアを支配した西ゴート王国の首都だ。今の感覚でいうと、ポルトガル、スペイン、南仏は一つの国で、その首都がピレネー山脈を隔てたトゥールーズにあったわけだ。わたしは広場をしばらく眺めた。キャピトルというから、広場でひときわ目立つのは市庁舎。フランスの旗とEUの旗にならんで、赤地に刀のように鋭く尖った金の十字架の紋がある旗がなびいている。かつてはカタリ派結集のマーク、今ではオクシタニアの旗だ。広場の端っこでは、観光用の電車がちんちんいいながら走っている。わたしは路地に入って街を散策しつつ、例のカスレ店を見つけることにした。

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トゥールーズに来て驚くことは、全てが赤茶けていることだ。人はこれをバラ色というらしいが、やはり赤茶けている。限りなく赤に近い赤茶色のレンガで建物のほとんど全部が作られており、どこを歩いても赤茶けている。まるで異世界のようだ。フランスでは、ほとんどが白っぽい街なので珍しい。

レンガの壁に貼ってある標識は、ニ言語表記だ。前回触れたように、トゥールーズを中心地とするオクシタニアはかつてフランス語ではなく、オック語圏であった。もう話している人は少ないというが、一応尊重するという形で標識にはオック語が載っている(と、フランス人は言っていたのだが調べてみると絶滅危惧にはなっていないようだ)。時には、オック語だけのものもある。フランス語よりも、マルセイユの方でかつて話されていたプロヴァンス語や、ピレネー山脈を超えた向こう側にあるカタルーニャカタルーニャ語に近いと聞いたことがあるが、標識を見ればなんとなくわかる。

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上の「リュ・パガミニエール」がフランス語で、下の「カりエラ・パガミニエラス」がオック語だ。カタカナにしてみると、どことなくイベリア半島のかほりがする。他にもVをBの同じ音で発音するなど、イベリア半島の言語に近いところがある。オック語はアルビジョア十字軍のあと、フランス王国による悪名高き「ヴィレル・コトレの勅令」で公的な立場から追放され、民衆の言葉になった。フランス革命後、伝統や文化よりも理性と平等を重んじるジャコバン派政権はフランスの方言追放運動を開始、さらに第三共和制フランスは1881年オック語の学校教育は禁止された。第三共和制という政権もまた、フランスを共和国の理念と平等な市民という考え方で統一しようとしていた。フランスはEU加盟後も言語政策を改めようとはしなかったが、一応二言語表記はあるようだ。

赤茶けた街を歩く。すると教会があった。ずいぶんでかい。そしてこの教会も赤茶けている。周りにある土産屋には、オクシタニアの十字架を掲げた旗も多い、かつては南仏の象徴、今ではお土産というわけだ。しばらく歩くとお目当ての店のあるはずの「Esquille通り」があった。さあ、どんな店なんだろう、と道を歩くと、驚くほどに何もない。ただ一軒インド料理屋があるだけだ。これはおかしい。もしや、潰れてインド料理屋になったのではないか。

仕方あるまい。私は「Esquille通り」を抜けて、散策を続けた。赤レンガで彩られた道を歩き、迷路のような街を進む。どこも同じ色で、どこも暖炉みたいだ。しばらくすると、ジャコバン修道院という大きな修道院があった。レンガでできた素朴で巨大な建物だ。ジャコバン修道院といえば、その「パリ支店」とも言えるような修道院を拠点に勢力を拡大したのが、ここトゥールーズオック語を潰した張本人ジャコバン派政権だ。皮肉な話である。暑いし、せっかくなので入ろうかと思って行ってみると、どうやらしまっている。まあ仕方あるまい。

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その建物を離れると、向かいのレンガの建物の大きな扉の前に「Lycée Collège Pière de Fermat(ピエール・ド・フェルマー中学・高校)」とある。中高一貫校だろうか。学校にしては重厚すぎる。学校の名前になっているピエール・ド・フェルマーといえば、17世紀の有名な数学者として知られている(座標を発明したデカルトや当時数学者のパトロンであり、自らも数論の研究をしたメルセンヌ神父と同時代人)。

フェルマーは特に「フェルマーの最終定理(大定理)」で有名だ。フェルマーは元々このトゥールーズの法律家だった。どうやらトゥールーズは法学で有名だったようだ(今でもトゥールーズ大学は有名で、世界中から留学生が来る。だからアジア人もよく見かける)。当時法律家というと、かなり高い地位にあり、貴族の仕事でもあった。あの頃の貴族の嗜みは、武術やギャンブルに加えて、数学である。そのためフェルマーも数学にはまり込み、自分で難題を考え出しては自分で証明し、その難題を証明部分をカットした状態で他の著名な数学者に送りつけ、「解いてみろ」と挑発することを趣味としていた。かなり、嫌われたようである。だが彼の素養は大したもので、手元には膨大な数の定理があった。フェルマーの死後、息子が父親の残した定理をまとめ、数学者たちはその証明に取り組んだ。ほとんどすべては証明が完成し、フェルマーの業績も世に認められるようになったが、たった一つ、証明されなかった定理がある。それが、「フェルマーの最終定理」だった。

おそらくみなさんも高校で学んだであろう「三平方の定理」というものがある。あれは直角三角形の底辺の二乗と高さの二乗を足したものは、斜辺の二乗に等しくなるという定理だった。これはつまり、ある数を二乗し、別の数を二乗し、その二つを足すと、また別の数の二乗に等しくなるような三組の整数が存在するということでもある。例えば、(3, 4, 5)の三つは有名だ。3×3=9、4×4=16、9+16=25、25=5×5。他にもいくつか存在するが、まあみなさん暇であれば試していただければと思う。フェルマーはいう。これを、二乗ではなく、三乗にしてみたらどうか、と。するとある数の三乗と別の数の三乗を足したらまた別の数の三乗になる、という関係が成り立つ三組の整数は存在しない。そこからフェルマーは、二乗以外では、こういう関係が成り立つ三組の整数は存在しないと導き出したのだ。そのことをフェルマー古代ギリシアディオファントスという数学者の書物の余白に落書きのように書き残し、こう続けた。

「私はこのことに関する驚くべき証明を発見したが、この余白には小さすぎて書ききれない」

この謎めいた一種のダイイングメッセージから、数多くの数学者を巻き込んだ、「フェルマーの最終定理」証明レースがスタートする。オイラーガウスなどの時代を超えた大数学者たちの努力もむなしく、この証明レースに見事回答が与えられるのは、フェルマーの死後、実に330年後の1995年5月のことである。最新の数学を使い、イギリス人のアンドリュー・ワイルズが、日本人数学者谷村豊と志村五郎の予想を証明する形で、フェルマー最終定理の証明を完成させたのだ。この話はスリリングかつドラマの詰まった熱い歴史物語だが、そのスタート地点となったのも、実はこのトゥールーズであった。

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トゥールーズには、もう一つ理系な話がある。それは、この街がESA、ヨーロッパ宇宙機関の街であるということだ。米ソ冷戦時代、二大勢力の宇宙開発に対抗するべく出来上がったのが、ヨーロッパ共同のESAだ。フランスはその前から、フランス国立宇宙センター(CNES)を立ち上げ、冷戦の中でフランスは独自路線を行くというシャルル・ド・ゴール大統領の政策の下、トゥールーズで研究を行っていた。それもあってか、トゥールーズはヨーロッパ宇宙研究の中心地になった。ここには、UFOの研究所もあるとかないとか言われている。

さらに、トゥールーズという町には新取の気質があるのか、フランス航空機の中心地もある。例えば、数多くの飛行機の機体を作っているエアバス社はトゥールーズに拠点を置いているし、パイロットであり作家でもあり、『星の王子さま』で有名なサン=テグジュペリトゥールーズで航空機の教官をしていたことがあった。彼は、『人間の大地』という小説の中で、フランスの海外への航空郵便の拠点としてトゥールーズを描いているのである。これもまた、アルビジョワ十字軍や西ゴート王国とは違うトゥールーズの一面でもある。

フェルマー高校を抜け、狭い路地を歩くと、ケバブ屋や寿司屋が並ぶ界隈があった。さすがは大学街。世界中の人が集まる場でもあるのだろう。その道を歩いていたら、いつの間にかキャピトル広場に戻ってきていた。暑かったのでキャピトル広場をちょっとぶらついてから、裏のツーリストインフォメーションのある広場へと向かい、そこでオレンジジュースを買うことにした。初めて来た時から、フレッシュなオレンジジュース屋があるのが見えていて、気になっていたのだ。一番並んでいそうな店に行き、ジュースを買う。カップの大きさで値段が変わるらしい。少し高いが、私は3ユーロのものを選んだ。青空のもとベンチに座り、ジュースを飲むと甘くてうまい。さて、どこを歩いてきたんだろう。ふとそう思って、私は地図を広げた。

すると、なんということだろう。おばあさんと言っていたカスレ屋のある「Esquirol」が全く別のところにあるじゃないか。かなり南の方に、どでかい通りがあり、そこに「Esquirol広場」とある。そうか、こっちなのか。私は笑い出したい気分だったが、ここで笑い出すと狂人になってしまうので、ひとまずジュースを飲んだ。

キャピトル広場から伸びるローマ通りをなければ、エスキロル広場だ。ローマ通りは路地のような雰囲気があるが人がたくさんおり、ストリートミュージシャンが弾き語りをしている。それを道の反対側にいる人が聴いている。何と無く懐かしくなるような物哀しい旋律だ。始めて来た通りなのに、なんだか知っているような、雰囲気がある。

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石畳の賑わった通りをひたすらに歩くと、大きな通りに出た。どうみても通りだが、エスキロル広場。目の前にはバス停がある。バス停の向かいに大きなレストランがあったので名前を見ると「Père Léon」とある。地元のおばあさんのおすすめ、というイメージからは程遠い、こぎれいなカフェとレストランを合体させたような店だった。なるほど。少し高そうだが、夜はここで食べよう。

ホテルのそばまでバスとか出ていないだろうか、と、私はバス停の地図を見た。複雑でワケがわからなかったが、なんとか、これかなというものを見つけた。するとバス停にいた青いシャツを着た若い女性が声をかけてきた。フランス語でよくわからなかったので、少し眉をひそめると、

「お手伝いしましょうか?」と英語で尋ねた。

もうなんとなく帰り方はわかったので、「いいえ、ありがとうございます」と断って、その場を立ち去った。思えば、あのとき嘘でも尋ねてみればよかったのかもしれない。それが一時であっても、一つの出会いとなるのだから。だが、もしかすると、私には心の余裕が足りていなかったのかもしれないようだ。私はホテルとは逆方向にエスキロル「広場」を歩くことにした。その先には、川があった。

(続く)

6都市目:トゥールーズ(1)〜バラ色のやばい街〜

朝、バルコニーでしばらくニームの街を眺めた後で、私はトゥールーズへ向かうことにした。街歩きが片想いなら、去り際が大事である。次の街が待っている。階下に降りると、オーナーの奥さんと思しき人が座っていた。

「Merci, au revoir!(ありがとうございました、それでは)」と声をかけると、奥さんは笑顔で、

「Merci, bonne journée!(ありがとうございました。良い1日を!)」と答えた。

ホテルから駅までは1分とかからない。駅に着くとパン屋でパンとコーヒーを買い、目当てのTGVに乗り込んだ。ここ三日間の習慣になって来ている。朝起きて、駅に行き、パンとコーヒーを買う。慌しい朝だが、それでも続くと愛おしい生活である。

トゥールーズニームから西へと進んだ山がちなところにある。この街は「オクシタニア Occitanie」地方の中心地だ。日本では石鹸やら何やら売っている店の名前「ロクシタン」で有名だ。ちなみにあれは、l'occitane en provenceというが、オクシタンとプロヴァンスは全く違う地域なので、変な感じである。フランスでも見かけた店だから、きっと何か理由があるのだろう。

オクシタニアの、オクとは、オック語のことだ。そんな言語、聞いたことない人の方が多いだろう。これは、フランス革命まではフランスの南半分では普通に使われていた言語で、今話題のカタルーニャ語に近いとされている。そのため、この地域は古よりフランス王国に反抗する土地でもあった。フランスとは違うという意識があった。

 

時は11世紀。この土地は、カタリ派と呼ばれる人々の人口が多かった。カタリ派とは、当時のキリスト教の主流派(のちのカトリック。中心はローマ教皇庁)とは違う考えを持つキリスト教徒たちだ。彼らは、ローマ教皇庁の教えと対立しつつ力を伸ばしてきた古の異端グノーシス派に似た思想を持つ。彼らによると、この世界を作った神(創造主=デミウルゴス)は実は悪魔(サタン)だという。そのためこの世界は悪に染まっている。だからこの世界には救いはなく、悪に染まって生き、死んだらまたこの悪の世界に転生する。そこから離れるためには、厳しい修行の生活を送り、現世の世界から離れるしかない。カタリ派は、現世の世界の一切を堕落と切り捨てた。

カタリ派ローマ教皇庁に従わず、教皇庁は何度もカタリ派の人々を改心させようと迫ったが、無駄だった。これに対し、教皇庁はついにカタリ派を異端であるとし、禁止した。それでもオクシタニアの人々は改心を拒む。膠着状態が続くが、ついに教皇インノケンティウス三世の治世に教皇使節オクシタニアに派遣。インノケンティウスは腐敗した教皇庁を綱紀粛正し、教皇庁に従わぬ勢力は力を持って制することも辞さない強硬派として知られている。その土地の領主の統治権を剥奪して、次々に破門した。しかし、この使節は暗殺されてしまう。それはカタリ派の仕業だけではなかった。

時の教皇フランス王国と近い立場にあり、フランス王国国王はフィリップ2世オーギュスト(尊厳王)というフランス王国の拡大に努めた人間だった。これに危機感を覚えたのが、南フランス一帯(=オクシタニア)を治めるトゥールーズ伯爵レーモン6世だ。共にフランス王国に敵対するイングランドリチャード一世ライオンハート獅子心王)と同盟を結び、フィリップオーギュストに対抗する構えを見せた。さらに、教皇庁使節暗殺にも一枚噛んでいると言われる。それは、教皇庁フランス王国の影響下に入ることを嫌ったためであった。

この一件は、教皇インノケンティウス三世を怒らせた。教皇は、異端認定され禁止された人々を武力鎮圧することは「聖戦」であるとし、ヨーロッパ中の諸侯たちに十字軍結成の大号令を下した。世に言う、「アルビジョア十字軍」結成である。初めインノケンティウスはフィリップ二世に派兵を求めたが、イングランドとのいざこざもあり、フランス王国は断念。その代わり、シモン・ド・モンフォール が大将として参戦することになる。教皇庁及びフランス王国に反発するレーモン六世だったが、ここでは十字軍側につくことにした。十字軍は初め地中海にほど近いベジエを攻撃、占領し、住民を虐殺した。さらにカタリ派の中心地ラングドック地方(中心都市はトゥールーズ)に向けて進軍し、城塞都市カルカソンヌ世界遺産)を包囲。カルカソンヌが落ちると、住民は追放された。カルカソンヌ陥落の知らせは南仏に行き渡り、各地は降伏。十字軍は勝利を収めたと思われた。

だが、これに恐怖を覚えたのが、レーモン六世だ。十字軍指導者シモン・ド・モンフォールが南仏で力を伸ばし始めたことに危機感を覚えたのである。初めは教皇庁フランス王国に自分の地位を守ってもらおうと働きかけるが、信用されるはずもなく、ついには破門を言い渡された。背水の陣となったレーモンは、義兄弟であったフランスの南、現在のバルセロナを中心とするカタルーニャを本拠地とするアラゴン連合王国のペラ2世を味方につけ、反十字軍の戦いの狼煙を上げた。トゥールーズに立てこもるレーモンを十字軍は包囲。しかしトゥールーズの守りは堅く、落とせない。ところがそんなさなかに、ペラ2世が戦死してしまう。後ろ盾を失ったトゥールーズ伯爵にかつてほどの力はなかった。レーモン六世は息子と共にイングランドに亡命し、戦争はひとまず集結した。

しかし、トゥールーズの戦の歴史はまだ続く。トゥールーズ伯爵に変わってモンフォール家がついたオクシタンでは、その支配に不満を持つものが増えていた。「モンフォール家に変わって、俺がまた彼の地を治める!」レーモン6世とその息子レーモンはイングランドを脱出、一路南仏へと向かう。村人、かつての家臣たちは二人を歓迎し、オクシタン側の反撃が始まった。人心を掴むレーモンの軍隊はトゥールーズに入り、モンフォール軍に対する籠城戦を開始する。そのさなかシモン・ド・モンフォールは戦死。その後レーモン6世が死ぬと息子がレーモン7世としてトゥールーズ伯の地位につき、ついにカルカソンヌを奪回した。シモンの息子アモーリは街を捨て、逃走。南仏は再びトゥールーズ伯領となった。さらに、教会との和解にも成功している。

