Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

10都市目:ビルボ(2)〜はしごの夜〜

新年あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

本来なら、旅の第1部(8/10〜8/20)を書き終えて、新年の話でもしようかと思ったが、まだ終わっていないので、ビルバオの続きを話そうと思う。

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さて、やっとの思いでホテルを見つけたわたしは、外に繰り出した。もう夕食の時間だ。街も夕方の雰囲気である。わたしはホテルの人に教えてもらった、バルのたくさんある界隈に行くことにした。今日は飲みたい気分だ。いろんなことがありすぎた。それに、バルといえばバスク名物。たらふく飲もう。

まず立ち寄ったのは、大きな広場だった。スペイン式の真四角のピロティ風の広場の真ん中にはステージが設けられ、祭りの前夜祭の空気感を醸し出している。とはいっても、広場を取り囲むようにバルがたくさんあるので、誰に入るべきか迷う。わたしは何周かして、一番賑わっているところを狙う「リヨン計画(3都市目:リヨン〜リベンジするは我にあり〜 - Play Backを参照)」を実施することにした。

しばらくうろついていると、広場の入り口付近に良さそうなバルがあった。バルでの一杯やり方は知っていたが、なんとなく人恋しく、手前で飲んでいる女性に声をかけた。

「どうしたらいいでしょうか?バルは初めてで」と言うと、

「カウンターの奥の人にオーダーするのよ」と返した。女性は、すると、カウンターのところにいる人を呼んでくれた。カウンターにいる人はお皿を私にくれた。お皿をもらったということはバルの食事が始まるということだ。

「Gracias(ありがとう)」

「De nada(なんでもないわ)」

「¡Una cerveza, por favor!(ビール一つお願いします!)」と店のおばさんに頼んだ。それから、生ハムピンチョスを指差した。バスクはバルの本場であると共に、生ハムの本場でもある。それから青魚も。要するに、バスクは呑んべえ天国である。

バルは立ち飲み屋のようになっていて、店内も大きくないので人がワイワイガヤガヤと詰め込まれている。私はビールを飲み、ハムをつまんだ。うまい。誰かと話したかったが、周りにいる人たちは団体客ばかりであまり声をかけやすそうではない。残念だが、仕方ない。今までの旅の中で、これほど人とのつながりを求めたことはないし、普段だってそうだ。だが、この日はそれが必要だった。

私は会計をすませると、すぐに別の店に移ることにした。空腹のまま広場をうろちょろしたが、どこに入るか検討がつけられない。どこも繁盛していそうだった。それなので、「バル・ビルバオ」という由緒正しそうなバルに入ることにした。適度な混み方だ。

「Kaixo!(おばんです)」とバスク語で挨拶をして、席に着いた。バルを切り盛りしている人は忙しそうだ。声をかけるのも大変そうである。それにどの人も、どことなく顔つきが険しく、筋肉質だ。しかし、とりあえず……

「Una cerveza, por favor(ビールを一杯)」と頼んだ。それから、お皿をもらってゲームスタートである。

今まであまり説明しなかったが、一応ここで説明しよう。バルのルールは単純である。まず、挨拶、それから、お皿と一杯目をもらう。お皿をもらったら、基本的に、自分の手の届くピンチョスは自分で取る。ピンチョスは大抵、下にパン、上に生ハムや魚などの「ネタ」が乗っており、それを貫くように爪楊枝がぶっ刺さっている。この爪楊枝が大事だ。「君の名は」よろしく、「爪楊枝が入ってるんですけど」とクレームをつけるわけではない。そうではなくて、この爪楊枝の数がとったピンチョスの数になるのだ。だから会計の時は、その爪楊枝の数を数えて、店員に申告する。回転ずしで例えるなら、お皿になるわけだ。みなさんも、バスク地方に行く機会があったら試してほしい。まあ、このような知識、なければない方が、会話の種になって良いのだが。

席に着いてみると、どうだろう。目の前に、昨日、一昨日とマドリードで通い詰めたバルで私が気に入った青魚にドライトマトを乗せたピンチョスがあるではないか。私はすぐさまそれを取り、パクリと食べた。マドリードの方が味が薄く、食べやすかった。しかし、しょっぱいビルバオスタイルのピンチョスも、酒と一緒となるとかなり場に映えてくる。しょっぱさが口に残っている中に、ぐいっとセルベサ(ビール)を流し込めば、気分も最高だ。

その勢いで、私は幾つかピンチョスをぱくつきながら、ビールを飲んだ。どれも味が濃いめで、酒が進む味だった。極上のピンチョス、とまではいかないが、飲み屋としては良いのではないか。などと、評論家ぶっていると、バスク人のおっさんが入ってきて、店員に、

「Aizu! Txacolia mesedez(アイスゥー!チャコリア・メシェデス:ええが?チャコリさ、一杯ほしいんじゃけんじょ)」と頼んだ。

チャコリ。それはバスクの地酒だ。スペイン語会話でも、バスク語の本でも目にした単語だった。これは試さずにはいられない。わたしも、

「Un chacoli, por favor(チャコリを一杯お願いします)」とビールを飲み干すなり頼んだ。いかつい店員が、おもむろに瓶を取り出し、高い位置からグラスにじょぼじょぼじょぼっとチャコリを注いだ。高い位置から、まるで「相棒」の杉下右京のごとく、あるいは中川家の真似するお茶を入れる中国人のごとく、注いで見せるのが、チャコリの飲み方のようだった。

目の前に置かれたのは、シャンパンのようなお酒だった。スパークリングで、白。私にとってシャンパンは好きでも嫌いでもない代物だったので、案外普通だなあという気分で飲んでみると、そこまでの驚きがあるわけでもなかった。強いて言うなら、フルーティで甘い。酸っぱさよりも、どことなくメロンを思わせるすっきりした甘さがある。飲みやすいので、すいすい飲めてしまう。

ふと左に目をやると、スタイリッシュなおじさんが一人で飲んでいた。おじさんはスペイン語ができないのか、身振り手振りで店員と会話している。例えば、奥の方にあるピンチョスがほしい時は、「卵のやつ」程度の英語を話しながら、大皿を指差す。すると店員は、隣にいる女性の店員の方を悪戯っぽく指差して、「この子がほしいの?」という顔をする。おじさんははははとごまかす。店員はボケるのをやめて、お皿から卵を持ってくる。多分このおじさんも一人旅の旅人なのだろう。

「Hola(こんにちは)、旅行者ですか?」とわたしはおじさんに声をかけてみた。

「ええ、そうです」とおじさんはちょっと驚いたように答えた。

「僕もです。どちらから?」と私は言った。

「フランスです」おじさんは答えた。

「へえ。Je parle français un peu(フランス語ちょっとだけ話せます)」と私は言ってみた。おじさんはますます驚いた顔をした。それから何やら言ったのだが、周りがうるさくて、聞き取れなかった。多分フランス語だ。

「Pardon?(もう一度お願いします)」というと、

「ヨーロッパは長いんですか?」と英語で言う。英語になってしまったが仕方あるまい。

「いえ。これはヴァカンスなので、日本から」と答えた。

ビルバオはいつからいたんです?」

「実は先ほど着いたばかりなんです。実を言うと、祭りの前だって知らなくて、危うくホテルを取れないところでした」私はちょっと笑いながら先ほどまでのことを話した。

「で、結局取れたんですよね?」とおじさんは不安げな表情で尋ねる。

「ええ、なんとか。でも、僕のような貧乏な学生旅行者にとっては高いホテルになってしまいました」私は慌てて付け加えた。

「わかりますよ。私だって昔は学生でしたからね。私の方は、ビルバオの祭りのことは知っていたので、ネットで予約しましたよ。でも、明日には出ないといけないんです」おじさんは言った。

「僕もなんです、残念ながら」

「そうかあ……」

ビルバオにはいつからいらしたんですか?」

「わたしは、二日前です。このバルもずっときていますよ。ここの人たちは本当に面白い。あなたはどうしてこのバルに入ったんです?」おじさんは尋ねた。

「ええっと……人がたくさんいたからです。あなたは?」と答えるとおじさんは笑って、

「ガイドブックに書いてありました」なーんだ、そういう店なのか。有名なようだ。確かに、バルの中には、スペイン人の他に、ドイツ人などいろいろな人がいる。さきほど、スペイン語が流暢で神経質そうなドイツ人のお母さんがオーダーしていた。おじさんは、さらに「スペイン中を旅しているんですか?」と尋ねてきた。

「フランスとスペインです」私は答えた。

「そうか、フランスにもね。どこに行ったんですか?」

ストラスブールディジョン、リヨン、アヴィニョンニームトゥールーズ……それから国境を越えて、バルセロナマドリード、トレドです。明後日からボルドーでホームステイをするので、明日にはスペインを出てバイヨンヌにいくつもりです」と、答えると、おじさんは、

バルセロナの不幸(disaster)を聞きましたか?」と言った。

「ええ、あれの1日前にバルセロナにいました」私は答えた。

「実は私もそうでした。それからビルバオに来たので」奇遇なことだった。同じような人がいたとは。となると、駅か何かですれ違っていたのかもしれない。しばらく神妙な雰囲気が流れたが、おじさんは話題を明るくしようと、

「どこが一番でした?」と尋ねた。

「難しいですね……バルセロナが大好きでした」私はそう答えた。おじさんは悪戯っぽく、

「フランスは?」と聞いてきた。

ニーム、好きでしたよ」とこたえると、おじさんはゆっくりと頷いていた。

「大学では何をやってるんです?」おじさんは尋ねた。

「哲学です。フランス哲学をやっています」哲学は日本と違ってフランスでは随分と市民権を得ている、そんな情報があったので、私はあえてアピールしてみた。

「哲学かぁ。もう忘れてしまいました」おじさんは笑った。「誰のやつですか? デカルト? パスカル? ルソー?」

ベルクソンです」私は答える。

「ああ、知ってますよ。でも忘れましたね、内容は。私は建築家をやってます。だからアートが好きでしてね。ヨーロッパを回っては見ています」

「アートですか、いいですね」

グッゲンハイム美術館みました?」とおじさん。

「まだ行ってません。ビルバオに着いたのが6時くらいでしたからね……」私がそういうと、おじさんは、

「あれは見たほうがいい。最高ですよ」と言った。

「へえ、行ってみます。そうだ、バスクに興味があるんですけど、バスク文化の博物館とかありませんでしたか?」私は尋ねてみた。昨日のトレドのセファラディーム博物館のようなものをみたかった。

「いえ、残念ですけど」

しばらく沈黙があった。わたしは、

「ここの料理でどれが一番良かったですか?」と尋ねてみた。それを食おうと思ったのだ。

「そうだな、卵かな。卵は美味しかったです。あと、あのサーモンと、ハム」おじさんはそう答えた。

しばらくして、おじさんは「私は川沿いを散歩してから帰ります」と答えてバルを後にした。私は、おじさんセレクトのサーモンのピンチョスを、チャコリと一緒に食べ、それから会計のサインを出した。

「¿Tres?(三つかい?)」と厳ついおっさんが言った。

「No, seis(いや、六つ食べました)」私は誠実に答え、バルの会計を済ませた。

 

 外に出ると日暮れの時刻だった。今まで日暮れ前には帰っていたが、今日はまだまだ飲み足りぬ。そう言う夜もあるものだ。テロにあっちゃいけない、危ない目にあっちゃいけないと思う一方で、どうなってもいいような気もしてくる。私は半ばやけくそだったのか、夜のビルバオを徘徊した。

広場の外にも、バルはごまんとあった。しかしどれもなんとなく入りづらい。やけくそな割には、入る店を選んでしまうのだ。私は交流が欲しくて、地元民たちが歌っているバルに当たりをつけた。その店の向かいにも虹色の旗を掲げたバルがあって盛況だった。そう言う地区かもしれないが、構うまい。

「Kaixo!(おばんです)」と声をかけて、バルの席に着いた。そこは二人の男性に切り盛りされていた。カップルかもしれない。

くる前にバスク語をちょっとやったので、私はここはバスク語で行こうと心に込めていた。それなので、私は、

「Txacolia mesedez(チャコリさ、いただきたいんだけんじょ)」と頼んだ。店員のピアスをした男性は少し驚きながら、静かにチャコリの瓶を出し、上から注いだ。

チャコリを手に入れた私は、カウンターにのるピンチョスを指差して、

「Mesedez!(いただきたいんだけんじょ!)」と頼んだ。これにあたる単語を忘れたのである。こんなもんだ。

店員は無言のままさらに取ってくれた。少なくとも通じてはいるようだ。

「Eskerrik asko(エシケリク・アシコ:ありがとなし)」と答えると、店員はぺこりと頷いた。

見回してみると、店は何かの競技のグッズであふれていた。それは、アスレチックビルバオというサッカーチームのものらしかった。白地に赤い線が入ったユニフォームにはたくさんのサインが書かれている。ビートルズアビーロードのジャケットにでてくるビートルズの四人にユニフォームを着せた写真が飾ってある。

カウンターの隣には常連と思しきおじいさんおばあさんがいて歌を歌っている。いい雰囲気だ。なんとなく、「紅の豚」にでてきそうである。

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親戚は関西、生まれは山梨、育ちは埼玉、途中で1年間ベルリン、そのあとは東京で長く暮らしている私にとって、こうした「地元」感は憧れの的だ。昔はちょっと面倒だなと思っていたし、いざその場にいると嫌なのだろうが、こうやって知った顔で飲み明かし、祭りをやるっていうのには憧れる。ビルバオ人でもないくせに、どことない郷愁を感じた。

もう一人の店員が近くにやってきて、何やらスペイン語で尋ねてきた。だがわからないので、

「Perdon, ¿habla ingres? Porque no puedo...(すみません、英語話しますか?あの、スペイン語は僕は…)」

「ああ、そでしたか。すません。あなたを見たことがあります、たぶん、雑誌かテレビで…」と店員、というかオーナーらしき男が言う。誰に見間違えられているんだろう。

「ええっと、たぶん違う人ですね。僕はフツーのただの日本人旅行者で…」と私は状況を面白く感じつつ、少し戸惑いながら、言った。

「すみません」店員は会釈をして向こうの方に行ってしまった。わたしの表情が固かったのか。少し反省をして、店員を呼び止め、目の前にあったトマトソース色の煮込みの器を指差して、

「これはなんですか?」と尋ねた。

「これは、レバーの煮込みです。ソースはビスケーズ風」と店員が答える。要するにモツ煮込みというやつだ。うまそうではないか。ビスケーというと、バスク地方近郊の海だ。私は一つ頼むことにした。飲み物が足りなかったのでもう一杯チャコリを頼んだ。ビールも含めてバスクの酒は不思議と酔わない。

店員がカウンター上の煮込みをチンした時は、おっ?と思ったが、まあいいだろう。大衆食堂なのだから。味はというと、ビルバオ風ピンチョスの味に慣れてきたせいか、ちと薄いように感じたが、うまかった。モツもうまい。チャコリは相変わらず風味豊かで口の中に甘さが広がる。

しばらくその店にいたあと、私は会計を済ませて外に出た。11:00くらいになっていた。だがホテルに帰る気分にはならなかった。高めのホテルだし、門限はないだろうし、単純に今すぐに寝たくはなかった。まだ、ダメだった。そう思いながら夜の街を歩いていると、向こうの方でブラスバンドの音が聞こえてきた。行ってみるしかないではないか。

10都市目:ビルボ(1)〜危機一髪〜

バスはひたすら、一面に広がる荒野の中を走っていた。太陽が照りつけ、地面に生えるのは短い草ばかり。遠くには剥き出しの山の稜線が見えていて、時々、道を見下ろすように、丘には牛の形をかたどった看板が置かれていた。テレビで見たことのあるスペインの風景が、だいたい、BGMでジプシーキングスがかかっているようなあの風景がバスの外側には広がっていた。しかし残念なことに窓際ではないので、全体的に見えるわけではない。それでもいい。バスの旅には変わりない。とにかく、流れてゆく荒野の風景を見ているだけで、心の癒しになった。

途中レルマで休憩が入った。わたしはそこのインターチェンジで水を買ったのだが、そのインターチェンジの様子は、イタリアやカナダのものと差して変わらなかったため、どこも同じなのだなと思った。10分もすれば、バスはまた動き出し、一路ビルバオをめざす。風景はやはり荒野である。4時間45分の長旅。しかし、それくらいがちょうどいい。そのうち、このバスから出たくなくてたまらなくなってくる。

16:00になると、風景が変わってきた。徐々に山が険しくなり、そびえ立つようになる。石ころしかなかった荒野には徐々に木が生え始める。高い山と山の間には大きな雲がある。バスはそこを突っ切った。するとどうだろう、岩山の風景にはまばらに木が生え始め、最後には日本で見慣れた緑の山へと大変身してしまうのだ。あたりは緑で溢れた山の風景に変わった。道は山道、曲がりくねっていて天気も悪い。先ほどの太陽は信じられないくらいだ。山道に時折見える小さな家は、白壁に赤の屋根。この土地特有の風景だという。

 

ビルバオは、イベリア半島の中でも「湿潤スペイン」という地域にある。全体的に乾燥した気候のイベリア半島の中にあって、湿潤スペインでは緑が生い茂り、雨が降っている。実際にバスで走ってみて変化の激しさに驚いた。先ほどまで荒野だったのが、いきなり緑になるのだ。

湿潤スペインと別の地域にはもう一つ大きな違いがある。それは、民族である。この土地は、バスク人の土地なのだ。スペインは、大雑把に言って、スペイン語カスティーリャ語)を話す地域、カタルーニャ語を話す地域、ガリシア語を話す地域、そしてバスク語を話す地域の四つに分けられる。このうち、カスティーリャ語カタルーニャ語ガリシア語は、それぞれ紆余曲折を経てきたとは言っても、結局のところラテン語の子孫である。つまり、かつてヨーロッパ全域を支配したローマ人の言葉を話す人たちの子孫だ。ところが、湿潤スペインに住むバスク人たちが話すバスク語は、ラテン語はおろか、英語やロシア語、アイルランド語とも全く違う(印欧語族ではない)言語なのだ。諸説あるが、このバスク語、ローマ人やケルト人といった今のヨーロッパ文明を築き上げた人たちがイベリアに入ってくる前に存在した「原イベリア人」の言葉なのではないかという説もある。とにかく、ここはちょっと他とは違うのだ。

百聞は一見に如かず。朝の挨拶を見てみれば、バスク人の言葉がいかに周りと違うのかがわかるはずだ。

スペイン語:Buenos dias

カタルーニャ語:Bon dia

ガリシア語:Bos dias

フランス語:Bonjour

バスク語:Egun on

そんなバスク人たちは、漁業と牧畜を営み、独自の文化を持っていた。ローマ帝国もなかなか手を出せなかったくらいだ。雨の多い山奥に住んでいたことも、他の敵を寄せ付けづらかった理由の一つである。ローマが滅亡し、ゴート人が入ってきた時もマイペースだったが、イスラーム勢力が入ってきて、ゴート人貴族ペラヨがバスク人の土地に亡命してきた時から、バスクの歴史は動き出す。彼らはペラヨが作ったアストゥリアス王国の成立の手助けをしたのだ。ところがピレネー山脈の北側でフランク王国が成立し、だーっと南に征服の魔の手を伸ばしてきたとき、バスク貴族たちは、北のフランク南のウマイヤ朝のどちらにつくのかを迫られることになる。そんな最中、バスク人は「どちらにもつかない」という決断を下す。それを指導したのがイニゴ・アリスタという男だった。彼はパンプローナを中心に独立したパンプローナ王国を立ち上げたのである。といってもこの国は結局南のイスラームの国コルドバの勢力身長とともに衰退していく。その代わりに、パンプローナではなくナバラというバスク人の王国が力を徐々につけてゆくのだった。

その後、サンチョ2世という国王が現れ、ナバラ王国を強化、さらにサンチョ3世の時代には、あろうことか、アストゥリアス王国の末裔であるレオン王国レオン王国から独立したカスティーリャ王国、そしてあのバルセロナを収めるアラゴン王国といったキリスト教勢力の雄国たちを次々と平らげ、北スペインを統一するに至る(戦争よりも、政略結婚でそれを成し遂げた)。サンチョ3世は自らを「ヒスパニア皇帝」と名乗ったという。彼は現在世界遺産に登録されている「サンティアゴデコンポステーラの巡礼路」を整備、中世ヨーロッパに「大巡礼ブーム」が捲き起こる下地を作った。しかし、サンチョ3世が死ぬや、国は崩壊、それ以降ナバラは弱小国家に成り下がる。ナバラ王国の王は最後にはフランス人のものになり、その領土はスペイン王国に併合されてしまった(ちなみに、ナバラ王国の王になったフランスの家は「ブルボン家」であり、ブルボン家エンリケ王はフランスの内戦に参戦して勝ち上がり、フランスのブルボン朝の開祖となる。アンリ4世である)。

スペイン王国は、カタルーニャに対してと同様に、バスク人の言葉バスク語を禁止した。特に、フランコ独裁政権下では、弾圧されもした。バスク人たちは結束し、独立を求めたが、毎度失敗した。フランコの軍隊と共和国軍の戦いであるスペイン内戦勃発時は、バスク人たちは強烈にフランコ軍に抵抗した。フランコを支援するナチスドイツは、空軍機をバスク地方ゲルニカに向かわせ、無差別に空爆をした。これは有名な話で、ピカソの絵にもなっている。フランコ政権崩壊後、バスクは自治州となった。しかし、バスク人たちはそれだけでは納得せず、フランコ時代に組織されたテロ集団「ETAバスク祖国と自由)」が幾度となくテロを繰り返していた。この抵抗運動が終わるのは、つい最近である。ほんのつい最近、ETA武装解除をしたという。今では独立といえばカタルーニャだが、かつてはバスクの方がぶいぶい言わせていたのである。

 

うねる山道を通っていると、先ほどまで雨が降らんばかりの分厚い雲だったのが、少しだけ晴れた。太い川が流れる町があわられた。さっぱりした町だ。マドリードバルセロナの「Ah ah...果てしないー!」という大都会感はなく、フランスの街ともどこか違う。なんと言えばいいのかわからないが、こざっぱりとしている。

バス停はいつもと違って地上にある。地方都市のバスターミナルって感じだ。バスが停車し、わたしもバスを降りた。空気はスッとしていて、涼しかった。昨日までのうだる暑さが嘘のようである。わたしは人の流れに従って、駅の方へ向かった。訳あってWiFiに接続したくなかったので、スクリーンショットしておいた地図を頼りにツーリストインフォメーションを探すことにした。

 

やけに近未来的なビルバオの地下鉄を使って、アバンド駅に着いた。駅の表示はやはり、スペイン語カスティーリャ語)とバスク語の二言語だ。アナウンスも、である。といっても、発音の雰囲気はそこまで変わらない。

アバンド駅を出て、グランビアなる道を歩いた。とにかくかがたくさん植わっていて、気持ちの良い涼しい風が吹いている。風通しの良さそうな服を着た女性たちが歩いている。建物はどことなくスイスのチューリッヒにあったものに似ていて、バルセロナマドリードよりも、ヨーロッパっぽいなと感じる。

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インフォメーションがあるのではないかと、グランビアのはじにあるロータリーをくるくる歩いたが見えるのは銀行とブティックばかり。どうしたものかと思って確認すると、自分が全く違うところにいると気づいた。わたしは仕方なくグランビアを逆戻りして、アバンド駅の近くにある中央駅へ向かった。インフォメーションはその側にあるはずだった。だが、探せども探せども見当たらない。

結局、全く見つからず、仕方ないので旧市街に入ってホテル探しをすることにした。またあの近未来的な地下鉄で、旧市街があると思しきサスピカレアック駅を目指した。

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ビルバオの地下鉄は、どの駅もシルバーで、長い動く歩道があって、なぜだか月エレベーターを思い起こさせられる。まるでSFである。それが、旧市街の駅サスピカレアック駅もそうなのだから笑えてくる。長いエスカレーターを登ると、見えてくるのは月面ではなく、古い建物に囲まれた広場だ。

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道幅の狭い旧市街の道を歩くと、まず町の色がバルセロナマドリードと違う方に気づく。マドリードの白、バルセロナサフラン色にくらべ、ビルバオはどことなくくすんでいるのだ。いわゆる石の色だ。山の石を使っているのだろうか。

バルコニーには花があり、建物と建物の間にはイルミネーション用のライトがつる下がっていて、バスクの旗がかたどられている。数メートルおきにバルコニーにバスクの旗が掲げてある。ビルバオ新市街のグランビアを歩いていた時はあまり感じなかったが、旧市街に来るとやはりわたしはバスクにいるのだなと感じる。

