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旅、映画、食べ物、哲学?

16都市目:パリ(1)〜再会〜

この度の実質的最後の滞在地パリは、再会の街であった。そもそもパリという街自体、再会の相手だった。今まで巡ってきた街は、リヨンを除けばどこも初めての場所だった。しかしパリは4度目になる。そしてそんな街でわたしは5度にわたる再会の場に立ち会ったのだ。

 

1.パリの「親戚」

ブルターニュの都会レンヌとヨーロッパの都会パリを繋ぐTGVはあの日、遅れに遅れた。その結果、市内と郊外を結ぶRER線で目的地のショワズィ・ル・ロワに辿り着いたのは、日もとっくのとうにくれた9時頃だった。

ショワズィ・ル・ロワなどという、東京で言えば国分寺のようなところまで夜にやってきたのは、そこにわたしが小さいからドイツでお世話になった夫妻が住んでいたからだった。正確にいうと、わたしの家族のベルリンの家の大家さんである。だがわたしはまだ小さかったのでそのような世知辛いことはよくわからない。だからわたしにとってあの人たちは、ヨーロッパの親戚のようなものである。思えばレンヌでフロントのおっさんに聞かれた時、「パリの親戚に会いに行く」と言えばよかったのだ。その方が話も早いだろう。

ショワズィ・ル・ロワ駅には奥さんの方のヒルデガルトが迎えにきてくれている予定だった。メールで遅延の件を伝え、着いてからもメールをする、というまるでSNSのような連絡の仕方をした。わたしはSIMカードのロック解除がめんどくさくてポータブルWi-Fiしかなかったので、電話番号を使ったメッセージを送らなかった。ヒルデガルトはフェイスブックをやっておらず、メッセンジャーも使えなかったので、このようなことになったというわけである。

ところが、互いに互いの場所がわからない。小さな駅だというのになかなか見つからない。心細くなったからか、だんだんショワズィ・ル・ロワという薄暗い街が非常に治安の悪い街のように感じてくる。頼む、来てくれ、と思っていると、向こうの方から金髪のおばあさんがやって来た。かなり老けていたが、ヒルデガルトだった。どうやら駅の裏側にもう一つ改札があったらしい。

「大きくなったわね!驚いたわ…驚いたわ」とヒルデガルトは何度も、「驚いた」と繰り返した。

「会えて嬉しいよ」というと、

「私たちもよ。あなたからフランス語でメールが来た時、嘘だと思ったわ。あなたのお父さんもお母さんもあなたがフランス語ができるって言ってくれなかったから」とヒルデガルトはいう。そう、旅の計画が固まってから、わたしはメールを送ったのだ。会いに行きたい、と……いや、失礼、少し違う。頼むから一晩だけ泊めてくれと書いたのだ、正直に行こう。

スペインに行った話などをしながら、わたしはヒルデガルトの家に向かった。感の鋭い方ならわかるかもしれないが、ヒルデガルトはドイツ人の名前であり、正真正銘ドイツ人である。ではなぜパリにいて、私たちはフランス語で会話しているのかというと、ヒルデガルトの夫がアランというフランス人だからだ。

アパートに着き、部屋に入ると、いい香りがした。アランが料理をしていたようだ。

「ようこそ」とアランは言った。豪勢な料理が並んでいる。わたしは、遅延は自分のせいではないが、なんだか申し訳なくなった。

「ごめん、待たせちゃったかな?」と尋ねると、

「ちょっとね」とアランは真顔で言った。一瞬どきりとしたが、別に気にしている風もなく、これがフランス流なのだろう。実際待たせているんだから、この方がわかりやすくていいかもしれない。わたしは勧められるままに重いリュックを下ろし、席についた。

それから、パテから始まるコースを食べた。ボルドーでも最初はパテだった。パテは良い。とろけるような味がたまらない。それからアラン特製の鳥のソテーが出て来た。ハーブが効いていて非常に美味しかった。食べ終わると、酒盛りである。ヒルデガルトはあまり飲まなかったが、わたしとアランは食事の時からワインを飲んでいた。

「飲めることをお父さんは知ってるのかしら?」とヒルデガルトは冗談めかしていう。

「もう21だよ、お父さんとも飲んでる」とわたしは言った。この感じ、やはり親戚だ。

父からアランはワインに詳しいと聞かされていたので、ボルドーで友人のために買ったワインを品評してもらった。産地は知らなかったようだが、ボルドー産なら間違いない、というようなことを言っていた。わたしは自分の旅のことを話しながら、後で考えれば引くぐらいの量のコニャックを飲んでいた。

それから、わたしの「部屋」に案内してもらった。なんと別棟のアパート一室だった。この夫婦、かなりの金持ちだ。その部屋はアランが音楽を聴くための部屋らしい。凄まじい。水もたくさん完備されていて、キッチンも付いている。まるで一週間泊まるみたいだ。この夜だけなのに、大げさな歓待に、やはり親戚だなと思った。

わたしの性質上よくあることだが、また明日ねとアランとヒルデガルトが外に出た瞬間に酔いが回って来た。身体レヴェルでつよがりなのかもしれない。テレビでもつけようと思ったが、電波は入っておらず、仕方ないなと思っているうちにソファで寝てしまった。

 

寝落ちから30分ほどで起きて、シャワーを浴び、水を飲んで寝たので、朝起きた時はベッドである。窓の外を見て驚いた。そこには朝の爽やかな空気の中、流れ行くセーヌ川があった。昨日の夜、アランに見せてもらってはいたが、朝になると美しかった。周りでは工事をやっていたが、これもまた良い。わたしはしばらく川を眺めていた。

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朝食を作る手伝いをしようかと電話をしたら、いらないと言われ、しばらくしてやって来たヒルデガルトと共に昨日夕食を食べた部屋に行った。さすがフランス、朝ごはんはパンとコーヒーである。だがやけにたくさんのジャムがあった。しかも、ドイツ人のおかげか、ボルドーの家と違ってカビていない。

朝食後は、ヒルデガルトにショワズィ・ル・ロワを紹介してもらった。ここは再開発地区で、低所得者用の家が建てられており、時に治安が良くないこともあるという。かくいうヒルデガルトの家も泥棒にやられているらしい。穏やかそうに見えるが、どこにでも何かしらがあるものだ。はたから見れば、小さな、フランス版ベッドタウンという感じだ。

それからヒルデガルトの家でアランの作った昼食を…ということになっていたのだが、気づけばパリ市内にとっておいたアパルトマンの仲介の人と会う時間が迫っていた。

 

2.二股はオニオンとクスクスの味

五分ほど遅れて、アパルトマンに滑り込んだ。なぜかヒルデガルトも来てくれた。わたしは久しぶりに聞くきちんとした敬語の日本語に戸惑いながら、アパルトマンの使い方を仲介業者のおじさんから聞いた。ドアの開け方、ゴミ箱の種類、ゴミ箱のあるは部屋に閉じ込められない方法…案外いろいろあるものだ。Airbnbなどだったらもっとガサツなんだろうか、などと思いながら、説明を聞き、ヒルデガルトを見送って、アパルトマンまでヒルデガルトが勝ってくれた生活用水を運んだ後で、自分のベッドを選び、一眠りした。

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起きて、アパルトマンから15分ほど先にあるスーパーに行った。この日は、夜9時くらいに共同生活をする友達がパリに来ることになっていた。わたしはウェルカムディナーとして、ボルドーワインとクスクスを約束していたので、材料を買いにスーパーまで来たというわけである。クスクス、トマトソース、日本では入手しづらい「メルゲーズ」というアラブ風牛肉ソーセージ、鶏肉、明日の朝のための卵などを買って、フランスではエコバッグ以外だと袋を買わされるのだということを学んだ。

部屋に戻り、料理に取り掛かる。肉の旨みを引き出そうと、テキトーにじっくりグツグツ煮ているとスマートフォンに連絡が入った。今夜来る友達ではない。別の友達がまた別件でパリに入ったのだ。この友達とも実は会う約束をしていた。

 

問題は、先ほど連絡をよこした友達(仮にHさんとしよう)がいる駅(パリ・リヨン駅)が、わたしのアパルトマンがあるボージラール駅から30分かかるということだった。さらに、アパルトマンからボージラール駅は15分はかかるから、総計45分はかかるのである。そして、肉がいい具合になるのに時間がかかりすぎた。だから往復で2時間はかかる。さらに、食事の約束をしていたから4時間くらいかかることになるが、友達(こちらはSくんとIさんとしておこう)がアパルトマンに着くのを考えると、どう考えてもギリギリ間に合うか間に合わないかというところなのである。家を出たのはなんやかんや夜の8時くらいだった。これが間違いだったのだ。

治安のあまりよろしくないリヨン駅で、待ち合わせをして見ると、Hさんは一家郎党ひきつれてパリに来ていたようで、なんの風の吹き回しか、一家団欒の場で夕食を共にすることになった。というか、ご馳走になった。Hさんのお父さんはエチオピアにいたことがあるらしく、そのあれこれは面白かった。結局どんな仕事をしているのかは掴めなかったが、途上国を中心に飛び回っているような印象を受けた。それに、家族の会話というのも久々に聞いた気がする。日本語はボルドーでも話したが(といっても一週間はごぶさただったわけだが)、家族の会話はなかった。なんとなくくすぐったいような、心地のいいような気がした。

と、やけに美味しいオニオングラタンスープを飲みながら楽しい夜を過ごしていると、スマートフォンの通知が来た。SくんとIさんがパリのシャルルドゴール空港についたようである。あの空港はパリ市内から結構遠いから平気だ、と思いつつ、Hさんのお父さんに勧められるままチーズのテイクアウトをして、一足先にレストランを出た。だがふと、もうついているかもしれないという虫の知らせ(?)を感じ、早足でメトロに乗った。

途中走ったりしながら、なんとかアパルトマンにたどり着き、エレベーターのボタンを押すと、なんと降って来たエレベーターからは、SくんとIさんが出てきた。やっちまった、一足遅かったようだ…

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二人が笑って許してくれたこともあり、わたしはお詫びにと作り置きのクスクスとテイクアウトしたチーズ、それからボルドーのワインでもてなした。SくんとIさんとは、ベルクソンというフランスの哲学者の本を一緒に読んでいて、その会合の後で夕飯を食べたりしていたが、パリでやると不思議な懐かしさと新鮮さを感じたものだった。そして思ったものである。「二股はするもんじゃないな」と。

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3. スピーディーガイドと留学生

翌日になっても再会の嵐は止まらない。この日は朝からフランス人の友達と会うことになっていた。この男との関係は少々入り組んでいる。

まず、わたしにはモントリオールでロナンという友達ができた。彼はパリ出身で、わたしがフランスに来る少し前に、日本に二人の友達エクトルとユーゴーとやってきた。その時、わたしは会いにゆき、一緒に日本酒を引っ掛けたわけだ。そしてパリで会おうと3人と約束した。

そしてパリについて、ロナンに連絡を取ると、運悪く彼はモントリオールにわたしが到着した次の日に旅立つらしく、会うことができなかった。同じ頃、エクトルから連絡があり、彼とは会えると聞いた。せっかくだから、パリが初めての友人を案内してくれないか、とわたしは頼んだ。かくして、わたしは一度しか会ったことのないエクトルと再会することになったのである。

 

少々待ち合わせに難儀しながらエクトルに会うと、どうやらこの後用事があるらしく、早足だ。加えて、少し前までサンフランシスコにいたらしく、英語も速い。しかし、パリのアパルトマンのあたりから、アンヴァリッド、エクトルが日本でもずっと紹介したいと言っていた「フランス一美しい橋」アレクサンドル三世橋を通ってコンコルドからフランス国民議会、反対側に回ってマドレーヌ寺院、日本人街の界隈を通ってオペラ座ルーヴル美術館、川を渡ってカルチェラタンのあたりを歩きながら左手にノートルダムを眺め、カルチェラタンの中心地サンミシェルまで歩いたおかげで、パリの土地勘がついた。まあ、外国語処理能力が追いつかず、サンミシェルに着いた時には、

「I know this place...parce que...」と英語とフランス語が入り乱れる始末であったが(その後フランス語で話そうかと言われたが、丁重にお断りした)。

話したいことはもっとあったし、1ヶ月くらいパリにいたのに全く掴めないフランスのカフェの入り方など教えて欲しかったが、エクトルは風のように去っていった。この午前の時間を割いてくれただけ、ありがたかったのだ。

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その日の午後は、カルチェラタンの界隈を歩き、ノートルダム寺院の中を見た。ノートルダムは派手なステンドグラスに、ろうそくを模した照明、と内装がすこしヤボな感じも否めなかった。私はむしろストラスブールの大聖堂のように、石がむき出しで自然光の者の方が良い。その方が何か宿っているように思うからだ。寺院とは一種のステージだと思う。観客席に座るオーディエンスに、いかに神の存在感を見せるか、である。敬虔な人には怒られるだろうが、神の宿る雰囲気のない寺院は、まず需要がないであろう。最近は教会などを訪れる際はそういう視点で見ているのだが、ノートルダムはその点派手すぎる気がした。

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そのあと、哲学者ベルクソンの碑を巡礼すべくパンテオンに向かった。パンテオンは思いの外面白かった。パンテオンは、要するに古代ローマ時代に築かれた、ローマにあるすべての神々を祀る「万神殿(パンテオン)」のパクリなのであるが、フランスのパンテオンにはフランスのパンテオンらしさが滲み出ている。というのも、フレンチパンテオンフランス革命の最中に立てられることになったのだ。フランス革命の指導者の一人ミラボーが革命の最中に病死し、その遺骸を埋葬する先としてパンテオンは作られたのである。その際、それではいろいろな人をそこに埋葬しよう、ということで、フランス革命の思想的指導者であったルソーやヴォルテールなどを埋葬し、フランスの偉人を祀る場所になった。つまりパンテオンはローマのパンテオンのパクリである以前に、ロンドンの、偉人(ニュートンダーウィンシェイクスピアホーキング博士など)がたくさん埋葬されているウェストミンスター寺院のパクリだった。だが、ローマンパンテオン古代ローマの宗教の、ウェストミンスター寺院英国国教会の寺院であるように、パリのパンテオンは一種の「フランス共和国教」とでも言えるようなものの寺院だった。フランス革命時に行われた、キリスト教ジームからの脱却と「理性信仰」を掲げる共和国の寺院だった。その寺院に、理性の限界と弊害を強く説いたベルクソンが祀られているのは面白いことである。私たちがパンテオンから外に出ると雨が降っていた。この日は夕食のこともあるから、家に帰ることになった。

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「アンリ・ベルクソンに捧ぐ。この哲学者の著作と生涯はフランスと人類の思索に誇りを与えた。」



その翌日はルーヴルに行き、皆で古代の素晴らしい遺物を使った豪華な大喜利をした。そしてその日の夜は、再会のパリ、最後の再会があった。アパルトマンのメンバーでやってきたベルクソン読書会に来てくれていた後輩がちょうどパリに留学していたのだ。だから、ホームパーティを開くことにしたというわけである。

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世界最古のセルフィー。これはテストに出る。

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世界最古の小林幸子ヒエログリフに「ラスボス」とある。

 

時間にルーズなのは毎度のことながら、ルーヴルに行ったこともあり、約束の時間には間に合わず、客人が来てからも鶏肉を焼き続ける始末だったが、楽しい時間を過ごした。わたしは小汚い格好をした男性旅行者なので経験がなかったが、女性はフランスではかなり狙われるという話を聞いた。ヨーロッパは、特にラテン系の国々はやはり男女の違いがかなり色濃いのかもしれない。でもなんにせよ、旅の最中に会うときは、それぞれの体験を聞かせあう機会が貴重である。それぞれが背負って来たものを、見せ合う。なかなか面白い事だと思う。

しかし、わたしは長居できなかった。後の二人は後輩と夜まで飲み明かしていたのだが、わたしは早く寝なければいけない理由があった。それはこの日の夜、衝動的に、次の早朝発のロンドン行きの列車のチケットを購入してしまったからである。

15都市目:モンサンミッシェル(2)〜異様な城塞〜

モンサンミッシェルがそびえ立っている。塔に掲げられた旗はフランスとノルマンディー、ブルターニュとは違う歴史を宿している。とにかく風が吹きつけてくる。そりゃそうだ、城の向こう側は海なんだから。

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モンサンミッシェルは山である。頂上にある御本殿が修道院と礼拝堂であり、その周りを取り巻く門前町は世俗のエリアということになる。日本で似たような形式のところといえば江ノ島である。江ノ島の場合本殿に入るのにお金はかからないはずだが、モンサンミッシェルの場合は礼拝堂に行くには金がかかる。だがもちろん、門前町は無料だ。

そして、門前町が細い路地でできていて、鮨詰め状態というのも江ノ島と同じである。江ノ島の場合フェリーで裏口から入れるが、モンサンミッシェルは多分無理なので、全ての観光客が路地に集中するのである。

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門をくぐり、日本の城のように正面ではなく右側に走って行く道を行く。朝早いのでそこまでの観光客はいない、と思ったのだが先に進めば進むほどかなりの客が詰まってることがわかった。門前町入り口のすぐ左手の店は「プーラール母さんの店」で、オムレツが有名だ。時間をかけてかき混ぜたおかげでフワフワらしい。でもお高いんでしょ、と試しに値段を見てみると、期待を裏切らず38ユーロ、要するに5000円くらいした。お高かった。

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人でごった返す参道には日本語の看板も多かった。やはり日本人はこのモンサンミッシェルに大量に姿をあらわすらしい。こういうのは決まっているのだから面白い。観光地には観光地の面白さがある。例えば看板の中身だ。例えば案外綺麗な文字でも、中身が謎の日本語ということが多々ある。

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「おみやげ随一」。おみやげはわかる。随一もわかる。だが何故そう繋げたんだ?

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デリシャスデザートとは何なんだ?赤いフルーツって雑すぎないか?

観光地独特の脇雑な雰囲気を味わいながら参道を登って行く。途中でいくつか博物館があった。拷問博物館の類である。フランス革命の後、ここは監獄になった。その歴史を踏まえてのことだろう。だが時間があまりないので、わたしは一路、礼拝堂を目指した。

 

巨大な建物に入り、金属探知機を抜けると、先ほどの雰囲気とは打って変わった、中世の城塞の面影が感じられた。列に沿ってエントランスホールのところに行き、チケットを買って入場するらしい。

「チケットを一枚ください」と言うと、

「10€になります」と受付の女性が言った。わたしは駄目元で、とりあえず、

「わたしは21歳です」という語学テキストLeçon3ばりの表現を使ってみた。

「IDはありますか?」と同じくleçon3ばりの表現で聞かれたので、パスポートを見せると、8ユーロになった。言ってみるもんである。

それからは人がそこまでごった返していない塀で囲まれた城の道を登るだけだった。上に見える塔にはなぜか作り物の黄金のワシの人形が入っている。日本でこんなことやろうものなら「景観を乱す」と言われそうなものだが、これはお国柄の違いなのか。

本殿一つ前にある建物に入ると、モンサンミッシェルがいかにして増殖し、今の形になったのかがジオラマで再現されていた。最初の方はまだ小さな小屋のようなものが山にあったくらいだったのに、改修を経ていつの間にやら、ここまで大きくなってしまったわけだ。まるでモンサンミッシェルという生き物の一生を見ているようだった。

その建物を出て階段を一気に登れば、頂上だ。バルコニーのようになっており、なぜか何体ものジャコメッティ感溢れる細長い現代アートが並んでいる。そういえばアヴィニョン教皇宮殿の前にも謎のアートがあった。フランスではやっているのか。よくわからないが、とにかく微妙に心地よい場違い感がある。

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バルコニーのへりに行き、海を見た。湿地帯のせいか、暑さのせいか、海はうっすら泥の色で、遠くは幻想的にぼやけている。その微妙なグリーンが美しい。潮の香りがする。風が吹きつけている。この先に英国があるのか。そう思うと、別に不思議なことではないのに、不思議なことに思えてならなかった。靄のかかったような風景がそう思わせたのかもしれない。モンサンミッシェルはやはり神秘の山だ。

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しばらく海とも沼ともつかぬ風景を見つめて過ごした。それから、礼拝堂の中に入ることにした。少々眩しくなってきたのだ。眩しいながらもふと上を見ると、モンサンミッシェルの外観の有名な高い塔がそびえていた。先ほどのジオラマによれば、一番上はミカエル像が設置されているが、避雷針としての機能も備えているらしい。夢の中のオベール神父に雷を落とした張本人の大天使ミカエルが雷の避雷針になるというのは、なんという皮肉だろうか。あてつけか。

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礼拝堂は歴史を感じさせる、すすけた色をしていた。きっとここで、幾たびも礼拝が行われてきたんだろう。祈る人というよりも、休憩する人の数が今では多いが、祈る人もいた。礼拝堂の中は荘厳さが支配していた。よくもまあこんなところに。わたしはふと思った。よくもまあこんなところにこんな礼拝堂を作ったものだ。そしてよくもこんなところで暮らす修道士がいて、祈る人がいるものだ。それは驚愕すべきことだった。ところどころ黒ずみ、苔むしているモンサンミッシェルの礼拝堂は見方によってはアンコールワットのような古代遺跡に見えてくるのに、そこはまだまだ現役なのである。それだけでもすごいが、この建物がこんなところに立っているというのはやはりすごい。よくもまあ、こんなところに……。苔も、黒ずみも、ステンドグラスなどおかない質素な雰囲気も、不思議と輝いて見えた。

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礼拝堂を一周し、わたしは山を降りた。入口と出口が区別されていないせいでちょっと苦戦したが、兎にも角にもわたしは猥雑な参道に戻ったわけだ。昼食の時間だ。

 