アモーリはフランスへと逃げ延びると、フィリップ2世の息子で当時国王として即位していたルイ8世に南仏で書くとした領土の割譲を宣言する。要するに、ルイ8世は父の成し遂げなかった南仏を進行する大義名分を得たということだった。大量の軍勢でフランス軍は南仏を攻撃。戦いは小競り合いが続いたが、南仏は戦争に疲弊していた。レーモン7世は和睦を結び、屈辱的ながら、自分の娘をルイ8世の弟アルフォンソに嫁がせた。だがもちろん、それで諦めたわけではない。フランス王国に反発するイングランドや諸侯たちと同盟を組んで、反乱を決行。しかしこれは失敗に終わる。レーモンが失意のうちに病で無くなると、ここに独立したオクシタニアは滅亡。フランス王国支配下に入ったのだった。

 

 ニームからトゥールーズまでの列車は海岸線を通った。南仏の田園地帯を抜け、大学都市のモンペリエを過ぎると、右に湖、左に地中海という壮大な風景の広がる場所を抜けて行く。午前中のまだ眠そうな太陽が、水に光を反射させ、幻想的な雰囲気を作り出す。もしかすると、この区間はフランス一美しい車窓が望めるんじゃないか、と思えるくらいである。アルビジョア十字軍遠征の際に住民が大虐殺されたベジエまでくると、水の世界は、徐々に山の世界に変わる。ローマ時代に南仏の首都となったナルボンヌ、世界遺産にもなり、アルビジョア十字軍の戦いにおいて十字軍側の勝利と大敗北を物語った城塞都市カルカソンヌを抜け、おめあてのトゥールーズにたどり着いた。

トゥールーズはフランス第五の街と言われている。だから、リヨンを除けば、久しぶりの大都市だ。しかもリヨンはある程度は勝手知ったる街だったので、今回は初の見知らぬ大都市だった。風の噂で聞いたことだが、トゥールーズの駅前はかなりやばいらしい。世界で一番古い職業の方々が務める界隈が広がっていて、ハイになるお薬もあるという。面倒なので、私は地下鉄で市内中心部へと向かうことにした。が、その前に、列車の予約をしておこう。

明日はついにフランスを離れ、カタルーニャバルセロナへと入る。初スペインというと、怒られかねないので、「初カタルーニャ」「初イベリア半島」「初ピレネー山脈越え」だ。期待と不安が入り混じった気分だ。むわっと暑くてちょっとばかり治安の悪そうな駅のチケット売り場でチケットを手配した。アジア系の職員がいたり、売り場が長蛇の列だったりするのを見ると、やはりここは大都市なのだなと実感する(リヨンでは予約不要のTERを使ったので長蛇の列は意外と初体験)。チケットを見ると、はっきりと「BARCELONA SANTZ」の文字。そして、「SNCF(フランス国鉄)」の他に、「renfe(スペイン国鉄)」のマークが付いている。ついに来た。明日は、イベリア半島だ。

地下鉄に乗ろうと地下鉄売り場まで降りて行くと、封鎖されている。表示を見てみると、どうやら工事中らしい。これは困った。バスを探してみたが、よく分からない。わたしは、えい、こうなったら、と歩くことを決意した。できるだけ大通りを探し、街の中心部へと伸びるジャン・ジョレス通りをまっすぐ歩いた。ここの空気は乾いている。しかも日差しもきつい。そして相変わらずリュックは重い。面白いことに、ディジョンの時よりも軽く感じるのは、慣れてきているからなのだろう。歩いてみると以外と治安も悪くはなさそうだ。ただ、確かに、他の街に比べてわい雑な雰囲気は確かに存在する。

20分くらい歩くと、目の前に広場が現れた。トマ・ウィルソン大統領広場というらしい。そういえば同じ名前の公園がディジョンにもあった。第一次世界大戦中のアメリカ大統領で、国際連盟を提唱しておきながら、議会の反対にあってアメリカを加盟させられなかった大統領として有名だが、フランスでは大人気みたいだ。広場の真ん中には例によってメリーゴーラウンド。繁華街になっている。フランスに語学研修をしに行っていた友人のFくんから聞いたファストフード店Quickもある。今日の昼はここでいいか。そう思いつつ、私はさらに足を進め、中心部へと向かった。目的があった。それは、ツーリストインフォメーションを探し、ホテルを見つけることだった。

前日にニームで苦労していたので、苦労するとはわかっていたが、これが大変だった。広場で見つけた表示に従って、別の広場にやってきたはいいが、全くわからない。広場にはオレンジジュースを売る人がいて、いいな、うまそうだな、と思いながらも、やはりツーリストインフォメーションが見当たらないのでオレンジジュースはお預けだ。別のところか、と思い、その広場を超えて先に進むと、より大きな広場が現れた。トゥールーズ名物の真っ赤な建物が取り囲んでいる。有名なキャピトル広場だ。偶然見つけたのは嬉しいが、しかし、ツーリトインフォメーションが見当たらない。人に聞けばいいのだが、暑いし、荷物が重いしで、外国語を話す元気があまりない。ひとまずキャピトル広場の裏の広場に戻って椅子に座ると、子供達が噴水で遊んでいる。いい光景だな、と思い、ちらりとその横を見たら、古い塔の端に人だかりがある。なんと、それがツーリストインフォメーションだった。まったく、フランスの観光案内所はどうしてこうもわかりづらいのか。

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A4サイズにプリントアウトされたホテルリストを受け取り、ツーリストインフォメーションのそばのベンチに腰掛けた。見てみると34ユーロのホテルがある。ヨーロッパにしては格安だ。ランクを表す星が付いていないが、まあ良しとしよう。私は駅まで引き返し、そのホテルを当たることにした。

ジャン・ジャレス通りを遡り、少し路地に入ると、人通りが少なくなる。こんなところでも、建物は真っ赤である。レンガのせいなのだが、これが所以でトゥールーズはバラ色の街と言われることもある。美しいといえば美しいが、素朴な雰囲気もある。

ホテルのある通りはリケ通りというらしい。どこだろうと探していると、上半身裸のむきむきな男が毛布をはたいている。なんとなくやばい界隈に来た感じを感じ取りながら、ここでないといいなと思いつつ、街の表示を見てみると「Rue Riquet(リケ通り)」とある。これはやらかしたな。引き返そうかと思っていると、上半身裸の男が話しかけて来た。

「英語話せますか?」

普段なら無視するのだが、人もおらず、無視する機運を失っていた。

「ええ、少し」

「俺たちは路上で生活しています。もしよかったら、あなたがそうしたいならいくらか恵んでくれませんか?」男はやけに論理的かつ丁寧に笑顔でいう。その雰囲気もあったのか、私は少し悩んでしまった。

「2ユーロでも1ユーロでも構わないんです」彼はいう。わたしは、仕方ない、と1ユーロを渡した。その男は素直に喜び、一緒に暮らしているのであろう人たちとその喜びを噛み締めあっていた。わたしのしたことはよくないことかもしれないが、だがあんな雰囲気だと…難しい。とにかく言えるのは、わたしはやばい界隈に来てしまったということだ。そしてそんな出来事のせいで引き返すタイミングを失って、目当てにしていたホテルに入った。

ホテルに入るとロビーには人がいない。やはりやばいところなのかもしれない。だが、観光客のホテルリストに載ってるんだ、信じよう。わたしは呼び鈴を鳴らした。すると初老の男性がやって来た。

「空いてる部屋はありますか?」と聞いてみる。

「もちろんです。テレビ付きとテレビなしはどちらがよろしいですか?」とおじさんはしゃがれ声でいう。こうなったらもうテレビ無しで行こう。わたしはテレビなしを選んだ。34ユーロを払い、階段を上がると、なんとなく懐かしい匂いがする。確か幼馴染の家や、カラオケや、バンド練習用のスタジオの匂いだ。タバコである。もろそうで狭くて暗い廊下を歩くと、部屋があった。廊下が昼間なのに真っ暗なので、鍵を開けるのも一苦労だ。

扉を開けると、窓がない、ガランとしたタバコ臭い部屋に赤いベッドと、むき出しの水道と、ビデがある。トイレがむき出してあると監獄さながらだが、ビデなので、もしかすると、いわゆる「連れ込み宿」なのかもしれない。だがもうここに泊まるしかない。トイレと風呂は共同。なんならトイレをむき出しにして欲しかった。わたしは、「まいったな」と思いつつ、「まあこれも経験だ」と諦めた。人生、受け入れることが肝要だ。

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この薄暗く、臭い部屋にいつまでもいても仕方あるまい。わたしはリュックを念のため、ベッドの足にチェーンでグルグルとくくりつけ、外に繰り出すことにした。時間はもう三時。昼食時じゃないが、昼を買っていないので、食べに行こう。

く)

5都市目:ニーム〜羅馬人どもが夢の跡〜

アヴィニョンから近郊のニームまでは、在来線のTERでたったの30分で着く。ニームアヴィニョンの西にある。TERにはニームよりさらに西の一帯である「オクシタン地方」のマークが描かれており、フランス国鉄SNCF)のオクシタン部門が運行しているようだ。といっても中身は普通のTERであり、新幹線のような二人がけの席が並んでいる。窓からは太陽が燦々と降り注ぎ、かなり暑い。

ニームアヴィニョンの間には、有名なポン・デュ・ギャール(le Pont du Gard)という橋があるという。世界史を学んだ人ならば一度は聞いたことがあるだろう。この橋は、ただの橋ではない。水道橋といって、橋の上に水道管を通し、水源から街まで水を運ぶための橋である。今では利用されていないが、まだその形はしっかりとしている。作られたのは、今からなんと2000年前。そしてそれから600年の間現役だった古代ローマの遺物だ。

本当はこの橋を見たかったのだが、アヴィニョンからバスを使う必要がある。そしてまたバスでニームに移動することになるが、そのバスの本数が必ずしも多くはない。なんだか面倒になって、今回はパスしてしまった。早くニームの町に入っておきたかった。

ニーム駅は、アヴィニョン駅よりも格段にでかく、そして気温も格段に暑かった。私はバックパックを背負い、少し迷いながらなんとか出口のあるフロアーにたどり着き、国鉄のオフィスで明日の列車の予約をした。高速列車TGVを使うには、予約が必要なのである。

喉が乾きそうなので、自販機Selectaでミニッツメイドのオレンジジュースを買って、私は意気揚々と外に出た。太陽が暑い。この町のシンボルは、かつてローマ帝国がこの辺りを治めていた時の円形競技場。駅から歩いてすぐのはず……だったのだが、これがなかなか見当たらない。しばらく道を歩いて見て気づいた。なんと駅の逆の出口から出てしまったのだ。まあこんなものか、と思いながら私は駅に戻った。それにしても暑い。

正しい出口を出ると、広い、公園をそのまま道にしたような格好の遊歩道があった。脇には水が流れ、子供や大人が水に足をつけている。水、それこそローマ帝国の一つの動脈だった。そしてこのニームという街はローマの街が残っていることで有名な町である。水のせせらぎを聞きつつ、わたしは一度、ベンチに腰掛け、ツーリストインフォメーションの場所を確認しておいた。そこにたどり着けば、ホテルリストがある。それに従ってホテルを探そう。

再び遊歩道を歩き始め、突き当たりにある噴水を横目に左に曲がる。街の中心へと伸びる道はそちらにある。と、その時である。目の前に巨大な建物が現れた。それは、いわゆる円形闘技場(コロッセウム)だった。やっと見つけた。闘技場はローマのものよりもかなり保存状態が良さそうで、形も綺麗な円形だ。

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闘技場の周りにはレストランが並び、大規模なテラス席もあるが、どことなく落ち着いた雰囲気だ。夕食はここで食べたいとふと思った。ローマの歴史の名残を感じながら夕食というのはなんとも優雅でよろしいではないか。

闘技場の周りをぐるりと回ると大通りに出る。大通りはアヴィニョンに似た雰囲気で、街路樹が美しく、静かに時が流れている。だが日曜なので閑散としており、アイス屋にならぶ赤や青の毒々しい色の液体をかき混ぜる機械だけが寂しく回っている。時折テラスでは地元民がコーヒーを飲んでいるのが見える。

とにかく大通りをまっすぐ歩いていると、突如ひらけた場所に出る。道を挟んで左側にはガラス張りの建物。そして右側にはローマ帝国時代の神殿と思しきものあった。保存状態がものすごく良くて驚いたが、よく見ると柱が本堂にうもれている。再建されたレプリカだろう。それでも、入り口前の階段にたくさんの人が腰掛けている姿は、歴史がそのまま生きている光景であった。

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しばらく神殿のあたりにいてから、再びメインストリートに戻る。そのまままっすぐ行くと、そこには小さな公園があった。公園の真ん中にはローマ人の像が立っていて、韓国人と思しき観光客の女性が自撮りをしていた。ローマファンだろうか、話しかけてみようか、などとくだらないことを考えながら、像に近づいて見た。顔を見るとどうやら第十五代目ローマ帝国皇帝のアントニヌス・ピウスである。はたと思い出したのだが、確かアントニヌスの父親はフランス出身であった。ニースだと思い込んでいたが、ニームだったようだ。ローマ帝国の領土拡大政策をストップさせて、安定成長期を築き上げたハドリアヌスの跡を継ぎ、皇帝になったアントニヌスはその路線を維持しつつ、ローマ帝国の黄金期をもり立てた人物だ。地味だが、わたしは好きな皇帝の一人だった。ちなみに阿部寛主演の映画「テルマエロマエ」では、宍戸開が演じている。

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やはりこの街はローマの記憶が刻まれている。わたしはローマ帝国ファンなので気分を上げた。しかし、問題もあった。どうも、ツーリストインフォメーションが見当たらないのだ。神殿のそばだというが、何処なのだろう。わたしは別の道から公会堂方面に歩いて見た。

結論から言うと、ツーリストインフォメーションはその道にあった。だが、これは不親切だなと言う場所にひっそりとある。ツーリストインフォメーションなんだから、駅前とか、わかりやすいところにおいてほしいものだ。わたしは中に入り、ホテルリストをもらって、値段からあたりをつけた。どれも駅に近い。だから、なぜツーリストインフォメーションを駅にも置かないのか。困ったものである。

照りつける日の光の中、わたしは駅へと戻った。神殿、モダンな建物、テラス、アイス屋、レストラン街、コロッセウム。一番安くてコロッセウムの目の前にあるホテルは、「Complet(満員)」。残念無念。さらに駅前の遊歩道に戻り、駅の目の前にあるホテルアヴァロンに入って見る。アヴァロンというとアーサー王伝説に出てくるアーサー王が死に際して赴いた島の名前だが、フランスはおろかローマ帝国とも関係がない。まあいいか、ダメだったら隣のホテルセザール(=カエサル)にでも行こう。入ろうとすると、入り口の目の前でおじさんが掃除をしている。とりあえず声をかけて中に入ると、どうやらそのおじさんがオーナーのようで、わたしの後ろからやってきてカウンターに入った。

「Vous avez une chambre libre?(空いている部屋はありますか?)」

「Oui(はい)」

よかった。また歩かねばならないかと思う時が遠くなる思いだっただろう。宿泊料は60ユーロで、フロントは9時に閉まるらしい。いささか早いがまあいい。オーナーのフランス語の半分くらいしか聞き取れなかったが、なんとなくはわかる。わたしは案内された通りに狭い階段を登り、部屋に入った。ちょうどいい狭さの良い部屋だ。しかも、バルコニーまである。

部屋にはエアコンがあるはずはないので、かなりむわっとしている。扇風機のスイッチをONにして、わたしは汗だくになったシャツを脱いで、しばらく部屋で休憩することにした。テレビをつけてみる。CMでビートルズのAcross the Universeがかかっている。それにしても蒸し暑い。やはり南に来たのだ。わたしはそう実感した。

新しいシャツに着替えて、わたしはフロントで町の地図をもらった。どうやら、鍵は返さなくて良いようだ。

「Bonne journée!(良い1日を!)」と声をかけてくれたので、わたしはそのまま返し、太陽の降り注ぐ遊歩道に戻った。さて、どうしよう。まずは勿論、コロッセウムだ。

行ってみると、値段は10ユーロ。日本円で1300円くらいか。今思えば入っても良さそうだったが、この日は倹約志向だった。10ユーロというと昼食一食分、という判断がなぜか働き、またの機会に行こうと思ってしまった。本当に勿体無いことをしたと思う。あの時は、自分の使った費用の計算をして、初日も二日目も130ユーロ(=15000円)くらい使っていることが明るみに出て、最初の計算の100ユーロを超えていたことに焦っていたのだろう。焦って、大切なものを見逃してしまう。これから直して行かねばならぬのは、そう言った性向だ。

