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旅、映画、食べ物、哲学?

Shalom 'al Outremont

カナダで私1人が経験したことは、ケベックシティの一人旅だけではない。今日はその話をしよう。

ケベックシティ一人旅の翌日のことだ。まずはみんなと再会を果たし、みんなで朝食を店で食べ、そのあとは何をしたのかいまいち覚えていない。昼食の時間になると、私は仲間たちとともに、ヴェトナム料理屋へ食べに行った。というのも、現地人モニター曰く、モントリオールはたくさんのヴェトナム人(ヴェトナム戦争の時に逃れてきた人々だ)が暮らしており、ヴェトナム本国よりも旨いヴェトナム料理を食わせる店がある、というからだ。今年の2月にヴェトナムを旅していた私は、ぜひともその、「ヴェトナム本国よりも旨いヴェトナム料理」なるものを食べてみなければ済まなくなった。

入った店は、中華街にあった。しかし店員は皆ヴェトナム語でしゃべっており、窓に書かれた言葉もまごうことなきヴェトナム語である。店内は食堂風で、フォーや、ブン、といったヴェトナムの麺料理をすすっていた。これは期待できそうだ。ヴェトナム料理については覚えがあったので、得意げにみんなに「ああ、これはぜんざいみたいなやつだよ」とか「ブンは細麺で、フォーはきしめん」などと、まるでヴェトナム人のように説明しつつ、わたしは定番の「フォー・ガー」すなわち鶏肉のフォーを頼むことにした。

食べてみると、正直な話、本国のフォーの方が旨いと思った。というのも、あの店のフォーは南部ホーチミン風の味付けだったのだ。ヴェトナムは南北に1500kmほどの長さがあり、南北で文化も味付けも違ってくる。行ってみてふと思っただけなので、正確な情報かはわからないが、北部のフォーと違い、南部のフォーは麺の汁が甘く、出汁があまり聞いていない。一方北部は鳥のダシをふんだんに使っており、うまい。私はそんな北部風のフォーが好きだった(南部は焼いた肉が旨い。ものすごく旨い肉が、甘くてパンチのないシルに使った麺の上に乗っかる、という料理を何度かホーチミンで口にした)。そして、モントリオールのフォーは南部風、南部の人の口には、「本国よりも旨い」のかもしれない。だがわたしにとっては、確実にハノイで食べたあのフォーの方がうまかった。だが、あの店で久しぶりに飲んだ本物の「ヴェトナムコーヒー」(濃く入れたコーヒーに練乳を入れて混ぜる。その濃厚さは、生チョコレートを彷彿させる)は非常に上手くて、懐かしい思いにさせた。

そのあとはみんなでモントリオールの地下街ツアーをした。冬場は氷点下を軽く超えるモントリオールでは、地下街が発達している。東京の地下街もかなりのものだと思うが、モントリオールには負ける。北から南へ、東から西へ、たいていのところには地下を伝っていくことができるのだ。地下という場所はなんだろう、男のロマンを刺激する。地下を歩いているだけで、まるで秘密基地を歩いているような気になるのだ。しばらく地下街を探検した後、私はみんなと別れ、ひとり「ウトゥルモン地区」へ行くことにした。そこは、前々から行こうと思っていて、行く時間を見つけられていなかった場所だった。

 

ウトゥルモン地区、というのは、「山(モン:mont)」の「向こう側(ウートゥル:outre)」という意味であり、旧市街やダウンタウン、大学、中華街がある場所から、前に紹介した「モンロワイヤル」を超えた向こう側にある。そのため、ものすごく行きづらい。レジデンスからだと、地下鉄に乗って二駅のターミナル駅「ベリ・ユキャム」で乗り換え、そこから山の方へと進む地下鉄にものすごい長い時間乗って、市場のあるイタリア人街で有名な「ジャン・タロン」駅で下車、さら乗り換えて、4駅先についに「ウトゥルモン」駅がある。

なぜ、このような辺鄙な場所に行きたかったのか。

それはそこが世界随一のユダヤ人街だったからだ。世界でも大きなユダヤ人コミュニティは、ニューヨークとモントリオールにあるらしい。そのおかげか、モントリオールの伝統料理としてあげられる三つの料理「プティーン」「ベーグル」「スモークミート」のうち、「ベーグル」と「スモークミート」の二つはユダヤ文化由来のものである。

