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旅、映画、食べ物、哲学?

8都市目:マドリード(3)〜そうだ、トレド行こう〜

朝起きて、顔を洗う。窓の外では話し声が聞こえる。マドリードの朝か。窓の外は中庭で、住人たちが洗濯物を干したりする。それじゃあわたしも朝食を食べがてら洗濯物を始末してしまおう。

鍵をもらい、オスタルプラダを出たのは確か8:00くらいである。紹介されたコインランドリーはオルダレサ通りの奥の方にあったので、わたしはグランビアとは逆の方向に、まるでサンタクロースのように洗濯物の入った袋を抱えて歩いた。気温は朝だからそんなに暑いわけでもない。しかし道をちょっとデンジャラスな雰囲気があった。怪しげな奴らが道に溜まっている。そうか、夜10時くらいに治安の良さが最高潮に達するマドリードでは、朝の治安が悪いわけだ。謎である。朝夜逆転である。もう日も高いというのに。早起きの悪党を想像するとちょっとだけ微笑ましいが。

きわめつけはランドリーだ。行ってみたが、なんと開店は9時からだ。いや、朝に洗濯しようと思わないのか。そうか、8時はまだ夜なのか。わたしは大荷物を持って朝食を空気にもならなかったので、一度オスタルに戻った。

 

九時に出直すと、道の治安は向上し、ランドリーも空いていた。ところが、九時ではいささか早すぎるらしく、人は全然いない。やり方がわからず色々試していると、奥の扉が開いておばさんがやってきた。英語話せるか、と聞くと、無理と言われたので、拙いスペイン語でなんとか要件を聞き、向こうも身振り手振りで教えてくれる。わたしはグラシアスと言って、洗濯をスタートさせた。

回している間は盗まれることも少ないらしい(乾燥機の途中が危ないという)ので、わたしは近くで見かけたバルに入った。

「¡Buenas dias!(おはようございます)」とバルに入り、わたしはテーブル席に座った。メニューを見ると例のカフェコンレチェとチュロスのセットが2ユーロと安い。ならばと、わたしはバルカウンターまで行ってそれを頼んだ。

スペインの朝食はチュロスらしい。それをココアに浸して食うようだ。朝食には文化が詰まっているから、どんなものかと期待していると、予想以上の太さと長さを持つ2本のチュロスがボーンと出てきた。フォークとナイフが出てきたので、わたしはわざわざチュロスを買って、食った。驚いた。味は塩味だ。日本人の思うあの甘い、ディズニーランド=模擬店方式とは違うわけである。そうか、だからココアをつけるんだ。

結論からいうと、しょっぱいチュロスはあまり良くなかった。というのも、脂っこさが際立ってしまうからだ。甘いとそっちに気がとられるのであまりわからないが、しょっぱいとそのあたりがきつい。そうは行っても、極東のアジア人は少食だと極西のヨーロッパ人に思われたくはないので、全部食らってやった。明日はプラダのおじさんにでも聞いてみよう。

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それからわたしは店を出て、口の中の脂っこさを消し去るべく、アジア系のお姉さんが経営するミニショップでファンタを買って、ランドリーに戻った。客は相変わらずわたしだけ。わたしは洗濯物を取り込み、乾燥機に入れた。三十分の暇つぶしのために、わたしはランドリー内のベンチに座って、この旅最初のブログ(「Dreadful Flight」)を書いた。

ブログを書きながら、これからどうしようかと考えた。プラド美術館再チャレンジか、それともマヨル広場に行くか。シエスタしてみるか。どれも魅力的ではあったが、わたしの中ではどうしても振り払えない思いが増大して行った。そう、

「そうだ、トレド行こう」である。

 

トレドは、西ゴート王国の時代からイベリア半島の中心地になってきたところだ。マドリードからはバスで片道30分。だから勢いで行けてしまう。というか、かつてはマドリードよりも栄えていた都市である。世界史の教科書では、「大翻訳運動」という止んだかよくわからぬイベントの中心地として登場する。が、もっと簡単にいうなら、「キリスト教ユダヤ教イスラームの三つの宗教が共存した街」だ。今のご時世、そんなバカなぁという感じもするし、その時代は特にそんなバカなぁである。どうしてそんなことになったのだろう。

時は711年。南の大陸アフリカ大陸を支配する強大なウマイヤ朝の軍隊が北のイベリア半島に侵攻した。当時イベリア半島を収めていたキリスト教西ゴート王国はこの状況に対処できなかった。718年まで西ゴート王国の残党は抵抗を続けるが、その後は北で勢力を築いたゴート貴族のペラヨ率いるアストゥリアス王国以外が滅亡、ついにイベリア半島の半分以上がイスラーム勢力に抑えられた。その後、ウマイヤ朝は本国アラビアで崩壊し、イベリアには後ウマイヤ朝が成立する。

イスラームは、寛容な宗教だった。特にキリスト教徒とユダヤ教徒は、教えが間違って伝わってしまったけど基本的には同胞であるとして扱われた(啓典の民)。さらにさらに、キリスト教徒たちには徹底的に拒否されたギリシア哲学の取り込みにも積極的だった。だから、イスラーム支配下に置かれたイベリア半島は中世(8世紀から15世紀)においてはヨーロッパの最先端の土地となって行く。科学、宗教、哲学、文化が発展したのである。その中心地こそが他でもないトレドなのだ。トレドにはその当時の建築物が残り、アラブの雰囲気が感じられる…はず。

その後トレドは1085年に北のカスティーリャ王国軍に包囲され、キリスト教諸国に奪回される。とはいっても文化が廃れたわけではない。キリスト教徒もムスリムユダヤ教徒もその他に残り、文化を未来は伝えた。そんな中で、アラビア語の科学書、アラビア語に翻訳されたギリシア哲学の本を、ヨーロッパの共通語であるラテン語に翻訳するという「大翻訳運動」が始まるわけだ。このことで、ヨーロッパの人々は、自分たちが失ってしまっていた文明に再び触れられる下地ができ、ルネサンスの種が蒔かれることになる。つまり、ダヴィンチも、ミケランジェロも、トレドが発展していなければないのだ、とも言える。

だからトレドにはイスラームの香りもユダヤのエッセンスもある。そこに魅力がある。わたしの友人が、私がスペインに行くと言った時に言っていた。「スペインってイスラムキリスト教が混ざり合ってるじゃん。一度見てみたいんだよね。いいなぁ」と。わたしもそれがみたかった。ずっとフランク王国のお膝元であったバルセロナ、17世紀に生まれたマドリードにいるだけじゃ、それは感じられない。こうしたスペイン独特の歴史を奏でる町としてはアルハンブラ宮殿のあるグラナダなどが有名だが、ちと遠い。トレドなら、30分でそうした雰囲気が楽しめるはずだ。

そういうわけで、マドリードの面白そうなスポットは置いておいて、今日はトレドに行こうと、突発的な行動に出てしまうことにした。

8都市目:マドリード(2)〜アセ・カロル/はじめのバル〜

グランビアは相変わらず殺人的だった。焼き尽くす日差しは、上からも下からも襲ってきて、恐ろしいほどである。演劇の照明装置がぶっ壊れたのだろうかというくらい辺りは真っ白に明るく、それがまた強烈だ。帽子とサングラスでギリギリ健康を保っているという感じである。

ぐぐーっとゆるい坂道を降りると最初は小さなロータリー、そのあとは大きなロータリーが現れた。これが例のシベレス広場だ。辺りには公園があるが人っ子一人いない。というか、街中に人っ子一人いない。要するに、みんな死にたくないということだ。シベレス広場の周りには幾つかの官庁風の建物と公園がある。一番目だ立つ建物には、横断幕が掲げられ、「Refugees Welcome(難民の皆さん、ようこそ)」と書いてあった。この難民の時代に、スペインはリベラルな姿勢をとっているようだ。確かバルセロナの住民が難民を受け入れようというデモをしたという話を聞いた。しかし不安に思うのは、このスペインという国にその経済的余裕があるのか、ということだ。非常に難しい問題である。

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しかし、それよりもとにかく暑い。わたしはロータリーを回って、その役所風の建物の横に伸びる道に入った。そこにはグランビアとは比べ物にならないほど大きな並木が植えられ、涼しげだった。この辺りはさしずめ、公的機関と博物館が並ぶ地区なのだろう。日本で言えば、丸の内と上野を足して二で割ったような感じだ。グランビアは銀座といったところだが、あんなところで「ビアブラ」しようものなら、数人は熱死する。

実はこの並木道が長かった。なかなかプラド美術館にはつかない。ここかなと思うと、まったくちがうなにかが現われ出てくるのである。まあこれはこれでいいなと思いつつまっすぐ歩くと、ズラーッと人だかりが見えた。「I have a bad feeling about this(嫌な予感がするぜ)」

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今写真だけ見ると、涼しそうに見える。しかし、空気自体が熱気を含んでいるので暑いものは暑い。

そう、それこそがプラド美術館だった。日本の金曜午後の美術館のイメージで行ったら大間違いで、建物を取り囲むように強烈な長さの列ができている。一瞬並ぼうかと思ったが、ここで水も買わずに並び続けたら、間違いなく熱中症で死ぬ、と思った。プラド美術館は、ひとまず断念しよう。わたしは先ほどのとは逆側の道に移り、グランビアの方に引き返した。当てはなかった。とりあえず水は必要なので、おばちゃんのいる売店へ行き、

「¡Hola! una agua, por favor.(こんにちは、水を一本ください)」と注文した。

「Un euro(1ユーロよ)」とおばさんは言った。フランスの物価と比べると驚くほど安い。

 

建物のおかげで日陰になっている道を歩けば、先ほどまでの魚焼きグリル感は薄れてくる。風も、気持ちよくはないが、少なくとも風ではある。

ずっとこの熱気の中にいるわけにはいかないので、どこかカフェのようなものを探そうとグランビアを歩いたが、見当たらなかった。あったのは、寿司屋やら服屋やらばかりである。ビアグランでシースーと行くつもりはない。6時になって、人も少しずつ出てくるようになった。仕事終わりにいっぱいというわけだろう。さて、どうしたものか。わたしもバルで一杯飲もうか。

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うろうろしていると、グランビアの終点までやってきてしまった。歩いて思ったのは、やはりマドリードは大都会ということである。でかくて、賑やかで……でかい(二回目)。映画館も、スタバも、もちろんある。できれば昔ながらのバルなんてものに行ってみたかったが、正直なところよくわからない。さてさて、これからどうしようか。映画でも見るか。いや、それはやめておこう。

というわけで、わたしは「マドリードのヘソ」と呼ばれる「プエルタ・デル・ソル」を目指してみることにした。何があるのか情報は全くないが、行ってみる価値はあるだろう。さらにその界隈にはきっと飲み食いできる場所もあるはずだと踏んだ。

 

プエルタ・デル・ソルとは、「太陽の扉」という意味である。由来は知らないが、マドリードを作ったフェリペ二世の頃のスペインは、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたのと関係あるのだろうか。スペインは、日本以上に太陽を重んじる国だ。あんなに激しく降り注ぐ太陽を、スペイン人は恵みとして考えられるのであろうか。もしそうなら、凄い心の広さである。

グランビアを引き返して、南の方に伸びる路地を進む。そこは急な坂道なっていた。バルセロナは山やグエル公園のある界隈以外は比較的平らなので、山にもグエル公園にも行っていないわたしは、久しぶりに坂道を下りるような気がした。白っぽい建物が立ち並ぶ路地の空は現代アートで飾られていて、しゃれた雰囲気になっている。そこに入る店は、バルが多く、多すぎて逆にどこが良いのかわからなくなっている。さらに坂を下れば、プエルタ・デル・ソルだ。

そこは広場になっていて、ど真ん中には騎馬像が立っている。近寄って見ると、「カルロス3世」と書かれていた。

スペインの歴史の中には二人のカルロス3世がいる。一人目は、スペイン王家の地位を手中に収めんとするフランスのブルボン家と元々王位についてきたハプスブルク家との間に勃発した「スペイン継承戦争」の時のハプスブルク家当主だ。しかし、現在のスペイン王室はこの戦いに勝利したブルボン家スペイン語ではボルボン家)なので、ハプスブルク家の反乱軍トップの騎馬像を置くはずがない。だからこのフェリペ3世はもう一人の、フェリペ3世だ。こちらのフェリペは、ボルボン家の国王で、フランス革命が起こる直前までスペインの王位についていた人だ。彼は、マリア・テレジア、エカチェリーナ二世、フリードリヒ二世ルイ16世などの例に漏れず、「啓蒙的専制君主」として知られる。良い人材を登用し、国家の再建に勤め、宗教勢力を牽制し(イエズス会を追放した)、首都を美しい街に仕上げた。これは調べて見てわかったのだが、プラド美術館に行くために通ったシベレス広場やプラド美術館の前の通りはフェリペ3世の業績の一つだそうである。だから、マドリードの中心に騎馬像が建てられているわけである。

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プエルタ・デル・ソルを取り囲むように、バルやテラス付きの店がある。まだ6時半くらいで、夕食時ではないが、どこも賑わっている。ヨーロッパのラテン系の習慣だという「アペロ(食事の前に軽く一杯飲む)」だろうか。いいなと思いつつ、なんとなく入りづらく、やり過ごしてしまった。わたしは最初に入ったのとは別の路地へ行った。するとちょうど良さそうなバルがあったのでは行ってみた。

バルといっても、どちらかというとカフェみたいな感じだ。わたしは中に入って行って、メニューをもらい、ビールを一杯頼んだ。出てきたビールは南米のビールだったが、スカッと爽やかでこういう暑さにやられる日にはちょうど良かった。

あの日の当たる道を歩いていると、店内は恐ろしく暗いように思えた。地元の人たちが飲んでいて、壁にはサッカーだか何かの旗が掲げられている。スポーツバーというやつだろうか。店員のお兄さんはすごく忙しそうに、スタスタと歩く。御通しとして出てきたオリーヴは塩辛かったが、ビールによくあった。やはりスペインは飲み文化だ。

 しばらくその店でくつろいだ後、わたしは外に出ることにした。店員さんは忙しそうにしながら給仕していてくれたので、チップを払い、Gracias(ありがとう)と店を出た。

 

夕ご飯は、マドリードの勝手もわからないし、暑くて疲れていたので、オスタルプラダのおじさんに聞くことにした。坂を登り、グランビアに着いた時、日は傾き始めていた。グランビアを渡って、オルタレサ通りに戻り、プラダに戻った。

「ひとつマドリードについて質問があります」とおじさんにいうと、おじさんはなんなりとというようなポーズをとった。

「¿Donde esta una buena taverna?(美味しいレストランはどこにありますか?)」と尋ねると、どんな食べ物かと聞いてきた。中華か、和食か、タパスか、と。

マドリードにいるんだから和食はいらないです。タパスが食べたいな」と答えると、おじさんは少し悩んだ顔をして、しばらくすると、よし、それじゃあと地図を開いて、

「このホテルのそばに2軒あります。一つ目は、classicoな店で、バスク料理で、こっち側、もう一つは、modernoで、こっち側」と言いながら、地図に印を書いた。

「ありがとう」わたしはその後、そろそろ洗濯物がたまっていたのでコインランドリーの場所を聞き、再びマドリードの街に繰り出した。目的地はモダンの方。なぜならこのあとバスク地方に行くつもりなので、バスク料理をマドリードで食べる必要がないからだ。今度はバルセロナと違って、やばい場所でないといいなと願いながら。

 

モダンな店だと言われた場所は、治安が悪いと言われているチュエカ地区にある。しかし、行ってみる、とそうでもなさそうである。お目当の店はあまり人気のない坂道を下りたところにある。何軒か店があったが、紹介されたのだろう店は明らかに閉まっていた。残念。ハムの店と書かれていて、スペインといえば生ハムだから期待が持てたが、仕方あるまい。大丈夫、もう一軒あてがある。

もう1軒目のクラシコの方は、オルタレサ通りに並行して走っているフエンカラル通りにある。この道はショッピング街のようで、ブランド品を売る店がたくさんあって、若者たち、観光客たちで賑わっている。道の途中には観光局のバイトと思しき学生がいて、なにやら集計を取っている。わたしの特技「溶け込む」が効果を発揮したようで、誰にも声をかけられることはなかった。

フエンカラル通りの中間くらいに、紹介されたOrioという店はあった。とはいっても、見た目は明らかにクラシコではなく、モデルノである。店構えからして新宿NEWoMANにありそうな雰囲気だ。そしてかなりの人気店のようで、人でごった返していた。一瞬その雰囲気に臆病になったわたしはあたりをうろちょろしてみたが、やはりOrioしか店はない。ぜひに及ばず。食はOrioにあり、である。

「すみませーん、こんにちは」とわたしは勝手も分からないのでバルカウンターにいるマット・デイモンに似ているお兄さんに声をかけた。

「こんにちは。どうぞ」とマット。英語が流暢である。

「どうやって注文したらいいですか?」と尋ねると、マットもなんとなく雰囲気を察したようで、

「ああ、バルは初めて?」と聞いてきた。

「はじめてです」と答えると、マットは飲み物を聞いてきたので、とりあえずビール、とわたしは日本人のアイデンティティを前面に押し出す回答をぶつけた。

「自由にとっていいんですよ」とマットは言う。バルカウンターには色とりどりの食材が並んだ皿がたくさん並んでいた。これはバスク地方の良い予行演習になる。案外良かったかもしれない。

「いくら?」と聞いてみると、全部2ユーロだという。とすると、五つ食べたとして10ユーロ、ビール合わせて12ユーロだから、1500円くらい。悪くない。

すると後ろに店員の髪の毛がくるくるにカールしたラテン系の女性がやってきた。マットは女性に、わたしに料理を見せてやってくれというようなことを言っていた。女性は頷き、わたしを誘導した。

「これは生ハム、これはオムレツ、それでこれはサーモンよ、それからこれは……うーんと、芋。で、こっちはデザートみたいなやつよ。これは……そうね……魚ね」と彼女の超雑な説明が始まる。まあ、仕方ない。わたしたち日本人だって、例えばカンパチのお刺身を外国人に説明できるか、という話だ。間違いなく、「魚の一種です」というしかない。そういうことなので、そのあとの説明は大抵「魚」「ポテト」「魚」「魚」であった。

わたしはまず、生ハムを食うことにした。クロワッサンに生ハムが無造作に挟まれ、爪楊枝で押さえてある。ワイルドでいいじゃないか。爪楊枝を外し、一口かじると、生ハムの香りが口いっぱいに広がった。スペインの生ハム。本場の生ハムは、日本の生ハムとは全くの別物である。薄く、香り高い。バターの甘みがするクロワッサンとよく調和している。そして、やっぱり、ビールに合うわけだ。それから、「魚」を食べた。青魚がスライスされたバゲットの上に乗っていて、その青魚の上にドライトマトが添えられている。そしてそれをやっぱり爪楊枝で押さえてある。わたしは実は青魚ファンであるから、これは期待ができる。食べてみると、期待以上だった。程よい魚の魚らしい香り、そしてドライトマトの旨味が溶け合って、すごくおいしい。その後もう一枚とってしまうくらい、うまかった。わたしにとって、一番うまいバル食(ピンチョ)といっても過言ではない。次に食ったスパニッシュオムレツ(ジャガイモと玉ねぎを使ったオムレツ)が乗ったパンも、サーモンも、マットが持ってきたまん丸の生ハムコロッケも、どれも最高だった。面白いのは、コロッケ以外はどれもパンの上に乗っていることだ。いわばこれは、回転ずしのようなものなのだろう。

結局ビールももう一杯飲み、本当に合計5皿食ってしまったが、13ユーロである。お会計は爪楊枝の数できまる。だから本当に回転ずしだ。意図してか意図してないのかは分からないが、マットが最初のビールを片付けたので、本当は16ユーロのはずだ。

「バルは初めてなんだ」と、会計を担当したもう一人の黒髪にメガネの女性従業員に話しかけた。うまく伝わらず、この店が初めてみたいな雰囲気になったが、まあ仕方ない。

マドリードにはどれくらいいるの?」とその女性は尋ねた。

「今日着いて、明後日でるよ」と伝えると、女性はしばらく考えて、

「わかったわ」と答えた。またも、わたしは住んでいる人と思われてしまったようであった。

13ユーロで夕食となると、フランスの平均25ユーロ以上とは比べ物にならないくらいの安さである。もう一軒くらいいけそうだとも思った。なんならグランビアを渡って、またプエルタ・デル・ソルに行くもよし、さらに奥のマヨル広場に行くもよし。といっても、わたしはまだマドリードという街を信頼しきっていなかった。というのも父の知り合いがマドリードの路地裏で強盗にあった話をなんども聞かされたからだ。もちろん、それは少し前のことで、現在マドリードでの犯罪率はかなり低下している。犯罪に巻き込まれるにしても、すりなどの肉体的な損失のないものが多いらしい。だから安心しても良いのだが、念には念をである。なかなか行動に出れず、結局戻ることにした。と言ってもそのまま戻るのはつまらないので、フエンカラル通りをちょっと散歩してからオスタルのあるオルタレサ通りにあるカフェでコーヒーを一杯飲むことにした。

 

「Un cafe, por favor(エスプレッソコーヒーをください)」と頼み、わたしはマドリードの夜を見ていた。さきほど、Orioから出てフエンカラル通りをちょっと散歩した時も思ったのだがマドリードとは不思議な街で、夜になると一気に治安が良くなる。というのも老若男女が昼とは打って変わって街に繰り出し、日本人のように泥酔することもなく、楽しげに散歩しているのだ。まるで昼のようだった。むしろ昼のほうが閑散としていて、治安の悪さも感じなくもない。

コーヒーを飲み終わって、少しくつろいでから、わたしはスーパーで水を買って、オスタルに戻った。プラダのおじさんはおらず、顔の濃いお兄さんがいた。後でそう思ったのだが、多分お兄さんとおじさんはカップルなんじゃないだろうか。

「Trenta siete, por favor(307番でお願いします)」と頼むと、お兄さんは少し驚いたように、鍵をくれた。

「Buenos noches(おやすみ)」といって、部屋に戻ろうとしたら鍵が開かない。よく見たら303号室の鍵である。

「Perdon(すみません)」とお兄さんにいうと、「307号室だろ?」というようなことを言ってきたので、わたしは鍵を見せながら「Si, trenta siete, pero...(ええ、307号室です。でも……)」と答えた。お兄さんはハッとした表情になって、そのあと笑いながら、ごめんよと言いながら307号室の鍵をくれた。

部屋に入って、バスタブにつかってみたが、やはり狭い。テレビでは相変わらず南米の暴動をやっていた。随分と難局を迎えているようだった。さてと、明日はどうするか。プラドに再び行くか。ブログでも描くか。マヨル広場に行ってみるか。正直今考えるのは面倒だ。スペインのことわざにはこんなものがある。

Hasta mañana(また明日)

8都市目:マドリード(1)〜イベリアのヘソのでっけえ通り〜

ついに、バルセロナを離れる。列車に乗り込んでみると、AVEという列車がなんとも先端的な列車であるということがひしひしと感じられてくる。2人掛の椅子がずらっと並び、天井からは幾つかモニターが置かれている。今までの列車にはこのようなモニターはなかった。しかも今回とったのは2等席なのである。しかもしかも、ヨーロッパの鉄道にしてはものすごく綺麗なのである。

後で知ったのだが、AVEは飛行機のような旅をというコンセプトで出来上がっているという。だからこそ、モニターが取り付けられ、そこでは映画を放映している。一昔前の飛行機のように、一本の映画をモニターで映し出し、見たい人がイアフォンを差し込む。ちなみにわたしが乗った時の映画はトム・ハンクス主演の「ハドソン川の奇跡」である。みようかとも思ったが、カタルーニャからカスティーリャへと移動する景色の変化を見たかったのでやめた。

 

マドリードイベリア半島のど真ん中にある。そんな地の利の良いマドリードが歴史の表舞台に颯爽と登場するのは、16世紀になってからだ。

マドリードを含む広大な領域を支配していたカスティーリャ王国は首都をマドリード近郊のトレド、イベリアの東半分と西地中海を支配したアラゴン連合王国は首都をバルセロナマドリードの中間にあるサラゴサに置いていた。その後、1400年代にカスティーリャのイサベラ王女とアラゴンのフェラン王子が結婚し、両国がスペイン王国として合同を果たすと、固定された首都というものを持たなかった。特に、オーストリアハプスブルク家出身のカルロス1世の時代には、カルロスは各地を移動しながら各地の代理人とともに政治をするという体制をとっていた。その頃のマドリードはまだ地方の小都市である。

それが変わるのが、カルロスの次に王位についたフェリペ二世の時代である。フェリペはカルロスからスペイン、ネーデルラント(オランダ、ベルギー)、中南米、フィリピンのみを受け継ぎ(のみといっても世界の半分である)、オーストリアに行く必要がなくなった。フェリペは王国をより合理的な統治することを考え始めた。そのために、フェリペは当時は小さな宮殿が立つ町だったマドリードを巨大な首都に変えた。理由は、イベリアのど真ん中だからである。地の利が良い。フェリペ二世はこの土地からほぼ移動することなく、命令を下し、広大な帝国を収めようとした。この時代はネーデルラントの独立、イングランドとの接近と敵対など激動の時代だが、中南米からもたらされる莫大な資産をスペインが手にした黄金期でもある。それを可能にしたのが、イベリアの中心に築かれたマドリードへの一極集中であり、それがそのまま絶対王政を産んだ。