わたしはモンサンミッシェル名物のオムレツが無性に食べたかったが、38ユーロも払うつもりもない。実はこの店には支店があってもっと安くオムレツを売っていると聞いたのでその店に行くことにした。探してみると、奇遇にも、「デリシャスデザート」の店だった。オムレツは18ユーロなので、だいたい2000円だから、オムレツ的には異常な価格だが、まあここまできて食べないのもシャクだ。

こちらの店もかなり混んでいてなかなか先につかなかった。時間も時間だったが、まあ仕方ないので、わたしは特製オムレツと、「私たちの伝統的なリンゴ飲料」と書かれたメニューに載っていたシードルをボレ(マグカップ一杯)で頼もうかと思ったが、なんとなく水にした。思えばこういう店で水を飲むのはあまりないことである。いつも酒を飲んでいた。まあよい。休肝日だ(この日の夜、実は今までにない量の酒を飲むのは秘密である)。

案の定食べ物はなかなか来なかった。しばらくして運ばれてきたオムレツは不思議な形状をしていた。卵なのだが、折りたたまれて挟まれた空間に泡がある。プーラール母さんはかなり卵を泡立てるというが、本当に泡で出てくるとは。やはり、安かろう悪かろうなのか。わたしは少々後悔した。だが、食ってみるとなかなかいける。泡も、である。バターが効いていて、泡には独特の濃厚な味わいがある。プレートに一緒にどさっとのせられたフライドポテトともよくマッチしている。この味だと、シードルは合わなかっただろう。何が幸いするかわからない。これならビールだが、水も悪くない。それに聖地にいるんだ、いつこの水がワインになるかもわからないじゃないか……と馬鹿なことを思いながらわたしは黙々と食った。うまかったのもある。だがもう一つの理由として、バスの時間が近かったからだ。システム上いつのバスに乗っても良いのだが、パリ行きの電車にギリギリになってしまう。そしてパリではわたしがドイツでお世話になった老夫婦が待っている。

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時間がないのにエスプレッソとサブレクッキーを楽しみ、会計も済ませ、わたしはバスに乗るべく山を降りることにした。店を出ると、参道の混み具合はピークと言った感じで、行ったことはないが、まるでインドである。ゆっくりと山を降りざるをえなかった。まあなんとかなる。で、山を降りたらどうするんだっけか。山を降りたらシャトルバスに乗り、それからまたバスに乗り、レンヌへ行く。レンヌへ行けばパリ行きのTGVに乗るだけだ。そしてわたしの一人旅は終わり、また新しい形の旅が始まるわけだ。最後の一週間。そう思うと少し胸がきゅっとなる。

15都市目:モンサンミッシェル(1)〜異様な城郭〜

朝起きて、パッキングをし、フロントに降りると、昨日のおじさんではなく、ちょっと怖そうなおばさんが座っていた。チェックアウトの手続きを済ませ、

「朝食はどこで食べられますか?」と尋ねると、「あっちよ」とおばさんはフロントの奥の方をぶっきらぼうにさした。向こうに食堂があるらしい。

賢明な読者諸君はお気付きのように(突然のエラリー・クイーン口調)、わたしはいつも朝ごはんをホテルで食べない。なぜなら、ホテルで食べたところでそれはホテルに宿泊している人が食べる朝食で、その街に住んでいる人が食べるものではないからだ。だからできれば外に出たい。もっともヨーロッパまでくれば、日本と同じく朝ごはんなど家で食べる人が多いだろうが、それでもカフェや駅のパン屋のほうがもっと現地人に近いはずだ。それでもこのホテルではホテルの朝食を食うことにしたのは、単純な理由からだった。要するに昨日おじさんと喋って、このホテルが気に入ったのだ。このホテルだったら朝食を食べてもいいな、と思った。それに最後のホテル生活だ。

ダイニングルームには大型テレビがあり、フランスに来て以来ずっとテレビで流れているヒットナンバーが流れている。わたし以外の食事中の人はたったの一人。なんとなく寂しい。ビュッフェ形式なのだが、しかも中身がなんとパンとチーズだけである。これに8ユーロか、と少々残念な気分になったが、わたしの選択だ。わたしはぱっと朝食を済ませ、フロントのおばさんに荷物を置いていいかと尋ねた。

「こっちに来て」とおばさんは、ダイニングのそばにある使われていない部屋を開き、そこにバックパックを置くよう言った。

「これからモンサンミッシェルに行くんです」とわたしはいった。おばさんがなんとなく不機嫌そうだったので払拭したかったのだ。

「あら、そうなの。暑いわよ」おばさんは表情を緩めた。多分眠かっただけである。「帽子をしないと危ないわ」

「じゃあどこかで見つけたら買います」わたしは答えた。帽子は持って来ていたのだが、実はボルドーで無くしてしまったのだ。

「いつまでに帰ってくるの?」とおばさん。

「3時くらいに帰ります」と答えると、キョトンとしている。あ、そうか、ここはヨーロッパだから…「あ、えーっと、15時です」

「あー、なら平気よ。ボンヴォワイヤージュ(良い旅を)」おばさんはいった。わたしは、メルシーと答え、ホテルを出た。

 

バスのチケットカウンターは列はあったもののそこまで混んでいるわけではなく、チケットもどの時間のバスに乗ってもいいというオープンなものだった。事前に調べていた通り、最初のバスは9時半に出る。それまで時間があったので、わたしはバス停の周りを歩くことにした。

昨日通った道を歩くと朝と夜とでは印象がかなり違う。真っ暗だったものが明るく照らされてるから当たり前だが、レンヌという街の建物がそれぞれきちんと見えるのだ。特に昨日は気づかなかったエキゾチックなタイルの建物が良かった。フランスの他の街の例に漏れず、レンヌの人々も朝が遅いようだが、こういう朝の街も良い。カフェにでもやろうかと思ったが、その時間はなかったのでバス停へ戻った。

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バスは二台いた。どちらに乗っても良さそうなので、とりあえず1番のバスに乗り込んだ。ラジオがかかったバスの中は案外ガランとしていた。聞こえてくるのはスペイン語だった。しばらくすると日本人の若者二人組が入って来た。話しかけてみようかとも思ったが、向こうも話したいことがあるだろうし、やめておいた。一人旅だ。最後の一人旅だ。一人を楽しもう。そうこうするうちに他にも日本人グループが乗り込んで来た。今までの道中、ボルドーの学校以外で日本人にあったことがなかった。テロの影響で減ったんだなと思っていたが、唯一モンサンミッシェルだけは違うようだ。モンサンミッシェルアンコールワットマチュピチュ、日本人の憧れの地は未だ変わらない(もっともアンコールワットで日本人をたくさん見かけたというわけではないが)。そうこうするうちにバスが動き始めた。

 

モンサンミッシェル修道院である。見た目が城みたいに見えるのにはそれなりの理由があるが、初めは修道院で今も修道院だ。最初にあの辺鄙なところに教会を建てたのはオベールという司教だった。そこにはちょっと面白いエピソードがある。

オベール司教は夢の中で大天使ミカエル(武装した戦う天使で、天使長)が「ノルマンディーの湿地帯の岩山にわたしを祀る教会を建てなさい」というのを聞いた。だが、オベール司教は、「大天使ミカエルともあろうお方がわたしのような一回の司教の夢に出てくるわけない。きっとこれは悪魔の誘惑に違いない」と考え、黙殺する。ミカエルはそれからもオベール司教の夢枕に立ち続け、修道院を建てなさい、と言い続けたが、オベール司教は無視を決め込んだ。ついに、ミカエルの顔も3度まで、怒ったミカエルは夢の中でオベールの脳天を強く押し、修道院をたてよと命令した。オベール司教はその夜雷が頭に当たるという悪夢を見た。朝目覚めたオベール司教が頭に触れると、なんと穴が空いている。ここに至ってオベール司教は本物のお告げだったと理解し、最初の教会を建てたのである。かくして生まれたモンサンミッシェル(「聖なるミカエルの山」)は徐々に巨大化した。次々と聖堂が作られ、修道士の家もできた。

そのころ、今のフランス北部ノルマンディー地方、西部アキテーヌ地方、そしてグレートブリテン島の南半分を治めるイングランド王国が、いわば自分の上司に当たるパリを中心としたフランス王国と敵対していた。この二つの国は幾度となく戦火を交えて来たが、1337年にイングランド王がフランス王の位を要求したことから始まるいわゆる「英仏百年戦争」が起こると、ノルマンディーの端っこにある海に浮かぶモンサンミッシェルは戦略上の要所として考えられ、要塞化した。モンサンミッシェルが、一見城塞に見えるのはそのためだろう。

カレーを除くフランス領からのイングランド軍撤退で1453年に百年戦争終結すると、モンサンミッシェルは再び修道院に戻る。ところが1789年のバスティーユ監獄襲撃に始まるフランス革命の中で、莫大な財産を持ちながら納税義務をおわない修道院は憎悪の対象になり、全フランスの全修道院が閉鎖の憂き目にあった。モンサンミッシェルも例に漏れず、閉鎖され、放棄された。その後、この島の役割は監獄になった。海の上に浮かぶ要塞状の監獄。いわばアルカトラズ、アズカバンである。しかし、ロマン主義の19世紀が始まると、かつての修道院の姿を取り戻したいという動きが始まる。とくに作家ヴィクトル・ユーゴーモンサンミッシェルを褒め称えた。1863年ユーゴーとは政治的に敵対していたフランス皇帝ナポレオン3世ユーゴーの熱い文章を通じてモンサンミッシェルの再興を望み、モンサンミッシェルは再興された。そして現在もこの地には修道院があり、修道士が暮らしている。もちろん、フランス随一の観光地でもある。

 

 モンサンミッシェルはノルマンディー県にあるが、ブルターニュ地方との間にあるため、レンヌから行く場合、ほぼブルターニュ地方の光景が広がることになる。チープな例えをすれば、江ノ島藤沢市にあるが、藤沢市鎌倉市の間にあるので、鎌倉駅から江ノ電で行く場合、結局鎌倉市をずっと通ることになる、という状況と同じである。要するに、バスの窓の向こうに見えるのは、大麦畑と白と鼠色の建物群なのである。飽きたとは言わないが、ずっとブルターニュにいたのだなと改めて思う。

しばらくバスが進むと渋滞につかまった。渋滞が多いとは聞いていたが、時間的にあと少しというところで渋滞に捕まると、「がんばってくれ!」と思う。と、ふと窓の外を見ると、湿地帯らしい草の生えた高台の敷地の向こう側に、まるで合成画像かのように城塞が浮かんでいるように見えた。あれが、モンサンミッシェルか。正直言うと、その光景は異様以外のなんでもなかった。まるで人目を欺くためにクオリティーの高い非現実的な絵が海の前にばーんと置かれているようなのだ。

しばらくのストップの後、バスは再び動き始め、モンサンミッシェルの敷地内に入った。バスから降りて、また別のシャトルバスに乗る必要があるらしい。わたしは誘導されるがままにシャトルバスの方へと向かった。

ところが、朝早いというのにシャトルバス待ちの列はびっくりするほど長い。始めはじっと待っていたが、徐々にこのあとすし詰めのバスに詰め込まれるのが嫌になって来てしまった。しかも、向こうの方に見える幻影のようなモンサンミッシェルの方へと歩く人も何人かいたのだ。それなら歩いてもいいんじゃないか。そう思って看板を見ると、「40min」とある。それくらいなら歩くのも悪くないなと思った。バスで連れていかれるより、自分の足で一歩一歩近づく方が楽しそうでもある。ただパリ行きの電車の関係で時間が限られていたので迷いどころでもある。だが最終的に、わたしは列を離脱し、歩く巡礼者とともにモンサンミッシェルを目指すこととした。でもその前に、自然の呼び声に従って、手洗いに行っておいた。

 

歩道を湿地帯を貫くように走っている。大きなザックを背負った旅行者たちがひたすら歩く姿はなかなか勇壮なものを感じさせたが、中には犬の散歩をしているような人もいて、聖俗合わせもっているモンサンミッシェルの姿を垣間見た気もした。日光降り注ぐ湿地帯からはなんとも言えない野性味溢れる香りがする。そしてその湿地帯の奥には例の合成写真のようなモンサンミッシェルがぼんやりと見えているのである。

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しばらく舗装された砂利道を歩くと、道は突然獣道に変わり、大麦畑と湿地帯の芝生の間を進むことになる。当たり前ではあるが眼前のモンサンミッシェルは徐々に大きくなる。そして始めは異様と感じたリアリティの欠如した姿に、リアリティが吹き込まれて行くのが感じられる。やはり歩いてよかったのだ。歩かなければこの感覚はなかった。暑くて暑くてたまらないが、これは必要犠牲である。わたしはそう思いつつ、モンサンミッシェルに目を釘付けにされながら前へと進んだ。道は、果たして道と言っていいのかわからないようなものになったが、そんなの関係ねえ、だ。モンサンミッシェルは今や合成画像ではなく、湿地帯に一人たたずむ孤高の山だった。

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獣道を抜けると、最近改装された橋が登場する。わたしが大学一年の時フランス語の教材で読まされたのがこの橋の建設だった。今までの橋だと土を堆積してしまい、モンサンミッシェルと陸地をつなぐ砂州が生まれてしまうらしい。それを避けるため、新しいものにしたという。それはともかく、ここまでくればシャトルバスと同じルートだ。馬車も、厩舎の匂いを漂わせながら走っている。ついに、あのモンサンミッシェルまで来ちまったというわけだ。もはや、モンサンミッシェルは現実感を帯びて私の前にそびえ立っていた。

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15都市目:レンヌ(2)〜黄昏の暑く温かい街〜

車通りの多い駅前の通りを歩き、途中で右に曲がると、明らかに新市街だなという雰囲気の通りに出た。一応、ホテルのおじさんナビに従って歩いている。その道には、おじさんが言ったように中華料理屋などもあり、なんとなく、移民街を形成しているようだった。どことなく雰囲気はわたしが6歳の時を過ごしたベルリンの街に近い雰囲気だった。ロンドンにも似たところがある。治安が悪そうな感じもするし、悪くなさそうな感じもする、なんの変哲もないヨーロッパの街並みである。だが人気のないカンペール、住みたい街ランキング上位のナントを経てこういうところに来てみると、少しばかり懐かしさを感じた。

夕刻になり、暑さはだいぶ引いた。ボルドーにせよ、レンヌにせよ、暑いことは暑いが、夕刻になると過ごしやすくなる。ヨーロッパの良いところはそこだ。スペインもそうだった。まあ、アジアの夜になってもじとっとしている感じも気に入ってしまえばなかなか良いところもある。ちなみに意外かもしれないが、モントリオールの夜は日にもよるが、じとっとしていることが結構あった。あの場にいた誰よりも夜一人で街をうろついていたんだから間違いない。

さて、夕刻の新市街をずっと歩くと、細い川に出た。川沿いの柵は花で飾られている。どうやら、ブルターニュでは川沿いの柵を花で飾る風習があるみたいだ。なかなかいい風習である。細い川を細い橋を伝って渡れば、その先にあるのは旧市街。と言ってもレンヌについては何も知らないので、先ほどのおじさんの話から推測するに、戦争で焼けなかった場所、であろう。何も知らないのはそれはそれで楽しい。この前カンボジアに行った時、あえて何もしらべずに、ただ引き回されるままアンコール遺跡を回ったが、純粋な目と心で遺跡を感じられたものである。もっとも、知識のおかげで世界により豊かな彩りが与えられることもあるから、どちらが良いと言い切ることはできないが。

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 橋を渡ると、旧市街らしい綺麗な街並みが広がっていた。カンペールよりカラフルで、洗練されている。通りの名前を書いたおしゃれなプレートは二言語表示でブルターニュ固有のブレイズ語(ブルトン語)が書かれている。一応ネットでいろいろと調べたのだが、あまり馴染みのない言語体系の言語であるだけにすぐ忘れてしまうし、ブルターニュの街では、フランス語しか聞こえない。アルザスでは時たまアルザス語が聞こえた。オック語はオクシタンには消えてしまっていた。カタルーニャでは看板からテレビ、会話に至るまでカタルーニャ語が溢れていた。バスク語バスク地方でたまにおじいさんが話していた。だがブレイズ語は看板でしか見にしない。オック語と同じように消えているのだろうか。あとでフロントのおじさんに聞いてみよう。

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しばらく歩くと、オペラ座があった。あまり人はいなかったが、風が気持ちよく吹いていた。わたしはベンチに座って風を感じることにした。夕暮れの太陽が見えた。風はブルターニュの旗とフランス共和国の旗をはためかせている。これで一人旅が終わる。はじめは長いと思っていた。三週間も一人でふらつくなどしたことなかったからだ。だがこうしてみるとものすごく早かった。その上、ものすごく忙しかった。三週間という期間は体感でまるで一週間だった。わたしはどことなく寂しい気持ちになった。おもしろいことだ。というのも、明日からは賑やかな日が始まるのである。それなのに、一人の日々の終わりが寂しい。このまま、英国にでも、アイルランドにでも行ってしまえるのではないか。そんな、よくわからぬ願望が沸いてくる。今この時が愛おしいだけだろう。

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そろそろ移動して夕食でも食おうと思った。美しい街並みを風に吹かれながら歩くと、市議会の建物があった。市議会前には大きな広場があって、散歩している人が何人かいる。レンヌ。情報ゼロだったが、いいところだ。だけど……もしかしたら何日かしたら飽きてしまうのかもしれないなとも思った。住むのには良いかもしれない。

広場の近くのなぜかペニーレインと名付けられたバーを通り過ぎ、狭い路地に入ると食事出来る店が集まった区画があった。狭いところに細っこい、古い様式の建物が密集していて、テラスがぐちゃっと集まっている。少しだけ、リヨンのメルシエール通りに似ている。あそこは部署んという大衆食堂が集まっている場所だ。もちろんあの通りと比べれば、レンヌのこの通りの大きさは比べ物にならないくらい小さい。後で知ったがこの通りは「サン=ジョルジュ通り」というらしい。食事はここでするとしよう。

どの店が良いのかわからないので何周かしてみた。するとここにあるのはフランス料理の類だけでなく、ギリシア料理やイタリア料理もあるということがわかった。ブルターニュ最後の夜なのだから、ガレットリヴェンジといこう。わたしは幾つかあるクレープリ(クレープ屋)を見比べ、どれが安く、どれがトラディショナルかを探った。男のクレープ屋巡りである。目線は可愛いものに目がくらむ女子の目ではない。獲物を探す野獣の目である。

二つくらいの候補があったが、歩いているうちに、ある店に書かれた「サーモンのクレープ」が無性に食べたくなってしまった。そういうわけでその店に入ろうということで、随分と年季の入った感じの店内に足を踏み入れ、アジア系の店員に声をかけた。

「こんばんは」

「あ、はい、いらっしゃいませ。テラスしか空いてないんですが……」まあよい。というか、こんなに気持ちのいい天気の日にテラスで悪いわけがない。

「構いませんよ」わたしはそう言ってテラス席に腰掛けた。随分混んでいるようで、メニューが来るのに結構な時間がかかった。頼んだのはもちろんサーモンだ。よく考えればレンヌは内陸だし、川もしょぼいのだが、たぶんホテルの「アトランティック」という名前のせいで無性に魚が食べたくなってしまっていた。それでサーモンというわけだ。それに、この店はムール貝も美味しいらしく、たくさんの人がムール貝を食っていた。もうムール貝は売り切れていたので頼むことはできなかったが。

ところが、である。サーモンのガレットはあまり美味しいものではなかった。というのも、塩辛いサーモンがちょこっとでかいガレットに乗っかっているだけなのだ。本当のことを言うと、もっといろいろのったやつもあったのだが、少しケチってしまった。そうするとやはり、いろいろ入っているやつにすればよかった。せめてマッシュルームつきにしておけば……と後悔したが、まあそれが人生だ。わたしはカップに入った渋めのシードルを飲みつつ、サン=ジョルジュ通りのテラス街の雰囲気を楽しむことにした。飲み食いする人々のしゃべり声、ナイフとフォークがさらに当たる音、ビールやワインの匂い、太陽が落ちそうで落ちない空。最高だった。

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サーモンを食べ終えると、わたしは珍しくデザートを食おうと思った。このサーモンでレンヌの夜をしめるわけにはいかない。わたしは一番安かったチョコレートのクレープとエスプレッソを頼んだ。ふと隣の席に座っている老夫婦とめがあった。にっこり笑うと、おじいさんの方が、

「君は何してるんだい?」と聞いてきた。突然そう聞かれると困る。それが表情に出ていたようで、おじいさんは慌てて、「留学かい?それとも旅行?」と尋ねた。

「旅行です。いままでフランスとスペインを回りました」とわたしは答えた。「あなたたちは?」

「私たちも旅行よ」とおばあさんが言う。

「どちらからですか?」

「ドイツさ」おじいさんは言った。聞いてみると、ドイツのハンブルクから車でレンヌまで来たらしい。目的地は南仏だが、予定には時間があるので、ドライブしているらしい。

「フランスのドライバーは本当にクレイジーさ」とおじいさんはいう。「曲がるときにあいつらはウィンカーも出さん。窓から手を出して、曲がるぞってサインもしない。突然曲がりやがるんだ」

おじいさんは文句を言いつつなんとなく楽しそうだったが、わたしもニヤリをしてしまった。そういえばボルドーでドイツ人の同居人と話した時も、いつの間にか「日独防ラテン系協定」が結ばれ、延々とフランス人やスペイン人の不真面目さをディスる会が始まったからだ。わたしはそこまでラテンのノリが嫌いじゃないし、さして何も思わないが、いや、愛すればこそか、楽しくディスりに参加したものだ。ここでもまさか同じようなことが始まるとは思わなかった。