紀元135年以来、世界中に離散せざるをえなくなるという厳しい宿命に出会いながらも、自らの文化を守り続けてきた民族、いや、それだけではなく、ところどころに他の文化を受容し、周りの文化に対しては多大なる影響を与え続けている民族。そしてその文化と学問を重視する姿勢から、文化の担い手であり続けた民族。それがユダヤ人だ。哲学者としても、わたしがもっとも気に入っているアンリ・ベルクソン現象学の父フッサールレヴィナス、哲学に大きな爪痕を残したデリダ社会主義の大成者マルクス、もっと昔だとスピノザなど、科学者としては言わずと知れたアインシュタインノイマン、ボーアなど、芸術家だとシャガールなど……その名をあげたら止まらない。そんなユダヤ人たちが住んでいる町ウトゥルモンを是非とも覗いてみたかった。とくに、ウトゥルモンはユダヤ教ハシディズム派という独特な文化を持つ人たちの街だった。どんな街なのか、好奇心があったのである。(ユダヤ音楽にも興味があった。それについて調べてWEB雑誌に書いた記事があるので、もしよければ読んでいただけたら、と思う。《歴史・文化》哀愁と楽しさのあいだ〜ユダヤ音楽の世界〜 - すべての人に贈るウェブ雑誌TODOS)などといいつつ、本当は本物のユダヤ人たちが食べているベーグルやスモークミートが食べてみたかった、という気持ちが一番大きかった、という不都合な真実があることは否定できない。

さて、ウトゥルモン駅で下車し、街へ繰り出してみて愕然とした。まず、人がいない。そして、店もない。そしてなにより、ユダヤ人感が全くない。この駅で降りたら、ユダヤ人の言葉であるヘブライ語の文字の一つや二つ、あると思っていた。だが、ないのだ。ただただ、閑散とした大通りがある。強いて言うなら、その大通りの名前がユダヤ人風のドイツ系の名前だった、というくらいだ。

しばらく歩いてみても、ただ暑いだけだった。どうしたものか。本当にここはユダヤ人街なのか。私の脳裏には疑念が浮かんでいた。引き返して、「ジャンタロン」のマーケットに行ったほうが楽しいのではないか。だがせっかく来たのだ。歩こう。私はさらにその大通りを歩いた。そうしていたらついに、ヘブライ語の文字が目に飛び込んできた。それは、なんたらなんたらの「家(バイト)」というもので、おそらくシナゴーグ、すなわちユダヤ教の寺院だった。しばらく遠くから見ていると、出口と思しきところから、ベールをかぶった男性が出てきて、なにやらぶつぶつ言っていた。これは確実にお祈りだろう。やはりここは、ユダヤ人の街だったのである。

他にも何か出てくるかもしれない、と大通りを歩いたが、全く見つからない。私は引き返し、シナゴーグのところへ再びやってきた。男は消えていた。シナゴーグのある通りへと右折し、木が生い茂った住宅地へと向かってみる。そこは生活感で溢れていて、どこにでもある北米の住宅地だった。ただ一つ違う点がある。暮らしている人の装束が、男性は黒いローブに黒い帽子、髪の毛は長く伸ばして、巻いて、左右に垂らしており、女性は頭に被り物を被って、薄いブルーのベストをつけ、ロングのスカートを履いていた。そう、それこそいわゆるユダヤ人の格好であり、ここに暮らす「ハシディーム」の服装だったのだ(面白い点がもう一つある。教育熱心で知られるユダヤ人だが、まさにその通りで、ほとんどが子連れなのだ)。

キッパ、とよばれる丸くて平たい帽子をかぶった十代の少年が本を抱えて歩いている。学校行事か何かがあるのだろうか。小さな公園では同じ格好の、もう少し小さな子供達が遊び、それを黒ずくめの親が見守っていた。しばらく歩いていると、年配の2人のハシディームが、なにやら喋りながら歩いていた。その言葉は、英語でもなければ、フランス語でもなかった(他のユダヤ人たちはフランス語をしゃべる人が多そうだった)。ドイツ語に似た響き、間違いない、ユダヤナイズされたドイツ語である「イディッシュ語」だった。絶滅危惧種の言語で、イスラエルではヘブライ語に取って代わり、ニューヨークでは英語にとって変わりつつあるイディッシュ語。それをここで耳にしたのは一つの感動であった。だが一方で、その人たち以外はフランス語をしゃべっているという現実に、感傷を覚えもした。言語は実用的なものだ。使われれば拡まるし、そうでなければ消えてしまう。消えゆく言語に情けをかけるのは、全くもって無意味なことだ。だが、イディッシュ語で歌われるユダヤ音楽を、所属するweb雑誌の活動の一環で調べていただけあって、イディッシュ語が消えゆく姿は寂しいものがあった。