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旧市街は人で溢れ、時々ストリートミュージシャンが演奏している。しかも、ただのストリートミュージシャンじゃない。むしろ、パフォーマーというべき人が多くて、例えば操り人形にピアノを弾かせている人は、ずっと同じところでやっていた。またはなんだか浮かれムードであった。

いい街に来たかもしれない、とわたしは思いながら、ホテルを探した。オスタルがよかったが、ペンシオンという似たような感じのものを見つけたので、わたしは階段を登って入ってみた。

映画をモチーフにしたペンシオンのようで、映画俳優の写真がたくさんかかっていた。NHKスペイン語番組に似たようなのが出て来たので、驚きはしなかった。しかし問題はフロントの人がいないことだ。声をかけても出てこない。わたしは別を当たることにした。

旧市街にはたくさんのホテルがある。先ほどのペンシオンの向かいにも別のペンシオンがあった。階段を上ると、フロントにおばちゃんがいたので、

「¡Holà! ¿Hay una habitation libre?(こんにちは、空いてる部屋はありませんか?)」とテレビ受け売りのフレーズを使ってみた。

「No. Lo siento...(いえ、ありません。残念だけど…)」とおばちゃんは言った。今まではこういう展開はあまりなかったからちょっと驚いた。だが、仕方ない。別を当たることにした。

そのすぐ側にあるオスタルに入ろうとすると、インターフォンのところに「Completo(満室)」の張り紙がある。別のところもそうだった。わたしは徐々に自分がとんでもなく良くない状況にあることを悟りつつあった。

そのあと、何軒か張り紙のないところもあったが、階段を上っていざ聞いてみれば、満室だった。時刻は7時半を回ろうとしていた。わたしはWiFiを取り出し、起動して、ユースホステルの場所を検索した。そしてそっち方面に行こうと、川を超えてみたものの、どこを探しても、ユースホステルの影すら見えない。日も傾き始めて徐々に心細さも募って来る。

バルセロナで難を逃れた。生きているし、バスク地方までやってこれた。しかしこれも運の尽き。この町の路上で野宿なのか。にしてもビルバオはどうしたんだろう。なぜこうも満室が多いのか。街並みも山並みも美しいが、気分はそれどころではない。外の気温は涼しいが、変な汗をかいてくる。ストリートパフォーマーの曲は切なく、操り人形は気力なく操られる。

その後何件かいっても無駄だった。ユースホステルに空きがないことはないから、何とかしてユースを見つけねばならない。わたしはまた電車に乗ろうと思ったが、最後のあがきと目に入った川のそばのホテルに入ってみた。三つ星(最高は五つ星、普通は二つ星か、一つ星に泊まる)だが、仕方ない。他に宿がないのだ。

 

ホテルのフロントは、フロントらしい感じで、カーペットが敷かれていた。すごく良いホテルのようだ。つまり、わたしのような貧乏旅行者からすれば、非常に良くないホテルである。

「¡Holà! ¿Hay una habitacion libre?(すみません、部屋はありますか?)」と駄目元で聞いてみる。フロントのぽっちゃりしたお姉さんは、コンピュータを覗き込んだ。またダメなのか…そう、希望を失いかけた時だ。

「Si, hay una habitacion.(ええありますよ)」

普段なら驚かないことだが、この時ばかりは驚いてしまった。野宿は免れたのだ。値段が100ユーロ以上したので少し緊張したが、15000円くらいなので日本のホテルからしたらやすい方だと自分を無理やり納得させた。今まで二日で7000円とかやってきたので予定外の出費だが、なんとかなるだろう。わたしはこのホテルに泊まることにした。

「どこも満室で…なので良かったです」わたしは英語で言った。

「明日はビルバオにとって大きな日ですから」とフロントの女性は言った。

聞いてみると、バスクの祭りグランセマナが明日始まるらしいのだ。そうか、だから部屋が満員だったか。調べたほうがいい時もあるな。わたしは少し反省した。お姉さんは祭りのチラシをくれた。しかし、残念ながら、明日にはビルバオからフランス領内に入らねばボルドー留学に間に合わない。とりあえずチラシだけもらって、わたしは部屋へと上がった。

中央駅のそばにあるオテル・アレナルはこざっぱりとしていた。階段を上ると木を基調とした廊下があり、所々にバスクのスポーツであるペロタの写真が飾ってある。ペロタとは、スカッシュに似たゲームで、壁打ちをするゲームだ。普通と違うのは、ラケットを使わず、手を用いることである。ボールを手でバシンと打って、壁にぶつけ、跳ね返ってきたものを相手が手で打ち返す。これ、ならないと痛いらしい。テレビのスペイン語の番組で、出演していた俳優の平岳大が悶絶していた。

部屋は広かった。かなり綺麗で、今までのところとは大違い、強いて言うならイビスに近い。テレビをつけると、バルセロナのランブラス通りが映っていた。花がたくさん置かれ、カタルーニャ首相のプッチダモンだけでなく、スペイン首相のラホイまでいた。このツーショットはもう二度と見れまい。

過酷を極めたホテル探しがやっと終わって、張っていた神経もあって、わたしはしばらくホテルのベッドに横たわっていようと思った。が、それはそれでなんとなく滅入りそうなことでもあった。夕方のような空模様だが、一応もう夜の8時、出かけるとしよう。

あの日

30分バスに揺られ、マドリードについた。それから電車を乗り継いでわたしはオスタルに戻ることにした。洗濯物を取り込みたいし、少し休んでから夕食に出かけたかったからだ。

オスタルに戻ると、何やらパーティのようなことをしているらしく、オスタルの人々は忙しそうで、向こうの方からガヤガヤと声が聞こえていた。鍵をもらって、部屋に入り、いつもの癖でテレビをつけて、わたしは部屋に干してあった服をたたんだ。一通り作業が終わったので、テレビに目をやると、暴動のような映像が出ていた。そういえば昨日も南米の方で起きた暴動を報道していた。まだ続いているのか。テレビの中では大勢の人が逃げ惑っていた。

何か、不穏な予感がしたのかもしれない。

この暴動の様子はいったいどこなのだろう、とわたしは突然気になり、画面に出ている地名に目を凝らした。一瞬、なんのことかわからなかった。もちろん、アルファベットだから読めないわけではない。だが、そこに書かれていた文字は、納得のゆくものではなかった。

「BARCELONA」

見間違いか、いや、そうではない。それならたぶん、南米にも同じ名前の町があるはずだ。だって……こんなことがつい昨日までいた町で……

画面が切り替わる。大きな広場の画面だ。見覚えのある幾何学模様だった。紛れもなく、人が逃げ惑っているのは、カタルーニャ広場だった。逃げている人によってスマートフォンで撮影された映像は、紛れもなくランブラス通りだった。そこまで生々しく移されても、わたしは信じることができなかった。

テレビ画面に映る映像はあまりに画質が悪く、嘘みたいだった。それに、もちろんのことテレビはスペイン語なので、何を言っているのかもわからない。わたしは念のためにスマートフォンをつけて、日本ではまだ夜中なのでどれくらいの報道があるかはわからないが、検索してみることにした。案の定、ほとんど出ていなかった。しかし、一つだけ該当するものを見つけたので、見てみると、さらなる衝撃がわたしを襲った。現場は、ランブラス通り。わたしが昨日までよく歩いていた場所だ。そして犯人グループは、トルコ料理屋に立てこもっているという情報もあるらしいが、そのトルコ料理屋は、わたしが見かけたものだった。駅は封鎖されていて、その封鎖に該当されている「リセウ駅」とはわたしの最寄駅だった。全部、知っているところだった。

 

2017年8月17日17時頃、バルセロナでテロが起きた。わたしがバルセロナをたったのは8月16日の午後だから、ほんの1日ずれていれば、巻き込まれていたに違いなかった。車が目抜通りのランブラス通りに突っ込み、13人が死亡、100人以上がけがをした。IS(イスラム国)が犯行声明を出したらしい。スペインではここ数年のヨーロッパのテロに関係したものはあまり起きてこなかったから、衝撃的な出来事であった。

この日のことは、今でも生々しく覚えている。だからこそ、上手く書くことはできないかもしれないが、今後の旅にも、もっといえば今現在にも大きく関わっていることだから、書いておきたい。そんな、記事になる。普段から読んでいない方にも、普段から読んでくれている方にも、良い内容かどうかはわからない。だが、書くことに意味がある。どうか、許してほしい。

 

とりあえず両親に連絡し、ツイッターフェイスブックにも、無事であるという旨のことを投稿した。しばらく整理もつかぬまま、わたしはベッドに横たわり、ただテレビを見ていた。レストランに行く気力はなかった。

昨日、バルセロナで、わたしは本気で延泊するかどうかを悩んでいた。時間帯的に、延泊したとしても巻き込まれなかったかもしれない。だが、それでも間一髪だったのは確かだった。偶然、マドリードに移動したほうが楽で良いと判断した。ほんの偶然だった。それを思うと、胸の奥に、今まで感じたことのないものをかんじた。胸の奥に冷たい釘が縦にすーっと差し込まれ、寒くもないのに、体が震えた。恐怖で震えているのか、それもわからない。わたしは何も感じられなかったし、何も考えられなかった。怒りも、悲しみも、感じなかった。ただ、1日とはいえ、楽しく会話をしたウェイターの無表情なお兄さんや、オスタルのちょっと怖い目のきりっとしたお姉さんや、優しそうなおばさん、駅にいた人たちは今もバルセロナにいるのだということを思うと、胸の底が乱れた。人々が逃げ惑っているあのカタルーニャ広場にいた、シャボン玉を作るおじさんも、そのシャボン玉を果敢に壊しにいく少年少女も、まだバルセロナにいるのだろう。お前はラッキーだった、とその後行く先々で言われた。しかし本音で言えばそのような気になど絶対になれなかった。行ってみて、心から好きになったあの町で、テロが起きたのに、自分のラッキーさに感謝することなんてできない。こういうことがあって、神を信じるようになる人もいるかもしれない。だがわたしは余計に神など信じられなくなった。だって、神がいるなら、全員助けるべきだ。

わたしはしばらく、呆然とテレビを見ていた。たまにツイッターに心配して声をかけてくれる人に返信したり、やっと在バルセロナ日本領事館からの連絡が来たので見ていたりしながら。まだ現実感がない。だが、テレビは淡々と、バルセロナの映像を流した。やはりカタルーニャ広場の映像は、今でも記憶に残っているし、あの時も、見ていて一番苦しかった。それを見るたびに、あのシャボン玉のおじさんと少年少女の攻防戦を思い出すのだ。

時刻は20時を回っていた。とりあえず、食事に行こう。今は少し酒が必要だ。といっても、わたしは酒に強いようなので、どうも酒をあおったところで全てを忘れられるわけではない。だが、バルに行けば、誰かと交流できるかもしれない。今は人とのつながりが必要だ。わたしはベッドから起き上がって、顔を洗った。同時多発でマドリードで起こらないとも限らない。そう思うと胸の奥で何かが動くのを感じたが少し深呼吸して、わたしは外に出た。

 

昨日行けなかったハムのバルを目指したがしまっている。多分バカンスだ。わたしは昨日行ったバルにもう一度行くことにした。マドリードの街はごく普通に動いている。グランビアのところに、昨日は見なかった警察のバンはいるが、他はそこまで大きな変化はない。わたしはなぜか、なんでこんなに普通でいるんだ、と腹が立った。冷静に考えれば、マドリードバルセロナはかつては違う国だったくらいだし、結構距離もある上に、スペインは自治州国家で、バルセロナを中心とするカタルーニャも大きな自治権を持っている。だから、遠い話なのだ。そこまで警戒しないのもわからなくはない。関西に親戚のいない東京の人だって、きっと京都でテロがあっても、「怖いねえ」で済ますに違いない。それでも、警戒していて欲しかった。だからなんだというのかは自分でもわからない。

バルに入ると、相変わらず賑わっていた。自分で行っておいて、どうしてみんな普通なんだと思わなくもなかったが、わたしはそれを必死で抑え、昨日対応してくれたマット・デイモンっぽい店員に声をかけた。

「また来たよ」というと、

「おお、きたね! ビール?」と言った。まるで常連だ。わたしは少し気を良くした。わたしはビールをオーダーし、タパスを一皿取った。昨日気に入った、青魚にドライトマトが載っているやつだ。相変わらず美味い。だが、誰かと話したかった。わたしはたまたま隣にいたおばさんに、¡Hola!と声をかけてみた。おばさんは、¡Hola!と返してきたが、それ以上の展開はなかった。マットも忙しそうで、話し相手にはなってくれなかった。なんだか胸の奥がしぼむような気持ちになった。

結局、数皿食べて、店を後にした。

 

夜道は相変わらず治安が良さそうだ。二軒目に行こうかとも思った。だが、なんだか気分が乗らなかった。オスタルに戻ることにした。

シャワーを浴びながら、今後のことを考えた。まず、明日はバスク地方に移動する予定だったが、列車を使うべきか。さらに、目的地は始め考えていた花火大会をやっているというサン・セバスティアンでいいものか。サン・セバスティアンはやめておくことにした。何が起きるかわからなかったからだ。と言ってもバスク地方は全体的にこの時期は「グラン・セマナ」という祭りの一週間であり、どこに行っても変わりはしない。だが、サン・セバスティアンは最近観光リゾートとして有名になっており、もしテロリストが襲うとしたら、間違いなくサン・セバスティアンだった。だから、バスク自治州の中心地ビルバオに行き先を変更した。さらに、バルセロナからマドリード間は規制がかかっているという話を聞いたので、ビルバオ行きであっても列車はやめておこうと思った。今日行ったバス停から、バスに乗ろう。

 

こういうのは初めてではなかった。一昨年も、ドイツからフランスへタリースという列車を使った直後に、タリースでテロ未遂があった。さらにその旅で泊まったパリの宿のそばで、同時多発テロもあった。だが、こんなにもすぐに、こんなにも思い入れを強めた街で、それもこんなにもホテルの眼の前でテロが起きたことはなかった。いつもは「ギリギリだった」とくらいに思うが、今回はそれでは済まなかった。もし本当に望み通り延泊をしていて、あの時間帯までいたら、死んでいたか、大怪我をしていたか、もっと可能性のあることとしては、ここ数週間はバルセロナから出ることができなかっただろう。そもそも、最寄で使っていた駅が封鎖中なのだ。

次はない。

ふとその言葉が脳裏によぎった。次はない。次起きる時は、巻き込まれる時かもしれない。そんなことはないかもしれないが、そう思って行動する覚悟は持つべきだ。なにせ、この後、一週間パリにいくのだ。パリはシャルリー・エブド事件以降テロが立て続けに起きている。警備はスペインよりすごいが、その警備があっても同時多発テロシャンゼリゼ通りのテロも防げなかった。みんな忘れているが、フランス共和国は今、国家非常事態宣言発令中なのだ。昔なら、バルセロナで事件が起きた今、きっとどこも警備が厳重になって安全になると思ったことだろう。だが、マドリードはのほほんとしている。心を決めておこうと思った。いつも、旅の前は覚悟は決めている。だが、今回思ったのは、そんな覚悟、ただの飾りだということだ。

わたしはテレビを消して寝ることにした。

 

翌日、荷物をまとめた。ずっと持ち歩いていたガイドブックはこっそり部屋に置いてきた。重かったし、今後はおそらく使わないと思った。リュックを背負い、ロビーに向かうと、おじさんは部屋の掃除をしていて忙しそうなので、お兄さんがやってきた。わたしは鍵を渡した。お兄さんもスペイン語しか話せない。

「¿Vuelve a Japón?(日本に戻るんですか?)」と聞いてきたので、

「No. Viajar España(いえ、スペインを旅します)」と答えた。

「¿Donde vas, Barcelona?(どちらに行くんですか? バルセロナ?)」とお兄さんは聞いた。一瞬この人は何を言っているんだろうと思った。いけるのか。いけるものなら行きたい。だがわたしは少し深呼吸をして、

「No. Bilbao(いえ、ビルバオです)」と答えた。

「Ah, Bilibao...bonito, ¿no?(ビルバオかあ、可愛いですよね)」とお兄さんが言ったので、わたしはにっこり笑った。

「¿Dónde aprende español?(どこでスペイン語を勉強したんですか?)」お兄さんは唐突に尋ねた。

「Por radio(ラジオで)」正直に言えば、本やテレビも見ていたが、一番熱心に聞いていたのはラジオだった。にしても、あのラジオだけでそれなりに会話になっているからありがたい。

「¡Por radio! Muy bien.(ラジオでか!いいですね)」オスタルプラダのお兄さんはそう言ってくれた。わたしは、

「Gracias(ありがとう)」と返し、支払いを済ませて、「Adios(さようなら)」と行ってオスタルを出た。グランビア駅までの道のり、わたしはただひたすらに祈っていた。マドリードでは、何も起きませんように。この人たちまで、巻き込みませんように、と。別にわたしがバルセロナを去ったせいで事件が起きたわけではない。わたしはそんな要人ではない。ただの日本人のふらふらした一人の旅人だ。それでも、案じてしまう。

地下鉄でバス停に向かいながら、わたしはやり残したことについて悩んだ。どうすれば悔いが残らないのか、悩んだ。乗り換えは一回あったが、地下鉄は簡単にバス停に着いた。

 

ビルバオ行きのバスは、12:30頃だった。ついたのは朝早かったので、数時間は間があった。だが、マドリードを回る気はなかった。とにかく、何かが起こるのを避けたかった。だからわたしは朝をバス停で食べ、昼もそこで買った。後は本を読んで過ごした。

時間になり、バスが来た。WiFiを切って、リュックサックに詰め込んで、列に従った。わたしは心に重たいものを抱えながら、それと同時にその現実感をきちんと感じ取れないまま、バスに乗り込んだ。どうか、マドリードでは何も起こりませんように、どうか、バルセロナが無事でありますように、と祈りながら。

 

9都市目:トレド(2)〜逢いに行けるアンダルス〜

ボカディージョを食った広場の目の前にある教会は異様にでかかった。巨大な尖塔は天に届かんばかりで、そこら中に彫られている聖人の像がこちらを見下ろしているが、像一人一人の大きさが規格外である。トレド大聖堂というそうだ。そのままである。

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教会の横を抜けて行くだけではつまらないので、教会の入り口に出て、そこを横切って進む。すごい観光客の量だ。後で知って勿体無いことをしたと思ったのだが、この教会の中には著名なエル・グレコの作品があったらしい。彼の強烈な筆さばきは圧巻なので見ておくべきだった。しかし、この時は三宗教が共存したイスラーム支配時代に想いを寄せて歩いていたので、そんなことに気持ちが行かなかったのだ。

一度間違った道をさまよい、それから引き返して別の道に行く。または迷路のようだ。中世から続く石を積み重ねた建物が所狭しと配置されている。何等の馬がこの石畳を駆け抜けたんだろう。そう思うと、ここで馬に乗ってみたくなる。さぞすごい音がするのだろう。乾いた感じのコツッコツッという音が。

 巨大な真四角の建物があって、扉が開いている。のぞいてみると、別の道と通じているようだ。入ってみると、先ほどの教会前の大きな広場(ボカディージョを食ったところではなく、通りかかった正門前の観光客で賑わう広場)に出た。トレドは歩いているだけで楽しい。

もう一度四角い巨大なアラブ風の建物のところに戻り、閑散とした坂道を下りた。閑散としているが、建物の雰囲気のもつノスタルジックでミステリアスな感じのおかげで、嫌な気にはならない。むしろ、タイムスリップ感が出て良い。気分はタイーファ(アラブ君主)、あるいはカバリエジョ(騎士)。剣を脇にさし、馬に乗って疾走して、敵と戦う。この町にある陰謀をつきとめ、イベリア半島を救うのだ……などとくだらない妄想をしてみる。

先ほどまでは日陰だったのだが、坂道を抜けると突如日差しがさして来る。飲食店が並んでいるが、人はまばらだ。ちょっと区画が変わったようだ。そのまままっすぐ進むと、大通りに出る。車も時々通っている。驚いたのは、大通りに立っている巨大な建物である。アルハンブラ宮殿とまではいかないが、幾何学文様で彩られ、明らかにイスラーム風の建築スタイルで建てられた要塞のような建物が現れたのだ。そう、こういうものが見たかった。ここトレドは、AVEに乗って南まで行かずとも行ける、逢いに行けるアンダルス(かつてムスリムに支配された南部スペイン)なのだ。

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 この建物には入れそうになかったので、その隣にある建物に入った。ここがかつてユダヤ教の礼拝堂であるシナゴーグだったと書かれていたところのような気がしたからだ。

中に入るとすごく暗くて、先ほどまで日差しの中を歩いていたために黒が緑に見える。階段を降りてホールに出て、チケットを買った。2.50ユーロ。

順路に導かれるままに歩くと、中庭があった。中庭の回廊は、イスラーム建築風で、繊細で美しい幾何学文様で飾られていた。やはり、イスラーム建築というのは美しい。他のどこにもない感覚を持っている。途中、壁に意図的に穴が開けられていた。その穴の中にはもう一枚壁があり、アラビア文字が書かれていた。どうやら、ここもかつてはムスリムのもので、キリスト教勢力が入って来た後にリフォームされてしまったようだ。

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 最初はシナゴーグかと思っていたが、様子がおかしかった。回廊をつたって入った聖堂はゴシック様式のごちゃっと豪華なものを詰め込んで荘厳な雰囲気を生み出す感じであり、シナゴーグではなさそうだ。どうやら、かつてムスリムのものだった建物がキリスト教会になったという感じである。その歴史を思うとちょっとだけ寂しい気分になる。その重層的な歴史のせいか、教会の祭壇の前でじーっと立っていると、教会の奥の方に、他の教会では感じないような生々しい、生き生きとした感じが浮き上がってくるのを感じた。

礼拝堂を出て、回廊を伝って、二階へと向かう。一階の回廊と違って、二階の回廊は天井の装飾が素晴らしかった。寄木細工のような感じになっていて、気が組み合わさって幾何学模様を形作っている。偶像崇拝を禁じられたムスリムたちは、神聖なものを表すために、書道と幾何学模様を発展させた。その幾何学模様の方は、建物に彫り込まれ、この建物にもその影響が残る。ムスリムでなくとも、その幾何学文様は私たちを惹きつけている。天井の細工の所々には、キリスト教徒の領主のものと思しき紋章がはめ込まれていた。

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ぐるっと回廊を歩いた後で、わたしは外に出た。相変わらず陽射しが激しい。あてもなく、坂になっている部分を登った。素朴な建物が並んでいる。しばらく歩くと右側に、「サンタ・マリア・ラ・ブランカ」という建物が見えた。もしや、こっちがおめあてのシナゴーグではないかと当たりをつけると、「シナゴガ(スペイン語シナゴーグ)」とある。わたしは入ってみることにした。

チケット売り場があるのは、売店であり、売店の中には「メノラー(6本のろうそくを立てる燭台。ユダヤ教のシンボルにもなっている)」や、「ダヴィデの星ユダヤ教徒によるパレスチナ移住運動シオニズムのシンボルで、イスラエルの国旗にも描かれている。日本では六芒星と呼ばれる)」のアクセサリーが売っている。店のカウンターで2.50ユーロのチケットを買って、売店の近くにある、シナゴーグへと向かった。

門の目の前にいるチケット管理のおばさんにチケットを渡し、中に入る。「ラ・ブランカ(白)」というだけあって、白い。白い柱が立ち並び、金色の装飾が細かく入るその姿は、素朴な作りながらすっきりした力を持っている。シナゴーグの中に入るのは初めてだった。今はここも教会にリフォームされているが、それでも、今まで見たことのない雰囲気がそこにはあった。チープな言い方をすれば、聖書の後ろの付録に描かれているイェルサレムの神殿の図に似ている。がらんとしていて、柱だけが並び、奥に祭壇がある。それでも、何かが宿っているようだ。

かつては、三つの宗教が共存したというトレドも、キリスト教勢力に支配されてから行くねんかの年月を経ると、非寛容な街となってゆく。とあるカトリックの聖職者が、ユダヤ教を批判する演説をするや、たちまちそれはキリスト教徒の心をつかみ、このサンタ・マリア・ラ・ブランカには暴徒が突入、ユダヤ教徒は放逐された。その後少しずつ戻ってきたらしいが、1492年キリスト教国がイベリア半島を統一してすぐ後に出た法令で、ユダヤ人は追放されてしまう。そんな悲しい歴史を持っていながら、静謐なシナゴーグは生々しさを感じさせることなく、美しく建っていた。