「じゃあ、フランスでドライブするのは大変なんですね」と言うと、

「ほんとよ、すごく大変だったわ。渋滞もすごいし」とおばあさんは目を開く。

モンサンミッシェルにはいったかね?」とおじいさん。

「まだなんです。明日バスで行こうかなと」

「渋滞がすごいから気をつけてね」おばあさんはいった。どうやらここに来るまでの間に渋滞につかまって大変だったようだ。

「駐車するのも大変だったよ」おじいさんは顔をしかめた。

「どこに泊まっているんですか?」とわたしは尋ねた。楽しかったので、ホテルが近ければどこかしらでちょっと飲みたいような気もしたからだ。聞いてみると旧市街の方で、大きなホテルのようだった。少し遠い。

ウェイトレスがエスプレッソとクレープを持ってきた。わたしが「メルシー」と言うと、

「フランス語できるのね?」とおばあさんが言った。

「ほんの少しです」わたしはおきまりのセリフを言う。本当は「ほんの少し」よりできないはずだ。

「ドイツ語は?」とおじいさん。

「アイン・ビッシェン(ちょっとだけ)。大学でやったんです」と言い、「あと実は子供の頃ドイツに住んでたんですよ」と付け加えた。

「ドイツのどこ?」おばあさんが尋ねた。

「ベルリンです」というと、ドイツ人と話すとよく起こる、「ああ、ベルリンね」的な時間が流れ、

「Dann, sprachen wir Deutch(じゃあドイツ語で話そうじゃないか)」とおじいさんが真面目そうな顔で言った。もう慣れているが、ドイツ人が真面目そうな顔をするときはからかっている時である。

「えーっと、ナイン、ドイチュ・イスト・ツー・シュヴェア・フュア・ミッヒ(だめ、ドイツ語、ハ、オレニ、トッテ、メチャ難シイ)」とわたしは答えた。

「Gut(できるじゃないか)」おじいさんは言った。

「これが限界ですよ」わたしは英語で言った。

「これからどうするの?」とおばさんが尋ねた。「明日モンサンミッシェルに行ったあとは」

「パリで友達と合流するつもりです」わたしは言った。言いつつ、そうか、友達と合流するんだなと実感した。おじいさんとおばあさんは会計を済ませ、ホテルに帰って行った。最後に、

「グーテ・ライゼ(ヨイ、旅)」と伝えると、おじいさんとおばあさんはにっこり笑って

「Du auch(君にもね)」と言った。

コーヒーとクレープは美味しかった。クレープはチョコレートがサラーッとかかっただけのものだったが、モチっとしたクレープは作りたてで、チョコレートの味も絶妙、この食べ物に早く気付けばよかったと思った。そしていつもデザート代わりに食べているコーヒー受けの菓子もうまかった。ル・ダービーでも出てきたのだが、いわゆるサブレである。ブルターニュ名物なのだ。鎌倉の鳩サブレより分厚く、モコっとしているが、バターが効いていてうまかった。終わり良ければすべて良し。わたしは満足して、会計を済ませてから、もう日の落ちたレンヌの新市街を少し歩いた。

ホテルのおじさんが紹介してくれたレストラン街は、少しハードルの高そうな感じだった。それにあまり人もいない。サン=ジョルジュ通りで食事をして正解だったかもしれない。わたしは駅まで歩き、それからホテルを目指した。

 

「どうだった?」とおじさんが尋ねるので、

「レンヌ気に入りましたよ」と答えた。おじさんは満足げな表情だ。

「ところでレンヌ、っていうかブルターニュについて一つ質問なんですが」とわたしは切り出した。

「なんだい?」

「ブレイズ語の標識を結構見たんですけど、ブルターニュに来てブレイズ語を聞いたことがないんです。その……誰がブレイズ語を話してるんですか?」とわたしは尋ねた。

「あー、なるほどね」とおじさんはいい、「ブレイズ語は学校で習うんだ。高校(リセ)の時にね」

「じゃあおじさんも話せるんですか?」わたしは聞いてみた。

「あーいや、そりゃ俺もやったけどさ、今は覚えてないな。使わないんだよ、全然。だからそうだな、ラテン語みたいな感じだ。学校でやるけど、みんな忘れるだろ?」とおじさんは早口で言った。ラテン語古代ローマの言語で、その後カトリック教会を中心に使われ続け、学問の言葉として残った。日本で言えば漢文のようなものだ。確かに日本でも高校になれば漢文を習うが、日常で「我、将ニ大学ヘ之カントス」などと言うわけもない。

「ってことはもう話している人はいない……?」と尋ねると、

「いや、いなくはないと思うよ。でもみんながみんな話せるわけじゃないんだ。日本にも地域語はある?」と尋ね返してきた。わたしはとっさに、

「ええ、北と南にあります」と答えた。我ながらよく思い出したと思うが、北はアイヌ語、南はいわゆるウチナーグチ(沖縄語)や宮古語である。沖縄方言とはいうが、別の言語と言えるほど異なっているらしいということをどこかで読んだことがあったのである。アイヌ語に至っては日本語と系統が違う。

「で、日本人はみんな喋れる?」とおじさん。

「いや、しゃべれないです」

「それとおなじさ。ブレイズ語をみんな話せるわけじゃないんだ」なんとなく論点がずれている気もしたが、まあ気にすまい。わたしは気を取り直し、

「ブレイズ語の挨拶を教えてください。すごく興味があるんです」と言った。

「たしか……デイ・マットって言ったはずだけど……ごめんちょっとまって」とおじさんは何やら調べ始めた。本当に全然覚えていないらしい。まあそんなものだろう。わたしも小学校に韓国人の講師が来た時、幾つか韓国語を習った記憶があるが、ほぼ覚えてはいない。

「うん、やっぱりデイ・マット」おじさんは言った。使えそうもないが、いい機会なので、ありがとうなどいろいろと聞いてみた。おじさんは全部インターネット先生に頼りながら見つけ出し、メモに書いてくれた。

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「Thrugalez(ありがとう)」わたしは教わったばかりの表現を使い、「おやすみはなんていうんです?」と尋ねた。

「えーっとね、Noz vat」

「じゃあ、Noz vat」わたしはそう言って、部屋に引き上げた。おじさんはにっこり笑い、

「Noz vat」と返した。

レンヌは予想以上にいい街だった。わたしはそんな感慨を覚えつつ、スマートフォンで明日の夕方のTGVのチケットを購入した。明日は忙しい。朝早くにモンサンミッシェル、昼には戻ってきて、パリへ向かうのだ。

15都市目:レンヌ(1)〜知らない街〜

ラ岬から戻るともう一時だった。わたしは駅でユーレイルパスをケチって28ユーロのレンヌ行の切符を買った。なぜかと言えば、レンヌからパリまでユーレイルパスを使うとして、そのあとパリで合流する友人とロンドンとクレルモン=フェランに行こうと思っていたから、計算の帳尻を合わせたのだ。実を言えばクレルモン=フェランには結局行かなかったから逆に1日分余ったまま日本に戻る羽目になったのだが。

それからル・ダービーで荷物をとった。それでお別れというのも寂しいし、時間も時間だから昼食を食べた。クロックムッシュだ。思えばパリに住んでいる友人が日本に来た時、このクロックムッシュをやけに推していた。

「いいか、パリに行くんなら、クロックムッシュを食べるんだ。すごくうまい。クロックっていうのは、かぶりつく時の音、ムッシュはミスターだ。いい名前だろ?」

そんなわけでわたしは在仏中2度目のクロックムッシュをくった。胃の調子が悪かった直後に食うもんではないが、まあこれで死んだらそれはそれでいい。かぶりつく時の音などと言いながら、おフランスムッシュはナイフとフォークでお上品にいただくようだ。2度目のクロックムッシュは、ディジョンのコーヒーチェーンのものより格段にうまかった。カンペール。色々あったが、ラ岬もクロックムッシュも満足だ。大ブリテン島の作家シェイクスピアもこんなことを言っていた。

「All is well that end is well(終わりよければすべてよし)」

旅ももうわずかだが、All izz well(きっとうまーくいく)。そろそろ、カンペールともお別れの時である。今度は祭りの時に行きたいものだ。

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酷暑のカンペールから内陸のレンヌへ向かう電車からは、ブルターニュらしい風景が見えた。例の不恰好な大麦の畑、白壁にねずみ色の屋根の家々。暑さと気持ち悪さでどうでもよく見えていたが、体調を持ち直してみれば、美しい田園風景だ。

レンヌという街はブルターニュの政治と経済の中心である。かつてはナントがその役割を持っていたが、偶然か必然か、フランス共和国政府はナントをブルターニュ地方から引き離し、ロワールアトランティック県に編入してしまったので、レンヌがナントの代わりになった。レンヌも古い町だそうで、かつてはポーランド国王か何かが住んでいたとか住んでいないとか。実をいうとこの街についてはよく知らないのだ。

というのもレンヌに行くことにしたのはこの日の朝なのだ。それまでは行くつもりもなかった。本当はノルマンディー地方の古都(といってもいわゆるノルマンディー上陸作戦で街はほぼ焼けた)カーンへ行こうと思っていたが、アクセスが悪く、面倒になったのである。それに、レンヌまで行けば、明日の朝にはバスに乗ってモンサンミッシェルに行けるということを知ったのも大きかった。

電車に乗りながら、わたしは例によってホテルサイトで良さそうな駅前のアトランティックホテルなるホテルを予約した。あとはもう、着くまで田園風景を眺めるだけだ。

 

レンヌの駅に着くと、カンペール異常なのではないかという酷暑だった。さすがブルターニュの中心地だけあって駅はものすごく大きい。だが所々で工事をやっていて、TERが到着して大量の乗客がホームに降り立ったというのにエスカレーターは停止しており、私たちは一つしかない階段に殺到した。暑い上にすごい人だ。だがなんとなく、カンペール無人感に打ちのめされていたわたしにとっては、気分の良さを感じた。

駅構内も工事中で、冷房が効いておらず、ひどく暑い。ブルターニュはフランスの北部に位置する。てっきり涼しいところだと思っていた。だが多分メキシコ暖流か何かの影響でものすごく暑い。ブルターニュはフランス位置暑いと言っても過言ではないと思う。わたしは汗だくになりながら、ともかく駅を出ようと別の階段を降りた。工事の影響でどうやら地下鉄は止まっているらしい。まあ、ホテルは駅のそばだから関係ないのだが。

駅を出ると、「うわあ都会だな」と心の中でつぶやいた。車通りが多く、アスファルトヒートアイランド現象を起こしている。建物の高さは高く、どれも新しい。今まで訪れたフランスのどの都市とも違う都会感がある。強いて言うならトゥールーズやリヨンに近いが、トゥールーズやリヨンほどの大都会ではなく、ストラスブールのような由緒正しさがない。ナントのような綺麗さはなく、ボルドーのような統一感がない。駅にそって若干の坂道になっており、道路を渡り、少し坂道を登れば、わたしが旅の拠点としたアトランティックホテルがある。38ユーロ。すごく安くはないが、フランスのシングルルームにしては安い。見た目は洒落たところのない細長い四角い建物だった。

小さな扉を開けると、小さなフロントがあり、メガネをかけた、黒いTシャツの中年のおじさんが座っていた。

「ボンジュール」と声をかけると、おじさんは楽しそうに、

「ボンジュール」と返してきた。

「部屋を予約したんですが」とフランス語で伝え、名前を告げると、すぐに見つかった。

「フランス語、ちょっとできるんだ?」とおじさんが言うので、

「ほんのちょっとだけですけどね」と苦笑いし、鍵を受け取った。幸先が良さそうだ。おじさんはいい人みたいである。

狭い階段を登り、部屋に着いた。部屋はさっぱりしていてちょうどいい広さだった。思えば、一人のホテル暮らしはこれで終わりだ。明日の今頃はパリの知り合いの家にいるし、そのあとは友人と共同生活をしている。旅が終わるわけではないが寂しいものだ。旅はどんなに長引かせても、終わりが寂しい。困ったものだ。これでは一生ホテル暮らしをしないといけないではないか、などと馬鹿なことを思いつつ、しばらく冷房をかけながらぼーっとテレビを見ていた。すると突然ケータイがぶーっとなった。何事かと電源をつけると、日本上空を北朝鮮のミサイルが通過したという。そういう時期だった。今から半年前は、そういう状況だったのだ。某御仁の言葉を借りるなら、みんなJアラートのせいで「早起きが習慣になって」いたのである。そしてその朝早い時間帯は、フランスでは夕刻なのだ。

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わたしは日本で起きていることなんてあまり関係ない気分でもあり、そろそろ行こうかと思っていたが、なんとびっくり、フランスのチャンネルも北朝鮮のミサイル発射を報じ始めた。世界を揺るがす大ニュースのようだ。しかしわたしにとっての大事件は、今の空腹状態と、レンヌを歩かねばならないという事態である。わたしは立ち上がり、テレビを消して、フロントに降りた。

 

「レンヌの地図とかってありますか?」とフロントのおじさんに聞くと、おじさんはもちろんと広げて見せた。

「レンヌのことよく知らないんですけど、レンヌのいいとこってどこですかね?」と尋ねると、おじさんは嬉しそうに、

「ここがアトランティックホテル。この辺りの駅前の地区は新市街なんだ。第二次世界大戦中に全部壊されて、1950年代に再建したのさ。それで駅の反対側にずーっと歩いていけば、旧市街。ここがオペラ座で、ここが市庁舎。この辺りは由緒ある建物が多いよ。ここにいくといい」と解説してくれた。早口のフランス語について行くのは大変だったのだが。

「なるほど。じゃあおいしいレストランはどの辺にありますか?」とわたしは本命の質問をした。

「おいしいレストランは……そうだな、安いところなら、新市街の駅の辺りにあるよ。それと旧市街の方にはトラディショナルなものがある。あと……君は中国人?日本人?」

「日本人です」

「この辺に行けば中華料理もあるし、和食もある」おじさんは言った。わたしは少し笑って、

「レンヌまで来て和食は食べたくないので、こっちに行こうかな」とおじさんが最初に教えてくれた界隈を指差した。

「ま、そうだよね。一応言ってみただけ。それじゃあ、まずこっちから歩いて、戻って来がてらレストランを探したらいいんじゃないかな」とおじさんは親切にも歩き方のコースまで決めてくれた。

「ありがとうございます。それと明日……」と言いかけるとおじさんは、

モンサンミッシェル?」とわたしの言いたかったことを引き取った。どうやらテレパシーの使い手のようだ。

「ええ、そうです」

「いやね、日本人はみんなモンサンミッシェルに行くから」とおじさんは言う。そう言われると行く気が減退してくるが、一生に一度は行きたいのだから、行くしかない。

「バスはどこから出ますか?」

「バスは駅のすぐ隣、ここから出るよ。最初のバスは9時だ」おじさんは言った。「そのあとは日本に帰るのかい?」

「いや、パリにいる友達のところに行きます」本当のことを言うと、友達というよりも保護者のようなもので、ベルリンに住んでいた時の大家さん一家の家だ。ドイツ人とフランス人の夫婦で、わたしの祖母くらいの年齢だろう。でもいろいろ説明するのが面倒なので、友達と言っておいた。

「なんで友達もモンサンミッシェルに来ないの?」とおじさんは尋ねる。いや、それはずいぶん高齢だし、パリに住んでいるものだから、そんなにモンサンミッシェルに来たいとは思わないのではないか、と思いつつ、

「もう行ったことあるからだよ」と答えた。

「でもモンサンミッシェルは何度行ってもいい」とおじさんは言う。「ごめん、単純に好奇心で聞いてるだけなんだ」

「そうだなあ……でも来ないんです」とわたしははぐらかす。

「忙しいのかな」とおじさん。明らかに忙しくはないだろうが、

「忙しいでしょうね」ということにしておいた。にしても、このおじさん、なかなか楽しい人である。わたしはちょっといい気分に浸りながら、ホテルを出た。

14都市目:ラ岬〜地の果て〜

目を覚ますと朝だった。まだ7時だ。どうやら熱は出ていない。体の痛みも多少は引いている。わたしはとりあえずパッキングして、ラ岬へ向かう最初のバスに乗ることにした。

チェックアウトをすると、昨日はぶっきらぼうだったホテルのお兄さん=バーの店員=タバコ屋の人は、

「朝食は食べてくかい?」と気さくに聞いてきた。昼のあの時間は忙しすぎたのだろう。わたしは徐々にル・ダービーに愛着が湧いてきた。

「これからラ岬に行くのでその時間はなさそうです。どこからバスが出てるのかわかりますか?」と尋ねると、お兄さんはわざわざ外までついてきて、

「ほら、あの駅前のあそこから出るよ」と教えてくれた。

「メルシー」といって、わたしはバス停に向かったが、途中で大荷物をホテルに預けた方がいいなと思って引き返した。あのバーにそんな場所があるのかは不明だが、ダメ元で聞こう。

「すみません、荷物を預けたくて」とお兄さんに言うと、ついてこい、と言う仕草で、サッカーのボードゲームが並ぶ部屋を抜け、鍵のかかる倉庫を開けた。

「ここに置いておいて」と言うので、わたしは荷物を置き、礼を言い、バス停へ向かった。

バスの時間まではまだあることを確認し、チケットだけ購入して、わたしはカンペール駅に入った。朝食を買ってバスで食べようと思ったからだ。相変わらずミニバゲットのサンドイッチを購入し、飲み物は水にした。昨日のこともあったし、コーヒーでは腹に触るかもしれない。駅を出て、バス停でバゲットを三分の一ほど食うと、バスがやってきた。

挨拶をして切符を渡すと運転手は食事は禁止だと言った。捨てた方がいいかなと思い、引き返そうとすると、いや、食べなければいい、と言うので、袋にパンをしまって、着席した。運転手はなんらかのラジオをつけている。随分と庶民的なバスでよい。

 

バスはカンペールの街を抜け、田舎道に出た。周りには多分大麦なのであろうちょっと滑稽な形の穀物畑が広がる。そとはじりっと暑く、風もあまりない。時折、白い漆喰にねずみ色の屋根の建物が現れ、海が見えるところもあった。これがブルターニュか。どうやら普段からあまり人はいないようだ。時期が悪いのかもしれない。

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バスは途中で何度か停車し、まばらな客を乗せた。高校生たちの足になっているようで、何人か若人たちが乗ったり降りたりしている。まさに日常だ。外は見るからに田園という感じだが、かと思うと突然大きな港町に出たりもする。ちょうどラ岬に到着する直前のバス停はそんな港町だった。ヨットが並び、花が美しく、または白く輝く。老人は海を眺め、子供づれの夫婦が散歩する。降りてみたくなった。だが、そこまでの思い切りが出せず、わたしはバスに乗り続けた。

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ラ岬。そんな珍奇な名前になってしまったのはフランス語の発音のせいだ。文字に起こせばPointe du Raz。英語式に読めばラーズ岬だろうか。その岬は実を言えばフランスの西端ではない。その北にあるコルサン岬が本来の西端だ。しかしラ岬は隔絶した雰囲気があり、知る人ぞ知る観光スポットになっている。この岬に行くことにしたのには大した理由はないが、大西洋が見てみたかったからと、端・岬という言葉にわけのわからないロマンを感じたからだった。

ラ岬のあるバス停には1時間ちょっとでついた。朝なので日差しはそこまできつくはないが、やはり暑い。バスを降りると、観光化に失敗した観光地のようにガランとしたシャッターの降りた店が並んでいる。

お腹は空いていたが、なんとなく気分が悪かった。昨日とは違って吐き気もある。だがもったいないのでわたしはベンチに腰掛けて手に持っていたサンドイッチの残りを頬張った。しかし4分の1まで食べたところで限界を感じて、捨ててしまった。どうしたというのだ。わたしはとりあえずラ岬に向かうことにした。ラ岬に行けばなんとかなりそうな気がしていた。

途中でビジターセンターのようなところで展示をざっと見てから、用を足し、ラ岬があるらしい舗装されていない街の方へ向かった。短い草がわーっと生えていて、太陽を遮るものは何もない。わたしはサングラスを装着し、岬へと向かう一本道を歩いた。

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海が近いというのに、風はさして動かず、ただブルターニュの分厚い熱気が場を覆っていた。フランス東部からスペインに入り、ボルドー、ナントと経てここまでやってきたが、ブルターニュ半島(アルモリカ半島)が一番苦手な暑さだ。観光客が何人か、私の前を歩いていた。大地の果て(フィニステール)という語が連想させる寂しい土地ではなく、もはや観光化されているのかもしれない。

一本道には緩やかな登りくだりがあった。雑草なのかなんなのかわからない草が脇に生えていて、そこにはなんの虫かはわからないが鳴く虫がいた。じりー、じりーと何やら主張している。8月も終わる。もう、秋に近づいている。最初の上り坂を終えると、次は下り坂だ。向こうの方にもう一度上り坂があるのが見え、そしてその先に大きな塔が建っていた。事前に何か知ってここまで来たわけではないので、あの塔の正体については知らない。だがきっとなんらかの施設か、灯台であろう。

 

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汗だくになりながら塔までたどり着くと、予想以上にがっしりとしていた。ツアーガイドの話を盗み聞きしたところでは、かつては軍隊の施設だったらしい。通りで馬鹿でかいアンテナが付いているわけだ。何かを傍受していたのかもしれない。中は一部が解放され、休憩所になっていた。しかしこんなところで休憩するのなら、海を見ながら休憩したい。私は岬の先端を目指した。

砦の向こうは、地面が岩盤になっている。そして巨大なマリア像が鎮座している。かつて航海する人たちにとっての守り神的存在だった……と説明書きに書いてあった。まるでバルセロナでは地中海をコロンブスが見下ろしていたように、聖母マリアが大西洋を見つめている。日本では宗像大社厳島神社が海の守り神だった。コロンブスはちょっと違うが、人は海というどうにもならないものに対峙するにあたって、何かの加護を必要とするのかもしれない。