スペインの歴史はその後、いわゆる「スペイン継承戦争」によるハプスブルクからブルボンへの王朝交代、フランス革命への干渉とナポレオン軍による侵略とブルボン王朝復活、女王追放、第一共和制、王政復古、クーデタ、第二共和制、左右対立からスペイン内戦、フランコ独裁政権王政復古民主化を経ていまに至る。その間中、マドリードは首都であった(ナポレオンに支配されていた時は南のガディス)。ナチスドイツとファシスタイタリアの支援を受けるフランコ率いる反乱軍が各地で勝利を収めた時も、スペイン共和国政府はマドリードを背に「¡No passaran!(奴らを通すな!)」のモットーのもと戦った。今ではマドリードは、各自治州に権限を委譲した自治州国家の中心部として機能している。

 

列車はバルセロナからアラゴン王国の古都サラゴサを経由して、マドリードへと入る。実はサラゴサは泊まるべきか迷っていた町だった。アルカサルというイスラーム式の宮殿もあるし、かつての都というのも興味があった。だが、やはりマドリードに行かずしてスペインに行ったとは言えまい。

風景は徐々に荒涼としてくる。バルセロナが背にしている緑の山、モンセラットなどの山を越えればもう荒れ地である。サラゴサ周辺はまだ緑が多いが、マドリードに近づけば近づくほど、地面は乾いた砂とゴロゴロした石や岩で覆われる。草というと、藁のようなものが所々にあるだけだ。これが、スペインの大地。かつてギリシア人はイベリアのど真ん中には来なかったというが、その理由もわかる。むしろここを手にしようとしたローマ人が異常なぐらいである。逆にモロッコなどの砂漠の土地から来たイスラーム勢力がここを支配するのは容易かったかもしれない。

電車の中は、映画のおかげか静かそのものである。モニターでは時折飛行機がハドソン川に難着陸をするシーンが描かれている。そういえば、母がこの映画を見たがっていた。名作だという。「ブリッジ・オヴ・スパイ」「インフェルノ」「ハドソン川の奇跡」とトム・ハンクスが異常に忙しかったときの作品だったはずだ。

すると目の前にいる小さな女の子が、椅子越しにこちらを見てきた。にっこりと微笑むと、きゃっきゃ言いながら椅子の向こう側に隠れる。今度は上からこっちを見てくるので、目を合わせたら、また隠れた。今度は窓際から来たので、また目を合わせるとまた隠れた。言葉は交わさなかったし、隣にいたのも彼女のお姉ちゃんのようでこちらに話しかけてくることはなかった。それでも、小さな交流がちょっと嬉しかった。列車の中の交流、などといっても、今の世の中そんなにあるはずもない。みんな携帯電話を眺め、音楽を聴く。わたしも音楽を聴いていた。すると途端に会話などしなくなる。暇じゃないからだ。わたしも暇がちょっと怖くて、音楽を聴いて風景に浸っている。でも、やはり暇な方が見えるものは大きいだろう。そんな暇な時間を感じるのが旅の醍醐味でもあるのに、できているのだろうかと不満に思うことがあった。

 

バルセロナサラゴサ経由マドリード行のAVEがマドリードの中央駅であるアトーチャレンフェに着いたのはもう4時すぎだったが、日はもちろん高かった。ヨーロッパの夕暮れは21:00すぎである。まだまだ昼だ。前、酒飲みの友人が「9時? まだ昼じゃん」と言っていたという逸話を聞いたことがあるが、夏のヨーロッパに関して言うならば、マジで「9時はまだギリギリ昼」である。

黒いバックパックを背中に背負い、わたしはアトーチャ駅の地下へと向かった。今度はマドリードの地下鉄に挑戦だ。

マドリードの地下鉄はバルセロナ以上にむわっとしていて、非常に暑かった。値段はバルセロナのメトロよりも良心的な1.50ユーロ。しかし、チケットを買うときに行き先を指定する形式なので、(当たり前といえば当たり前だが)行きたい場所にしか行けない。旅人にとってはディスアドヴァンティジでもある。さらに、見た目ががらんとしているところに蛍光灯があって、落書きだらけの壁を照らしているので、治安が悪そうな雰囲気を湛えている。「いやあ、都会に来ちまったなあ」とわたしは少々警戒しながら、予約したホテルのある「グランビア」駅行のチケットを買った。

スリなどいないだろうかと警戒していたが、何せ人混みがなかったので、案外平気であった。ちょうどシエスタの時間が終わり、仕事が始まる時間、人もそんなにいないし、シエスタ時間ほど治安は悪化しないようだ。そう、実はシエスタの時間帯である14:00〜16:00は街の治安が悪化することで有名である。それは、シエスタ(昼寝、昼休み)中に街中からは人がいなくなり、高価なものを身につけた観光客だけが街を歩くようになるからだ。いわば、夜中のようなものである。実を言うと、バルセロナで15:00くらいに船に乗ったのも、そして14:00の列車でマドリードに行くという行程でもいいやと思ったのも、その理由あってのことである。シエスタ時間に街を歩くのは少し避けたいとの思いがあったのだ。単純に、強烈に暑いからという理由もなくはないが。

マドリードバルセロナの地下鉄の違いは、値段と治安の悪そうな雰囲気とバルセロナ以上の熱気だけではない。当たり前のことだが、アナウンスが違う。つまり、カタルーニャ語は消え、カスティーリャ語(=スペイン語)だけになるのだ。とそうこうするうちに、

「Proxima estacion, Gran Via(次は〜グランビア)」というアナウンスが入り、わたしは地下鉄を降りた。

バルセロナのランブラスときて、マドリードのグランビアとくれば、もう、目抜通りである。テロが起こるかもしれないからそういう場所は避けようと思っていたが、やはり交通の便にはかなわない。それに、テロやスリはともかく、目抜通りはなかなか凶悪犯罪を働きづらい場所でもある。

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と、ランブラスのイメージで地上に上ると、それは大きな間違いだった。グランビアは、本来の意味で「でっけえ(グラン)」「道(ビア)」だった。その全てを焼き尽くさんばかりの強烈な日差しを防ぐものは日陰側に立っている建物以外には存在しない。日向は焼き尽くされるがままで、申し訳程度に植えられた並木は並木としての用をなしていない。さらに、マドリードの街は暑さ対策のためだろうが、真っ白に塗られており、それが熱波を反射して、道行く人に浴びせかける。歩道はツルツルに磨き上げられた石のタイルなもんだから、その熱波はさらに下からも私たちを襲う。タイに行った時、「蒸し鶏はこういう気分なのだな」と思ったが、マドリードでは「焼き魚はこういう気分なのだな」と思った。とにかく、上から、下から、横から、日差しが猛威をふるってくるわけである。

ホテルはグランビアから一本横に入ったオルタレサ通りにあった。厳密に言えば、わたしが予約したのはホテル(オテル)ではない。わたしが予約したのはオスタルというスペイン独特の民宿である。アパートの中の一室がオスタルに改装され、その人部屋を使うというシステムになっている。だから、最初は驚いたのだが、同じ建物にたくさんのオスタルがあるという状況は普通のことである。だから看板を見てもよくわからず、インターフォンのボタンのところにオスタルの名前が書かれている。

オルタレサ通りはかつて治安が悪いと呼ばれたチュエカ地区(中国街という意味らしいが、中国感は皆無)にあるが、オスタル街でもあって、たくさんのオスタルが軒を連ねていた。わたしが予約したのはオスタルプラダというものだったが、見つけるのに少し手間取った。やっとこさ、インターフォンのところにオスタルプラダを見つけたので、わたしはそのアパートに入り、小さくてレトロなエレベータに乗って四階のオスタルプラダへと向かった。

踊り場に出ると、二つドアがあり、片方がオスタルプラダ、もう片方が別のオスタルになっている。面白いシステムだなあと思いつつ、わたしはプラダインターフォンを押した。すると、ラホイスペイン首相に少しだけ似た、細身で白い髭を蓄えた、Tシャツのおじさんが出てきた。

「¡Hola!(こんにちは)予約しているものです」と言うと、

「Ah, buenas tardes(こんにちは)こちらへどうぞ」とわたしを中に入れた。入ってみるとやはり家だ。そのあと手続きを済ませ、わたしのパスポートを受け取り、書類を書く、というような仕草をすると、おじさんはわたしに鍵を渡し、部屋へ誘導した。このおじさん、そこまで英語ができるわけではないようで、その点なぜだか好感が湧く。

「タバコですね」とおじさんは部屋を開けていった。確かに少しくさかった。といっても、正直トゥールーズのタバコ臭い部屋に止まったくらいなので、大して気にはならない。しかしおじさんは気にしているようで、窓を開けた。

「僕はタバコは吸いません」とわたしが言うと、おじさんは満足そうにうなずいていた。

プラダのおじさんが案内してくれた部屋は随分と綺麗な部屋だった。これが、二日で60ユーロほどなのだから、とんでもないことである。テレビも、バスタブも付いている。とはいっても、バスタブは大きさが狭く、さらに浅いので、体を温めるのには使えなさそうだ。

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プラダのおじさんがパスポートを返してくれるまでの間、わたしはテレビをつけ、ネットやらガイドブックやらでこのあとどうするかの情報収集をした。情報収集するのは好きではないが、まあ、仕方ない。マドリードという場所の勝手がわからないのだ。見ていると、世界規模を誇るプラド美術館が18:00から無料展示らしい。ならば、行ってみよう。今回の旅でまだ博物館にも美術館にも行っていないではないか。

とまあそんなこんなでわたしは蒸し暑い部屋で待っていたわけだが、おじさんは戻ってこない。まあ、これがスペインというわけである。わたしは仕方ないので、とりあえず顔を洗い、テレビを眺めた。南米のどこかでコンフリクトがあったのか、街が炎に包まれ、人々が逃げ惑っていた。やはり同じスペイン語圏として、こういうニュースはきちんと報道するんだなあと思った。

それでもおじさんが来なかったため、わたしはフロントへ向かった。おじさんがいないので、事務室的なところに行くとおじさんがいた。おじさんは謝りながら書類を仕上げ、パスポートを返してくれた。

「二泊?」とおじさんは言う。

「ええ、二泊です」とわたしは行った。

「じゃあ、お金は明日か明後日でいいですよ」とおじさんは言った。わたしは、ありがとう、といい、

「¿Hay una mapa de Madrid?(マドリードの地図はありますか?)」と尋ねた。いまこそ、この度のためにラジオで勉強したスペイン語を使う時だ。

「Si(ええ)」とプラダのおじさんは言うと、地図を取り出した。それから、「Aqui, Prda. Y aqui, Grand via, y aqui, Puelta del sol(ここがオスタルプラダで、こちらがグランビアです。それからこちらがプエルタデルソルです)」と地図の見方を説明してくれた。

「De aquerdo. Ah...quiero ir a Prado(わかりました、えーっと、プラド美術館に行きたいです)」と言うと、おじさんは青ペンでプラド美術館のところをくるくるとマークした。それから、身振り手振りを交えて行き方を教えてくれた。

曰く、まずオルタレサ通りを抜けて、グランビアに出る。グランビアをまっすぐ向かって左に歩くと坂道があって、最後にロータリーが出てくる。シベレス広場というらしい。そこをくるっと回って90度行ったところの道をまっすぐ歩き続ければプラド美術館があるそうだ。

「De aquerdo. Gracias.(わかりました。ありがとうございます)」と言うと、わたしは鍵を置いて、外に出た。帰ってくる時はインターフォンを鳴らしてね、とのことだった。

7都市目:バルセロナ(7)〜アデウ、バルセロナ〜

目を覚ますと、ちょうどよく狭い、白と黒の部屋にいた。わたしはベッドから出らと顔を洗い、それから荷造りをした。名残惜しいが仕方ない。今回の旅では最大級に名残惜しい。

重たいリュックを背負ってフロントに戻った。フロントには誰もいない。しばらく待っていたら奥の食堂からおばさんが出てきた。チェックインの時のおばさんだ。

「チェックアウトです」と告げると、もうお金は払ってあったので、おばさんはにこやかに鍵だけ受け取って、

「良い1日を!」と言った。

「Moltes gracies, adeu!(おおきにありがとうございました、さいなら)」とカタルーニャ語で挨拶をして、わたしはホテルを出た。

すぐに駅へ行ってしまうのも寂しいので、ランブラス通りをうろちょろしていると、市場があった。こりゃ気づかなかった。しかし市場は朝が本番なのでちょうど良い。わたしはリュックを背負った重装備ながら、市場へと入って行ったこと。サンジュゼップ市場(ラ・ボケリアとも)というらしい。

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スペイン人は朝が遅いようで、朝が正念場の市場もまだまだというところだった。あれは確か8:00くらいだったはずだ。それでもやはり野菜や魚介の生々しい香りが漂う市場の空気感は健在で、心躍らせた。日本ではあまり嗅ぐことがない香りだ。築地であってもまだまだ生ぬるい。アジアやヨーロッパの市場はグイグイとくる。あの臭さこそ、生活の証である。

何組か観光客も来ていた。昼になるともっとたくさんいるのだろう。朝食でも食おうかと思ったが、どうにも見当たらない。とはいえ何もせずに市場を去るのはもったいない。わたしは果物屋のジュースを飲むことにして、どこがいいか品定めをして、客が何人かいたところで買うことにした。(ここはカタルーニャなのだから)スペイン語を使うべきか悩んでいたので英語でキウイジュースを買った。氷も何もなく、ひたすらにリアルなキウイ果汁が詰まっていた。これこそ市場の味。飾らないところがいい。フレッシュジュースの鑑という感じだった。しかし、今思うと、どうしてあんなバレンシアのそばまで来ておきながら「Zumo de naranja(オレンジジュース)」にしなかったのか。非常にもったいないことではあるが、こんなもんである。出川哲朗曰く、「これがリアルだから」と。

ランブラス通りへ戻り、通りにあるベンチでジュースを飲んだ。もう、バルセロナを離れるのか。いや、まだわからんぞ、理性なんて吹き飛ばし、直観の赴くままにバルセロナにもう一泊してやろうということになるかもしれぬ。そう思いながらも、心のどこかでバルセロナに、ランブラス通りに別れを告げて、わたしはリセウ駅からサンツ駅へと行った。これでこの地下鉄も最後かと名残惜しく思いながら。

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問題は、マドリード行きのチケットをまだ入手していないことだった。ホテルはとったが切符がない。そんなわけで、わたしは昨日行った切符売り場に並んだ。その時ふと気づいたことがあった。それは昨日はあまり気にかからなかった、隣のブースである。隣のブースには待合室風のベンチがたくさんあった。もしや、当日券以外はここで買うのではないか。どうやら昨日はそれに気づかずにサンツを去ってしまったのではないか。まあ旅とはこんなものだ。

マドリード行きのチケットをユーレイルパスで予約したいんですが」とブースのおじさんにいうと、おじさんは何やらパソコンで調べた挙句に

「13:25のやつがあるよ」と言った。今は朝の九時。電車は一時半。なんと。やはり昨日予約しておけばよかった。もしかするとこれはもう一日バルセロナに泊まれと言う運命の悪戯なのではないか。などとあれこれ考えた上でわたしはチケットを予約した。フランス国鉄よりもちょっとだけ高めの10.55ユーロである。

チケットを受け取り、わたしはブースの裏側に回ったところにあるパン屋に立ち寄って朝食を買うことにした。朝9時30分。ここ数日では最も遅い朝食だった。

「¡Buenos dias! Un croissant y un cafe con leche, por favor.(おはようございます、クロワッサン一つとカフェコンレチェを一つお願いします)」と、わたしはこれから向かうマドリードでの練習とばかりにカスティーリャ語を使ってみた。英語で話しかけられると思っていたのか、店員はちょっと驚きつつ、ちょっと嬉しそうに、

「Vale. €2.50(はい、2エウロ50センティモでございます)」と答えた。旅は言葉じゃない、言葉じゃなくても通じ会えるんだ、などと人は言う。それは70%くらいは真実かもしれない。でもここヨーロッパでは特に、その国の言葉を喋れるだけで、どれだけ外国人への警戒を解いてもらえることか。言葉の力を舐めちゃあいけない。

笑顔でありがとうと交わし、わたしはベンチでカフェコンレチェと甘いクロワッサンを食べた。この、カフェコンレチェはうまかった。はじめて試したが、気に入った。カプチーノのような感じなのだが、カプチーノより濃厚で、言葉で説明するのは難しいが、身も心も温めてくれる感じの味がする。その後のスペイン旅行の朝のお供となった。

そのあと、友達にメッセージを送ったりなどしながらこれから駅の外に出るのかどうか考えた。出たい気もするが、リュックを背負って、この前のディジョンのようなことは御免である。そうだ、コインロッカーを見つければいい。調べてみると案の定コインロッカーはある。さて、バルセロナにお別れを言おう。行き先は、今回の旅で親しくなったガウディ師匠のグエル公園か、カサミラか、それかかつてのアラゴン王国の宮殿だ。

 

結局選んだのは宮殿だった。グエル公園は少々遠く、行き方が複雑そうだったから却下、となるとやはりカサミラよりも宮殿に行きたい。なんとそこでコロンブスとイザベラ女王が会見したと言うのだから見たいに決まっている。

コインロッカーは空港の荷物検査のようなことをしてから、預けるシステムだった。こうしておけば、日本だって、どこぞの大統領が来日してもコインロッカーを使い続けられるのに。バルセロナは傍目には、他国のテロなんて御構い無しのゆるい警備に見えたが、締めるとこは締めているようだ。

身軽になって、地下鉄に乗り込む。今考えてみれば明らかに遠回りな、サンツ駅→エスパニヤ駅→ウルキナオナ駅と乗り換えて、目的のジャウマプリメ駅に向かうルートをとった。何せ乗り納めだ。

駅を出ると、滞在中はちょっとしか立ち寄っていない旧市街の街並みに出た。ゴティック地区というそうだ。色はあいもかわらずパエリヤみたいな黄土色、そこら中に蔦のような形の街灯がつる下がっている。やっぱり、わたしはバルセロナの街が好きである。しかし、宮殿は見当たらない。

ここかなと思って行ってみると広場である。宮殿の前っぽさもあるが、どうやら市庁舎か何かのようだ。もしかすると博物館かもしれない。入ろうかとも思ったが、宮殿に行きたいのでやめることにした。時間がそんなにあるわけでもない。人だかりの雰囲気を楽しみつつ、路地に入った。すると古くからありそうな飲み屋や服屋が軒を連ねている。宮殿ではないが、見ているだけで十分に楽しかった。それに、ゴティック地区の街並みは見ていて心躍るものがある。石畳の狭い道の横から迫る背の高い黄土色の建物。そしてつる下がっている街灯。わたしは夢中になって歩いた。

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しばらくすると別の広場が現れた。今度は誰かの像がある。フランスとは違ってテラス席の店はあまり見ないが、それでの街のごみごみとした賑やかさが心にしみてくる。ガヤガヤとした街は、わたしの心に今朝方からなんとなく突っかかっているものを満たしてくれた。それはバルセロナをさる寂しさでもあったし、日本でやり残してしまったことへの気持ちでもあった。

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迷路のようなゴティック地区が目の前で開けたと思うと、それはランブラス通りだった。これもまた、運命の導きだ。ランブラス。ここからわたしのバルセロナの旅は始まり、そしてここで終わる。わたしはランブラス沿いにゴティック地区を歩くことにした。ホテルがあるのとは逆側の道だ。すると、大きな教会が現れた。大聖堂(カテドラル)だ。サグラダファミリアと違って、「完成済み」のこの教会は、いかにも教会らしい形をしていた。これはこれで良い。広場は人で溢れ、楽しそうな声が聞こえた。教会の近くを歩いていると、ガウディやピカソに関する美術館があった。ガウディ師匠とここで再会するとは。これも運命の導きである。もはや宮殿などどうでも良かったので入ろうかと思ったが、まだ歩きたい気持ちもあったので散歩を継続することにした。

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わたしが足を踏み入れたのは、再びゴティック地区の奥だった。先ほど歩いたようなグネグネ曲がった黄土色の古い町の迷路である。生ハム屋さんやアンティークショップがそこにはある。そうした界隈をうろうろしていると、ドンドンという太鼓の音が聞こえた。そしてシュプレヒコールが聞こえた。デモのようだ。今のヨーロッパで騒がしい方へ行くのは賢明ではないが、少し近くへ行って見た。するとゴティック地区にしては広い道を女性団体が隊列を組み、横断幕を掲げている。女性の権利の関係の何かだろうなと思った。

「ラホイ、ラホイ、ラホイ!」と叫び、そのあと何やら言っている。ラホイとはスペインの首相で保守系の政治家だ。彼に対する何かの抗議のようだ。フランコ独裁政権が倒れてからまだ40年ほど。スペイン、特にバルセロナの政治意識は高いみたいだ。

わたしはその場をそっと離れ、さらに道を進んだ。すると突如として道がひらけ、大通りに出た。その通りはどことなく見覚えがあるような気がした。昨日歩いた界隈にやって来たのかもしれない。ふと横を見ると、ぐにゃっと曲がった感じの黄土色の建物にたくさんの鉄球がくっついている。

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ガウディ師匠ではなさそうだが、バルセロナのアールヌヴォー系界隈が始まったのだろうか。あれはなんの建物だろう、と思いつつ、さらに道を行くと、通りの向こう側に、何やら不思議な形をした建物があった。鉄球がたくさん張り付いた建物も十分不思議だが、それ以上に鮮やかな色で、建物もグネングネン曲がっている。もしや、ガウディ師匠だろうか。わたしはよくわからないので近づいて見ることにした。

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それは、カタルーニャ音楽堂というコンサートホールだった。にしては狭いところに立っている。ちなみに、後で知ったがこれはガウディ師匠の作品ではない。ムンタネー師匠というカタルーニャ19世紀の芸術復興運動の立役者のものらしい。世界遺産にもなっているという。

面白いのはチケット売り場である。色とりどりのタイルが貼られた柱に丸い穴が空いていて、そこがチケットカウンターになっている。無味乾燥なチケットカウンターとは違う。こういう細部にこだわるところが良い。よくできている。

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それにしても漂ってくるエキゾチックさはなんなのだろうか。確かに、かつてイベリア半島イスラーム勢力の支配下にあった。だが、バルセロナはその支配を脱しているし、イスラームとの折衷建築であるムデハル様式とはまた違った趣がある。といろいろ考えたのだが、一つ思い当たるのは、かつてバルセロナを中心としたアラゴン王国シチリアを支配していたことだ。あそこは南のイスラーム世界、北のキリスト教世界の交差点にある。行ったことはないが、シチリア旅行をした人の写真は見た。棕櫚がたくさん生えていて、建物の感じも不思議なエキゾチックさをたたえている。どこかバルセロナに似ている。とはいっても、バルセロナバルセロナらしさもやはりある。いや、もう理屈で考えるのはよそう。バルセロナの空気をたたえた建築物に、わたしは良さを感じているのだ。そのわけのわからないエキゾチックさに、である。

この中はどうなっているんだろう。いつか来た時はここでコンサートを聴いてみたいなと思いつつ、しばらく眺めていたら、電車の時間まで結構逼迫してることに気づいた。そろそろ地下鉄の駅を探して、サンツ駅に戻らねば。まあ、逃したら逃したで、10.55ユーロは損になるが、そうしたらバルセロナにもう1日とどまれってことなんだろう。少し心の余裕を持って、近くにあったウルキナオナ駅に入り、サンツ駅を目指した。今度こそ、最後の地下鉄ということになる。

 

サンツ駅についたのは13:00。発車時刻は13:25。なかなかのピンチである。急いでコインロッカーからリュックを取り出し、プラットフォームを探した。プラッフォームの前には荷物検査ような機械が2台並んでおり、その目の前には警備員が立っていた。どうやらスペイン国鉄renfeの高速鉄道AVEはかなり強烈なチェックをするらしい。そういえば、21世紀の頭にスペインでは高速鉄道を狙ったテロが起こったのだ。そのせいか、かなりピリピリしていた……とはいっても、ピリピリしていたのは置かれている器具だけだった。係員はゆるゆるそのもので、形だけというような感じである。四人組の軍人が徘徊しているフランスと比べると、スペインは随分とゆるい。まあゆるい方が平和で良いのだ。

荷物検査後、検札を通る。ユーレイルパスに不備があったので、「ああ、ここで記入してくれればいいよ」とゆるく対応され、書き直した。髭の検札のおじさんは、それを見てから、

「ありがとう。それじゃあ¡Buen viaje!(良い旅を)」と楽しそうに言った。スペイン、早くもはまりそうである。

「¡Gracias!(ありがとう!)」とわたしは言い、エスカレーターで地下にあるプラットフォームに降りた。バルセロナマドリードなどの大きな駅では、地下にプラットフォームが集中している。

さて、これでバルセロナともお別れだ。電車にもどうやら間に合ってしまったようだし、これにてAdeu Barcelona(さいなら、バルセロナ)である。わたしは心の奥底で、バルセロナにいつかもう一度来ようと思っていることに気がついていた。だから、Aviat, Barcelona(ほなまたな、バルセロナ)が正しかったのかもしれない。

7都市目:バルセロナ(6)〜一人前のパエジャ〜

ランブラス通りに戻ってきた私はそのままランブラスを歩いてホテル方面へと向かった。ランブラス通りは区画ごとにテーマがあるようで、カタルーニャ広場のそばはおみやげ物屋が多い。カタルーニャ広場にいた人たちが多いせいか、人がすごくたくさんいる。そしてしばらく歩くと、向かって右側にトルコ料理の店が乱立するようになり、ランブラス通りにも料理屋のテラスが増える。ここが、私の最寄駅「リセウ駅」のある界隈だ。そんなもんだから、リセウに着いた時はいきなり目の前に「レイ・デ・イスタンブールイスタンブールの王)」などといった店が現れたもんだから驚いたのを覚えている。そして、海に近づくと、大道芸人とアーティストの世界になる。

土産物を遠目に見つつ、レストランを探したが、やはりホテルの人に聞くのが早そうだった。ランブラスの雰囲気を楽しみながら進み、トルコ料理屋のある路地、私のホテルがある「オスピタル通り」に入った。