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シナゴーグから出て、当たりを見回しながら歩くと、周りにユダヤ教関連の店がたくさんあるのがわかる。ヘブライ語で書かれた看板、ショーウィンドウにはメノラーなどが並んでいる。いやはや、モントリオールのウトゥルモン地区でみたものよりもはるかに強烈である。後で知ったのだが、今でもこの近くには現役のシナゴーグがあるらしい。ちなみに、サンタ・マリア・ラ・ブランカはもう教会に改装されている。だから写真を見ても十字架がある。

サンタ・マリア・ラ・ブランカのそばに、「セファルディム博物館」があった。セファルディムとは、ユダヤ人の一派である。紀元135年、ローマ帝国との戦いに敗れたユダヤ人たちは、あまりに反乱を起こしすぎたために、イェルサレムを追放された。その後彼らは各地に散らばったが、最終的に、東ヨーロッパに住み着いた人たち、西ヨーロッパ特にイベリア半島に住み着いた人たちが大多数となった。東ヨーロッパにいた人たちをアシュケナジムイベリア半島北アフリカに住み着いた人たちをセファルディムという。だからこの博物館は、イベリア半島ユダヤ人の歴史と文化を伝えるものらしい。昔からユダヤ人という人たちには関心があったので、入ってみることにした。太陽も高く、外が暑すぎたという理由もなかったわけではない。

「チケットを一枚ください」と聞くと、

「学生さん?」と聞かれた。わたしは国際学生証を出して、はい、と言った。

「OK」係員のおばさんは何やら機械を操作し、チケットをくれた。お金を払おうとしたがいらないという。そうか、学生は無料だったのか。計画性のない旅は楽しいが、時に損をする。わたしはちょっとだけ反省をしながら、中に入った。

中はいきなり祭壇のようなものがあった。ガランとした部屋にメノラーなどが置かれている。そこを超えると、本格的な展示コーナーであり、古代の時代のユダヤ人たちの遺物が置かれていた。いわゆるユダヤ的な感じという者は受けなかったが、ローマのものやギリシアのもの、あるいはエジプトやペルシアのものとは違う素朴なものが多かった。文字が刻まれた板もあり、ヘブライ文字は相変わらずの形をしていた。ユダヤ人女性の肖像画がいくつも並ぶ階段を登って二階の展示室へ行くと、そこは現代のユダヤ人の展示だった。聖書や、パサハ(モーセ率いるユダヤ人のエジプト脱出大作戦「出エジプト」の記念日)やハヌカユダヤ人によるエルサレム神殿奪回作戦の成功記念日)などの祭りのための祭具、伝統的なセファラディムの服装などを展示していた。じーっと観ていると彼らの歴史が語りかけて来るようで、予想以上に楽しめた。

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博物館を出て、地面を見ると、ユダヤ人地区の象徴である「הי」というヘブライ文字が刻印されていた。ここは、ユダヤ人の街だった。それも、東欧系のアシュケナジームではなく、セファラディムの街だ。パリで見たユダヤ人も、モントリオールのウトゥルモン地区に住んでいたユダヤ人も、みなアシュケナジームである。もっというなら、アインシュタイン、フォンノイマンフロイトシャガールベルクソンフッサールなどの有名ユダヤ人はみなアシュケナジームだから、このセファラディムの街には無名のユダヤ人が住んでいたのだ。知らない世界である。

ちょっと坂を上ったところに、公園があった。外が暑いので、ほとんど人はいなかった。公園にはベンチがあり、そこに座れば溶けてしまいそうである。しかし、それでもその公園に立ち寄りたいなと思った。それは、その公園からトレドの城壁の外が見えたからだった。

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大河ドラマではよく、城の天守閣か何かに父が子を連れてきて、一面に広がる青い田んぼを見せながら「そなたがこの豊かな国を治める城主となるのじゃ」的なことを言うシーンがある。しかし、このトレドではそれが成り立たなかった。トレドを取り囲むタホ川の向こうには、ただただ岩石があり、荒地という言葉だけがふさわしかった。それは日本でもフランスでも見ることのない風景であり、大自然の物凄さを感じるとともに、所々に立っている小屋のような家に住む人たちの強さも感じさせた。彼らは、どうやって食料を手に入れるんだろう。何をしている人なんだろう。草は生えていても、売れるような代物でもあるまいに。

 

しばらく公園にいたが、暑さの限界を感じたので、さらに坂道を登った。すると観光客がたくさんいる界隈に出た。どうやら、先ほど横を通り過ぎた大聖堂の前のようだ。

腰掛ける場所を探し、わたしは地図で次にどこに行くのか考えた。ふと目に入ったのが、「トレド最古のモスク」という言葉である。これは見てみたい。少し離れたところにあり、そこに行くには一度街の中心部を出る必要があった。それだったら、そこに行ったらマドリードへ帰ろうと思った。ちょうどマドリードに着くのはシエスタ明けくらいになる。

トレド最古のモスクの方へと歩みを進めると、広場が現れた。カフェのような店が何軒か並び、広場の一角には巨大な建物が建っていた。尖った塔が何本もくっついたムデハル様式キリスト教イスラーム折衷様式)である。おそらく、これが最初探していたアルカサルだ。軍事博物館になっているらしいが、バスの時間もあるのではあるのはやめておいた。

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中世の香りがある細い路地を抜けると、川沿いの坂道にたどり着いた。街灯が並び、その奥には広大な荒地が見える。風景は違うが、街灯などの配置の感じがララランドを思わせる。広がる風景はスターの街(City of Stars)ではなく、広大な荒野である。

 

坂道を下りて行けば、最古のモスクはある。と言っても暑くて疲れたので、わたしは一旦ベンチに座って荒野を眺めた。荒野を見ていると、些細な日々の悩みなんでどうでもよくなる。石があり、綺麗とは言えない川が流れ、所々に小屋がある。それ以上でも以下でもない。生きていられるだけで十分だ。

 

モスクは、いわゆるモスクとは違う形をしていた。ローマ時代の聖堂のようだ。建物の作りも、細いレンガを積み上げた感じがローマ時代の建築と似ていた。随分と保護されているようで、モスクに入るためには、チケット売り場と売店を兼ねた建物に一度入ってから入るしかない。本当に、「最古」なのだ。

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上品なおじさんがいるチケット売り場を通ってシュロの木がそこら中に生えている遺跡区画へと向かう。朽ちかけたアーチをくぐると、中世というよりも古代の雰囲気が満ちている。薄暗い会堂の中には観光客たちが座ったら天井を見たりしている。上の方から太陽の光が一本差し込んできている。もともとは西ゴート王国の聖なる場所だったらしい。それがまずはモスクに変えられて、それから教会になった。

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正面に、十字架にかけられたイエスの像があった。生々しい肌色のカトリックにはありがちな雰囲気の像だ。場の空気感にそぐわない。だがその違和感こそ、ここに重ねられてきた歴史なのだろう。イエス像のある部分の入り口にある柱が意図的に削られていた。削られた場所からは、アラビア文字が見えていた。といっても、アルハンブラアヤソフィアのような美しい書道の賜物ではない。もっとガサツな、太い文字である。最古のモスクであるがゆえに、文字もそのままの無骨な形というわけだ。

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わたしはモスクの一角に腰かけた。歴史番組のように、それでタイムスリップができるわけではないが、聖なる場所は少し仰ぎ見るように見たほうがいい。この建物の持つずっと胸に降りてくるようなオーラが感じ取れた。

モスクの建物を出て、シュロの木だらけの敷地内を歩いた。空の噴水があり、水路のようなものがある。もしかすると、ローマ時代もここは何かあったのかもしれないと思った。この場所では、ローマ、ゴート、イスラームキリスト教が交わっている。まさにトレドの象徴だ。

 

そのあとわたしは坂道を登って、トレドが一望できる場所にやってきた。相変わらず城壁の外は荒れ野である。一面に広がる麦畑もすごいが、荒野もまた心に訴えかけてくるものがある。荒野もまた美しい。しかし、暑い。私は行きは使わなかったエスカレータを使って下に降りた。目指すはバス停。マドリードへ戻る時間だ。歩いていると、日本人の老夫婦が車の置き場所について喧嘩しながら坂道を登っていた。これからトレドのようだ。きっとあの中世の街にはいれば、喧嘩などどうでも良くなるだろう。だから、¡Buen viaje!(良い旅を!)とわたしは心の中でその夫婦に投げかけた。

行きはかなり大変だったが、帰りは街もわかっていてすぐにバス停に着いた。一リットルはある水を手違いで買って、バスの時間を待った。遅れているようだ。まあこれが、スペイン、ケ・セラ・セラだ。

9都市目:トレド(1)〜旧市街を探せ〜

マドリードからトレドに行くためには、「Plaza Eliptica」という駅にあるバスターミナルまで行かなければならない。洗濯物を取り込んで、乾燥機にかけたのにもかかわらずまだ生乾きの服を部屋の中で申し訳程度に干したあとで、わたしは身一つで外に出た。WiFiも持たなかった。人からの連絡がないかなど気になってしまっては、旅に支障が出る。

オスタルの最寄駅グランビアからプラサ・エリプティカまではマドリードの千代田線、1番線でパシフィコ駅まで行き、そこからはマドリードの山手線、6番線に乗り換えればたどり着く。外国の街で乗り換えとなると少しドキドキするが、バルセロナの時と違って、迷いもせずにたどり着いた。プラサ・エリプティカ駅はやけにモダンであり、改札を抜けてエスカレーターを上ると吹き抜けになっていて、そこにいろいろなバスの発着所があるようだ。東京住まいの人に分かりやすく言うなら、新宿駅バスタ新宿が完全に一体化したような感じだ。

今回の旅でバスを使うのは初めてだったが、テレビでやっているスペイン語番組でみた雰囲気を思い出しつつ、その場でチケットを買ってみることにした。バスといえば、カナダでモントリオールからケベックシティまで行くのに使ったのを思い出す。あと、そうだ、カンボジアプノンペンシェムリアップの間の往復にバスを使った。バスは、人と話さずとも独特の一体感を産んでくれる奇妙な距離感が魅力だった。

といっても、どれがトレド行きかわからない。インフォメーションセンターの人に聞くと、下の階だという。わたしは大急ぎで降りて、下の階にある大手バス会社ALSAのカウンターに行った。自信がないので英語がしゃべれるかと尋ね、

「トレドまで行きたいのですが」

「トレドね。往復ですか? それとも片道?」うん、それなら往復を買ったほうが良い。トレドでワチャワチャしたくはない。

「では往復で」

「分かりました。往復で9.67ユーロです」往復でだいたい1000円。30分だからだろうが、やはり安い。鉄道よりもバス網が発達しているというスペインはバスが安いという話は聞いていた。チケットはレシート上のペラっとしたやつで、座席指定も何も書いていない。

「何時のバスですか?」と尋ねると、

「次は12:00だよ」という。そうか、このチケットさえあればいつ乗ってもいいわけだ。といっても、次のバスがわからないので、わたしは急いでバス停のある上の階へと向かった。

間に合いそうだ、と急ぎ足で歩いていると、ターミナルの方から中国人らしきこぎれいな格好のすらっと背の高い若い女性が歩いてきて、何やら中国語で話しかけてきた。わたしは「我不会説漢語」などと言える余裕がなかったので、ただ渋い顔をすると、その女性ははっとして、今度は英語で、

「チケットはどこで買えますか?」と聞いてきた。

「ああ、下の階です!」とわたしは答えた。女性は急いで階下へと降りて行った。わたしはバスに向かい運転手に「¡Hola!」と言ってチケットを差し出した。するとサングラスの運転手はチケットの上の部分をピリッと破いて、こちらに返した。これでいいようだ。わたしはGraciasと言って、会いていた席に座った。結構満員に近い感じである。

12:00になるまでバスは止まっていた。すると先ほどの女性が入ってきた。こちらには気づかなかった。どうやらチケットは買えたようである。と、それと時を同じくして、バスはブルルンという音を立ててトレドに向けて走り出そうとしていた。バス停は覆われていて暗かったが、車が走り出して外に出ると、マドリードらしい強烈な日差しがバーっとさしていた。電車もバスも地下にあるのは日差しを避けているのか、それはわからなかったが、一つ言えるのは、宇宙船が発射するときの気分をなぜか味わえて良い。

 

白いマドリードの街を超えると、道路のそばにモーテルやらガソリンスタンドやらが立ち並んでいる。カナダも、カンボジアも、そうである。どこも同じ風景だ。それに加えて、マドリードの外側には中国系が多いらしく、中国語の看板がたくさんあるので、ますます自分がどこにいるのかわからなくなる。しかし、そうした風景を出れば、一面に広がる黄金色の草原だ。カナダのような小麦畑でも、カンボジアのような水田でもない。そこに湿度はないのだ。とにかく、そこでは全てが乾ききり、遠くの山も乾ききっている。ところどころに木が生えていて、あぜ道のようなものも走っている。畑なのか、荒れ地なのか、正直よくわからない。土の色は乾いた色で、カンボジアの赤茶けた砂とも違う荒涼感がある。

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しばらく外を眺めていると、集落が見えた。古い建物ばかりで、ここにきてやっと、「ああ、これはスペインなんだ」と思えた。ドン・キホーテに出てきそうな感じの集落だからだ。とは言っても、実を言うとドン・キホーテを読んだことはないのだが。

 

トレドに着いたのは、12:50くらいのことだったと思う。先ほどの中国人女性と目があったので、「Hi」と声を掛け合って、わたしは外に出た。空気が熱い。バスターミナルの中に入ると冷房で涼しいわけだが、これからが少々思いやられる。とにかく、どこかで水を買わなくては、と思いつつ、まあ外に出ればなんとかなるだろうと外に出てみた。人の流れに沿って行くと、みんな送迎の車やら何やらのほうに行くので、あっという間に一人取り残されてしまった。わたしは仕方なく、トレドの城壁の中に入れそうな場所を探すことにした。

と、その前に水だ。目に入ったミニショップで、わたしはアジア系のおばさんから水を買っておいた。スペインでは水やら何やらを売るのはアジア系が多いらしい。

 

トレドの町は高台にある。バスから降りてトレドを取り囲むように流れるタホ川の周りを歩いてゆくのは絶景だとガイドブックに書いてあったが、行ってみると方向すらわからない。ただひたすらにどうやったら目の前に見える高台の城塞都市に入り込めるのかを考えながら、炎天下の中を歩くだけである。周りは明るいベージュの壁で覆われ、地面は石畳。周りには人っ子一人いやしない。もう12時だっていうのに。まだシエスタでもないというのに。わたしは少々心細くなりつつ、暑さに耐えつつ、それっぽい坂を登った。この感じ、どこかで経験した、と思ったが、それはおそらく2年前に行ったイタリアの古都シエナであった。あの街も、旧市街は高台にあって、坂をグイグイ登らなければいけない。途中でエスカレーターすらあるくらいだ……と思い出していると、案の定エスカレーターが出てきた。トレドにもあるようだ。しかしわたしはあえてそれは使わずに、坂を登った。上の方には先客のカップルが歩いている。

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早くも水が終わりそうだ。しばらく歩くと、城門のようなものが見えた。ついにきた。わたしは心なしか早足で城門へと向かう。が、そこにも人はおらず、閑散としている。どうしたというのだ。世界遺産だろう? カスティーリャ有数の観光地だろう? それに今はバカンスシーズンだろう? どうしたというのだ。わたしはお土産用の甲冑やら何やらが置いてある道をさらに抜けた。きっとここは中心ではないのだ、とおもったのだ。すると先ほどのものよりも俄然大きな門が現れた。きた、今度こそここだ。

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その門を出ると、閑散とした公園が現れ、道だけがぐーっと向こうのほうへと走っていた。なんということだろう。地図もwifiも持っていないし、人もいないので、迷うままになるしかない。普段はこういう状況も結構好きなのであるが、なにせ今日は暑すぎる。ふと、インフォメーションセンターがあったが、どうも開いているようには見えない。とりあえず道をまっすぐ進むと、道路を挟んで平行に走る歩道に看板があった。それは観光用の矢印だ。じーっと目をこらすと、こう書いてある。

「Ciudad Vieja(旧市街)」矢印の向きはというと、先ほど歩いてきた方だった。

とまあそんなこんなでわたしは引き返した。こりゃまずい、と思ったし、このあと旧市街に入った場合、よくよく考えてみるとその旧市街のベースはイスラーム圏式の旧市街マディーナであるわけで、このマディーナはデフォルトで迷路のようだという話を思い出した。地図が必要だ。わたしはダメ元で観光案内局へと向かった。すると、開いているではないか。暑さを防ぐために、中が暗くなる作りになっていたようだ。

「¡Hola! buenas.(こんにちは)」と声をかけると、薄暗いインフォメーションセンターの奥に二人の女性が立っていて、挨拶を返してくれた。

「この町の地図はありますか?」

「ええ、もちろんです。ここがこの場所で、マディナ(旧市街)はここです」

「アルカサル(宮殿)はありますか?」とわたしは尋ねた。アルカサルとは、アラビア様式で建てられた宮殿である。ここにきたからには、イスラームキリスト教の折衷様式「ムデハル様式」の建物に行きたい。わたしはアルハンブラなどのああいった雰囲気が好きだった。

「ええ。この道をまっすぐ行くとつきますよ」と係員は言った。わたしは礼を言って、外に出た。とりあえず旧市街だ。そこに行けばなんとかなる。わたしは地図を見ながら来た道を引き返し、門を再びくぐった。西洋式の街並みや、日本の城下町、中国の都城と違って、イスラームのマディーナの影響を受けるトレドの町は、いきなり入り組んでいるようで、門をくぐっても簡単に町の中心に連れて行ってはくれないようだ。

迷路のように湾曲した狭い道を歩くと、陳腐な表現だが、タイムスリップした雰囲気を味わえる。レンガは大きなものではなく、細長い長方形のものを積み上げている。ルネサンス時代を描く歴史漫画「チェーザレ」に出てくる風景を思わせる雰囲気だ。これは同時に、ムデハル様式でもあるのだろう。

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一方で、もっと近代的な感じの建物もある。そういったところには大抵、商店があった。イスラームの雰囲気を醸し出す建物はあまりに堅固すぎて、店構えにしては強すぎるのかもしれない。おみやげ物屋は、判を押したようにみな甲冑を売っている。マドリードの小学校の修学旅行では、「いいですか、お土産として甲冑とか剣とかは買っちゃいけませんよ!」などと言われているのだろうか。

トレドは11世紀にカスティーリャ王国イスラーム勢力のトレド王国から奪取してからというもの、カスティーリャの騎士達に守られてきた。アフリカ大陸から、トレド王国らイスラーム諸国を支援しつつイベリア半島を征服してしまおうと狙っていたムラービト朝の軍隊がやってきた時も、この町は落ちなかった。だから、売っている甲冑は、トレドの町の戦いの歴史を示すものでもあるのだろう。

しばらく歩くと、人数が増えてきて、メインストリートにたどり着いた。その道は坂道になっていて、坂の下には巨大な教会が見える。教会の方からは、ストリートミュージシャンがいるようで、哀愁のあるギターと歌を聴かせていた。まさにスペインの古い町にふさわしい旋律だ。坂の上には広場がある。お腹が空いたので何か食べたいな、とウロウロしていると、同じカスティーリャ地方のサラマンカ名産の生ハムを売る店があった。生ハムを食えるだろうかと店の看板を見ると、「ボカディージョ(サンドウィッチみたいなもの)」があるという。今日の昼は、こいつに決めた。値段も、豊富に生ハムを入れておきながら4ユーロ。さすがは物価安のスペインである。

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わたしは生ハムのボカディージョ片手に、坂を下りて教会のそばにある広場に向かった。日差しを防げる場所は全部埋まってしまっているが、しかたない。わたしはベンチに腰掛けて、生ハムボカディージョをかじった。素晴らしい香り、とろけるような脂。やはり日本の生ハムとは全く違う。だからもしかすると、日本の生ハムを食べた人の中にはスペインのものが合わない人もいるかもしれない。それくらいまでの歴然とした差があるのだ。

教会の前をサーッと風が吹いた。いや、空気が動いたという感じだ。暑いからである。メインストリートからわたしが昼食を食べている広場まで来るには、教会の前を通って、トンネルのようなものをくぐらないといけない。そのトンネルの中に、さっきメインストリートでも聞こえたギター弾きがいた。これほどまでにマッチすることはないんじゃないかという古き町の哀愁を湛えた曲を弾いている。風はその歌を引き立てていた。わたしはボカディージョをかじった。さて、これからどうしようか。地図を見ると、裏面に観光地がリスト化されている。それじゃあとりあえず、ユダヤ、キリスト、イスラーム三つの宗教の建物を見て回ってやろうじゃないか。わたしはそう思って、ある程度あたりをつけた。

ボカディージョを食べ終わってしばらくストリートミュージシャンの曲を聴いた後で、わたしはまずかつてのユダヤ人地区に行くことにした。

8都市目:マドリード(3)〜そうだ、トレド行こう〜

朝起きて、顔を洗う。窓の外では話し声が聞こえる。マドリードの朝か。窓の外は中庭で、住人たちが洗濯物を干したりする。それじゃあわたしも朝食を食べがてら洗濯物を始末してしまおう。

鍵をもらい、オスタルプラダを出たのは確か8:00くらいである。紹介されたコインランドリーはオルダレサ通りの奥の方にあったので、わたしはグランビアとは逆の方向に、まるでサンタクロースのように洗濯物の入った袋を抱えて歩いた。気温は朝だからそんなに暑いわけでもない。しかし道をちょっとデンジャラスな雰囲気があった。怪しげな奴らが道に溜まっている。そうか、夜10時くらいに治安の良さが最高潮に達するマドリードでは、朝の治安が悪いわけだ。謎である。朝夜逆転である。もう日も高いというのに。早起きの悪党を想像するとちょっとだけ微笑ましいが。

きわめつけはランドリーだ。行ってみたが、なんと開店は9時からだ。いや、朝に洗濯しようと思わないのか。そうか、8時はまだ夜なのか。わたしは大荷物を持って朝食を空気にもならなかったので、一度オスタルに戻った。

 

九時に出直すと、道の治安は向上し、ランドリーも空いていた。ところが、九時ではいささか早すぎるらしく、人は全然いない。やり方がわからず色々試していると、奥の扉が開いておばさんがやってきた。英語話せるか、と聞くと、無理と言われたので、拙いスペイン語でなんとか要件を聞き、向こうも身振り手振りで教えてくれる。わたしはグラシアスと言って、洗濯をスタートさせた。

回している間は盗まれることも少ないらしい(乾燥機の途中が危ないという)ので、わたしは近くで見かけたバルに入った。

「¡Buenas dias!(おはようございます)」とバルに入り、わたしはテーブル席に座った。メニューを見ると例のカフェコンレチェとチュロスのセットが2ユーロと安い。ならばと、わたしはバルカウンターまで行ってそれを頼んだ。

スペインの朝食はチュロスらしい。それをココアに浸して食うようだ。朝食には文化が詰まっているから、どんなものかと期待していると、予想以上の太さと長さを持つ2本のチュロスがボーンと出てきた。フォークとナイフが出てきたので、わたしはわざわざチュロスを買って、食った。驚いた。味は塩味だ。日本人の思うあの甘い、ディズニーランド=模擬店方式とは違うわけである。そうか、だからココアをつけるんだ。

結論からいうと、しょっぱいチュロスはあまり良くなかった。というのも、脂っこさが際立ってしまうからだ。甘いとそっちに気がとられるのであまりわからないが、しょっぱいとそのあたりがきつい。そうは行っても、極東のアジア人は少食だと極西のヨーロッパ人に思われたくはないので、全部食らってやった。明日はプラダのおじさんにでも聞いてみよう。

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それからわたしは店を出て、口の中の脂っこさを消し去るべく、アジア系のお姉さんが経営するミニショップでファンタを買って、ランドリーに戻った。客は相変わらずわたしだけ。わたしは洗濯物を取り込み、乾燥機に入れた。三十分の暇つぶしのために、わたしはランドリー内のベンチに座って、この旅最初のブログ(「Dreadful Flight」)を書いた。

ブログを書きながら、これからどうしようかと考えた。プラド美術館再チャレンジか、それともマヨル広場に行くか。シエスタしてみるか。どれも魅力的ではあったが、わたしの中ではどうしても振り払えない思いが増大して行った。そう、

「そうだ、トレド行こう」である。

 

トレドは、西ゴート王国の時代からイベリア半島の中心地になってきたところだ。マドリードからはバスで片道30分。だから勢いで行けてしまう。というか、かつてはマドリードよりも栄えていた都市である。世界史の教科書では、「大翻訳運動」という止んだかよくわからぬイベントの中心地として登場する。が、もっと簡単にいうなら、「キリスト教ユダヤ教イスラームの三つの宗教が共存した街」だ。今のご時世、そんなバカなぁという感じもするし、その時代は特にそんなバカなぁである。どうしてそんなことになったのだろう。