さて、コロッセウムを外から眺めながら、神殿へ向かう。神殿の正式名称は「Maison Carrée」で、「正方形堂」とでも訳せるだろう。そこは5ユーロだった。公会堂に入ってみると、係員の人が何やら、「シネマ・オンリー」と言っている。よくわからないがコロッセウムに入らないという選択をしたこともあって、なんとなくどこかに入りたかったのでとりあえず買うと、「10分後から入場です」という。きっとこの街に関する映画の上映をやるのだろう。わたしは近くのアイス屋で水を買った。本当にニームにはびっくりするほどたくさんのアイス屋がある。需要があるのはわかる。なにせあんなに暑いのだ。何も防ぐものがない上に、ローマ時代の景観に配慮してか建物や地面が白っぽいものだから、太陽の光が上からも、下からも来る。サングラスは欠かせない。

指定された時間に行くと、神殿の階段の上に列ができている。しばらくしてチケットのチェックがあり、中に入った。神殿の中は完全に劇場だった。なるほど、これは神殿観光ではないですよ、という意味での「シネマオンリー」か。わたしは腰をかけた。このニームという町の歴史についてのちょっとした紹介映画のようだ。

‥‥と、日本のビジターセンターのイメージでいたのが間違いであった。この映画、かなり良くできている。変なゆるキャラが、「ようこそ、ニームへ!」というのかと思いきや、いきなり神殿で祈る男が登場する。何かの儀式のようだ。そして、話は過去へと遡ってゆく……

 

ニームの歴史は、紀元前1世紀に始まる。

当時ローマに突きつけられていた問題は、ローマの北、今のドイツにいたゲルマン人の動きだった。ゲルマン人が突如西へと移動をし始めたのである。そのせいで影響を受けたのが、今のフランスに住んでいたケルト人だった。ケルト人からのSOSと、ローマ人の危機意識から、ローマは派兵することに決定。さらにローマは、これを機に、ライン川を防衛する代わりにフランスを自らの範囲内に入れることも狙っていた。ケルト人という、困ったときはSOSをするが、いざとなると敵対する民族がすぐ目と鼻の先のフランスにいるのが嫌だったからだ。その司令官として白羽の矢が立ったのは、当時ローマの中央政治に大きく関わっていたガイウス・ユリウス・カエサルだった。

ニームのある、当時の「ガリア・トランスアルピーナ(アルプスの向こう側のガリア)」はローマの支配下にはなかったが、ニームの首長はいち早くローマへの帰順を示した。映画でもそのシーンは出てくる。カエサルから直々にブレスレットを与えられるのである。ニームは泉の神を信仰する場であり、ニームケルト人たちはそれを誇りにしていた。映画の中では、神のお告げによって、ローマ側につくことを決めていた。ニームラテン語名は「ネマウスス」。泉の神の名前から取られているという。

カエサルケルト人部族の兵士と共に破竹の勢いで北へと登り、ゲルマン人をなんとかライン川の向こう側に押し込んだ。しかしこの戦争はこれだけでは終わらず、ゲルマン人の侵攻、さらにはローマ軍駐留を不名誉と捉えるケルト人部族による反乱、現在のイギリス(ブリタンニア)からの侵攻など多くの局面を経てゆく。ガリア戦争と呼ばれるこの戦争のクライマックスとも言えるのが、ケルト人の首長ウェルキンゲトリクスが起こした反乱だ。ウェルキンゲトリクスはフランス中のケルト人に、「ローマと戦え」という呼びかけを行い、かなりの部族がローマから離反、危機的状況に陥った。しかもこのとき将軍カエサルはイタリアに戻っていたのだ。カエサルはそのまま引き返し、一度は敗戦するものの、その後アレシア包囲戦に勝利し、反乱を鎮圧。これ以降フランスはローマ帝国支配下に入る。このときも、ニームはローマ側についた。

その後、フランス(ガリア)をカエサルが平定すると、カエサルはローマの政治体制の改革に挑んでゆく。カエサルの改革とは、貴族の集まりである元老院が力を握る政治にメスを入れるものであり、そのなかでフランス(ガリア)の首長を元老院議員にするという政策もあった。彼の改革は元老院の反感を買い、フランス平定後すぐに保守派軍人ポンペイウスとの内戦が始まる。これをカエサルはなんとか切り抜け、さらなる改革を推し進めてゆくことになるが、反感を抱く議員数名に暗殺される。後を継いだオクタウィアヌスは、カエサルの一番の部下アントニウスとの権力闘争に勝利し、紀元前27年、ついに元老院から「アウグストゥス(尊厳ある者)」という名前をもらい、さらに最高権力者である「皇帝」となり、カエサルの改革を完成させた。

さて、カエサルのフランス平定でカエサル側として戦ったネマウスス、つまりニームの街は、後継者アウグストゥスの手によって、「コローニア・アウグスタ・ネマウスス」として改称され、退役軍人たちが入植した。この街は、当時の南フランスであるガリア・ナルボネンシスの中心地として栄えることとなる。かつての泉の神を祀るところには巨大な塔が建てられた。そして、神殿が建てられ、ローマ式のコロッセウムも建造され、この街は急速にローマ風の都市に脱皮する。それゆえ、「フランス最古のローマ都市」と呼ばれているようだ。映画は、そんなネマウススの祭りに、かつての族長の子孫が市長として参加するところで終わっていた。

映画では描かれていなかったが、このニームのフルウィウス家は、その約150年後、皇帝を輩出することになる。これが先ほど述べたアントニヌス帝だ。彼はもともと軍人、元老院議員だったが、先代のハドリアヌスの後継者に選ばれ(紆余曲折あるが、その辺は漫画のテルマエ・ロマエを読んでいただければ、と)、皇帝になった。ハドリアヌスは対外戦争よりも国境防衛を重視したため、ハドリアヌスの前の代の皇帝で戦争がうまかったトラヤヌスの路線を気に入っていた元老院に嫌われていた。就任してすぐにトラヤヌス元老院議員4人を暗殺したせいもあるだろう。アントニヌスはそんなハドリアヌス帝の業績を元老院議員に認めさせるという大技を成し遂げ、「慈悲深い人(ピウス)」と呼ばれた。そんな皇帝も、ニームの街がなければ生まれなかったのだ。

 

 映画が終わり、私は神殿の外に出た。よくできた映画だったので、なんとなくいい気分である。それから地図に書かれている「ディアナの神殿」に行ってみることにした。先ほど立ち寄ったアントニヌスの公園からさらに歩く必要があったが、映画では泉で祈るケルト人のシーンがたくさん出てきていて、ディアナの神殿の方にその泉があるらしかったので是非行きたくなったのだ。

公園まで行くと、目的地のディアナの神殿があるより大きな公園まで、水路沿いの道があった。水路沿いに並木道がある雰囲気は、どことなく、カンボジアシェムリアップにも似ていなくはない。先ほどまで照りつける太陽を直に受けるような道にいたせいか、この道は見違えるほど気持ちがいい。太陽が緑に照りつけ、並木道は緑に輝いている。水路の水に反射した太陽は、この道がまるで本当に泉の精霊のいる場所に誘ってくれるようで幻想的だ。ここをゆっくりと歩いていると、やはりニームは、「泉の神」を祀る「水の町」なのだなと感じた。

それだけではない。この街は「公園の町」でもある。この水路沿いの道だって、駅前の遊歩道だって、どことなく公園を想起させる。それは気持ちの良い緑と、水のせせらぎだけではなく、道を歩く人の穏やかな表情と、遊ぶ子供達の笑顔のおかげだ。

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しばらく歩くと大きな噴水が現れる。それを超えると、大きな公園が出てくる。フランスではよく見るのだが、公園の門はやけに豪奢で、まるで宮殿のようだ。何か入場料でも取られるのかと身構えたが、無料だった。公園の砂利の広場には、案の定、メリーゴーラウンド。出店も出ていた。そこは、最近ではあまり触れることもなくなった、夏の記憶を宿していた。夏の香りがあった。楽しく、切ない夏の香りが。

公園には大きな池のようなものがあって、その池を越えた向こう側は小高くなっている。この辺りがネマウススの町の神聖な領域だったのだろう。そんな池の隣に、ローマ時代のものと思しき遺跡がある。間違いない。これがディアナの神殿だ。柵で囲われてはいるが、別に入場料も何もなく、見れるようだ。私は神殿に少しだけ一礼をして、神殿の遺跡に入った。

大部分が崩れ、草も伸びているディアナ神殿は、今にも崩れ落ちそうだったが、それでいて、どこか美しかった。今手にその威厳はある。そこには月の女神ディアナが宿っていそうな雰囲気がどことなくあった。中に入ると、薄暗く、ちょうどカンボジアのバイヨン遺跡で感じたような、静謐な神聖さを感じた。目をつぶって数分間座ってみたいという衝動に駆られたが、どうも場所がない。表に出れば、遺跡の以降に子供たちが座っている。かつてカンボジアの記事で書いたが、やはり遺跡であってもこれくらいの方が、生き生きとしたものを感じる。いくら、遺跡が死んでいようと、人がいて、馴染んでいるということが、遺跡を生かすのだ。私は再び遺跡の中に入ってみた。子供連れの父親が、何やら子供と話しながら、手をつないで廊下を歩いている。歴史と未来が交差していた。

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ディアナの神殿でしばらくゆっくりした後、かつて泉の神を祀っていたという場所で、今は古代ローマ時代に建てられた「トゥーラ・マグナ(大塔)」の方に行くことにした。池の周りにある階段を登り、それからは小高くなった丘を登って行く。途中で違う方向に行ってしまったが、なんとかたどり着いてみると、これがものすごかった。石でできた塔がそびえ立っている。今のものは再建されたものらしいが、それにしてもローマ人が2000年前にこんなにも高い塔を立てたというのはすごい。もちろん、彼らに技術があったのは知っている。だがそれにしても、あのそびえ立つ高い塔を見ると、圧倒されてしまう。初めは登るつもりはなかったが、登りたいと思うようになった。

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入場料は3ユーロ。映画より安い。これはもしかするとニームの穴場スポットかもしれぬ。塔の中には螺旋階段があり、少し前には家族連れがいた。そびえ立つ塔の何処までも続く螺旋階段。燃えてくる。わたしは早速登り始めた。塔は薄暗く、なんとなく冒険している気分になる。階段は徐々に狭くなってゆき、身の回りは徐々に古代中世の雰囲気になってゆく。段も徐々に急になり、最後にはまるで登山である。

登りきると、明るい場所にたどり着いた。ついに展望台なのだ。展望台、とは言ってもスカイツリーや東京タワーとは違う。なにせ古代の塔である。全面石造りだ。人が横並びにやっと二列入れる程度の幅の展望台には、何人かの観光客がいた。子供連れの男性が、目の前に広がる街を子供に見せていた。前の列の人が譲ってくれたので、風景がよく見えるところに出る。

思わず息をのんだ。森のようになっている、池のある先ほどの「フォンテーヌ公園」を挟んで向こう側に、一面赤い屋根とベージュの建物がずらりと並んでいた。それこそ、ニームの街であった。空は青く、日は降り注ぎ、街は素朴な色。

「アレーナ(コロッセウム)どこー?」と隣の家族の娘が言った。

「そうだなぁ、えーっと」と父親は困惑しながら、街をながめまわす。

「ほら、そこにパノラママップがあるわよ」と母親は、展望台に設置された地図を見つけ、それからコロッセウムの方を指差した。

一瞬見えなかったので、わたしも目を凝らしてみてみる。すると、建物たちに埋もれるような感じで、ちょっとだけコロッセウムのてっぺんが頭を出している。写真を貼るので皆さんも探してみていただけたら、と思う。

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再び階段を降り、塔の中に入る。塔の歴史の展示があったので読んでみた。この塔はアウグストゥス帝によるネマウススの植民の頃に建てられたという。この場所には泉の神の聖域があった。不思議なことに、この塔建立の由来は明らかではないらしい。ロマンがある。そしてこれはその後中世に再建されるが、このロマンある不思議な塔は人々の想像力を掻き立て続けた。かのノストラダムスヴィクトル・ユーゴーもこの塔について文を残しているという。

ありがとう、と受付の人に言って、わたしは外に出た。なかなか楽しい体験ができた。ヨーロッパの日暮れは夜の9時なので、まだまだ明るい。わたしは公園を散歩することにした。遊ぶ子供たち、熱く手を握り歩くカップルたち、寄り添って歩く老夫婦、そしてわたしのように一人で歩く人。この公園は人生でいっぱいだった。そして、それをローマの遺跡が見守る。こんなに良いところが他にあるだろうか。わたしは半日にしてニームという街が気に入った。

遺跡や公園だけではない。コロッセウムの周りの街並みは、今まで行ったどの街とも違う雰囲気があった。例えるなら、三谷幸喜の「マジックアワー」の町の雰囲気だ。まるでセットのような、美しく綺麗な町。道は大理石でできていて、建物はベージュ。店は日曜日なので軒並み閉まっているが空気感が良い。広場に出ると、どんなに小さな広場でもテラスが並んでいて、客が談笑しながら食べている。

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夕食はコロッセウムの目の前にある店で食べることになった。肉続きだったので、魚が食べたくなっていた。そしてその店ではサーモンを売っていた。だから、そこを選んだわけだ。

フランスの店の入り方というのは難しい。いまだに何が正解なのかわからない。店の中まで入って声をかけることが多いが、正直わからない。この時はウェイターの人に話しかけて見たら、ウェイターは忙しそうな顔をしながら席に案内した。

この時はフランス語にあまり自信がなく、使う元気もあまりなかったので、「英語は話せますか?」と聞いてみる。微妙そうである。まあ日本だってこんなもんだろう。何とかしてサーモンとビールを頼んだ。サーモンはこの日のオススメだったがメニューに載っていないので少々焦った。

8時半くらいになると、徐々に日が落ち始めた。日本語で言う「夕暮れ」とは、時刻が違いすぎて妙である。むしろこれは、まさしく、「黄昏」と言うべきだろう。そんな黄昏時のオレンジ色の光が古のコロッセウムに差し込んでいる。その風景はどことなく物悲しく、時代の流れを感じさせた。

サーモンは程よく脂が乗っていてうまかった。あいも変わらずフランス名物のフレンチフライがくっついてくるのには参ったが、ビールのつまみと思えば悪くない。アジア人が少なかったし、フランス語のできない外国人と認識されてしまったせいか、あまりウェイターが来てくれない。食後のコーヒーを頼むにも、会計を渡すにも。忙しさだけではなく、あきらかに「がいじん」として対応されている雰囲気があった。身から出た錆なのだが、少しだけ寂しかった。これからはもっとフランス語を使おう、これからはもっと愛想の良い表情でいよう、そう思った。

穏やかな風に吹かれながら、日の落ちかけた道を歩いてホテルへと向かった。途中の売店で水を買う。笑顔で挨拶をすると、なんでこいつは笑顔なんだと言う顔をされる。難しい。笑顔に頼るしかないのは、言葉ができないからだ。イタリア、カンボジアと、現地の言葉に頼る必要はないんじゃないかと言う結論に至ったが、ここに来てそれを撤回せざるを得なくなった。やはり、言語は大事なのだ。

ホテルに戻るとオーナーがいたので、挨拶をした。オーナーはにっこりと笑って挨拶を返した。少し気を取り直すことができた気がする。部屋に帰って、バルコニーに出て見た。目の前には駅があって、電車が行き来している。電車の音以外は静けさそのもの。。またいつか、この街に来たいと思った。もっとこの街のことを知りたくなった。そして、もっとこの街の人と交流したかった。時に冷たくされ、時に惚れ込み、そして再会を望む。旅とは、街に対する片想いなのかもしれない。

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これは翌朝のバルコニー

 

……などと馬鹿げたことを思っていないでもう寝よう。明日は朝の列車でフランス最後の街トゥールーズに出発だ。

4都市目:アヴィニョン〜グリーングリーン〜

9時20分の在来線TERで、わたしはフランス南部の都市アヴィニョンへと向かった。今までフランスというとパリとリヨンにしか行ったことがなく、リヨンより南に至っては通過したこともなかったから、初めての「南仏」であった。

車窓から見える風景は徐々に変化していた。パリからストラスブールへと向かう列車の中から見えたどこまでも続く緑の畑と小さな町も、ディジョンからリヨンへと向かう列車から見えたワイン用のぶどう畑も、そこにはもう存在しない。畑は徐々に小麦色に変わり、太陽はより大地に近づいてくる。北部の空はどこまでも高く、雲は大地を覆わんばかりに近かったのに、南部に来るとそんなダイナミックな空はない。雲は散り散り、晴天続き。少し赤茶けた青空がムワーッと空にある。ホールのチーズのような形をした藁の束が畑には転がっていた。それは、ゴッホの絵のような雰囲気だった。格好つけていっているわけではない。現にゴッホの拠点は南仏だった。