「Hola(こんばんは)」とフロントの人に声をかけた。「一つ質問があるんですが」

「いいですよ」と女性は答えた。

「このあたりでおいしいスペイン料理屋はありますか?」と尋ねた瞬間私は「ああ、スペイン料理じゃなくて、カタルーニャ料理というんだった」と思ったが、まあ仕方がない。スペインに来たんだ。

「そうね……」と女性は少し悩んだ後で、「ホテルを出て、ランブラスとは反対側に進んで、二つ‥‥ううん、三つ目の角で曲がって。そうすると、とてもおいしい店があるわ」と答えた。ランブラスと逆方向というのは意外だったが(旧市街はランブラスの向こう側だからだ)、私はありがとうと言って外に出た。

空は薄暗くなりつつあった。もう7時半すぎだ。スペインの夕食タイムは8時からだというから、実はちょうど良い。私は言われた通り、明らかに猥雑そうな道を歩き、いわれた角で曲がろうとした。するとである。路地の奥の方にレストランらしきものが見えるのだが、その手前に酔った男が座っていて、その男がなにやらドイツ語で喚いているのだ。さらに路地の向こうから大きな声で歌う声が聞こえる。それも、みんなで歌っているというよりも明らかに一人で歌っている声だ。これは、やばい通りに入りつつあるのかもしれないと感じた。まさに、「I have a BAD feeling about this」。私はためらった。これで怖気付いて行かないのか、それとも行ってみるのか。安全か、冒険か。私はこの旅では怖気付かないようにしたいと思っていたので非常に迷った。だが、明らかにやばい匂いがした。

その時だ。ドイツ人の酔っ払いがなにやら叫んだ。こちらを見ていたかはわからない。だが、「Hut(帽子)」のような単語が耳に残った。私は帽子をかぶっていたので、ああ、これはやめよう。やばいところにわざわざ入る必要はない、なんとなれば、危機管理も身につけるべき徳なのだから、と心に言い聞かせ、その場を立ち去った。

さて、危機は去った。ところが、問題は残る。夕食の場所だ。フロントに戻って、「怖くて入れまちぇんでちた」などとダサいことはいいたくない。自分の足で開拓するほかない。ガイドブックを取りに行くのも、また一つの恥であるから、完全に自分の足で稼ごうではないか。

というわけで、私はあてもないのでランブラスに戻った。しかし夜の料金はどこも高い。そうだ、昼食べたところか、その近くの店に行けばいいじゃないか、と私は再びレイアール広場に行った。夜になるとストリートミュージシャン(厳密にはストリート(道)ではないので、プラサミュージシャン)がいて、棕櫚の木も風になびいていい感じである。昼を食べた店は超満員で、しかも並んでいるのでやめた。隣の店に入ろうかと思ったが、どうやら飲み屋である。私は食事がしたいのだ。広場には結構客引きをしている店があったが、客引きのいるところで食うのはなんとなく嫌だし、ぼったくりのようなものに会うのは嫌だった。せっかくバルセロナを好きになったのに、そんな終わり方は嫌だ。と思いながらウロウロしても、どうしようもない。日は落ちてゆく。初めての国で夜中にあまり歩きたくない。さきほどの路地の一件もあって、少しだけ警戒心が戻りつつあった。

 

人だかりがある店があったので、わたしはとりあえずそこのメニューを見た。英語版だ。それに店員もすごく浅黒くて、一瞬インド人に見える。ここはやめておこうかと思っていたら、店員が声をかけてきた。

「一人か?」と店員が言うから、そうだ、というと、こっちへ来いという。ぜひに及ばず。なにかしら食べたいし、私はもう流れに任せることにした。

テラス席は満員なのに、店内はガラガラである。これはまずいかもしれない。と、警戒心全開でテーブルにつき、置かれたメニューを開いた。パエジャ(パエリア)がある。だが、私は知っていた。パエジャは地元の人は昼に食べるものであり、パーティ食だから一人で食うものではない。しかしこの店は一人前を売っている。これはよくない。きっとよくないパエジャに違いない。なぜ入ってしまったのか。だが、もう時すでに遅しである。しかも、パエジャ以外の料理はよくわからないときていやがる。

私はブスッとした顔の店員を呼び、まずワインはグラスで頼めるかどうか尋ね、オーケーだったので、赤のハウスワインを頼んだ。それから、おすすめは?と尋ねた。

「おすすめ? そりゃもうパエジャだよ」と店先にいた人とは対照的に色白のウェイターは言う。ますます良くない。

「どのパエジャがいいんですか?」ととりあえず聞くと、

「海鮮だ」という。海鮮は17ユーロ、鶏肉は10ユーロ。フランスの物価からするとバカやすいが、私は一応やすい鶏肉にすることにした。実はバレンシアで生まれたパエジャはもともと鳥やウサギなどの山の幸を入れていたという逸話を聞いていたこともあった。店員はブスッとした顔でうなずき、去っていった。忙しそうである。

しばらくして、店員が白ワインを持ってきて注ごうとしたので、私は赤だと訂正した。店員は不服そうに赤に直した。今思うと、それは彼がテキトーだったのではなく、オーダーが鶏肉だったからじゃないかと思う。店員は再び立ち去った。ここは大丈夫だろうか。私は少し深呼吸をした。これで値段を吊り上げてきたらどうしたものか。

すると店員がこちらに向かってやってきて、ブスッとした顔で、

「聞きたいんだけど」と言う。「君は中国人? 日本人?」

突然の質問に少し驚いたが、「日本人」と答えた。

「ああ、日本人か。気になってたんだ」と店員はいった。「日本人の女の子はグア……えーっと可愛いよな」

相変わらずブスッとしていたが、全然悪気はなさそうだ。そういう顔なのか、私がよくわからないアジア人だからなのかだろう。私は自分が申し訳なくなった。一度は心を許した街に、変なバリアを張ってしまった。私は笑って、「でもスペイン人だって……」と冗談めかしてみた。

「いや、だめだ。ここの女は……だめだ」と店員はいうと、しばらく何か考えた顔をした、「Arigatogozams」と言った。ありがとうということだ。

「日本語うまいね」と私は言った。

「Cuteって日本語でなんていうの?」と店員は尋ねた。誰か狙っているのだろうか。

「かわいい、だよ」と私は言った。浸透している言葉なのか、店員はハッとした表情だった。

「Arigatogozams」店員はまた立ち去っていった。普通にいいやつじゃないか。私は警戒していた自分をあざ笑いながら赤ワインを飲んだ。

しばらくして、店員がパエジャを持ってきた。いい香りがする。量も適度に多い。わたしは彼に習い、

「Gracies(カタルーニャ:おおきに)」と伝えた。店員は「De nada(西:どういたしまして)」と答えた。いちおう、カタルーニャ語のつもりなんだけどなあ。

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レモンを絞り、フォークでパエジャをつついて口に入れた。店員のキャラが面白いのでまずくてもいいかくらいに思っていたが、パエジャは予想を裏切ってきた。うまいのである。鶏肉の出汁が良く利いていて、うまい。お焦げな感じは全くないので、お焦げ系パエジャが好きな人はあまり好きではないかもしれないが、私はあの水分多めのパエジャもなかなか好きだ。香りがよく立っている。次に肉を食べてみると、骨つきで、身はジューシーで柔らかい。正直に言って私の人生の中で最高のパエジャだった。ここにきて、私の警戒心は本当に馬鹿げたものだったことがわかった。あとはぼったくられないかどうかだか、正直ぼったくられてもいいとも思った。

パエジャを頬張っていると、先ほどの店員がやってきて、

「どう?」と聞いてきたので、わたしは

「うまいよ。¡Qué rico!」と答えた。店員は相変わらずブスッとした感じだが、どことなく嬉しそうに、

「¿Muy rico?(すごくうまいか?)」と尋ねた。

「Sí, sí(ああ、うまいよ)」と私はもう一度答え、「えーっと、どうやっていえばいいのかな、美味しいって……」

「Muy ricoだよ」いや、そうではないのだ。私が聞きたいのは……

「あの、カタルーニャ語では」

「ああ、Mol bonだよ」店員は少し驚いた感じていった。カタルーニャ語を質問する人は少ないのだろうか。あんなに街中に沢山書いてあって、観光客は誰も気にもならないのだろうか。少し寂しい気もする。

「Mol bon!(めっちゃうまい)」そういうと、店員は

「Gracies(おおきにな)」と答えた。

最後にコーヒーを頼み、さっぱりした後で会計をした。全くぼったくられていなかった。わたしはチップとして少しだけ加算した上で席を立った。例の店員は忙しそうにどこかに行ってしまった。少し残念だが、私はそのままレイアール広場を後にして、ホテルへと急いだ。夜の帳が下りていて、ランブラスではヨーロッパの観光地恒例の光る独楽を飛ばす人たちがいる。

 

ホテルに戻ると客が来ているようで、フロントに列ができていた。私は列の最後尾で待っていたが、どうも先に進まない。フロントのお姉さんは私に気付くと手招きした。

「番号は?」まるでテストするようである。まあ、テストされて仕方がない。ならこちらも期待の上をいってやらねば。

「クワトロ・トレセ(413)」

「Quatro treze, muy bien(413ね。正解よ)」フロントのお姉さんはにっこりと笑って鍵を渡した。

「水を買えるところはありますか?」と尋ねたら、食堂があると指をさした。私は礼を言って「Bona nit!(おやすみなさい)」とカタルーニャ語で残して食堂に入った。しかし水は売り切れていたので、仕方なく部屋に戻った。

テレビをつけると、サッカーをやっている。バルセロナといえば、バルサ。ステレオタイプだが、ステレオタイプ通りの番組である。テンションの高い実況が、「メッシ、ネイマール、ゴーーーーーウ、ゴーーーーーーーーーーーーウ」と得点を喜んでいた。かつて、バルサの「カンプ・ノウ」スタジアムだけが、カタルーニャ語の使用を認められていたらしい。バルセロナのサッカーが強いのはそうした背景がある。サッカーでレアルマドリードに勝つことは、スペイン王国に勝つことであった。ドイツも、イタリアも、サッカーが強いヨーロッパの国は、どこも戦国時代並みの分裂からの統一を経験している。サッカーは地元の声でもある……らしい。日本も江戸時代がそのまま続いてサッカーだけ取り入れていたら、Jリーグはすごかったのかもしれない。特に「FC薩摩vsFC長州」とか、「FC薩摩vsFC会津」なんて激しそうだ。

などと馬鹿げたことを考えつつ、私は1日ぶりのシャワーを浴びた。

バルセロナは最高の街だった。もっとバルセロナにいたいと強く思った。正直、もう一泊する手もなくはない。それこそが自由旅行であり、そのためにホテルも何も予約していないのだ。だからバルセロナに何泊もして、そのままフランス語を勉強するためにコースを予約しているボルドーに行くという手だってある。とは言っても、バスク地方も見てみたいし、マドリード、ひいては南の方も見たい。ボルドーまでのタイムリミットがあと四日だった。バルセロナにいたい気持ちは非常に大きかったが、交通の便のいいマドリードに二日泊まる方が行動の可能性は広がる。悩みに悩んだ末、私は延泊をやめ、マドリードにしようと決めた。そしてホテル探しの面倒さから解放されるように、安いホテルをネットで探した。なんと二日泊まって7000円ほどのところがある。私はそこの予約を入れた。後払いだし、もし明日、気が変わってバルセロナにい続けたくなったらやめれば良い。

こうして、長い長い1日が終わった。

7都市目:バルセロナ(5)〜ガウディとカタルーニャ広場、生命の街〜

ガウディは好きではなかった。あの、グエル公園にあるような、うねうねと曲がった土色の壁に斑点、そこに謎のトカゲ、というあの感じが苦手であった。だから、建築家ガウディの生まれた街バルセロナに行こうと決めた時も彼の作品をめぐるということはあまり考えていなかった。

それでも、サグラダファミリアに行こうと思ったのは、150年の時を経てもまだ建築中という強烈な属性に惹かれたのと、サグラダファミリアに行ってみたいと言っていた人がいたのを思い出し、その人に写真を送りたいと思っていたこと、そしてやはり実物を見てみたいと思ったことからだった。少し話はずれるが、以前、私はミケランジェロの「最後の審判」が大嫌いだった。というのも、レオナルド好きだった私にとって、あのような解剖学も何もかも無視した肉襦袢のような筋肉で覆われた人たちがいる絵は許せなかったのだ。しかし、実際にバチカン市国システィーナ礼拝堂であの絵を見た時は驚愕させられた。肉襦袢も全部計算だったようで、あの場で見ると、あの中にある人々が浮き上がって実体化しているようだった。それ以来、私はあの絵が好きになった。同じように、ガウディも実際に見たら全く違うのだろうと予期していたのである。

 

最寄りのリセウ駅からパッサイグダグラシア駅、そしてサグラダファミリア駅へ向かった。もう慣れたもんだ、と言いたいところだが、間違ったところで降りたり、ゴタゴタの連続であった。どうにかこうにかサグラダファミリア駅にたどり着き、駅から出ると、あれ、サグラダファミリアが見えないぞ、となった。それもそのはず、駅はサグラダファミリアに隣接しており、出口からパッと出ると真後ろに例の教会はあるのだ。振り向くと、驚いた。巨大なのだ。とにかく巨大な構造物がどーんとそびえ立っている。これが、サグラダファミリアか。そう、思った。

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そうはいってもこのままではよくわからないので、横断歩道を渡って向こう側にある公園から一度眺めることにした。その公園にはお土産物屋台、というよりもアイスクリームを売る屋台がたくさんあり、周りでは大道芸人が芸を披露している。やっぱり「父の家の前で商売をするな」というイエスの教えをヨーロッパの人たちが真に受けなくてよかった 。文化を作り、教会に命を与えるのは、こういう人たちなのだから。

公園に渡って、他の観光客とともにサグラダファミリアと対面してみると、その迫力に圧倒された。まるで、生えているようだ。巨大な木がズドーンと目の前に生えているようである。これが、アールヌーヴォー。なんだか木やらサラマンダーやらをくっつけた気色の悪い芸術だと思っていたが、目の前にすると全く違う。生命を失った建築物に、生命力を与えるのが、アール・ヌーヴォーだったのだ。そして、ガウディだったのだ。そして教会に宿り、教会を150年間育ててきたガウディの生命力は見ているこちらの心を満たし、ゾワゾワさせた。好きになったといえば単純だが、それだけではない、むしろ「サグラダファミリアをやっと知った」とでも言えるような感覚が湧いてきた。

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一周してみよう。とりあえず一周だ。わたしはサグラダファミリアの建物に沿って歩いた。すると面白いことに気づいた。先ほど見ていた部分は、割とトラディショナルなスタイルで作られているのに対し、少し歩くと痛々しく釘のようなものがむき出しになった部分が現れ、その後に出てくる正門は、まるで教会自体が溶け落ちて行くかのように、葉っぱと生き物、そして聖人の像で覆われている。四辺が四辺とも違う顔を持っている。どことなく、カンボジアのバイヨン遺跡のことを思い出した。ところどころ崩れ、ところどころ森林に飲み込まれ、ところどころ見事に残っている。わたしはそこでその遺跡の生命を感じた。サグラダファミリアもやはり、生きていたのだ。

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その後わたしは、少し離れたところからもう一周した。何周しても新しいものが見える。やっとガウディが称えられる意味を理解しつつあった。うまくいえないが、ガウディの作品を見ることは、呼吸する建築物を見ることなのだろう。どの建築物もきっと呼吸があって、生きている。ところが、ガウディは目に見えてその生命力が見える。そこに、ほかとの違いがあり、かつて感じた気色の悪さがあり、今感じているその素晴らしさがあるのだ。伝わらなかったら申し訳ない。だがもし伝わらなかったなら、バルセロナに行って欲しい。そうすればあなたもガウディを知ることができる。

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まだまだかかりそうです

 

わたしはその後、サグラダファミリアの前にある公園のベンチに腰掛けた。今後のことを考えるためと、休むためだった。緑は相変わらず美しく、公園には熱気があった。広場には巨大なシャボン玉製造機を持つおじさんがいて、フーッと息を吹いて巨大なシャボン玉を作っている。それを見ている子供は何度もそれを壊し、おじさんはまた作る。公園の中にはなぜか、ヴェトナム名物自転車式人力車「シクロ」のようなものが走っている。わたしの隣にはタバコをふかす「カスティーリャ人」の若者二人組がいる。それを含めて、サグラダファミリアは生きている。

しばらくすると女性がやってきて、隣の二人に話しかけた。どうやら観光関係の調査のようだ。わたしはそっとその場を離れたが、あそこに座り続けていたらもっと面白いことがあったかもしれないなとも思った。あの、トゥールーズのおばあさんとの出会いのように。

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 地図によれば、サグラダファミリアの公園からぐーっとまっすぐ歩けばカタルーニャ広場に出られるはずだった。カタルーニャ広場というと、港まで続く我らがランブラス通りの起点である。初スペイン出始めは少し緊張していたが、ここまでくればもはやそのようなことはない。町歩きもお手の物である。

わたしはもう、バルセロナという町の虜になっていた。まず面白いのは街並みである。パリやロンドン、あるいはベルリンのようなヨーロッパの街並みは、四角い建物の連続である。そこにこそ、西洋的な美しさがある。ところがバルセロナはちがう。緑と黄色と茶色を混ぜたような不思議で素朴な色の建物(わたしはなぜかこの色が好きだ。落ち着くのだ)が、ぐにゃりと脈を打っている。サグラダファミリアで感じた、あの生命力が、よく見てみれば街の至る所にある。バルセロナは街の建築それ自体が鼓動し、生きている。そしてもちろん、そこにいる人たちも、しっかりと生きていて、温かいコラソン(ハート)を持っている。そして、その温かさは、カタルーニャを思えばとんでもないほど熱くなる。わたしの滞在時は、軽いデモくらいしか見なかったが、10月の投票、その後の騒動を見るとやはり熱い心を持っている。持っているからこそ、州論も二分するわけだ。

街を歩いていた時、あることに気がついた。脈打つ街並みを作り出しているいくつかのアパートのバルコニーに、青地に「Si!」と書かれた旗と、黄色の地に朱色の線が四つ、その線の付け根には青の三角形があり、そこに白い星が描かれた旗が掲げられていたのだ。もちろん、「Si(YES)」とは、「Independència(独立)」にたいする「Si(YES)」である。そして、黄色の地に朱色の四つの線はカタルーニャの象徴である。あの時は思わず、「本当なんだ」と思ったが、今では「やはり本当だったんだ」と、思う。

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迷いつつ、黄土色の街を歩く。何年か店がある。さて夕食はどうしよう。少々足も疲れ、お腹もすいてきたところだが、ホテルのお姉さんに聞こうと思った。そのためには、八時くらいまでには戻らねば。それにしても雰囲気の良い街である。わたしの好きな作家沢木耕太郎は「バルセロナはわたしにとって老人と少年の街だった」と書いているが、確かにお年寄りが多く、そのおかげか街に風格がある。若者の姿があまり見えないのはきっと、バルセロナがスペイン第二の経済都市として繁栄しているためだろう。街自体は活気があったし、でかかった。しかし、それだけではなく、やはり温かみのようなものもあった。建物の雰囲気が醸し出す全体的な空気が気に入った。

しばらくバルセロナの街を彷徨い歩いていると、「凱旋門アルク・ダ・トゥリウンフ)」が現れた。黄土色とオレンジ色のコントラストはなぜか、テレビか何かで見たインドの凱旋門を思い出させた。インドの凱旋門は白いから、まったく思い出す要素はないのだが、どことなく東洋的なものを感じたのかもしれない。周りにある棕櫚の気のせいかもしれない。そう考えてみると、バルセロナの黄土色の建物から感じる「生命力」のようなものは、おそらく、エスニックな感じと通じているのかもしれないと思った。純ヨーロッパではない、どことなくスパイスの香りを感じてしまいそうな雰囲気だ。フランスを旅していた時には感じなかったものだ。バルセロナは、アジアから最も遠いヨーロッパということになるけれど、それでも、アジアとヨーロッパの中間の空気感があった。暑さも、植物も、街の雰囲気も、色使いもそうだった。そう、今思うと、私はあの街のエキゾチックさに心惹かれていたのかもしれない。

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そろそろ夕刻も近いので、凱旋門はくぐらずに、凱旋門前の大道芸などを横目に見ながら、横道に逸れた。その道を行けば、「カタルーニャ広場」につくという。まだ1日しかいないから当然だが、カタルーニャ広場は駅名の「Plaça de Catalunya」としてしか知らない。実物を見たことはないのでぜひ行ってみたかった。バルセロナ一帯のカタルーニャという名前を冠した広場とは全体どんなところなんだろう。

と、勇み足で歩いてみたが、バルセロナは広いらしい。なかなかたどり着かない。少々疲れていたので、私は道の途中にあった公園のベンチに腰掛けることにした。それにしてもバルセロナは「公園の街」と言ってもいいくらい公園がある。大通りの中央分離帯は遊歩道になっているし(イメージとしては鎌倉の鶴岡八幡宮前の大通りのような感じである)、街の中を占める木の数も多い。といっても、ベルリンのようなボンボンと公園が乱立している感じではなく、建物の雰囲気も合わせて、公園や並木が街と同化していると言ったほうが正確だ。先ほどから何度も恐縮だが、「生命力のある街」としか言いようのない、他に類を見ない雰囲気がある。だから、「バルセロナはどうでしたか?」と聞かれると思わず、「緑が綺麗でしたね」と言ってしまう。そして「建物が面白かったです」と付け加えるのだ。それだけ緑が街と一体化している。

私が腰を下ろしたのは、「ウルキナオナ広場」というところで、お年寄りも若者も、座ってゆっくりしている場所だった。バルセロナの良いところは、日本の街の小さな公園と違って、どの公園もしっかりと使われているというところだ。やはり、人あっての公園である。せっかく公園に座ったので、wifiは持っていたが、あえてケータイは使わず、地図を見たり、道を歩く人をぼーっと眺めたりすることにした。ポケットwifiは便利だが、時にケータイを見がちにさせてしまう。せっかく旅という「人生の修行」をしているのに、それではよくない。風を感じ、周りと打ち解けるには、ケータイは邪魔でしかないものだ。と、諭したくなるほど、使ってしまっていたのも確かであった。情報収集、ホテルの予約と何かと便利だったのだ。

しばらく静かに座っていたら、足の疲れも治ってきた。私は再び立ち上がり、公園を抜け、先ほどの道を歩いた。すると、すぐに「カタルーニャ広場」は目の前に現れた。確かにこの広場はでかい。周りを大きな建物が取り囲み、タイルで敷き詰められた謎の幾何学模様がある円形の広場には驚くほどたくさんの人たちが夕涼みをしつつ、楽しんでいる。横断歩道を渡ると、サグラダファミリアぶりに見た物売りの人がいて、怪しげな人もいて、そして子供達が鳩を追いかけて遊んでいた。もちろん、お年寄り、恋人たちも健在である。観光客、地元の人、大道芸人でひしめき合い、黒人も白人もムスリムもクリスチャンもそこにはいた。これが、カタルーニャ広場か。気分も上がってきた。楽しい場所の匂いがする。

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バルセロナで流行っているのだろうか、ここにもシャボン玉作りおじさんがいる。巨大なシャボン玉を作っては、子供に潰され、作っては潰される。そんないたちごっこの中に、平和な日々の楽しさが詰まっている。笑い声、話し声が充満したカタルーニャ広場は、大して長くいたわけではないが(一人でいてもうろうろするだけだったので)、お気に入りの場所になった。

そして、広場の雑踏を抜けると、すぐに新しい雑踏が現れる。それは、あの「ランブラス通り」である。ついにここまでやってきたわけだ。というか、帰ってきたわけだ。さて、夕食を探すとしよう。

7都市目:バルセロナ(4)〜あまえ〜

バルセロナサンツ駅へは地下鉄で一本だ。わたしが数時間前初のイベリア半島の地に足を踏み入れたところ。それなのに、なんだかバルセロナ地下鉄に慣れ始めている。使いやすいのだろう。一回2.15ユーロ。日本円だと大体250円くらいで、大体のところまで行ける。

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サンツ駅は巨大な駅で、ホームは地下鉄も含めて地下にある。チケット売り場や各種売店、無駄に近未来感のあるトイレが地上階にはある。わたしは地下鉄から地上へと向かうエスカレータに乗り、地上に出た。さて、高速鉄道AVE(アベ)のチケットカウンターはどこだろう。広い駅構内をぐるりと見回してみると、向こうの方にカウンターらしきものがある。

近づいてみると、「Hoy(今日)」と書いてある。フランスでは、整理券を取るときに今日のチケットか明日以降のチケットかを選択するコーナーがあった。もしや、これは今日のチケットだけを売っているところなのかもしれない。だが、ほかにブティック(販売所)のようなものはないし、並んでみるしかない。案の定、前の方の団体は、わたしと同様ユーレイルパスを使ってチケットを取っている。きっとなんとかなる。

列はシエスタの時間帯のせいか短く、すぐに自分の番になった。わたしは初老の係員の元へ行き、

「Holà. ¿Hablà inglés?(こんにちは、英語話しますか?)」と言った。英語でいきなり話しかけると不躾だし、スペイン語の自信もないので、思いついた最終手段である。ただ、バルセロナの街を歩くと、カタルーニャ語ばかりが目につき、スペイン語=カスティーリャ語をぶつけるのも不躾なのではないか説が濃厚でもあった。しかし、バスク語は少しやったくせに、カタルーニャ語は挨拶程度しかやらなかったので、これしきのことも質問できなかった。カタルーニャ独立運動を舐めていたわけだ。今から思うと、当然、カタルーニャ語ばかりのはずなのに。

「Un poquito.(ほんの少しだけね)」と係りのおじさんはいう。なら、お言葉に甘えよう。わたしだって、Habló inglés un poquito(英語を少しだけ話します)程度なのだから。