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マリア像の向こうには岬がある。朝早いというのに、びっくりするほど人がいる。それでも、その岬には何かがあった。大西洋に突き出すその姿には荘厳なものがある。そして岬のさらに向こうには一人佇む灯台がある。何も知らなければ、確かにこれはフィニステール(地の果て)に見えるだろう。

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岩盤の上を歩く。ここまで来ると風もあるが、穏やかだ。地図で見るような尖って張り出した岬が大西洋に向かって突き出ている。岩盤の上にはいくつもの石を積み上げたものがある。きっと古代の神秘云々ではなく、ただただ観光客のおふざけだろう。それでも、石を積み上げたものが何百とあるのだから、何か意味があるようにも見えてくる。私はとりあえず海を眺める場所を探した。先端の方には人がたくさんいたので、付け根あたりを選んだ。

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絶壁に腰をかけると、チープなサスペンス番組を思い出す。そんな想念を追い払い、海の向こうを見つめた。この海の先には去年行ったモントリオールの街もある。モントリオールを作ったのはフランス人なのだ。そう思うと、地球はやはりつながっているのだと思う。それでも地の果てと呼ばれるここにきたのは、何かを置いてくるためだったような気もする。ここに来れば何かを清算できるような気もした。おそらく、かつてカニ族と呼ばれた北海道の最果てを目指す若者たちは、きっと何かを清算したかったに違いない。しかしこうやってどん詰まりを前にし、海を眺めていると、不思議なことに、心に浮かんでいるであろうあらゆることが、波の音に打ち消され、海へと吸収されてしまうのだ。海は全ての思考と想念を奪い去る。海は惜しみなく奪う。海を見ているうちに、わたしは何もかもすっかり空っぽになった。

日本の哲学者西田幾多郎は海を見ながら物思いにふけっていたという。「世界とは不思議なものだ」と海を見つめて行ったということを聞いたことがある。だが、それは考えに考えたというより、全てを海に飲み込まれての感想ではないだろうか。海とはインスピレーションの母ではない。海は見ていると全てを奪い去るのだ。海は海でしかなく、海の前に人は人でしかない。いや人も海に飲み込まれる。などと、やけに難解なことを言ってみたが、要するにわたしは大西洋を前にただ座ることしかできなかったわけだ。だがそれは心地よくもあった。

数十分は海と対峙していた。隣にもしゃもしゃっと生えた草からはじいー、じいーという虫の音が聞こえる。そろそろ岬の先端に行こうという気になったわたしは、岩盤を慎重に歩んだ。岬の先端には観光客がたくさんいたが、面白いことに皆海を見つめながら呆然としていた。中には自撮りする人もいないではないが、皆静かだった。海がそうさせたのだ。わたしはなぜかその姿に満足し、しばらく灯台を眺めてから、引き返すことにした。かれこれ1時間はここにいたことになる。お腹も空いた。最後に、わたしは石を三つばかり拾い、岩盤の上に積み上げた。ささやかな、奉納である。

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帰り道に見た奇岩

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14都市目:カンペール(2)〜I'm Down〜

身軽になって街に出たらもう15時になっていた。明らかに昼を食べ逃している。だが何も食わないというのは癪にさわるので、教会前の広場で食べられるところはないかと探した。すると、一軒やっている。隣は観光案内所だ。

未だにヨーロッパの店の入り方を理解していないので、わたしはウェイトレスに「一人だ」と告げた。するとどこでもいいというので、日当たりの良さそうなテラスに座った。これが間違いだった。日当たりが良すぎたのだ。

まあそれはさておき、メニューが渡され、わたしはサラミとよくわからないチーズの入ったガレットと北フランス名物だというシードルをこれまたよくわからないけどやすそうな「ボレ」という呑み方で頼んだ。

激しい日光の中、教会を眺める。教会は空高く尖塔を伸ばしている。それにしてもこの街にはどうしてこんなにも人がいないのか。日曜だからか。まあ日曜だからだろう。日を間違えたようだ。

などと物思いに耽っていたら、ウェイトレスがニコニコしながらプレートにのったガレットとティーカップを持ってきた。なぜお茶?と思ったが、なるほど、たぶん「ボレ」とはティーカップなのだ、と合点がいった。中には紅茶の見まごう紅の液体。わたしは一口飲んでみた。味はヨーロッパ式のえぐみの強いアップルジュースが少しシュワっとした感じ。悪くない。これは飲み過ぎ注意系アルコホールである。

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ガレットの方はナイフを当てるとバリッとしている。香ばしい。そしてよくわからないチーズはかなりきつい香りだ。なかなかハードなものを食べてしまった。わたしはいささかシードルとガレットが合わないなと思いつつ昼食を終えた。たぶんあれはビールの方がいいだろう。

 

会計を済ませ、店を出ると、太陽は未だ激しく、人はいなかった。どうしたら良いのかわからないので、わたしは教会と反対側へ向かうことにした。そっちの方が旧市街らしいからだ。

旧市街の界隈は、美しいピンクやブラウンに塗られた木枠に白の漆喰というヨーロッパの旧市街らしい光景が広がっていた。道の真ん中にはアイス屋と思しき車があり、路上にはギターで哀愁あるメロディを奏でるストリートミュージシャンがいる。

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申し分のない昼下がり。しかし、人がいないのである。まるで放棄された街のように、どこにも人がいない。アイス屋のおじさんとギター弾きのおじいさん以外、人類という人類が消えちまっている。一体何があったというのか。これはこれでノスタルジーを感じなくもないが、人もいない、入る場所もない、そして暑い、では気も滅入ってくる。わたしはのども渇いたことだし、ひとまず教会前の広場に戻ることにした。あそこには大きなカフェがあったはずだ。

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カフェに入り、飲み物を頼む。こういう時は得てしてバカなことをしてしまう。レモネードを頼もうかと思っていたのに、なぜかビールを頼んだのだ。今の俺にはビールが必要なんだ、などと抜かしていた。

さて、レフというやけに濃ゆいビールを飲みながら、わたしは作戦を立てた。日暮れまであとゆうに6時間はある。困った。どうするか。一つの選択肢としてル・ダービーで寝るというのがあったが、それはつまらない。もう一つの選択肢は、地図で見つけた「ブルターニュ博物館」なる博物館に入ってみることだ。この旅で実を言えば一度も博物館の類に入っていないわけだが、そろそろ解禁といこう(そういえばプラド美術館に入ろうとしたことがあったが、混みすぎていて面倒になって帰ったのだった)。

濃いレフを飲みほし、勘定を払い、私はテラスから再び陽のあたる方を歩いた。少々くらっとした。たぶんシードルの酔いが今頃きたのだ。博物館は教会の隣にある施設の中にあった。見た目は重厚な石造り。恐る恐る門をくぐると中庭があった。すると中庭の向こうの方から楽しげな音楽が聞こえてくる。どうやらバグパイプを使ったケルト風の音楽である。ブルターニュの伝統音楽か。見てみたかったが、音楽の流れる方と中庭との間には塀があって入れそうもない。しかたなく、博物館の入口をくぐった。

 

博物館もガラガラだった。ガラガラの割に、多めの従業員がカウンターにいる。私はフランス語でチケットを一枚貰った。

「何歳ですか?」と突如として聞かれて呆然としていたら、向こうは英語に切り替えた。やはり質問の趣旨は年齢であっているようだ。私はフランス語で自分の年齢を答えた。どうやら割引があるようだった。この国では「学割」ではなく「U-30割」のようなものがあるようだ(ただし、ルーヴルは違う。あそこでは年齢はおろか、国際学生証も受け付けない)。

係員の案内に従い、私はローマ時代のものと思しきケルト人の遺物が展示されているコーナーに入った。ところどころに、ケルト人の神秘のシンボル「トリスケル」が描かれている。三つのうずまきがくっついたものだ。ちなみにこういったものはバスク文化にもあり、バスクではくねっと曲がったしずくのような形のものが四つ十字形に配置された「バスク十字」なるものがある。それを角ばらせれば「卍」になる。まじ卍、である。これを裏返せば……というのはこの辺でやめておこう。シンボルには何か魔力が宿る。良くも悪くも。

次のセクションに行くと墓のようなものがたくさんあった。どうやら名士か騎士の墓だ。ご本人をかたどった石の彫刻が蓋の部分にかたどられている。このセクションでは、よくわからないがブルターニュキリスト教化を描いているようだ。進んでいけばいくほど、時代が下る。大して内容は分からなかったが、それはそれで面白かった。途中から18世紀の邸宅の模型が始まるや、19世紀の美しいアールヌーヴォーの家も現れる。だが、それでもやはりブルターニュらしく、必ずどこかにトリスケルやケルト模様があるのだ。伝統衣装とその着方の図を見たり、隠し階段のようになった螺旋階段を上ったり、19世紀になって観光開発されたブルターニュの「そうだ、カンペール行こう」「いま再びのブレストへ」「うまし、うるわしレンヌ」的なポスターを眺めているうちに、私はこの街に来て以来体にのしかかっていた疲れが引くのを感じた。

なんとなく満足した私は博物館をあとにした。日差しは相変わらず強かった。私は中庭のベンチに腰掛けて、塀の向こう側から聞こえてくるケルト音楽を聴いていた。たぶんあちら側でなんらかの祭りをやっているのだろう。博物館の人に聞けばよかったが、若干フランス語疲れがあった。私は教会に入ることにした。

巨大な教会の巨大な門をくぐり、中に入ると、落ち着いた石造りの世界が始まる。なんとなくイングランドの教会に似ていた。さすがは小ブリテン。ゆっくりしようかと思ったが、教会の窓の向こうから聴こえる音楽が私を呼んでいる。祭りなら、行くしかない。祭りがあればいつも行ってきたではないか。テロの直後だろうと構わずに、スペイン人に胴上げされたじゃないか。なぜこんな静かな場所にいるのか。そんな心の声に押され、私は教会を出た。

 

祭りの場所に入るには、川沿いの道に回り込む必要があった。すると仰々しい教会の塀の向こう側の人垣が見えた。異邦人が入っていいかわからないが、私はふらりと中に入ってみた。

入ってみると席はまばらながら、今までカンペールで見たなかでもっとも大量の人がいる。そうか、ここにいたのだ。私は観客席の外からステージを見た。どうやらケルト音楽には変わらないが、スコットランドかな何かからのゲストだったようだ。そして次に控えるのはなぜかオスマン帝国精鋭部隊イェニチェリ姿のメフテル楽団だった。彼らはカンペールの人と談笑しながらクレープを食べていた。そのクレープ、どこから……?と思って探すと、一角にテントがあり、おばちゃん達がクレープをせっせと焼いている。なんだかわからないが、教会主催のお祭りのようだ。ビールも売っている。ありだ。ここでクレープとビールを……

そう思った時だった。体にズーンと重みがかかり、ちょっとした気持ちの悪さを感じた。頭もガンガンと痛む。頭痛はずっとあったが、気にしないできた。だが少し気持ち悪いのはまずい。だが私はあえてそれを我慢し、ステージを鑑賞した。スコットランドの軽快な音楽を聴きながら手拍子を打った。だが、徐々に限界を感じた。これは帰るほかない。ホテルで一眠りして、起きてからまた来よう。私は祭りの会場を抜け出した。

 

ル・ダービーの部屋で目をさますと、体が動かない。背中、足が痛み、小刻みに震えている。そして若干吐き気がする。時刻は18時。もう夕飯だというのに。私はとりあえずもう一眠りすることにした。

しかし19時になっても状況は変わらなかった。テレビをつけて「メランション氏、反マクロン陣営結成」というニュースを見ながら、謎の冷や汗に悩まされるまでになった。水がないので、仕方なく水道水を飲み、トイレに入る。その繰り返しをしながら、ついにこれはやられたなと思った。昨日のタルタルステーキか?今日のチーズか?いや、はたまた熱中症か?疲れか?たぶん熱中症と疲れだろう。私はこのままではまずい、とリュックサックの中の薬袋を探った。ところが、見当たらないのである。どこかに置いてきたか。このような時に。

「薬袋を置いて行っていたわよ。送ってあげるから住所を教えて」

ケータイをつけると、そこにはそんな文言のホストマザーからのメッセージが来ていた。もはや笑うしかない。私は国際郵便で申し訳ないなと思いつつ、自宅の住所を送った。状況が面白くなってくると、気分はマシになった。今日は休むしかない。これは天からの「休め」という啓示に違いないのだ。

思えばこの20日くらいで、東京からモスクワ、モスクワからパリ、パリからストラスブールストラスブールからディジョンディジョンからリヨン、リヨンからアヴィニョンアヴィニョンからニームニームからトゥールーズトゥールーズからバルセロナバルセロナからマドリード、1日トレドに行って、マドリードからビルボ、ビルボからイルン、イルンからボルドーボルドーでは一週間みっちりフランス語、ボルドーを出たらナント、そして現在はカンペール、ととんでもない距離をほぼ休まずに走破したのだ。疲れも出るはずだ。何せほとんどのところは一泊しかしていない。たまには休むことも必要だ。本当はボルドーで休むはずが、予想以上に脳に負担がかかってしまった。だからここカンペールで休むのだ。

それにしても……日曜日は恐ろしい。人がいないと元気も出ない。私は窓の外を眺めた。徐々に日が落ちていた。日も短くなった。それからは、狭いトイレにすわり、ドアを開き、トイレの目の前にあるテレビでやっているダイアナ妃の映画を見て過ごした。なんとかして明日には体力を回復させ、明日こそ、ラ岬へ行くんだ。私は早めに寝ることにした。

14都市目:カンペール(1)〜Jamais le Dimanche〜

まだ真っ暗い早朝にホテルをチェックインし、坂道を下りて、ナントに名残惜しさを残しながらトラムの駅に着いた時、わたしは衝撃の事実を知った。なんと、今日は日曜日なのである。キリスト教圏の日曜日は恐ろしい。あらゆるものが閉まってしまう。日本にだって休日運転はあるが、そんなのかわいいもんだ。そう、乗ろうとしていたトラム(昨日わたしにしては珍しく駅で確認していた)は日曜日には来ないのである。そして次のトラムは1時間後であり、バスの時間に間に合うはずはなかった。

いきなり危機的状況に襲われた。ただ、治安の悪そうな界隈のホテルでの宿泊、宿泊者リストから消えた自分の名前、未曾有のテロ事件、祭り前夜のせいで聖母マリアなみにホテルが取れない状況……といろいろなことに見舞われてきた今回の旅だ。朝早くても対応策を考える脳はすぐに動いた。しかし、タクシーを拾えるわけでもなさそうだし、なかなかのピンチである。導き出した答えは、かなり奇想天外なものだった。そう、なんとかして数分前に行ってしまったトラムを追いかけるというものである(今思えば、ホテルに戻ってタクシーを頼めばよかったのだ)。

そういうわけでトラムの駅をひとつ踏破したわけだが、途中で、ああこれは無理だなと思い始めた。まあしかたあるまい。バス代はもったいないが、これで間に合わなければ、神の啓示だ。そう、ナントにとどまりなさい、という運命の定めなのである。わたしはおとなしく隣駅コメルス駅でトラムを待った。

そういう、謎の悟りを開いた時に限って、間に合うもので、そのトラムに乗っていたら、ギリギリでバスに間に合ってしまった。まあ、これはこれでありだ。わたしは走ってバスターミナルへ行き、目指すバスに乗った。案の定わたしが最後の乗客である。申し訳ないと思いつつ、席に着いた。すぐにバスのエンジンがかかり、北へと進み始めた。目指すはブルターニュの半島の西の端、カンペール。朝日も登り始めたところである。

バスはヴァンヌという街を経由してカンペールへと向かった。とは言ってもヴァンヌはほぼトイレ休憩。わたしは駅のポールでいつもの「パリジャン」とエスプレッソを購入した。ボルドーからナントに行くときはよくわからないコンビニ風の店で食べたので、こういうスタイルは懐かしい気がした。

 

よくわからない穀物の畑を抜けて、白壁に鼠色の屋根の家が並ぶ世界に入る。ブルターニュ様式というやつである。ブルターニュ。つまるところはリトルブリテン。そう、英国のほとんどを占める「グレートブリテン島」が大きなブリテンで、ブルターニュが小さなブリテンというわけだ。かつてサクソン人たちに追われた大ブリテン島ケルト系住民がブルターニュにやって来た。それから、この土地でケルト文化を守った。ケルト文化とは、アイルランドウェールズスコットランドに今も残る文化だ。リバーダンスにバグパイプ、魔術師マーリンやダンブルドア先生の元になったドルイドの司祭たち。それがケルトだ。ちなみにブルターニュに住み着いた人々の他に、大ブリテン島に残った人もいるが、サクソン人と戦った彼らの首領の名前をご存知の方も多いはずだ。彼の名前はアーサー。そう、剣を引き抜いて王になったアーサー王である。関係ないが、引き抜いた剣はエクスカリバーではない。最初に使っていた剣が割と早めにパリッと折れてしまって、湖の乙女からもらうのがエクスカリバーだ。

フランス王国の前身である西フランク王国の侵攻を打ち破ったブルターニュは、その後も独立を保ち続けた。大ブリテン島イングランドと大陸側のフランス王国両国を利用し、利用され、何とか生き抜いた。最後のブルターニュ公アンヌは結婚政策を通じて、何とかブルターニュの特権を認めさせたという。フランス革命のせいでその特権は剥奪され、ブルターニュは革命政府と戦った。だが最後には敗れ、その後も独立闘争は続く。今ではかなり下火になっているようだ。

 

バスが到着したのはカンペール駅の目の前だった。見るからに田舎の駅というような感じの駅舎は強い日差しに照らされている。私は人の流れに従って駅の前を横切るあまり舗装されていない道路を歩いた。視界の先にある看板は、バスク地方で目にしたっきり一週間はごぶさただった二言語表記だ。建物はブルターニュ風に白い壁に鼠色の屋根、というところが多いようだ。

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そろそろ昼だというのにあまり人気がない。太陽は一箇所からではなく、全体から照らしてくるようで、体力が奪われる。10kg以上のリュックが肩に食い込み、歩みを進めるほどにぐっと足に力がかかる。なんだか幸先がよくなかった。

しばらくすると川に出た。川にはたくさんの花が飾られていた。川沿いに大きな教会が見える。間違いない。そこが街の中心部だ。たぶんそこに行けば観光案内所があるだろう。私は一路案内所を目指した。カンペールブルターニュブルターニュといえばそば粉で出来たクレープの一種「ガレット」。昼食はそれだ。噂によるとブルターニュのクレープは安いらしいではないか。

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教会前の大広場には観光客らしき人がまばらにいて、かつてアヴィニョンで見たような観光列車(実際は車)もいた。だがなんとなく活気がない。まあ気にせず、観光案内所でホテルを見つけるのが先決だ。それに……私にはもう一つやりたいことがあった。

私がカンペールにやってきたのは、ブルターニュ文化の中心部に行きたいからだけではない。私の本来の目的はカンペールから30分ほどバスに乗るといけるというラ岬(Point du Raz)を目指すことだった。そこまで行くと、大西洋が望める。要するに最果ての地である。そこまで行くバスがいつでるのかを聞き、ホテルを予約したら、今日のうちに行ってしまって、大西洋の夕暮れを望みたいものだ。

Bonjour(こんにちは)」と案内所の男にいうと、彼は楽しそうに

Bonjour」と返した。観光案内所は落ち着く。

「ホテルリストはありますか?」と聞くと、ホテルリストはないが、ここから予約できる、という。それからは自動的に進む。値段はいくらがいいか?30ユーロくらいまでかな、駅のそばがいいか?明日すぐに移動できそうだから駅のそばがいいな……そんなやり取りをして、案内所の男が導き出したのは「ル・ダービー」というフランスらしからぬホテルだった。結局39ユーロなのでさして安くはないが、フランスのシングルルームにしてはまずまずだろう。

「それと、ラ岬に行きたいんですが」と私は切り出した。すると案内所の男は、ちょっと待ってね、というようなポーズをとり、何やら大量の黄色いパンフレットを持ってきた。どうやらバスの時刻表のようだ。

「バスは普段……」と説明し始めたところで、私のフランス語聞き取り能力の限界を超えた。だが、なんとなく聞き取れたのは、「日曜日」と「バスがない」だった。はっとした。今日は日曜日なのだ。一人で一ヶ月近く旅していると曜日感覚が消える。それでもヨーロッパの魔の日、日曜日は確かに今日だった。なるほど。

「ありがとうございました」と私は大量の黄色いパンフレットを受けとり、わざわざホテルのある駅前まで戻ることにした。しかたない。中心部のホテルは高そうだった。それにしてもリュックが重い。いつも重いが今日は一段と重い。子泣き爺でも背負っているのではあるまいか。私は川沿いのベンチで休憩することにした。そして時刻表を見た。

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「日曜日」の項目にはバツがついている。やはり、日曜日にバスは出ていないようだ。くそ、やられた。だがそんなことでくよくよしてはいられない。今日はカンペールの日なのだ。私はそう自分を慰め、リュックをよいしょと背負い、駅前に向かった。

 

カンペールの駅前はやけに治安が悪そうだった。案の定ホテル・ル・ダービーに行く道すがら、何やらわめいている男がいた。男の前を早足で通ると、何やら言っている。どうやら私に話しかけているようだ。私はフランス語がわからないふりをして立ち去ったが後ろの方で物騒な音が聞こえる。こんな太陽が輝いているというのに、面倒な街に来てしまったのか。

ル・ダービーもル・ダービーである。ホテルとは名ばかり、一階はバーとタバコ屋が一体化している。ホテルの従業員=バーの店員=タバコ屋の店員なのでやけに忙しそうである。