音楽を聴きながら電車に乗っていると、前に座っていた女性が、隣にいる若い女性に話しかけている。「ヴァカンスなの?」「そうなんです、ヴァカンスです」というようなことを言っている。前にいる女性とは席に着いた時に挨拶だけ交わしたが、もしかしたら話しかけたかったのかもしれない。すると、イヤフォンで音楽を聴くというのは、実は凄く失礼な行動だったのかもしれないな、とわたしは少しだけ反省した。

偶然にも、前にいる女性もアヴィニョンで降りた。わたしはその後に続いて駅に降りた。暑いんだろうと踏んで、ディジョンでは前のチャックまでぴっちりと締めていたコートを腰に巻き、眼鏡に装着できる形のサングラスを眼鏡にくっつけた。予想は大当たりである。暑い。突然夏に引き戻されたようだった。と言っても8月13日である。夏真っ盛りだ。

駅を出て、町の中心に向かって、人通りが多そうな方へと歩いて行くと、不意に目の前に巨大な城壁が現れた。分厚く、見張り台もある、立派な城壁。わたしは、これがアヴィニョンなんだと感心した。なぜなら、アヴィニョンにはかつて、城壁で守るべき人が住んでいたからである……

 

ことの起こりは1303年にさかのぼる。

当時フランス王国を治めていたのは、フィリップ四世、あだ名はル・ベル(イケメン王)。彼はフランス国王の力を強めるべく邁進した人だった。彼は、予てからボルドー一帯の「アキテーヌ(ギュイエンヌ)地方」に居座っているイングランド王国から、アキテーヌ地方を奪還するため、戦争を起こしていた。だが、戦況はあまり芳しくない。問題は戦費調達だった。そこでフィリップ国王が目をつけたのが、広大な領地を持ちながらも税金を一銭も払うつもりがない教会だった。教会は税金免除というのが慣例のところを、フィリップは教会から税金を取ると宣言したのである。

これにカンカンになったのが、時のローマ教皇ボニファティウス8世だ。彼は、弱まりつつあった教会の力を取り戻すことを目指し、陰謀によって先代教皇の精神を蝕んで生前退位に追い込み、教皇の位に上り詰めた男だ。ローマへの巡礼を義務化したり、今のバルセロナを中心とする海の覇者アラゴン連合王国からシチリア島を奪還しようとしたり、ローマの貴族でアラゴンと仲のいいコロンナ家を粛清したりと強行な政策を推し進め(教皇だけにね)、ローマの繁栄の最盛期を築き上げた彼に、フィリップ王の言い分が認められるはずはない。

教皇を敵には回せないので、フィリップは一度自分の祖父を聖人に認定してもらうことで手を打ったが、しばらくすると国内の貴族、平民、そして聖職者を集めた「全国三部会」なる会議を開いて、教会への課税を再び認めさせた。「みんなが言ってるんで」とフィリップは課税に踏み切る。これに対し教皇は、「教皇(パパ)のいうことが聞けない奴はみんな地獄行きだから」と宣言。今では某米国大統領の脅し文句くらいにしか聞こえないが、当時は重みがあった。教会は死後の世界をも司っていた。フィリップ王は1303年、ついに部下に命じて、アナーニというところにある教皇の別荘を急襲させ、監禁した。名目は、「今の教皇は陰謀で位についた悪徳教皇」。その後教皇はすぐに解放されるが、病状を悪化させ、死去。勢いに乗ったフィリップは、1309年、自分が使いやすいフランス人司教を教皇の位につかせ、あろうことか、教皇の住まいをローマから当時は田舎町だったアヴィニョンに移動させてしまった。いわば、フランス国王が人質として教皇をフランスにおいたのだ。これがいわゆる「アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)」である。

この状況は事実上、実に約100年続いた。歴史の表舞台となったアヴィニョンは、田舎町から徐々に整備が施され、一方ローマは最盛期から一気に転落し、貴族が好きかってをする廃れた街になってしまった。70年目に一度教皇はローマへ戻ったが、新しい教皇の選挙を不服としたフランスはすぐに別の教皇をフランスで任命させ、二人の教皇が存在するという状況にまで至ってしまう(「教会大分裂(シスマ)」)。こうしたゴタゴタのせいで教会の権威は失墜し、ルネサンス、ひいては宗教改革へと続いてゆく。そんな大事な出来事の舞台となったのがこのアヴィニョンなのだ。城壁も、この歴史を語っている。

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城壁

城壁を抜けると、メインストリートらしき道がある。街路樹が植えられ、風が気持ち良い。そして太陽はジーンと降り注いでいる。日曜日だったので服屋などは軒並みシャッターが閉まっていたが、カフェやアイスクリーム屋の類は小規模なテラスを出していて、地元の人たちがそこに座っていた。時間の進み方が、ゆったりとしているような気がする。

わたしは道を歩く途中で見つけた、まるで城のような形のツーリストインフォメーションに入り、町の地図を手に入れた。アヴィニョンに長居をするつもりはなかった。しても良いのだが、アヴィニョンはあまりアクセスが良くないので、これからスペインに入ったりすることも考えると宿泊地は変えたかった。そして、前日のディジョンの経験から、10kgのバックパックを背負いっぱなしで町歩きをし続けるのは無謀である。そう考えると、観光に取れる時間は大体二時間。

近くにあったキャルフール(大手スーパー)で本場のオランジーナを買って、私は再びメインストリートに舞い戻った。太陽の光が街路樹の葉を照らし、葉の緑はまるで新緑のような明るいグリーンである。穏やかな風、カラッとした空気。なんならここに捕囚されてもいいなと思ってしまうような気持ちの良い道だ。ただ、カラッと暑いので喉の渇きは凄まじい。私はオランジーナを一口飲んだ。思えば、佐藤二朗が出ている「コマンタレヴー(お元気ですか)」と聞きまくるオランジーナのCMは、南仏の雰囲気があるような気がする。

しばらく歩くと、ついに街の中心にたどり着いた。そこはちょっとした広場になっていて、ど真ん中にはメリーゴーラウンドがあった。その脇にはレストランのテラス席。建物は限りなく白に近いクリーム色で、太陽の光によく映えている。その雰囲気はどことなくイタリアに似ているが、イタリアにメリーゴーラウンドはない。ストラスブールでも、ディジョンでも、リヨンでも、フランスの街にはメリーゴーラウンドを置きなさいという法律でもあるのだろうか。

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広場

この広場から伸びる路地を進めば、かつて教皇が住んでいた教皇宮殿である。少しワクワクしながら、私は狭い路地を進んだ。道は間違っていないはずだ。路地にはたくさんの人が歩いている。

案の定、路地を抜けると突然開けた場所に出て、さっきの広場よりはるかに広い空間が出現した。左を見ればテラス席、そして右を見れば二つの尖塔に、のこぎり型の狭間、頑丈そうな壁を持った巨大ないかつい城塞が少し小高いところに立っている。サンピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂のイメージとはかけ離れている厳しい建物だが、これが間違いなく教皇宮殿だった。

基本的に大きな荷物を持った人はこういうところには入れないので、私ははなから入ることは諦め、宮殿を外からしばらく見つめていた。ここが、アヴィニョン捕囚の舞台か。この明らかに住居でも教会でもなく、城塞でしかない建物は、きっとフランス王の人質である教皇は閉じ込めるものなのだろう。そう、彼はやはり人質だった。こんな気候のいいところなら捕囚されてもいい気もしたが、これだけの城塞の中に閉じ込められたら満足に外にも出られまい。そして言われるのだ。「聖下、これは牢獄ではありませんよ。貴方様をお守りするものでして…」

広場は高低差があって、宮殿は小高いところにある。広場の入り口から向かって奥に進むと段差があり、宮殿に近づいて行くことができる。おそらく、山のような地形を街にしたのだろう。私は高い方へと進んでみた。そこにはジャコメッティみたいな細い像が立っていて、バンザイポーズを見せている。その像の前には記者の形をしたバスがいて、観光客を満載してちりんちりんという音を立てながら走っていた。

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教皇宮殿 Palais des Papes

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表示を見ると、この広場を通り抜けて街の城壁の外に出れば、有名なサンベネゼ橋がある。通称、アヴィニョン橋。この橋は、かつてアヴィニョンに住んでいた羊飼いのベネゼが神のお告げによって建てたという。時を経て半分も残っておらず、橋というよりもむしろ埠頭、横浜の大桟橋のようになっているらしいが、世界遺産にもなっている。この橋がどうして有名なのか。それはこの橋が落成した時に歌われたという、有名な歌のおかげだ。きっと今これを読んでいるみなさんも聞いたことがあるだろう。


アビニョンの橋で

アヴィニョンの橋で Sur le Pont d'Avignon

踊るよ、踊るよ On y danse, on y danse

アヴィニョンの橋で Sur le Pont d'Avignon

輪になって組んで On y danse, tous en rond

広場を抜けるとまた狭い路地があり、急な坂になっていた。狭くて急な階段と、それを取り囲む白っぽい建物と空から入ってくる日の光。これまたイメージ通りの南仏だった。写真を撮ろうとスマホを出すと、ちょうど階段の下で写真を撮ろうとカメラを構える初老の男性がいた。そりゃそうだ、ここは写真を撮りたくなる場所だ。世に言う、フォトジェニック、だろうか。私はカメラを持つ彼をみて、スマホで撮ろうとしている自分が急に恥ずかしくなり、彼の写真の邪魔にならないようにその場を立ち去った。

土産物屋の横を通って、しばらく閑散とした道を歩くと、城壁に出会う。城壁をくぐれば、突然道路が現れる。車がたくさん走っている。思えば城壁の中では車なんて、観光用の汽車型のやつくらいしかいなかった。突然現実世界に引き戻された気でいると、奥に水色の川があるのに気づいた。そして、その川には、シンプルなデザインの、美しい橋が途中までかかっていた。これが、あれか。私は感心した。だが、どうやってはいるのかわからない。まあそれも仕方ない。外から見るのも美しいんだ。私は橋をくぐって、近くにあった城門から市内に再び入った。

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サンベネゼ橋。よく見て欲しい。この橋は向こうまで繋がっていない。

すると、どうやら城壁の上に登ることができるらしい。せっかくだ。アヴィニョンで何もしないのもつまらない。わたしは見張り塔のような施設に入り、螺旋階段を伝って塔の上まで登った。前には家族連れがいる。急ぐ子供、ぐんぐん進むお父さん、待ちなさいと追いかけるお母さん。どの国でも見る光景である。階段はぐるぐるぐるぐるぐるぐると上へと伸びていて、狭い。時折、塔の外側が見えるようになっているが、わたしはあえてそれは見ないで、頂上でのお楽しみとした。

しばらくして、わたしは塔のてっぺんにたどり着いた。塔を出ればそこはもう城壁。気分は「真田丸」である。太陽が照りつけて暑いし、荷物は昨日より離れていてまだマシだが、やはり重い。わたしはオランジーナの最後の一滴を飲み干した。衛兵になったような気分で中世の城壁をつたって、より上の方を目指す。この城壁はどうやら、アヴィニョンの町の頂上に続いているようだ。

登りながら町の外を見ると、水色の美しい川が流れ、そこに向かってサンベネゼ橋が突き出していた。歌詞とは裏腹に、橋はきちんとした欄干がない上に狭いので、話になって組んで踊ると危険だという話を聞いたことがある。こうやって上から見るとそれはよくわかった。川の手前には車が走り、川の向こう側は文明とは程遠いような森と山だけの世界があった。きっと、ユリウス・カエサルがガリア地方、今のフランスにやってきたときは、全てがあのような森と山の世界だったんだろう。反対側には、城下町がある。街の外の街である。赤茶けた素朴な家が立ち並び、まるで中世の街並みを見ているようだった。そこでは時間の進み方が、川沿いを走る車のスピードよりも確実にゆっくり流れているように見えた。この、中世の城壁からは、現代と過去が見渡せた。

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頂上の公園で、しばらくベンチに座って空を眺めた。随分とたくさんのところに行ったようだが、まだ三日目に過ぎない。普段の東南アジア旅行なら、1都市目が終わるくらいだ。だが今回は、移動する旅。幸いまだ疲れは来ていない。

立ち上がり、山を下ることにした。方向がどちらかはよくわからないが、まあなんとかなるだろう、ととりあえず歩いていると、教皇宮殿が現れた。なるほど、宮殿を伝って降りてゆくわけか。かくしてわたしは知っているアヴィニョンに戻ってきたのだった。宮殿前にある小さな階段に腰掛け、宮殿前に設置された巨大な十字架を見た。そろそろ、アヴィニョンを離れる時間が近づいている。面白い街である。長期滞在したい街かと言われるとよくわからない。だが、気持ちの良い街ではあった。風と太陽と緑と、そして歴史。アヴィニョンには時の流れがあったからだ。

わたしは再び駅の方へと向かい、昨日一昨日の不節制を戒めるべく、駅のパン屋のぱさぱさのハンバーガーを食べた。5.20ユーロ。大体700円くらい。昨日のワインとムール貝に比べれば大きな差である。次の目的地は、アヴィニョンからほど近いニーム。ニースではなく、ニーム。今日はニームに滞在するつもりだ。

3都市目:リヨン〜リベンジするは我にあり〜

ブルゴーニュ地方からリヨンのあるローヌ・アルプ地方までは在来線TERで行けば良い。所要時間は2時間だから、すぐについてしまう。

リヨンというと、フランス第二の都市とも言われる都会である。その歴史は古代ローマまで遡る。フランスの地がローマ帝国の「ガリア地方」と呼ばれていた時、ガリア地方は三つに分かれていたのだが、ルグドゥヌムことリヨンはそのうちの一つ「ガリア・ルドゥグネンシス州」の州都であった。この州は今のパリも含んでいるため、このころはルテシアことパリよりも大都市だったのだろう。リヨンはローマ帝国亡き後も反映し、そして現在に至る。

街には二つの川が流れ、「山がちなエリア」、「真ん中」、「駅のあるエリア」の三つに分けられると思う。「山がちなエリア」は旧市街も旧市街で、古い建物が残り、ローマ時代の遺跡もある。それに夜には山のてっぺんからはリヨンの夜景が楽しめる。「真ん中エリア」は、リヨンの市街地という感じで、旧市街ほどの古さではないが、日本人の感覚としてはやはり古い街である。広い道、ルイ十四世の像のある広場、そしてレストラン街に、スイスのジュネーヴを思わせるでかくて漕ぎれない建物……美しいヨーロッパの街という感じだ。そして「駅のあるエリア」を見ると、驚く。そこは別世界であり、高層ビルが立ち並ぶ、新市街なのだ。

実を言うと、リヨンは初めてではなかった。一昨年、私は大学の友人5人とフランスを訪れたことがあり、その際に立ち寄ったのが、パリとリヨンだったからである。一昨年は「山がちなエリア」のてっぺんにあるユースホステルに泊まった。夜景、夕焼け、そして朝焼けが素晴らしい場所だったと記憶している。だが、今回はそこまで行くのはやめた。なぜなら、ディジョンの町歩きで疲れ切ってしまっていたからだ。背中が痛いし、足にも負荷がかかっている。私はとにかくホテルに泊まりたかった。そもそもリヨンでの滞在は予定外だったこともある。

列車が駅に着くと、私は大手チェーンのホテルibisを探すことにした。ホテルを探す元気がないし、ユースのようなドミトリーではなく、個室でゆっくりとしたかった。それに、外はずいぶん暑い。パリ→ストラスブールディジョン→リヨンとやってきたが、気温がここにきてグッと上がったと感じた。だから、衣替えをして、パッキングを見直す必要がある。そうなれば、個室の方が都合がいい。ちょっと値ははるが、ibisなら耐えられるくらいだと信じた。

ところが、駅周辺の新市街は初めてだったということもあり、私はだいぶ迷ってしまった。それもそのはず。ホテルのある通りはなんと、高架下の狭い通路を行く道であり、道に見えなかったのだ。そのことを理解し、高架下を通り抜け、新宿西口の都庁周辺にも似た風情の街を歩いていると、ibisはあった。70ユーロ。昨日のホテルは57ユーロ(これでもだいぶ高い)。日本円にすると8000円くらい。非常に高い。だが、時には仕方ない。何しろ疲れていた。私は倹約旅など忘れちまえとibisに部屋を取った。

ibisはパリの空港にあったものに泊まっていたので、部屋に入るとなんだか懐かしい雰囲気だった。私はテレビをつけた。ドキュメンタリー調の番組をやっている。余談だが、私にとってテレビと旅は切っても切り離せない。なぜなら、テレビはその国を映す鏡でもあるからだ。街を見ているだけではわからないことがわかってくる。例えば、ヴェトナムのテレビではたまに外国の映画をやっているが、実はこれは字幕でも吹き替えでもない。なんと、同時通訳なのだ。だからどんなに緊迫したシーンでも、どんなイケメンも、どんな美女も、みんな同じトーンの女性の声になっている。ヴェトナムにはそんな事情がある。これはテレビを見なければわからなかったことでもあると思う。ちなみにフランスで、私が大好きだった番組は、France 2で平日の23時くらいからやっているバラエティだ。ゲストたちが、「曲に合わせて口パクしろ!」とか「この商品をお題に合わせて紹介しろ!」とか「ジェスチャーで伝言ゲーム!」とかいう無理難題系めちゃくちゃゲームに挑む超くだらない番組である。確かこれは、リヨンで見つけたんだったと思う。