時は711年。南の大陸アフリカ大陸を支配する強大なウマイヤ朝の軍隊が北のイベリア半島に侵攻した。当時イベリア半島を収めていたキリスト教西ゴート王国はこの状況に対処できなかった。718年まで西ゴート王国の残党は抵抗を続けるが、その後は北で勢力を築いたゴート貴族のペラヨ率いるアストゥリアス王国以外が滅亡、ついにイベリア半島の半分以上がイスラーム勢力に抑えられた。その後、ウマイヤ朝は本国アラビアで崩壊し、イベリアには後ウマイヤ朝が成立する。

イスラームは、寛容な宗教だった。特にキリスト教徒とユダヤ教徒は、教えが間違って伝わってしまったけど基本的には同胞であるとして扱われた(啓典の民)。さらにさらに、キリスト教徒たちには徹底的に拒否されたギリシア哲学の取り込みにも積極的だった。だから、イスラーム支配下に置かれたイベリア半島は中世(8世紀から15世紀)においてはヨーロッパの最先端の土地となって行く。科学、宗教、哲学、文化が発展したのである。その中心地こそが他でもないトレドなのだ。トレドにはその当時の建築物が残り、アラブの雰囲気が感じられる…はず。

その後トレドは1085年に北のカスティーリャ王国軍に包囲され、キリスト教諸国に奪回される。とはいっても文化が廃れたわけではない。キリスト教徒もムスリムユダヤ教徒もその他に残り、文化を未来は伝えた。そんな中で、アラビア語の科学書、アラビア語に翻訳されたギリシア哲学の本を、ヨーロッパの共通語であるラテン語に翻訳するという「大翻訳運動」が始まるわけだ。このことで、ヨーロッパの人々は、自分たちが失ってしまっていた文明に再び触れられる下地ができ、ルネサンスの種が蒔かれることになる。つまり、ダヴィンチも、ミケランジェロも、トレドが発展していなければないのだ、とも言える。

だからトレドにはイスラームの香りもユダヤのエッセンスもある。そこに魅力がある。わたしの友人が、私がスペインに行くと言った時に言っていた。「スペインってイスラムキリスト教が混ざり合ってるじゃん。一度見てみたいんだよね。いいなぁ」と。わたしもそれがみたかった。ずっとフランク王国のお膝元であったバルセロナ、17世紀に生まれたマドリードにいるだけじゃ、それは感じられない。こうしたスペイン独特の歴史を奏でる町としてはアルハンブラ宮殿のあるグラナダなどが有名だが、ちと遠い。トレドなら、30分でそうした雰囲気が楽しめるはずだ。

そういうわけで、マドリードの面白そうなスポットは置いておいて、今日はトレドに行こうと、突発的な行動に出てしまうことにした。

8都市目:マドリード(2)〜アセ・カロル/はじめのバル〜

グランビアは相変わらず殺人的だった。焼き尽くす日差しは、上からも下からも襲ってきて、恐ろしいほどである。演劇の照明装置がぶっ壊れたのだろうかというくらい辺りは真っ白に明るく、それがまた強烈だ。帽子とサングラスでギリギリ健康を保っているという感じである。

ぐぐーっとゆるい坂道を降りると最初は小さなロータリー、そのあとは大きなロータリーが現れた。これが例のシベレス広場だ。辺りには公園があるが人っ子一人いない。というか、街中に人っ子一人いない。要するに、みんな死にたくないということだ。シベレス広場の周りには幾つかの官庁風の建物と公園がある。一番目だ立つ建物には、横断幕が掲げられ、「Refugees Welcome(難民の皆さん、ようこそ)」と書いてあった。この難民の時代に、スペインはリベラルな姿勢をとっているようだ。確かバルセロナの住民が難民を受け入れようというデモをしたという話を聞いた。しかし不安に思うのは、このスペインという国にその経済的余裕があるのか、ということだ。非常に難しい問題である。

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しかし、それよりもとにかく暑い。わたしはロータリーを回って、その役所風の建物の横に伸びる道に入った。そこにはグランビアとは比べ物にならないほど大きな並木が植えられ、涼しげだった。この辺りはさしずめ、公的機関と博物館が並ぶ地区なのだろう。日本で言えば、丸の内と上野を足して二で割ったような感じだ。グランビアは銀座といったところだが、あんなところで「ビアブラ」しようものなら、数人は熱死する。

実はこの並木道が長かった。なかなかプラド美術館にはつかない。ここかなと思うと、まったくちがうなにかが現われ出てくるのである。まあこれはこれでいいなと思いつつまっすぐ歩くと、ズラーッと人だかりが見えた。「I have a bad feeling about this(嫌な予感がするぜ)」

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今写真だけ見ると、涼しそうに見える。しかし、空気自体が熱気を含んでいるので暑いものは暑い。

そう、それこそがプラド美術館だった。日本の金曜午後の美術館のイメージで行ったら大間違いで、建物を取り囲むように強烈な長さの列ができている。一瞬並ぼうかと思ったが、ここで水も買わずに並び続けたら、間違いなく熱中症で死ぬ、と思った。プラド美術館は、ひとまず断念しよう。わたしは先ほどのとは逆側の道に移り、グランビアの方に引き返した。当てはなかった。とりあえず水は必要なので、おばちゃんのいる売店へ行き、

「¡Hola! una agua, por favor.(こんにちは、水を一本ください)」と注文した。

「Un euro(1ユーロよ)」とおばさんは言った。フランスの物価と比べると驚くほど安い。

 

建物のおかげで日陰になっている道を歩けば、先ほどまでの魚焼きグリル感は薄れてくる。風も、気持ちよくはないが、少なくとも風ではある。

ずっとこの熱気の中にいるわけにはいかないので、どこかカフェのようなものを探そうとグランビアを歩いたが、見当たらなかった。あったのは、寿司屋やら服屋やらばかりである。ビアグランでシースーと行くつもりはない。6時になって、人も少しずつ出てくるようになった。仕事終わりにいっぱいというわけだろう。さて、どうしたものか。わたしもバルで一杯飲もうか。

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うろうろしていると、グランビアの終点までやってきてしまった。歩いて思ったのは、やはりマドリードは大都会ということである。でかくて、賑やかで……でかい(二回目)。映画館も、スタバも、もちろんある。できれば昔ながらのバルなんてものに行ってみたかったが、正直なところよくわからない。さてさて、これからどうしようか。映画でも見るか。いや、それはやめておこう。

というわけで、わたしは「マドリードのヘソ」と呼ばれる「プエルタ・デル・ソル」を目指してみることにした。何があるのか情報は全くないが、行ってみる価値はあるだろう。さらにその界隈にはきっと飲み食いできる場所もあるはずだと踏んだ。

 

プエルタ・デル・ソルとは、「太陽の扉」という意味である。由来は知らないが、マドリードを作ったフェリペ二世の頃のスペインは、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたのと関係あるのだろうか。スペインは、日本以上に太陽を重んじる国だ。あんなに激しく降り注ぐ太陽を、スペイン人は恵みとして考えられるのであろうか。もしそうなら、凄い心の広さである。

グランビアを引き返して、南の方に伸びる路地を進む。そこは急な坂道なっていた。バルセロナは山やグエル公園のある界隈以外は比較的平らなので、山にもグエル公園にも行っていないわたしは、久しぶりに坂道を下りるような気がした。白っぽい建物が立ち並ぶ路地の空は現代アートで飾られていて、しゃれた雰囲気になっている。そこに入る店は、バルが多く、多すぎて逆にどこが良いのかわからなくなっている。さらに坂を下れば、プエルタ・デル・ソルだ。

そこは広場になっていて、ど真ん中には騎馬像が立っている。近寄って見ると、「カルロス3世」と書かれていた。

スペインの歴史の中には二人のカルロス3世がいる。一人目は、スペイン王家の地位を手中に収めんとするフランスのブルボン家と元々王位についてきたハプスブルク家との間に勃発した「スペイン継承戦争」の時のハプスブルク家当主だ。しかし、現在のスペイン王室はこの戦いに勝利したブルボン家スペイン語ではボルボン家)なので、ハプスブルク家の反乱軍トップの騎馬像を置くはずがない。だからこのフェリペ3世はもう一人の、フェリペ3世だ。こちらのフェリペは、ボルボン家の国王で、フランス革命が起こる直前までスペインの王位についていた人だ。彼は、マリア・テレジア、エカチェリーナ二世、フリードリヒ二世ルイ16世などの例に漏れず、「啓蒙的専制君主」として知られる。良い人材を登用し、国家の再建に勤め、宗教勢力を牽制し(イエズス会を追放した)、首都を美しい街に仕上げた。これは調べて見てわかったのだが、プラド美術館に行くために通ったシベレス広場やプラド美術館の前の通りはフェリペ3世の業績の一つだそうである。だから、マドリードの中心に騎馬像が建てられているわけである。

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プエルタ・デル・ソルを取り囲むように、バルやテラス付きの店がある。まだ6時半くらいで、夕食時ではないが、どこも賑わっている。ヨーロッパのラテン系の習慣だという「アペロ(食事の前に軽く一杯飲む)」だろうか。いいなと思いつつ、なんとなく入りづらく、やり過ごしてしまった。わたしは最初に入ったのとは別の路地へ行った。するとちょうど良さそうなバルがあったのでは行ってみた。

バルといっても、どちらかというとカフェみたいな感じだ。わたしは中に入って行って、メニューをもらい、ビールを一杯頼んだ。出てきたビールは南米のビールだったが、スカッと爽やかでこういう暑さにやられる日にはちょうど良かった。

あの日の当たる道を歩いていると、店内は恐ろしく暗いように思えた。地元の人たちが飲んでいて、壁にはサッカーだか何かの旗が掲げられている。スポーツバーというやつだろうか。店員のお兄さんはすごく忙しそうに、スタスタと歩く。御通しとして出てきたオリーヴは塩辛かったが、ビールによくあった。やはりスペインは飲み文化だ。

 しばらくその店でくつろいだ後、わたしは外に出ることにした。店員さんは忙しそうにしながら給仕していてくれたので、チップを払い、Gracias(ありがとう)と店を出た。

 

夕ご飯は、マドリードの勝手もわからないし、暑くて疲れていたので、オスタルプラダのおじさんに聞くことにした。坂を登り、グランビアに着いた時、日は傾き始めていた。グランビアを渡って、オルタレサ通りに戻り、プラダに戻った。

「ひとつマドリードについて質問があります」とおじさんにいうと、おじさんはなんなりとというようなポーズをとった。

「¿Donde esta una buena taverna?(美味しいレストランはどこにありますか?)」と尋ねると、どんな食べ物かと聞いてきた。中華か、和食か、タパスか、と。

マドリードにいるんだから和食はいらないです。タパスが食べたいな」と答えると、おじさんは少し悩んだ顔をして、しばらくすると、よし、それじゃあと地図を開いて、

「このホテルのそばに2軒あります。一つ目は、classicoな店で、バスク料理で、こっち側、もう一つは、modernoで、こっち側」と言いながら、地図に印を書いた。

「ありがとう」わたしはその後、そろそろ洗濯物がたまっていたのでコインランドリーの場所を聞き、再びマドリードの街に繰り出した。目的地はモダンの方。なぜならこのあとバスク地方に行くつもりなので、バスク料理をマドリードで食べる必要がないからだ。今度はバルセロナと違って、やばい場所でないといいなと願いながら。

 

モダンな店だと言われた場所は、治安が悪いと言われているチュエカ地区にある。しかし、行ってみる、とそうでもなさそうである。お目当の店はあまり人気のない坂道を下りたところにある。何軒か店があったが、紹介されたのだろう店は明らかに閉まっていた。残念。ハムの店と書かれていて、スペインといえば生ハムだから期待が持てたが、仕方あるまい。大丈夫、もう一軒あてがある。

もう1軒目のクラシコの方は、オルタレサ通りに並行して走っているフエンカラル通りにある。この道はショッピング街のようで、ブランド品を売る店がたくさんあって、若者たち、観光客たちで賑わっている。道の途中には観光局のバイトと思しき学生がいて、なにやら集計を取っている。わたしの特技「溶け込む」が効果を発揮したようで、誰にも声をかけられることはなかった。

フエンカラル通りの中間くらいに、紹介されたOrioという店はあった。とはいっても、見た目は明らかにクラシコではなく、モデルノである。店構えからして新宿NEWoMANにありそうな雰囲気だ。そしてかなりの人気店のようで、人でごった返していた。一瞬その雰囲気に臆病になったわたしはあたりをうろちょろしてみたが、やはりOrioしか店はない。ぜひに及ばず。食はOrioにあり、である。

「すみませーん、こんにちは」とわたしは勝手も分からないのでバルカウンターにいるマット・デイモンに似ているお兄さんに声をかけた。

「こんにちは。どうぞ」とマット。英語が流暢である。

「どうやって注文したらいいですか?」と尋ねると、マットもなんとなく雰囲気を察したようで、

「ああ、バルは初めて?」と聞いてきた。

「はじめてです」と答えると、マットは飲み物を聞いてきたので、とりあえずビール、とわたしは日本人のアイデンティティを前面に押し出す回答をぶつけた。

「自由にとっていいんですよ」とマットは言う。バルカウンターには色とりどりの食材が並んだ皿がたくさん並んでいた。これはバスク地方の良い予行演習になる。案外良かったかもしれない。

「いくら?」と聞いてみると、全部2ユーロだという。とすると、五つ食べたとして10ユーロ、ビール合わせて12ユーロだから、1500円くらい。悪くない。

すると後ろに店員の髪の毛がくるくるにカールしたラテン系の女性がやってきた。マットは女性に、わたしに料理を見せてやってくれというようなことを言っていた。女性は頷き、わたしを誘導した。

「これは生ハム、これはオムレツ、それでこれはサーモンよ、それからこれは……うーんと、芋。で、こっちはデザートみたいなやつよ。これは……そうね……魚ね」と彼女の超雑な説明が始まる。まあ、仕方ない。わたしたち日本人だって、例えばカンパチのお刺身を外国人に説明できるか、という話だ。間違いなく、「魚の一種です」というしかない。そういうことなので、そのあとの説明は大抵「魚」「ポテト」「魚」「魚」であった。

わたしはまず、生ハムを食うことにした。クロワッサンに生ハムが無造作に挟まれ、爪楊枝で押さえてある。ワイルドでいいじゃないか。爪楊枝を外し、一口かじると、生ハムの香りが口いっぱいに広がった。スペインの生ハム。本場の生ハムは、日本の生ハムとは全くの別物である。薄く、香り高い。バターの甘みがするクロワッサンとよく調和している。そして、やっぱり、ビールに合うわけだ。それから、「魚」を食べた。青魚がスライスされたバゲットの上に乗っていて、その青魚の上にドライトマトが添えられている。そしてそれをやっぱり爪楊枝で押さえてある。わたしは実は青魚ファンであるから、これは期待ができる。食べてみると、期待以上だった。程よい魚の魚らしい香り、そしてドライトマトの旨味が溶け合って、すごくおいしい。その後もう一枚とってしまうくらい、うまかった。わたしにとって、一番うまいバル食(ピンチョ)といっても過言ではない。次に食ったスパニッシュオムレツ(ジャガイモと玉ねぎを使ったオムレツ)が乗ったパンも、サーモンも、マットが持ってきたまん丸の生ハムコロッケも、どれも最高だった。面白いのは、コロッケ以外はどれもパンの上に乗っていることだ。いわばこれは、回転ずしのようなものなのだろう。

結局ビールももう一杯飲み、本当に合計5皿食ってしまったが、13ユーロである。お会計は爪楊枝の数できまる。だから本当に回転ずしだ。意図してか意図してないのかは分からないが、マットが最初のビールを片付けたので、本当は16ユーロのはずだ。

「バルは初めてなんだ」と、会計を担当したもう一人の黒髪にメガネの女性従業員に話しかけた。うまく伝わらず、この店が初めてみたいな雰囲気になったが、まあ仕方ない。

マドリードにはどれくらいいるの?」とその女性は尋ねた。

「今日着いて、明後日でるよ」と伝えると、女性はしばらく考えて、

「わかったわ」と答えた。またも、わたしは住んでいる人と思われてしまったようであった。

13ユーロで夕食となると、フランスの平均25ユーロ以上とは比べ物にならないくらいの安さである。もう一軒くらいいけそうだとも思った。なんならグランビアを渡って、またプエルタ・デル・ソルに行くもよし、さらに奥のマヨル広場に行くもよし。といっても、わたしはまだマドリードという街を信頼しきっていなかった。というのも父の知り合いがマドリードの路地裏で強盗にあった話をなんども聞かされたからだ。もちろん、それは少し前のことで、現在マドリードでの犯罪率はかなり低下している。犯罪に巻き込まれるにしても、すりなどの肉体的な損失のないものが多いらしい。だから安心しても良いのだが、念には念をである。なかなか行動に出れず、結局戻ることにした。と言ってもそのまま戻るのはつまらないので、フエンカラル通りをちょっと散歩してからオスタルのあるオルタレサ通りにあるカフェでコーヒーを一杯飲むことにした。

 

「Un cafe, por favor(エスプレッソコーヒーをください)」と頼み、わたしはマドリードの夜を見ていた。さきほど、Orioから出てフエンカラル通りをちょっと散歩した時も思ったのだがマドリードとは不思議な街で、夜になると一気に治安が良くなる。というのも老若男女が昼とは打って変わって街に繰り出し、日本人のように泥酔することもなく、楽しげに散歩しているのだ。まるで昼のようだった。むしろ昼のほうが閑散としていて、治安の悪さも感じなくもない。

コーヒーを飲み終わって、少しくつろいでから、わたしはスーパーで水を買って、オスタルに戻った。プラダのおじさんはおらず、顔の濃いお兄さんがいた。後でそう思ったのだが、多分お兄さんとおじさんはカップルなんじゃないだろうか。

「Trenta siete, por favor(307番でお願いします)」と頼むと、お兄さんは少し驚いたように、鍵をくれた。

「Buenos noches(おやすみ)」といって、部屋に戻ろうとしたら鍵が開かない。よく見たら303号室の鍵である。

「Perdon(すみません)」とお兄さんにいうと、「307号室だろ?」というようなことを言ってきたので、わたしは鍵を見せながら「Si, trenta siete, pero...(ええ、307号室です。でも……)」と答えた。お兄さんはハッとした表情になって、そのあと笑いながら、ごめんよと言いながら307号室の鍵をくれた。

部屋に入って、バスタブにつかってみたが、やはり狭い。テレビでは相変わらず南米の暴動をやっていた。随分と難局を迎えているようだった。さてと、明日はどうするか。プラドに再び行くか。ブログでも描くか。マヨル広場に行ってみるか。正直今考えるのは面倒だ。スペインのことわざにはこんなものがある。

Hasta mañana(また明日)

8都市目:マドリード(1)〜イベリアのヘソのでっけえ通り〜

ついに、バルセロナを離れる。列車に乗り込んでみると、AVEという列車がなんとも先端的な列車であるということがひしひしと感じられてくる。2人掛の椅子がずらっと並び、天井からは幾つかモニターが置かれている。今までの列車にはこのようなモニターはなかった。しかも今回とったのは2等席なのである。しかもしかも、ヨーロッパの鉄道にしてはものすごく綺麗なのである。

後で知ったのだが、AVEは飛行機のような旅をというコンセプトで出来上がっているという。だからこそ、モニターが取り付けられ、そこでは映画を放映している。一昔前の飛行機のように、一本の映画をモニターで映し出し、見たい人がイアフォンを差し込む。ちなみにわたしが乗った時の映画はトム・ハンクス主演の「ハドソン川の奇跡」である。みようかとも思ったが、カタルーニャからカスティーリャへと移動する景色の変化を見たかったのでやめた。

 

マドリードイベリア半島のど真ん中にある。そんな地の利の良いマドリードが歴史の表舞台に颯爽と登場するのは、16世紀になってからだ。

マドリードを含む広大な領域を支配していたカスティーリャ王国は首都をマドリード近郊のトレド、イベリアの東半分と西地中海を支配したアラゴン連合王国は首都をバルセロナマドリードの中間にあるサラゴサに置いていた。その後、1400年代にカスティーリャのイサベラ王女とアラゴンのフェラン王子が結婚し、両国がスペイン王国として合同を果たすと、固定された首都というものを持たなかった。特に、オーストリアハプスブルク家出身のカルロス1世の時代には、カルロスは各地を移動しながら各地の代理人とともに政治をするという体制をとっていた。その頃のマドリードはまだ地方の小都市である。

それが変わるのが、カルロスの次に王位についたフェリペ二世の時代である。フェリペはカルロスからスペイン、ネーデルラント(オランダ、ベルギー)、中南米、フィリピンのみを受け継ぎ(のみといっても世界の半分である)、オーストリアに行く必要がなくなった。フェリペは王国をより合理的な統治することを考え始めた。そのために、フェリペは当時は小さな宮殿が立つ町だったマドリードを巨大な首都に変えた。理由は、イベリアのど真ん中だからである。地の利が良い。フェリペ二世はこの土地からほぼ移動することなく、命令を下し、広大な帝国を収めようとした。この時代はネーデルラントの独立、イングランドとの接近と敵対など激動の時代だが、中南米からもたらされる莫大な資産をスペインが手にした黄金期でもある。それを可能にしたのが、イベリアの中心に築かれたマドリードへの一極集中であり、それがそのまま絶対王政を産んだ。

スペインの歴史はその後、いわゆる「スペイン継承戦争」によるハプスブルクからブルボンへの王朝交代、フランス革命への干渉とナポレオン軍による侵略とブルボン王朝復活、女王追放、第一共和制、王政復古、クーデタ、第二共和制、左右対立からスペイン内戦、フランコ独裁政権王政復古民主化を経ていまに至る。その間中、マドリードは首都であった(ナポレオンに支配されていた時は南のガディス)。ナチスドイツとファシスタイタリアの支援を受けるフランコ率いる反乱軍が各地で勝利を収めた時も、スペイン共和国政府はマドリードを背に「¡No passaran!(奴らを通すな!)」のモットーのもと戦った。今ではマドリードは、各自治州に権限を委譲した自治州国家の中心部として機能している。

 

列車はバルセロナからアラゴン王国の古都サラゴサを経由して、マドリードへと入る。実はサラゴサは泊まるべきか迷っていた町だった。アルカサルというイスラーム式の宮殿もあるし、かつての都というのも興味があった。だが、やはりマドリードに行かずしてスペインに行ったとは言えまい。

風景は徐々に荒涼としてくる。バルセロナが背にしている緑の山、モンセラットなどの山を越えればもう荒れ地である。サラゴサ周辺はまだ緑が多いが、マドリードに近づけば近づくほど、地面は乾いた砂とゴロゴロした石や岩で覆われる。草というと、藁のようなものが所々にあるだけだ。これが、スペインの大地。かつてギリシア人はイベリアのど真ん中には来なかったというが、その理由もわかる。むしろここを手にしようとしたローマ人が異常なぐらいである。逆にモロッコなどの砂漠の土地から来たイスラーム勢力がここを支配するのは容易かったかもしれない。

電車の中は、映画のおかげか静かそのものである。モニターでは時折飛行機がハドソン川に難着陸をするシーンが描かれている。そういえば、母がこの映画を見たがっていた。名作だという。「ブリッジ・オヴ・スパイ」「インフェルノ」「ハドソン川の奇跡」とトム・ハンクスが異常に忙しかったときの作品だったはずだ。

すると目の前にいる小さな女の子が、椅子越しにこちらを見てきた。にっこりと微笑むと、きゃっきゃ言いながら椅子の向こう側に隠れる。今度は上からこっちを見てくるので、目を合わせたら、また隠れた。今度は窓際から来たので、また目を合わせるとまた隠れた。言葉は交わさなかったし、隣にいたのも彼女のお姉ちゃんのようでこちらに話しかけてくることはなかった。それでも、小さな交流がちょっと嬉しかった。列車の中の交流、などといっても、今の世の中そんなにあるはずもない。みんな携帯電話を眺め、音楽を聴く。わたしも音楽を聴いていた。すると途端に会話などしなくなる。暇じゃないからだ。わたしも暇がちょっと怖くて、音楽を聴いて風景に浸っている。でも、やはり暇な方が見えるものは大きいだろう。そんな暇な時間を感じるのが旅の醍醐味でもあるのに、できているのだろうかと不満に思うことがあった。

 

バルセロナサラゴサ経由マドリード行のAVEがマドリードの中央駅であるアトーチャレンフェに着いたのはもう4時すぎだったが、日はもちろん高かった。ヨーロッパの夕暮れは21:00すぎである。まだまだ昼だ。前、酒飲みの友人が「9時? まだ昼じゃん」と言っていたという逸話を聞いたことがあるが、夏のヨーロッパに関して言うならば、マジで「9時はまだギリギリ昼」である。