「ホテルをさっき予約したものです」というと、タバコ屋の店員のおにいさん=バーの店員=ホテルのフロントの人は、

「先に料金をください」といい、「まだ清掃中なのであと10分くらいその辺りで待っていてもらえます?」といった。わたしは料金をわたし、椅子に座った。その時、心に余裕を持って昼食を取っておけばよかったのだ。だが、そうはしなかった。それが運の尽きだった。

いつまでたっても何も言われない。挙句に先ほどのヤバそうな男がバーに入店してくる。どうやらバーの人たちからも煙たがられているようで途中で追い出される。だんだんそうした人間観察も悪くないな、と思ってきたが、それにしても何も言われない。12時だった時計の針は13時を差し始める。途中で店員がやってきたが、

「ホテルの部屋を待ってるんです」と言って断ってしまった。そこで何かしら飲み食いすればよかったのに、なぜだか、今日の昼は街中でクレープを食べるという思いがそれを邪魔した。というか、それならリュックだけ預ければよかったのである。だが、頭の回転が悪い時は、やはり何も思いつかぬものなのだ。

徐々に、もしや鍵など渡されず、勝手に入るシステムなのではないか、と私は思いはじめた。どうやら部屋は二階にあるようなので、私は勝手に階段を登り、ホテル部分に入ってみた。が、聞こえてくる掃除機の音は、清掃中を表していた。

何度も上がったり下りたりしていると、上の階でおばあさんと出会った。

「部屋の鍵をまだ渡されてなくて…」というと、おばあさんは、ついてきな、と私を下に誘導した。とりあえずついて行く他ない。するとおばあさんはバーの方に行って、

「ほら、そこのお兄さんに鍵」といとも簡単に鍵を手に入れてしまった。そうか、こちらから聞けばよかったのだ、というどっとした疲れとともに、おばあさんがこのル・ダービーのドンなのだという驚きを感じた。

おばあさんは部屋まで案内してくれた。なぜだか手にはリモコンがある。どうやらこのホテルでは鍵と一緒にリモコンをくれるらしい。従業員がテレビを勝手に見るのを防いでいるのだろうか。おばあさんはニッコリと微笑み、部屋を後にした。

はじめはとんでもないホテルだと思ったが、案外良いかもしれない。窓の外は絶景とは言い難い駅の風景。しかも先ほどの喚きおじさんが喚いている。部屋には謎の仏頭の絵。変な空間である。私は一度ベッドに腰を下ろし、案内所でもらった地図を見た。今日はカンペールを歩く日だ。

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13都市目:ナント(2)〜Live Together in Perfect Harmony〜

ナントの街を歩いていて気づくのが、他の街、他の国と比べて人種間交流が多いことだ。何が言いたいのかというと、黒人と白人が楽しそうに一緒にいる度合いが高い。もちろん今のご時世他のところでは差別が強くあるわけではない。だがなんとなくグループが出来ている。ナントにはそんなグループは存在しないのである。

例えば、マシーヌ・ドゥ・リルを離れて河岸を歩いていると、よく黒人のお父さんがベビーカーに子供を乗せて歩いている横に、別の白人のお父さんがいてパパ友なのだろうか、談笑している。その様子を見ていると、きっとこの街は暮らしやすいんだろうなと思った。だがその一方でこの街が黒人奴隷取引の主要港町であったというくらい歴史を乗り越えようとする意志の強さも感じさせられた。ナントに住んでみたい。いつか子供ができたらナントに行きたい、などと叶いもしないことを思いながら、わたしは川沿いの奇怪な形の卓球台を横目に中心部へと向かう橋を渡った。

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ナントの街はロワール川で二分されている。北は中心街があり、中洲には件のレ・マシーヌ・ドゥ・リルがある。南は知らない。要するに北が栄えているというわけだ。わたしは中洲から北の中心街へとモダンな橋を渡ったのだった。

橋を渡るとホテルのそばだった。それにフランス人の夕食時間まであと30分から1時間ほどある。わたしはホテルのある坂道をとにかく上へ上へと登ることにした。特に意味はないが、やってみたくなったのだ。登り切ると、真ん中に噴水のある広場があって、劇場らしきものがあった。その前には謎の現代アートが鎮座ましましている。真っ黒いその姿は、牛なのか、はたまた特に意味はないのか。

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ナントは住みやすそうな街であるとともに、奇妙奇天烈な街であった。町中に謎のアート作品が置かれている。ビルボのグッゲンハイム美術館前やボルドーの「ボルドーまもるくん」、あるいは昔住んでいたベルリンの手を挙げたカラフルなクマなど、ヨーロッパには街中にアートを飾る街も多いが、ナントのものは群を抜いたわけがわからない。しかも19世紀後半のいわゆるベルエポック(古き良き時代)や(第一次大戦と第二次大戦の間の)戦間期のいわゆるレザネフォル(狂乱の時代)の雰囲気漂う街に地味に溶け込んでいるのである。

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例えば劇場の広場から川沿いに戻って別の広場に入ると、広場のど真ん中に砂浜のようなオブジェがあり、シュロの木のような形の構造物が天高くそびえている。シュロの木の幹の上の方には裸の人形がぐったりと身を横たえている。変なオブジェであり、彼がハチ公前にあったら違和感しかないわけだが、案外ナントの街は何ともないかのように振舞っている。

そんな広場のところには必ずストリートミュージシャンがいて音楽を奏でている。といっても、一方的でないこともあり、観客の女の子にピアノを弾かせてみたりもしている。変な街だ。だがそれがいい

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トラムの線路沿いに歩いていると、街に入った時に目にしたブルターニュ公居城が見えてきた。たまにはこういうところに入ってみよう、と思いつき、わたしは空堀にかかった橋をわたった。最後のブルターニュ公アンヌは人気があるようで、堀の周りにも関連展示がある。

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城の屋内部分はもう開館時間を過ぎていては入れなかったが、中庭あたりを散策した。かつてここで、フランス王国に対抗するブルターニュ公国が独立していた。そしてフランスになってから、ナントの勅令が発布された。ナントの特権的地位が剥奪されるのはフランス革命の後にフランスが今のようなパリ一極集中に切り替わってからである……この街の歴史はこの城とともにあったわけだ。塔がいくつか並んだこの城は、全体的に優しい感じの丸っこい形をしていた。屋根はねずみ色、漆喰は城。中庭から見るブルターニュ公居城は、まるでアパートのようである。だが、由緒はやはり感じられる。不思議な形の井戸、何人もの人に踏みならされてきた階段、その一つ一つは歴史に彩られている。

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しばらくうろちょろしていると、中庭の開館時間も終わりに近い雰囲気が漂ったので、わたしは堀にかかる橋を渡って現代のナントに戻ってきた。しばらく堀のそばに腰掛けた。まさにブルターニュ公居城は、「つわものどもが夢の跡」である。なんとなく感慨に浸っていると、お腹がすいてきた。そろそろ、夕食の時間である。

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何かめぼしいものはないかと、賑やかで穏やかな、住みやすそうなナントの街をほっつき歩いて、店を探した。ナントの料理は知らないので、自分の嗅覚に頼るほかない。すると、「刺身」という文字がたくさん目につく。どうやら少し前まではクレイジーなジャパニーズフードだったはずな生魚は定着しつつあるようだ。そういえばボルドーで参加者二人の超ミニ寿司パーティをしたとき、ドイツ人のジャーナリストが「ヨーロッパでもみんな生魚は食べるわ」と言っていた。わたしがドイツにいた時は、「は?生魚だと?死ぬ気か?」というレベルであったというのに、世の移り変わりはこうも速いものだ。

そんなことを考えていると、わたしの脳裏に天才的な発想が浮かんだ。

そうだ、今日の夕飯、タルタルステーキにしよう。

タルタルステーキとは、洒落っ気も何もなく言って仕舞えば、要するに、生のハンバーグである。牛100%でそれも新鮮なものを使う。名前の由来は、モンゴル人が食べていたとのことだ。かつて、モンゴル帝国絶盛のころ、モンゴル帝国軍はなんとヨーロッパまで攻撃したのだが、その時自分のことを、モンゴルとか色々いうのが面倒になって、ヨーロッパでは有名とされた「タタール人」だと自己紹介した結果、なぜかヨーロッパ人が勘違いして、「タルタル(=地獄の神)⁈」と怯えたという。それがタルタルな訳だが、遊牧民は肉を馬と自分の腿の間に挟んで保存したらしく、それが、タルタルステーキになるわけだ。ちなみにこれはヨーロッパには珍しく生肉料理だが、焼いたものがドイツのハンブルク名物としてアメリカで有名になった。後のハンバーグである。

さて、心理学者もびっくりの連想法でタルタルステーキを食おうと思ったわけだが、実を言うと刺身の店のそばにタルタルステーキ屋があったのも一つの理由であった。なかなか混んでいるが、それはうまい証拠。生粋のフランス料理であるかは別出して、フランスでもよく食べられていると言う。というか、おそらく生肉だなんて珍奇なものを食べつづける輩はヨーロッパにフランス人以外でいるまい。

混んでいたので店員の人に認識してもらうのに一苦労したが、強引になんとかレストランに入り、「タルタル・トラディショネル(伝統のタルタル)」なるものとビールを頼んだ。フランスにいるんだからワインという選択肢もあるのだが、ナントの気温はなんとも暑く、なんとなくワインよりも、なんといってもビールだなという気になった次第である。最近いつもこうだ。これではヨーロッパのクソ田舎ベルリンで育ったという卑しき(?)出自がフランスのお高くとまった人々に露呈してしまう。

タルタル・トラディショネルとは、通常のタルタルステーキの上に生卵をポトンと落としたものだった。生肉の上に生卵をのせるとは、日本人のわたしからしても驚きである……と思ったのだが、この取り合わせは間違いなくユッケである。さっそくユッケならぬタルタル・トラディショネルのど真ん中にナイフを当て、卵を破壊し、肉とあえて、付け合わせのバルサミコ酢にひたしてパクリと食う。うまかった。肉本来の香りとちょうどいい調味料のバランスがいい。以前パリで食ったタルタルステーキパクチーことコリアンダーがあまりに効き過ぎていて食べていて疲れたが、ナントのタルタルはなんとも絶妙なうまい料理であった。それに、ビールと合うのである。まったく、ワインで食べるやつらの気がしれない。などと調子に乗って、全部平らげると、ウェイターがやってきて、感想を聞いた。

「C'est très bon!(めっちゃうまかったっす)」と語彙力のかけらもないフランス語で答えると、

「Désert?(デザートですか?)」と尋ねるので、いつも通りエスプレッソだけ頼むことにした。ヨーロッパにきて食事をしたら、やはり最後はエスプレッソに限る。エスプレッソはヨーロピアンな量の食事と日本人の胃袋の壮絶な戦いに勝利した後のご褒美だ。それに、デザートを頼まずとも、カップの横にちょっとしたお菓子がついているから、1.5ユーロくらいでデザートまで済ませることができるというセコイ旅行者の味方でもあるのだ。

 

店を後にして、わたしはヤシの木の広場に戻った。ミュージシャンがたくさんいて、スムースな音楽が満ちていた。怪しい浮浪者に絡まれかけるなどこの広場ではちょっとした事件も起きたが、食後の散歩にはちょうど良い。時刻は8時45分ごろ、日は沈み始め、空が美しい。わたしはふと城に行きたくなった。

城は暗くなりつつある空のせいもあって、より哀愁をたたえていた。城の前にある公園にはベビーカーを押す家族、走り回る子供、談笑する夫婦。住みたい街ランキングはきっと高いに違いない。見るからに夏のヨーロッパの夕刻という感じで、漂ってくるビールの香りも良い。ナントは、やはり誰かと来たい、誰かと住みたい街だった。明日には離れるのは寂しいが、明日の目的地はカンペールブルターニュ文化の中心地。それはそれで気になる。

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13都市目:ナント(1)〜Live Together in Perfect Harmony〜

「次はフランス語で話そう」

「そうね、ムッシュー」

ドイツ人のジャーナリストとバス停で別れた私は、バスに乗ってバス停へ行くという稀に見るシュールなことをした。もちろん、乗るバスは市営バス、目的地のバス停から出るのは長距離バスだ。途中誤ったバスストップで降りるというミスもあったが、なんとかかんとか、ボルドー駅そばのバスターミナルにたどり着いた。

五日間お世話になったボルドーの街ともこれでお別れで、またひとり旅の日々が始まると思うと少し寂しくもあった。もう少しいれば、もっとフランス語ができるようになったかもしれない。だが、私は語学をやりにフランスに来たわけではなく、ひとり旅の言い訳として語学をやっていたわけだから、要するに、本来の仕事に戻ったわけである。ただいま、ひとり旅、でもある。

ところが、バスターミナルにバスがいつまでたってもやってこない。別のバスは来るが、目当てのバスがこない。どうしたものかと思っていると、周りの人が道路でストがあっただとかなんとか噂話をしている。まあ何かしらあったのだろう。仕方ない。そういうものだ。そうやって待っていると案の定バスはしばらくしてやってきた。運転手は降りてくると紙を広げ、点呼を取り始めた。名前やら何やらを登録したからだ。しかしその光景はなんとなく、修学旅行のそれであった。

 

目的地はナントである。決めたのは昨日のことだ。これからのミッションは、8月30日までになんとかしてパリに入ること。そう、ナントかして、である。そのためには北に向かう必要があるが、その途中ブルターニュ地方に寄りたかった。別にガレットやシードルに惹かれわけではない。私が惹かれるといったらもちろん、ブルターニュ地方に息づく「ブレイズ語」とよばれる、ウェールズ語アイルランド語に似ているという少数言語である。いわゆるケルト人の土地で、1532年まで独立を保っていたというのだから、歴史マニアの血も騒ぐ。それで、どのブルターニュ地方に直接行くのは少々ハードなので、その前にロアール地方にあるナントで一泊しようという魂胆だった。

ボルドーのワイン畑をこえ、なんてことはない田舎道を走り、『三銃士』で取り上げられるラロシェルの街に少し寄って、バスは北は北へと進んだ。途中でインターのようなところに入り、昼食を買った。お馴染みのパリジャンというスタイルのサンドイッチである。フランス語でやりとりして、2ユーロのかわりに20セントを出してしまうという謎の失態を犯し、

「確かにそれも2ね」と笑われてしまった。まあそんなものだと私も笑った。

 

ナント。日本人的には少しばかり笑える名前の街。世界史で出てくる「ナントの勅令」だけがやけに有名な街だ。フランスの北部の古城乱立地帯「ロワール地方」に属してはいるが、1532年のフランス王国によるブルターニュ公国併合までブルターニュ公国の中心都市だったという(これは行ってみて初めて知った)。

フランス併合後もその地位は保たれる。フランス国内で起こった泥沼の宗教戦争ユグノー戦争が、ユグノープロテスタントカルヴァン派)側のナバラ国王エンリケ、フランス語名ナヴァール国王アンリの勝利に終わると、アンリはナントの城で高らかに、宗教の多様性を認める、みんな大好き「ナントの勅令」を発布した。この勅令は、のちにアンリの孫のルイ14世の治世になって、あっさりと破棄される。

その後、カリブ海の植民活動の強化とともに、ボルドー同様、奴隷貿易の都市になる。カリブ海のサトウキビ、フランスの武器、アフリカの奴隷にされた人々がぐるぐるまわる三角貿易である。そして暴利を貪り、ボルドーもナントもさかえた。フランス革命が起こると、知識階級がいたナントでは革命支持に周り、奴隷貿易と衰退した。しかしその後は工業都市として発展して行く。そして、そんな工業と貿易の街で進取の気風を感じながら育ったのが、『海底二万マイル』『地底旅行』『八十日間世界一周』など、ディズニーシー系、ではなく、SFの父ジュール・ヴェルヌである。

 

バスが遅れに遅れ、ナントに着いたのはなんと五時くらいである。ホテル探しを今からやる元気もないので、街の中心部に向かうトラムの車中でネット予約をした。便利な時代になったもんだ。檀一雄沢木耕太郎のような在りし日の旅人のように足でホテル探しをしなくてもよくなった。たいていのところにはネット予約のシステムがあり、値段や口コミが一目瞭然である。これを使うのはしゃくではあるが、使えるものは使っておくべきだ。

ホテルはナント中心部からすこしはずれの、トラムでメディアテックいう駅の近くにある。トラムから見るナントの街は気持ちの良さそうな街だった。街路樹、公園、開放的なカフェがあり、人々は楽しそうに談笑しながら歩く。そんな街にも、突如として城が現れる。ブルターニュ公城である。ヨーロッパはこれが面白い。ローマの街を歩いた時もこんなことがあった。それにしても、ナントの街は気持ち良さそうだ。

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コメルス駅で下車して、坂を登れば、ホテルがあるという。わたしはこの時ばかりはグーグルマップというチート手段をふんだんに使い、ホテルへ向かった。日が暮れる前にホテルに入りたい。と言っても日が暮れるまでに三時間はあるのだが。

「ボンジュール」と入ったはいいが、フロントに人はいない。チーンと呼び鈴を鳴らせば人がフロントの奥にある部屋からホテルの人が出てきた。

「ボンジュール」と髭面の上品そうな主人がいう。

「ボンジュール。ジェレゼルヴェユヌシャーンブル(こんにちは、部屋を一部屋予約しました)」というと、先ほど予約したこともあったかスムーズに身元がわかり、鍵が渡された。

「10時になると鍵が閉まりますので、あちらのガレージにある扉の暗証番号を解除して入ってください」と主人は言った。朝食は8ユーロ。面倒だし、6ユーロでコーヒーとパンなら食べられる。朝食は外で食べる派である。わたしはそれは断り、部屋に入った。

部屋はシックなダークな色で、なかなかオシャレだった。肘掛け椅子も二つ並んでいるし、テレビもある。45ユーロ(5000円くらい)だからなかなか優秀である。とはいえこうしてはいられない。しばらく体をベッドに任せ、テレビを見たら、町歩きに出発だ。それがわたしの仕事である。

 

フロントで地図をもらい、わたしは坂を降りて、川沿いを歩いた。川は泥で淀んでいる。ボルドーのジロンド川もそうだった。ドイツ人ジャーナリスト曰く、大雨のせいだという。行った時には雨の痕跡などにほど馬鹿みたいに晴れていたが、天気は変わるものだ。現にナントの天気はそんなに良くはない。

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川沿いを中心部とは反対方向に歩く。わたしにしては珍しい動き方だが、目的地があったのだ(目的地があるというのもまた珍しいのだが)。目指すはレ・マシーヌ・ドゥ・リルという場所で、いわゆるアミューズメントパークである。ナントに来た理由はここに行くためと言っても過言ではなかった。つい最近までディズニーランドは小学生が行くものと決め込んできた寂しい男がなぜ一人でアミューズメントパークに行くのかというと、そこがSF作家ジュール・ヴェルヌをモチーフにしているからだ。科学と自然の融合、そして人類の夢の結晶。そのようなことを言われるといってもみたくなるし、テレビなどでも実際に人が乗れる可動式機械式ゾウさんも、乗りはしなくても、見てみたい。

川沿いを行けば行くほど街は寂れて行き、徐々に不安になった。もしや、往時は有名だったレ・マシーヌ・ドゥ・リルも放棄されているのではないか、と。だがしばらくしてその不安は払拭された。汚らしい川にかけられた橋を渡り、しばらくするとメリーゴーラウンド(どういうわけかこれはフランス各地にある)がくるくると回っており、その周りには家族連れがたくさんいた。すごく混んでいるというわけではないが、もう6時半である。こんなものだ。

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ロマンティックなこととはほぼ無縁な学生生活を送っていることもあり、遊園地に入るのは多分小学校以来だろう。メリーゴーラウンドに、楽しそうな子供の声、大人たちの談笑。日本と同じだ。だがメリーゴーラウンドにはタコやらイカやら仰々しいものが乗っけられて回っており、この遊園地のコンセプトを物語っている。19世紀、科学と自然と魔法が共存していた時代の、夢である。ジュール・ヴェルヌの世界だ。わたしはジュール・ヴェルヌの作品は『八十日間世界一周』しか読んだことはない。他のものは恥ずかしながら映画か、小学生時代に行ったディズニーシーのアトラクションでしか知らない。だがその、「人間が想像できるものは、人間が実現させることができる(Tout ce qu'un homme est capable d'imaginer, d'autres hommes seront capable de le réaliser)」という言葉は子供の頃から好きで、わくわくさせてくれた。それは、わたしが好きな映画「ヒューゴーの不思議な発明」の世界でもある。機械にまだ人間味があった時代である。生命と機械が調和していた時代である。その時代をシャーロック・ホームズも(作品中で)生き、哲学者アンリ・ベルクソンは哲学した。ガウディはその時代に建築に命を吹き込み、夏目漱石はそんな時代に驚愕した。面白い時代である。

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入館料というものはなさそうなのでわたしは中に入った。入館料を払えば、空飛ぶ機械に乗ったり、いろいろなことができるらしく、機械式ゾウさんにも乗れるようだが、一人でやる気もなかったので、公園を散歩するだけにした。廃工場というか、駅舎というか、がらんとした空っぽの建物にはところどころ、プテラノドンなどを模した機械式の生き物がいる。そばにはシュロの木が立っている。そのだだっ広い建物を抜けると、公園があった。人だかりがあったので寄ってみると、そこには例のゾウさんだ。案外スムーズな動きで、時折見物客に水をばしゃーっとかけている。象の体の中には人がたくさん乗り込んでいる。この象、実は排泄もするようで、突如水をじょろじょろっと失敬していた。ユーモラスである。見ていて飽きない。