テレビを見ながら、明日の列車の予定を考えていると、ふと、帽子をどこかに落としたことに気づいた。多分ロビーだ。でも、正直もうヨレヨレで、かなり黒ずんでいたので、よしとしよう。どこかで買えばいい。私はそう思い、ベッドに倒れこんだ。明日は朝9時20分のTER(在来線。ユーレイルパスで無料になる)に乗って、アヴィニョンへ向かおう。それからは、それから次第。だが、アヴィニョンはあまり交通の便が良くないので、宿泊はもっといい場所に行ったほうがよさそうだ。今回のディジョンでの一件を考えれば、アヴィニョン観光は二時間。それでも、ただ列車で移動するだけの旅よりは、少しでも街を見て、風を感じたほうがいいに決まっている……とまあ、あれこれ考えているうちに、私は眠りに落ちてしまった。

 

起きると、18時くらいだ。フランスのレストランが開くのは7時から。本番は8時からだという。街を観光するのも面倒だったから、とりあえず夕飯を食べに行くとして、30分くらいは部屋にいてもバチは当たらない。

リヨンは美食の街として名高い。フォアグラが名産で、イタリア由来の独特の食文化があるらしい。そして、パリのビストロとは少し違った、大衆食堂ブションで出す料理が有名だという。全部伝聞調なのは、実を言うとまだ知らないからだ。一昨年来た時は、あいにくの日曜日であり、店が軒並み閉まっていた上に、どこにブションがあるのかよくわからず、適当なブラッスリー(レストラン)に入ったのだ。しかも、そこで食べた鴨料理マグレ・ド・カナルは「とろけるように柔らかい」という前情報とは違い、わりかし硬くて、しかも味がなかった。あの旅では食に関してハズレを引き続けていたが、リヨンよ、お前もか!(Et tu, Lugdunum!)と思ったのを記憶している。

と、なれば、である。今回は、リヨンをリベンジしてやろうではないか。リヨンの本当の力を見せてもらおう。正直、ホテル代、昼のムール貝と浪費しすぎな感はあるが、リヨンにいるのだ。真骨頂を見せてもらおう。私は闘志をみなぎらせ、ベッドから起き上がり、ガイドブックでレストラン街を探した。ホテルのある「駅のあるエリア」から川を一つ越えて「真ん中エリア」の奥に行かねばならない。地下鉄もあるが、ええい、ここは歩いてやろう。案外いけそうだ。私は珍しく計画を練ったうえで、外に飛び出した。日は傾きかけており、眩しい。サングラスを出すべきだったと後悔した。

レストラン街までの道のりは、案外難しくはなかった。というのも、ホテル沿いの道を川までだーっと歩き、途中の橋を渡り、それから目の前の大通りをバーっと歩けば、すぐ左にレストランのあるメルシエール通り。日中と違って日が陰ると風が気持ち良い。川辺は特に良くて、ゆっくり歩きたくなった。そういえば、大学の後輩がここに住んでいたという話を聞いた。随分いいところにいたもんだ……だが、まだリヴェンジを果たしていない。散歩は食後だ。私は勇み足でレストラン街を目指した。

レストラン街は見てすぐにわかる雰囲気を持っていた。狭い路地にずらりとテラスが並び、人々が食べている。少し早めに着きすぎたので、行ったり来たりを繰り返してみたが、一人、また一人と客が入る。値段は大抵一皿19ユーロくらい。だいたい2000円か。それにワインを入れると、少し高くなるだろう。小さな路地でフォークとナイフの音、人々の話し声が反響している。この街は生きていると感じられる風景だ。周りの路地も見てみたが、やはりここが一番だった。

しばらくうろついて、私はリヴェンジマッチにふさわしい店を探した。値段、客の入り含めて一番良いのはどこか。白羽の矢が立ったのは、メルシエール通りと別の通りのT字路にある紫色のモダンな装飾の店だった。看板にはしっかりとBouchon(ブション)と書かれている。しかも、テラスでは店員と常連が楽しそうに話しているではないか。

フランス語で話すということにハードルを感じていた私は、一瞬ためらいを感じつつも、この店しかない、と店に飛び込んだ。

「Bonsoir, une personne(こんばんは、一名です)」

すると髭面の若い店員は、中か外かと聞いてくる。あの雰囲気を味わいたいので、私は外を所望した。店員の言われるまま席に着くと、しばらくして、女性の店員がやってきた。フランス語だったのでわかりづらかったが、どうやら予約が入っているらしい。仕方ない。私は流れに身を任せ、店内で食べることにした。

この店のこの日のオススメは、なんと、一昨年リヨンで失敗した「マグレ・ド・カナル」だった。これはもう、運命だ。注文を取りに来た若い女性の店員に私は早速マグレ・ド・カナルを注文した。喉が渇いていたので、飲み物はビールである。

「焼き方は?」と聞かれたので、とりあえず覚えていた語彙を使ってみた。

「あー、ロゼ」ロゼとは、ピンク色のこと。だから肉がピンク色になるくらい、という意味だったと思う。

白を基調とした店内は小さく、客の入りもまばらだったが、アットホームな空間だった。二階席もありそうな雰囲気で、行き来する人がいる。部屋の奥にはバーのようなものがあって、そこで酒を出しているようだ。作り自体はカフェと変わらないが、なんとなく人を落ち着かせる空気感が流れている。

しばらくして、先ほどの髭面の店員がマグレ・ド・カナルを運んできた。鴨肉に珍しく白いソースがかかっている。付け合せはフランス名物のフレンチフライ(フリット)。店員の「Bon appétit(召し上がれ)」という言葉とともに、リヴェンジマッチが始まった。

肉を切ってみる。ものすごく柔らかいというわけではないが、柔らかい。口に運ぶ。白いソースが絡んで、とてもうまい。これは間違いない。リヴェンジマッチに勝利したのである。私は大事にマグレ・ド・カナルを食べた。このマグレ・ド・カナル、フランス料理にしては珍しく、あまり大量には出てこない代物だからだ。それにしてもうまい。臭みのない鴨肉と、バター風味のソースがうまく合っている。

食べ終わって満足し、店の外を見ていると、若い女性の店員が、

「食べ終わりましたか? いかがでした?」と聞いてきた。私は、

「C'était très bien(とてもよかったです)」といった。très bon(とてもおいしい)と言おうとして、いつも言い間違えてしまう。私は、「parfet(完璧でした)」と付け加えた。

「デザートはよろしいですか?」と聞いてきたので、私は、

「じゃあ、コーヒーをお願いします」と答えた。今日は腹の余裕はあったが、懐の余裕があるか不安だったからだ。

店員はエスプレッソコーヒーを持ってくると、おもむろにペンを取り出し、

「会計はテーブルではなく、あちらのバーで行います。コーヒーが終わりましたら、テーブル番号を向こうで教えてください」といって、紙でできたテーブルクロスに「9」と書いた。

「わかりました」私はそう言って、うなづいた。

ヨーロッパではテーブル会計が普通だ。こんな会計は初めてである。なるほど。やっぱりリヨンの食文化は、他の街とは違うのか。私は、面白いな、と思いながら、濃厚なエスプレッソコーヒーを飲んだ。美味しいけど少し重いヨーロッパ料理を食べた後は、エスプレッソに限る。口の中がさっぱりして、胃が動き出すのが感じられるからだ。私にとってのデザートである。

しばらく食休みをして、私は恐る恐るバーのところへ向かった。

「L'addition, s'il vous plaît, eh, table numéro neuf(お会計お願いします。えーっと、テーブル番号9番です)」

おそらく店長なのであろうサバサバした感じの女性が、

「parfet(完璧ですね)」とにっこり笑いながら言い、会計を出した。26.50ユーロ。チップはいらないと何かに書いてあったので、ちょうどの金額を払い、Merci(ごちそうさまでした)と礼を言って外に出た。外はまだ明るい。

 

その後は、川沿いを歩き、それから一昨年行ったパン屋と公園を探してみた。結局見つからなかったが、一昨年行った広場には行き着いた。真ん中にはルイ十四世の騎馬像がある。フランスで20時は夕暮れ時なので、広場も夕焼けに包まれていた。リヨンはもういいかと思っていたが、なんの巡り合わせか、来てみてよかった。一昨年の旅の記憶と、今年のリベンジ。リヨンの街は祝福してくれているようだ。広場を抜け、大通りを歩こうと横断歩道を待っていると、一昨年泊まったユースホステルのある山が夕焼けに染まっている姿が見えた。今度来るときは、この街で何をするんだろう。私はそんなことを思いながら、大通りを歩き、川を渡って、ホテルへと向かった。

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明日は、ついに南仏のアヴィニョンへ出発だ。

2都市目:ディジョン〜Carry that Weight〜

5時半頃にホテルをチェックアウトして、ホテル・ル・クレベールを出ると、案の定空は真っ暗、そして小雨が降っていた。コートのボタンを留め、トラム乗り場に行ってみたはいいが、乗り方がよくわからない。トラムを待っている女性に聞いてみて、なんとかチケットを手にすると、目当てのトラムに乗り込んだ。こんなに暗いのに、治安はそれなりに良さそうである。また来るときは、もう少し長く滞在してみたい、観光というよりも暮らしてみたいと思えるような街だった。だが、今回はもうお別れである。

中央駅(Gare Centre)でジュースを買い、列車に乗る時には、徐々に日が昇り始めているところだった。約二時間ほどの旅だ。着くのは8時15分くらい。朝食はディジョンで何か温かいものを食べよう。などと考えているうちに高速列車TGVは南西に向かって動き始めた。車窓を見ると、どこまでも続く緑の畑が見える。パリからストラスブールへの列車でも見えたのだが、フランスのこの辺りの風景は、広大な田園とその真ん中に見えるちょっとした村でできている。その村の真ん中には必ず高い尖塔のある小さな教会が見えた。村の真ん中に教会、小規模な家の集まり、そしてそれを取り囲む田園。その構図は歴史の資料集で紹介されるヨーロッパの都市の特徴そのものであり、なるほど、一緒くたにヨーロッパと言われてるのはここなんだなと思った。それにしても、こういう村の暮らしはどうなっているんだろう。みんな知り合いなのだろうか。スーパーはないのだろうか。あるいはもう進出してきているのだろうか。外の世界を夢見ているのだろうか……私はこの村の住人ではなく、列車の中にいる。そんなことすら不思議に思えてくる……

列車は国境の街ストラスブールからアルザスの土地を南西へと抜け、スイスの隣に位置するフランシュ・コンテを通過して、ブドウ畑が広がるブルゴーニュ地方へと入った。目的のディジョンはこの地方の中心都市である。この地にはかつて、ブルゴーニュ公国と呼ばれる独立国家があった。少し今回も歴史に思いを馳せてみよう。

 

時は紀元476年。イタリア半島よりも西のヨーロッパを勢力圏としていた「西ローマ帝国」が滅亡した。この国は、かつて北は現在の英国、西はモロッコポルトガル、南はエジプト、東はシリア・トルコまでを支配したローマ帝国が東西に分裂してできた片割れである。強大な帝国が分裂し、その西部分が滅亡した理由はさまざまあるが、その一つの理由は、ゲルマン人と呼ばれる今のドイツに住んでいた民族が大挙して西ローマ帝国領内に押し寄せて、勝手に国を作ったからだった。そんな中でできた国にブルグント王国がある。これは今のフランスの東部一帯を支配する王国だ。そしてこの「ブルグント」、フランス語読みにすると他ならぬ「ブルゴーニュ」になる。このブルグント王国は始めこそ力を持ったものの、フランスの北部を中心に勢力を拡大していた大国フランク王国に敗れ、滅亡。その後フランク王国が弱体化すると、その領土内では幾つかの小国が争うようになるが、現在ブルゴーニュと言われる地方はフランス王の支配下に入った。とはいえ、フランス王が直接支配するにはいかんせんブルゴーニュは遠い。そこでフランス王はそこに公爵を派遣し、支配させた。かくして「ブルゴーニュ公国」が整理するのである。ところがこれがフランスにとっては痛手となった。それは特に、フランス王国の王家がカペー家からヴァロワ家に変わり、ブルゴーニュ公爵の地位もヴァロワ家になってからのことである。

ブルゴーニュ地方の北には先ほども紹介したフランシュ・コンテやアルザスがあるが、そのさらに北にはフランドル地方がある。今のベルギーだ。ここは当時、毛織り物、とどのつまりは服やカーペットなどの生産で有名だった。ヨーロッパは寒いので、こういった商品は売れる。そのため、フランドル地方は経済の中心となっていた。時のフランス王の弟でブルゴーニュ公爵となったフィリップ豪胆公はフランドルを支配するフランドル伯爵家の女性と結婚し、なんとこの地方を手に入れてしまう。フランス王国としては、国王家の人間がフランドルを手にしたのはありがたい話のはずだったが、問題はその後である。

当時、フランス王国イングランド王国との百年戦争を遂行中だった。フランス国王は精神を錯乱、側近たちはそんな宮廷の中で権力争い。フランスに勝ち目はなかった。そしてそんな宮廷の中で権力争いをしていたうちの一人がブルゴーニュ公爵だった。間のゴタゴタは端折るが、なんとフィリップの次の公爵ジャンはイングランドと同盟したのである。経済の中心を手に入れ、裕福なブルゴーニュ公国が、フランス王国を見限り、イングランドと同盟する。フランス王国はこのことにより、かなりの痛手を被った。一方のブルゴーニュ公国は、ジャンの次の代のフィリップ善良公の時代に最盛期を迎え、フランドル地方ではファン・エイクなどの画家が活躍し、宮廷では優美な騎士道物語と言われる物語や音楽が流行った。食文化もかなり進み、上質なワイン、エスカルゴ(かたつむり)料理、そしてマスタードが生まれた。フィリップ公爵はしたたかな外交を行い、イングランド不利と見るやフランスに傾いたが、独立国家としての体裁は保ったままだった。次の王シャルル突進公は領土拡大を求め、近隣諸国との戦争を繰り返した。その前に立ちはだかったのが、百年戦争イングランドになんとか勝利したフランス王国だった。百年戦争の英雄シャルル七世の子、ルイ十一世は巧みな外交と陰謀戦略によってシャルルと対峙、ついにシャルルが戦死すると、ブルゴーニュを手に入れ、晴れてこの地もフランス王国のものとなった。そして、今に至るわけだ。

 

ディジョンに到着すると、私はトイレを済ませ、街の中心に出ることにした。外に出るとかなり寒い。パリやストラスブールよりも寒い気がした。アルプスが近いためか、それとも、単純に朝だからなのか。10kgのリュックを背負って、街の中心へと伸びる一本道を歩く。道の真ん中にはトラムが走っていて、街の色は明るいベージュである。しばらく歩くと公園が見えてきて、公園の目の前には由来のよくわからぬ大きな凱旋門風の門があった。門のそばに朝食を食べられそうなところは幾つかあったが、とりあえず街の見物だ、と門を超えてみたり、有名らしい緑の尖塔が美しい教会の方に行ってみたりしたが、いかんせん朝8時なので人がいない。いいかげん朝食を食べよう。私はそう思い直して、凱旋門側のカフェに入った。後々知るが、この、リアルなクマの顔がトレードマークの「コロンブス・カフェ」はチェーン店である。

「ボンジュール」と挨拶をし、陳列棚を見る。何かパンが食べたい。するとクロックムッシューに目が止まった。パリで会うはずだったRくんの友達のHくんに日本であった時のことだ。「フランスに行くんなら、クロックムッシューを試すといいぜ。クロックっていうのは、なんていうか、その、むしゃっと食べること。ムッシューはムッシュー(旦那)。わかるだろ? カリカリのパンの上にハム、その上にはチーズが乗ってて、すげーうまいんだ」と、彼はオススメしてくれた。そうだ、いまこそクロックムッシューを食う時だ。わたしはクロックムッシューとカフェ・オ・レをオーダーした。フランスの朝といえば、カフェ・オ・レと聞いたことがあったからだ。店員のお姉さんは、「あいよ」と頷き、クロックムッシューを電子レンジに入れた。それから、「コーヒーの大きさはどうなさいますか?」と私に聞きながら、カップの大きさを見せる。とりあえず、クラシックってやつにしておいた。そうこうするうちにクロックムッシューとカフェ・オ・レが出来上がった。800円くらい。安くはないが、高すぎでもない。私は肌寒いテラス席へと向かった。