「明日のマドリードまでのチケットをユーレイルパスで予約したいんですが」と尋ねる。

「明日? 明日のチケットはここじゃないよ」とおじさんはいう。やはりか。

「どこでできますか?」

「あっちだ」おじさんは、自動券売機の方を指差した。あれはユーレイルパス用じゃない話じゃないかと思いつつ、わたしは機械の方に行った。どうしたものかと機会を見ていると、

「タッチすればいいんだよ」とムスリマの彼女を連れた若い男が教えてくれた。だが、問題はそこではないのだ。わたしは駄目元で、

「ユーレイルパスを使うにはどうしたらいいですか?どういうシステムになってるんですか?」と聞いて見た。お兄さんは少し困惑の表情で、首を傾げた。すまない、おにいさん。悪気はないのだ。駄目元なのだ。

「あの人に聞くといいよ」とおにいさんはわたしにこっち来いと手招きし、係員の方へと連れてきた。わたしはその後なんとかユーレイルパスの話を伝えようとしたが、いまいち伝わらない。最後には先ほどのカウンターの方を指差して、あっちだと言った。多分違う。だがわたしは笑顔で、

「Gracies!」と伝えた。彼らもにっこり笑った。いい人たちだ。結果切符が買えたかどうかは関係なく、それだけは間違いない。

その後、ツーリストインフォメーションにも言ったが、いまいちわからない。もしかすると、スペイン国鉄(renfe)ではユーレイルパスは当日券だけなのではないか。そう思い立ち、わたしは探すのをやめた。新しい国にいるのだ。そういうこともある。とりあえずホテルに引き返し、スペイン人の習慣に従って昼寝をするか、それかシャワーでも浴びようか。そういえばトゥールーズのホテルでシャワーを浴びていないので、1日体を洗っていないことになる。

わたしはサンツ駅から地下鉄で、ホテルの最寄のリセウ駅まで引き返すことにした。蒸し暑い電車の中で、そういえばホテルの部屋番号を忘れてしまったなと思い出した。まあ、ストラスブールでも忘れてしまったが、なんとかなった。きっと平気だろう。

 

つい数時間前には完全な、警戒すべき異国だったリセウ駅も、いまや親しみ深い最寄駅である。2.15ユーロというめちゃくちゃ高くてめちゃくちゃ半端な地下鉄料金にも慣れてきていた。だいたい、2ユーロ20センティモを払い、5センティモをおつりで貰えばややこしくない。すると次の時にはちょうどの料金が払える。そんな生活の知恵も学び、わたしも気分はバルセロナ人である。カタルーニャ語を話せたら良いのだが…うん、それは今度来る時だ。

オスピタル通りにあるホテルに戻ると、フロントはおばちゃんから交代して若い女性になっていた。これはまずいかもしれない。というのも、ストラスブールで部屋番号を忘れてなんとなかなったのは、フロントのお姉さんが顔を覚えていてくれたからだった。他のホテルでは鍵は持ち出してくれと言われていたので、この状況は経験していなかった。

「Hola」と挨拶をして、「すみません、番号を忘れてしまって」と伝えた。すると女性は少しだけ眉根を寄せて、階はどこですかと尋ねた。私は四階だと答え、名前を告げた。この分だとシステマティックにカタがつきそうである。

すると女性は怪訝そうな顔をした。こちらまで不安になる。これは問題が起きているようだ。私は、ただ待った。すると、「あなたは存在していない」というようなことを言われた。まるでSFである。このSF的な状況をどうしたら良いのかわからぬまま、私は、困った顔をするしかない。

すると女性は、謎の韓国人か中国人らしき名前、それも私の頭文字とおそらく合致しているのであろう名前を告げて、「これじゃないの?」と尋ねてきた。いや、それじゃない、というと、これが正式な名前で、あなたの言っているのはニックネームではないの?と尋ねてくる。なるほど。確かに香港ではそう言うことがあると聞いたことがある。だが、私は日本人だ。しかも平成生まれだ。元服をした経験もないし、和泉守や摂津守などの官職をもらった経験もない。戸籍通り名乗っている。わたしは、違う、と答えた。それから、パスポートも提示した。しばらく、チェックイン時刻などを聞かれたりしたが、どうにもこうにも状況は動かなかった。

わけがわからない、という表情をフロントの女性がした。だがそれはこちらも同じだ。いや、私が忘れたのが悪いのだが、それにしてもデータに乗っていないというのは妙だ。「番号を忘れる必要はないじゃない……」と女性はこぼした。これには「すみません」というしかなかった。

ふと、わたしは、番号は覚えていなくても、どうやって部屋に戻るかは覚えているんじゃないかと思い立ち、四階の地図を見せてくれと伝えた。地図を見たとき、驚愕した。同じような構造の廊下が左右に広がっているではないか。なんてこった。しかたないので私は角に部屋があることを強調した。だが、女性はラチがあかないと思ったのか、先ほどの謎のアジア人の名前をいい、「あなたはきっとこの人なのよ」と、超弩級の、「確かに金額の話はしましたが、価格の話はしていません」という答弁レヴェルの強引さでいった。違う、ともう一度言うと、「ならあなたはとまっていないのよ」といった。私が悪いのは明らかだ。だが、ここは踏ん張らねばならない。私は、

「でも、確かに私の部屋があって、そこに荷物も置いているんです」と必死で懇願をした。

しばらく女性はデータの入ったコンピューターや宿泊者リストをいじっていた。あの頃は必死で気付かなかったが、今思えば、あのロビーの女性はすごく誠実な人なのだろう。もしかすると、変な状況にたまたま巻き込まれてしまったバイトなのかもしれない。彼女の動揺も、大きかっただろう。その中でずっと調べてくれていた。すると、女性はこちらを向き、「わかったわ、413号室に止まってるでしょ?」といった。たぶん、それだ。私はうなづいた。女性は鍵を取り出し、私に渡した。私は、申し訳ありません、と告げ、鍵を受け取った。

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たしか、チェックインをする時点で、チェックイン情報が伝わっていなかった。それは当日に予約したからだった。たぶん、その影響だろう。にしても、これ以降は部屋番号は絶対に忘れまいと心に誓った。私は緊張状態にあったこともあって、シエスタも諦め、シャワーも諦めた。ただ部屋番号を、小さなノートに書き込み、しばらくベッドに座ってみて、次の行き先を練った。それを決めてから、部屋をあとにした。

「ありがとうございました。私の部屋でした」と伝えると、女性は申し訳なさそうに、

「ごめんなさい。ありがとう」といった。もしかすると、見落とされていたのかもしれないなと思った。だが、私が番号を忘れたのが悪いことは変わらない。私は鍵を女性の手元に返した。それから、私は外に出た。

次の目的地は、バルセロナといえば見逃せない、サグラダファミリアである。

7都市目:バルセロナ(3)〜マーレ・ノストゥルム〜

ランブラス通りには相変わらず気持ちの良い風が吹き抜けている。緑が輝き、平和そのものの雰囲気の中、時折スリがウロウロしていた。台の上に立ったピエロが風船で犬を作ったり、彫像に扮した男が道行く人にぎこちなく帽子を取って見せたりしている。楽しい。バルセロナは間違い無く楽しい。わたしはそんなことを思いながら、SEKAI NO OWARIよろしく海を目指した。だが別に仲間と会うためではない、海に会いに行くためだ……などとくだらないことを言ってみる。

「港の見えるコロンブス公園」を抜け、横断歩道を渡ると、「旧港(ポルト・ベル)」が見えてくる。多少は観光化されているようだ。いや、多分に観光化されている。だが観光化されていても港は愉快である。昔から、なんだか好きだった。山梨(内陸)に生まれ、埼玉(内陸)で育ち、ベルリン(内陸)で一年暮らし、東京多摩は国分寺(内陸)に住んでいるわたしには海は縁もゆかりもないはずだが、血筋を辿ればわたしの父方は高松、神戸、横浜、鎌倉、一瞬ニューヨークと移った海の民であるし、母方は今治、もとは宮崎のようで、海を渡る人々だったようだから、これが「血の記憶」とでも言えるものなのかもしれない。

右手には蚤の市、左手にはヨットの船着場があって、ヨットの船着場のところには長い回廊が海の方へと突き出している。その奥には、水族館などの施設なのだろうなと思しきものがたくさんある。その雰囲気はまるでお台場である。ただ、お台場ほどの埋め立てました感が無く、未だやはり、「ここは港なのだ」と思える雰囲気がある。あまりきちんと覚えていないのだが、横浜はこんな感じじゃなかったかと思う。ただ、横浜より確実に、積み重ねてきた歴史が見える。シュロの木にしたって鎌倉にあるような「海辺ならシュロの木だろ」という感じの後付感も無く、やはりここは例えようもないバルセロナの港なのだろう。

おめあての船は、「ゴロンドリーナ」という。どうしてもゴンドラとの兼ね合いで「ゴンドロリーナ」と読んでしまいがちだが、「ゴロンドリーナ」である。ガイドブックの端っこに乗っていたのだが、500円(4ユーロ)くらいで地中海へ出られるという。わたしはチケット売り場を見つけ、英語話せますかと一応断った上で、一枚買った。7ユーロだったので、どうやら値上げしたようだ。にしても安い。ちょうど7月の終わりに納涼船に乗り、2600円だったので、それを考えるとどんなに安いか。

出発まで、15分あるらしい。わたしは出発までの間、港を散歩することにした。

ウッドデッキの回廊が海に張り出ている。その左側にはヨットが大量に着けられていて、右側はゴロンドリーナ号などの発着場になっている。水族館に入る時間はないので、わたしは回廊の上のベンチに腰掛けた。やはり港はいい。心躍る気分になる。カモメが回廊の上を胸を張って歩いている。子供がそれを狙って追いかける。空気は暖かく、雰囲気も温かい。いや、空気の方は暑いくらいだ。

家族連れが多いようだった。夏だし、水族館のそばだし、そりゃそうだろう。そういえば小さい頃は夏が来るたびに江ノ島の水族館に行っていた。新江ノ島水族館が開業したての頃のことである。バルセロナは、スペインの鎌倉か。水族館もビーチもあって、歴史もある。かつて栄華を誇った大都市。カモメは柱の上に乗って、地中海を眺めている。

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15分くらいだったので、発着場に行ってみたが、二つ入り口があってよくわからない。片方は空いていて、もう片方は空いていない。とりあえず空いてる方の受付の人に

「Hola!(こんちは!)」と話しかけ、チケットを渡した。すると、

「あー、このチケットはこっちなんだよね」と英語で、隣の入り口を指差しながら答えた。そうだったか。

「Gracies!(ありがとうございます!)」と告げて、隣の入り口が開くのを待った。

徐々に家族連れやお年寄りの団体が集まって来る。気軽に船に乗れるのは良いことだ。日本も見習えばいいのに。なんとなればわたしは船に乗るということが大好きだった。何がいいのか説明はできないが、船の上で風を感じていると、いい具合に自分の中に入って行けるのだ。健全な、開かれた、豊かな形で、である。それになんにせよ、船は男のロマンである。こればっかしは誰にも否定できまい。船はまっすぐ進めば気持ちよく、大きく揺れればスリルとロマンを感じさせてくれる。

目の前には浅黒い肌のサングラスをかけた見るからにラテン系の若いお父さんのいる3人家族がいる。子供はベビーカーに乗っていて、お父さんがそれを押している。お母さんはサングラスをかけたこちらもラテン系な感じの女性だ。家族旅行だろうか、いやそれとも、ちょっとしたお出かけだろうか。3人家族に続いて、わたしは係のヒゲを蓄えたおじさんに「Hola!」と言って、チケットを差し出した。

「Gracies!」というと、

「¡Gracias, buen viaje!(ありがとうございます。良い船旅を)」と返してきた。わたしは笑顔でフェリーに乗り込んだ。フェリーの中には椅子がいくつかあったが、誰も座っていない。太陽を求めるヨーロッパの人たちは、甲板のところに座っているんだろう。わたしは甲板に出て、海が見やすいところに腰掛けた。フェリーに乗り込んでみると、目の前にはコロンブス像が見える。コロンブスに見送られている気分になるが、ものの一時間で周遊して帰ってくるのは少し情けない。船につけられたスペイン王国国旗とカタルーニャ自治州州旗が風ではためいている。風はあるが、甲板には太陽が照りつけており、ジリジリと肌を焼く。数日後、パリで友達に再会した時、「焼けたね」と言われたが、間違いなくこの地中海のカタルーニャの太陽のせいである。

船はじーっとしていて動かず、ただただ暑いばかりである。客は徐々に搭乗し、しばらくして満員になると、ピーット汽笛が鳴った。船は後ろ向きに発信し、港が少しずつ向こうへと離れていった。さらばコロンブス。数分後にまた見えん。そうこうするうちに、バルセロナの町から船は離れていった。ぶおーんという船の音ともに、船体は小刻みに揺れている。目の前の席には先ほどの3人家族がいて、子供に「ほら、コロンブスだよ」というような感じで話しかけている。談笑の声がデッキには溢れ、暖かな雰囲気が形成されていた。気温は、暖かいというより、暑いのだが。

フェリーはバルセロナの港を出て、バルセロナ世界貿易センターのあたりを通ると、船着場のようなところにやってきた。香港の船が見える。錆びついた、巨大な貨物船である。いまでも、大量輸送は船の仕事だ。遥か彼方、香港からも船がやってくる。そう思うと、この船もこのまま地中海を出て、スエズ運河を通ればアジアにまで通じているだなあと少しワクワクした。船の行き先を決めるのはただ、船長の舵取りだけなのだ。可能性はどこまでも広がっている。

フェリーの針路の先には海の色が変わっている部分があった。すぐ下に見える水が緑がかっているのに対し、ある境界線を隔てて向こう側は深いブルーになっていた。そうか、今私たちのいる場所は本物の地中海ではないのだ。この場所の、さらに先にある、あのもっと鮮やかな色の海こそが、地中海なのか。海に国境線はない、などと格好つけていうことは簡単だが、こうみると、やはり海には境界線がある。地中海と、地中海ではないものを隔てている。船長は地中海まで行ってくれるだろうか。目の前にUターンするのだろうか。目の前の3人家族は自撮りをしている。

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船は、地中海の方へとまっすぐ進んだ。やはり、ここまできたんだ、地中海まで行ってもらわねば困る。ぐーっと船は進み、青の境界線を乗り越えた。するとどうだろう。今までは穏やかだった海が突然大波を立て始め、船は大きく揺れた。「ふーっ」と誰かが歓声を上げた。船はぐらりぐらりと横に揺れる。これが地中海なのか。何故だろう、心躍る気がした。船は揺れる方が楽しい。

しばらく波に揺られながら地中海を航行したゴロンドリーナ号は、緑色の安全地帯に引き返した。海風が気持ち良い。徐々にフェリーがバルセロナの港へと戻って行くと、言葉は分からないが、おそらく、「ただいまー」みたいなことを前にいる女の子が言った。するとカメラを下げた女性がやってきて、アルバムのようなものを見せた。実は船で航海している途中、この人がそれぞれの写真を撮っていたのだ。新手の物売りかと思って少し警戒してしまったが、このタイミングで売るようだ。どうやらゴロンドリーナ号御用達のカメラマンのようで、もっとオープンに接すればよかったと思った。が、買わなかった。なにせ私はリュック一つ。アルバムは大きすぎた。

船が港に着き、わたしは他の人たちとぞろぞろと下船した。前に駿河湾のフェリーに乗ったことがあるが、その時と同じく、船に乗る前よりも地面が硬く感じられた。グイッと抵抗を感じるのだ。船を降りた足で、先ほど横目に見えた蚤の市に行くことにした。

蚤の市には、アンティークの陶器や、パイプ、古いバッジ、軍隊の帽子まで売っていた。日用品、というよりは、マニア向けのニッチな掘り出し物という感がする。もしくは、観光向けだ。軍隊関係のものが結構見受けられるが、スペインで軍のアンティークというと、フランコ独裁政権を思い起こさせられて、これはタブーになっているものではないのかとなんとも奇妙な気持ちになった。

蚤の市は大した大きさではなく、少し歩けば外に出てしまう。わたしはそれからまた地中海の方へと向かった。港の階段に腰掛けて、海を見た。青の境界線のこちら側は、実に穏やかな海だ。歴史のことを考えた。地中海は歴史の舞台だ。今の中東から始まったこのあたりの歴史の波が地中海にやってくるのは、海の貿易に優れたフェニキア人がやってきた時。のチュニジアを拠点に、フェニキア人はカルタゴという国を立て、地中海を支配した。だが、その支配も長くは続かない。イタリアを統一したローマ帝国が海に進出し、フェニキア人のカルタゴと第一〜三次ポエニ戦争が勃発。地中海はローマの海になった。「マーレ・ノストゥルム MARE NOSTRVM(我々の海)」。ローマ人はこの海をそう呼んだ。盛者必衰。ローマが滅びると、北アフリカイスラーム系海賊がこの海を支配するようになる。そのあと台頭するのは、はるばるデンマークからやってきたヴァイキング神聖ローマ帝国や、フランス王家、ジェノヴァ共和国も海を争った。そして、それからバルセロナを首都とするアラゴン連合王国アラゴン亡き後は、スペイン王国の海となり、最後には英国がこの海を握る。今はこの海が、キリスト教世界とイスラーム世界を分けている。アラブの春の後はたくさんのボートピープルが北上したという。数奇な運命にのまれ、この海ではたくさんの血が流れた。それでも海は静かだ。海がこれほどまでの歴史を見つめているのは、地中海を置いて他にないのではないか。そのようなことを思いながら、わたしは海を見た。まるで戦いの姿が、歴史が、見えるようだった。しばらくして、中国人観光客が自撮りを始めた。平和になった。この平和が続けば良い。海鳥も浮かんでいる。

しばらく海を眺めた後で、ランブラス通りに戻ることにした。コロンブス像のそばにある地下鉄ドラゴネス駅から中心駅バルセロナサンツ駅に向かおうと思ったのだ。明日、マドリードへ向かうための列車のチケットが欲しかった。

7都市目:バルセロナ(2)〜心地よい風の街〜

ホテルのロビーで地図をもらい、治安の悪そうな路地を歩いて、わたしは再びランブラス通りに出た。

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La Rambra

ラ・ランブラ。名前以外は何も知らなかった道。今Wikipediaで調べてみると、「水路」という意味らしい。そして、これは全く知らなかったことだが、ポケモンの聖地だそうだ。あいにく機種変更でポケモンGOはアンインストールしてしまっていて、モントリオールケベックシティ、台北やヴェトナムで捕えたポケモンどもはもういない。ちょっと残念。だが、ポケモンの聖地の部分には「要出典」と書かれていたので、真偽は不明である。それにしても、行ってみて一番頷けるのは、スペインの詩人ガルシア・ロルカが言ったという「終わってほしくないと願う、世界に一つだけの道」という言葉だ。これは、至言だと思う。

ランブラス通りは、カタルーニャ広場という広場から地中海へと開けた旧港までを一直線につなぐ通りだ。この前の記事でも述べたように、巨大な通りのど真ん中に、歩行者専用の通りが貫き、その周りを並木が囲んでいるという形になっている。歩行者専用通路にはキオスク(水やお菓子、雑誌、お土産を売っている売店。スペインにはよくある)が並び、時にはランブラス通り沿いのレストランがテラスを出していたり、アンティークを売る屋台があったり、絵かきや大道芸人があったりする。並木道のおかげで道は涼しく、海のおかげで乾燥しすぎていない。心地よい風に吹かれながら、この町の熱狂を感じられる道だ。まさに、ずっと歩いていられる、「終わってほしくない」道なのだ。

歩けばすぐにわかるが、明らかにスリもいる。何も持たず、単独行動で、すーっと道に入ってきては、警戒されていると気づくと外に出る。随分と見え見えなので、素人だろうが、これが何人かいる。また、絶対に買うことはないであろう商品を売る人たちもいる。フランスの閑散とした道を歩いてくると、初めはドキドキしてしまうが、そのうち、正しい気の使い方を覚えてゆくものだ。

わたしは道を歩いているうちに楽しくなって、港が見える広場までたどり着いてしまった。その広場には大きな円柱が一本そびえ立っていて、その先には海の方を指差した男の像が立っている。誰だろう、と思って地図を見てみると、「クリストバル・コロン」というらしい。ご存知、クリストファー・コロンブスのことだ。たしかに、衣装の感じは彼である。彼はイサベル女王に謁見し、スペイン王国カスティーリャ王国カタルーニャを含むアラゴン連合王国の同君連合)の支援で新大陸を見つけた。後で知ったのだが、その謁見の場は、このバルセロナにあった王宮だそうだ。‥‥にしても‥‥今コロンブス像が指差しているのは地中海。コロンブスが目指したのは真逆の大西洋なのだが……その辺はいいのだろうか。などと、いらぬツッコミを入れずにはいられない。

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あとでランブラス通りから反対側から撮った「港の見えるコロンブス広場」のコロンブス像。地中海をさしても、地中海の東半分はもうすでにカタルーニャのものなのに。

こういう、歩いているだけで楽しい道の問題点がひとつある。それはレストランを見つけようにも見つけられないことだ。なぜなら、食欲を歩きたい欲が圧倒してしまうので、いつまでたっても歩き続けちまうのだ。時刻は2時ごろ。スペインでは昼食どきに突入した時間帯だ(遅い)。

そういうこともあろうかと、一応レストランは当たりをつけていた。今までの旅の記録をお読みの方なら、わたしがいかに初めてのイベリア半島に警戒心を持っていたのかがお分かりだろう。わたしが旅の最中に入る店をガイドブックで調べるなんて、ハワイに雪が降り、サハラ砂漠で洪水が起こるような確率の出来事である。

選んだレストランは、値段も手頃で、カタルーニャ料理を現代風にアレンジしたものが食べられるという「Les Quinze Nits(レス・キンサ・ニッツ)」だった。名前が、フランス語のような、スペイン語のような、へんてこりんな綴りだが、これがカタルーニャ語だ。このレストランはランブラス通りにあるのではなく、ランブラス通りから一本入ったところにあるレイアール広場にあるらしい。というわけで、わたしは「港の見えるコロンブス広場(勝手に命名)」からランブラス通りを引き返し、レイアール広場に入ることにした。

レイアール広場は、ランブラス通りから東の方へと伸びる路地を入るとあった。広場、と言っても大きさはそこまで広くはなく、むしろ中庭に似ていた。真四角の形をしていて、四方を建物に囲まれ、石でできた地面が広がる。時折シュロの木が植えられている。そこにはパフォーマンスをする人や、物売りがいて、建物の周りにはテラス席が並んでいた。薄暗いが、活気がある。なぜか大きな建物にはフィリピンの旗が掲げられていた。そういえばフィリピンは、スペイン国王フェリペ2世に捧げられた島であり、米西戦争(スペインvsアメリカ)で奪われるまで、スペインの植民地だったはずだ。しかし、それとこれとは関係あるのだろうか。

おめあての店はすぐに見つかったが、異常に混んでいる。他にないものか、と広場の外にあるもう少し小規模な広場や、そこのさらに外にある猥雑そうな雰囲気とアーティスティックな街灯が不思議な感じを作り出している通りも見てみたが、やはりよくわからない。仕方がない。例の店に入ろう。わたしはヨーロッパの店の入り方が未だよくわかっていなかったが、とにかく体当たりで中へと向かった。するとアジア系、おそらくはフィリピン系のお兄さんがいたので、

「ウン・ペルソン」とお一人様であることを告げた。お兄さんは上へ行けというような仕草をした。混んでいるからだろう。

上の階にゆき、別の人に話しかけた。英語は話せますか(¿Habla inglés?)と尋ねたら、ちょっと待ってろという表情をし、わたし席につけた。どうやらフランスよりも英語の通じは良くないようだ。これは、カタルーニャ語を話せるようになっておくんだった、と思った。

しばらくして、これまたフィリピン系のおばさんがやってきた。このレストランはフィリピン系の人がやっているようだ。

「Korean? Japanese?」と聞かれたので、

「Japanese」と答えると、日本語のメニューが出てきた。日本語はそこまで変ではなさそうだ。

値段はピンキリのようなので、安めのものを頼もうと考えたが何が良いのだろう。周りを見回してみるとみんながみんなパエリアを食べている。パエリアというとスペイン料理の定番とされているわけだが、細かく言えば、バレンシア地方の料理だ。バレンシア地方とはバルセロナのあるカタルーニャのすぐ南にあり、1474年にカタルーニャを中心とするアラゴン連合王国と今のスペインの前身とも言えるカスティーリャ王国が合体するまではアラゴン連合王国の一部であったから、カタルーニャ語が通じる範囲でもある。ようするに、パエリアはどちらかといえばカタルーニャに近い場所の料理ということになる。

といっても、パエリアは普通大勢で食べるもので、一人用ではない。メニューを見ても、二人から承っている。しかたあるまい。それでは、となんとなくカタルーニャ語っぽいものが描かれているもの、しかも魚介を使ったものを頼まんと考え、白身魚のカネロネスなるものを頼んだ。飲み物は、単純な性格なので「バルセロナビール」である。

いざ出てきてみると、カネロネスとはパスタの一種「カネローニ」のことだった。筒状のパスタが白身魚を包み込んでいる。これはイタリア料理だろうか、と思いながら食べてみると、思いの外うまい。クリーミーなソースがカネロネスにからみ、ホッとする味だ。イタリア料理なのかもしれないが、地中海でつながっている。そもそもシチリアナポリはもともとアラゴン王国である。うまけりゃいい。(追記:カタルーニャ料理でも使うようで、他のところで同じようなものを見た。それには「カネロネス・カタラン」というようなことが書いてあったと思う。そして、カネロネスはカスティーリャ語スペイン語)であった。カタルーニャ語では「カネロンス」らしい)