黒いバックパックを背中に背負い、わたしはアトーチャ駅の地下へと向かった。今度はマドリードの地下鉄に挑戦だ。

マドリードの地下鉄はバルセロナ以上にむわっとしていて、非常に暑かった。値段はバルセロナのメトロよりも良心的な1.50ユーロ。しかし、チケットを買うときに行き先を指定する形式なので、(当たり前といえば当たり前だが)行きたい場所にしか行けない。旅人にとってはディスアドヴァンティジでもある。さらに、見た目ががらんとしているところに蛍光灯があって、落書きだらけの壁を照らしているので、治安が悪そうな雰囲気を湛えている。「いやあ、都会に来ちまったなあ」とわたしは少々警戒しながら、予約したホテルのある「グランビア」駅行のチケットを買った。

スリなどいないだろうかと警戒していたが、何せ人混みがなかったので、案外平気であった。ちょうどシエスタの時間が終わり、仕事が始まる時間、人もそんなにいないし、シエスタ時間ほど治安は悪化しないようだ。そう、実はシエスタの時間帯である14:00〜16:00は街の治安が悪化することで有名である。それは、シエスタ(昼寝、昼休み)中に街中からは人がいなくなり、高価なものを身につけた観光客だけが街を歩くようになるからだ。いわば、夜中のようなものである。実を言うと、バルセロナで15:00くらいに船に乗ったのも、そして14:00の列車でマドリードに行くという行程でもいいやと思ったのも、その理由あってのことである。シエスタ時間に街を歩くのは少し避けたいとの思いがあったのだ。単純に、強烈に暑いからという理由もなくはないが。

マドリードバルセロナの地下鉄の違いは、値段と治安の悪そうな雰囲気とバルセロナ以上の熱気だけではない。当たり前のことだが、アナウンスが違う。つまり、カタルーニャ語は消え、カスティーリャ語(=スペイン語)だけになるのだ。とそうこうするうちに、

「Proxima estacion, Gran Via(次は〜グランビア)」というアナウンスが入り、わたしは地下鉄を降りた。

バルセロナのランブラスときて、マドリードのグランビアとくれば、もう、目抜通りである。テロが起こるかもしれないからそういう場所は避けようと思っていたが、やはり交通の便にはかなわない。それに、テロやスリはともかく、目抜通りはなかなか凶悪犯罪を働きづらい場所でもある。

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と、ランブラスのイメージで地上に上ると、それは大きな間違いだった。グランビアは、本来の意味で「でっけえ(グラン)」「道(ビア)」だった。その全てを焼き尽くさんばかりの強烈な日差しを防ぐものは日陰側に立っている建物以外には存在しない。日向は焼き尽くされるがままで、申し訳程度に植えられた並木は並木としての用をなしていない。さらに、マドリードの街は暑さ対策のためだろうが、真っ白に塗られており、それが熱波を反射して、道行く人に浴びせかける。歩道はツルツルに磨き上げられた石のタイルなもんだから、その熱波はさらに下からも私たちを襲う。タイに行った時、「蒸し鶏はこういう気分なのだな」と思ったが、マドリードでは「焼き魚はこういう気分なのだな」と思った。とにかく、上から、下から、横から、日差しが猛威をふるってくるわけである。

ホテルはグランビアから一本横に入ったオルタレサ通りにあった。厳密に言えば、わたしが予約したのはホテル(オテル)ではない。わたしが予約したのはオスタルというスペイン独特の民宿である。アパートの中の一室がオスタルに改装され、その人部屋を使うというシステムになっている。だから、最初は驚いたのだが、同じ建物にたくさんのオスタルがあるという状況は普通のことである。だから看板を見てもよくわからず、インターフォンのボタンのところにオスタルの名前が書かれている。

オルタレサ通りはかつて治安が悪いと呼ばれたチュエカ地区(中国街という意味らしいが、中国感は皆無)にあるが、オスタル街でもあって、たくさんのオスタルが軒を連ねていた。わたしが予約したのはオスタルプラダというものだったが、見つけるのに少し手間取った。やっとこさ、インターフォンのところにオスタルプラダを見つけたので、わたしはそのアパートに入り、小さくてレトロなエレベータに乗って四階のオスタルプラダへと向かった。

踊り場に出ると、二つドアがあり、片方がオスタルプラダ、もう片方が別のオスタルになっている。面白いシステムだなあと思いつつ、わたしはプラダインターフォンを押した。すると、ラホイスペイン首相に少しだけ似た、細身で白い髭を蓄えた、Tシャツのおじさんが出てきた。

「¡Hola!(こんにちは)予約しているものです」と言うと、

「Ah, buenas tardes(こんにちは)こちらへどうぞ」とわたしを中に入れた。入ってみるとやはり家だ。そのあと手続きを済ませ、わたしのパスポートを受け取り、書類を書く、というような仕草をすると、おじさんはわたしに鍵を渡し、部屋へ誘導した。このおじさん、そこまで英語ができるわけではないようで、その点なぜだか好感が湧く。

「タバコですね」とおじさんは部屋を開けていった。確かに少しくさかった。といっても、正直トゥールーズのタバコ臭い部屋に止まったくらいなので、大して気にはならない。しかしおじさんは気にしているようで、窓を開けた。

「僕はタバコは吸いません」とわたしが言うと、おじさんは満足そうにうなずいていた。

プラダのおじさんが案内してくれた部屋は随分と綺麗な部屋だった。これが、二日で60ユーロほどなのだから、とんでもないことである。テレビも、バスタブも付いている。とはいっても、バスタブは大きさが狭く、さらに浅いので、体を温めるのには使えなさそうだ。

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プラダのおじさんがパスポートを返してくれるまでの間、わたしはテレビをつけ、ネットやらガイドブックやらでこのあとどうするかの情報収集をした。情報収集するのは好きではないが、まあ、仕方ない。マドリードという場所の勝手がわからないのだ。見ていると、世界規模を誇るプラド美術館が18:00から無料展示らしい。ならば、行ってみよう。今回の旅でまだ博物館にも美術館にも行っていないではないか。

とまあそんなこんなでわたしは蒸し暑い部屋で待っていたわけだが、おじさんは戻ってこない。まあ、これがスペインというわけである。わたしは仕方ないので、とりあえず顔を洗い、テレビを眺めた。南米のどこかでコンフリクトがあったのか、街が炎に包まれ、人々が逃げ惑っていた。やはり同じスペイン語圏として、こういうニュースはきちんと報道するんだなあと思った。

それでもおじさんが来なかったため、わたしはフロントへ向かった。おじさんがいないので、事務室的なところに行くとおじさんがいた。おじさんは謝りながら書類を仕上げ、パスポートを返してくれた。

「二泊?」とおじさんは言う。

「ええ、二泊です」とわたしは行った。

「じゃあ、お金は明日か明後日でいいですよ」とおじさんは言った。わたしは、ありがとう、といい、

「¿Hay una mapa de Madrid?(マドリードの地図はありますか?)」と尋ねた。いまこそ、この度のためにラジオで勉強したスペイン語を使う時だ。

「Si(ええ)」とプラダのおじさんは言うと、地図を取り出した。それから、「Aqui, Prda. Y aqui, Grand via, y aqui, Puelta del sol(ここがオスタルプラダで、こちらがグランビアです。それからこちらがプエルタデルソルです)」と地図の見方を説明してくれた。

「De aquerdo. Ah...quiero ir a Prado(わかりました、えーっと、プラド美術館に行きたいです)」と言うと、おじさんは青ペンでプラド美術館のところをくるくるとマークした。それから、身振り手振りを交えて行き方を教えてくれた。

曰く、まずオルタレサ通りを抜けて、グランビアに出る。グランビアをまっすぐ向かって左に歩くと坂道があって、最後にロータリーが出てくる。シベレス広場というらしい。そこをくるっと回って90度行ったところの道をまっすぐ歩き続ければプラド美術館があるそうだ。

「De aquerdo. Gracias.(わかりました。ありがとうございます)」と言うと、わたしは鍵を置いて、外に出た。帰ってくる時はインターフォンを鳴らしてね、とのことだった。

7都市目:バルセロナ(7)〜アデウ、バルセロナ〜

目を覚ますと、ちょうどよく狭い、白と黒の部屋にいた。わたしはベッドから出らと顔を洗い、それから荷造りをした。名残惜しいが仕方ない。今回の旅では最大級に名残惜しい。

重たいリュックを背負ってフロントに戻った。フロントには誰もいない。しばらく待っていたら奥の食堂からおばさんが出てきた。チェックインの時のおばさんだ。

「チェックアウトです」と告げると、もうお金は払ってあったので、おばさんはにこやかに鍵だけ受け取って、

「良い1日を!」と言った。

「Moltes gracies, adeu!(おおきにありがとうございました、さいなら)」とカタルーニャ語で挨拶をして、わたしはホテルを出た。

すぐに駅へ行ってしまうのも寂しいので、ランブラス通りをうろちょろしていると、市場があった。こりゃ気づかなかった。しかし市場は朝が本番なのでちょうど良い。わたしはリュックを背負った重装備ながら、市場へと入って行ったこと。サンジュゼップ市場(ラ・ボケリアとも)というらしい。

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スペイン人は朝が遅いようで、朝が正念場の市場もまだまだというところだった。あれは確か8:00くらいだったはずだ。それでもやはり野菜や魚介の生々しい香りが漂う市場の空気感は健在で、心躍らせた。日本ではあまり嗅ぐことがない香りだ。築地であってもまだまだ生ぬるい。アジアやヨーロッパの市場はグイグイとくる。あの臭さこそ、生活の証である。

何組か観光客も来ていた。昼になるともっとたくさんいるのだろう。朝食でも食おうかと思ったが、どうにも見当たらない。とはいえ何もせずに市場を去るのはもったいない。わたしは果物屋のジュースを飲むことにして、どこがいいか品定めをして、客が何人かいたところで買うことにした。(ここはカタルーニャなのだから)スペイン語を使うべきか悩んでいたので英語でキウイジュースを買った。氷も何もなく、ひたすらにリアルなキウイ果汁が詰まっていた。これこそ市場の味。飾らないところがいい。フレッシュジュースの鑑という感じだった。しかし、今思うと、どうしてあんなバレンシアのそばまで来ておきながら「Zumo de naranja(オレンジジュース)」にしなかったのか。非常にもったいないことではあるが、こんなもんである。出川哲朗曰く、「これがリアルだから」と。

ランブラス通りへ戻り、通りにあるベンチでジュースを飲んだ。もう、バルセロナを離れるのか。いや、まだわからんぞ、理性なんて吹き飛ばし、直観の赴くままにバルセロナにもう一泊してやろうということになるかもしれぬ。そう思いながらも、心のどこかでバルセロナに、ランブラス通りに別れを告げて、わたしはリセウ駅からサンツ駅へと行った。これでこの地下鉄も最後かと名残惜しく思いながら。

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問題は、マドリード行きのチケットをまだ入手していないことだった。ホテルはとったが切符がない。そんなわけで、わたしは昨日行った切符売り場に並んだ。その時ふと気づいたことがあった。それは昨日はあまり気にかからなかった、隣のブースである。隣のブースには待合室風のベンチがたくさんあった。もしや、当日券以外はここで買うのではないか。どうやら昨日はそれに気づかずにサンツを去ってしまったのではないか。まあ旅とはこんなものだ。

マドリード行きのチケットをユーレイルパスで予約したいんですが」とブースのおじさんにいうと、おじさんは何やらパソコンで調べた挙句に

「13:25のやつがあるよ」と言った。今は朝の九時。電車は一時半。なんと。やはり昨日予約しておけばよかった。もしかするとこれはもう一日バルセロナに泊まれと言う運命の悪戯なのではないか。などとあれこれ考えた上でわたしはチケットを予約した。フランス国鉄よりもちょっとだけ高めの10.55ユーロである。

チケットを受け取り、わたしはブースの裏側に回ったところにあるパン屋に立ち寄って朝食を買うことにした。朝9時30分。ここ数日では最も遅い朝食だった。

「¡Buenos dias! Un croissant y un cafe con leche, por favor.(おはようございます、クロワッサン一つとカフェコンレチェを一つお願いします)」と、わたしはこれから向かうマドリードでの練習とばかりにカスティーリャ語を使ってみた。英語で話しかけられると思っていたのか、店員はちょっと驚きつつ、ちょっと嬉しそうに、

「Vale. €2.50(はい、2エウロ50センティモでございます)」と答えた。旅は言葉じゃない、言葉じゃなくても通じ会えるんだ、などと人は言う。それは70%くらいは真実かもしれない。でもここヨーロッパでは特に、その国の言葉を喋れるだけで、どれだけ外国人への警戒を解いてもらえることか。言葉の力を舐めちゃあいけない。

笑顔でありがとうと交わし、わたしはベンチでカフェコンレチェと甘いクロワッサンを食べた。この、カフェコンレチェはうまかった。はじめて試したが、気に入った。カプチーノのような感じなのだが、カプチーノより濃厚で、言葉で説明するのは難しいが、身も心も温めてくれる感じの味がする。その後のスペイン旅行の朝のお供となった。

そのあと、友達にメッセージを送ったりなどしながらこれから駅の外に出るのかどうか考えた。出たい気もするが、リュックを背負って、この前のディジョンのようなことは御免である。そうだ、コインロッカーを見つければいい。調べてみると案の定コインロッカーはある。さて、バルセロナにお別れを言おう。行き先は、今回の旅で親しくなったガウディ師匠のグエル公園か、カサミラか、それかかつてのアラゴン王国の宮殿だ。

 

結局選んだのは宮殿だった。グエル公園は少々遠く、行き方が複雑そうだったから却下、となるとやはりカサミラよりも宮殿に行きたい。なんとそこでコロンブスとイザベラ女王が会見したと言うのだから見たいに決まっている。

コインロッカーは空港の荷物検査のようなことをしてから、預けるシステムだった。こうしておけば、日本だって、どこぞの大統領が来日してもコインロッカーを使い続けられるのに。バルセロナは傍目には、他国のテロなんて御構い無しのゆるい警備に見えたが、締めるとこは締めているようだ。

身軽になって、地下鉄に乗り込む。今考えてみれば明らかに遠回りな、サンツ駅→エスパニヤ駅→ウルキナオナ駅と乗り換えて、目的のジャウマプリメ駅に向かうルートをとった。何せ乗り納めだ。

駅を出ると、滞在中はちょっとしか立ち寄っていない旧市街の街並みに出た。ゴティック地区というそうだ。色はあいもかわらずパエリヤみたいな黄土色、そこら中に蔦のような形の街灯がつる下がっている。やっぱり、わたしはバルセロナの街が好きである。しかし、宮殿は見当たらない。

ここかなと思って行ってみると広場である。宮殿の前っぽさもあるが、どうやら市庁舎か何かのようだ。もしかすると博物館かもしれない。入ろうかとも思ったが、宮殿に行きたいのでやめることにした。時間がそんなにあるわけでもない。人だかりの雰囲気を楽しみつつ、路地に入った。すると古くからありそうな飲み屋や服屋が軒を連ねている。宮殿ではないが、見ているだけで十分に楽しかった。それに、ゴティック地区の街並みは見ていて心躍るものがある。石畳の狭い道の横から迫る背の高い黄土色の建物。そしてつる下がっている街灯。わたしは夢中になって歩いた。

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しばらくすると別の広場が現れた。今度は誰かの像がある。フランスとは違ってテラス席の店はあまり見ないが、それでの街のごみごみとした賑やかさが心にしみてくる。ガヤガヤとした街は、わたしの心に今朝方からなんとなく突っかかっているものを満たしてくれた。それはバルセロナをさる寂しさでもあったし、日本でやり残してしまったことへの気持ちでもあった。

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迷路のようなゴティック地区が目の前で開けたと思うと、それはランブラス通りだった。これもまた、運命の導きだ。ランブラス。ここからわたしのバルセロナの旅は始まり、そしてここで終わる。わたしはランブラス沿いにゴティック地区を歩くことにした。ホテルがあるのとは逆側の道だ。すると、大きな教会が現れた。大聖堂(カテドラル)だ。サグラダファミリアと違って、「完成済み」のこの教会は、いかにも教会らしい形をしていた。これはこれで良い。広場は人で溢れ、楽しそうな声が聞こえた。教会の近くを歩いていると、ガウディやピカソに関する美術館があった。ガウディ師匠とここで再会するとは。これも運命の導きである。もはや宮殿などどうでも良かったので入ろうかと思ったが、まだ歩きたい気持ちもあったので散歩を継続することにした。

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わたしが足を踏み入れたのは、再びゴティック地区の奥だった。先ほど歩いたようなグネグネ曲がった黄土色の古い町の迷路である。生ハム屋さんやアンティークショップがそこにはある。そうした界隈をうろうろしていると、ドンドンという太鼓の音が聞こえた。そしてシュプレヒコールが聞こえた。デモのようだ。今のヨーロッパで騒がしい方へ行くのは賢明ではないが、少し近くへ行って見た。するとゴティック地区にしては広い道を女性団体が隊列を組み、横断幕を掲げている。女性の権利の関係の何かだろうなと思った。

「ラホイ、ラホイ、ラホイ!」と叫び、そのあと何やら言っている。ラホイとはスペインの首相で保守系の政治家だ。彼に対する何かの抗議のようだ。フランコ独裁政権が倒れてからまだ40年ほど。スペイン、特にバルセロナの政治意識は高いみたいだ。

わたしはその場をそっと離れ、さらに道を進んだ。すると突如として道がひらけ、大通りに出た。その通りはどことなく見覚えがあるような気がした。昨日歩いた界隈にやって来たのかもしれない。ふと横を見ると、ぐにゃっと曲がった感じの黄土色の建物にたくさんの鉄球がくっついている。

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ガウディ師匠ではなさそうだが、バルセロナのアールヌヴォー系界隈が始まったのだろうか。あれはなんの建物だろう、と思いつつ、さらに道を行くと、通りの向こう側に、何やら不思議な形をした建物があった。鉄球がたくさん張り付いた建物も十分不思議だが、それ以上に鮮やかな色で、建物もグネングネン曲がっている。もしや、ガウディ師匠だろうか。わたしはよくわからないので近づいて見ることにした。

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それは、カタルーニャ音楽堂というコンサートホールだった。にしては狭いところに立っている。ちなみに、後で知ったがこれはガウディ師匠の作品ではない。ムンタネー師匠というカタルーニャ19世紀の芸術復興運動の立役者のものらしい。世界遺産にもなっているという。

面白いのはチケット売り場である。色とりどりのタイルが貼られた柱に丸い穴が空いていて、そこがチケットカウンターになっている。無味乾燥なチケットカウンターとは違う。こういう細部にこだわるところが良い。よくできている。

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それにしても漂ってくるエキゾチックさはなんなのだろうか。確かに、かつてイベリア半島イスラーム勢力の支配下にあった。だが、バルセロナはその支配を脱しているし、イスラームとの折衷建築であるムデハル様式とはまた違った趣がある。といろいろ考えたのだが、一つ思い当たるのは、かつてバルセロナを中心としたアラゴン王国シチリアを支配していたことだ。あそこは南のイスラーム世界、北のキリスト教世界の交差点にある。行ったことはないが、シチリア旅行をした人の写真は見た。棕櫚がたくさん生えていて、建物の感じも不思議なエキゾチックさをたたえている。どこかバルセロナに似ている。とはいっても、バルセロナバルセロナらしさもやはりある。いや、もう理屈で考えるのはよそう。バルセロナの空気をたたえた建築物に、わたしは良さを感じているのだ。そのわけのわからないエキゾチックさに、である。

この中はどうなっているんだろう。いつか来た時はここでコンサートを聴いてみたいなと思いつつ、しばらく眺めていたら、電車の時間まで結構逼迫してることに気づいた。そろそろ地下鉄の駅を探して、サンツ駅に戻らねば。まあ、逃したら逃したで、10.55ユーロは損になるが、そうしたらバルセロナにもう1日とどまれってことなんだろう。少し心の余裕を持って、近くにあったウルキナオナ駅に入り、サンツ駅を目指した。今度こそ、最後の地下鉄ということになる。

 

サンツ駅についたのは13:00。発車時刻は13:25。なかなかのピンチである。急いでコインロッカーからリュックを取り出し、プラットフォームを探した。プラッフォームの前には荷物検査ような機械が2台並んでおり、その目の前には警備員が立っていた。どうやらスペイン国鉄renfeの高速鉄道AVEはかなり強烈なチェックをするらしい。そういえば、21世紀の頭にスペインでは高速鉄道を狙ったテロが起こったのだ。そのせいか、かなりピリピリしていた……とはいっても、ピリピリしていたのは置かれている器具だけだった。係員はゆるゆるそのもので、形だけというような感じである。四人組の軍人が徘徊しているフランスと比べると、スペインは随分とゆるい。まあゆるい方が平和で良いのだ。

荷物検査後、検札を通る。ユーレイルパスに不備があったので、「ああ、ここで記入してくれればいいよ」とゆるく対応され、書き直した。髭の検札のおじさんは、それを見てから、

「ありがとう。それじゃあ¡Buen viaje!(良い旅を)」と楽しそうに言った。スペイン、早くもはまりそうである。

「¡Gracias!(ありがとう!)」とわたしは言い、エスカレーターで地下にあるプラットフォームに降りた。バルセロナマドリードなどの大きな駅では、地下にプラットフォームが集中している。

さて、これでバルセロナともお別れだ。電車にもどうやら間に合ってしまったようだし、これにてAdeu Barcelona(さいなら、バルセロナ)である。わたしは心の奥底で、バルセロナにいつかもう一度来ようと思っていることに気がついていた。だから、Aviat, Barcelona(ほなまたな、バルセロナ)が正しかったのかもしれない。

7都市目:バルセロナ(6)〜一人前のパエジャ〜

ランブラス通りに戻ってきた私はそのままランブラスを歩いてホテル方面へと向かった。ランブラス通りは区画ごとにテーマがあるようで、カタルーニャ広場のそばはおみやげ物屋が多い。カタルーニャ広場にいた人たちが多いせいか、人がすごくたくさんいる。そしてしばらく歩くと、向かって右側にトルコ料理の店が乱立するようになり、ランブラス通りにも料理屋のテラスが増える。ここが、私の最寄駅「リセウ駅」のある界隈だ。そんなもんだから、リセウに着いた時はいきなり目の前に「レイ・デ・イスタンブールイスタンブールの王)」などといった店が現れたもんだから驚いたのを覚えている。そして、海に近づくと、大道芸人とアーティストの世界になる。

土産物を遠目に見つつ、レストランを探したが、やはりホテルの人に聞くのが早そうだった。ランブラスの雰囲気を楽しみながら進み、トルコ料理屋のある路地、私のホテルがある「オスピタル通り」に入った。

「Hola(こんばんは)」とフロントの人に声をかけた。「一つ質問があるんですが」

「いいですよ」と女性は答えた。

「このあたりでおいしいスペイン料理屋はありますか?」と尋ねた瞬間私は「ああ、スペイン料理じゃなくて、カタルーニャ料理というんだった」と思ったが、まあ仕方がない。スペインに来たんだ。

「そうね……」と女性は少し悩んだ後で、「ホテルを出て、ランブラスとは反対側に進んで、二つ‥‥ううん、三つ目の角で曲がって。そうすると、とてもおいしい店があるわ」と答えた。ランブラスと逆方向というのは意外だったが(旧市街はランブラスの向こう側だからだ)、私はありがとうと言って外に出た。

空は薄暗くなりつつあった。もう7時半すぎだ。スペインの夕食タイムは8時からだというから、実はちょうど良い。私は言われた通り、明らかに猥雑そうな道を歩き、いわれた角で曲がろうとした。するとである。路地の奥の方にレストランらしきものが見えるのだが、その手前に酔った男が座っていて、その男がなにやらドイツ語で喚いているのだ。さらに路地の向こうから大きな声で歌う声が聞こえる。それも、みんなで歌っているというよりも明らかに一人で歌っている声だ。これは、やばい通りに入りつつあるのかもしれないと感じた。まさに、「I have a BAD feeling about this」。私はためらった。これで怖気付いて行かないのか、それとも行ってみるのか。安全か、冒険か。私はこの旅では怖気付かないようにしたいと思っていたので非常に迷った。だが、明らかにやばい匂いがした。