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わたしはしばらく象を鑑賞して、それから街の中心部へ戻ることにした。理由は象でもわかる単純なもので、そう、お腹が空いたのである。もう一度だだっ広い建物を通り抜けしていると、子供たちが全力で徒競走をしているのを見た。そりゃそうだろう、こんなだだっ広いところで何をするって徒競走しかあるまい。フランス人はヴェトナム人と似て、子供を自由にしているように思う。日本はいささか縛りすぎである。走ったら「怪我したらどうするの?」、喋ったら「うるさい」。うるさいときはうるさいし、怪我したときは怪我をする。それが人類だ。それでいいじゃないか、などと思ったりもする。

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雲行きは良くなかった。だが雨が降るわけでもなさそうだ。誰も傘など持ってない。それにしてもアミューズメントパークは一人で来るところではない。いや、この街、ナントは誰かと来たい街だ。というか、暮らしたい街だ。

12都市目:ボルドー〜ボルドーの人々〜

アンダイエの街には数時間いたが、外には出なかった。理由はない。駅の中で次の街ボルドーでのホームステイ先の人とメールをしたり、本を読んだりしていた。ふと目をやると、赤い看板のキオスク「Relay」や、価格帯が高めの自販機「Selecta」が置かれている。当たり前だが、フランスに戻って来たという感慨が生まれた。どれもフランスのものだ。TGVの自販機も懐かしい。スペインの長距離列車の駅はマドリードバルセロナしか行っていないが、やはり雰囲気がやや違う。わたしは嬉しくなってRelayでサンドイッチを買って食べた。

さて、ボルドーである。わたしはこの街に一週間だけフランス語の勉強のために逗留した。要するに1ヶ月という長いスパンの旅をするための一種のアリバイ作りだ。たかが一週間、されど一週間。この間にかなりフランス語がわかるようになったと自負している。何もものすごく上達したわけじゃない。だが、フランス語を聞く耳が不完全ながらではあるができたし、フランス語を話す勇気も生まれた。

一週間という長いスパンの話を一つ一つ語るのはよそう。だから、出会った人々の主眼を置いて、ボルドーでの日々を紹介したい。

 

  1. ルネ家の人々

ボルドー駅まで迎えに来てくれたのは、宿泊先のルネ家のかっこいいおばあさんだった。実はこの人とはこの時しかあっていない。

電話ができないため少々苦労しながら駅で合流すると、おばあさんはわたしを赤い車に乗せ、ボルドーの街を駆け抜けた。ボルドーはびっくりするほど暑かった。しかも蒸している。海が近いからか、それはわからないが、ものすごかった。

「暑いですね」とカタコトのフランス語で言うと、

「ええ、毎年よ」とおばあさんは言った。ボルドーは特に暑いという。

車中で、ボルドーの話を聞いた。ボルドーの街は、白に近いベージュの建物が並び、屋根は青っぽい。18世紀ごろに建てられたものだという。ここで感動したのは、フランス人とフランス語できちんと会話したこともないのに、相手の言っていることがわかるということだった。こいつは幸先がいい。

ところどころ、質問を挟んでみた。

「あれはガンベッタ広場よ」

ガンベッタっていろんなとこで見るんですけど、誰ですか?イタリア人?」

「フランス人だと思うわよ。政治家よ」

などなど。ちなみにガンベッタは、普仏戦争ナポレオン三世フランス帝国が崩壊した後、第三共和制を立ち上げたメンバーのうちの一人である。

家の鍵の開け方等を教わり、一週間の我が家に入った。わたしはおばあさんに礼を言い、部屋で荷を解いた。と言ってもリュックひとつである。ベッドはダブルででかいが、ヨーロッパに来てからダブルに一人ということは結構あった。ふと、ベッドサイドの小さな机に目をやると、いくつかの本があって、やれヴィトゲンシュタインだ、やれロランバルトだと、二十世紀の有名な哲学者の名前の書かれた本がたくさんあった。ここのホストファミリーはどうやら哲学好きなようだ。

そのとき、ノックがあった。どうぞと言って開けると、ブロンドの、ちょっとリリージェームズ似の女性がいた。ドイツから来たもう一人のホームステイをしている人だ。

「英語喋れる?」と彼女は尋ねた。

「うん、少しなら」と答えると、

「よかった!わたしフランス語はダメなの」と言う。話を聞いてみると、彼女はしばらくしてからトゥールーズでフランス語の勉強をしに行くのだと言う。こうして、わたしの一週間に及ぶ、学校ではフランス語、家では英語、ラインの類は日本語、という超絶ハードなトリリンガル生活が始まるわけである。

その日は、そのドイツ人の女性にボルドーの街を紹介してもらった。酷暑の中街を二人でほっつき歩き、ここが市庁舎でここが教会だ、といろいろと解説を受けた。教会の前のテラスでオレンジジュースを飲んでいたとき、フランス人のウェイターって奴は呼び止めてもこないよねという話で盛り上がった。ドイツ人も日本人もその辺りは似ているので、心の奥底にちょっとした不満を抱えていたわけだ。

さて、なんと、夕食はないというので(ホストファミリーは実はヴァカンス中だったのだ。最初は驚いたが、あれはあれでサバイバル力がついてよかったと思う)、その女性とピザ屋に入った。彼女はジャーナリストで、美術関連の記事を書いているらしい。出身はドイツ西部のエッセン、世界史好きにはルール工業地帯といえば1発でわかる。わたしが六歳の時に住んでいたのはドイツ東部のベルリンだから、エッセンには縁もゆかりもない。しかし話を聞いて驚いたのは、ベルリン名物(少なくともベルリーナー(ベルリンっ子)はそう思っているが)のソーセージのカレー粉ケチャップ和え(キューリーヴルスト)がエッセンにもあり、なんとそれはソーセージの中にケチャップとカレー粉が内蔵されているというのだ。

「それっておいしいの?」と無粋なことを聞くと、

「おいしいわ」と力説する。おそらく美味しいのだろう。だが実を言うと、似たような形状のものをカンボジアで食べたことがあり、それが異常にまずかったもので、それをどうしても思い出してしまう。それはアンコールワット観光をしている最中に、寺の敷地内にあるスタンドで買ったホットドッグだった。やけにケチャップ感のすごいぶにゅっとしたものがソーセージに詰め込まれており、そのソーセージもまた絶妙にまずい。もちろん、世界に冠たるドイツ(Deutschland über alles)にそんなひどいソーセージを出す店はあるまいが。

このジャーナリストのお姉さんとは、ホストファミリーが家を空けがちだったため、絡みが多かった。ある日、ホストファミリーが帰ってくると思いきや、帰ってこなかったというハプニングが起きた時、たまたま家の近くのスーパーでこのジャーナリストとあったので、

「じゃあ、寿司でも作ろうか」と、なぜか手巻き寿司パーティを敢行した。「OISHI(美味しい)」というメーカーのサトウのごはん的な酢飯を買い、サーモンと醤油を買った。そして一応作り始めたのだが酢飯のクオリティーがひどい。というのも、どう見ても酢飯ではなく、酸っぱいおはぎなのである。何がどうなるとあんな状態になるのかわかりかねるが、すごかった。だがサーモンのクオリティーは良い。とはいえ生物なので若干心配していたら、

「保証しているから大丈夫よ」とドイツ人は言う。この時、ああ、この人はドイツ人だなと思った。

ホストマザーのリリーはポールとアヌクという二人の子供と三人暮らしである。ポールとはサッカーなんだかドッジボールなんだかよくわからないことを家の中で遊んだものだ。しかし家の中ということもあり、どうにも心配でならない。ものを壊しちゃいけないなと、自制しつつのプレーである。それと、ポールとはセッションした思い出もある。わたしの部屋におもちゃのギターを持ってきたポール(念のために言うが、ベースではないし、左利きでもない)は何やら歌い始めた。わたしはその時(今もだけど)ギターを弾けなかったので、太鼓を叩いた。何かわたしも歌える歌はないか、と思い、

アヴィニョンの橋で、って歌知ってる?」と聞くと、案の定知っていた。フランス語、英語、日本語で披露したが、我らがポール師匠はその曲に特段興味があるわけではなかった。

アヌクとは日本から持ってきただるま落としで遊んだ。私もフランス語が必ずしもできるわけではないので、「やってみな」「ほら、見て」「あー、残念」くらいの単語でやりとりしたわけだが、案外ウケがいい。

ボルドーの旅も終わりに近づいた頃、アヌクとポール師匠のために、カタカナで書いた二人の名前をプレゼントした。するとアヌク先生、なかなかの目の付け所で、

「文字数が足りない!Anoukだと四文字なのに、「アヌク」だと三文字だよ、変だよー」と怪訝そうな顔だ。まだ小さい子供だというのに、音節文字と表音文字の違いに気づくとは筋がいいじゃねえか。わたしは、

「変だろ?でもそれが日本の文字ってやつなのさ」と言った。アヌク先生は未だ多文化主義をご理解いただけていないようで、変だよと繰り返していた。

さて、我らがホストマザーリリーの話をしよう。彼女はカメラマンである。私がボルドーに着いた日はバカンス中で、途中で帰ってきた。私はギリギリでホームステイをお願いしたわけだし、泊まるところがあるだけで満足だった。それに、リリーはとてもいい人だった。

彼女は哲学が好きで、特に20世紀フランスのロラン・バルトヴィトゲンシュタインが好きだという。私はベルクソンが好きだというと、いいと思うと言ってくれたが多分彼女の一押しではないのだろう。ボルドーを選んだ一つの理由が哲学者でエッセイストのモンテーニュが市長を務めていた街だったことを話すと、リリーの学校がモンテーニュ高校だったと教えてくれた。

また彼女は旅人でもあった。かつてインドやヴェトナムも訪れたことがあるという。ヴェトナムは南部の方しか行ってないというので、ハノイの話や、南北鉄道の話をした。

「インドにも興味あるんだ」と言うと、

「いいところよ。でも最初なら北よりも南がいいと思うわ。北はどこに行ってもお金をせびられるんだ」と彼女は答えた。どこにもそう言うのはあるらしい。イタリアやフランスも北より南の方が人が暖かいらしいし、ヴェトナムはその逆だと思う。

 

一度、リリーたちと夕食をゆっくり食べる機会があった。ポール師匠とアヌク先生のおかげもあって賑やかだったが、まず驚いたのは、フランス人は本当にコースみたいな流れで夕食を食べると言うことだ。ワンプレート主義のドイツ人といろいろな皿散乱主義の日本人二人の時はありえないような配膳だった。まず、パテとパンが置かれ、食べ始める。パテがなくなると、なぜかピザが出てくる。そして最後にはムースのようなデザートである。

そして、大人の時間だ。ヨーロッパの家庭には大人の時間がある。子供はもう8時くらいにベッドルームに引き下がり、大人は大人の会話を楽しむ。大人として初めてヨーロッパの家庭に来たので、初めての大人の時間体験だった。

「台湾人の子がフランスでは食事の時間帯以外にレストランがやってないことにびっくりしてたんだけど、日本でもそうなの?」

「うん、そうだね。でも、準備中でやってないとこもあるよ」

などと言ったどうでも良いところから、なぜか女性の結婚適齢期という概念の話まで出て来たわけだが、ただでさえ間延びしているかの記事がさらに間延びするのでやめておこう。

一つ書いておくなら、トゥールーズの話があった。我らがドイツ人の同居人がトゥールーズに留学するということについて、リリーが猛反対したのだ。

トゥールーズは、どこにでもマリファナの匂いがしていて危険よ」というのだ。正直タバコの匂いの違いすらわからない私は気づかなかったが、そうらしい。実は日本でその話をしたら、確かにトゥールーズマリファナくさいという人もいたので事実なのだろう。とは言っても、私に取ってのトゥールーズハンバーガーショップのおばちゃんの街なのである。

「僕も行ったことあるけど、一度見てみて決めたらいいんじゃないかな」というゆるいアドバイスだけした。はてさてあのジャーナリストは今はトゥールーズにいるのか、ボルドーに残っているのか。それは神のみぞ知る。

 

2. フランス語教室の人々

フランス語教室の授業ははっきり行ってハードである。とにかく先生の言葉がはやい。まず聞き取るので精一杯だし、話すのも大変だ。しかしあれを超えたからこそ、少しだけフランス語が聞き取れるようになったし、その後パリ在住のドイツ時代の知り合いの家にお世話になった時にフランス語で会話ができた。

フランス語の授業は、カナダで行われた「ビーバーの生態」「メープルシロップについて」などといったのほほんとしたものではない。いきなり、「お金で幸せは買えるのか?」という哲学カフェにやって来たかと紛うほどの内容だった。さらに、

「1960年代に何がありましたか?」

「はい!大衆の消費社会化です」という超高度なやりとりまで行われる。聞いていて理解できないことはないが、話すとなると骨が折れる。

さらに大変なのは訛りである。私だって日本語訛りのフランス語には違いないが、どうしてもアフリカ系のフランス語が聞き取れないのだ。それもモーリタニア出身のアラサンは、哲学専攻と来ていて、一緒に話すことも多かった。だが私には彼のいうことがわからず、申し訳ない気分になりながら、「ごめんもう一回」と繰り返したのを覚えている。一度、プラトンとカントが好きだというアラサンに、私はプラトンとカントが嫌いだと伝えねばならない時は骨が折れた。だがそれでも粘り強く私と会話をしてくれたアラサンはありがたい存在だった。

語学学校となると、大学の機関ではないので仕事のために語学を学ぶ人がたくさんいた。ブラジル、スペイン、スロバキアレバノンモーリタニア、ハワイといろいろなところから来ていて、もちろん日本人もいた。一週間しかいない、しかも無精髭を生やした日焼けした謎の日本人の登場に驚いたかもしれないと思い、挨拶をしてみると、

「あ!日本人でしたか」とお決まりの返しが返ってきた。私はなぜだか日本人でない設定になることが多い。

「全然聞き取れないですよね」と彼女が言った時は少々気が楽になった。やはり先生の喋り方は速いのである。彼女曰く、日本人は英語同様フランス語の文法とボキャブラリー、読解だけ習うので、やたらと高いクラスに付けられるが、いざ来てみるとなかなかついて行けないのだという。理解できる話だが、それなら頑張って話すようにしなければならないだろう。

だが、フランス語の授業の構成にはそれを阻止してしまう構造がある。フランスの語学学校では、緊張をほぐしたいのか、文法ミスなどをするとそれを馬鹿にするのである。それをやられるとこちらも気が削がれるからやめてほしいのだが…。フランスの他の地域で語学学校に通っていた私の友人もからかわれたというからフランス人気質というヤツなのかもしれない。

 

3. ボルドーの街

そんなこんなで頭も心も疲れ果て、さらには十日間でフランス東部とスペイン北部を回るというクレイジーなことをしてしまったために体も疲れ果て、ボルドーの街を生気のない屍のように彷徨ったものである。ボルドーの街は暑くて蚊もいたわけだが、それでも美しい街だった。午後たまたま入った教会で市民向けコンサートをやっていて、疲れた心にパワーをチャージしてくれたのを覚えている。

それとボルドーといえば謎の像である。私は密かにボルドーまもるくんと呼んでいたが、正体はわからずじまい。あれだけは未だに引っかかっているが、一人色々なところに佇むまもるくんは、一人旅の私にとって親近感を持って感じられた。

昼ごはんはケバブ。同じ店を何回か使ったため顔も覚えてくれた。ケバブを頼むと、「〇〇ソースね」と前選んだやつを覚えていてくれて少し嬉しかった。とは言っても、そのソースに思い入れがあるわけでもない。実は聞き取れたヤツがそれしかなかったため、それにしたというだけである。

さてそのケバブ屋で日本人と知り合った。一人で明らかに日本人っぽい人がケバブを食べていたものだから、特に理由はないが話しかけてみたのだ。冗談でフランス語で話しかけると、ずっとフランス語になりそうだったので、「あ、日本語で大丈夫ですよ」と言って、なぜか公園のベンチで3時間ほど話した。十日間とはいえ、話し相手もそんなにいたわけではない。それも日本語となるとさっぱりだ。久々の日本語だった。

彼女は外国語大学の学生で、私より一つ年上である。どうやら大学の何かで半年間ボルドーにいるらしい。そして驚くことに、今週日本に帰るらしい。そのあと一度たまたま公園であって喋ったりもした。旅とは面白いもので、色々な人に会うが、別れればそれで終わりである。それを寂しいと思うか、面白いことだと思うかは個人の趣味趣向によるが、私は結構好きだ。ホラもふけるし、世界も広がる。

ボルドーにやって来た当初は、一週間も同じところにいるなど信じられなかったが、一度居着いてしまうと名残惜しい。身も心もそして脳も疲れた街だったが、ボルドーは私の心で生き続ける。

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11都市目:イルン/アンダイエ(2)〜Across the border〜

朝起きて、別室のシャワールームで顔を洗い、目を覚ました。パッキングをして、外に出ようとすると、鍵が硬く開かない。30分は格闘しただろう。なんとかしてドアをこじ開け、外に出た。代金は払ってあるので、声の高い女主人に声だけかけてホテルを立った。

「Agur!(さようなら!)」私はバスク語で言った。女主人もキンキン声でAgurと言っていた。

今日最初の任務は、朝食を食べること。私はついた時にうろちょろしていた広場のあたりをうろついた。すると、朝食を食わせるバルが何軒か並んでいた。

そのうちの一軒で、オレンジジュースとクロワッサンを食べた。あいも変わらずオレンジジュースは手絞り、クロワッサンは甘かった。オレンジジュースはビルボと違って冷えていて美味しい。食事は、イルンの圧倒的勝利。もはや住んでもいいレヴェルである。

バルのテレビではニュースが流れていた。テロのあったバルセロナに首相だけでなく国王が来ていた。案外仲良くやれているとその時は思った。裏では、独立に歯止めを効かせるためのテロの政治利用だなどと言われていることをまだ知らなかったからだ。

勘定を払った。朝食は大抵4ユーロ前後。スペインの物価と時間の感覚に慣れて来た。これでフランスで生きていけるのだろうかとふと不安になる。明日にはフランスだ。ついこの前までいた国だというのに、なぜだか、フランスが得体の知れぬ国のような気持ちになってくる。

 

それから、すぐに国境へと通じる道を歩き始めた。どれくらい時間がかかるのかわからなかったからだ。道は長いが、曲がりくねってはいなかった。真っ直ぐだった。だが高低差がある。初めは下り坂、途中で登りになる。

少なくとも10kg以上の荷物を担いでいたので、休み休み歩いた。それに、スペインにお別れを言うのだから、それくらいやったらゆったり歩かねば。スペインはハマるとよく聞くが、本当にハマる。麻薬より依存性がある。そんな国とのお別れだ。

国境へと通じる道は特別なものではなく、郊外にありがちな道だ。公園には人がまばらで、時折暇を持て余した老人が犬を連れてやってきたり、子供達が遊んだりしている。ベンチに座って空を見つめると、雲ひとつない快晴である。そういえば、カナダのモントリオールに行った時、サンルイ公園で空を眺めたことがあった。あの時、じっくりする時間の良さを感じたのを覚えている。

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よいしょとバックパックを背負い直し、道をまた歩き始めた。暖かかった空気はだんだん暑くなる。私は昨日思い浮かべた異邦人の歌の続きを思い出そうとした。

市場へ行く人の波に 身体を預け

石畳の街角を ゆらゆらと彷徨う

祈りの声 蹄の音 歌うようなざわめき

わたしを置き去りに過ぎて行く 白い朝

時間旅行が 心の傷を

なぜかしら 埋めていく不思議な道

さよならだけの手紙 迷い続けて書き

あとは悲しみを持て余す 異邦人

この道を幾人の人が歩いたのだろう。巡礼者か、兵隊か、商人か。今ではよくわからない。今あるのはただの郊外の道だ。国境もゆるく、平和な道だ。

 

しばらく歩くと大きな橋が現れた。その橋には名前らしきものは見当たらない。サイクリングする人や、歩く人が何人かいるだけだ。だが紛れもなくその橋は、スペインとフランスの国境を越える橋だった。

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深呼吸を一つして、橋を渡った。橋は川を跨いでいる。川は静かに流れている。向こうには緑の山が見えている。このような穏やかな自然に、人間は国と国と線を引いた。どちらがスペインでどちらがフランスかなど、この川は知らない。だが私たち人間にとっては大きな川だ。この川はを超えて仕舞えば、私はスペインに別れをいうことになる。

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橋を渡っても、大して変化はなかった。シェンゲン条約とはそういうものだ。国の役所があるわけでも、閻魔大王の尋問があるわけでもない。変わったといえば、標識にある言葉がフランス語になったことくらいである。だがそんな些細な変化でも、その文字はフランスの面影を感じさせた。

ふと振り返って見た。すると、赤い屋根に白い漆喰の建物がたくさん並んでいる。あそこが、スペインである。そして今私はフランスにいる。私は心の中で呟いた。

「Adios, gracias」と。

今回の一人旅は、ここで終わった。私はふーっと息を吐いて、何もないガタガタの道を歩いてアンダイエ駅まで向かうことにした。

11都市目:イルン(1)〜異邦人、あるいは旅の終わり〜

マドリードからトレドへ向かうバスとは、明らかに違う風景が外に広がっている。周りは緑、緑、緑。山も緑。ところどころにある建物は、白い漆喰で塗られ、屋根はオレンジ色だ。まさにバスク地方の道だ。日本人にとっては、マドリード付近の荒地が広がる風景よりも、道の狭さも相まって懐かしさすら感じさせる風景である。

バスはまず、美食の町にして、最近ではリゾート地として人気を出し始めたサン・セバスティアン(ドノスティア)で停車した。昨日だったか、ここでは花火大会があったはずだ。テロがあるまでは、ここに行くつもりだった。小綺麗な街並みで、太陽が輝いている。ここも見てみたい、というか、ここのバルでも飲み食いしたいが、ビルボは良い町だった。またいつか来れる時に行こうではないか。