バルセロナビールのほうはというと衝撃的な味だった。これは軽いワインなんじゃないか、と思わせるほどにフルーティな味わいなのだ。いや、今の表現は不適切かもしれない。ワインというよりもむしろ、「白ぶどうジュース(マスカットジュース)」と言っても過言ではないくらいフルーティだった。日本、台湾、ヴェトナム、カンボジア、タイ、カナダ、ドイツの地ビールを現地で飲み、日本でもトルコ、インド、ラオスミャンマーといろいろ試してきたが、こんなのは初めてだった。スカッとしていて、フルーツジュースのような味わい。また飲んでみたいが、日本はおろか、スペイン、フランスではついぞ見かけなかった。

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食事を堪能し、会計をすませると、レイアール広場に出た。さあ、次はどうしよう。次は、実はもう計画があった。憧れの地中海クルーズ(1000円以下)と行こう。地中海までは、ランブラス通りを再び歩き、コロンブスのいる円柱を超えてゆけばいい。実は今までアドリア海は見たことがあっても、地中海は見たことがなかった。これは古代ローマファンとしては恥ずかしい。

(つづく)

7都市目:バルセロナ(1)〜ピレネーを越えてゆけ〜

トゥールーズのやばいホテルを出たのは七時十五分くらいだったろうか。オーナーは部屋で寝ていたが、声をかけて鍵を返すと笑顔で、「Au revoir!(さようなら)」と言ってくれた。もしかするとそこまで悪いホテルはじゃあないのかもしれない。

駅の方向へと運河のような細い川沿いに歩き、トゥールーズに入った時初めて使った道に出た。これでフランスの旅も一旦終わり。少し感慨深い。駅に着いたのは七時四十分くらいだったが、朝食を買いたいので、わたしは朝食をチェーン店のパン屋ポールで調達した。

これが間違いだった。並んでおり、買えたのは八時くらいだったのだ。列車の時間はなんと八時六分。わたしはチケットに刻印をし、エスプレッソとサンドイッチを手に駅構内を走った。途中でエスプレッソがこぼれたのでゴミ箱に捨て、なんとかホームに着いたときは八時五分。これはもうおしまいだ、と思いながら、何とかして車両に入った。危なかった、と思って時計を見ると八時六分をすぎている。これはどういうことだ?と思ったら、車内放送で、

「この列車は遅れて発車いたします」という。おかげで助かったわけだが、いきなりスペインの洗礼を受けたという感じだ。

今回は一等席だった。それというのも、二等席が満員だったらしく、10ユーロ払えば一等車の予約ができると言われ、そうしたからだった。これもトゥールーズでの節約生活の一つの理由だった。一等車は静かで、アメリカ人の老夫婦のグループがいる。スペイン語も聞こえてくるが、基本的には静かである。子供が泣くわ、みんな喋るわだった二等車とは大きな違いだ。間違いない、わたしは二等車の方が好きだ。

二十分ほどだっただろうか。TGVは動き始めた。ピレネーを直接超えるのではなく、もう一度カルカソンヌやベジエなどのオクシタニアの街方へと引き返し、地中海のそばまで戻って南下して、山の横にあるペルピニャンを通って、山脈を超える。そして、晴れてカタルーニャに入るわけだ。

バルセロナは近年の観光客集中で宿が足りていないらしい。宿探しが大変そうだ。だからわたしは、列車に乗りながら、ネットでホテルを予約することにした。調べてみると案の定立地の良いところは満員が多いが、一箇所、手頃な値段でかつ、メインストリートだというランブラス通りからすぐ入ったところにあるホテルを見つけた。あまり治安の良い界隈ではないようだが、ランブラス通りよりなのでトゥールーズの例のホテルよりはマシなはずだ。調べてみると学生寮を貸し出しているという。それなら安心もできる。わたしはネット上でホテルを予約した。ラクな時代になったものである。

電車は地中海沿いの場所まで引き返し、南下を開始した。窓の外には幻想的な水の景色が広がる。地中海か、湖か。それは実はわからない。それからフランス側のカタルーニャの中心地(カタルーニャ語をしゃべっているらしい。恐るべし、陸続き)のペルピニャンを超えて、いよいよピレネー山脈を超える。山の横を通るはいえ、やはり山がちな光景だ。しばらくしてトンネルに入った。

国境のトンネルを越えると、そこはイベリア半島だった。とは言っても見た目はよくわからない。緑色の山に囲まれた、牧歌的な風景が広がるだけだ。ポンポーンという電子音と共に車内アナウンスがなった。

「Proxima estacion, Figueres」

あ。フランス語じゃない。まぎれもないスペイン語だ。先ほどまではフランス語、スペイン語、英語の順だったものが、スペイン語、フランス語、英語の順に変化した。スペインに入ったのである。いや、スペインに入ったというと問題発言になりかねない。少なくともわたしは今、イベリア半島カタルーニャに入ったのだ。

 

カタルーニャ入りした日にはそんなこと考えもしなかったが、一ヶ月半後の2017年10月1日、カタルーニャ自治州で「独立を問う国民投票」が行われた。カタルーニャ自治州は、プッチダモン自治州首相の下、特に最近独立運動を激化させている。独自の大統領を持ち、独自の議会を持つ自治州であるカタルーニャがそこまでスペイン王国からの独立を望むのはなぜか。一つは経済的な要因であり、それは観光業などで潤うカタルーニャの税金が財政難のマドリード政府の方へと取られて行く現状に腹を立てたから、という。だがもう一つは、根深い反マドリード感情がある。彼らはスペイン語ことカスティーリャ語とは異なるカタルーニャ語を話し、歴史もマドリードを中心とする現スペイン王国とは異なるものを歩んできた。にもかかわらず併合された過去を持つカタルーニャはある種不満を持って当然なのである。

カタルーニャ語は、カスティーリャ語スペイン語)やポルトガル語などの「イベリア・ロマンス語」と違い、むしろフランス語、もっと言えば南仏でかつて話されていたオック語と系統を同じくしている。分かりやすい例で言えば、「〜ください」という時に(英語で言えばPleaseに当たる言葉)、カスティーリャ語では¡Por favor!(ポルファボル!)といい、ポルトガル語ではPor favor!(プルファヴォール)という。しかし、カタルーニャ語では、Si us plau!(スィスプラゥ!)で、むしろフランス語のS'il vous plaît(シルヴプレ)に似ている。ちなみにオック語はSe vos plai(セボスプライ)だそうだ。

どうして、ピレネーの向こう側なのに、こんなことが起こるのか。それは歴史を見れば一目瞭然である。

時は中世。スペインの南半分は北アフリカからやってきたイスラーム王朝ウマイヤ朝が治めていた。ウマイヤ朝の軍隊は一度ピレネー山脈を超えて攻め込んだこともあったが、フランク王国はこれを撃退、ピレネーの南にイスラーム勢力を封じ込めた(いわゆる「トゥール・ポワティエ間の戦い」である)。ウマイヤ朝の侵攻の前、スペインは西ゴート王国が支配していたが、ウマイヤ朝の猛攻の前に国家は崩壊し、北部アストゥリアス地方でゲリラ戦を展開しながら抵抗したゴート貴族のペラーヨが作ったアストゥリアス王国が残るのみであった。フランク王国はそんなスペイン北部、それもアストゥリアス王国のある北西部とは反対側の北東部に進出したのである。

フランク王はスペイン北部を「スペイン辺境伯領」とし、そこに幾人かの「伯爵(グラーフ)」を置いた。そのうちの一人がバルセロナを治めるバルセロナ伯爵だった。歴代のバルセロナ伯爵は徐々に勢力を拡大、いつしかスペイン辺境伯領のほぼ全土を治めるようになる。さらにイスラーム勢力との戦いで武功を挙げ、名誉の死を遂げるものもいた。そのうちの一人は、駆けつけたフランク王に看取られ、その時王は4本の指を血に浸し、バルセロナ伯爵の持っていた金色の盾に縦線を描き、その武功をたたえたという。金地に赤の4本線は、今でもバルセロナ、ひいてはカタルーニャのシンボルだ。

だが、フランク王国の時代は長く続かない。フランク王国は相続の関係上三つに分かれ、スペイン辺境伯領は西フランク王国(のちのフランス王国)の配下となるが、代々国王を輩出してきたカロリング家が断絶してしまうのだ。カペー家のユーグ・カペーが国王に選出されると、予てからフランクの支配下にあり続けることに不満を持っていたバルセロナ伯爵は、ユーグ・カペーの王位を承認せず、事実上独立を果たす。当時のイベリア半島は群雄割拠の時代である。南のイスラーム王朝があるのはもちろん、アストゥリアス王国は首都をレオンに移し、レオン王国と名乗りイベリア半島北西を中心に勢力を拡大していた。また、ピレネー山脈西部には、この土地にローマ時代から住み、独自の言語、独自の文化を持つバスク人たちの国であるナバラ王国があった。

1004年、ナバラ王国でサンチョ3世が即位。彼はナバラ王国と婚姻関係にある諸国を次々と併合。バルセロナ伯領も例外ではなく、臣下にくだらざるをえなくなる。サンチョ3世は、1034年にはレオン王国を武力的に併合、レオン王となるや否や、「イスパニア皇帝」を名乗り、スペイン北部を統一して見せた。が、翌年1035年、サンチョは急死、イベリアは戦国の世に逆戻りする。その中で新たに生まれたのがスペイン中部を拠点とするアラゴン王国だった。さらに、レオン王国内部では有力貴族カスティーリャ伯爵が台頭、ついにはレオン王国を軍門に降らせ、レオン王国全土を乗っ取り、カスティーリャ王国が誕生する。この情勢の変化の中で、バルセロナ伯領はアラゴン王国との友好を図って行くことになる。そして1137年、時のアラゴン国王レミロ2世には男子が生まれず、娘ペトロニーナが一人娘だった。レミロは俗世から離れ、聖職者になることを望んでいたが、当時は強大な軍事力を持つカスティーリャ王国が勢力を拡大する時代であり、この状況で娘に王位を継がせるのは危険と判断した。そこでレミロはバルセロナ伯爵であるラモン・バランゲー4世と娘を結婚させることを考えた。そして、それぞれの国政は変えぬまま合同する「同君連合」を築こうというのだ。バルセロナ伯爵もこれをのみ、ここにアラゴン連合王国が誕生する。

その後アラゴン連合王国はメキメキ力を伸ばして行く。

ペラ2世は軍事に秀で、イスラーム勢力との戦いに身を投じ、ローマ教皇インノケンティウス3世と同盟した。その戦いの中でも有名なラス・ナバス・デ・トロサの戦いでは当時イベリアを支配していたムワッヒド朝に大打撃を与えることに成功し、カタルーニャの南、バレンシア地方の一部を獲得した。一方で親族であったトゥールーズ伯爵レーモン6世(覚えておられるだろうか?)に味方し、アルビジョア十字軍に対抗、一時優勢となったが、その戦いの中でペラ2世自身が戦死してしまう。次のジャウマ1世は教皇と和解、さらにマヨルカ島などを含む島々の王位を手にし、ペラ2世が始めたバレンシア制服の完成へと導いた。このころから、アラゴン連合王国は海の覇者となってゆく。それはバルセロナという良港をもっているためでもあり、さらにイベリア半島カスティーリャ王国が勢力を固めていたこともあった。

その次のペラ3世の時、イタリアの南、シチリア半島で事件が起こる。かつてシチリアはドイツを中心とする神聖ローマ帝国皇帝の治める土地だった。イスラーム文化やオリエントの文化とヨーロッパ文化の交差点であったシチリア島は開かれた空気を持っており、シチリア出身の皇帝フェデリコ2世は教皇庁と対立、その後の代でもその対立は続いた。教皇は自分の息のかかった人物をシチリア島の王位につけようと画策し、フランス王家のシャルル・ダンジューに白羽の矢を立てた。だがこのシャルル、かなりの野心家であった。王位につくや否や、支配層をフランス人に限定して強権的な支配を行い、密かに東のキリスト教の大国ビザンツ帝国の併合を目論む。これに恐れをなしたビザンツ帝国は、地中海の新興国アラゴン連合王国に目をつけた。ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスはペラ3世と同盟し、シチリア島でフランス人支配に反発した民衆が暴動を起こすと突如シチリア島を攻撃し、シチリア島からシャルルを追い出し、ペラ3世はシチリア王位を手に入れた。その後、アラゴン連合王国はシャルルの子孫が治めていたナポリまでも手にし、イベリア半島東部、地中海の島々、シチリア島イタリア半島南部と、西地中海の覇者に躍り出る。

一方、イベリア半島では「レコンキスタ(国土回復運動)」がカスティーリャ王国の下進行中であった。カスティーリャから独立したポルトガル王国なども共に、南を支配するイスラーム王朝と対決し、徐々に徐々に南へ、南へと領土を広げていた。特にペラ2世が活躍したラス・ナバス・デ・トロサの戦い以降はものすごいスピードで各地のイスラーム王国(タイファ)が降伏、1400年代後半には南の端にあるグラナダ王国ただ一つを残すのみとなっていた。

ここにきてカスティーリャ王国アラゴン連合王国は、それぞれの制度を残した同君連合という形で国を統合することにする。カスティーリャのイサベル女王とアラゴンのフェラン2世が結婚し、二人がこのスペインの王となった。そして1492年、ついにグラナダ王国が降伏、ついにレコンキスタが完了した。その後、両王国はそれぞれの制度を尊重しつつ、共存してゆく。イサベルとフェランの死後、一人娘フアナの夫でオーストリアハプスブルク家出身のフィリップが王位につくも、急死。精神錯乱となったフアナの摂政となった息子のカルロスがスペイン王位についた。このカルロスはカール5世としてその後ドイツやオーストリアを治める神聖ローマ帝国皇帝としても即位、さらにさらにコロンブスによる新大陸発見以降のめまぐるしい征服活動により、スペインは中南米、スペイン、ポルトガル、イタリア南部、地中海の島、オーストリア、ドイツ、ベネルクスを支配することになった。次の代のフェリペ2世の時代には、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるようになる。この時代も、カタルーニャは自国の制度を守り、カタルーニャ語で政治を行っていた。

ことが変わるのは、1700年にスペイン王カルロス2世が死去した時だった。子供のいないカルロスは次の王位をフランス王家ブルボン家のフィリップに譲ると宣言して死去。これに対してハプスブルク家のカールが反発した。

この一件を裏で手を引いていたのはブルボン朝フランス第三代国王ルイ14世である。彼は太陽王と呼ばれ、フランス王国の黄金期を築き上げた国王だった。国内では王自らが政治を行う親政を敷き、所領を持つ貴族たちがそれぞれの領土を経営する封建制度ではなく、国王に忠誠を誓う官僚が中央で政治を行い、各地を支配する体制を築いた。軍隊に来ても、国王の軍が全国を支配していた。ルイ14世は国内の統制を行うと、国外の侵略を目指すようになる。その中で神聖ローマ帝国領土だったアルザス地方の割譲などを行わせるが、スペイン王国にも目をつけるようになる。カルロス2世に次王をブルボン家のフィリップにさせたのも、その戦略のうちだった。

さて、この事態にハプスブルク家カール大公以外に危機感を感じる人たちがいた。それは、他でもないアラゴン連合王国であり、カタルーニャだった。もし、スペイン王国ブルボン家のものになれば、フランス同様貴族の特権は奪われ、国は一つにされる。今までは共同統治という形で権利が守られてきた誇り高いアラゴン連合王国ブルボン朝の下、滅ぼされてしまうのではないか。ハプスブルク家ブルボン家が戦争状態に入ると、同じ危機感を覚えるポルトガルがフランスの拡大に危機感を覚えるイギリスと共にハプスブルク側につき、1705年にカール大公を奉じてバルセロナを占領。カタルーニャはこれを機にブルボン朝に反旗を翻し、ハプスブルク側についた。この戦いはヨーロッパ全土、さらにはインドや北アメリカまで波及してゆく。世に言うスペイン継承戦争である。

カール大公はバルセロナを本拠地とし、バルセロナは最後まで街を守りきった。さらに一度はマドリードを落としている。だが国際情勢は厳しかった。ヨーロッパではフランス優位であり、カール大公が皇帝となるとイギリスはハプスブルク家の拡大に危機感をみせて和平を探るようになる。そして1714年にユトレヒト条約が結ばれるとこの戦争は「終結」した。ただ一つ、カタルーニャを除いては。バルセロナバレンシアなどを失いながらもなんとか持ちこたえ続け、ブルボン朝スペインは包囲を解かない。しびれを切らしたフランス王国は援軍を派遣。その圧倒的な軍事力の前に、ついに1714年9月11日、バルセロナは陥落した。スペイン王国カタルーニャに対して、公的な場でのカタルーニャ語の禁止、自治権の停止を含む「新組織王令」を突きつけ、カタルーニャはここに独立を失った。9月11日は、屈辱の日として、カタルーニャの人々の心に刻まれている。

それからは苦難の時代だった。カタルーニャナバラバスク)とともに経済的な成功を収め、自治権を要求。だがブルボン朝カタルーニャ自治権を認めず、時代は18世紀終わりのフランス革命の時代へとうつってゆく。旧体制との戦いを繰り広げたナポレオンは、ブルボン家が治るスペインとも交戦し、ついに占領する。革命後の共和国派が地方言語を迫害したのに対し、フランスのナポレオンと戦って、その中でスペイン流の改革を志したスペインの共和国派はカタルーニャなどと行動を共にし、中央集権から地方分権を目指した。結局ブルボン朝がスペインでは返り咲き、その夢は潰える。だが、1868年、時の女王イサベル2世が追放の憂き目に会い、イタリアから呼び寄せたアマデオ王が自国に戻ると共和制が発足。カタルーニャも自治州となり発言権を手に入れた。が、さらなる力を求めようとした一部カタルーニャなど自治州の人々の反乱で共和国は倒れ、王政に戻る。その後はまたカタルーニャ自治権は無くなったが、自治権を要求するための地方政党リーガを結成、カタルーニャ語は禁止されていたものの、サッカースタジアム、カンプ・ノウのなかでカタルーニャ語は守り抜いた。バルセロナサッカーの熱気は、失われた祖国への思いでもあるのだ。そして1930年に第2共和制が発足すると、再び自治権を要求した。左派政権はこれを認めたが、右派からは大きな不評を買うことになる。この左派と右派の軋轢はついに内戦となり、スペイン内戦が起こる。

1939年にスペイン全土を右派軍事政権であるフランコ政権が制圧すると、「Si ères español, habla español(スペイン人ならスペイン語を話せ)」のモットーの下、カタルーニャ語を含む地域語は激しく迫害された。その迫害の規模はかつてないものであった。学校でカタルーニャ語を使用しようものなら、懲罰を食らったという。かつてナバラ王国が栄えたバスク地方では、この動きに抵抗し、スペインからの分離独立を求める過激派勢力ETAが結成され、中央政府へのテロも行われた。その一方、フランコ政権は第二次世界大戦ナチスが倒れるや、アメリカに接近。観光国として発展を遂げてゆく。

1975年フランコが死んだ。フランコの遺言通りブルボン朝のフアンカルロスが王位についた。フアンカルロス王はなんと民主化を宣言。スペインは、カタルーニャバスクなどを「自治州」とし、大きな自治権を与える「自治州国家」となる。カタルーニャ語の学校教育も晴れて認められた。バルセロナを中心とするカタルーニャ自治州の経済規模は首都マドリードと張り合えるほどであった。新たなるスタートを切ったスペイン王国だったが、2000年代に入ると、リーマンショックギリシア危機のあおりを受けて失業率が増加、財政難に陥った。これに不満を持ったのがカタルーニャだった。独自の経済を持ち、さらに近年、19世紀後半から20世紀にかけて活躍したカタルーニャ出身の建築家ガウディ人気、サッカーチームのバルサ人気などで勢いづいたバルセロナ観光ブームが巻き起こり、富を得たカタルーニャが、なぜか、かつて自分達を無理やり支配し、しかも歴史的に見れば全く違う国だった、財政難にあえぐスペイン王国に税金を払わねばならないのか! そんな中、カタルーニャ自治州の政権は独立派が担うようになり、ついに2017年、自治州首相プッチダモンが独立を問う国民投票を決行したというわけだ。結果はご存知の通り、中央政府による閉鎖などもあったこともあり投票率は40パーセントほどで、賛成派が9割を超えている。カタルーニャ中央政府との交渉のために二ヶ月間独立宣言を凍結し(凍結ということは解凍もできるということだろう)ているが、政府は交渉に応じていない。

さて、600年代から現在まで駆け抜けてしまったので歴史パートがかなり長くなってしまったが、これはカタルーニャという土地を知って欲しかったからだ。カタルーニャフランク王国の家臣からスタートし、一度は地中海の半分を支配した。それがスペイン継承戦争で併合され、フランコ政権では自分の言葉を禁止された。現在の独立運動や彼らの誇りはそんな歴史に裏打ちされている。だからこそ、歴史を知らねばならない。歴史を不完全な知識ながら書かねば、バルセロナの旅を書いたことにもできなかった。

 

さて、バルセロナ・サンツ駅に到着して驚いたのは、フランスのように地上に普通に到着するのではなく、地下に到着することである。地下にあることもあり、プラットフォームは異常に暑い。表示を見ると、一番目立つところにあるのはやはり、カタルーニャ語だった。ひとまず地上を目指す。

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地上に出ると、駅がかなり巨大であるのに気づく。フランスの駅の規模というのは、ずいぶん小さかったみたいだ。わたしは「M(地下鉄)」のマークを見つけ、降りて行った。ホテルはメインストリートのランブラス通りにある「リセウ駅」のすぐそばにとったので、地下鉄で向かうことにしたのだ。初めての「スペイン」で、スリに少しおびえながらチケットを買い、足早に地下鉄のホームへと向かった。

地下鉄のホームは蒸し暑い。久しぶりの地下鉄だ。パリなどとは違って、なぜか駅の線路の向こう側にモニターがあって、「改札はちゃんと出入りしましょう」という動画を流している。電車がやってきたので、リュックを体の前に持ってきて乗りこんだ。放送もやっぱり、「カタルーニャ語スペイン語、英語」の順番だ。ここは、スペインではなく、カタルーニャなのだなと思った。広告も何もかも、カタルーニャ語しか見ない。

リセウ駅までは、サンツから青色の線に乗って、U字状の路線を行く。明らかに遠回りな気がするが、仕方ない。違う雰囲気、違う言語。ついにイベリア半島か、とわたしは少しテンションを上げた。

リセウ駅から地上に出ると、そこはすぐにランブラス通りだ。事前情報も何もなく通りに出てみると、広い通りの真ん中に、歩行者用の道があり、それの周りには並木がある。暑いが、海風のせいか湿気もあり、風が気持ち良い。ランブラス通りの木々はまるで新緑のような、明るい緑色をしていた……とはいいつつも、スリに気をつけつつ、私はおめあてのホテルのある通りに入った。

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その通りの前には客引きがおり、これはまずいところに来ちまったかなと思ったが、工事現場用の足場で覆われた学生寮は、外見はともかく中は清潔そうである。

「Hola!(こんにちは)」と声をかけてみたら、通じた。当たり前だが、Bonjourではない新鮮さをかみしめる。といっても、これ以上は無理なので、英語で予約してあると伝えた。フロントのおばさんは不思議そうな顔をしている。どうやら、直前に予約したために、紙には印刷されていないようなのだ。パソコンからわたしのデータを見つけたおばさんは鍵を出し、外に出るときは鍵を返してくれと伝えた。

「Gracias!(ありがとうございます)」と伝えて、わたしはエレベーターで四階にある部屋へ向かった。一応カタルーニャ語のつもりなのだが、この辺はカスティーリャ語と同じなので困る。

部屋は適度に狭く、ちょうどよかった。黒を基調としたシックな部屋で、きちんとテレビもある。テレビはその国の文化を見る窓。ここに来て見られてよかった。

顔を洗い、レストランの当たりをつけ、わたしは外に出ることにした。

(続く)

6都市目:トゥールーズ(3)〜バラ色の意味〜

エスキロル広場をまっすぐ歩くと、トゥールーズに流れるガロンヌ川にたどり着く。川面は日光を受けて輝き、川の向こう岸にはドームのある建物と観覧車が見える。暑さのせいか少しぼやけていて、太陽のせいで真っ暗な影のように見える。

わたしは新しい街に行くと、川を見たくなる。エジプトはナイル川の賜物で、文明は川から始まる。その街に流れる川とは、その街を作り上げたもの。だから川を見つめることが、街を見つめることでもある……などと、格好つけたことを言ってみても、意味がない。わたしが川に行きたいのは、単純に気持ちが良いからだ。川の風、流れる水。街中ではわからない世界の広さを川が教えてくれる。そんな広さを感じながら川辺を歩くのは気持ちが良い。細い川でも水の流れが良い。それを見つめていると、何か答えを与えてくれるような気がする。

川辺の道路から、降り坂を下りて行くと、公園のようになっており、老若男女が川辺の穏やかな時間を楽しんでいる。芝生にはたくさんの人が寝っ転がっている。わたしもやってみたくなって、芝生のところまで行くと、空いている場所に寝っ転がってみた。が、太陽が眩しすぎる。ホテルを急いで出たため、サングラスを置いてきてしまった。仕方がないのでわたしは起き上がって、芝生に腰掛けた態勢でいることにした。

「Bateau! Bateau!(船だー、船だよー!)」

どこからか男の子の声がする。川には観光船がいて、たくさんの観光客を乗せていた。川幅は広く、船が二隻は通れそうだ。あの船はどこまで行くんだろう。船は、あの小さい子にとっても、ロマンの塊なのだろうか。船は男のロマンだ。