その時だ。ドイツ人の酔っ払いがなにやら叫んだ。こちらを見ていたかはわからない。だが、「Hut(帽子)」のような単語が耳に残った。私は帽子をかぶっていたので、ああ、これはやめよう。やばいところにわざわざ入る必要はない、なんとなれば、危機管理も身につけるべき徳なのだから、と心に言い聞かせ、その場を立ち去った。

さて、危機は去った。ところが、問題は残る。夕食の場所だ。フロントに戻って、「怖くて入れまちぇんでちた」などとダサいことはいいたくない。自分の足で開拓するほかない。ガイドブックを取りに行くのも、また一つの恥であるから、完全に自分の足で稼ごうではないか。

というわけで、私はあてもないのでランブラスに戻った。しかし夜の料金はどこも高い。そうだ、昼食べたところか、その近くの店に行けばいいじゃないか、と私は再びレイアール広場に行った。夜になるとストリートミュージシャン(厳密にはストリート(道)ではないので、プラサミュージシャン)がいて、棕櫚の木も風になびいていい感じである。昼を食べた店は超満員で、しかも並んでいるのでやめた。隣の店に入ろうかと思ったが、どうやら飲み屋である。私は食事がしたいのだ。広場には結構客引きをしている店があったが、客引きのいるところで食うのはなんとなく嫌だし、ぼったくりのようなものに会うのは嫌だった。せっかくバルセロナを好きになったのに、そんな終わり方は嫌だ。と思いながらウロウロしても、どうしようもない。日は落ちてゆく。初めての国で夜中にあまり歩きたくない。さきほどの路地の一件もあって、少しだけ警戒心が戻りつつあった。

 

人だかりがある店があったので、わたしはとりあえずそこのメニューを見た。英語版だ。それに店員もすごく浅黒くて、一瞬インド人に見える。ここはやめておこうかと思っていたら、店員が声をかけてきた。

「一人か?」と店員が言うから、そうだ、というと、こっちへ来いという。ぜひに及ばず。なにかしら食べたいし、私はもう流れに任せることにした。

テラス席は満員なのに、店内はガラガラである。これはまずいかもしれない。と、警戒心全開でテーブルにつき、置かれたメニューを開いた。パエジャ(パエリア)がある。だが、私は知っていた。パエジャは地元の人は昼に食べるものであり、パーティ食だから一人で食うものではない。しかしこの店は一人前を売っている。これはよくない。きっとよくないパエジャに違いない。なぜ入ってしまったのか。だが、もう時すでに遅しである。しかも、パエジャ以外の料理はよくわからないときていやがる。

私はブスッとした顔の店員を呼び、まずワインはグラスで頼めるかどうか尋ね、オーケーだったので、赤のハウスワインを頼んだ。それから、おすすめは?と尋ねた。

「おすすめ? そりゃもうパエジャだよ」と店先にいた人とは対照的に色白のウェイターは言う。ますます良くない。

「どのパエジャがいいんですか?」ととりあえず聞くと、

「海鮮だ」という。海鮮は17ユーロ、鶏肉は10ユーロ。フランスの物価からするとバカやすいが、私は一応やすい鶏肉にすることにした。実はバレンシアで生まれたパエジャはもともと鳥やウサギなどの山の幸を入れていたという逸話を聞いていたこともあった。店員はブスッとした顔でうなずき、去っていった。忙しそうである。

しばらくして、店員が白ワインを持ってきて注ごうとしたので、私は赤だと訂正した。店員は不服そうに赤に直した。今思うと、それは彼がテキトーだったのではなく、オーダーが鶏肉だったからじゃないかと思う。店員は再び立ち去った。ここは大丈夫だろうか。私は少し深呼吸をした。これで値段を吊り上げてきたらどうしたものか。

すると店員がこちらに向かってやってきて、ブスッとした顔で、

「聞きたいんだけど」と言う。「君は中国人? 日本人?」

突然の質問に少し驚いたが、「日本人」と答えた。

「ああ、日本人か。気になってたんだ」と店員はいった。「日本人の女の子はグア……えーっと可愛いよな」

相変わらずブスッとしていたが、全然悪気はなさそうだ。そういう顔なのか、私がよくわからないアジア人だからなのかだろう。私は自分が申し訳なくなった。一度は心を許した街に、変なバリアを張ってしまった。私は笑って、「でもスペイン人だって……」と冗談めかしてみた。

「いや、だめだ。ここの女は……だめだ」と店員はいうと、しばらく何か考えた顔をした、「Arigatogozams」と言った。ありがとうということだ。

「日本語うまいね」と私は言った。

「Cuteって日本語でなんていうの?」と店員は尋ねた。誰か狙っているのだろうか。

「かわいい、だよ」と私は言った。浸透している言葉なのか、店員はハッとした表情だった。

「Arigatogozams」店員はまた立ち去っていった。普通にいいやつじゃないか。私は警戒していた自分をあざ笑いながら赤ワインを飲んだ。

しばらくして、店員がパエジャを持ってきた。いい香りがする。量も適度に多い。わたしは彼に習い、

「Gracies(カタルーニャ:おおきに)」と伝えた。店員は「De nada(西:どういたしまして)」と答えた。いちおう、カタルーニャ語のつもりなんだけどなあ。

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レモンを絞り、フォークでパエジャをつついて口に入れた。店員のキャラが面白いのでまずくてもいいかくらいに思っていたが、パエジャは予想を裏切ってきた。うまいのである。鶏肉の出汁が良く利いていて、うまい。お焦げな感じは全くないので、お焦げ系パエジャが好きな人はあまり好きではないかもしれないが、私はあの水分多めのパエジャもなかなか好きだ。香りがよく立っている。次に肉を食べてみると、骨つきで、身はジューシーで柔らかい。正直に言って私の人生の中で最高のパエジャだった。ここにきて、私の警戒心は本当に馬鹿げたものだったことがわかった。あとはぼったくられないかどうかだか、正直ぼったくられてもいいとも思った。

パエジャを頬張っていると、先ほどの店員がやってきて、

「どう?」と聞いてきたので、わたしは

「うまいよ。¡Qué rico!」と答えた。店員は相変わらずブスッとした感じだが、どことなく嬉しそうに、

「¿Muy rico?(すごくうまいか?)」と尋ねた。

「Sí, sí(ああ、うまいよ)」と私はもう一度答え、「えーっと、どうやっていえばいいのかな、美味しいって……」

「Muy ricoだよ」いや、そうではないのだ。私が聞きたいのは……

「あの、カタルーニャ語では」

「ああ、Mol bonだよ」店員は少し驚いた感じていった。カタルーニャ語を質問する人は少ないのだろうか。あんなに街中に沢山書いてあって、観光客は誰も気にもならないのだろうか。少し寂しい気もする。

「Mol bon!(めっちゃうまい)」そういうと、店員は

「Gracies(おおきにな)」と答えた。

最後にコーヒーを頼み、さっぱりした後で会計をした。全くぼったくられていなかった。わたしはチップとして少しだけ加算した上で席を立った。例の店員は忙しそうにどこかに行ってしまった。少し残念だが、私はそのままレイアール広場を後にして、ホテルへと急いだ。夜の帳が下りていて、ランブラスではヨーロッパの観光地恒例の光る独楽を飛ばす人たちがいる。

 

ホテルに戻ると客が来ているようで、フロントに列ができていた。私は列の最後尾で待っていたが、どうも先に進まない。フロントのお姉さんは私に気付くと手招きした。

「番号は?」まるでテストするようである。まあ、テストされて仕方がない。ならこちらも期待の上をいってやらねば。

「クワトロ・トレセ(413)」

「Quatro treze, muy bien(413ね。正解よ)」フロントのお姉さんはにっこりと笑って鍵を渡した。

「水を買えるところはありますか?」と尋ねたら、食堂があると指をさした。私は礼を言って「Bona nit!(おやすみなさい)」とカタルーニャ語で残して食堂に入った。しかし水は売り切れていたので、仕方なく部屋に戻った。

テレビをつけると、サッカーをやっている。バルセロナといえば、バルサ。ステレオタイプだが、ステレオタイプ通りの番組である。テンションの高い実況が、「メッシ、ネイマール、ゴーーーーーウ、ゴーーーーーーーーーーーーウ」と得点を喜んでいた。かつて、バルサの「カンプ・ノウ」スタジアムだけが、カタルーニャ語の使用を認められていたらしい。バルセロナのサッカーが強いのはそうした背景がある。サッカーでレアルマドリードに勝つことは、スペイン王国に勝つことであった。ドイツも、イタリアも、サッカーが強いヨーロッパの国は、どこも戦国時代並みの分裂からの統一を経験している。サッカーは地元の声でもある……らしい。日本も江戸時代がそのまま続いてサッカーだけ取り入れていたら、Jリーグはすごかったのかもしれない。特に「FC薩摩vsFC長州」とか、「FC薩摩vsFC会津」なんて激しそうだ。

などと馬鹿げたことを考えつつ、私は1日ぶりのシャワーを浴びた。

バルセロナは最高の街だった。もっとバルセロナにいたいと強く思った。正直、もう一泊する手もなくはない。それこそが自由旅行であり、そのためにホテルも何も予約していないのだ。だからバルセロナに何泊もして、そのままフランス語を勉強するためにコースを予約しているボルドーに行くという手だってある。とは言っても、バスク地方も見てみたいし、マドリード、ひいては南の方も見たい。ボルドーまでのタイムリミットがあと四日だった。バルセロナにいたい気持ちは非常に大きかったが、交通の便のいいマドリードに二日泊まる方が行動の可能性は広がる。悩みに悩んだ末、私は延泊をやめ、マドリードにしようと決めた。そしてホテル探しの面倒さから解放されるように、安いホテルをネットで探した。なんと二日泊まって7000円ほどのところがある。私はそこの予約を入れた。後払いだし、もし明日、気が変わってバルセロナにい続けたくなったらやめれば良い。

こうして、長い長い1日が終わった。

7都市目:バルセロナ(5)〜ガウディとカタルーニャ広場、生命の街〜

ガウディは好きではなかった。あの、グエル公園にあるような、うねうねと曲がった土色の壁に斑点、そこに謎のトカゲ、というあの感じが苦手であった。だから、建築家ガウディの生まれた街バルセロナに行こうと決めた時も彼の作品をめぐるということはあまり考えていなかった。

それでも、サグラダファミリアに行こうと思ったのは、150年の時を経てもまだ建築中という強烈な属性に惹かれたのと、サグラダファミリアに行ってみたいと言っていた人がいたのを思い出し、その人に写真を送りたいと思っていたこと、そしてやはり実物を見てみたいと思ったことからだった。少し話はずれるが、以前、私はミケランジェロの「最後の審判」が大嫌いだった。というのも、レオナルド好きだった私にとって、あのような解剖学も何もかも無視した肉襦袢のような筋肉で覆われた人たちがいる絵は許せなかったのだ。しかし、実際にバチカン市国システィーナ礼拝堂であの絵を見た時は驚愕させられた。肉襦袢も全部計算だったようで、あの場で見ると、あの中にある人々が浮き上がって実体化しているようだった。それ以来、私はあの絵が好きになった。同じように、ガウディも実際に見たら全く違うのだろうと予期していたのである。

 

最寄りのリセウ駅からパッサイグダグラシア駅、そしてサグラダファミリア駅へ向かった。もう慣れたもんだ、と言いたいところだが、間違ったところで降りたり、ゴタゴタの連続であった。どうにかこうにかサグラダファミリア駅にたどり着き、駅から出ると、あれ、サグラダファミリアが見えないぞ、となった。それもそのはず、駅はサグラダファミリアに隣接しており、出口からパッと出ると真後ろに例の教会はあるのだ。振り向くと、驚いた。巨大なのだ。とにかく巨大な構造物がどーんとそびえ立っている。これが、サグラダファミリアか。そう、思った。

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そうはいってもこのままではよくわからないので、横断歩道を渡って向こう側にある公園から一度眺めることにした。その公園にはお土産物屋台、というよりもアイスクリームを売る屋台がたくさんあり、周りでは大道芸人が芸を披露している。やっぱり「父の家の前で商売をするな」というイエスの教えをヨーロッパの人たちが真に受けなくてよかった 。文化を作り、教会に命を与えるのは、こういう人たちなのだから。

公園に渡って、他の観光客とともにサグラダファミリアと対面してみると、その迫力に圧倒された。まるで、生えているようだ。巨大な木がズドーンと目の前に生えているようである。これが、アールヌーヴォー。なんだか木やらサラマンダーやらをくっつけた気色の悪い芸術だと思っていたが、目の前にすると全く違う。生命を失った建築物に、生命力を与えるのが、アール・ヌーヴォーだったのだ。そして、ガウディだったのだ。そして教会に宿り、教会を150年間育ててきたガウディの生命力は見ているこちらの心を満たし、ゾワゾワさせた。好きになったといえば単純だが、それだけではない、むしろ「サグラダファミリアをやっと知った」とでも言えるような感覚が湧いてきた。

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一周してみよう。とりあえず一周だ。わたしはサグラダファミリアの建物に沿って歩いた。すると面白いことに気づいた。先ほど見ていた部分は、割とトラディショナルなスタイルで作られているのに対し、少し歩くと痛々しく釘のようなものがむき出しになった部分が現れ、その後に出てくる正門は、まるで教会自体が溶け落ちて行くかのように、葉っぱと生き物、そして聖人の像で覆われている。四辺が四辺とも違う顔を持っている。どことなく、カンボジアのバイヨン遺跡のことを思い出した。ところどころ崩れ、ところどころ森林に飲み込まれ、ところどころ見事に残っている。わたしはそこでその遺跡の生命を感じた。サグラダファミリアもやはり、生きていたのだ。

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その後わたしは、少し離れたところからもう一周した。何周しても新しいものが見える。やっとガウディが称えられる意味を理解しつつあった。うまくいえないが、ガウディの作品を見ることは、呼吸する建築物を見ることなのだろう。どの建築物もきっと呼吸があって、生きている。ところが、ガウディは目に見えてその生命力が見える。そこに、ほかとの違いがあり、かつて感じた気色の悪さがあり、今感じているその素晴らしさがあるのだ。伝わらなかったら申し訳ない。だがもし伝わらなかったなら、バルセロナに行って欲しい。そうすればあなたもガウディを知ることができる。

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まだまだかかりそうです

 

わたしはその後、サグラダファミリアの前にある公園のベンチに腰掛けた。今後のことを考えるためと、休むためだった。緑は相変わらず美しく、公園には熱気があった。広場には巨大なシャボン玉製造機を持つおじさんがいて、フーッと息を吹いて巨大なシャボン玉を作っている。それを見ている子供は何度もそれを壊し、おじさんはまた作る。公園の中にはなぜか、ヴェトナム名物自転車式人力車「シクロ」のようなものが走っている。わたしの隣にはタバコをふかす「カスティーリャ人」の若者二人組がいる。それを含めて、サグラダファミリアは生きている。

しばらくすると女性がやってきて、隣の二人に話しかけた。どうやら観光関係の調査のようだ。わたしはそっとその場を離れたが、あそこに座り続けていたらもっと面白いことがあったかもしれないなとも思った。あの、トゥールーズのおばあさんとの出会いのように。

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 地図によれば、サグラダファミリアの公園からぐーっとまっすぐ歩けばカタルーニャ広場に出られるはずだった。カタルーニャ広場というと、港まで続く我らがランブラス通りの起点である。初スペイン出始めは少し緊張していたが、ここまでくればもはやそのようなことはない。町歩きもお手の物である。

わたしはもう、バルセロナという町の虜になっていた。まず面白いのは街並みである。パリやロンドン、あるいはベルリンのようなヨーロッパの街並みは、四角い建物の連続である。そこにこそ、西洋的な美しさがある。ところがバルセロナはちがう。緑と黄色と茶色を混ぜたような不思議で素朴な色の建物(わたしはなぜかこの色が好きだ。落ち着くのだ)が、ぐにゃりと脈を打っている。サグラダファミリアで感じた、あの生命力が、よく見てみれば街の至る所にある。バルセロナは街の建築それ自体が鼓動し、生きている。そしてもちろん、そこにいる人たちも、しっかりと生きていて、温かいコラソン(ハート)を持っている。そして、その温かさは、カタルーニャを思えばとんでもないほど熱くなる。わたしの滞在時は、軽いデモくらいしか見なかったが、10月の投票、その後の騒動を見るとやはり熱い心を持っている。持っているからこそ、州論も二分するわけだ。

街を歩いていた時、あることに気がついた。脈打つ街並みを作り出しているいくつかのアパートのバルコニーに、青地に「Si!」と書かれた旗と、黄色の地に朱色の線が四つ、その線の付け根には青の三角形があり、そこに白い星が描かれた旗が掲げられていたのだ。もちろん、「Si(YES)」とは、「Independència(独立)」にたいする「Si(YES)」である。そして、黄色の地に朱色の四つの線はカタルーニャの象徴である。あの時は思わず、「本当なんだ」と思ったが、今では「やはり本当だったんだ」と、思う。

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迷いつつ、黄土色の街を歩く。何年か店がある。さて夕食はどうしよう。少々足も疲れ、お腹もすいてきたところだが、ホテルのお姉さんに聞こうと思った。そのためには、八時くらいまでには戻らねば。それにしても雰囲気の良い街である。わたしの好きな作家沢木耕太郎は「バルセロナはわたしにとって老人と少年の街だった」と書いているが、確かにお年寄りが多く、そのおかげか街に風格がある。若者の姿があまり見えないのはきっと、バルセロナがスペイン第二の経済都市として繁栄しているためだろう。街自体は活気があったし、でかかった。しかし、それだけではなく、やはり温かみのようなものもあった。建物の雰囲気が醸し出す全体的な空気が気に入った。

しばらくバルセロナの街を彷徨い歩いていると、「凱旋門アルク・ダ・トゥリウンフ)」が現れた。黄土色とオレンジ色のコントラストはなぜか、テレビか何かで見たインドの凱旋門を思い出させた。インドの凱旋門は白いから、まったく思い出す要素はないのだが、どことなく東洋的なものを感じたのかもしれない。周りにある棕櫚の気のせいかもしれない。そう考えてみると、バルセロナの黄土色の建物から感じる「生命力」のようなものは、おそらく、エスニックな感じと通じているのかもしれないと思った。純ヨーロッパではない、どことなくスパイスの香りを感じてしまいそうな雰囲気だ。フランスを旅していた時には感じなかったものだ。バルセロナは、アジアから最も遠いヨーロッパということになるけれど、それでも、アジアとヨーロッパの中間の空気感があった。暑さも、植物も、街の雰囲気も、色使いもそうだった。そう、今思うと、私はあの街のエキゾチックさに心惹かれていたのかもしれない。

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そろそろ夕刻も近いので、凱旋門はくぐらずに、凱旋門前の大道芸などを横目に見ながら、横道に逸れた。その道を行けば、「カタルーニャ広場」につくという。まだ1日しかいないから当然だが、カタルーニャ広場は駅名の「Plaça de Catalunya」としてしか知らない。実物を見たことはないのでぜひ行ってみたかった。バルセロナ一帯のカタルーニャという名前を冠した広場とは全体どんなところなんだろう。

と、勇み足で歩いてみたが、バルセロナは広いらしい。なかなかたどり着かない。少々疲れていたので、私は道の途中にあった公園のベンチに腰掛けることにした。それにしてもバルセロナは「公園の街」と言ってもいいくらい公園がある。大通りの中央分離帯は遊歩道になっているし(イメージとしては鎌倉の鶴岡八幡宮前の大通りのような感じである)、街の中を占める木の数も多い。といっても、ベルリンのようなボンボンと公園が乱立している感じではなく、建物の雰囲気も合わせて、公園や並木が街と同化していると言ったほうが正確だ。先ほどから何度も恐縮だが、「生命力のある街」としか言いようのない、他に類を見ない雰囲気がある。だから、「バルセロナはどうでしたか?」と聞かれると思わず、「緑が綺麗でしたね」と言ってしまう。そして「建物が面白かったです」と付け加えるのだ。それだけ緑が街と一体化している。

私が腰を下ろしたのは、「ウルキナオナ広場」というところで、お年寄りも若者も、座ってゆっくりしている場所だった。バルセロナの良いところは、日本の街の小さな公園と違って、どの公園もしっかりと使われているというところだ。やはり、人あっての公園である。せっかく公園に座ったので、wifiは持っていたが、あえてケータイは使わず、地図を見たり、道を歩く人をぼーっと眺めたりすることにした。ポケットwifiは便利だが、時にケータイを見がちにさせてしまう。せっかく旅という「人生の修行」をしているのに、それではよくない。風を感じ、周りと打ち解けるには、ケータイは邪魔でしかないものだ。と、諭したくなるほど、使ってしまっていたのも確かであった。情報収集、ホテルの予約と何かと便利だったのだ。

しばらく静かに座っていたら、足の疲れも治ってきた。私は再び立ち上がり、公園を抜け、先ほどの道を歩いた。すると、すぐに「カタルーニャ広場」は目の前に現れた。確かにこの広場はでかい。周りを大きな建物が取り囲み、タイルで敷き詰められた謎の幾何学模様がある円形の広場には驚くほどたくさんの人たちが夕涼みをしつつ、楽しんでいる。横断歩道を渡ると、サグラダファミリアぶりに見た物売りの人がいて、怪しげな人もいて、そして子供達が鳩を追いかけて遊んでいた。もちろん、お年寄り、恋人たちも健在である。観光客、地元の人、大道芸人でひしめき合い、黒人も白人もムスリムもクリスチャンもそこにはいた。これが、カタルーニャ広場か。気分も上がってきた。楽しい場所の匂いがする。

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バルセロナで流行っているのだろうか、ここにもシャボン玉作りおじさんがいる。巨大なシャボン玉を作っては、子供に潰され、作っては潰される。そんないたちごっこの中に、平和な日々の楽しさが詰まっている。笑い声、話し声が充満したカタルーニャ広場は、大して長くいたわけではないが(一人でいてもうろうろするだけだったので)、お気に入りの場所になった。

そして、広場の雑踏を抜けると、すぐに新しい雑踏が現れる。それは、あの「ランブラス通り」である。ついにここまでやってきたわけだ。というか、帰ってきたわけだ。さて、夕食を探すとしよう。

7都市目:バルセロナ(4)〜あまえ〜

バルセロナサンツ駅へは地下鉄で一本だ。わたしが数時間前初のイベリア半島の地に足を踏み入れたところ。それなのに、なんだかバルセロナ地下鉄に慣れ始めている。使いやすいのだろう。一回2.15ユーロ。日本円だと大体250円くらいで、大体のところまで行ける。

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サンツ駅は巨大な駅で、ホームは地下鉄も含めて地下にある。チケット売り場や各種売店、無駄に近未来感のあるトイレが地上階にはある。わたしは地下鉄から地上へと向かうエスカレータに乗り、地上に出た。さて、高速鉄道AVE(アベ)のチケットカウンターはどこだろう。広い駅構内をぐるりと見回してみると、向こうの方にカウンターらしきものがある。

近づいてみると、「Hoy(今日)」と書いてある。フランスでは、整理券を取るときに今日のチケットか明日以降のチケットかを選択するコーナーがあった。もしや、これは今日のチケットだけを売っているところなのかもしれない。だが、ほかにブティック(販売所)のようなものはないし、並んでみるしかない。案の定、前の方の団体は、わたしと同様ユーレイルパスを使ってチケットを取っている。きっとなんとかなる。

列はシエスタの時間帯のせいか短く、すぐに自分の番になった。わたしは初老の係員の元へ行き、

「Holà. ¿Hablà inglés?(こんにちは、英語話しますか?)」と言った。英語でいきなり話しかけると不躾だし、スペイン語の自信もないので、思いついた最終手段である。ただ、バルセロナの街を歩くと、カタルーニャ語ばかりが目につき、スペイン語=カスティーリャ語をぶつけるのも不躾なのではないか説が濃厚でもあった。しかし、バスク語は少しやったくせに、カタルーニャ語は挨拶程度しかやらなかったので、これしきのことも質問できなかった。カタルーニャ独立運動を舐めていたわけだ。今から思うと、当然、カタルーニャ語ばかりのはずなのに。

「Un poquito.(ほんの少しだけね)」と係りのおじさんはいう。なら、お言葉に甘えよう。わたしだって、Habló inglés un poquito(英語を少しだけ話します)程度なのだから。

「明日のマドリードまでのチケットをユーレイルパスで予約したいんですが」と尋ねる。

「明日? 明日のチケットはここじゃないよ」とおじさんはいう。やはりか。

「どこでできますか?」

「あっちだ」おじさんは、自動券売機の方を指差した。あれはユーレイルパス用じゃない話じゃないかと思いつつ、わたしは機械の方に行った。どうしたものかと機会を見ていると、