本当は、ユダヤ人街を歩いて、人々としゃべってみたかった。ハシディズムのこととか、イディッシュ語のこととか、聞いてみたいこともあったし、話してこそわかることも多い。だが、それは思い留めることにした。なぜなら、ただただ興味本位に過ぎなかったからだ。興味がある、という人に別に嫌な気分はしないだろうが、なんとなく、別にユダヤを専門にしているわけでもなく、物書きであるわけでもない私が、「すみません、暮らしについて教えてください」というのは変な気がしたのだ。本当はそんな迷いなしにグイグイいければいいのだが、一度考えると動けなかった。そもそも、こうやって興味本位の観察者が、ユダヤ人街をうろうろすること自体が失礼にあたるのではないか、などとも思った。話しかけないほうが失礼かもしれない。ただただ、見ている。それほど気持ちの悪いことはない。色々考えるうちに、なんだか私は非常に気味が悪い覗き魔になったような気がして、自己嫌悪感を覚えた。ただ静かに暮らしている彼らを見て、おおユダヤ人だ、と見ている私は、なんと失礼で、なんと気持ち悪いやろうだろう。私は住宅街を抜け、繁華街に出た。

しばらく歩いていると、スーパーがあった。ユダヤ人用のスーパーに違いない。ちょうど喉も渇いていたし、私はとりあえず中に入ることにした。そこにはユダヤ人の生活があり、そこで一緒になって何かを買えば、「覗き魔」ではなくなれるような気がしたのだ。

案の定、そのスーパーは非常に面白かった。スーパーの中にはハシディームたちがいて、店内にある商品もどこか変わっていた。ヘブライ語の商品もたくさんあった。それはおそらく、コシェル、と呼ばれるユダヤ人の宗教上の戒律に従った食料品なのだろう。私は「マイム」とヘブライ語で「水」を表す言葉の入ったペットボトルの水(有名なフォークダンスの曲の「マイムマイム」は水が沸いたことを神に感謝する歌である。だから、キャンプファイアーに向かって「マイムマイム」と言いながら踊るのは非常に奇妙なことなのだ)を買って、外に出た。

そうこうするうちに、文化人類学者がフィールドワークと称して調査対象と共に暮らす理由がわかったような気がした。大学で文化人類学の授業を取っていたから、理由は知っていたが、この時はじめて、実感としてわかったのである。一緒に暮らさなければ、ただの観察者になる。それでは本当のことはわからない。インタビューしたところで、怪しい興味本位だけの人に成り下がるだけだ。でも同じ場所で買い、食べ、飲み、眠る、という生活をすれば、内側からその人たちのことがわかるようになってくる。だから、1日の暇な時間を見つけて、「そうだ、ユダヤ人街行こう」とやってきた私はそもそも、ただの興味本位の観察者に過ぎないわけで、本当のことなど分かるはずもないのだ。本当に「mixed culture」を知るためには、ユダヤ人街に住まないといけない。そんなことを、水を買った時に思ったのであった。

そこで私は公園を探すことにした。足も疲れていたし、公園のベンチに座ってこの土地の風を感じたかった。ウトゥルモンの大きな公園は、繁華街から少し歩いたところにあった。その公園は大きな池を中心に作られていて、落ち着いた雰囲気があった。池の前にあるベンチに座って、「マイム」を飲みながら、水面を眺めていた。風は穏やかで、ヘブライ語の挨拶「シャローム」が意味するところの、「平和」そのものだった。今度来た時は、もっと中へ入って行こう。もっと時間をかけよう。そう思った。ただ人々を眺めるのは気味悪いし、どこか失礼だし、それにそれじゃあなにもわからない。わかった気になるだけだ。だからもっと、いろんな人と言葉を交わし、生活したい。

小一時間公園でのんびりし、私は公園の小屋にあるトイレに入ろうと考えた。だが、どちらが男性トイレなのかがわからない。うろうろしていると、小屋の近くのベンチに座っていた、帽子をかぶった「ダンディ」そのものというような初老の男性が、

「向こう側だよ」

と声をかけてきた。一瞬なんのことかわからずに、聞き返すと、

「トイレだろ? 向こう側だ」

といった。

「ありがとう」

「いいんだ」

やはり、言葉を交わさないと(いろんな意味で)わからないことがある。