ほとんどの客がドノスティアで下車した。バスはほぼ空っぽ状態で発車し、数分で目的地イルンの町に到着した。

 

イルンのバス停は純然たる田舎だった。イルン駅があるが、どこか裏寂れていて、街の中心がどこかもわからない。だからとりあえず、バスを降りる人々の行く方へと向かった。一本道があり、周りにはオレンジと白の建物だ。だが、村というよりも町らしく、建物の背は高くてぎっしり詰まっている。それでも地方都市の雰囲気は感じる。

徐々に徐々に住宅以外の建物が増えてくる。たぶん街の中心は近づいているのだ。だが今までは大きな街にいたので、中心部の雰囲気を感じられない。まだ土曜だというのに、閑散としている。ビルボに着いた時、大都会ではないなと思ったが、イルンを歩けば、ビルボは都会だと気付かされる。

この街は暖かかった。私はコートを脱ぎ、腰に巻いた。しばらく歩くと人もまばらに出てくる。町の看板はバスク語スペイン語の二言語併記、まだここもエウシカル・エリア(バスク国)である。しかし、ビルボと確実に違うのは、何食わぬ顔で看板に「あちらはフランス」と書いてあるのだ。そう、ここはフランスとの国境線の引かれた町である。スペイン側はイルン、フランス側はアンダイエという。

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しばらく中心街を歩くと、大きな広場が出てきた。といっても、バルセロナのレイアール広場やマドリードのプエルタデルソル、ビルボの旧広場のような真四角の厳しいものではなく、単純に広い価格が空いてしまったという雰囲気だ。私はそこにあったベンチに座った。この街にはベンチが多い。陽が傾き始めていた。私は終わりを悟った。遥かなる旅は終わった。まだ本当の終わりではないが、ひとり旅は一区切りつく。感慨もあったが、冷静でもあった。明日からは、ボルドーで一週間フランス語の勉強をしつつ、体の休息を取ろう。頭は使うだろうけど、体には休息が必要だ。なにせ10kgを担いでここまできてしまったのだから。

広場にはツーリストインフォメーションがあった。こんなにも簡単にツーリストインフォメーションが見つかったのはアヴィニョン以来だ。ホテルを取ってしまおう。フランスへの行き方も知りたい。私は立ち上がりリュックを担いだ。

「Kaixo! ¿Hablá ingres?(こんにちは、英語話せますか?)」ツーリストインフォメーションなんだから英語が話せるのはわかるが一応エチケットだ。

「Lo siento, no puedo(ごめんなさい、できないの)」とサバサバした感じのおばさんが言った。珍しい。まあなんとかなる、ケ・セラ・セラだ。

「OK...¿Hay una mapa de Irún?(イルンの地図ありますか?)」

「Si, vale.(もちろんよ)」とおばさんは地図を出してきて開いて見せた。

「Gracias. ¿Dondé está las pensiones?(ペンシオンはどこにありますか?)」

「Hoteles, hostales y pensiones son aquí(ホテルやオスタル、ペンシオンはこの辺にありますよ)」おばさんはそう言って、ペンで場所をなぞって見せた。

「Vale, gracias...y...dondé está...(わかりました、ありがとうございます。それで…どこに…)」まずい、フランスという言葉を忘れた。

「¿San Diago de Compostela?(サンディアゴデコンポステーラ?)」とおばあさんが尋ねた。薄々気づいてはいたが、この街はフランスからのサンディアゴデコンポステーラの巡礼路にあたるようだ。だが、ちがう、私は巡礼者ではない。

「No. Francia(いえ、フランスへの行き方を教えてください)」思い出した。

「¡Ah, Francia! Esto, aquí, y eso Hendaya, Francia(ああ、フランスね。ここが現在地で、これがエンダイヤ、フランスよ)」おばさんはそう言って指差した。それなりに遠い。バスを使おうかと思っていたが、そういうバスはなさそうだ。それなら…歩いてしまおうか。

 

礼を言って、ツーリストインフォメーションを出た。ホテルがあると言われた場所を探すためである。歩いていると、左の方向に大きめの道があり、坂を下って向こうの方まで伸びていた。どうやら、その先に、フランスはあった。よし、歩こう。明日になったら歩こう。国境といっても、この前断念したヴェトナムーカンボジア国境とは話が違う。シェンゲン条約があるのでパスポートチェックすらない。だから、歩いてやろうではないか。なんとなく不思議な感覚だった。

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ホテル街を探したが、どうにもこうにもみつからない。歩けば歩くほど、この街の暮らしに触れ、良いところなのだな、住んでみたいなという気分になったが、肝心のホテルがなかった。

日も暮れそうになっていて、これは野宿パターンかと思っている時に、四十代くらいの恰幅のいい男が通りかかった。目があったので、

「¡Holà! ¿Hablá Ingrés?(すみません、英語話せますか?)」と話しかけた。ツーリストインフォメーションで英語が通じないんだ。無理だろう、と思ってはいた。答えは案の定、

「No, lo siento(いや、ごめんね)」である。

わたしはもう強引に地図を広げ、ホテルがあると記された場所をさしながら、

「¿Dondé aquí? ¿Dondé está pensiones?(これはどこですか?ペンシオンはどこにありますか?)」と尋ねた。

男は地図をじーっと見ると、着いて来な、と手招きをした。私は大柄なその男性の行く道をついていった。

「¿De dondé ères?(どこから来たんだい?)」と男は尋ねた。

「Soy de Japón(日本です)」私は語学教材のレッスン1のようなフレーズで答えた。そのとき、なぜかふと、どうして過去の人が英語を話せないのかがわかった。そうか、だって、この町は英語じゃなくて…

「Vous parlez français?(フランス語話せますか?)」私は尋ねた。

「Oui, un peu(少しならね)」やはり。

「Je cherche l'hôtel ou la pension pour dormir ce soir. (今晩泊まるためのオスタルかペンシオンを探してるんです)」と私は言った。

「D'accord, mais il n'y a pas d'hôtels ni de pensions d'ici(けどこの辺にはないよ)」と男はいう。なんと。話を聞けば私は道を間違えており、駅の方にホテル街があるらしい。やらかしたようだ。

あるいていると、向こうの方で食事の匂いがした。男はそこを指差し、

「Voilà la fête(ほら、祭りをやってるんだ)」と言う。さすが同じバスク地方。ここにもグランセマナはあるのだ。

「Ah, oui. En effet, j'ai vu une fête à Bilbao aussi. J'étais à Bilbao avant d'Irún(ほんとだ。じつはビルバオでも祭りを見ましたよ。イルンの前はビルバオにいたんです)」

「C'est vrai? Très bien. Pourquoi tu viens ici?(本当かい?いいね。どうしているんに来たんだい?)」

「Car j'irai en France demain, j'étudierai français au Bordeaux.(明日フランスに行くからです。ボルドーでフランス語を勉強するつもりです)」私は答えた。明日にはボルドーにある。変な気分だ。だがもうこれは終わるのだ。

先ほどまで歩いていた道までやって来て、男は駅の方を指して、そこにホテルがあると教えてくれた。

「¡Buen viaje!(良い旅を!)」と男はいった。

「¡Muchas gracias!(本当にありがとうございました!)」私はそう言って、駅の方に引き返した。

 

空はオレンジがかり、道には人影も増えて来た。多分さっきまではシエスタだったのだ。

最初に入ったペンシオンで部屋はありますかと尋ねると、あるらしい。昨日の経験上、とってもホッとしてしまった。しかし値段を聞くと80ユーロだという。少し高い。安くならないかと聞いたが、安くしてくれるかはなさそうだ。私は他を見て見る、とその場を離れた。慣れたもんだなぁと我ながら思った。

次に行ったのは裏にある、テラス席のついた巨大なホテルだった。どうやら巡礼者ようである。60ユーロという。ちと高いが、面倒になってそこに泊まることにした。

「二つベッドがあって、シャワーは別室だけど、使うのはあなただけですよ」とやけに高い声のフロントのおばさんが言った。

「わかりました」私はそういい、言われたとおり二階に行った。

部屋はやけに広かった。2人用のドミトリーという感じだ。しかし1人しかいない。そしてドアの鍵がやけに固かった。実は帰りの日に閉じ込められかけたというのは秘密である。

窓の外には線路があった。その線路はフランスに通じているようだった。線路の向こう側には、小さなバルがあって、地元のおっちゃんが集まっていた。ここはそう、宿場町なのだ。巡礼路が通り、国境線が敷かれた、まさに宿場町だった。雰囲気は東京の多摩地区にも似ている。多摩は私の本拠地なので、この町はやけに親近感がわく。私は部屋で休んだり、所用を済ませたりして、七時くらいに夕飯を食べに外に出ることにした。窓の外の日は傾き、ノスタルジックな風が吹いていた。

 

 

 「バルはあっちの方にあります。でも、スペインの習慣で大体は20時からしかやっていませんよ」とキンキン声の女主人が言った。

「ええ、わかりました。アグール」私は言った。時刻は7時。スペインの風習に苦言を呈する人が多いのだろうか。だが私はもう分かっている。散歩をしたいので、織り込み済みである。

線路の上を走る高架橋に登り、メインストリートへ。向かうは先ほど道を教えてくれたおっさんが指差して「祭りだよ」と言った場所だ。ここまで来たら祭りに行くしかない。あのおっさんもいるかもしれない。

 

そこは公園だった。いい雰囲気だ。子供が遊具で遊び、母親がママ友と談笑し、おじいさんおばあさんがベンチに座る。イルンは生活感であふれている。

公園は二段構造で、入ると木が生い茂っているところに出て、階段で降りると、遊具があるコーナーになる。私はしばらく木のコーナーでくつろいで、下に降りた。下の方でどんちゃん騒ぎの音が聞こえたからである。

祭はビルバオよりも小規模だ。だが主体はやはり若者で、道路を囲んで車にひゅうひゅうと口笛を送ったり、楽器を演奏したりしていた。楽しそうだが、なんとなく、デンジャラスな雰囲気を感じた。マイルドヤンキーのお祭りという感じで、異邦人を受け入れてくれる感じはしない。だから私は、若者はねぇと怪訝そうに見守る老人たちとともに、遠巻きに見ていた。

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しばらくして、私は引き返した。そろそろ店を探そう。空もますますオレンジ色になって行く。

ビルボよりは暖かい風に吹かれながら、ホテルがあるブロックの反対側を歩いた。子供づれがたくさんいて、町中にあるベンチで団欒がある。老人たちも腰を落ち着けている。この街の活気はどうやらこの時間帯から生まれてくるみたいだ。大きな広場のそばにあるバルには大勢の大人が詰めかけていた。広場では子供たちがサッカーをしていた。私はベンチに腰掛け、しばらくそのサッカー「イルンリーグ」の行方を見守った。

ふと、私は「異邦人」というタイトルの歌を思い出した。

子供たちが空に向かい 両手を広げ

鳥や雲や夢までも 掴もうとしている

その姿は 昨日までの 何も知らない私

あなたに この指が届くと信じていた

空と大地が 触れ合う彼方

過去からの 旅びとを 呼んでる道

あなたにとって私 ただの通りすがり

ちょっと 振り向いて みただけの

異邦人

コートを使わないサッカーは懐かしかった。よく小学生の時にやったものだ。子供達の影は長く伸びる。ノスタルジックな夕日がやけにさっぱりとした気持ちを呼び寄せる。

私はもう少し歩こうと、一本入った道の坂を降りてみた。バルが並んでいた。しかし、しばらくすると線路に行き着いた。歩くのも大概にしよう。歩くのは私にとって酒のようなもので、溺れれば抜けられなくなる。

 

入ったバルは、「サッカースタジアム」の目の前だった。一番客入りが良かったのだ。

いつまでたっても慣れないもので、恐る恐るバルに入り、カウンターで待った。しかし、私がアジア人の若造であるためか、カウンターのおじさん2人は私の方に目を向けようともしない。だから私は声をかけ、ビールを頼んだ。皿が配られれば、ゲームスタートだ。

カウンターのおじさんに食べたいものを指差し注文し、もらった。手始めはサーモンだ。食べてみるとすごくうまい。どうやらイルンは良いバルの街のようだ。

地元の悪じじトリオと見える三人組がやって来て、ワイン片手に何やら話している。絡まれたかったが、相手は絡んでこなかった。私はビールを飲み、何皿かピンチョスを食らった。どれも最高に美味かった。私は会計を済ませて外に出た。何品食べたかは自己申告だった。

もう一軒行こうかと思ったが、なぜだか力が出ず、腹五分目くらいな胃袋を抱えながら、少し歩いた。国境へと通じる道は夕日に輝き、美しかった。それからホテルへと戻った。

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やはり旅は一度終わろうとしていた。しかしこの旅は、いつもとは違う。別の形に姿を変えながら私の中を生きる。進化する。創造され続ける。だから、明日からは全く別のことが待ち受けているのだ。明日からはそう、異邦人としての旅ではなく、住む旅が始まる。そしてその前に、我が人生初となる、徒歩での国境越えである。そう思うと、胸が奮い立った。

10都市目:ビルボ(4)〜グランセマナ〜

酒には強いほうなのだが、翌朝に響くことが多い。起きられないというのではない。起きてしまうのだ。2時間毎くらいに起きる。

三軒のバルをはしごし、ジェニファーやムスタファと飲んで、その時は全く平気だったが、起きてみると5時くらいだ。帰って来たのは2時半くらいで、寝たのは3時くらいだろう。とりあえず、とシャワーを浴び、私は睡眠時間確保のためにもう一度寝た。次に起きたのは、七時半くらいだった。荷物を詰めて、階下に降りた。この街に残るにせよ、計画通りフランスの方へ行くにせよ、このホテルは出ないといけない。

「Egun on!(おはよがんす)」と昨日とは違うフロントのお姉さんに言った。思いがけぬバスク語に驚いていたが、笑顔でKaixo!と返してくれた。

「チェックアウトをお願いします」と私は言った。今回は部屋番号も完璧に覚えていたのでことはスムーズに進んだ。とりあえず、重い荷物を預かっていてもらいたかったので、

「荷物を預かっていてもらえませんか?」と尋ねた。

「いいですよ。ちょっとお待ちください」お姉さんは階段の下にある柵を開けた。まるで第一巻の時のハリー・ポッターの部屋みたいな場所に荷物置き場がある。

「Gracias(ありがとう)」私は荷物を奥の方においた。

「良い1日を」お姉さんはにっこり笑った。

「Eskerrik asko, agur!(ありがとなし、したっけ!)」私はバスク語で言って、外に出た。相変わらず涼しいが、どことなく湿っていて、2月のハノイを思わせる。

 

昨日の騒ぎが嘘のように、静かである。まずは朝食だ。バルで食べられるのだろうか。私は昨日行った、バルがたくさんある界隈に来たが、オープンしている店はなかった。朝ごはんをどうしよう、とうろちょろしていると、一軒、赤い色をしたバルが開いていたので、入ることにした。朝からピンチョス(小皿のつまみ)かと思ったが、カウンターの上に置かれているのは普通のクロワッサンだった。

「Egun on!(おはよがんす)」とバルテンダーにいい、カフェコンレチェ(ミルクコーヒー)とクロワッサンを頼んだ。クロワッサンには甘いコーティングがしてある。スペイン流の朝食だ。マドリードのバスターミナルで朝食を食った時もそうだったのだが、フォークとナイフが付いてきた。かじるのは行儀が悪いということか。にしてもクロワッサンにフォークはおかしい。

「スーモ・デ・ナランハをくれないか?」と、私の後でやってきたおじいさんが言った。スーモ・デ・ナランハとはオレンジジュースのことだ。カウンターにいた若い女性がオレンジを一つとると、オレンジ絞り器に入れた。それを見ていたら、なんだか無性にオレンジジュースを飲みなくなって切った。

「¡Perdon! zumo de naranja por favor(すみません、オレンジジュースください)」と頼むと、

「Vale(かしこまりました)」と女性店員がオレンジを絞り始めた。

しぼりたてとあって、微妙にぬるくて、酸っぱいジュースだったが、これがリアルなのだ。朝のバルはやけに空いている。ビルバオも、マドリードバルセロナ同様、朝が遅いのかもしれない。

 

バルを出て、湿った空気の中歩きながら、色々と考えた。この街にい続けるのかどうか、それを決めなければならなかった。さきほど、カールとアンナが泊まっているといるユースを探してみたが、スマートフォンの検索に引っかからない。昨日のことは実は夢だったのではないか。とまあ、そんな具合で、この街にとどまるという考えも、だんだん現実味のないものになってきた。夢であるはずはないが、今日も泊まるとなれば、明日ビルバオからボルドーまで駆け抜けねばならないので、それが少しばかり面倒であったということもある。

だから、とりあえず、地下鉄に乗ってバスターミナルに行くことにした。それで、バイヨンヌ行か、国境のイルン行があれば、そのバスに乗ろう。それから、ムスタファの働くピザ屋にでも寄って、この街を去ることを告げよう。

 

久々にバスターミナルのSFチックな地下鉄駅に降り立ち、地上に出た。ここにやってきた時、初めは何も知らず、ホテルもなかった。とにかくテロのありそうなマドリードやいろいろなものから逃げていた。ビルバオは良い街だったが、それでも去ろう。

バスターミナルでトイレを済ませた後、大手バス会社アルサの窓口に行った。

「すみません、バイヨンヌ行きはありますか?」と尋ねると、

「え?バイヨンヌ?あっちじゃない?」と言う。私は隣のユーロラインの窓口に行った。確かにスペイン国内を回るアルサよりも、ヨーロッパ全体のユーロラインの方が可能性がある。

バイヨンヌですか?ドノスティア(サン・セバスティアンバスク語バージョン)ならありますけど」と受付のおばさんは言う。

どうやらバイヨンヌに直でいくものはなさそうだ。私はバイヨンヌでなくてもいいと思った。フランス領に入れれば、明日はTGVボルドーに行けばいい。そう思案していて思いついた都市があった。それは、イルンである。

イルンはあまり有名ではないが、バスクの町の一つで、フランススペイン国境に接している。がんばれば、歩いてフランス領に入れる。ビルバオからも遠くないはずだ。私はアルサの受付に再び行き、

「イルン行きはありますか?」と尋ねた。係員の男性は少し面倒臭そうに、

「あっちの機械でやってくれ」と言った。

どうやら、バスク地方のバスは機械で買うらしい。私は列のできていた券売機に並び、14:25発のイルン行きのバスの片道切符をたったの8ユーロで買った。いよいよ、ビルバオを離れざるを得なくなった。

 

旧市街に戻った。誰かしらに別れを伝える義務があった。カールはサーフィンへ行き、ジェニファーはサンセバスティアンにいる。後の人は居場所がわからない。ムスタファだけはピザ屋にいることがわかる。

だから私は、ムスタファの言っていたサンタマリア通りにやってきたわけだが、どう探しても、ピザ屋が見つからない。それどころか、祭りの当日だからか、バルしか空いていない。なんだか、うまくいかない。もはや私にはツキは残っていないようだ。

道の上に横断幕が掲げてあった。黒い文字で、バスク語が書かれ、真ん中にバスク地方の地図が黒く描かれている。その地図の右と左から赤い矢印が描かれているところをみると、「独立だ!侵略を許すな!」的なことだろう。こちらも、やはり戦っているのだ(調べてみたところ、実は、「バスク政治犯、難民よ、我が家へおかえり(Euskal preso eta iheslariak, ETXERA」)。

行くあてもなく、旧市街をうろついた。昨日よりも賑わっている。さすが祭りの日である。昨日からいた操り人形にピアノを弾かせるパフォーマーも心なしかより楽しそうだ。所々に独立心が見えるものもあった。祭りの時はそれを押し出すのかもしれない。中には、英語で「バスク国へようこそ!私たちは今、独立したバスク共和国を立ち上げています」と書いた横断幕もあった。やはり、独立したいと言う思いは大きいようだ。私は間違っていた。ここは、ビルバオではなく、バスク語読みで、ビルボなのだ。いや、バスク語ではなく、エウスカラなのだ。さすがに、バスク自治州の州都は違う。もしサンセバスティアン(ドノスティア)に行っていたら、これをみることはなかっただろう。

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バスク国(Euskal Herria)の旗。赤はバスク人、緑はバスク人の民会の開かれたゲルニカのオークの木の緑、白十字カトリックバスク独立運動の合言葉は「7=1」.