わたしはふとバンコクのことを思い出した。かつてバンコクに行った時、友達がダウンして、わたし一人で歩いていたことがある。あの時わたしは川の船着場を見つけ、舟に乗った。どこに行くのかもわからない舟だった。時間はたっぷりある、どこにでも行けばいい。きっとなんとかなるだろう。そう踏んでいた。しかし、行き先は対岸にあるワットアルンという寺院だった。少しがっかりしたが、川を渡るときは気持ちがよく、寺院も良い雰囲気だった。

また乗ろうか。だが、今は倹約中。節約が、何か成長を促してくれるんじゃないかと貧乏旅行をしてみたが、思い返すと、節約が明らかに制約にもなっている。わたしは乗らなかった。ただ、川を見つめて時間を潰した。

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夏の川辺は笑顔が絶えない。わたしは立ち上がり、ひとり坂を登って街へと戻った。時間はまだまだある。わたしはもう一度ローマ通りの方へと向かった。

相変わらず賑わっている。入るべき店があるわけでもないので、ストリートミュージシャンの音楽を聴いたり、路地に入ってみたりした。路地裏には、何やら博物館があった。だが、閉館時間が近い。入るのはやめて、道という名の博物館にい続けることにした。

五時くらいになって、もう一度ホテルに戻ることにした。パソコンが無事かどうか確認しておきたかったからだ。エスキロル広場を川の反対方向に、アルザスロレーヌ通りという歩行者天国風の通りを進んだ。レンガ色のオーギュスタン美術館が道の隣にはある。道の真ん中には平たい円柱型のベンチがあり、並木がある。ローマ通りのように、ここもトゥールーズ人の生活の中心なのだろう。途中でベンチに座ったりしながら街を歩くと、ゆったりとしたトゥールーズの空気感を感じた。するとキャピトル広場が目の前に現れた。

先ほどは気づかなかったが、キャピトル広場の地面にはオクシタン十字が描かれている。こうやって街を歩くとわかる。ここは間違いなくパリとは違う場所なのだと。ここはトゥールーズオクシタニアの首都である。

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オクシタン十字架。カタリ派結集の象徴であり、ラングドックの紋章。https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Creu_occitana_amb_fons.svgより。

なんとなくまだ歩き足りない気がして違う道に入ってみた。しばらく歩くと小規模な広場がある。それを超えると、再び川辺についた。対岸への橋に近い場所で、眼下に先ほどまでいた岸が見える。上から見ると、川はより輝いていた。男女がゆっくりと散歩し、街が生きている。そろそろ、ホテルに戻ってもいいなと思った。

キャピトル広場を通り、ウィルソン広場まで引き返し、ジャンジョレス大通りをまっすぐ進んで、わたしは例のホテルに戻った。相変わらずホテルにオーナーの姿はない。喫煙席のような臭いの二階へ上り、真っ暗な廊下から部屋に入った。相変わらず臭いが、何もとられたいなさそうだ。案外悪くないホテルかもしれない。

ベットに座ったが、ベッドもかなり臭く、仮眠しようという気分にはならない。かと言って何もすることもないので、明日のバルセロナの情報収集などをして時間を潰した。

 

七時くらいになって、わたしは外に出ることにした。フランスのレストランが開く時間だ。そろそろカスレを食いに行こう。

外はまだ明るい。フランスの夏の日没は九時だ。あまり治安が良くなさそうなので、九時にホテルに戻ってこれれば良い。そう思いながら、わたしはエスキロル広場を目指した。

この時間ともなると、レストランPère Léonも混んでいる。相変わらずどうしたらいいのかわからないので、店内に入り、一人ですと告げたが、ウェイターが来る様子もないので、テラス席に勝手に座った。中に何人か人がいたはずなのに、テラス席のあたりは一人のウェイターが回している。隣の席の赤ちゃんが皿を割ったり、新規の客の応対をしたり、それに応対するだけでも目が回りそうだ。わたしのところにはなかなか来ない。どうしたら良いかわからずずっとウェイターを見ていると、やっと気づいたようで、メニューを持ってきた。

カスレは20ユーロ。仕方ない。このための倹約だ。昨日までならワインでも頼んだろうが、今日のわたしは節約の鬼。水で結構だ。また大変な時間をかけてウェイターを呼び出し、注文を伝えた。はじめはぶっきらぼうだったが、単純に忙しいのだろう。笑顔を見せたら自然な笑顔で応対してくれた。

まるで最後の晩餐のイエスのようにパンと水だけでアペロしながら、目の前にあるバス停の人間模様を見ていた。先ほど話しかけてきた青い服の女性は、別の青い服の人と話している。市営のボランティアか何かなんだろう。ベンチには老人が座っていて、隣に座っているノースリーブの女性に少しずつにじり寄っている。日本じゃ犯罪である。

「ボナペティ(召し上がれ)」とウェイターがカスレを持ってきた。カスレというのは、カッソールという土鍋で焼き上げるからカスレらしい。だからわたしのオーダーしたものも、土鍋に入っている。一人分とは思えない量の素朴な色のカスレを、わざわざ取り皿に入れて食べる。一口食べて見て驚いた。ものすごくうまい。ちょっと塩辛いなと思うくらいの塩加減、そしてよく聞いた鴨肉の出汁。白インゲン豆はホクホクで、鴨のコンフィはほろほろで、オクシタニアでしか作られていないソーセージは濃厚、スプーンが止まらない。

と、調子に乗って食べていると、3分の2くらい食ったところで満腹になる。くるしいが、アジア人と思って舐められちゃ困る。それにうまいのである。この辺でしか作られていないという特別なソーセージも、鴨肉のコンフィも、だし汁も。わたしは懸命に食べきった。

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「デザートはいかがですか?」と店員が尋ねてきた。

「いえ、もうお腹いっぱいなので、コーヒーをください」とわたしは伝えた。たいていのコーヒーにはクッキーが付いており、デザートということにもできるし、コーヒーを頼むのは常套手段だ。だが今回は、本気でお腹がいっぱいだった。

しかし不思議なもので、エスプレッソコーヒーを飲むとパンパンの腹も落ち着きを取り戻す。わたしはクッキーもちゃっかり食べて、大満足のうちにトゥールーズの1日を終えた。最近面倒でチップというものを払っていなかったが(安心してほしい、ヨーロッパでは平気なのだ)、今回ばかしは少し払って、店を出た。

帰りがけにキャピトル広場に行くと、日はもう暮れかけていて、いわゆる「マジックアワー」の時間帯であった。夜の紺と夕暮れの赤が混ざり合い、空は薄い紫色に染まっている。わたしは日が落ちる前にホテルに着きたかったので少し焦っていたが、広場を見たときハッとした。薄紫色の空とトゥールーズのレンガが合わさると、確かに「バラ色」になっていたのである。トゥールーズは「バラ色の街」と呼ばれる。今になって、バラ色の意味がわかった。

街にはそれぞれ、最も美しくなる瞬間があると思う。それは一昨年、去年くらいからの持論であり、例えば、ローマは夜、台北も夜、バンコクは日の落ち始めた頃のオレンジ色の夕暮れ、ヴェトナムの街は朝になる。それはその街が最も美しく、最もうまくその個性を発揮しているときだ。トゥールーズは夕暮れだろう。バンコクとは違って薄い紫色の夕暮れだ。

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さて、ホテルに戻ると、太陽は落ちようとしていた。案の定何事もなく臭い部屋に入り、寝ることにした。シャワーもどこにあるのかよくわからないし、1日ぐらいシャワーを浴びなくても生きて行けるだろうと踏んで、すぐに寝ることに決めた。歯を磨き、なぜだか蛇口から出てくる七、八十度はありそうな熱湯(おそらく別室のシャワーと連動している。ストラスブールでも自分の部屋のシャワーと連動して、大変だった)でなんとか口をゆすぎ、顔はウェットティッシュで拭うと、貴重品袋から明日の列車のチケットを取り出した。

「TOULOUSE MATABIAU→BARCELONA SANTZ」

ついに、ピレネー山脈を超えるのだ。ついに、初めての、そしてわたしの家族の中でも初の「スペイン」入りをするのだ。胸を躍らせながら、わたしはタバコ臭いベッドに入り、眠った。

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6都市目:トゥールーズ(2)〜カスレクエストと理系のロマン〜

できるだけ先ほどのホームレスのいるところを避けながら、わたしは街の中心部へと戻った。何だか暑い。泊まる場所があんな感じだと少し元気もなくなるもののようだ。

三時にランチ場所が空いているのかよくわからないので、ウィルソン広場のハンバーガーショップ「Quick」に入ってみた。フランスで安くて美味しい店はないかとフランスに語学留学していた友達に聞いたところ、ここがいいと言っていたからだ。食券機のようなものでオーダーするというのは聞いていたので、モニターをいじってみたが、使い勝手が悪い。悪戦苦闘しながらチーズバーガーとポテトとミニッツメイドのセットを注文していると、おばあさんがやって来て何やら聞いてくる。何を言っているのかわからないので、すみません、英語は話せますか?と尋ねると、メガジャイアントを頼むのかと聞いてくる。私は違うものを頼む予定だったので、違うと答えた。するとおばあさんはどこかに去って行った。

機械に支払おうとしたが、支払いはカウンターらしい。カウンターに近づくと、お姉さんが馬鹿でかい声で数字を叫んでいる。しかし残念ながらフランス語の数字はマスターしきれていない。困っているとさっきのおばあさんだ。あなたじゃないのと指を指す。あまりにもQuickすぎるなと思ったが、案の定わたしのオーダーだった。明らかにめんどくさそうな表情のお姉さんに支払って、わたしはテーブルについた。

ハンバーガーはヨーロピアンサイズなのかと思いきや、思いのほか小さい。ポテトはべろんべろんで、パテはペタッとしていて、チーズはかなりのチーズ味。嫌いな人は嫌いそうだが、わたしは嫌いじゃない。チーズバーガーを喰らっていると、先ほどのおばあさんが前の席に座ってハンバーガーを食べ始めた。そういえばわたしの友人もディジョンのQuickでおじいさんと交流したと言っていた。そういうのもいいだろう。それに、わたしにはこの街で土地の人と喋りたい理由があった。

トゥールーズは山に囲まれていて、鹿やカモなどのジビエ料理が有名だ。中でも、鴨のコンフィ(平たくいえば素揚げ)を、ソーセージや白インゲン豆の煮込みに乗せて、さらにオーブンで焼いた「カスレ」という料理は名物である。わたしはこの料理をテレビのフランス語講座で知って、そのあと鎌倉のレストランで食べ、大好きになった。フランス料理屋を舞台にした近藤史恵のミステリ小説『タルト・タタンの夢』にもカスレが出て来て、読んでいるそばからお腹が空いたのを覚えている。トルコのイスケンデルケバブといい、ヴェトナムのフォーといい、インドのラムカレーといい、わたしは肉を煮込んだ料理に目がないらしい。とにかく、トゥールーズに来たからには、これを食べずにはいられなかったが、どこで食べられるのかすら知らなかった。だから現地人の人の協力が不可欠だったのである。

わたしは、トゥールーズ人を「Toulousain」というのを思い出し、勇気を振り絞っておばあさんに話しかけてみた。

「Vous êtes Toulousaine?(トゥールーズの方ですか?)」

「ええ、そうよ。ずっと住んでいるわ。あなたは?」おっと、カスレの話に持って行く前に世間話になってしまったが、まあいいだろう。

「日本からです」

「どれくらいヨーロッパに住んでいるの?」なぜかヨーロッパに住んでいる設定になってしまった。

「これはヴァカンスなので、一ヶ月です」

「仕事?あ、それとも大学?」おばあさんは聞く。

「えーっと、ヴァカンスです」

「家族がヨーロッパにいるの?」

「いえ、そういうわけでは」

「一人で旅行?」

「ええ、まあ、そういうところですね」

「あら!」このあと知ることになるが、ヨーロッパ人にとってひとり旅は結構驚きのようだ。これは意外だった。

「日本のどこ?」おばあさんは続けた。

「東京です」

「あらま、じゃあ、大都市ね。大都市には慣れてるのね。トゥールーズはそんなに大きくないですけどね、フランスでは大きい方よ。スペイン語はできる?」とおばあさんが聞く。きっとわたしのフランス語があまりに不自由だったからだろう。面白いのは、スペインにもほど近く、歴史的にもカタルーニャと関係の深かったトゥールーズでは、「英語<スペイン語」だということだ。正直いうと、フランス語の方ができる。スペイン語はまだ半年しかやっていないのだ。だが、なんだか嘘がつけず、

「えーっと、Un poco, un poquito(少しだけですけど)」と答えた。

「Tokyo es muy grande, grandioso, ¿no?」東京は大きいというような意味だ。うん、フランス語の時にもう聞き取れているし、スペイン語の方がきついのである。

「Si(西:はい)」と一応答え、わたしはおめあてのカスレの話を聞くことにした。「Eh, Où on peut manger de bon cassoulet?(仏:えーっと、どこで美味しいカスレは食べられますか?)」

「ああ、カスレが食べたいのね。たくさんあるけど…」おばあさんは少し悩んで、「Père Léonは美味しかったわ」と答えた。わたしはツーリストインフォメーションで手に入れた地図を取り出して、書いてくれというような仕草をした。おばあさんはあまり目が良くないらしく、今どこかと尋ねた。ウィルソン広場を指差すと、こっちの方、といいながら、「Esquirolにあるわ」といった。指差したところのそばには、「Esquille」という通りがあったので、ここかなと思った。記憶が曖昧になっている可能性もある。その通りはかなりこじんまりしているので、すごく小さな店なのだろう、などと色々と想像しながら説明を聞いた。

おばあさんと別れると、わたしはお盆を片付けて、Quickを出た。一応、その店がある通りに行ってみよう。それに、きちんとキャピトル広場も見ておきたいではないか。

ウィルソン広場を抜けて、ツーリストインフォメーションのある別の広場に入り、さらに進むとキャピトル広場がある。赤茶けた建物に真四角に囲まれた広場は直射日光をもろに受けている。美しさの本領を発揮するのは、きっと日暮れの後だ。だが、ホテルの立地から考えるに、あんまり長居はできない。広場は今は暖炉のようだ。しかしそれでも、この広場の持つ風格はある。この広場ができるかなり昔だと思うが、この街はかつてトロサと呼ばれ一国の首都であった。西ローマ帝国が弱体した後にフランスの南半分からイベリアを支配した西ゴート王国の首都だ。今の感覚でいうと、ポルトガル、スペイン、南仏は一つの国で、その首都がピレネー山脈を隔てたトゥールーズにあったわけだ。わたしは広場をしばらく眺めた。キャピトルというから、広場でひときわ目立つのは市庁舎。フランスの旗とEUの旗にならんで、赤地に刀のように鋭く尖った金の十字架の紋がある旗がなびいている。かつてはカタリ派結集のマーク、今ではオクシタニアの旗だ。広場の端っこでは、観光用の電車がちんちんいいながら走っている。わたしは路地に入って街を散策しつつ、例のカスレ店を見つけることにした。

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トゥールーズに来て驚くことは、全てが赤茶けていることだ。人はこれをバラ色というらしいが、やはり赤茶けている。限りなく赤に近い赤茶色のレンガで建物のほとんど全部が作られており、どこを歩いても赤茶けている。まるで異世界のようだ。フランスでは、ほとんどが白っぽい街なので珍しい。

レンガの壁に貼ってある標識は、ニ言語表記だ。前回触れたように、トゥールーズを中心地とするオクシタニアはかつてフランス語ではなく、オック語圏であった。もう話している人は少ないというが、一応尊重するという形で標識にはオック語が載っている(と、フランス人は言っていたのだが調べてみると絶滅危惧にはなっていないようだ)。時には、オック語だけのものもある。フランス語よりも、マルセイユの方でかつて話されていたプロヴァンス語や、ピレネー山脈を超えた向こう側にあるカタルーニャカタルーニャ語に近いと聞いたことがあるが、標識を見ればなんとなくわかる。

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上の「リュ・パガミニエール」がフランス語で、下の「カりエラ・パガミニエラス」がオック語だ。カタカナにしてみると、どことなくイベリア半島のかほりがする。他にもVをBの同じ音で発音するなど、イベリア半島の言語に近いところがある。オック語はアルビジョア十字軍のあと、フランス王国による悪名高き「ヴィレル・コトレの勅令」で公的な立場から追放され、民衆の言葉になった。フランス革命後、伝統や文化よりも理性と平等を重んじるジャコバン派政権はフランスの方言追放運動を開始、さらに第三共和制フランスは1881年オック語の学校教育は禁止された。第三共和制という政権もまた、フランスを共和国の理念と平等な市民という考え方で統一しようとしていた。フランスはEU加盟後も言語政策を改めようとはしなかったが、一応二言語表記はあるようだ。

赤茶けた街を歩く。すると教会があった。ずいぶんでかい。そしてこの教会も赤茶けている。周りにある土産屋には、オクシタニアの十字架を掲げた旗も多い、かつては南仏の象徴、今ではお土産というわけだ。しばらく歩くとお目当ての店のあるはずの「Esquille通り」があった。さあ、どんな店なんだろう、と道を歩くと、驚くほどに何もない。ただ一軒インド料理屋があるだけだ。これはおかしい。もしや、潰れてインド料理屋になったのではないか。

仕方あるまい。私は「Esquille通り」を抜けて、散策を続けた。赤レンガで彩られた道を歩き、迷路のような街を進む。どこも同じ色で、どこも暖炉みたいだ。しばらくすると、ジャコバン修道院という大きな修道院があった。レンガでできた素朴で巨大な建物だ。ジャコバン修道院といえば、その「パリ支店」とも言えるような修道院を拠点に勢力を拡大したのが、ここトゥールーズオック語を潰した張本人ジャコバン派政権だ。皮肉な話である。暑いし、せっかくなので入ろうかと思って行ってみると、どうやらしまっている。まあ仕方あるまい。

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その建物を離れると、向かいのレンガの建物の大きな扉の前に「Lycée Collège Pière de Fermat(ピエール・ド・フェルマー中学・高校)」とある。中高一貫校だろうか。学校にしては重厚すぎる。学校の名前になっているピエール・ド・フェルマーといえば、17世紀の有名な数学者として知られている(座標を発明したデカルトや当時数学者のパトロンであり、自らも数論の研究をしたメルセンヌ神父と同時代人)。

フェルマーは特に「フェルマーの最終定理(大定理)」で有名だ。フェルマーは元々このトゥールーズの法律家だった。どうやらトゥールーズは法学で有名だったようだ(今でもトゥールーズ大学は有名で、世界中から留学生が来る。だからアジア人もよく見かける)。当時法律家というと、かなり高い地位にあり、貴族の仕事でもあった。あの頃の貴族の嗜みは、武術やギャンブルに加えて、数学である。そのためフェルマーも数学にはまり込み、自分で難題を考え出しては自分で証明し、その難題を証明部分をカットした状態で他の著名な数学者に送りつけ、「解いてみろ」と挑発することを趣味としていた。かなり、嫌われたようである。だが彼の素養は大したもので、手元には膨大な数の定理があった。フェルマーの死後、息子が父親の残した定理をまとめ、数学者たちはその証明に取り組んだ。ほとんどすべては証明が完成し、フェルマーの業績も世に認められるようになったが、たった一つ、証明されなかった定理がある。それが、「フェルマーの最終定理」だった。

おそらくみなさんも高校で学んだであろう「三平方の定理」というものがある。あれは直角三角形の底辺の二乗と高さの二乗を足したものは、斜辺の二乗に等しくなるという定理だった。これはつまり、ある数を二乗し、別の数を二乗し、その二つを足すと、また別の数の二乗に等しくなるような三組の整数が存在するということでもある。例えば、(3, 4, 5)の三つは有名だ。3×3=9、4×4=16、9+16=25、25=5×5。他にもいくつか存在するが、まあみなさん暇であれば試していただければと思う。フェルマーはいう。これを、二乗ではなく、三乗にしてみたらどうか、と。するとある数の三乗と別の数の三乗を足したらまた別の数の三乗になる、という関係が成り立つ三組の整数は存在しない。そこからフェルマーは、二乗以外では、こういう関係が成り立つ三組の整数は存在しないと導き出したのだ。そのことをフェルマー古代ギリシアディオファントスという数学者の書物の余白に落書きのように書き残し、こう続けた。

「私はこのことに関する驚くべき証明を発見したが、この余白には小さすぎて書ききれない」

この謎めいた一種のダイイングメッセージから、数多くの数学者を巻き込んだ、「フェルマーの最終定理」証明レースがスタートする。オイラーガウスなどの時代を超えた大数学者たちの努力もむなしく、この証明レースに見事回答が与えられるのは、フェルマーの死後、実に330年後の1995年5月のことである。最新の数学を使い、イギリス人のアンドリュー・ワイルズが、日本人数学者谷村豊と志村五郎の予想を証明する形で、フェルマー最終定理の証明を完成させたのだ。この話はスリリングかつドラマの詰まった熱い歴史物語だが、そのスタート地点となったのも、実はこのトゥールーズであった。

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トゥールーズには、もう一つ理系な話がある。それは、この街がESA、ヨーロッパ宇宙機関の街であるということだ。米ソ冷戦時代、二大勢力の宇宙開発に対抗するべく出来上がったのが、ヨーロッパ共同のESAだ。フランスはその前から、フランス国立宇宙センター(CNES)を立ち上げ、冷戦の中でフランスは独自路線を行くというシャルル・ド・ゴール大統領の政策の下、トゥールーズで研究を行っていた。それもあってか、トゥールーズはヨーロッパ宇宙研究の中心地になった。ここには、UFOの研究所もあるとかないとか言われている。

さらに、トゥールーズという町には新取の気質があるのか、フランス航空機の中心地もある。例えば、数多くの飛行機の機体を作っているエアバス社はトゥールーズに拠点を置いているし、パイロットであり作家でもあり、『星の王子さま』で有名なサン=テグジュペリトゥールーズで航空機の教官をしていたことがあった。彼は、『人間の大地』という小説の中で、フランスの海外への航空郵便の拠点としてトゥールーズを描いているのである。これもまた、アルビジョワ十字軍や西ゴート王国とは違うトゥールーズの一面でもある。

フェルマー高校を抜け、狭い路地を歩くと、ケバブ屋や寿司屋が並ぶ界隈があった。さすがは大学街。世界中の人が集まる場でもあるのだろう。その道を歩いていたら、いつの間にかキャピトル広場に戻ってきていた。暑かったのでキャピトル広場をちょっとぶらついてから、裏のツーリストインフォメーションのある広場へと向かい、そこでオレンジジュースを買うことにした。初めて来た時から、フレッシュなオレンジジュース屋があるのが見えていて、気になっていたのだ。一番並んでいそうな店に行き、ジュースを買う。カップの大きさで値段が変わるらしい。少し高いが、私は3ユーロのものを選んだ。青空のもとベンチに座り、ジュースを飲むと甘くてうまい。さて、どこを歩いてきたんだろう。ふとそう思って、私は地図を広げた。

すると、なんということだろう。おばあさんと言っていたカスレ屋のある「Esquirol」が全く別のところにあるじゃないか。かなり南の方に、どでかい通りがあり、そこに「Esquirol広場」とある。そうか、こっちなのか。私は笑い出したい気分だったが、ここで笑い出すと狂人になってしまうので、ひとまずジュースを飲んだ。

キャピトル広場から伸びるローマ通りをなければ、エスキロル広場だ。ローマ通りは路地のような雰囲気があるが人がたくさんおり、ストリートミュージシャンが弾き語りをしている。それを道の反対側にいる人が聴いている。何と無く懐かしくなるような物哀しい旋律だ。始めて来た通りなのに、なんだか知っているような、雰囲気がある。

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石畳の賑わった通りをひたすらに歩くと、大きな通りに出た。どうみても通りだが、エスキロル広場。目の前にはバス停がある。バス停の向かいに大きなレストランがあったので名前を見ると「Père Léon」とある。地元のおばあさんのおすすめ、というイメージからは程遠い、こぎれいなカフェとレストランを合体させたような店だった。なるほど。少し高そうだが、夜はここで食べよう。

ホテルのそばまでバスとか出ていないだろうか、と、私はバス停の地図を見た。複雑でワケがわからなかったが、なんとか、これかなというものを見つけた。するとバス停にいた青いシャツを着た若い女性が声をかけてきた。フランス語でよくわからなかったので、少し眉をひそめると、

「お手伝いしましょうか?」と英語で尋ねた。

もうなんとなく帰り方はわかったので、「いいえ、ありがとうございます」と断って、その場を立ち去った。思えば、あのとき嘘でも尋ねてみればよかったのかもしれない。それが一時であっても、一つの出会いとなるのだから。だが、もしかすると、私には心の余裕が足りていなかったのかもしれないようだ。私はホテルとは逆方向にエスキロル「広場」を歩くことにした。その先には、川があった。

(続く)

6都市目:トゥールーズ(1)〜バラ色のやばい街〜

朝、バルコニーでしばらくニームの街を眺めた後で、私はトゥールーズへ向かうことにした。街歩きが片想いなら、去り際が大事である。次の街が待っている。階下に降りると、オーナーの奥さんと思しき人が座っていた。

「Merci, au revoir!(ありがとうございました、それでは)」と声をかけると、奥さんは笑顔で、

「Merci, bonne journée!(ありがとうございました。良い1日を!)」と答えた。

ホテルから駅までは1分とかからない。駅に着くとパン屋でパンとコーヒーを買い、目当てのTGVに乗り込んだ。ここ三日間の習慣になって来ている。朝起きて、駅に行き、パンとコーヒーを買う。慌しい朝だが、それでも続くと愛おしい生活である。

トゥールーズニームから西へと進んだ山がちなところにある。この街は「オクシタニア Occitanie」地方の中心地だ。日本では石鹸やら何やら売っている店の名前「ロクシタン」で有名だ。ちなみにあれは、l'occitane en provenceというが、オクシタンとプロヴァンスは全く違う地域なので、変な感じである。フランスでも見かけた店だから、きっと何か理由があるのだろう。

