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Play Back〜ハードボイルド大学生活〜

ある大学生の日常をハードボイルドなエッセイ調に書く。

失って気づくもの

食べる 哲学

二週間ほど前、風邪をひいた。

夏風邪の時期だ。珍しいことではない。

「あなたの風邪はどこから?」というコマーシャルがあるが、わたしの風邪は鼻からである。あの時も、部屋にいたら突如としてくしゃみを10連発ほどし、それから滝のように鼻水が流れ始めた。そして翌日、案の定風邪をひいた。

だから、わたしは風になると鼻の機能が低下する。今回の場合はあまり鼻はつまらなかったが、鼻の奥の方がはれたようで、耳がなんとなくボアーっとしていた。そういう場合、息ができるものの、口の中に入れた食べ物の香りを感じることができなくなる。これがなかなかの苦痛だった。

食べ物は舌だけでは味わえない。いや、味わうことはできても、それがうまいのかまずいのか、そういう判断は下せなくなる。むしろ、すべてのものがまずいような感じになる。今回はそれを身を以て実感した。

例えば、ローストビーフを食べる。同じものを食べている人たちはみんな、「おいしい」と言っているが、わたしには全くわからない。というのも、あの牛肉の香りや、ソースの香りや、西洋ワサビの鼻にツーンとくる感じが全て感じ取れないからである。わたしがわかるのは、ソースのしょっぱさ、肉の感触、そんなものだ。だから心からうまいとは言えないのだ。

あるいは、そばを食べる。啜ってみても蕎麦の香りは全く鼻に届かない。ただ、しょっぱいめんつゆに使った麺類を食らう、それだけでしかない。どうも、おいしくない。

もしかすると、それはわたしが元から香りのある食べ物が好きだから、かもしれない。ラム肉、鴨肉、青魚の刺身などわたしは非常に香りのある食べ物が好きだ。そういえば前、ラムカレーがうまいと力説したとき、「でもラムって臭みがありますよね?」と聞かれて何も言えなくなったときがあった。なんとなれば、わたしはあの臭みが好きだからだ。「あれがいいんじゃないか」と言ってもラチがあかないので何も言わなかったが、わたしは香りで食べているところがある。

正直言って他の人が何に重きを置いて食べているのかは、わたしにはわからない。聞いてみなければわからない。だが、香りがかなり重要なファクターであることは賛成してくれる方も多いのではないだろうか。

そう思うと、食べ物というものを私たちは舌で味わっているわけじゃないのかもしれない、と思う。「おいしい」とか「味がいい」とか「うまい」とか言ってしまうと、まるで舌で味わっているようだが、私たちが本当にうまいと言えるものは、香り、歯ごたえ、味付け、などのいろいろなものを込みにして「うまい」と言えるものなのだろう。見た目や、肉の焼ける音なんていうのも、その一つのファクターかもしれない。わたしはそんなことに気づかされた。

そんなことはもしかすると常識かもしれない。だって、小学生だって、牛乳が嫌いな人は鼻を摘んで飲むと大丈夫という情報を知っているのだ。この情報は、まずい牛乳の香りの部分をなくしてしまうことで、おいしくはないけどまずくもないものに牛乳を変えてしまうことで、飲めるようになるというトリックに基づいている。そんな情報を小学生でも知っているのだから、もっと上の人は当然のごとく知っているだろう。だが、知識としてわかってはいても、実際に体験してわたしは面白いなと思った。

人は一つの器官で何かを感じるのではないのだ。もっと全体的に、何かを感じ取っているのである。それはもしかすると、他のものにも言えるかもしれない。例えば、夕日に感動するとする。これは一見すると美しい夕日を見て感動している。だが、それだけではないかもしれない。例えば吹いてくる風の感触、その風の匂い、そしてその場の音、全てに包まれながら、わたしたちは感動しているのではなかろうか。

写真や、動画や、あるいは文章は、そんなもののうちの一部しか私たちに見せてはくれない。例えば、夕日の写真を見せてもらっても、それは写真を撮った人があのとき感じた夕日ではない。食べ物の話をしてもらっても、それは食べた人の食べたあのうまさを表現できない。だがそれでも、確かになんとなく再現してくれるようなものはある。そういうものが、いい写真だったり、いい動画だったり、いい文章だったり、あるいは完璧な食レポのようなものなのだろう。

うまいということは、味がいいということではない。香りがなければ始まらない。そう思うと、つくづく、鼻が通じてよかったなあと思うのである。