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川沿いを歩くと、向こうに山が見えた。どこかでみたことがあるようで、どこでも出会ったことのない景色だった。ビルボは変な町だった。ヨーロッパだが、ヨーロッパと違う。スペインだがスペインの範囲気はない。それは紛れもなく、バスクなのだった。

そうだ、昨日の夜フランス人のおじさんが言っていたグッゲンハイム美術館に行こう。確かあれは川の向こう側にあったはずと思い出し、川を渡ってみたが、そのような建物はない。どうも、今日はよくない。

 

旧市街に引き返した。美術館とは逆方向に行っているようだったので、そちらへ向かって行くことにしたのだ。中心部では祭りの準備が始まっていて、模擬店のようなものがたくさん並んでいた。さすが現代アートの街だけあって、店の装飾もものすごい。印刷されたやつをそのまま張っている台湾人や「フランクフルト」とだけ無造作に書く日本人に見せてやりたい。立体的な人間の顔、なぜかソ連がモチーフのレーニンやトロツキーの似顔絵。まるで芸大の文化祭である。

そこには文化祭の前夜祭の雰囲気があった。みんなせっせと組み立て、みんなせっせと何かをしている。ちょっと切ない気持ちになった。高校の頃から、文化祭の時はいつも真ん中に立って何かをやってきた。何かを作るのが好きだった。それだけが胸の奥にある熱のやり場でもあった。私は楽しさと切なさが入り混じる祭りの場所を歩いた。

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川沿いの遊歩道は公園のようになっていた。時折謎の現代アートが現れる。みな、祭りに行くのだろう。私は祭りには参加できない。留まればいい。しかしそれができなかった。向こうの方に赤と緑の巨大な橋があった。バスク色だ。バスクの旗の色だ。そしてその橋の向こう側に、不思議な形の建物があった。まぎれもなく、それこそがグッゲンハイム美術館だった。

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橋は高かった。まるで展望台に登るがごとく階段をひたすら登って、橋の上にたどり着く。その橋を渡れば、美術館はすぐそばであった。橋からはビルボの街並みが一望できた。細い川が流れるその街は緑と白の町だった。

グッゲンハイム美術館現代アートの美術館だった。橋を降りると、すぐにこの美術館の象徴の一つである蜘蛛のアートが現れる。それは、東京の六本木にある蜘蛛のアートと全く同じものだ。世界中に考える人の像があるのと同じである。遊歩道に突然現れる蜘蛛の像の股の下を自転車が走ってくぐって行った。

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建物は近未来的で、目の前に銀色の球体が積み上げられたアートがある。その近くにはたくさんのパフォーマーがいた。それも含めて美術館なのかもしれない。ジャグリングする人、彫像のフリをする人、シャボン玉を作る人……。親子連れが楽しそうに歩き、カップルが笑いながら歩いている。気候は穏やかで、涼しい。

バスの時間もあって、美術館の中に入る時間はなかった。それでも、美術館の周りには十分たくさんの現代アートが並んでいて、目を楽しませてくれる。特に気に入ったのは銀の球が積み上がったアートだ。何を意味しているのか、それが美しいものなのか、そう言うことは全くわからないが、なんとなく惹きつけるものがあった。

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美術館の横の階段を上ると、ガイドブックで見たことのある巨大な猫が鎮座ましましていた。と言っても、「注文の多い料理店」のように人を喰らおうとしているのではないし、猫バスでもない。その猫は巨大な植木であり、植木をカットして猫の形にしているのだ。祭りの雰囲気とはまた違う、終始静かな雰囲気が流れていた。

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ふと目を横にやると、ツーリストインフォメーションがあった。昨日探しに探して見当たらなかったあのツーリストインフォメーションだ。くそ、ここまできていれば…とも思ったが、まあ、これが旅である。そしてこれが、人生でもあるわけだ。と、ちょっぴり軽薄なことを言いつつ、私はグッゲンハイム美術館の敷地を出て、新市街の方へと向かった。

 

新市街は相変わらず清潔感があった。やはりこの街、どの街とも違う。もちろん、どの街もそれぞれの特徴を持っている。だが、ビルボには形容しがたい何かがあった。

水を買いたかったが、そういう店はなさそうだった。そうこうするうちにロータリーにたどり着いた。昨日の午後、さまよい歩いた場所だ。向こうの方に緑の山がある。強いて言うなら、スイスに似ている。そろそろ潮時だ。ホテルでバックパックを受け取ろう。私は針路を旧市街に向けて歩き始めた。

旧市街に近づくにつれて、祭りの雰囲気が高まってくる。この街に未練がないわけではない。むしろ未練タラタラである。私はこの街をまだよく知らない。それに、昨日できた友達もいる。だけど、こう言う別れもまた旅なのだ。ビルボのグランセマナ(バスクの夏祭り)は今宵始まる。だが、私のグランセマナは終わったのだ。

橋を越えて、朝よりも一段と盛り上がりを見せる広場に腰掛けて、祭りの前の雰囲気を味わった。老若男女が楽しそうに歩いている。目の前にいるおじいさんは家族と喋りながら何かを食べている。祭りは始まる。

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「祭りをやるんですね」と私はホテルのフロントのお姉さんに言った。

「ええ。今日からですよ」フロントのお姉さんは答えた。

「実は今日ビルバオを離れなきゃいけないんです」

「えー? そうなんですか。じゃ、また別の機会に、ってことですね。本当に素晴らしいお祭りなんです」お姉さんは熱っぽく語る。

「いれたらいいんだけど」と私は言った。それは自分自身に対する言葉でもあったが、いる気はない部分がなんとなくあるために、空っぽの言葉でもあった。だが、いたいという気持ちはあった。やはり、明日ボルドーにたどり着くには、今日ビルボにいてはならないのだ。それに、このホテルは高すぎる。「荷物を受け取りに来ました」

お姉さんは頷いて、カウンターから出てきて、例の階段下の物置の中に入った。どうやらあれからたくさんの人が荷物を預けたようで、大量のスーツケースがあった。私のリュックサックは奥の方に入ってしまっていた。

「これですね?」というので、私は頷いた。お姉さんがリュックを持ち上げようとして、わっという表情をしたので、私は、

「重いですよね」と笑いながら言った。

「はい、驚きました。たぶんわたしより重いです」お姉さんはそう言うと笑った。結局私が責任をとってバックパックをとることにした。人間とは不思議なものだ。重いリュックもいつの間にやら、たいして重くも感じなくなるのだから。私はよっこらせとリュックを担いだ。

「それでは、Agur(したっけ:さようなら)!」

「Agur! 良い旅を」

「Eskerrik asko(ありがとなし)」

 

食事でもしておこうかと思ったが、祭りの前の昼とあってどのバルも超満員だった。それに、バスの時間も迫っている。今日の昼食は抜きだな、と思った。初めてではない。バルセロナを去るときも昼は抜きだった。私はバス停へと向かう地下鉄に乗り込んだ。プラットフォームは相変わらずSF調である。

バスターミナルにバスは来ておらず、私はベンチに腰掛け、隣で遊ぶアラブ人家族を眺めながら時間を過ごした。しばらくして、向こうの方のターミナルにバスがやってきた。表示を見ると、どうやらイルン行らしい。私の乗るバスだ。サンセバスティアン(ドノスティア)経由だそうだ。今頃、ジェニファーがいる町だ。私はリュックを預け、バスに乗り込んだ。ドイツ人の青年の団体がいる。隣に座った16くらいの青年に、

「¡Hola!(こんにちは)」と話しかけてみたら、ドイツ語訛りらしき「¡Hola!」が返ってきたので、多分ドイツ人だ。

しばらくするとバスが動き始めた。これより向かうはイルン。スペインの果て、フランスの果ての山の町である。そして、今回の旅の第一部の終焉を告げる町でもある。

10都市目:ビルボ(3)〜熱狂の街〜

ブラスバンドの音が聞こえてくる方へと歩いて行くと、そこには人だかりがあった。真ん中では四人はどのブラスバンドが楽器を弾き、1人の人が大きな黒い旗を振っている。最初は何事かと思ったが、そういえば祭りである。いわば、前夜祭といったところだろう。ちょっと見てホテルに戻ろうかと思い、私は前夜祭の様子を眺めていた。

何やら巨大なプラカップを持った人たちが、ブラバンと旗振りの人を囲んでいる。楽器は楽しげな、あまちゃん風の音楽を吹き、曲調が変わると、みんなグイーッとしゃがむ。しゃがんでない人を見かけると、楽しそうな表情のおばさんが、「ほら、ほら、しゃがんで!」という仕草をする。しかし観光客たちは冷たくもカメラを向けるばかり。しゃがむパートが終わると楽器もヒートアップして、高らかに楽しい音を吹き鳴らす。するとみんな飛び上がり、旗手も激しく旗をバタバタと降る。まさに熱狂。何が何だかわからないが、楽しい。私は傍観者でいるのがなんだか嫌になって、グーっとしゃがんだり、立ち上がったりしてみた。やはり一体感が違う。気分は明日も祭りに出る人だ。明日はもうフランスへと行くというのに…。

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しばらくすると、さらにあまちゃんの雰囲気を醸し出す歌が流れ始めた。周りの人たちは、有名な曲なのか、反応して、

「パラッパラッパラッパラッパラッパラッパレ!パーラーパラッパラッパレ!」と歌い出す。そして一斉に壁に集まり、力一杯の平手打ちで、ショーウィンドウのシャッターや壁を叩き始めた。みんな大爆笑。祭りの前夜祭でなければ迷惑行為。とにかく楽しい空気だけがそこを支配していた。それからも、そのフレーズになるとわーっと人々が歌いながら壁へと向かい、平手打ちを壁にしている。私も、壁をぱしんとやってみた。よくわからないが楽しいので、私は密かに「壁ダンス」と名付けた。

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しばらく壁ダンスで盛り上がったら、群衆は少しだけ動いた。それからまた「しゃがんでウェーイダンス」が始まる。そして壁ダンスが始まって、また動き出す。壁タンスの歌はいつの間にか、別の曲に変わっていた。

Avanti! Popolo, alla riscosa!

進め!人民たち、解放へ!

Bandiera rossa, bandiera rossa!

赤旗へ!赤旗へ!

Avanti! Popolo, alla riscosa!

進め!人民たち、解放へ!
Bandiera rossa, bandiera rossa!

赤旗へ!赤旗へ!

Bandiera rossa, trionferá!

赤旗、それは勝利の旗!

Viva il communismo e la liberta!

共産主義万歳!自由万歳!

一瞬驚いた。それは紛れもなくイタリアの社会主義者の革命歌なのだ。確かにキャッチーなフレーズなのだが、意味はわかっているのだろうか。誰もが楽しそうに歌っている。

もしや、社会主義者のデモに参加してしまったのか、などと思ったが、雰囲気が違う。そういうことは関係ないと言えるほどにこの歌は浸透しているのかもしれない。カタルーニャ独立運動が、スペインの税制に反対する金持ち中心のものであるのに対し、バスク独立運動は労働者運動と関わっているのかもしれない。そういえば、歴史を見ても、スペイン内乱の時、バスク社会主義系の共和国側に加わっている。

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革命家を歌うお茶目な行進は時折止まり、壁ダンスを決行する。そんなこんなの繰り返しをしていると、黒ハンチングを被ったスペイン人が声をかけてきた。私は白いハンチング姿だったので、同胞というような感じだろうか。

「Hey! Brother!」と握手を求めてきたから、私もノリで、イェーイと握手を返した。するとこっちへ来いという。いってみると、私を胴上げしたいらしい。多分生まれて初めて胴上げされたと思う。

「あんた、どこの出身だい?」とアジア系の顔で、きついコックニーなまりの若い女性が聞いてきた。

「日本だよ」と答えると、

「へえ、日本かぁ。あたしあね、イギリス。ルーツはヴェトナムだけどね」と女性はいう。名前はジェニファーだという。やはりイギリスか。それにしてもヴェトナムとは、奇遇だ。私も……ヴェトナムには二度いっているから親近感がある。

「イギリスのどこ?」と聞いてみた。イギリスも二度いっているから親近感がある。

バーミンガムよ」そうか、てっきりロンドンかと思っていた。

「こっちはカール」とジェニファーは紹介した。隣にはひょろっとした感じのいかにもゲルマン系の私とあまり年の変わらないであろう男がいた。人の良さそうな顔で、カールは手を差し出した。私も握手で応じた。

「僕はベルギー出身だ」とカールは流暢な英語で言う。

「こっちはアンナ」とジェニファーは、近くにいたターバンをした女性を紹介した。握手を交わし、

「どこから来たの?」と尋ねると、

「イタリア」と答えた。

「わたしはサビナよ、スペイン人」と別の女性が言った。鼻筋の通った綺麗な顔だ。

「俺はリカルド」サビナの彼氏のような感じのワイルド系の男が言った。

「俺、カルロ」と言ったのは、先ほどの黒ハンチングの男だ。あまり英語はできないみたいだ。

「あたしたちさっきあったのよ。あんたもユースホステル?」とジェニファーが言った。そうか、さっきあったのか、いい街である。

「実はホテルなんだ」というと、ちょっとだけ驚かれたし、なんとなく階級の差を出してしまった感じがしたが、「ペンションとかオスタルが空いてなくてね」と付け加えたら、納得してもらえた。

「僕のユースが空いてたと思うけど」とカールは言った。うつるのも面倒なので、一応場所だけ聞いておいた。カールとアンナは同じユースらしい。

群衆が移動した。赤旗(Bandiera rossa)歌ったり、壁ダンスをしたりしている。私たちもその流れに乗った。今回はあまり止まらなかった。目的地があるようだ。群衆は旧市街と新市街を隔てる橋のそばに来て、やっと止まった。そこは劇場の裏で、祭りの出店がたくさん並んでいたがやってはいなかった。出店の看板にはなぜか、鎌とハンマーが描かれていて、労働者の絵が描かれている。やはり社会主義運動の団体に紛れたのか。これから打ちこわしでもするのか。まあいざとなれば仕方ない。バスク独立のため、戦ってやろう、などとアホなことを思っていると、しばらく演奏があった後で一部の人たちが二手に別れた。何が始まるのかとみていると、肩を組み、向かい合った。これはどこかでみたことがあるなと思っていると、花一匁である。だが、人の移動などはなくひたすら、「かーって嬉しい、はないちもんめ」のパートを繰り返している。でも、楽しそうだ。

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見ていると、ジェニファーに呼ばれた。そこにはガタイの良い、しかしメガネの丸顔は優しそうな北アフリカ系と思しき男が立っていた。

「この人あムスタファ。モロッコ人だよ」と紹介を受けた。

「こんにちは。よろしく」私たちは握手した。 

「よろしく」ムスタファは優しそうな声で言う。

「実は」と私は切り出した。「درست العربية في جامعتي(大学でアラビア語やってたんだ)」

「本当かい?どうだった?」ムスタファは尋ねる。

「難しかった。もうあんまりできないよ」私は笑いながら言った。

「使わないと忘れるからね。僕の英語もそうさ。モロッコではホテルで働いてて、その時に使っていたから覚えていったって感じだなあ」ムスタファはいう。

「へえ、なるほど」

「ねえねえ」とジェニファー。「あたしたち明日もここで集まるんだけどさ、あんたも来る?」

「明日は祭りの当日だろ? だから花火が上がるんだ。サンセバスティアンとかいろんな祭りで優勝した花火師が来るんだよ」ムスタファは言った。

「実は明後日までにボルドーについて、フランス語の勉強をしないといけないんだ。そのために明日にはフランスのバイヨンヌに行きたくて」私は言った。

「そうか。じゃあバイヨンヌまでの行き方を調べてあげるよ」と言うと、ムスタファはスマホを取り出して、アプリをつけた。

「ありがとう」

 

その後、パレードは解散した。だが、夜はまだ終わらなかった。一行が街の方へ向かったので、

「どこに行くの?」と尋ねると、

「どこかでもう一杯」と言うので、ついて行くことにした。ここまで来たらとことん付き合おう。

一行は旧市街の一角にある、店の前にやって来た。「マジックアワー」に出て来るホテルのように、道の真ん中にバーンとたった店だった。まるで映画のセットのような雰囲気の店に、先ほどの行進に参加していた大量の人が入っている。ワイワイガヤガヤしているが、もう1時半である。まあ、祭りにそんなこと関係ないか。

私はバルの中に入ると日本流でとりあえずビールを買った。とりあえず、と言っても、本日5杯目だ。しかし不思議と酔ってはいない。「Una cervesa, por favor(ビールください)」と頼むと、スペイン人のリカルドが喜んでいた。

みんなのところに行くと、黒ハンチングのカルロがサビナに何かスペイン語で言った。しばらくしてサビナは私に、

「カルロは日本に行ったことがあるの」と教えてくれた。

「日本のどこ? えーっと……Dondé...¿ir?」と尋ねたら、

「トーキョー、キョート、フジヤマ…」とカルロは答えた。私は意味もなく彼と握手をしてみた。カルロは、はははと笑い、私の白ハンチングをとって、彼の黒ハンチングをかぶせた。

「Brother!」とカルロは言った。

「彼の方が似合う」とリカルドが私の方を指してカルロに言った。カルロは残念そうに私の帽子を私にかぶせ、自分の黒い帽子をかぶった。

あたりは熱狂の渦に包まれていた。皆が酒を飲み、騒いでいた。私はバルの端の方にいたジェニファーに声をかけた。

「ヴェトナム出身なんだよね?」ともう一度確認したら、

「ええ。あんたは?」と聞いてきたので、

「いや、僕は日本だけど、ヴェトナムが好きで二回行ったんだ」と答えた。

「へえ、そうなんだ」

「ヴェトナムのどこなの?」

「フエだよ」とジェニファー。「フエで生まれたんだけどね、その後で家族みんなでイギリスに移ったんだ」

「フエか。今年行ったよ。ほら」と、私は写真を見せた。

「本当だね、これが私の故郷。あんまり覚えてないんだけどさ。これからどこか行きたい国とかあるかい?」

「またヴェトナムに行きたいな」と答えると、ジェニファーは爆笑しながら、

「別のとこに行くべきだよ」と言った。多分生まれ故郷というのはあまり魅力的には見えないのだろう。

「あとはインドとかイラン、トルコも行きたいな」

「いいね。いいとこだと思うよ。ところであんた本当に行くのかい?明日から祭りだってのに」

「そうだな…」私は迷いつつあった。ここで出会った連中ともう1日遊ぶのもありなのだ。「実はこの街に来た時祭りのこと知らなくて…ついさっき知ったんだ。だから今は迷ってる。残るかもしれない」と私は言った。

バイヨンヌに行くんだったら、ブラブラカーを使うといいと思う」とジェニファーは言った。

「ブラブラカー?」

「うん。カーシェアリングのこと」ジェニファーは、カールを呼んだ。「ブラブラカーのこと、教えてあげな」

「ブラブラカーは、車を持っている人と車に乗りたい人を繋げてくれるんだ。どこどこまで行きたいって登録すると、そこまで乗っけてくれるんだ。バスより安いよ」とカール。

ヒッチハイクみたいなもの?」

「そうだね。でもネット上でやるんだ」カールは言った。私は礼を言ったが、なかなかハードルが高そうな交通手段だったので使うつもりはなかった。

ムスタファのところに行くと、彼は大きなプラコップに入ったワインのようなものを飲んでいた。「これは、カリモーチョっていって、ここではよく飲まれてるんだ」とムスタファは言い、飲めというように渡して来た。味はスカッとしている。

「ワインとコカコーラのカクテルだ」とムスタファは言った。

「初めて飲んだよ、うまいね」私は言った。「ムスタファはモロッコから来たの?」

「いや、今はビルバオに住んでるんだ。ピザ屋で働いてるよ。よかったら明日来てよ。10時くらいからやってる」ムスタファはそういうと場所はサンタマリア通りだと教えてくれた。

「じゃあバスク語は話せるの?」と試しに聞いてみると、

「いいや、あんまり。挨拶程度だよ」という。

バスク語に興味があるんだ」と私は言った。

「よく使うのは、こんにちはのKaixo(カイショ)、ありがとうのEskerrik asko(エシケリクアシコ)、さようならのAgur(アグール)かなあ」ムスタファはそう言ったが、だいたいどれも知っているものが多かった。きっとバスク語で話す人は多くないのだろう。

「今までどこを旅してきたんだい?」とムスタファは尋ねた。

「まずはパリについて、リヨンとかトゥールーズを通ってバルセロナに入って、マドリードからビルバオに来たんだ。で、それから、ボルドーに行くってわけだ」と言うと、ムスタファは顔を曇らせて、

バルセロナの災難は聞いた?」と言った。

「もちろん。あの1日前にいたんだ」私は答えた。

「1日前か…ひどい話だ」しばらく沈黙があった。私もあまり話したくなかったので、

バイヨンヌまでどうやっていけばいいんだっけ?」と尋ねた。

バイヨンヌに行くには、直通がないから、フランスのエンダイエに行かないといけないよ。そこから電車に乗るか、バスだ。もしくはサンセバスティアンまで出ればなんとかなるかも」ムスタファは言った。予想外に、バスク自治州の都ビルバオは交通の便が悪いようだ。「明日までビルバオにいれば、もう少し変わるかもね。明日は祭りの日だから」

なるほど。それならもう1日いた方がいいのかもしれない。だが、ボルドーに行く前にフランスに入ってしまいたいような気もした。それに、迷った時予定通りに進んだおかげで、私はテロから救われたのだ。かなり葛藤していた。

「もう1日いたらいいよ」とカールも言った。「部屋なら僕のホステルにありそうだ」

私は少し悩みながらも、いることにしようかと傾きつつあった。花火でもなんでも来い。ここで死ぬなら、それはそれで本望じゃないか。それでも決断はできなかった。

すると、サビナが声をかけて来た。

「カルロが日本に行くかもしれなくて、その時は連絡を取りたいからメールアドレスが欲しいんだって」

私はカルロのスマートフォンに自分のメールアドレスを書いた。カルロは

「アリガトー」と日本語で言った。

「デナーダ」私はスペイン語で言った。

「そういえばみんなはどこから来たの?」私はサビナとリカルドに尋ねた。

「俺たちはマドリードから来たんだ。祭りを見にね」とリカルドが言う。グランセマナは全国で有名なのか。いわばねぶたを見にくるようなものである。

「へえ。マドリードは昨日までいたんだ」私は打ち明けた。

「そうなのね。どう?スペインは」サビナは尋ねた。

「Me gusta español(スペイン語が好きです)」とスペインが好きというつもりで答えると、

「España(スペインが)ね」

「あ…」みんなで笑った。

「あたしたちそろそろ戻るよ」ジェニファーが切り出した。カールも、ムスタファも、アンナも帰るらしい。私も潮時かもしれない。

「ブラザー、また会おう」カルロはそう言って私にハグした。

「会えてよかったわ」とサビナはスペイン風の別れの挨拶をした。リカルドとも握手を交わした。

 

ホテルまではムスタファが案内してくれた。カールとアンナは同じユースへ戻り、ジェニファーはムスタファの家に泊まっているらしい。

「また明日!」と誰ともなく声が上がった。

「もし明日もあることにしたら、会おう!」私はそう答えた。この時は、悶々とした気分も晴れていた。