オクシタニアの、オクとは、オック語のことだ。そんな言語、聞いたことない人の方が多いだろう。これは、フランス革命まではフランスの南半分では普通に使われていた言語で、今話題のカタルーニャ語に近いとされている。そのため、この地域は古よりフランス王国に反抗する土地でもあった。フランスとは違うという意識があった。

 

時は11世紀。この土地は、カタリ派と呼ばれる人々の人口が多かった。カタリ派とは、当時のキリスト教の主流派(のちのカトリック。中心はローマ教皇庁)とは違う考えを持つキリスト教徒たちだ。彼らは、ローマ教皇庁の教えと対立しつつ力を伸ばしてきた古の異端グノーシス派に似た思想を持つ。彼らによると、この世界を作った神(創造主=デミウルゴス)は実は悪魔(サタン)だという。そのためこの世界は悪に染まっている。だからこの世界には救いはなく、悪に染まって生き、死んだらまたこの悪の世界に転生する。そこから離れるためには、厳しい修行の生活を送り、現世の世界から離れるしかない。カタリ派は、現世の世界の一切を堕落と切り捨てた。

カタリ派ローマ教皇庁に従わず、教皇庁は何度もカタリ派の人々を改心させようと迫ったが、無駄だった。これに対し、教皇庁はついにカタリ派を異端であるとし、禁止した。それでもオクシタニアの人々は改心を拒む。膠着状態が続くが、ついに教皇インノケンティウス三世の治世に教皇使節オクシタニアに派遣。インノケンティウスは腐敗した教皇庁を綱紀粛正し、教皇庁に従わぬ勢力は力を持って制することも辞さない強硬派として知られている。その土地の領主の統治権を剥奪して、次々に破門した。しかし、この使節は暗殺されてしまう。それはカタリ派の仕業だけではなかった。

時の教皇フランス王国と近い立場にあり、フランス王国国王はフィリップ2世オーギュスト(尊厳王)というフランス王国の拡大に努めた人間だった。これに危機感を覚えたのが、南フランス一帯(=オクシタニア)を治めるトゥールーズ伯爵レーモン6世だ。共にフランス王国に敵対するイングランドリチャード一世ライオンハート獅子心王)と同盟を結び、フィリップオーギュストに対抗する構えを見せた。さらに、教皇庁使節暗殺にも一枚噛んでいると言われる。それは、教皇庁フランス王国の影響下に入ることを嫌ったためであった。

この一件は、教皇インノケンティウス三世を怒らせた。教皇は、異端認定され禁止された人々を武力鎮圧することは「聖戦」であるとし、ヨーロッパ中の諸侯たちに十字軍結成の大号令を下した。世に言う、「アルビジョア十字軍」結成である。初めインノケンティウスはフィリップ二世に派兵を求めたが、イングランドとのいざこざもあり、フランス王国は断念。その代わり、シモン・ド・モンフォール が大将として参戦することになる。教皇庁及びフランス王国に反発するレーモン六世だったが、ここでは十字軍側につくことにした。十字軍は初め地中海にほど近いベジエを攻撃、占領し、住民を虐殺した。さらにカタリ派の中心地ラングドック地方(中心都市はトゥールーズ)に向けて進軍し、城塞都市カルカソンヌ世界遺産)を包囲。カルカソンヌが落ちると、住民は追放された。カルカソンヌ陥落の知らせは南仏に行き渡り、各地は降伏。十字軍は勝利を収めたと思われた。

だが、これに恐怖を覚えたのが、レーモン六世だ。十字軍指導者シモン・ド・モンフォールが南仏で力を伸ばし始めたことに危機感を覚えたのである。初めは教皇庁フランス王国に自分の地位を守ってもらおうと働きかけるが、信用されるはずもなく、ついには破門を言い渡された。背水の陣となったレーモンは、義兄弟であったフランスの南、現在のバルセロナを中心とするカタルーニャを本拠地とするアラゴン連合王国のペラ2世を味方につけ、反十字軍の戦いの狼煙を上げた。トゥールーズに立てこもるレーモンを十字軍は包囲。しかしトゥールーズの守りは堅く、落とせない。ところがそんなさなかに、ペラ2世が戦死してしまう。後ろ盾を失ったトゥールーズ伯爵にかつてほどの力はなかった。レーモン六世は息子と共にイングランドに亡命し、戦争はひとまず集結した。

しかし、トゥールーズの戦の歴史はまだ続く。トゥールーズ伯爵に変わってモンフォール家がついたオクシタンでは、その支配に不満を持つものが増えていた。「モンフォール家に変わって、俺がまた彼の地を治める!」レーモン6世とその息子レーモンはイングランドを脱出、一路南仏へと向かう。村人、かつての家臣たちは二人を歓迎し、オクシタン側の反撃が始まった。人心を掴むレーモンの軍隊はトゥールーズに入り、モンフォール軍に対する籠城戦を開始する。そのさなかシモン・ド・モンフォールは戦死。その後レーモン6世が死ぬと息子がレーモン7世としてトゥールーズ伯の地位につき、ついにカルカソンヌを奪回した。シモンの息子アモーリは街を捨て、逃走。南仏は再びトゥールーズ伯領となった。さらに、教会との和解にも成功している。

アモーリはフランスへと逃げ延びると、フィリップ2世の息子で当時国王として即位していたルイ8世に南仏で書くとした領土の割譲を宣言する。要するに、ルイ8世は父の成し遂げなかった南仏を進行する大義名分を得たということだった。大量の軍勢でフランス軍は南仏を攻撃。戦いは小競り合いが続いたが、南仏は戦争に疲弊していた。レーモン7世は和睦を結び、屈辱的ながら、自分の娘をルイ8世の弟アルフォンソに嫁がせた。だがもちろん、それで諦めたわけではない。フランス王国に反発するイングランドや諸侯たちと同盟を組んで、反乱を決行。しかしこれは失敗に終わる。レーモンが失意のうちに病で無くなると、ここに独立したオクシタニアは滅亡。フランス王国支配下に入ったのだった。

 

 ニームからトゥールーズまでの列車は海岸線を通った。南仏の田園地帯を抜け、大学都市のモンペリエを過ぎると、右に湖、左に地中海という壮大な風景の広がる場所を抜けて行く。午前中のまだ眠そうな太陽が、水に光を反射させ、幻想的な雰囲気を作り出す。もしかすると、この区間はフランス一美しい車窓が望めるんじゃないか、と思えるくらいである。アルビジョア十字軍遠征の際に住民が大虐殺されたベジエまでくると、水の世界は、徐々に山の世界に変わる。ローマ時代に南仏の首都となったナルボンヌ、世界遺産にもなり、アルビジョア十字軍の戦いにおいて十字軍側の勝利と大敗北を物語った城塞都市カルカソンヌを抜け、おめあてのトゥールーズにたどり着いた。

トゥールーズはフランス第五の街と言われている。だから、リヨンを除けば、久しぶりの大都市だ。しかもリヨンはある程度は勝手知ったる街だったので、今回は初の見知らぬ大都市だった。風の噂で聞いたことだが、トゥールーズの駅前はかなりやばいらしい。世界で一番古い職業の方々が務める界隈が広がっていて、ハイになるお薬もあるという。面倒なので、私は地下鉄で市内中心部へと向かうことにした。が、その前に、列車の予約をしておこう。

明日はついにフランスを離れ、カタルーニャバルセロナへと入る。初スペインというと、怒られかねないので、「初カタルーニャ」「初イベリア半島」「初ピレネー山脈越え」だ。期待と不安が入り混じった気分だ。むわっと暑くてちょっとばかり治安の悪そうな駅のチケット売り場でチケットを手配した。アジア系の職員がいたり、売り場が長蛇の列だったりするのを見ると、やはりここは大都市なのだなと実感する(リヨンでは予約不要のTERを使ったので長蛇の列は意外と初体験)。チケットを見ると、はっきりと「BARCELONA SANTZ」の文字。そして、「SNCF(フランス国鉄)」の他に、「renfe(スペイン国鉄)」のマークが付いている。ついに来た。明日は、イベリア半島だ。

地下鉄に乗ろうと地下鉄売り場まで降りて行くと、封鎖されている。表示を見てみると、どうやら工事中らしい。これは困った。バスを探してみたが、よく分からない。わたしは、えい、こうなったら、と歩くことを決意した。できるだけ大通りを探し、街の中心部へと伸びるジャン・ジョレス通りをまっすぐ歩いた。ここの空気は乾いている。しかも日差しもきつい。そして相変わらずリュックは重い。面白いことに、ディジョンの時よりも軽く感じるのは、慣れてきているからなのだろう。歩いてみると以外と治安も悪くはなさそうだ。ただ、確かに、他の街に比べてわい雑な雰囲気は確かに存在する。

20分くらい歩くと、目の前に広場が現れた。トマ・ウィルソン大統領広場というらしい。そういえば同じ名前の公園がディジョンにもあった。第一次世界大戦中のアメリカ大統領で、国際連盟を提唱しておきながら、議会の反対にあってアメリカを加盟させられなかった大統領として有名だが、フランスでは大人気みたいだ。広場の真ん中には例によってメリーゴーラウンド。繁華街になっている。フランスに語学研修をしに行っていた友人のFくんから聞いたファストフード店Quickもある。今日の昼はここでいいか。そう思いつつ、私はさらに足を進め、中心部へと向かった。目的があった。それは、ツーリストインフォメーションを探し、ホテルを見つけることだった。

前日にニームで苦労していたので、苦労するとはわかっていたが、これが大変だった。広場で見つけた表示に従って、別の広場にやってきたはいいが、全くわからない。広場にはオレンジジュースを売る人がいて、いいな、うまそうだな、と思いながらも、やはりツーリストインフォメーションが見当たらないのでオレンジジュースはお預けだ。別のところか、と思い、その広場を超えて先に進むと、より大きな広場が現れた。トゥールーズ名物の真っ赤な建物が取り囲んでいる。有名なキャピトル広場だ。偶然見つけたのは嬉しいが、しかし、ツーリトインフォメーションが見当たらない。人に聞けばいいのだが、暑いし、荷物が重いしで、外国語を話す元気があまりない。ひとまずキャピトル広場の裏の広場に戻って椅子に座ると、子供達が噴水で遊んでいる。いい光景だな、と思い、ちらりとその横を見たら、古い塔の端に人だかりがある。なんと、それがツーリストインフォメーションだった。まったく、フランスの観光案内所はどうしてこうもわかりづらいのか。

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A4サイズにプリントアウトされたホテルリストを受け取り、ツーリストインフォメーションのそばのベンチに腰掛けた。見てみると34ユーロのホテルがある。ヨーロッパにしては格安だ。ランクを表す星が付いていないが、まあ良しとしよう。私は駅まで引き返し、そのホテルを当たることにした。

ジャン・ジャレス通りを遡り、少し路地に入ると、人通りが少なくなる。こんなところでも、建物は真っ赤である。レンガのせいなのだが、これが所以でトゥールーズはバラ色の街と言われることもある。美しいといえば美しいが、素朴な雰囲気もある。

ホテルのある通りはリケ通りというらしい。どこだろうと探していると、上半身裸のむきむきな男が毛布をはたいている。なんとなくやばい界隈に来た感じを感じ取りながら、ここでないといいなと思いつつ、街の表示を見てみると「Rue Riquet(リケ通り)」とある。これはやらかしたな。引き返そうかと思っていると、上半身裸の男が話しかけて来た。

「英語話せますか?」

普段なら無視するのだが、人もおらず、無視する機運を失っていた。

「ええ、少し」

「俺たちは路上で生活しています。もしよかったら、あなたがそうしたいならいくらか恵んでくれませんか?」男はやけに論理的かつ丁寧に笑顔でいう。その雰囲気もあったのか、私は少し悩んでしまった。

「2ユーロでも1ユーロでも構わないんです」彼はいう。わたしは、仕方ない、と1ユーロを渡した。その男は素直に喜び、一緒に暮らしているのであろう人たちとその喜びを噛み締めあっていた。わたしのしたことはよくないことかもしれないが、だがあんな雰囲気だと…難しい。とにかく言えるのは、わたしはやばい界隈に来てしまったということだ。そしてそんな出来事のせいで引き返すタイミングを失って、目当てにしていたホテルに入った。

ホテルに入るとロビーには人がいない。やはりやばいところなのかもしれない。だが、観光客のホテルリストに載ってるんだ、信じよう。わたしは呼び鈴を鳴らした。すると初老の男性がやって来た。

「空いてる部屋はありますか?」と聞いてみる。

「もちろんです。テレビ付きとテレビなしはどちらがよろしいですか?」とおじさんはしゃがれ声でいう。こうなったらもうテレビ無しで行こう。わたしはテレビなしを選んだ。34ユーロを払い、階段を上がると、なんとなく懐かしい匂いがする。確か幼馴染の家や、カラオケや、バンド練習用のスタジオの匂いだ。タバコである。もろそうで狭くて暗い廊下を歩くと、部屋があった。廊下が昼間なのに真っ暗なので、鍵を開けるのも一苦労だ。

扉を開けると、窓がない、ガランとしたタバコ臭い部屋に赤いベッドと、むき出しの水道と、ビデがある。トイレがむき出してあると監獄さながらだが、ビデなので、もしかすると、いわゆる「連れ込み宿」なのかもしれない。だがもうここに泊まるしかない。トイレと風呂は共同。なんならトイレをむき出しにして欲しかった。わたしは、「まいったな」と思いつつ、「まあこれも経験だ」と諦めた。人生、受け入れることが肝要だ。

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この薄暗く、臭い部屋にいつまでもいても仕方あるまい。わたしはリュックを念のため、ベッドの足にチェーンでグルグルとくくりつけ、外に繰り出すことにした。時間はもう三時。昼食時じゃないが、昼を買っていないので、食べに行こう。

く)

5都市目:ニーム〜羅馬人どもが夢の跡〜

アヴィニョンから近郊のニームまでは、在来線のTERでたったの30分で着く。ニームアヴィニョンの西にある。TERにはニームよりさらに西の一帯である「オクシタン地方」のマークが描かれており、フランス国鉄SNCF)のオクシタン部門が運行しているようだ。といっても中身は普通のTERであり、新幹線のような二人がけの席が並んでいる。窓からは太陽が燦々と降り注ぎ、かなり暑い。

ニームアヴィニョンの間には、有名なポン・デュ・ギャール(le Pont du Gard)という橋があるという。世界史を学んだ人ならば一度は聞いたことがあるだろう。この橋は、ただの橋ではない。水道橋といって、橋の上に水道管を通し、水源から街まで水を運ぶための橋である。今では利用されていないが、まだその形はしっかりとしている。作られたのは、今からなんと2000年前。そしてそれから600年の間現役だった古代ローマの遺物だ。

本当はこの橋を見たかったのだが、アヴィニョンからバスを使う必要がある。そしてまたバスでニームに移動することになるが、そのバスの本数が必ずしも多くはない。なんだか面倒になって、今回はパスしてしまった。早くニームの町に入っておきたかった。

ニーム駅は、アヴィニョン駅よりも格段にでかく、そして気温も格段に暑かった。私はバックパックを背負い、少し迷いながらなんとか出口のあるフロアーにたどり着き、国鉄のオフィスで明日の列車の予約をした。高速列車TGVを使うには、予約が必要なのである。

喉が乾きそうなので、自販機Selectaでミニッツメイドのオレンジジュースを買って、私は意気揚々と外に出た。太陽が暑い。この町のシンボルは、かつてローマ帝国がこの辺りを治めていた時の円形競技場。駅から歩いてすぐのはず……だったのだが、これがなかなか見当たらない。しばらく道を歩いて見て気づいた。なんと駅の逆の出口から出てしまったのだ。まあこんなものか、と思いながら私は駅に戻った。それにしても暑い。

正しい出口を出ると、広い、公園をそのまま道にしたような格好の遊歩道があった。脇には水が流れ、子供や大人が水に足をつけている。水、それこそローマ帝国の一つの動脈だった。そしてこのニームという街はローマの街が残っていることで有名な町である。水のせせらぎを聞きつつ、わたしは一度、ベンチに腰掛け、ツーリストインフォメーションの場所を確認しておいた。そこにたどり着けば、ホテルリストがある。それに従ってホテルを探そう。

再び遊歩道を歩き始め、突き当たりにある噴水を横目に左に曲がる。街の中心へと伸びる道はそちらにある。と、その時である。目の前に巨大な建物が現れた。それは、いわゆる円形闘技場(コロッセウム)だった。やっと見つけた。闘技場はローマのものよりもかなり保存状態が良さそうで、形も綺麗な円形だ。

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闘技場の周りにはレストランが並び、大規模なテラス席もあるが、どことなく落ち着いた雰囲気だ。夕食はここで食べたいとふと思った。ローマの歴史の名残を感じながら夕食というのはなんとも優雅でよろしいではないか。

闘技場の周りをぐるりと回ると大通りに出る。大通りはアヴィニョンに似た雰囲気で、街路樹が美しく、静かに時が流れている。だが日曜なので閑散としており、アイス屋にならぶ赤や青の毒々しい色の液体をかき混ぜる機械だけが寂しく回っている。時折テラスでは地元民がコーヒーを飲んでいるのが見える。

とにかく大通りをまっすぐ歩いていると、突如ひらけた場所に出る。道を挟んで左側にはガラス張りの建物。そして右側にはローマ帝国時代の神殿と思しきものあった。保存状態がものすごく良くて驚いたが、よく見ると柱が本堂にうもれている。再建されたレプリカだろう。それでも、入り口前の階段にたくさんの人が腰掛けている姿は、歴史がそのまま生きている光景であった。

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しばらく神殿のあたりにいてから、再びメインストリートに戻る。そのまままっすぐ行くと、そこには小さな公園があった。公園の真ん中にはローマ人の像が立っていて、韓国人と思しき観光客の女性が自撮りをしていた。ローマファンだろうか、話しかけてみようか、などとくだらないことを考えながら、像に近づいて見た。顔を見るとどうやら第十五代目ローマ帝国皇帝のアントニヌス・ピウスである。はたと思い出したのだが、確かアントニヌスの父親はフランス出身であった。ニースだと思い込んでいたが、ニームだったようだ。ローマ帝国の領土拡大政策をストップさせて、安定成長期を築き上げたハドリアヌスの跡を継ぎ、皇帝になったアントニヌスはその路線を維持しつつ、ローマ帝国の黄金期をもり立てた人物だ。地味だが、わたしは好きな皇帝の一人だった。ちなみに阿部寛主演の映画「テルマエロマエ」では、宍戸開が演じている。

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やはりこの街はローマの記憶が刻まれている。わたしはローマ帝国ファンなので気分を上げた。しかし、問題もあった。どうも、ツーリストインフォメーションが見当たらないのだ。神殿のそばだというが、何処なのだろう。わたしは別の道から公会堂方面に歩いて見た。

結論から言うと、ツーリストインフォメーションはその道にあった。だが、これは不親切だなと言う場所にひっそりとある。ツーリストインフォメーションなんだから、駅前とか、わかりやすいところにおいてほしいものだ。わたしは中に入り、ホテルリストをもらって、値段からあたりをつけた。どれも駅に近い。だから、なぜツーリストインフォメーションを駅にも置かないのか。困ったものである。

照りつける日の光の中、わたしは駅へと戻った。神殿、モダンな建物、テラス、アイス屋、レストラン街、コロッセウム。一番安くてコロッセウムの目の前にあるホテルは、「Complet(満員)」。残念無念。さらに駅前の遊歩道に戻り、駅の目の前にあるホテルアヴァロンに入って見る。アヴァロンというとアーサー王伝説に出てくるアーサー王が死に際して赴いた島の名前だが、フランスはおろかローマ帝国とも関係がない。まあいいか、ダメだったら隣のホテルセザール(=カエサル)にでも行こう。入ろうとすると、入り口の目の前でおじさんが掃除をしている。とりあえず声をかけて中に入ると、どうやらそのおじさんがオーナーのようで、わたしの後ろからやってきてカウンターに入った。

「Vous avez une chambre libre?(空いている部屋はありますか?)」

「Oui(はい)」

よかった。また歩かねばならないかと思う時が遠くなる思いだっただろう。宿泊料は60ユーロで、フロントは9時に閉まるらしい。いささか早いがまあいい。オーナーのフランス語の半分くらいしか聞き取れなかったが、なんとなくはわかる。わたしは案内された通りに狭い階段を登り、部屋に入った。ちょうどいい狭さの良い部屋だ。しかも、バルコニーまである。

部屋にはエアコンがあるはずはないので、かなりむわっとしている。扇風機のスイッチをONにして、わたしは汗だくになったシャツを脱いで、しばらく部屋で休憩することにした。テレビをつけてみる。CMでビートルズのAcross the Universeがかかっている。それにしても蒸し暑い。やはり南に来たのだ。わたしはそう実感した。

新しいシャツに着替えて、わたしはフロントで町の地図をもらった。どうやら、鍵は返さなくて良いようだ。

「Bonne journée!(良い1日を!)」と声をかけてくれたので、わたしはそのまま返し、太陽の降り注ぐ遊歩道に戻った。さて、どうしよう。まずは勿論、コロッセウムだ。

行ってみると、値段は10ユーロ。日本円で1300円くらいか。今思えば入っても良さそうだったが、この日は倹約志向だった。10ユーロというと昼食一食分、という判断がなぜか働き、またの機会に行こうと思ってしまった。本当に勿体無いことをしたと思う。あの時は、自分の使った費用の計算をして、初日も二日目も130ユーロ(=15000円)くらい使っていることが明るみに出て、最初の計算の100ユーロを超えていたことに焦っていたのだろう。焦って、大切なものを見逃してしまう。これから直して行かねばならぬのは、そう言った性向だ。

さて、コロッセウムを外から眺めながら、神殿へ向かう。神殿の正式名称は「Maison Carrée」で、「正方形堂」とでも訳せるだろう。そこは5ユーロだった。公会堂に入ってみると、係員の人が何やら、「シネマ・オンリー」と言っている。よくわからないがコロッセウムに入らないという選択をしたこともあって、なんとなくどこかに入りたかったのでとりあえず買うと、「10分後から入場です」という。きっとこの街に関する映画の上映をやるのだろう。わたしは近くのアイス屋で水を買った。本当にニームにはびっくりするほどたくさんのアイス屋がある。需要があるのはわかる。なにせあんなに暑いのだ。何も防ぐものがない上に、ローマ時代の景観に配慮してか建物や地面が白っぽいものだから、太陽の光が上からも、下からも来る。サングラスは欠かせない。

指定された時間に行くと、神殿の階段の上に列ができている。しばらくしてチケットのチェックがあり、中に入った。神殿の中は完全に劇場だった。なるほど、これは神殿観光ではないですよ、という意味での「シネマオンリー」か。わたしは腰をかけた。このニームという町の歴史についてのちょっとした紹介映画のようだ。

‥‥と、日本のビジターセンターのイメージでいたのが間違いであった。この映画、かなり良くできている。変なゆるキャラが、「ようこそ、ニームへ!」というのかと思いきや、いきなり神殿で祈る男が登場する。何かの儀式のようだ。そして、話は過去へと遡ってゆく……

 

ニームの歴史は、紀元前1世紀に始まる。

当時ローマに突きつけられていた問題は、ローマの北、今のドイツにいたゲルマン人の動きだった。ゲルマン人が突如西へと移動をし始めたのである。そのせいで影響を受けたのが、今のフランスに住んでいたケルト人だった。ケルト人からのSOSと、ローマ人の危機意識から、ローマは派兵することに決定。さらにローマは、これを機に、ライン川を防衛する代わりにフランスを自らの範囲内に入れることも狙っていた。ケルト人という、困ったときはSOSをするが、いざとなると敵対する民族がすぐ目と鼻の先のフランスにいるのが嫌だったからだ。その司令官として白羽の矢が立ったのは、当時ローマの中央政治に大きく関わっていたガイウス・ユリウス・カエサルだった。

ニームのある、当時の「ガリア・トランスアルピーナ(アルプスの向こう側のガリア)」はローマの支配下にはなかったが、ニームの首長はいち早くローマへの帰順を示した。映画でもそのシーンは出てくる。カエサルから直々にブレスレットを与えられるのである。ニームは泉の神を信仰する場であり、ニームケルト人たちはそれを誇りにしていた。映画の中では、神のお告げによって、ローマ側につくことを決めていた。ニームラテン語名は「ネマウスス」。泉の神の名前から取られているという。

カエサルケルト人部族の兵士と共に破竹の勢いで北へと登り、ゲルマン人をなんとかライン川の向こう側に押し込んだ。しかしこの戦争はこれだけでは終わらず、ゲルマン人の侵攻、さらにはローマ軍駐留を不名誉と捉えるケルト人部族による反乱、現在のイギリス(ブリタンニア)からの侵攻など多くの局面を経てゆく。ガリア戦争と呼ばれるこの戦争のクライマックスとも言えるのが、ケルト人の首長ウェルキンゲトリクスが起こした反乱だ。ウェルキンゲトリクスはフランス中のケルト人に、「ローマと戦え」という呼びかけを行い、かなりの部族がローマから離反、危機的状況に陥った。しかもこのとき将軍カエサルはイタリアに戻っていたのだ。カエサルはそのまま引き返し、一度は敗戦するものの、その後アレシア包囲戦に勝利し、反乱を鎮圧。これ以降フランスはローマ帝国支配下に入る。このときも、ニームはローマ側についた。