「タッチすればいいんだよ」とムスリマの彼女を連れた若い男が教えてくれた。だが、問題はそこではないのだ。わたしは駄目元で、

「ユーレイルパスを使うにはどうしたらいいですか?どういうシステムになってるんですか?」と聞いて見た。お兄さんは少し困惑の表情で、首を傾げた。すまない、おにいさん。悪気はないのだ。駄目元なのだ。

「あの人に聞くといいよ」とおにいさんはわたしにこっち来いと手招きし、係員の方へと連れてきた。わたしはその後なんとかユーレイルパスの話を伝えようとしたが、いまいち伝わらない。最後には先ほどのカウンターの方を指差して、あっちだと言った。多分違う。だがわたしは笑顔で、

「Gracies!」と伝えた。彼らもにっこり笑った。いい人たちだ。結果切符が買えたかどうかは関係なく、それだけは間違いない。

その後、ツーリストインフォメーションにも言ったが、いまいちわからない。もしかすると、スペイン国鉄(renfe)ではユーレイルパスは当日券だけなのではないか。そう思い立ち、わたしは探すのをやめた。新しい国にいるのだ。そういうこともある。とりあえずホテルに引き返し、スペイン人の習慣に従って昼寝をするか、それかシャワーでも浴びようか。そういえばトゥールーズのホテルでシャワーを浴びていないので、1日体を洗っていないことになる。

わたしはサンツ駅から地下鉄で、ホテルの最寄のリセウ駅まで引き返すことにした。蒸し暑い電車の中で、そういえばホテルの部屋番号を忘れてしまったなと思い出した。まあ、ストラスブールでも忘れてしまったが、なんとかなった。きっと平気だろう。

 

つい数時間前には完全な、警戒すべき異国だったリセウ駅も、いまや親しみ深い最寄駅である。2.15ユーロというめちゃくちゃ高くてめちゃくちゃ半端な地下鉄料金にも慣れてきていた。だいたい、2ユーロ20センティモを払い、5センティモをおつりで貰えばややこしくない。すると次の時にはちょうどの料金が払える。そんな生活の知恵も学び、わたしも気分はバルセロナ人である。カタルーニャ語を話せたら良いのだが…うん、それは今度来る時だ。

オスピタル通りにあるホテルに戻ると、フロントはおばちゃんから交代して若い女性になっていた。これはまずいかもしれない。というのも、ストラスブールで部屋番号を忘れてなんとなかなったのは、フロントのお姉さんが顔を覚えていてくれたからだった。他のホテルでは鍵は持ち出してくれと言われていたので、この状況は経験していなかった。

「Hola」と挨拶をして、「すみません、番号を忘れてしまって」と伝えた。すると女性は少しだけ眉根を寄せて、階はどこですかと尋ねた。私は四階だと答え、名前を告げた。この分だとシステマティックにカタがつきそうである。

すると女性は怪訝そうな顔をした。こちらまで不安になる。これは問題が起きているようだ。私は、ただ待った。すると、「あなたは存在していない」というようなことを言われた。まるでSFである。このSF的な状況をどうしたら良いのかわからぬまま、私は、困った顔をするしかない。

すると女性は、謎の韓国人か中国人らしき名前、それも私の頭文字とおそらく合致しているのであろう名前を告げて、「これじゃないの?」と尋ねてきた。いや、それじゃない、というと、これが正式な名前で、あなたの言っているのはニックネームではないの?と尋ねてくる。なるほど。確かに香港ではそう言うことがあると聞いたことがある。だが、私は日本人だ。しかも平成生まれだ。元服をした経験もないし、和泉守や摂津守などの官職をもらった経験もない。戸籍通り名乗っている。わたしは、違う、と答えた。それから、パスポートも提示した。しばらく、チェックイン時刻などを聞かれたりしたが、どうにもこうにも状況は動かなかった。

わけがわからない、という表情をフロントの女性がした。だがそれはこちらも同じだ。いや、私が忘れたのが悪いのだが、それにしてもデータに乗っていないというのは妙だ。「番号を忘れる必要はないじゃない……」と女性はこぼした。これには「すみません」というしかなかった。

ふと、わたしは、番号は覚えていなくても、どうやって部屋に戻るかは覚えているんじゃないかと思い立ち、四階の地図を見せてくれと伝えた。地図を見たとき、驚愕した。同じような構造の廊下が左右に広がっているではないか。なんてこった。しかたないので私は角に部屋があることを強調した。だが、女性はラチがあかないと思ったのか、先ほどの謎のアジア人の名前をいい、「あなたはきっとこの人なのよ」と、超弩級の、「確かに金額の話はしましたが、価格の話はしていません」という答弁レヴェルの強引さでいった。違う、ともう一度言うと、「ならあなたはとまっていないのよ」といった。私が悪いのは明らかだ。だが、ここは踏ん張らねばならない。私は、

「でも、確かに私の部屋があって、そこに荷物も置いているんです」と必死で懇願をした。

しばらく女性はデータの入ったコンピューターや宿泊者リストをいじっていた。あの頃は必死で気付かなかったが、今思えば、あのロビーの女性はすごく誠実な人なのだろう。もしかすると、変な状況にたまたま巻き込まれてしまったバイトなのかもしれない。彼女の動揺も、大きかっただろう。その中でずっと調べてくれていた。すると、女性はこちらを向き、「わかったわ、413号室に止まってるでしょ?」といった。たぶん、それだ。私はうなづいた。女性は鍵を取り出し、私に渡した。私は、申し訳ありません、と告げ、鍵を受け取った。

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たしか、チェックインをする時点で、チェックイン情報が伝わっていなかった。それは当日に予約したからだった。たぶん、その影響だろう。にしても、これ以降は部屋番号は絶対に忘れまいと心に誓った。私は緊張状態にあったこともあって、シエスタも諦め、シャワーも諦めた。ただ部屋番号を、小さなノートに書き込み、しばらくベッドに座ってみて、次の行き先を練った。それを決めてから、部屋をあとにした。

「ありがとうございました。私の部屋でした」と伝えると、女性は申し訳なさそうに、

「ごめんなさい。ありがとう」といった。もしかすると、見落とされていたのかもしれないなと思った。だが、私が番号を忘れたのが悪いことは変わらない。私は鍵を女性の手元に返した。それから、私は外に出た。

次の目的地は、バルセロナといえば見逃せない、サグラダファミリアである。

7都市目:バルセロナ(3)〜マーレ・ノストゥルム〜

ランブラス通りには相変わらず気持ちの良い風が吹き抜けている。緑が輝き、平和そのものの雰囲気の中、時折スリがウロウロしていた。台の上に立ったピエロが風船で犬を作ったり、彫像に扮した男が道行く人にぎこちなく帽子を取って見せたりしている。楽しい。バルセロナは間違い無く楽しい。わたしはそんなことを思いながら、SEKAI NO OWARIよろしく海を目指した。だが別に仲間と会うためではない、海に会いに行くためだ……などとくだらないことを言ってみる。

「港の見えるコロンブス公園」を抜け、横断歩道を渡ると、「旧港(ポルト・ベル)」が見えてくる。多少は観光化されているようだ。いや、多分に観光化されている。だが観光化されていても港は愉快である。昔から、なんだか好きだった。山梨(内陸)に生まれ、埼玉(内陸)で育ち、ベルリン(内陸)で一年暮らし、東京多摩は国分寺(内陸)に住んでいるわたしには海は縁もゆかりもないはずだが、血筋を辿ればわたしの父方は高松、神戸、横浜、鎌倉、一瞬ニューヨークと移った海の民であるし、母方は今治、もとは宮崎のようで、海を渡る人々だったようだから、これが「血の記憶」とでも言えるものなのかもしれない。

右手には蚤の市、左手にはヨットの船着場があって、ヨットの船着場のところには長い回廊が海の方へと突き出している。その奥には、水族館などの施設なのだろうなと思しきものがたくさんある。その雰囲気はまるでお台場である。ただ、お台場ほどの埋め立てました感が無く、未だやはり、「ここは港なのだ」と思える雰囲気がある。あまりきちんと覚えていないのだが、横浜はこんな感じじゃなかったかと思う。ただ、横浜より確実に、積み重ねてきた歴史が見える。シュロの木にしたって鎌倉にあるような「海辺ならシュロの木だろ」という感じの後付感も無く、やはりここは例えようもないバルセロナの港なのだろう。

おめあての船は、「ゴロンドリーナ」という。どうしてもゴンドラとの兼ね合いで「ゴンドロリーナ」と読んでしまいがちだが、「ゴロンドリーナ」である。ガイドブックの端っこに乗っていたのだが、500円(4ユーロ)くらいで地中海へ出られるという。わたしはチケット売り場を見つけ、英語話せますかと一応断った上で、一枚買った。7ユーロだったので、どうやら値上げしたようだ。にしても安い。ちょうど7月の終わりに納涼船に乗り、2600円だったので、それを考えるとどんなに安いか。

出発まで、15分あるらしい。わたしは出発までの間、港を散歩することにした。

ウッドデッキの回廊が海に張り出ている。その左側にはヨットが大量に着けられていて、右側はゴロンドリーナ号などの発着場になっている。水族館に入る時間はないので、わたしは回廊の上のベンチに腰掛けた。やはり港はいい。心躍る気分になる。カモメが回廊の上を胸を張って歩いている。子供がそれを狙って追いかける。空気は暖かく、雰囲気も温かい。いや、空気の方は暑いくらいだ。

家族連れが多いようだった。夏だし、水族館のそばだし、そりゃそうだろう。そういえば小さい頃は夏が来るたびに江ノ島の水族館に行っていた。新江ノ島水族館が開業したての頃のことである。バルセロナは、スペインの鎌倉か。水族館もビーチもあって、歴史もある。かつて栄華を誇った大都市。カモメは柱の上に乗って、地中海を眺めている。

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15分くらいだったので、発着場に行ってみたが、二つ入り口があってよくわからない。片方は空いていて、もう片方は空いていない。とりあえず空いてる方の受付の人に

「Hola!(こんちは!)」と話しかけ、チケットを渡した。すると、

「あー、このチケットはこっちなんだよね」と英語で、隣の入り口を指差しながら答えた。そうだったか。

「Gracies!(ありがとうございます!)」と告げて、隣の入り口が開くのを待った。

徐々に家族連れやお年寄りの団体が集まって来る。気軽に船に乗れるのは良いことだ。日本も見習えばいいのに。なんとなればわたしは船に乗るということが大好きだった。何がいいのか説明はできないが、船の上で風を感じていると、いい具合に自分の中に入って行けるのだ。健全な、開かれた、豊かな形で、である。それになんにせよ、船は男のロマンである。こればっかしは誰にも否定できまい。船はまっすぐ進めば気持ちよく、大きく揺れればスリルとロマンを感じさせてくれる。

目の前には浅黒い肌のサングラスをかけた見るからにラテン系の若いお父さんのいる3人家族がいる。子供はベビーカーに乗っていて、お父さんがそれを押している。お母さんはサングラスをかけたこちらもラテン系な感じの女性だ。家族旅行だろうか、いやそれとも、ちょっとしたお出かけだろうか。3人家族に続いて、わたしは係のヒゲを蓄えたおじさんに「Hola!」と言って、チケットを差し出した。

「Gracies!」というと、

「¡Gracias, buen viaje!(ありがとうございます。良い船旅を)」と返してきた。わたしは笑顔でフェリーに乗り込んだ。フェリーの中には椅子がいくつかあったが、誰も座っていない。太陽を求めるヨーロッパの人たちは、甲板のところに座っているんだろう。わたしは甲板に出て、海が見やすいところに腰掛けた。フェリーに乗り込んでみると、目の前にはコロンブス像が見える。コロンブスに見送られている気分になるが、ものの一時間で周遊して帰ってくるのは少し情けない。船につけられたスペイン王国国旗とカタルーニャ自治州州旗が風ではためいている。風はあるが、甲板には太陽が照りつけており、ジリジリと肌を焼く。数日後、パリで友達に再会した時、「焼けたね」と言われたが、間違いなくこの地中海のカタルーニャの太陽のせいである。

船はじーっとしていて動かず、ただただ暑いばかりである。客は徐々に搭乗し、しばらくして満員になると、ピーット汽笛が鳴った。船は後ろ向きに発信し、港が少しずつ向こうへと離れていった。さらばコロンブス。数分後にまた見えん。そうこうするうちに、バルセロナの町から船は離れていった。ぶおーんという船の音ともに、船体は小刻みに揺れている。目の前の席には先ほどの3人家族がいて、子供に「ほら、コロンブスだよ」というような感じで話しかけている。談笑の声がデッキには溢れ、暖かな雰囲気が形成されていた。気温は、暖かいというより、暑いのだが。

フェリーはバルセロナの港を出て、バルセロナ世界貿易センターのあたりを通ると、船着場のようなところにやってきた。香港の船が見える。錆びついた、巨大な貨物船である。いまでも、大量輸送は船の仕事だ。遥か彼方、香港からも船がやってくる。そう思うと、この船もこのまま地中海を出て、スエズ運河を通ればアジアにまで通じているだなあと少しワクワクした。船の行き先を決めるのはただ、船長の舵取りだけなのだ。可能性はどこまでも広がっている。

フェリーの針路の先には海の色が変わっている部分があった。すぐ下に見える水が緑がかっているのに対し、ある境界線を隔てて向こう側は深いブルーになっていた。そうか、今私たちのいる場所は本物の地中海ではないのだ。この場所の、さらに先にある、あのもっと鮮やかな色の海こそが、地中海なのか。海に国境線はない、などと格好つけていうことは簡単だが、こうみると、やはり海には境界線がある。地中海と、地中海ではないものを隔てている。船長は地中海まで行ってくれるだろうか。目の前にUターンするのだろうか。目の前の3人家族は自撮りをしている。

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船は、地中海の方へとまっすぐ進んだ。やはり、ここまできたんだ、地中海まで行ってもらわねば困る。ぐーっと船は進み、青の境界線を乗り越えた。するとどうだろう。今までは穏やかだった海が突然大波を立て始め、船は大きく揺れた。「ふーっ」と誰かが歓声を上げた。船はぐらりぐらりと横に揺れる。これが地中海なのか。何故だろう、心躍る気がした。船は揺れる方が楽しい。

しばらく波に揺られながら地中海を航行したゴロンドリーナ号は、緑色の安全地帯に引き返した。海風が気持ち良い。徐々にフェリーがバルセロナの港へと戻って行くと、言葉は分からないが、おそらく、「ただいまー」みたいなことを前にいる女の子が言った。するとカメラを下げた女性がやってきて、アルバムのようなものを見せた。実は船で航海している途中、この人がそれぞれの写真を撮っていたのだ。新手の物売りかと思って少し警戒してしまったが、このタイミングで売るようだ。どうやらゴロンドリーナ号御用達のカメラマンのようで、もっとオープンに接すればよかったと思った。が、買わなかった。なにせ私はリュック一つ。アルバムは大きすぎた。

船が港に着き、わたしは他の人たちとぞろぞろと下船した。前に駿河湾のフェリーに乗ったことがあるが、その時と同じく、船に乗る前よりも地面が硬く感じられた。グイッと抵抗を感じるのだ。船を降りた足で、先ほど横目に見えた蚤の市に行くことにした。

蚤の市には、アンティークの陶器や、パイプ、古いバッジ、軍隊の帽子まで売っていた。日用品、というよりは、マニア向けのニッチな掘り出し物という感がする。もしくは、観光向けだ。軍隊関係のものが結構見受けられるが、スペインで軍のアンティークというと、フランコ独裁政権を思い起こさせられて、これはタブーになっているものではないのかとなんとも奇妙な気持ちになった。

蚤の市は大した大きさではなく、少し歩けば外に出てしまう。わたしはそれからまた地中海の方へと向かった。港の階段に腰掛けて、海を見た。青の境界線のこちら側は、実に穏やかな海だ。歴史のことを考えた。地中海は歴史の舞台だ。今の中東から始まったこのあたりの歴史の波が地中海にやってくるのは、海の貿易に優れたフェニキア人がやってきた時。のチュニジアを拠点に、フェニキア人はカルタゴという国を立て、地中海を支配した。だが、その支配も長くは続かない。イタリアを統一したローマ帝国が海に進出し、フェニキア人のカルタゴと第一〜三次ポエニ戦争が勃発。地中海はローマの海になった。「マーレ・ノストゥルム MARE NOSTRVM(我々の海)」。ローマ人はこの海をそう呼んだ。盛者必衰。ローマが滅びると、北アフリカイスラーム系海賊がこの海を支配するようになる。そのあと台頭するのは、はるばるデンマークからやってきたヴァイキング神聖ローマ帝国や、フランス王家、ジェノヴァ共和国も海を争った。そして、それからバルセロナを首都とするアラゴン連合王国アラゴン亡き後は、スペイン王国の海となり、最後には英国がこの海を握る。今はこの海が、キリスト教世界とイスラーム世界を分けている。アラブの春の後はたくさんのボートピープルが北上したという。数奇な運命にのまれ、この海ではたくさんの血が流れた。それでも海は静かだ。海がこれほどまでの歴史を見つめているのは、地中海を置いて他にないのではないか。そのようなことを思いながら、わたしは海を見た。まるで戦いの姿が、歴史が、見えるようだった。しばらくして、中国人観光客が自撮りを始めた。平和になった。この平和が続けば良い。海鳥も浮かんでいる。

しばらく海を眺めた後で、ランブラス通りに戻ることにした。コロンブス像のそばにある地下鉄ドラゴネス駅から中心駅バルセロナサンツ駅に向かおうと思ったのだ。明日、マドリードへ向かうための列車のチケットが欲しかった。

7都市目:バルセロナ(2)〜心地よい風の街〜

ホテルのロビーで地図をもらい、治安の悪そうな路地を歩いて、わたしは再びランブラス通りに出た。

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La Rambra

ラ・ランブラ。名前以外は何も知らなかった道。今Wikipediaで調べてみると、「水路」という意味らしい。そして、これは全く知らなかったことだが、ポケモンの聖地だそうだ。あいにく機種変更でポケモンGOはアンインストールしてしまっていて、モントリオールケベックシティ、台北やヴェトナムで捕えたポケモンどもはもういない。ちょっと残念。だが、ポケモンの聖地の部分には「要出典」と書かれていたので、真偽は不明である。それにしても、行ってみて一番頷けるのは、スペインの詩人ガルシア・ロルカが言ったという「終わってほしくないと願う、世界に一つだけの道」という言葉だ。これは、至言だと思う。

ランブラス通りは、カタルーニャ広場という広場から地中海へと開けた旧港までを一直線につなぐ通りだ。この前の記事でも述べたように、巨大な通りのど真ん中に、歩行者専用の通りが貫き、その周りを並木が囲んでいるという形になっている。歩行者専用通路にはキオスク(水やお菓子、雑誌、お土産を売っている売店。スペインにはよくある)が並び、時にはランブラス通り沿いのレストランがテラスを出していたり、アンティークを売る屋台があったり、絵かきや大道芸人があったりする。並木道のおかげで道は涼しく、海のおかげで乾燥しすぎていない。心地よい風に吹かれながら、この町の熱狂を感じられる道だ。まさに、ずっと歩いていられる、「終わってほしくない」道なのだ。

歩けばすぐにわかるが、明らかにスリもいる。何も持たず、単独行動で、すーっと道に入ってきては、警戒されていると気づくと外に出る。随分と見え見えなので、素人だろうが、これが何人かいる。また、絶対に買うことはないであろう商品を売る人たちもいる。フランスの閑散とした道を歩いてくると、初めはドキドキしてしまうが、そのうち、正しい気の使い方を覚えてゆくものだ。

わたしは道を歩いているうちに楽しくなって、港が見える広場までたどり着いてしまった。その広場には大きな円柱が一本そびえ立っていて、その先には海の方を指差した男の像が立っている。誰だろう、と思って地図を見てみると、「クリストバル・コロン」というらしい。ご存知、クリストファー・コロンブスのことだ。たしかに、衣装の感じは彼である。彼はイサベル女王に謁見し、スペイン王国カスティーリャ王国カタルーニャを含むアラゴン連合王国の同君連合)の支援で新大陸を見つけた。後で知ったのだが、その謁見の場は、このバルセロナにあった王宮だそうだ。‥‥にしても‥‥今コロンブス像が指差しているのは地中海。コロンブスが目指したのは真逆の大西洋なのだが……その辺はいいのだろうか。などと、いらぬツッコミを入れずにはいられない。

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あとでランブラス通りから反対側から撮った「港の見えるコロンブス広場」のコロンブス像。地中海をさしても、地中海の東半分はもうすでにカタルーニャのものなのに。

こういう、歩いているだけで楽しい道の問題点がひとつある。それはレストランを見つけようにも見つけられないことだ。なぜなら、食欲を歩きたい欲が圧倒してしまうので、いつまでたっても歩き続けちまうのだ。時刻は2時ごろ。スペインでは昼食どきに突入した時間帯だ(遅い)。

そういうこともあろうかと、一応レストランは当たりをつけていた。今までの旅の記録をお読みの方なら、わたしがいかに初めてのイベリア半島に警戒心を持っていたのかがお分かりだろう。わたしが旅の最中に入る店をガイドブックで調べるなんて、ハワイに雪が降り、サハラ砂漠で洪水が起こるような確率の出来事である。

選んだレストランは、値段も手頃で、カタルーニャ料理を現代風にアレンジしたものが食べられるという「Les Quinze Nits(レス・キンサ・ニッツ)」だった。名前が、フランス語のような、スペイン語のような、へんてこりんな綴りだが、これがカタルーニャ語だ。このレストランはランブラス通りにあるのではなく、ランブラス通りから一本入ったところにあるレイアール広場にあるらしい。というわけで、わたしは「港の見えるコロンブス広場(勝手に命名)」からランブラス通りを引き返し、レイアール広場に入ることにした。

レイアール広場は、ランブラス通りから東の方へと伸びる路地を入るとあった。広場、と言っても大きさはそこまで広くはなく、むしろ中庭に似ていた。真四角の形をしていて、四方を建物に囲まれ、石でできた地面が広がる。時折シュロの木が植えられている。そこにはパフォーマンスをする人や、物売りがいて、建物の周りにはテラス席が並んでいた。薄暗いが、活気がある。なぜか大きな建物にはフィリピンの旗が掲げられていた。そういえばフィリピンは、スペイン国王フェリペ2世に捧げられた島であり、米西戦争(スペインvsアメリカ)で奪われるまで、スペインの植民地だったはずだ。しかし、それとこれとは関係あるのだろうか。

おめあての店はすぐに見つかったが、異常に混んでいる。他にないものか、と広場の外にあるもう少し小規模な広場や、そこのさらに外にある猥雑そうな雰囲気とアーティスティックな街灯が不思議な感じを作り出している通りも見てみたが、やはりよくわからない。仕方がない。例の店に入ろう。わたしはヨーロッパの店の入り方が未だよくわかっていなかったが、とにかく体当たりで中へと向かった。するとアジア系、おそらくはフィリピン系のお兄さんがいたので、

「ウン・ペルソン」とお一人様であることを告げた。お兄さんは上へ行けというような仕草をした。混んでいるからだろう。

上の階にゆき、別の人に話しかけた。英語は話せますか(¿Habla inglés?)と尋ねたら、ちょっと待ってろという表情をし、わたし席につけた。どうやらフランスよりも英語の通じは良くないようだ。これは、カタルーニャ語を話せるようになっておくんだった、と思った。

しばらくして、これまたフィリピン系のおばさんがやってきた。このレストランはフィリピン系の人がやっているようだ。

「Korean? Japanese?」と聞かれたので、

「Japanese」と答えると、日本語のメニューが出てきた。日本語はそこまで変ではなさそうだ。

値段はピンキリのようなので、安めのものを頼もうと考えたが何が良いのだろう。周りを見回してみるとみんながみんなパエリアを食べている。パエリアというとスペイン料理の定番とされているわけだが、細かく言えば、バレンシア地方の料理だ。バレンシア地方とはバルセロナのあるカタルーニャのすぐ南にあり、1474年にカタルーニャを中心とするアラゴン連合王国と今のスペインの前身とも言えるカスティーリャ王国が合体するまではアラゴン連合王国の一部であったから、カタルーニャ語が通じる範囲でもある。ようするに、パエリアはどちらかといえばカタルーニャに近い場所の料理ということになる。

といっても、パエリアは普通大勢で食べるもので、一人用ではない。メニューを見ても、二人から承っている。しかたあるまい。それでは、となんとなくカタルーニャ語っぽいものが描かれているもの、しかも魚介を使ったものを頼まんと考え、白身魚のカネロネスなるものを頼んだ。飲み物は、単純な性格なので「バルセロナビール」である。