クロックムッシューは電子レンジで温めたやつだったが、中がとろっとしていて美味しかった。カフェ・オ・レも朝にぴったりのまろやかな味である。テラス席は始めは客が1人だけだったが、徐々に増えてきた。フランス人の朝はどうやら遅いみたいである。しばらく肌寒さと朝食のあたたかさのギャップを楽しみながら時間を過ごした。人通りが増えるのを待つという意味もあった。

しばらくして、私は再びメインの道を歩いてみた。人通りは以前まばらだったが、体があったまったこともあって、気分は好調だった。建物はベージュ、屋根は紺っぽい。その屋根から赤い煙突がちょこっと頭を出している。そんな建物がディジョンには並んでいた。そして空気はあいからわずキーンと冷え込んでいた。時折、古そうな木と漆喰の建物がある。だが、ストラスブールのそれとは雰囲気が違う。何が違うのかは説明しづらいのだが、おそらく屋根の作りに違いがあるようだ。それに、ディジョンの建物の方がずっと背が低い。ずっと歩いて行くと、ウィルソン公園という公園に突き当たった。私はそこで少し休むことにした。それは、あまりに荷物が重かったからである。私のリュックは全てを詰め込んだため、10kgもある。それを背負って街歩きはさすがにきついのだ。しばらく公園のベンチに座って、体力の回復を待った。

 

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案内板を見ると、どうやらこの公園から伸びる道を行けば、ブルゴーニュ公爵の住んでいた宮殿に行けるらしい。私はひとまずそこに行くことを目標とし、重い荷物をまた担いで、道を進んだ。途中で巨大な教会にいきあたったり、劇場の前に着いたりしたが、徐々に、荷物の重さに私の精神は蝕まれていった。

しばらく歩くと、地面が突如大理石になった。そこは紛れもなく、公爵の宮殿の前の広場だった。噴水があり、昼に近づき風も気持ちよく、空は真っ青だった。私は宮殿の前にある石でできた椅子に腰掛け、ひとまず荷物を置いた。中に入ろうと思ったが、こういうところはこの大荷物では入れないだろう。私は断念し、外側からその歴史を感じることにした。宮殿から突き出たタワー、そしてこの美しい広場全体が、在りし日の公国の栄華を物語っている。私はふと、芭蕉の「夏草や つわものどもが ゆめのあと」という歌を思い出した。これは東北地方に君臨した奥州藤原氏の都平泉が廃墟となっているのを見て歌った歌だ。正直、ディジョンには全くふさわしくない。なにせ、未だにここまで美しいのである。だが、この土地がかつてはフランスから独立せんばかりの勢いだったことと比べて、日本での「ディジョン」の無名さはなんということだろう。パリ、マルセイユ、リヨン……最近ではストラスブール知名度を獲得してきているが、ディジョンなど誰が知ろうか。歴史とは気まぐれだ。

そんなことを思っていると、家族連れのおじさんがフランス語で、「!£*™(‡°·フォト?」と聞きながらスマートフォンを差し出してきた。写真を撮ってくれということか。わたしは「ウイ(はい)」と答え、写真を撮った。「ボンジョルネ(良い1日を)」と家族全員が言ってくれたので、私も「ボンジョルネ」と返した。気持ちの良いところだ………そう、このリュックさえなければ。

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リュックを背負い、昼食場所を探しながら町歩きを続けることにした。昼食場所と言えば聞こえがいいが、名高いブルゴーニュワインが飲みたい、という魂胆である。相変わらず重いが、仕方あるまい。しばらく歩き、私は街の中心のようなところに出た。先ほどと違って、人でごった返している。真ん中にはメリーゴーラウンド、それを取り囲むのは古い木と漆喰の建物。メリーゴーラウンドはストラスブールの広場にもあったから、不思議なもんだなあと思った。

広場の周りには幾つかレストランがある。だが、朝ごはんにはまだ早い。私はとりわけ人にいる方を目指して歩いた。すると、大道芸人の音が聞こえ、狭い道にさらに人がたくさんいる。どうしたものかと思っていたら、そこはなんと、市場であった。市場があったら入れ。それが私の旅の掟。リュックは重く、私の肩に食い込んでいるが、私は市場に入った。

魚、肉、野菜、そしてワインスタンド。活気と生臭さで満ち溢れている。最高だ。だが、一つ問題がある。リュックが重いのだ。無理して歩いたためか、徐々に頭痛までし始めていた。良い市場なのに楽しめない。私は休むことにして、市場から一度出た。が、座る場所が見当たらない。階段があればいい。だが階段もない。私は歩き回った末、ベンチを見つけて、座った。ひとまずの休憩である。負荷がかかっているせいか、太もももパンパンだ。

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しかし、座っていると、どうしても市場に行きたくなってくる。私は、回復した、と判断し、また街の中心へと向かった。だが、重いせいなのか、逆に「ワインスタンドに入ってみよう」とか、「何が売られているか見てみよう」とかいったことを考えられない。ワインスタンドの椅子は高く、リュックをどこに置けば良いのだろう、と考えてやめてしまった。だが、もはや限界だったため、私は地元民で賑わうカフェに入った。

注文の仕方がよくわからないので、店内にいるおばさんに、「一人です」と告げる。するとおばさんは警戒した感じで、「何が欲しいの?」と聞いてきた。私はとりあえず思いつきに任せて、「コーヒー」と答え、適当なところに座った。あまり余裕がなかった。しばらくしてコーヒーが出てきたので、私はコーヒーを飲んだ。フランスでコーヒーと言えば、エスプレッソのことだ。小さいカップに濃厚なコーヒーが入っている。

観察していると、どうやらおばさんに注文し、椅子に座るのが流れらしい。あるいは、外側の席に陣取ってしまうのが正しいようだ。するともう一人のおばさんがオーダーを取りに来る。なるほど。何事も慣れである。ストラスブールにはカフェがあまりなかったから、練習ができなかった。

しばらくして、私はこの店を出たが、うまいレストランを探す気力もなく、とにかく駅の方へと向かった。だが、ブルゴーニュに来てブルゴーニュワインを飲まずに別の都市に移るわけにはいかない。そう、ディジョンに泊まるつもりはなかったのだ。とりあえず、今日のうちに南のアヴィニョンへと移るつもりだった。それもこれも、フランスを抜けてスペイン入りを果たすためである。今思えば、泊まっておけばよかったとも思う。なんにせよ、もうディジョンとはお別れだった。私はワインを飲むべしと目に付いた賑わっていそうな店に入った。

「いらっしゃいませ。テラスにいたしますか、それとも店内ですか?」とウェイターが言うので、わたしはテラスを選んだ。哲学の世界では「外的」と訳される「extérieur」が「テラス席」を意味するということに若干面白さを感じながら。「外的善」は「テラス席の良さ」である。いいではないか。

メニューを開けてみて驚いた。割と高いのだ。これはまずい。名物のエスカルゴでも食べようかと思ったが、エスカルゴ12個ではお腹が空いてしまう。私は次点で一番安かったムール貝のワイン蒸しと、ブルゴーニュワインで一番安かったピノ・ノワールを頼んだ。ワインはすぐに運ばれてきた。フルーティーでまろやかでおいしい。フランスワインの渋みの強いイメージとはだいぶ違った。やはり、現地で飲めてよかった。しばらくしてムール貝が運ばれてきたが、これがえげつない量である。店員同士の会話を解釈するに、きっとこれは一人分ではないのだろう。だが、頼んだんだ。もう意地でも食ってやる。私はムール貝の鍋に突っ込んでくる蜂やハエたちと格闘しつつ、うまいワイン片手にムール貝との戦いを始めた。とはいえ、相手は貝。実を言うと案外簡単に食べ終わってしまった。問題は付け合せのポテトだったが、それもなんとかなった。食後にコーヒーを頼み、アヴィニョンまでの行き方をスマートフォンで検索した。

すると、である。どうやらアヴィニョンまでの列車は出ていない。必ずリヨン乗り換えである。どう調べても、そうなる。今のリュックを背負って歩いて疲弊した体には、それは非常に面倒だった。しかもアヴィニョンという街を知らないので、ホテルも取らねばならないかと思うと気が遠くなった。それなら‥‥‥リヨンに泊まれば良い。リヨンは一昨年行った町である。また行けばいいじゃないか。しかも、ディジョンからリヨンの列車は、予約料なしで乗れるTERだった。私は行き先を急遽変更し、リヨンへ行くことを決めた。

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1都市目:ストラスブール(2)〜戦争と平和の狭間の街〜

ストラスブールの教会は、歴史の積み重ねを感じさせる場所だった。赤みがかった石の一つ一つに歴史が刻み込まれている。天井の高い巨大な空間全体が、歴史を語っているようだ。そしてその古くから続く祈りの場にはなにやら神がいそうな気もしないでもなかった。静謐、荘厳。ここ以上にその言葉がふさわしい空間はない。

教会の構内の端には小さな部屋があり、そこにはなぜかコペルニクスのモチーフのされた巨大で程よく豪華な機械時計がある。時間になると何がしかのからくり装置が動き、時を知らせるらしく、大勢の人々がそれを待っている。私も待ってみたが一向に始まる予感はない。時計を見てみると、時計は半端な時刻を指している。どうやら、ここにいる人たちは待っているのではなく、余韻に浸っているようだった。私はその場を離れ、教会の中のベンチに座った。人々が祈るベンチに座ってこそ、教会の本当の効果がわかる。なぜなら、教会は信者が神を感じられるように作られているからだ。しばらく座り、祭壇を見つめると、そこにはやはり、何かがいるように思えてきた。

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教会を出ると、入る前には降っていた雨がひとまず止んでいた。だが、快晴とは言えない。空は曇り空。またいつか雨は降りそうである。私はキンと冷えた空気の中、ストラスブールの街を歩くことにした。あてもなく、ただ、ただ、心の行くままに。石畳から石畳へ。木と漆喰でできた建物から、石造りの建物へ。アルザス語の本がないかと本屋にも入ってみたが、どうやらなさそうだった。ホテルで紹介されたレストラン街に行ってみるが、時間も時間なので空いている店はない。あたりだけつけて、歩いた。

しばらく歩くと、木と漆喰の古い建物が川沿いに並ぶ静かな界隈にたどり着いた。後で調べると、そこは「プティット・フランス(小さなフランス)」というらしい。だが、その見た目はどう見ても、フランスというより、ドイツのロマンス街道である。川には船が浮かんでいて、遊覧船になっているようだ。ストラスブールの町は川で囲まれており、それが堀の役目を果たしている。だからきっとこの川を一周するだけでもだいぶ楽しいのだろうなと思った。だが、今回は節約旅行。あまりそういうものには手を出すまい。私はひとまず木と漆喰の街並みの方へと歩いた。

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しばらく街をうろついていると、私はいつの間にかクレーバー広場に戻ってきていることに気づいた。石畳のせいもあってだいぶ足が疲れていたので、私は広場の一角にある店に入って、ビールを頼んだ。アルザスはワインで有名だが、ドイツ文化が濃厚なのだ、ビールくらいあるだろう。案の定、出てきたビールは全く知らない銘柄で、さっぱりとした味わいの少し白く濁ったビールだった。「シュトリク」というらしい。疲れに染み渡る味である。フランスやスペインはワインの国だが、足が疲れている時や、暑いときはいかんせんワインは重っ苦しい。古代ローマ人はワインに水を混ぜていたというが、確かにワインだけでは「飲み物」としてはあまり良くないような気がする(食べ物に合わせるのには抜群だが)。そういうときはどうしてもビールが良い。

会計を済ませ、再び街に出た。そろそろ夕飯の時間だ。レストラン街に戻ってみたが、当たりをつけたとは言え、どこに行けばいいのかよくわからない。アルザス名物は「シュークルート」。シューはキャベツ、これは要するにドイツ名物「ザウアー・クラウト」のことだ。酸っぱいキャベツの漬物である。漬物だけか、と思うことなかれ。この漬物に、ソーセージやベーコンやジャガイモを合わせるのがシュークルートだ。とはいえ、完全にドイツ料理であることに変わりはない。だが、ここにきたからにはこれが食いたい。

そうはいっても、どの店も大抵は置いているようだ。私は値段と雰囲気で選ぶ作戦を決行した。趣のあるレストランはあまりに高く、安い店は観光地っぽすぎる。そうやって色々と選別する中で、私は川に近いアルザス風の漆喰と木の建物にある「ヴィンシュトゥプ(ワインを出す大衆居酒屋)」を見つけた。そこのシュークルートはそれほど高くなかった。しかも雰囲気もいいし、店内にそれなりに人もいる。雨脚が突然強くなったこともあり、私は店に入った。

「ボンソワー(こんばんは)」と言いながら店に入ると、声の高い若いんだか歳をとっているんだかよくわからない店員が出てきて、席に案内した。せっかくなので私はシュークルートともにアルザスワインを頼んでみた。ドイツのワインと同じく、白ワインが充実しているみたいだ。

ワインとともに、プレッツェルのお菓子が出てきた。いよいよドイツである。私はワインをちびちび飲みながらプレッツェルを食べた。面白いのは、店内の空間はドイツっぽさがあるのは当然だが、店員同士はドイツ語に限りなく近い言葉で会話をしていることだ。そして、接客のときはフランス語に切り替わる。

しばらくするとシュークルートが出てきた。ものすごく多いが、かつてドイツに住んでいた身としては何処と無く懐かしい香りがした。真ん中に盛られたキャベツの漬物の周りに、太い二本のソーセージと分厚い二枚のベーコンが置かれ、ジャガイモがその周りに陣取っている。

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写真で見るとそうでもなさそうだが、一つ一つがヘヴィーなので、初めはうまいうまいとパクパク食べていても、最後のベーコンくらいになると、ちょくちょく休まないと食っていられなくなる。途中でワインが底をつき、ペリエを頼もうと手を挙げると、

「食べ終わったの?」と店員が言ってきた。アジア人と思って舐められては困る。私は首を振り、ペリエを頼み、休みながらもなんとか大量のベーコンを食いきってやった。

アルザス語で「セテ・デリシウ(おいしい)」ってなんていうんですか?」と、私はコーヒーを頼む時に聞いてみた。

「ゼーシュ・グート」と店員が言うので、わたしは

「ゼーシュ・グート」と言ってみた。完全に、ドイツ語ではないか。店員はにっこりと笑って、「メルシー」と言った。

不思議なもので、苦いエスプレッソコーヒーを飲めば、どんなに大量の料理を食べた後でも、スッキリして、完全復帰できる。私は会計を済ませ、まだうっすらと明るいストラスブールの街に出た。ヨーロッパの夏の1日は朝7:30ごろに始まり、夜9:00ごろに終わる。夜9:00ごろにやっと日が落ちるのだ。もう8時くらいだったが、日本でいうなら5時くらいの明るさである。

ホテルに向かって歩いていると、喉が渇いているのに気づいた。それに、部屋で飲むための水も欲しかった。だが、スーパーのようなものが見当たらないし、ヨーロッパの街は8時を過ぎると機能を停止する。店はもうほとんどやっていない。これはこまったぞと思いつつ、私はクレーバー広場の当たりをぐるぐると歩いた。すると、救いの光のように、アイスクリーム屋がやっているではないか。水も売っているようだ。私はひとまずその店に入り、移民系の店員に、

「ドゥ・ロー、シルヴプレ(水、クダサイ)」と言った。すると店員は「£$^^$%^ブテイユ%^**(^*%&&^?」と聞いてくる。ブテイユとは「ボトル」のこと。私はうなづいて見せた。すると店員はコップを取り出し、蛇口をひねり始めた。そうか、私はブテイユではない方に頷いてしまったようだ。

「ノンノン、ブテイユ(チガイマス、ボトル!)」と慌てていうと、店員は一瞬戸惑ったが「ははは」と笑ってボトルの水を私にくれた。フランス語、まだまだだなあ、と思いながら、まあ1日目だ、こうやって成長する、と自分を励まして、私はホテルへと向かった。明日の朝は、ディジョンへ向かう。

1都市目:ストラスブール(1)〜戦争と平和の狭間の街〜

パリのシャルルドゴール空港についた次の日、私はフランス版の新幹線とも言えるTGVに乗って東の果てのストラスブールを目指した。TGVは値が張るが、私はユーレイルパスという青春18切符のようなものを持っていたので、予約料だけを払えばよかった。パリからストラスブールまではだいたい2時間かかる。

正直、前日のフライトで私は疲れ切っており、ホテルを探す気にもなれず、ホテルはネットで予約をした。電車内でも、ひたすら車窓を眺めていた覚えがある。電車が駅に着くと、力を振り絞り、10kgあるリュックを背負って、駅へと降り立った。駅はヨーロッパの伝統的なスタイルのものだった。石造りの駅舎の真ん中に何本か線路が通っており、それを挟むように幾つかプラットフォームがあって、駅構内から直通していないプラットフォームに行くには、地下通路を通じてゆくしかない。そして、改札は存在せず、ただチケットに刻印をする黄色い機械が階段のそばに置かれている。だが、ストラスブールには独特の作りがあった。それは、古い石造りの駅舎を覆うように存在する、モダンなガラス張りの球状の構造だ。古さの新しさが混在する雰囲気が醸し出されていた。