その後、フランス(ガリア)をカエサルが平定すると、カエサルはローマの政治体制の改革に挑んでゆく。カエサルの改革とは、貴族の集まりである元老院が力を握る政治にメスを入れるものであり、そのなかでフランス(ガリア)の首長を元老院議員にするという政策もあった。彼の改革は元老院の反感を買い、フランス平定後すぐに保守派軍人ポンペイウスとの内戦が始まる。これをカエサルはなんとか切り抜け、さらなる改革を推し進めてゆくことになるが、反感を抱く議員数名に暗殺される。後を継いだオクタウィアヌスは、カエサルの一番の部下アントニウスとの権力闘争に勝利し、紀元前27年、ついに元老院から「アウグストゥス(尊厳ある者)」という名前をもらい、さらに最高権力者である「皇帝」となり、カエサルの改革を完成させた。

さて、カエサルのフランス平定でカエサル側として戦ったネマウスス、つまりニームの街は、後継者アウグストゥスの手によって、「コローニア・アウグスタ・ネマウスス」として改称され、退役軍人たちが入植した。この街は、当時の南フランスであるガリア・ナルボネンシスの中心地として栄えることとなる。かつての泉の神を祀るところには巨大な塔が建てられた。そして、神殿が建てられ、ローマ式のコロッセウムも建造され、この街は急速にローマ風の都市に脱皮する。それゆえ、「フランス最古のローマ都市」と呼ばれているようだ。映画は、そんなネマウススの祭りに、かつての族長の子孫が市長として参加するところで終わっていた。

映画では描かれていなかったが、このニームのフルウィウス家は、その約150年後、皇帝を輩出することになる。これが先ほど述べたアントニヌス帝だ。彼はもともと軍人、元老院議員だったが、先代のハドリアヌスの後継者に選ばれ(紆余曲折あるが、その辺は漫画のテルマエ・ロマエを読んでいただければ、と)、皇帝になった。ハドリアヌスは対外戦争よりも国境防衛を重視したため、ハドリアヌスの前の代の皇帝で戦争がうまかったトラヤヌスの路線を気に入っていた元老院に嫌われていた。就任してすぐにトラヤヌス元老院議員4人を暗殺したせいもあるだろう。アントニヌスはそんなハドリアヌス帝の業績を元老院議員に認めさせるという大技を成し遂げ、「慈悲深い人(ピウス)」と呼ばれた。そんな皇帝も、ニームの街がなければ生まれなかったのだ。

 

 映画が終わり、私は神殿の外に出た。よくできた映画だったので、なんとなくいい気分である。それから地図に書かれている「ディアナの神殿」に行ってみることにした。先ほど立ち寄ったアントニヌスの公園からさらに歩く必要があったが、映画では泉で祈るケルト人のシーンがたくさん出てきていて、ディアナの神殿の方にその泉があるらしかったので是非行きたくなったのだ。

公園まで行くと、目的地のディアナの神殿があるより大きな公園まで、水路沿いの道があった。水路沿いに並木道がある雰囲気は、どことなく、カンボジアシェムリアップにも似ていなくはない。先ほどまで照りつける太陽を直に受けるような道にいたせいか、この道は見違えるほど気持ちがいい。太陽が緑に照りつけ、並木道は緑に輝いている。水路の水に反射した太陽は、この道がまるで本当に泉の精霊のいる場所に誘ってくれるようで幻想的だ。ここをゆっくりと歩いていると、やはりニームは、「泉の神」を祀る「水の町」なのだなと感じた。

それだけではない。この街は「公園の町」でもある。この水路沿いの道だって、駅前の遊歩道だって、どことなく公園を想起させる。それは気持ちの良い緑と、水のせせらぎだけではなく、道を歩く人の穏やかな表情と、遊ぶ子供達の笑顔のおかげだ。

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しばらく歩くと大きな噴水が現れる。それを超えると、大きな公園が出てくる。フランスではよく見るのだが、公園の門はやけに豪奢で、まるで宮殿のようだ。何か入場料でも取られるのかと身構えたが、無料だった。公園の砂利の広場には、案の定、メリーゴーラウンド。出店も出ていた。そこは、最近ではあまり触れることもなくなった、夏の記憶を宿していた。夏の香りがあった。楽しく、切ない夏の香りが。

公園には大きな池のようなものがあって、その池を越えた向こう側は小高くなっている。この辺りがネマウススの町の神聖な領域だったのだろう。そんな池の隣に、ローマ時代のものと思しき遺跡がある。間違いない。これがディアナの神殿だ。柵で囲われてはいるが、別に入場料も何もなく、見れるようだ。私は神殿に少しだけ一礼をして、神殿の遺跡に入った。

大部分が崩れ、草も伸びているディアナ神殿は、今にも崩れ落ちそうだったが、それでいて、どこか美しかった。今手にその威厳はある。そこには月の女神ディアナが宿っていそうな雰囲気がどことなくあった。中に入ると、薄暗く、ちょうどカンボジアのバイヨン遺跡で感じたような、静謐な神聖さを感じた。目をつぶって数分間座ってみたいという衝動に駆られたが、どうも場所がない。表に出れば、遺跡の以降に子供たちが座っている。かつてカンボジアの記事で書いたが、やはり遺跡であってもこれくらいの方が、生き生きとしたものを感じる。いくら、遺跡が死んでいようと、人がいて、馴染んでいるということが、遺跡を生かすのだ。私は再び遺跡の中に入ってみた。子供連れの父親が、何やら子供と話しながら、手をつないで廊下を歩いている。歴史と未来が交差していた。

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ディアナの神殿でしばらくゆっくりした後、かつて泉の神を祀っていたという場所で、今は古代ローマ時代に建てられた「トゥーラ・マグナ(大塔)」の方に行くことにした。池の周りにある階段を登り、それからは小高くなった丘を登って行く。途中で違う方向に行ってしまったが、なんとかたどり着いてみると、これがものすごかった。石でできた塔がそびえ立っている。今のものは再建されたものらしいが、それにしてもローマ人が2000年前にこんなにも高い塔を立てたというのはすごい。もちろん、彼らに技術があったのは知っている。だがそれにしても、あのそびえ立つ高い塔を見ると、圧倒されてしまう。初めは登るつもりはなかったが、登りたいと思うようになった。

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入場料は3ユーロ。映画より安い。これはもしかするとニームの穴場スポットかもしれぬ。塔の中には螺旋階段があり、少し前には家族連れがいた。そびえ立つ塔の何処までも続く螺旋階段。燃えてくる。わたしは早速登り始めた。塔は薄暗く、なんとなく冒険している気分になる。階段は徐々に狭くなってゆき、身の回りは徐々に古代中世の雰囲気になってゆく。段も徐々に急になり、最後にはまるで登山である。

登りきると、明るい場所にたどり着いた。ついに展望台なのだ。展望台、とは言ってもスカイツリーや東京タワーとは違う。なにせ古代の塔である。全面石造りだ。人が横並びにやっと二列入れる程度の幅の展望台には、何人かの観光客がいた。子供連れの男性が、目の前に広がる街を子供に見せていた。前の列の人が譲ってくれたので、風景がよく見えるところに出る。

思わず息をのんだ。森のようになっている、池のある先ほどの「フォンテーヌ公園」を挟んで向こう側に、一面赤い屋根とベージュの建物がずらりと並んでいた。それこそ、ニームの街であった。空は青く、日は降り注ぎ、街は素朴な色。

「アレーナ(コロッセウム)どこー?」と隣の家族の娘が言った。

「そうだなぁ、えーっと」と父親は困惑しながら、街をながめまわす。

「ほら、そこにパノラママップがあるわよ」と母親は、展望台に設置された地図を見つけ、それからコロッセウムの方を指差した。

一瞬見えなかったので、わたしも目を凝らしてみてみる。すると、建物たちに埋もれるような感じで、ちょっとだけコロッセウムのてっぺんが頭を出している。写真を貼るので皆さんも探してみていただけたら、と思う。

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再び階段を降り、塔の中に入る。塔の歴史の展示があったので読んでみた。この塔はアウグストゥス帝によるネマウススの植民の頃に建てられたという。この場所には泉の神の聖域があった。不思議なことに、この塔建立の由来は明らかではないらしい。ロマンがある。そしてこれはその後中世に再建されるが、このロマンある不思議な塔は人々の想像力を掻き立て続けた。かのノストラダムスヴィクトル・ユーゴーもこの塔について文を残しているという。

ありがとう、と受付の人に言って、わたしは外に出た。なかなか楽しい体験ができた。ヨーロッパの日暮れは夜の9時なので、まだまだ明るい。わたしは公園を散歩することにした。遊ぶ子供たち、熱く手を握り歩くカップルたち、寄り添って歩く老夫婦、そしてわたしのように一人で歩く人。この公園は人生でいっぱいだった。そして、それをローマの遺跡が見守る。こんなに良いところが他にあるだろうか。わたしは半日にしてニームという街が気に入った。

遺跡や公園だけではない。コロッセウムの周りの街並みは、今まで行ったどの街とも違う雰囲気があった。例えるなら、三谷幸喜の「マジックアワー」の町の雰囲気だ。まるでセットのような、美しく綺麗な町。道は大理石でできていて、建物はベージュ。店は日曜日なので軒並み閉まっているが空気感が良い。広場に出ると、どんなに小さな広場でもテラスが並んでいて、客が談笑しながら食べている。

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夕食はコロッセウムの目の前にある店で食べることになった。肉続きだったので、魚が食べたくなっていた。そしてその店ではサーモンを売っていた。だから、そこを選んだわけだ。

フランスの店の入り方というのは難しい。いまだに何が正解なのかわからない。店の中まで入って声をかけることが多いが、正直わからない。この時はウェイターの人に話しかけて見たら、ウェイターは忙しそうな顔をしながら席に案内した。

この時はフランス語にあまり自信がなく、使う元気もあまりなかったので、「英語は話せますか?」と聞いてみる。微妙そうである。まあ日本だってこんなもんだろう。何とかしてサーモンとビールを頼んだ。サーモンはこの日のオススメだったがメニューに載っていないので少々焦った。

8時半くらいになると、徐々に日が落ち始めた。日本語で言う「夕暮れ」とは、時刻が違いすぎて妙である。むしろこれは、まさしく、「黄昏」と言うべきだろう。そんな黄昏時のオレンジ色の光が古のコロッセウムに差し込んでいる。その風景はどことなく物悲しく、時代の流れを感じさせた。

サーモンは程よく脂が乗っていてうまかった。あいも変わらずフランス名物のフレンチフライがくっついてくるのには参ったが、ビールのつまみと思えば悪くない。アジア人が少なかったし、フランス語のできない外国人と認識されてしまったせいか、あまりウェイターが来てくれない。食後のコーヒーを頼むにも、会計を渡すにも。忙しさだけではなく、あきらかに「がいじん」として対応されている雰囲気があった。身から出た錆なのだが、少しだけ寂しかった。これからはもっとフランス語を使おう、これからはもっと愛想の良い表情でいよう、そう思った。

穏やかな風に吹かれながら、日の落ちかけた道を歩いてホテルへと向かった。途中の売店で水を買う。笑顔で挨拶をすると、なんでこいつは笑顔なんだと言う顔をされる。難しい。笑顔に頼るしかないのは、言葉ができないからだ。イタリア、カンボジアと、現地の言葉に頼る必要はないんじゃないかと言う結論に至ったが、ここに来てそれを撤回せざるを得なくなった。やはり、言語は大事なのだ。

ホテルに戻るとオーナーがいたので、挨拶をした。オーナーはにっこりと笑って挨拶を返した。少し気を取り直すことができた気がする。部屋に帰って、バルコニーに出て見た。目の前には駅があって、電車が行き来している。電車の音以外は静けさそのもの。。またいつか、この街に来たいと思った。もっとこの街のことを知りたくなった。そして、もっとこの街の人と交流したかった。時に冷たくされ、時に惚れ込み、そして再会を望む。旅とは、街に対する片想いなのかもしれない。

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これは翌朝のバルコニー

 

……などと馬鹿げたことを思っていないでもう寝よう。明日は朝の列車でフランス最後の街トゥールーズに出発だ。

4都市目:アヴィニョン〜グリーングリーン〜

9時20分の在来線TERで、わたしはフランス南部の都市アヴィニョンへと向かった。今までフランスというとパリとリヨンにしか行ったことがなく、リヨンより南に至っては通過したこともなかったから、初めての「南仏」であった。

車窓から見える風景は徐々に変化していた。パリからストラスブールへと向かう列車の中から見えたどこまでも続く緑の畑と小さな町も、ディジョンからリヨンへと向かう列車から見えたワイン用のぶどう畑も、そこにはもう存在しない。畑は徐々に小麦色に変わり、太陽はより大地に近づいてくる。北部の空はどこまでも高く、雲は大地を覆わんばかりに近かったのに、南部に来るとそんなダイナミックな空はない。雲は散り散り、晴天続き。少し赤茶けた青空がムワーッと空にある。ホールのチーズのような形をした藁の束が畑には転がっていた。それは、ゴッホの絵のような雰囲気だった。格好つけていっているわけではない。現にゴッホの拠点は南仏だった。

音楽を聴きながら電車に乗っていると、前に座っていた女性が、隣にいる若い女性に話しかけている。「ヴァカンスなの?」「そうなんです、ヴァカンスです」というようなことを言っている。前にいる女性とは席に着いた時に挨拶だけ交わしたが、もしかしたら話しかけたかったのかもしれない。すると、イヤフォンで音楽を聴くというのは、実は凄く失礼な行動だったのかもしれないな、とわたしは少しだけ反省した。

偶然にも、前にいる女性もアヴィニョンで降りた。わたしはその後に続いて駅に降りた。暑いんだろうと踏んで、ディジョンでは前のチャックまでぴっちりと締めていたコートを腰に巻き、眼鏡に装着できる形のサングラスを眼鏡にくっつけた。予想は大当たりである。暑い。突然夏に引き戻されたようだった。と言っても8月13日である。夏真っ盛りだ。

駅を出て、町の中心に向かって、人通りが多そうな方へと歩いて行くと、不意に目の前に巨大な城壁が現れた。分厚く、見張り台もある、立派な城壁。わたしは、これがアヴィニョンなんだと感心した。なぜなら、アヴィニョンにはかつて、城壁で守るべき人が住んでいたからである……

 

ことの起こりは1303年にさかのぼる。

当時フランス王国を治めていたのは、フィリップ四世、あだ名はル・ベル(イケメン王)。彼はフランス国王の力を強めるべく邁進した人だった。彼は、予てからボルドー一帯の「アキテーヌ(ギュイエンヌ)地方」に居座っているイングランド王国から、アキテーヌ地方を奪還するため、戦争を起こしていた。だが、戦況はあまり芳しくない。問題は戦費調達だった。そこでフィリップ国王が目をつけたのが、広大な領地を持ちながらも税金を一銭も払うつもりがない教会だった。教会は税金免除というのが慣例のところを、フィリップは教会から税金を取ると宣言したのである。

これにカンカンになったのが、時のローマ教皇ボニファティウス8世だ。彼は、弱まりつつあった教会の力を取り戻すことを目指し、陰謀によって先代教皇の精神を蝕んで生前退位に追い込み、教皇の位に上り詰めた男だ。ローマへの巡礼を義務化したり、今のバルセロナを中心とする海の覇者アラゴン連合王国からシチリア島を奪還しようとしたり、ローマの貴族でアラゴンと仲のいいコロンナ家を粛清したりと強行な政策を推し進め(教皇だけにね)、ローマの繁栄の最盛期を築き上げた彼に、フィリップ王の言い分が認められるはずはない。

教皇を敵には回せないので、フィリップは一度自分の祖父を聖人に認定してもらうことで手を打ったが、しばらくすると国内の貴族、平民、そして聖職者を集めた「全国三部会」なる会議を開いて、教会への課税を再び認めさせた。「みんなが言ってるんで」とフィリップは課税に踏み切る。これに対し教皇は、「教皇(パパ)のいうことが聞けない奴はみんな地獄行きだから」と宣言。今では某米国大統領の脅し文句くらいにしか聞こえないが、当時は重みがあった。教会は死後の世界をも司っていた。フィリップ王は1303年、ついに部下に命じて、アナーニというところにある教皇の別荘を急襲させ、監禁した。名目は、「今の教皇は陰謀で位についた悪徳教皇」。その後教皇はすぐに解放されるが、病状を悪化させ、死去。勢いに乗ったフィリップは、1309年、自分が使いやすいフランス人司教を教皇の位につかせ、あろうことか、教皇の住まいをローマから当時は田舎町だったアヴィニョンに移動させてしまった。いわば、フランス国王が人質として教皇をフランスにおいたのだ。これがいわゆる「アヴィニョン捕囚(教皇のバビロン捕囚)」である。

この状況は事実上、実に約100年続いた。歴史の表舞台となったアヴィニョンは、田舎町から徐々に整備が施され、一方ローマは最盛期から一気に転落し、貴族が好きかってをする廃れた街になってしまった。70年目に一度教皇はローマへ戻ったが、新しい教皇の選挙を不服としたフランスはすぐに別の教皇をフランスで任命させ、二人の教皇が存在するという状況にまで至ってしまう(「教会大分裂(シスマ)」)。こうしたゴタゴタのせいで教会の権威は失墜し、ルネサンス、ひいては宗教改革へと続いてゆく。そんな大事な出来事の舞台となったのがこのアヴィニョンなのだ。城壁も、この歴史を語っている。

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城壁

城壁を抜けると、メインストリートらしき道がある。街路樹が植えられ、風が気持ち良い。そして太陽はジーンと降り注いでいる。日曜日だったので服屋などは軒並みシャッターが閉まっていたが、カフェやアイスクリーム屋の類は小規模なテラスを出していて、地元の人たちがそこに座っていた。時間の進み方が、ゆったりとしているような気がする。

わたしは道を歩く途中で見つけた、まるで城のような形のツーリストインフォメーションに入り、町の地図を手に入れた。アヴィニョンに長居をするつもりはなかった。しても良いのだが、アヴィニョンはあまりアクセスが良くないので、これからスペインに入ったりすることも考えると宿泊地は変えたかった。そして、前日のディジョンの経験から、10kgのバックパックを背負いっぱなしで町歩きをし続けるのは無謀である。そう考えると、観光に取れる時間は大体二時間。

近くにあったキャルフール(大手スーパー)で本場のオランジーナを買って、私は再びメインストリートに舞い戻った。太陽の光が街路樹の葉を照らし、葉の緑はまるで新緑のような明るいグリーンである。穏やかな風、カラッとした空気。なんならここに捕囚されてもいいなと思ってしまうような気持ちの良い道だ。ただ、カラッと暑いので喉の渇きは凄まじい。私はオランジーナを一口飲んだ。思えば、佐藤二朗が出ている「コマンタレヴー(お元気ですか)」と聞きまくるオランジーナのCMは、南仏の雰囲気があるような気がする。

しばらく歩くと、ついに街の中心にたどり着いた。そこはちょっとした広場になっていて、ど真ん中にはメリーゴーラウンドがあった。その脇にはレストランのテラス席。建物は限りなく白に近いクリーム色で、太陽の光によく映えている。その雰囲気はどことなくイタリアに似ているが、イタリアにメリーゴーラウンドはない。ストラスブールでも、ディジョンでも、リヨンでも、フランスの街にはメリーゴーラウンドを置きなさいという法律でもあるのだろうか。

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広場

この広場から伸びる路地を進めば、かつて教皇が住んでいた教皇宮殿である。少しワクワクしながら、私は狭い路地を進んだ。道は間違っていないはずだ。路地にはたくさんの人が歩いている。

案の定、路地を抜けると突然開けた場所に出て、さっきの広場よりはるかに広い空間が出現した。左を見ればテラス席、そして右を見れば二つの尖塔に、のこぎり型の狭間、頑丈そうな壁を持った巨大ないかつい城塞が少し小高いところに立っている。サンピエトロ大聖堂やシスティーナ礼拝堂のイメージとはかけ離れている厳しい建物だが、これが間違いなく教皇宮殿だった。

基本的に大きな荷物を持った人はこういうところには入れないので、私ははなから入ることは諦め、宮殿を外からしばらく見つめていた。ここが、アヴィニョン捕囚の舞台か。この明らかに住居でも教会でもなく、城塞でしかない建物は、きっとフランス王の人質である教皇は閉じ込めるものなのだろう。そう、彼はやはり人質だった。こんな気候のいいところなら捕囚されてもいい気もしたが、これだけの城塞の中に閉じ込められたら満足に外にも出られまい。そして言われるのだ。「聖下、これは牢獄ではありませんよ。貴方様をお守りするものでして…」

広場は高低差があって、宮殿は小高いところにある。広場の入り口から向かって奥に進むと段差があり、宮殿に近づいて行くことができる。おそらく、山のような地形を街にしたのだろう。私は高い方へと進んでみた。そこにはジャコメッティみたいな細い像が立っていて、バンザイポーズを見せている。その像の前には記者の形をしたバスがいて、観光客を満載してちりんちりんという音を立てながら走っていた。

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教皇宮殿 Palais des Papes

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表示を見ると、この広場を通り抜けて街の城壁の外に出れば、有名なサンベネゼ橋がある。通称、アヴィニョン橋。この橋は、かつてアヴィニョンに住んでいた羊飼いのベネゼが神のお告げによって建てたという。時を経て半分も残っておらず、橋というよりもむしろ埠頭、横浜の大桟橋のようになっているらしいが、世界遺産にもなっている。この橋がどうして有名なのか。それはこの橋が落成した時に歌われたという、有名な歌のおかげだ。きっと今これを読んでいるみなさんも聞いたことがあるだろう。


アビニョンの橋で

アヴィニョンの橋で Sur le Pont d'Avignon

踊るよ、踊るよ On y danse, on y danse

アヴィニョンの橋で Sur le Pont d'Avignon

輪になって組んで On y danse, tous en rond

広場を抜けるとまた狭い路地があり、急な坂になっていた。狭くて急な階段と、それを取り囲む白っぽい建物と空から入ってくる日の光。これまたイメージ通りの南仏だった。写真を撮ろうとスマホを出すと、ちょうど階段の下で写真を撮ろうとカメラを構える初老の男性がいた。そりゃそうだ、ここは写真を撮りたくなる場所だ。世に言う、フォトジェニック、だろうか。私はカメラを持つ彼をみて、スマホで撮ろうとしている自分が急に恥ずかしくなり、彼の写真の邪魔にならないようにその場を立ち去った。

土産物屋の横を通って、しばらく閑散とした道を歩くと、城壁に出会う。城壁をくぐれば、突然道路が現れる。車がたくさん走っている。思えば城壁の中では車なんて、観光用の汽車型のやつくらいしかいなかった。突然現実世界に引き戻された気でいると、奥に水色の川があるのに気づいた。そして、その川には、シンプルなデザインの、美しい橋が途中までかかっていた。これが、あれか。私は感心した。だが、どうやってはいるのかわからない。まあそれも仕方ない。外から見るのも美しいんだ。私は橋をくぐって、近くにあった城門から市内に再び入った。

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サンベネゼ橋。よく見て欲しい。この橋は向こうまで繋がっていない。

すると、どうやら城壁の上に登ることができるらしい。せっかくだ。アヴィニョンで何もしないのもつまらない。わたしは見張り塔のような施設に入り、螺旋階段を伝って塔の上まで登った。前には家族連れがいる。急ぐ子供、ぐんぐん進むお父さん、待ちなさいと追いかけるお母さん。どの国でも見る光景である。階段はぐるぐるぐるぐるぐるぐると上へと伸びていて、狭い。時折、塔の外側が見えるようになっているが、わたしはあえてそれは見ないで、頂上でのお楽しみとした。

しばらくして、わたしは塔のてっぺんにたどり着いた。塔を出ればそこはもう城壁。気分は「真田丸」である。太陽が照りつけて暑いし、荷物は昨日より離れていてまだマシだが、やはり重い。わたしはオランジーナの最後の一滴を飲み干した。衛兵になったような気分で中世の城壁をつたって、より上の方を目指す。この城壁はどうやら、アヴィニョンの町の頂上に続いているようだ。

登りながら町の外を見ると、水色の美しい川が流れ、そこに向かってサンベネゼ橋が突き出していた。歌詞とは裏腹に、橋はきちんとした欄干がない上に狭いので、話になって組んで踊ると危険だという話を聞いたことがある。こうやって上から見るとそれはよくわかった。川の手前には車が走り、川の向こう側は文明とは程遠いような森と山だけの世界があった。きっと、ユリウス・カエサルがガリア地方、今のフランスにやってきたときは、全てがあのような森と山の世界だったんだろう。反対側には、城下町がある。街の外の街である。赤茶けた素朴な家が立ち並び、まるで中世の街並みを見ているようだった。そこでは時間の進み方が、川沿いを走る車のスピードよりも確実にゆっくり流れているように見えた。この、中世の城壁からは、現代と過去が見渡せた。

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頂上の公園で、しばらくベンチに座って空を眺めた。随分とたくさんのところに行ったようだが、まだ三日目に過ぎない。普段の東南アジア旅行なら、1都市目が終わるくらいだ。だが今回は、移動する旅。幸いまだ疲れは来ていない。

立ち上がり、山を下ることにした。方向がどちらかはよくわからないが、まあなんとかなるだろう、ととりあえず歩いていると、教皇宮殿が現れた。なるほど、宮殿を伝って降りてゆくわけか。かくしてわたしは知っているアヴィニョンに戻ってきたのだった。宮殿前にある小さな階段に腰掛け、宮殿前に設置された巨大な十字架を見た。そろそろ、アヴィニョンを離れる時間が近づいている。面白い街である。長期滞在したい街かと言われるとよくわからない。だが、気持ちの良い街ではあった。風と太陽と緑と、そして歴史。アヴィニョンには時の流れがあったからだ。

わたしは再び駅の方へと向かい、昨日一昨日の不節制を戒めるべく、駅のパン屋のぱさぱさのハンバーガーを食べた。5.20ユーロ。大体700円くらい。昨日のワインとムール貝に比べれば大きな差である。次の目的地は、アヴィニョンからほど近いニーム。ニースではなく、ニーム。今日はニームに滞在するつもりだ。