いざ出てきてみると、カネロネスとはパスタの一種「カネローニ」のことだった。筒状のパスタが白身魚を包み込んでいる。これはイタリア料理だろうか、と思いながら食べてみると、思いの外うまい。クリーミーなソースがカネロネスにからみ、ホッとする味だ。イタリア料理なのかもしれないが、地中海でつながっている。そもそもシチリアナポリはもともとアラゴン王国である。うまけりゃいい。(追記:カタルーニャ料理でも使うようで、他のところで同じようなものを見た。それには「カネロネス・カタラン」というようなことが書いてあったと思う。そして、カネロネスはカスティーリャ語スペイン語)であった。カタルーニャ語では「カネロンス」らしい)

バルセロナビールのほうはというと衝撃的な味だった。これは軽いワインなんじゃないか、と思わせるほどにフルーティな味わいなのだ。いや、今の表現は不適切かもしれない。ワインというよりもむしろ、「白ぶどうジュース(マスカットジュース)」と言っても過言ではないくらいフルーティだった。日本、台湾、ヴェトナム、カンボジア、タイ、カナダ、ドイツの地ビールを現地で飲み、日本でもトルコ、インド、ラオスミャンマーといろいろ試してきたが、こんなのは初めてだった。スカッとしていて、フルーツジュースのような味わい。また飲んでみたいが、日本はおろか、スペイン、フランスではついぞ見かけなかった。

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食事を堪能し、会計をすませると、レイアール広場に出た。さあ、次はどうしよう。次は、実はもう計画があった。憧れの地中海クルーズ(1000円以下)と行こう。地中海までは、ランブラス通りを再び歩き、コロンブスのいる円柱を超えてゆけばいい。実は今までアドリア海は見たことがあっても、地中海は見たことがなかった。これは古代ローマファンとしては恥ずかしい。

(つづく)

7都市目:バルセロナ(1)〜ピレネーを越えてゆけ〜

トゥールーズのやばいホテルを出たのは七時十五分くらいだったろうか。オーナーは部屋で寝ていたが、声をかけて鍵を返すと笑顔で、「Au revoir!(さようなら)」と言ってくれた。もしかするとそこまで悪いホテルはじゃあないのかもしれない。

駅の方向へと運河のような細い川沿いに歩き、トゥールーズに入った時初めて使った道に出た。これでフランスの旅も一旦終わり。少し感慨深い。駅に着いたのは七時四十分くらいだったが、朝食を買いたいので、わたしは朝食をチェーン店のパン屋ポールで調達した。

これが間違いだった。並んでおり、買えたのは八時くらいだったのだ。列車の時間はなんと八時六分。わたしはチケットに刻印をし、エスプレッソとサンドイッチを手に駅構内を走った。途中でエスプレッソがこぼれたのでゴミ箱に捨て、なんとかホームに着いたときは八時五分。これはもうおしまいだ、と思いながら、何とかして車両に入った。危なかった、と思って時計を見ると八時六分をすぎている。これはどういうことだ?と思ったら、車内放送で、

「この列車は遅れて発車いたします」という。おかげで助かったわけだが、いきなりスペインの洗礼を受けたという感じだ。

今回は一等席だった。それというのも、二等席が満員だったらしく、10ユーロ払えば一等車の予約ができると言われ、そうしたからだった。これもトゥールーズでの節約生活の一つの理由だった。一等車は静かで、アメリカ人の老夫婦のグループがいる。スペイン語も聞こえてくるが、基本的には静かである。子供が泣くわ、みんな喋るわだった二等車とは大きな違いだ。間違いない、わたしは二等車の方が好きだ。

二十分ほどだっただろうか。TGVは動き始めた。ピレネーを直接超えるのではなく、もう一度カルカソンヌやベジエなどのオクシタニアの街方へと引き返し、地中海のそばまで戻って南下して、山の横にあるペルピニャンを通って、山脈を超える。そして、晴れてカタルーニャに入るわけだ。

バルセロナは近年の観光客集中で宿が足りていないらしい。宿探しが大変そうだ。だからわたしは、列車に乗りながら、ネットでホテルを予約することにした。調べてみると案の定立地の良いところは満員が多いが、一箇所、手頃な値段でかつ、メインストリートだというランブラス通りからすぐ入ったところにあるホテルを見つけた。あまり治安の良い界隈ではないようだが、ランブラス通りよりなのでトゥールーズの例のホテルよりはマシなはずだ。調べてみると学生寮を貸し出しているという。それなら安心もできる。わたしはネット上でホテルを予約した。ラクな時代になったものである。

電車は地中海沿いの場所まで引き返し、南下を開始した。窓の外には幻想的な水の景色が広がる。地中海か、湖か。それは実はわからない。それからフランス側のカタルーニャの中心地(カタルーニャ語をしゃべっているらしい。恐るべし、陸続き)のペルピニャンを超えて、いよいよピレネー山脈を超える。山の横を通るはいえ、やはり山がちな光景だ。しばらくしてトンネルに入った。

国境のトンネルを越えると、そこはイベリア半島だった。とは言っても見た目はよくわからない。緑色の山に囲まれた、牧歌的な風景が広がるだけだ。ポンポーンという電子音と共に車内アナウンスがなった。

「Proxima estacion, Figueres」

あ。フランス語じゃない。まぎれもないスペイン語だ。先ほどまではフランス語、スペイン語、英語の順だったものが、スペイン語、フランス語、英語の順に変化した。スペインに入ったのである。いや、スペインに入ったというと問題発言になりかねない。少なくともわたしは今、イベリア半島カタルーニャに入ったのだ。

 

カタルーニャ入りした日にはそんなこと考えもしなかったが、一ヶ月半後の2017年10月1日、カタルーニャ自治州で「独立を問う国民投票」が行われた。カタルーニャ自治州は、プッチダモン自治州首相の下、特に最近独立運動を激化させている。独自の大統領を持ち、独自の議会を持つ自治州であるカタルーニャがそこまでスペイン王国からの独立を望むのはなぜか。一つは経済的な要因であり、それは観光業などで潤うカタルーニャの税金が財政難のマドリード政府の方へと取られて行く現状に腹を立てたから、という。だがもう一つは、根深い反マドリード感情がある。彼らはスペイン語ことカスティーリャ語とは異なるカタルーニャ語を話し、歴史もマドリードを中心とする現スペイン王国とは異なるものを歩んできた。にもかかわらず併合された過去を持つカタルーニャはある種不満を持って当然なのである。

カタルーニャ語は、カスティーリャ語スペイン語)やポルトガル語などの「イベリア・ロマンス語」と違い、むしろフランス語、もっと言えば南仏でかつて話されていたオック語と系統を同じくしている。分かりやすい例で言えば、「〜ください」という時に(英語で言えばPleaseに当たる言葉)、カスティーリャ語では¡Por favor!(ポルファボル!)といい、ポルトガル語ではPor favor!(プルファヴォール)という。しかし、カタルーニャ語では、Si us plau!(スィスプラゥ!)で、むしろフランス語のS'il vous plaît(シルヴプレ)に似ている。ちなみにオック語はSe vos plai(セボスプライ)だそうだ。

どうして、ピレネーの向こう側なのに、こんなことが起こるのか。それは歴史を見れば一目瞭然である。

時は中世。スペインの南半分は北アフリカからやってきたイスラーム王朝ウマイヤ朝が治めていた。ウマイヤ朝の軍隊は一度ピレネー山脈を超えて攻め込んだこともあったが、フランク王国はこれを撃退、ピレネーの南にイスラーム勢力を封じ込めた(いわゆる「トゥール・ポワティエ間の戦い」である)。ウマイヤ朝の侵攻の前、スペインは西ゴート王国が支配していたが、ウマイヤ朝の猛攻の前に国家は崩壊し、北部アストゥリアス地方でゲリラ戦を展開しながら抵抗したゴート貴族のペラーヨが作ったアストゥリアス王国が残るのみであった。フランク王国はそんなスペイン北部、それもアストゥリアス王国のある北西部とは反対側の北東部に進出したのである。

フランク王はスペイン北部を「スペイン辺境伯領」とし、そこに幾人かの「伯爵(グラーフ)」を置いた。そのうちの一人がバルセロナを治めるバルセロナ伯爵だった。歴代のバルセロナ伯爵は徐々に勢力を拡大、いつしかスペイン辺境伯領のほぼ全土を治めるようになる。さらにイスラーム勢力との戦いで武功を挙げ、名誉の死を遂げるものもいた。そのうちの一人は、駆けつけたフランク王に看取られ、その時王は4本の指を血に浸し、バルセロナ伯爵の持っていた金色の盾に縦線を描き、その武功をたたえたという。金地に赤の4本線は、今でもバルセロナ、ひいてはカタルーニャのシンボルだ。

だが、フランク王国の時代は長く続かない。フランク王国は相続の関係上三つに分かれ、スペイン辺境伯領は西フランク王国(のちのフランス王国)の配下となるが、代々国王を輩出してきたカロリング家が断絶してしまうのだ。カペー家のユーグ・カペーが国王に選出されると、予てからフランクの支配下にあり続けることに不満を持っていたバルセロナ伯爵は、ユーグ・カペーの王位を承認せず、事実上独立を果たす。当時のイベリア半島は群雄割拠の時代である。南のイスラーム王朝があるのはもちろん、アストゥリアス王国は首都をレオンに移し、レオン王国と名乗りイベリア半島北西を中心に勢力を拡大していた。また、ピレネー山脈西部には、この土地にローマ時代から住み、独自の言語、独自の文化を持つバスク人たちの国であるナバラ王国があった。

1004年、ナバラ王国でサンチョ3世が即位。彼はナバラ王国と婚姻関係にある諸国を次々と併合。バルセロナ伯領も例外ではなく、臣下にくだらざるをえなくなる。サンチョ3世は、1034年にはレオン王国を武力的に併合、レオン王となるや否や、「イスパニア皇帝」を名乗り、スペイン北部を統一して見せた。が、翌年1035年、サンチョは急死、イベリアは戦国の世に逆戻りする。その中で新たに生まれたのがスペイン中部を拠点とするアラゴン王国だった。さらに、レオン王国内部では有力貴族カスティーリャ伯爵が台頭、ついにはレオン王国を軍門に降らせ、レオン王国全土を乗っ取り、カスティーリャ王国が誕生する。この情勢の変化の中で、バルセロナ伯領はアラゴン王国との友好を図って行くことになる。そして1137年、時のアラゴン国王レミロ2世には男子が生まれず、娘ペトロニーナが一人娘だった。レミロは俗世から離れ、聖職者になることを望んでいたが、当時は強大な軍事力を持つカスティーリャ王国が勢力を拡大する時代であり、この状況で娘に王位を継がせるのは危険と判断した。そこでレミロはバルセロナ伯爵であるラモン・バランゲー4世と娘を結婚させることを考えた。そして、それぞれの国政は変えぬまま合同する「同君連合」を築こうというのだ。バルセロナ伯爵もこれをのみ、ここにアラゴン連合王国が誕生する。

その後アラゴン連合王国はメキメキ力を伸ばして行く。

ペラ2世は軍事に秀で、イスラーム勢力との戦いに身を投じ、ローマ教皇インノケンティウス3世と同盟した。その戦いの中でも有名なラス・ナバス・デ・トロサの戦いでは当時イベリアを支配していたムワッヒド朝に大打撃を与えることに成功し、カタルーニャの南、バレンシア地方の一部を獲得した。一方で親族であったトゥールーズ伯爵レーモン6世(覚えておられるだろうか?)に味方し、アルビジョア十字軍に対抗、一時優勢となったが、その戦いの中でペラ2世自身が戦死してしまう。次のジャウマ1世は教皇と和解、さらにマヨルカ島などを含む島々の王位を手にし、ペラ2世が始めたバレンシア制服の完成へと導いた。このころから、アラゴン連合王国は海の覇者となってゆく。それはバルセロナという良港をもっているためでもあり、さらにイベリア半島カスティーリャ王国が勢力を固めていたこともあった。

その次のペラ3世の時、イタリアの南、シチリア半島で事件が起こる。かつてシチリアはドイツを中心とする神聖ローマ帝国皇帝の治める土地だった。イスラーム文化やオリエントの文化とヨーロッパ文化の交差点であったシチリア島は開かれた空気を持っており、シチリア出身の皇帝フェデリコ2世は教皇庁と対立、その後の代でもその対立は続いた。教皇は自分の息のかかった人物をシチリア島の王位につけようと画策し、フランス王家のシャルル・ダンジューに白羽の矢を立てた。だがこのシャルル、かなりの野心家であった。王位につくや否や、支配層をフランス人に限定して強権的な支配を行い、密かに東のキリスト教の大国ビザンツ帝国の併合を目論む。これに恐れをなしたビザンツ帝国は、地中海の新興国アラゴン連合王国に目をつけた。ビザンツ皇帝ミカエル8世パレオロゴスはペラ3世と同盟し、シチリア島でフランス人支配に反発した民衆が暴動を起こすと突如シチリア島を攻撃し、シチリア島からシャルルを追い出し、ペラ3世はシチリア王位を手に入れた。その後、アラゴン連合王国はシャルルの子孫が治めていたナポリまでも手にし、イベリア半島東部、地中海の島々、シチリア島イタリア半島南部と、西地中海の覇者に躍り出る。

一方、イベリア半島では「レコンキスタ(国土回復運動)」がカスティーリャ王国の下進行中であった。カスティーリャから独立したポルトガル王国なども共に、南を支配するイスラーム王朝と対決し、徐々に徐々に南へ、南へと領土を広げていた。特にペラ2世が活躍したラス・ナバス・デ・トロサの戦い以降はものすごいスピードで各地のイスラーム王国(タイファ)が降伏、1400年代後半には南の端にあるグラナダ王国ただ一つを残すのみとなっていた。

ここにきてカスティーリャ王国アラゴン連合王国は、それぞれの制度を残した同君連合という形で国を統合することにする。カスティーリャのイサベル女王とアラゴンのフェラン2世が結婚し、二人がこのスペインの王となった。そして1492年、ついにグラナダ王国が降伏、ついにレコンキスタが完了した。その後、両王国はそれぞれの制度を尊重しつつ、共存してゆく。イサベルとフェランの死後、一人娘フアナの夫でオーストリアハプスブルク家出身のフィリップが王位につくも、急死。精神錯乱となったフアナの摂政となった息子のカルロスがスペイン王位についた。このカルロスはカール5世としてその後ドイツやオーストリアを治める神聖ローマ帝国皇帝としても即位、さらにさらにコロンブスによる新大陸発見以降のめまぐるしい征服活動により、スペインは中南米、スペイン、ポルトガル、イタリア南部、地中海の島、オーストリア、ドイツ、ベネルクスを支配することになった。次の代のフェリペ2世の時代には、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれるようになる。この時代も、カタルーニャは自国の制度を守り、カタルーニャ語で政治を行っていた。

ことが変わるのは、1700年にスペイン王カルロス2世が死去した時だった。子供のいないカルロスは次の王位をフランス王家ブルボン家のフィリップに譲ると宣言して死去。これに対してハプスブルク家のカールが反発した。

この一件を裏で手を引いていたのはブルボン朝フランス第三代国王ルイ14世である。彼は太陽王と呼ばれ、フランス王国の黄金期を築き上げた国王だった。国内では王自らが政治を行う親政を敷き、所領を持つ貴族たちがそれぞれの領土を経営する封建制度ではなく、国王に忠誠を誓う官僚が中央で政治を行い、各地を支配する体制を築いた。軍隊に来ても、国王の軍が全国を支配していた。ルイ14世は国内の統制を行うと、国外の侵略を目指すようになる。その中で神聖ローマ帝国領土だったアルザス地方の割譲などを行わせるが、スペイン王国にも目をつけるようになる。カルロス2世に次王をブルボン家のフィリップにさせたのも、その戦略のうちだった。

さて、この事態にハプスブルク家カール大公以外に危機感を感じる人たちがいた。それは、他でもないアラゴン連合王国であり、カタルーニャだった。もし、スペイン王国ブルボン家のものになれば、フランス同様貴族の特権は奪われ、国は一つにされる。今までは共同統治という形で権利が守られてきた誇り高いアラゴン連合王国ブルボン朝の下、滅ぼされてしまうのではないか。ハプスブルク家ブルボン家が戦争状態に入ると、同じ危機感を覚えるポルトガルがフランスの拡大に危機感を覚えるイギリスと共にハプスブルク側につき、1705年にカール大公を奉じてバルセロナを占領。カタルーニャはこれを機にブルボン朝に反旗を翻し、ハプスブルク側についた。この戦いはヨーロッパ全土、さらにはインドや北アメリカまで波及してゆく。世に言うスペイン継承戦争である。

カール大公はバルセロナを本拠地とし、バルセロナは最後まで街を守りきった。さらに一度はマドリードを落としている。だが国際情勢は厳しかった。ヨーロッパではフランス優位であり、カール大公が皇帝となるとイギリスはハプスブルク家の拡大に危機感をみせて和平を探るようになる。そして1714年にユトレヒト条約が結ばれるとこの戦争は「終結」した。ただ一つ、カタルーニャを除いては。バルセロナバレンシアなどを失いながらもなんとか持ちこたえ続け、ブルボン朝スペインは包囲を解かない。しびれを切らしたフランス王国は援軍を派遣。その圧倒的な軍事力の前に、ついに1714年9月11日、バルセロナは陥落した。スペイン王国カタルーニャに対して、公的な場でのカタルーニャ語の禁止、自治権の停止を含む「新組織王令」を突きつけ、カタルーニャはここに独立を失った。9月11日は、屈辱の日として、カタルーニャの人々の心に刻まれている。

それからは苦難の時代だった。カタルーニャナバラバスク)とともに経済的な成功を収め、自治権を要求。だがブルボン朝カタルーニャ自治権を認めず、時代は18世紀終わりのフランス革命の時代へとうつってゆく。旧体制との戦いを繰り広げたナポレオンは、ブルボン家が治るスペインとも交戦し、ついに占領する。革命後の共和国派が地方言語を迫害したのに対し、フランスのナポレオンと戦って、その中でスペイン流の改革を志したスペインの共和国派はカタルーニャなどと行動を共にし、中央集権から地方分権を目指した。結局ブルボン朝がスペインでは返り咲き、その夢は潰える。だが、1868年、時の女王イサベル2世が追放の憂き目に会い、イタリアから呼び寄せたアマデオ王が自国に戻ると共和制が発足。カタルーニャも自治州となり発言権を手に入れた。が、さらなる力を求めようとした一部カタルーニャなど自治州の人々の反乱で共和国は倒れ、王政に戻る。その後はまたカタルーニャ自治権は無くなったが、自治権を要求するための地方政党リーガを結成、カタルーニャ語は禁止されていたものの、サッカースタジアム、カンプ・ノウのなかでカタルーニャ語は守り抜いた。バルセロナサッカーの熱気は、失われた祖国への思いでもあるのだ。そして1930年に第2共和制が発足すると、再び自治権を要求した。左派政権はこれを認めたが、右派からは大きな不評を買うことになる。この左派と右派の軋轢はついに内戦となり、スペイン内戦が起こる。

1939年にスペイン全土を右派軍事政権であるフランコ政権が制圧すると、「Si ères español, habla español(スペイン人ならスペイン語を話せ)」のモットーの下、カタルーニャ語を含む地域語は激しく迫害された。その迫害の規模はかつてないものであった。学校でカタルーニャ語を使用しようものなら、懲罰を食らったという。かつてナバラ王国が栄えたバスク地方では、この動きに抵抗し、スペインからの分離独立を求める過激派勢力ETAが結成され、中央政府へのテロも行われた。その一方、フランコ政権は第二次世界大戦ナチスが倒れるや、アメリカに接近。観光国として発展を遂げてゆく。

1975年フランコが死んだ。フランコの遺言通りブルボン朝のフアンカルロスが王位についた。フアンカルロス王はなんと民主化を宣言。スペインは、カタルーニャバスクなどを「自治州」とし、大きな自治権を与える「自治州国家」となる。カタルーニャ語の学校教育も晴れて認められた。バルセロナを中心とするカタルーニャ自治州の経済規模は首都マドリードと張り合えるほどであった。新たなるスタートを切ったスペイン王国だったが、2000年代に入ると、リーマンショックギリシア危機のあおりを受けて失業率が増加、財政難に陥った。これに不満を持ったのがカタルーニャだった。独自の経済を持ち、さらに近年、19世紀後半から20世紀にかけて活躍したカタルーニャ出身の建築家ガウディ人気、サッカーチームのバルサ人気などで勢いづいたバルセロナ観光ブームが巻き起こり、富を得たカタルーニャが、なぜか、かつて自分達を無理やり支配し、しかも歴史的に見れば全く違う国だった、財政難にあえぐスペイン王国に税金を払わねばならないのか! そんな中、カタルーニャ自治州の政権は独立派が担うようになり、ついに2017年、自治州首相プッチダモンが独立を問う国民投票を決行したというわけだ。結果はご存知の通り、中央政府による閉鎖などもあったこともあり投票率は40パーセントほどで、賛成派が9割を超えている。カタルーニャ中央政府との交渉のために二ヶ月間独立宣言を凍結し(凍結ということは解凍もできるということだろう)ているが、政府は交渉に応じていない。

さて、600年代から現在まで駆け抜けてしまったので歴史パートがかなり長くなってしまったが、これはカタルーニャという土地を知って欲しかったからだ。カタルーニャフランク王国の家臣からスタートし、一度は地中海の半分を支配した。それがスペイン継承戦争で併合され、フランコ政権では自分の言葉を禁止された。現在の独立運動や彼らの誇りはそんな歴史に裏打ちされている。だからこそ、歴史を知らねばならない。歴史を不完全な知識ながら書かねば、バルセロナの旅を書いたことにもできなかった。

 

さて、バルセロナ・サンツ駅に到着して驚いたのは、フランスのように地上に普通に到着するのではなく、地下に到着することである。地下にあることもあり、プラットフォームは異常に暑い。表示を見ると、一番目立つところにあるのはやはり、カタルーニャ語だった。ひとまず地上を目指す。

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地上に出ると、駅がかなり巨大であるのに気づく。フランスの駅の規模というのは、ずいぶん小さかったみたいだ。わたしは「M(地下鉄)」のマークを見つけ、降りて行った。ホテルはメインストリートのランブラス通りにある「リセウ駅」のすぐそばにとったので、地下鉄で向かうことにしたのだ。初めての「スペイン」で、スリに少しおびえながらチケットを買い、足早に地下鉄のホームへと向かった。

地下鉄のホームは蒸し暑い。久しぶりの地下鉄だ。パリなどとは違って、なぜか駅の線路の向こう側にモニターがあって、「改札はちゃんと出入りしましょう」という動画を流している。電車がやってきたので、リュックを体の前に持ってきて乗りこんだ。放送もやっぱり、「カタルーニャ語スペイン語、英語」の順番だ。ここは、スペインではなく、カタルーニャなのだなと思った。広告も何もかも、カタルーニャ語しか見ない。

リセウ駅までは、サンツから青色の線に乗って、U字状の路線を行く。明らかに遠回りな気がするが、仕方ない。違う雰囲気、違う言語。ついにイベリア半島か、とわたしは少しテンションを上げた。

リセウ駅から地上に出ると、そこはすぐにランブラス通りだ。事前情報も何もなく通りに出てみると、広い通りの真ん中に、歩行者用の道があり、それの周りには並木がある。暑いが、海風のせいか湿気もあり、風が気持ち良い。ランブラス通りの木々はまるで新緑のような、明るい緑色をしていた……とはいいつつも、スリに気をつけつつ、私はおめあてのホテルのある通りに入った。

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その通りの前には客引きがおり、これはまずいところに来ちまったかなと思ったが、工事現場用の足場で覆われた学生寮は、外見はともかく中は清潔そうである。

「Hola!(こんにちは)」と声をかけてみたら、通じた。当たり前だが、Bonjourではない新鮮さをかみしめる。といっても、これ以上は無理なので、英語で予約してあると伝えた。フロントのおばさんは不思議そうな顔をしている。どうやら、直前に予約したために、紙には印刷されていないようなのだ。パソコンからわたしのデータを見つけたおばさんは鍵を出し、外に出るときは鍵を返してくれと伝えた。

「Gracias!(ありがとうございます)」と伝えて、わたしはエレベーターで四階にある部屋へ向かった。一応カタルーニャ語のつもりなのだが、この辺はカスティーリャ語と同じなので困る。

部屋は適度に狭く、ちょうどよかった。黒を基調としたシックな部屋で、きちんとテレビもある。テレビはその国の文化を見る窓。ここに来て見られてよかった。

顔を洗い、レストランの当たりをつけ、わたしは外に出ることにした。

(続く)