翌日6時20分のディジョン行きの列車を予約し、街へと繰り出すと、なんとなく体の疲れも心の気だるさも風に洗い流されるような気分になっていった。不思議なことだが、街が、「さあ歩こう」という気分にさせてくれたのである。パリほどではなかったが、コートを羽織っていてちょうど良いくらいの温度の風が街を吹き抜け、空は曇天であったが、少しゴミゴミとした古い街並みを見ていると、外へと向かう気力も出てくる。私は街の中心地へと向かった。街の中心地にあるクレーバー(クレベール)広場に、ホテルがあったからでもあった。

街全体はどこか賑わった様子で、建物は背が高い。フランスの端というイメージがあったので、思わず「案外都会だな」と思ってしまった。よく考えれば、ストラスブールはドイツとフランスというEUの二大大国の狭間にあるわけで、交通の要衝でもあるのだろう。くだんのクレーバー広場の真ん中には仮設ステージがあったが、何かをするような雰囲気があるわけではなかった。私は広場の一角にある小さなホテルに入った。

「J'ai réservé une chambre(部屋ヲ一ツ予約シマシタ)」

とロビーにいた若い女性に伝えると、私の名前を尋ね、部屋の鍵を渡した。そのあと何事かフランス語で言ったが、正直聞き取れない。だが、「ディズール(10時)」と「フェルメ(閉まる)」と言っているので、おそらくロビーが10時で閉まるのだろう。早いな、と思いながら、私は頷いた。次は朝食の話だ。明日の列車は6時20分なので、いらないと答える。するとまた何事が言っている。今度は本当にわからない。聞き返すと、彼女は英語に切り替え、説明した。車はあるか?と。あるはずもないので、ない、と答えた。

話を聞いてみると、どうやら駅までの移動手段のことらしい。これはありがたい話だった。なぜなら、駅までの道は長く、そこまで治安も良好というようには見えなかったからだ。明るいうちなら良いのだが、明日は早朝の列車。カンボジアプノンペンで早朝のバスを降りて一度怖い目にあっているので、もうあれはゴメンだったのだ。是非、使いたい、というと、電車か車かどっちがいいかと聞く。駅までそこまで遠くない。私は電車を選んだ。正確には、路面電車すなわちトラムである。トラムの駅はホテルのすぐそこにあるらしい。私は手続きを終え、手動でドアを開ける方式の狭いエレベーターに乗り、ホテルの部屋に入った。部屋はちょうどよく狭い。私の好きなタイプの部屋だった。だが、1日の滞在だ。青年よ、ホテルを捨てよ、町に出よう。そんなわけで、私はロビーに鍵を預け、地図をもらい、レストランのある場所だけ聞いて、肌寒い外へと繰り出した。

 

ストラスブールは、先ほども言ったように、フランスとドイツの狭間にある。ストラスブールを中心都市とするアルザス地方と隣接するロレーヌ地方は、兼ねてからフランスとドイツという二つの大国の係争地帯となってきた。なんどもストラスブールというフランス語の名前とシュトラスブルクというドイツ語の名前をいったりきたりした。ことの起こりは1648年に結ばれた「ヴェストファーレン条約」である。それまではドイツ地方(その当時はドイツという国は存在せず、小さな国家が寄せ集められていたためこういう言い方をすることにする)を統合する「神聖ローマ帝国」の一員だったアルザスとロレーヌが隣国フランス王国に併合されたのだ。この条約は、当時支配的だったカトリック教会のやり方に反発するプロテスタントと立場を守りたいカトリック教会との泥沼の戦い「30年戦争」の講和条約だった。だが、この戦いは最終的に政治闘争の様相を呈し、カトリック教会と結ぶ神聖ローマ帝国と同じくカトリック教会と結んでいるが神聖ローマ帝国を潰したいフランス王国の戦となっており、アルザス=ロレーヌもその関係で争われたのである。そして、この地方は1871年までフランスのものであり続けた。だが、この地方に住む住民はドイツ系で、ドイツ語に似たアルザス語を話していた。

状況が変わるのは、ドイツ地方の完全統一をもくろむ北のプロイセン王国ナポレオン三世フランス帝国に仕掛けた「普仏戦争」だった。民衆の要望に応える形で踏み切られたこの戦いはフランス不利の戦況で進み、ついにはスダン要塞でナポレオン三世プロイセン軍によって捕虜にされるという形で戦争は終結へと向かう。プロイセン軍はそのままパリへと進軍し、絶対王政時代の中心ヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国の建国を宣言するとともに、フランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を認めさせた(割譲されるアルザスの様子を描いたのが、「最後の授業」という物語だ)。

1914年、ドイツ帝国が東欧の混乱に首をつっこむ形で第一次世界大戦が勃発すると、フランス共和国ドイツ帝国に対して宣戦布告をし、アルザス=ロレーヌ地方の奪還を目指した。アルザス=ロレーヌに位置するナンシーやヴェルダンは激戦地となった。フランスはかなりの痛手を被ったが、アメリカの支援もあってフランス側が勝利するとフランスは、奇しくもドイツ帝国の建国とアルザス=ロレーヌ割譲が宣言されたヴェルサイユでの講和会議で、ドイツから莫大な賠償金とアルザス=ロレーヌの奪還をドイツ政府に認めさせたのだった。

そして話はまだ続く。1933年にドイツで成立したヒトラー率いるナチス政権は、1939年に第二次世界大戦が勃発するとフランスに進軍、アルザス=ロレーヌを併合したどころか、最終的にはパリも含めたフランスの北半分を併合し、南半分をフランス人による傀儡政権「ヴィシー政権」の領地としてしまった。その後、北部ノルマンディー地方からアメリカ・イギリス・ドゴール将軍率いる自由フランスなどからなる「連合国軍」が上陸すると、フランス一帯は解放され、ドイツ敗戦後はアルザス・ロレーヌは再びフランスのものとなった。戦後、EU構想が持ち上がる中、ドイツとフランスは積年の争いに終止符を打つべく、この地にEUの機関を置いた。「欧州の平和はアルザス=ロレーヌにあり」と。

 

街を歩いてみると、やはりこの土地はドイツ文化の町なのだと気づかされる。例えば、アルザス語である。街を歩くと、フランス語ではない言葉を喋る人がかなり多いように思うが、私にはそれがアルザス語なのか、ドイツ語なのか判別できない。だが、レストランに入ってみると、その言葉で店員同士が話しているので、この言葉が未だに「生きているのだ」と気づかされた。さらに、標識は、フランス語とアルザス語のに言語表記だが、見てみるとやはりドイツ語みたいである。店の名前だってドイツ語みたいなものが並んでいる。ドイツ語がわかる方なら、下の写真を見て、読んでみればわかるはずだ。

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「リュ・ドゥ・ラ・アッシュ=アハトゲッセル」

「リュ・ドュ・サングリエ=ハーヴェァグラース」

街並みも、パリなどとはだいぶ違う。市の地区の紋章が並び、建物は木と漆喰でできた背の高い建物である。おそらくすべて石でできた教会は天まで届きそうな大きな塔があり荘厳だ。フランスというより、南の方のドイツのような雰囲気がある。看板の文字はドイツ特有のひげ文字で、居酒屋には「Winstub(ヴィンシュトゥプ)」。テラス付きのカフェは少ない。

私はストラスブールでやることも指してなかったので、とりあえず目に入った巨大な教会の中に入った。それは街の中心部にあり、レストラン街のそばらしいが、おそらく街で最も有名な教会のようだ。かなりの行列ができている。私はそこに並び、順番を待った。教会前の広場では、四人組の軍人が銃を持って歩いている。平穏そうに見えるがフランスは未だ非常事態宣言発令中の国だ。軍人の姿を見ると、それをありありと見せ付けられることになる。どうやらストラスブールはフランスとドイツの狭間にあるせいか、厳重注意のようだ。かなりの軍人がパトロールしていた。

そうこうするうちに、私の番が回ってきたので、私は教会の中に入った。

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Dreadful Flight

   一ヶ月間西ヨーロッパを旅する、という計画が生まれた経緯は突拍子も無いようなものだった。
    わたしは学科の友人とアンリ・ベルクソンという知っている人は名前だけ知っている、知らない人は名前すら知らないという少々ニッチなフランスの哲学者の本を読む会をしている。その友人たちと話している時に、「ベルクソンはパリを拠点にしてたから、その「聖地巡礼」をしようじゃないか」という話になったのだ。これをきっかけに、メンバーでアパルトマンを借りて一週間パリに住むという計画がスタートした。だがわたしは一週間行くのなら、その少し前にヨーロッパを旅したいと思った。そういうわけで、十日間のひとり旅、五日間のフランス語学留学、そして四日間の西部フランスひとり旅+1日のホームステイ、それから一週間の「読書会合宿」という日程で動くことになった。そして今、わたしは最初のひとり旅パートの半分を過ぎ、スペインの首都マドリードにいる。

 

   今回の旅には、値段の関係と、ちょっとした好奇心から、ロシア経由で向かった。
わたしは旅するのは好きだが、飛行機は割と苦手で、途中で気分が悪くなるのが常である。10時間のフライトはまだ精神的に余裕があったが身体的な負担はあったようでモスクワに到着しても、お腹の調子が芳しくない。元気を取り戻すために早速ボルシチを食べてみたり、オレンジジュースを飲んでみたりしたが、どうも体が戻らない。ジュースは不思議なまでにうまかったが、体はけだるく、重かった。

   その流れでの四時間のパリへのフライトはなかなか辛いものがあり、機内では眠ってごまかすしかなかったが、天候が悪いのか(オーストリアにいる友人がすごい雨だったと行っていたのでおそらく天候が悪いのだろう)、ものすごく揺れる。このまま生き絶えるのではないか、などとありえないことを考えながらわたしは寝たりおきたりを繰り返して4時間をやり過ごした。
   そんなこんなでパリのシャルルドゴール空港に到着し、空港近くのホテルに泊まった。もちろん、体の調子は良くない。翌日はパリ市内にも入らず、パリを素通りして、ドイツ国境の町ストラスブールに入る予定だ。はじめは、カナダで仲良くなったフランス人のRくんとパリで会う予定だったのだが、彼のカナダへのフライトが早まり、ちょうど入れ違いになるということになって計画は頓挫してしまった。まあ今パリを見なくても、どうせ三週間後には散々見ることになるんだ、と悔いは全くなかった。それにRくんともついこの間東京であっている。

 

   七月の終わりに、Rくんは友人二人とともに東京にやってきた。「お前はいつパリに来るんだ?」と冗談めかしていう彼に、「この八月に行くよ」というと、その場にいたカナダで一緒だった日本人たちもふくめて驚いていたのを覚えている。Rくんはモントリオールで経済を学ぶらしく、今頃はモントリオールだろう。ちなみにRくんと一緒に日本にやってきた二人とは、わたしがパリに入った時に会うことにしている。

 

   到着の翌日、わたしは12時45分の列車でストラスブールへと向かった。

On my life

この前、生きることと死ぬことの話をした。発端は、ある高校生が、死んだ後に魂だけになるのが怖いと言ったことだった。

その時、友達が「死んだ後のことはわからないから、怖くない」と言っていた。死んだ後にはもしかするといいことがあるかもしれない。悪いこととは限らない。だから、死ぬことを恐れることはない、と。私はそれを聞いて、半分賛成半分反対というような感じであった。

私も昔死ぬのが怖かった。それは、あの高校生が言っていたように、死後の世界に行くという怖さと、本当に行けるのかという怖さだった。自分の意識がなくなってしまう。今は一生続くと思っているような意識が、なくなるとはどういうことなのか、そのわからなさが怖かった。だが、年をとるにつれて、あまり考えなくなった。

 

一つは物理学をやったことのおかげだった。この宇宙には、「エネルギー保存の法則」というものがある。それはいわば、エネルギーというものを平に保つ法則だ。そう考えると、自らエネルギーを生成するという生命のあり方は、この法則を大幅に逸脱したものである。そうすると、必ず人は死ななければならない。どんなに不老不死の技術を施そうとも、それを維持するには、「維持し続けねばならない」ので、際限がなくなってしまう。放っておけば、エネルギーを発散しながら、ついにはエネルギーが一定の、つまり「死」という状態にならざるをえないのである。中学の時物理学の本を読んでいて私は子供ながらにそう思った。なぜだかわからないが、諦めがついた。宇宙全体が自分を殺しにかかるなら、もう、それは受け入れざるをえない。

そういうわけで、私はもう悩まなくなった。というより、悩んでも仕方がないと思うようになった。死ぬ時は死ぬんだ。でもそれは今じゃない。それならいいではないか、と。この種の問題は、時に考えないことが一番の解決策であり得る。

 

そもそも、私たちは死後の世界を知らない。私たちには生きている世界しか見えない。それは仕方のないことだ。そして、想像も、論理も、なんらかの材料がなければ始まらない。馬も鳥も知らない人はペガサスを思いつくことすらない。だから、死後の世界をどう頑張って考えてみたところで、私たちは自分たちの世界をベースに考えるしかなく、単なる妄想でしかないのだ。それが、人の心を安心させるなら、それはそれで構わない。生まれ変わりも、死後の楽園も、あるいは地獄も、話としては面白い。でも、本当にあるかは、一生かけてもわからないだろう。いや、一生かけているうちはわからないだろう。そうしたら、もう、死んでみてからでないとわからないのだ。そして死んだら戻ってはこれなさそうだ。なら、もう考えるのはやめたほうがいい。物語の世界を広げる以外に、私たちには手段はないのだから、それで我慢するしかない。前世についても、私は少なくともそんなもの覚えていないし、もしあったとしても、今覚えていないということはきっと、来世でも私は何も覚えていないのだろう。なら、変わらないじゃないか。今を生きるしかない。

それでいいのか、という人がいるかもしれない。だが、それでいいのかという人に問いたい。それ以外にできるのか? 死後の世界について思い悩む時間があったら、人生に目を向けたほうがいいのではないか。もちろん、それは人の勝手だ。そして、思い悩むというのは、思い悩もうとして思い悩むというより、思い悩んでしまうものだ。だから、止めはしない。だけど、少なくとも思い悩むことを肯定することは、私にはできない。

まあひとまずのところ、私は死んでも何もないと思うようにしている。なぜなら、わからないからだ。わからないことに希望を持っていても、それが違った時に絶望しかない。だから私はもう何もないと思うことにした。すると、もし死後の世界があった時、地獄だろうと天国だろうと、なんとなく棚から牡丹餅的な幸福感に包まれそうだし、存在しなければ、そのまま消えてなくなるだけだからだ。そのほうがいい。それに、「来世がある」と思わないほうが、懸命に行きられる。「来世やろうは馬鹿野郎」である。死後の世界を考えても、得るものはどっとくる疲れと絶望感だけだ。

 

だから、私は生きるということが大事だと思う。なぜなら私たちは生きているからだ。生きるべきだから、でも、尊い命だからでもない。私たちは生きているからだ。生きているということに価値がある。神に与えられたのか、仏性を持って生まれてきたのかなどはわからない。私は否定しない。だがとにかく生きている。過去から現在へと、私たちは自分を試しながら生きている。各人各様のやり方で、だ。そうやって生きてきて、これからもそうやって生きてゆくしかない。だが生きてゆくしかない、というのは、生きて行けということであり、生きて行けるということだ。人生抜きに私たちは存在しえない。だから、この人生を生きてみようじゃないか。

「死を思え」と人はいう。だが、その前に、「死んでも悔いはない」という人生を作ることが大事だ。自分の死が意味を持つとすれば、人生あってのことだと思う。死とは人生の終わりだ。人生は、「こうもできる」という可能性の世界だ。だから死とは可能性の終わりだ。そう考えるなら、可能性に執着があるなら、生きていたほうが良い。それだから、人生は生きておいたほうがいいと思う。哲学には「自殺」の問題というものがあるが、私は「生きておいたほうがいいのに」という立場で、自殺には反対なのだ。まあもちろん、それは私が恵まれているのかもしれない。だから人のことはわからないが、とりあえず私は死ぬなんて思えないし、思ったこともない。生きているのだから、生きていくしかない。どんなに悪いことがあっても、自分を変える機会になるかもしれない。人生、悪い状態で終わるなら、それを打開してから終わったほうがいいじゃないか。

 

私は旅に出る前は、できるだけ悔いを残さないようにしたいと思っている。明後日私はヨーロッパに立つが、今回は異例の長さであり、最近のヨーロッパ情勢の変化もあり、前にもまして悔いを残すまいと思う。それは、死ぬかもしれないと恐れているのではない。むしろ、「生きる」ためなのだ。いつでも、悔いがないように行きたいが、そんなに気を張って生きられない。だからこの機会を利用して、後に伸ばし伸ばしにしていたことをやってしまいたいと望むのである。そうやってこそ、何か大変なことが起きて、どんなに対処しようとしても無理という状態になった時も、運命を受け入れることができる。

美空ひばりのいうように「生きることは旅すること」なのかは知らない。まだそんなに生きちゃいない。だが、私は旅の中で、生きることを感じる。それは本当の意味で生きることができるからだ。旅という短い期間の中で、自分を試すことができる。そして自分を学ぶことができる。そうする中で、生きることができるのだ。それは、旅の中だけではなく、旅の少し前でもそうなのかもしれない。「悔いを残さずに旅立つ」というのは、そういうことなのだと思っている。できるかはわからないし、まだまだ悔いが残りそうなことはたくさんある。でも、できるだけそういうものは少なくしたいものだ。

 

だから、私は死に希望を持たないし、生きることにしか興味がない。それでいいと思っている。どちらにせよ、生きているという事実には変わりない。だから、死とは何かを問う時間があったら、どう生きるかを問いたい。今をどう生きるかを考えたい。あんまり生きる生きるというと、薄っぺらいポエムみたいで嫌な感じだが、仕方がない。私たちは、生きているのだ。

語学、我が愛

改めて言うのもなんだが、私は語学が好きである。

 

正直、語学がどうして好きなのかは自分でもよくわからない。なぜなら、あんなもの好きなところで、そこまで使えるわけでもないからだ。

例えば、海外に行ったとしよう。場所は、そう、オーストリアザルツブルクにしよう(実話)。語学好きの私は、ドイツ語は地域によって挨拶がだいぶ違うことを知っている。オーストリアは南部地域。挨拶は「グーテン・ターク」ではなく、「グリュースゴット」もしくは「セルヴス」という。といっても、「セルヴス」はゴリゴリのオーストリアドイツ語で、ザルツブルクでは使うのかよくわからない。そういうわけで、ドイツ語の発音を完コピで、店の人に「グリュースゴット!」と話しかける。するとどうだろう。わーっと向こうはドイツ語を話してくる。だが、何を言っているか聞き取れるわけもなく、気まずい空気だけが流れる。

語学好きはこんなハプニングがある上に、危険でもある。例えば、私はいろいろな言語に触れて、記憶力がだいぶ衰えた。13個以上言語を習得すると気が狂うという謎の都市伝説があるが、あれは嘘だろう。そもそも、上限の「13」というのが意味深すぎる。だが、間違いなく、記憶力は落ちる。高校時代、人より早く大学に受かってしまった私は、一月からの三ヶ月間暇をもてあそんでいた。その中で、いろいろな言語に触れてみた。もちろん、真面目に勉強したのではない。「新書のように読める文法書」をコンセプトにしている白水社の『言葉のしくみ』を1冊ずつ読んだのだ。ドイツ語、ロシア語、スペイン語ラテン語、古典ギリシア語、中国語、ヴェトナム語、朝鮮語トルコ語フィンランド語、ポルトガル語オランダ語デンマーク語、チェコ語スワヒリ語……。何が残ったかというと、記憶力障害だけといっても過言ではない。

 

いい面もなくはない。エスニック料理屋で使ってみると喜ばれることもある。トルコ料理屋で、「テシェッキュル・エデリム(ありがとう)」といって店を出ると、いつも笑顔で「テシェッキュル・エデリム」と返してくれる。そして、もっと実践的なことを言うとたいていの文法は、すっと理解できるようになったのだ。たとえば、「古典ギリシア語」や「アラビア語」には「双数」という概念がある。これは、日本語で言えば「〜2つ」に当たるもので、単数と複数の間だ。これがある(正確には、現代まで残っている)言語は少ないので一瞬ビビるが、いろいろな言語を見てしまうと、「ああ、双数ね」という心の余裕が生まれる。だが、それは理由にはならないだろう。だって、語学をやるのに便利だ、というのは、語学が好きな理由ではない。転倒してしまっている。

じゃあ、語学をなぜやるのか。それは多分、使うためだけではない。使えたらいいと思う。だが、もし習得しきれなくても、それはそれでいいのだ。その時は英語でもなんでも使えばいい。それでも、私は語学をやめない。語学には、文化がにじみ出ている。それを味わうのが、語学の醍醐味だ。その入り口は、文法だと思う。

 

昔から文法が好きだったわけではない。むしろ、文法なんて滅びればいいと思っていた。使えればいいではないか、と。たぶん、日本語と英語しか知らなければ、その考え方は変わらなかっただろうし、英語をメインでやっている人がそう思うのも無理はないと思う。だが、三つ以上やってみると、文法の面白さに気づく。それは、文法に、その地域の色がにじみ出ていることだ。

例えば、私がこっそり「助詞会(じょしかい)」と呼ぶ言語のグループがある。それは、日本語、朝鮮語モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語などだ。いわゆる「膠着語(こうちゃくご)」。つまり、「助詞」を使う言語であり、特徴として、言葉に文法的な要素を付け加えることで文を作る(「食べる」という動詞は、語幹が「食べ」。そこに、「る」「ない」「よう」「た」などの要素を足すことで意味をもった語になる。英語の過去形で「ed」を足すのと同じか、と思ったら大間違い。日本語は何個も要素を足すことができるが、英語は無理だ。「食べ-たく-ない-だろう」は、三つ繋がっている)。それは、基本的には、ユーラシア大陸をぐーっと横断して存在している。語族は違えど、似た文法を持ちながら。そんな「助詞会」の隠れた特徴は、中央アジアチベット、モンゴル、満州遊牧民由来の言語が多いということだ。モンゴル語トルコ語ハンガリー語フィンランド語は、どれもアジアの遊牧民にその由来がある(ビルマ語も「助詞会」で、ビルマ族はもともとチベットの民族だったらしい)。朝鮮語も地域的に言えばかなり近い位置にいる。日本語はどこから来たのか不明だが、地域的にはかなり近い。ただし、遊牧民だけではないというのは注意しなければならない。例えば限りなく世界最古の言語といえそうなシュメール語も「助詞会」メンバーらしいが、彼らは明らかに遊牧民ではなく、農耕民である(それも、世界最古の)。そして、インド映画「ムトゥ〜踊るマハラジャ〜」で一躍有名になったインド南部の「タミル語」も「助詞会」メンバーだが、こちらは正直よくわかっていない。だが、どれも、現代影響力のあるヨーロッパ系の「印欧語族(英仏独露伊西葡希・ペルシア・ヒンディー……と挙げればきりがない)」や中東系の「セム語族アラビア語ヘブライ語)」、東アジアの「シナチベット語族シナ語派(中国語)」や「タイカダイ語族(タイ語ラオ語)」などは膠着語ではなく、膠着語はそれら大語族の中でひっそりと暮らしているのである(中央アジア膠着語勢力が強い)。そう思うと、少しロマンがある。このユーラシア大陸の向こうにも、「助詞会」があるのだ。いつか、そんな国に行ってみたい。いつかは、「助詞会」縛りの旅でもしてみたい……。

 

さて、マニアックな話が過ぎたかもしれない。

言いたかったのは、言語だけでいかに文化と風俗をまとっているか、と言うことだ。言語には民族の歴史がある。そしてその言葉の響きはその土地の音を形作る。面白いことだが、どんなに語族が違っても、場所が近い言語は音が似ていることが多い。例えば、ペルシア語とトルコ語は語族が違うが、ちょっとくぐもった音は似ている。その土地にあった音というのがあるのかもしれない。

とにかく、言語には人々の文化が詰まっている。言語をやることは、文化に触れることだ。他の言語の音を出せるようになることは、そこにいる人々の声を内側から感じることだ。そして文字が読めるようになることは、その言語の話者の目を手に入れることだ。

言語は窓のようなもので、たくさんの言語をやればたくさんの窓が手に入ると言った人がある。確か私の高校時代の先生だ。だが、私は色々やった今、ちょっと違う感想を持っている。言語はそれ以上だ。そして実はそれ以下だ。外国語をやっても私たちはそこまで変わらないし、むしろ傲慢になることもある。だが、語学をやると自由になることもある。母語の言葉の枠から、そして、言葉という枠からさえも。

街がいきづく〜一度きりの出会いと懐かしい香り:赤坂−溜池−六本木〜

 

今日も例によって昼の時間を潰すべく赤坂へと向かった。日差しは強いが、サイゴンほどではない。湿気はあるがバンコクほどではない。私には今日赤坂へと向かう確固たる理由があった。それは、「街が生きている」と題した記事の中でも触れた、赤坂に出没するガーナ料理の屋台カーで昼食を食おうと思ったからだった。

ガーナ料理とは一体どんなものなのだろう。ガーナといえば西アフリカ。その辺りの料理ならかつてセネガル料理を食べたことがある。確かあれは吉祥寺の店だったが、なかなかうまかった。クスクスにピーナッツバター風味のカレーみたいなやつがかかっていて……などと思いながら、照りつける日差しの中、大通りをワクワクしながら歩いた。水を持っていなかったので、喉が渇いたが、そんなことは関係ない。とにかく、ガーナ料理だ。足早に歩いて行く。ところがだ。いつまでたってもあの屋台カーが見当たらない。あれを最後に見たのは二週間前の金曜日。曜日単位で動くなら、今日も止まっているはずだ。それなのに、いない。

くまなく探したが、やはり見当たらなかった。そうか。出会いは一度きりなのだ。偶然という運命に動かされる私たちの人生で、一度きりではない出会いなんてない。もちろん、偶然の重なりはあるし、やけにかぶって出会う人というのは確かに存在する。だが、あのような屋台カーとの出会いは、やっぱり、一度きりなのだ。く。やらかした。出会いをなめていたようだ。前回通りかかった時はもうすでに昼食を済ませた後だったから気乗りがしなかったけど、運命は非常にも、私たちの出会いを一度きりと決めていたのか……などとくだらないことを考えつつ、ちょっとがっかりしながらファミリーマートで水を買い、私はもっと現実的な問題について考えることにした。その問題とは、人類共通の問題。「さあ、今日の昼食はどうしようか」である。

赤坂で食ってばかりでも、芸がない。また牛肉麺ではおもしろくない。だけど、他にいい店があっただろうか、と考えるうちに、私の脳裏に振り払えない一つのひらめきがよぎったのだった。「知らない赤坂を探すんだ」と。「ガーナ料理に出会えなかったのは、知らない赤坂を探すためなんだ」と。そんなこんなで、気温33度の暑さの中、私は無謀な散歩へと向かった。行くあてもなく、食うあてもなく、ただ一つ、水だけを携えて。ちなみに、このときの所持金が800円であるということは秘密である。

赤坂のアパホテルやらフーターズやら中國銀行やらが立ち並ぶ大通りを私はとにかく駅とは逆方向に行く戦略をとった。そうすればきっと、知らない赤坂が現れる。その戦略は間違っていなかった。少し道をそれると、土色の建物が並び、小洒落た料亭、ハングル表記がたくさん書いてあるホステル、老舗のトンカツ屋、やっているのかやっていないのかよくわからない太麺スパゲッティの店立っている知らない界隈に行き着いたし、そこから大通りに戻ると、高層ビルが並びながらも、弁当屋などが軒を連ねている「生きた都会」が広がっていた。

 

途中で気づいたのだが、実はそれはもはや「知らない赤坂」ではなく、「溜池山王」だった。雰囲気もだいぶ違っていて、赤坂の「生きている」感じというよりむしろ、開発された場所に人々が「息づいている」感じがあった。どことなく、海外の街に来たような雰囲気もある。

高速道路が走る高架橋の下を通る別の大通りと今まで歩いてきた大通りとがぶつかって十字路になるところまで来た時、ハッとした。なぜなら、その場所は私の知っている場所だからだ。「知らない赤坂」を探した結果、赤坂から離れた上に、「知っていた」場所に来たのである。そこは、高速道路沿いの道を右に行けば六本木、左に行けば日比谷・丸の内へと繋がる場所だった。それは私が高校卒業の年に来たところだった。

私は訳あって(という謎めいた言い方をしなくても、要するに推薦入試だったので)人よりも大学に早く受かってしまっていた。そのため、一月二月三月とかなり暇をもてあそんでいた。その時、私は美術館に通うようになっていたのだ。その中でも、興味のある特別展を何個かやっていたのが、六本木からほど近い乃木坂にある「国立新美術館」だった。美術館に行った帰り、私はよく散歩をしたものだった。渋谷まで行ったこともあったし、六本木ヒルズの方まで行ったこともあったが、日比谷に行くこともあった。その時通ったのが、この道だったのだ。六本木方面から進んで行くと、急な坂があり、その坂を登ったら日比谷。そんな日比谷へと至る坂道が、私の左に見えた。こう繋がっていたのか。たしか新美術館から赤坂方面に行こうと思ったこともあったのだが、あの時は遠いような気がして断念していた。でも、実はこんなにも近かったのだ。

私は感慨に耽りながら、針路を右に向けた。日比谷もいいが、食事場所は少ない。奈良六本木方面の方がいい。かつてここを歩いた時、ネパール料理やらエジプト料理やら妙ちきりんなものがたくさんあった記憶がある(残念なことに、ネパール料理もエジプト料理も最近じゃ、見知ったものになってしまった。高校生の時分、「なんだこれは!」と目を輝かした自分が懐かしい)。行ってみよう。

と行ったのはいいのだが、重要なことを忘れていた。そう、私の所持金は今、800円なのだ。ネパール料理もインド料理も1000円はするのだ。といっても、ワンコインランチの店に行く気には、なぜだかならなかった。これはという店がないまま歩き続け、軽い熱中症になりかけては水を飲み、回復させながら、進んだ。

すると、ふと「ドイツソーセージ」の店を見つけた。ホットドッグなら650円だという。悪くない。私はすーっと、その店へと足を踏み入れた。

 

そこは、ドイツ式の軽食屋Imbisだった。決してお洒落とは言えない店構え、決してお洒落とは言えない内装、そしてやけに清潔な感じ。それはまさにドイツの店だった。伝わるかわからないのを承知で言うと、日本のカメラ屋さんが一番近い。今ではあまり使わなくなったが、フィルムの現像とかをしてくれるような店である。

店員は二人。働いているのは実質一人。ドイツ人と思しき、がっしりした体つきのお兄さんだった。彼はなぜか小声で、

「いらっしゃいませ」と言った。私はホットドッグランチをお願いしますと答える。なにやら選べるとのことだったので、お勧めを聞いて、それに従うことにした。

「サラダはなにになさいますか?」というので、私はザウアークラウト、つまり酢漬けのキャベツを食べることにした。

実は、6歳の時、私はドイツのベルリンに住んでいた。人格形成において、案外一番大事かもしれない幼稚園年長時代である。おかげで、ドイツ語の発音は客観的に見てやけにいいし、カルチャーショックをあまり受けない人間に育った。一方で、弊害は、ドイツが余りすぎではなくなったことだ。それは、ドイツで何か嫌な思い出があったわけではない。単純に、「ドイツ=ダサい」というイメージが染み付いてしまったのである。大学に入るとドイツ語を選択する人も出てきて、ドイツをかっこいいと言っているが、どうも解せない。ドイツ語の発音は、ハキハキやれば軍隊だし、普通にやれば田舎臭い。料理もジャガイモ、ソーセージとハム、酢漬けのキャベツ、豚肉を煮たやつと、かなり原始的である。そのなにがかっこいいというのか。要するに、田舎で育った人が、田舎に対して、「おらこんな村嫌だ」と思うのと同じ感じで、ドイツが好きではなくなってしまったのだ。

そんな私が今、なぜか思いつきで入ったインビスにいる。そして不思議と、その無機質でムダに清潔感のある店内を眺めていると、懐かしい気持ちになってくるのだ。しばらくしてやってきたホットドッグは、本場ドイツとは違って日本人向けのミニサイズだったし、熱々だった(奴らは基本的に猫舌なので、あまり熱々は食べない)が、食べてみるとどことなく懐かしかった。ザウアークラウトも、酸味には欠ける(本場のはものすごくすっぱい)が、ちょっと気持ちが落ち着く香りだった。なぜだか、またドイツに行きたいと思う自分がいることに私は気づいた。

気持ちを振り払うように、私は「ごちそうさま」と言って、店を出た。お腹いっぱいにはなれなかったが、あの懐かしい雰囲気に触れられたので良しとしよう。普段は外国の方が経営している外国料理の店では、できるだけその国の言葉でありがとうというようにしているが、なぜか今回は恥ずかしくて「Danke」と言えなかった。また今度来たら、言ってやろうと思う。

ちなみに、次の旅では、ドイツにはいかない。

f:id:LeFlaneur:20170715000628j:plainこれが私の知らない赤坂