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Play Back〜ハードボイルド大学生活〜

ある大学生の日常をハードボイルドなエッセイ調に書く。

嵐の前の激しさ PART2

「文化の宮殿」

士林(チーリン)は、市場で有名らしい。人呼んで士林観光夜市。だが、非常にややこしいことに、士林観光夜市の最寄り駅は「士林」駅ではなく、先ほどまでわたしがいた「劍潭(ジエンタン)」駅らしい。

嵐の前の静けさで晴れ上がっていたことをいいことに、有名な「故宮博物院」に行くことにしたわたしは、「劍潭」でテキトーに降りてみた。だが、持参していた地図には「士林」に行くべしと書かれており、再び電車に乗り「士林」を目指すことにした。「士林」は「劍潭」から一駅先にあり、駅の作りもかなり似ている。まず高架鉄道があり、その下に降りると改札口がある。そのつくりは立川などのモノレールと同じものだ。士林駅を降りると、歩行者天国のようになっており、その両側には食い物屋が並ぶ。だが、残念なことに肝心のバス停が見当たらない。故宮博物院まで行くにはバスに乗らねばならないのだ。強烈な刺すような日差しの中、わたしはバス停を探してさまよった。ああ、バス停。君はどこにあるのだ。気分はまるで、サン=テグジュペリの『人間の大地』 で砂漠に取り残されてさまよう主人公であった。

だが、バス停は意外にも近かった。歩行者天国のような場所をしばらく歩いて右折すると、そこにはすぐバス停があったのだ。バス停の前は人でごった返しており、故宮博物院への道も近いような気もする。わたしはおめあてのバスの路線図を見、今度は直通していることを確認した。

そんな時だ。明らかに狙っていたバスとは違う番号をつけたバスがバス停から50メートルほど離れた場所に停車した。不思議なことに、行き先表示には「故宮博物院」と書かれていた。番号が違う? そんなことがどうしたというのだ。わたしはそのバスに乗り込んだ。だが不安もなくはないので、地図に載っていた故宮博物院の写真を指差しながら、

「ウォーシャンチュー(俺、行きたい)」

とかなり片言の中国語で言ってみた。運転手は「YES」と英語で答える。値段は15台湾元。日本円にするとなんとびっくり六十円である。

かなりガタガタと揺れるバスは満員で、わたしは運転手のそばで立っていた。バス停に着くたびに、現地人たちはsuicaのようなものをピッとやって出て行く。どこもシステムは同じらしい。旅行者用もあるらしいので、今度から試してみよう、などと思いつつ、移り変わる台北の街を見ていた。道の感じは日本とあまり変わらない。だが、建物はどこか中国の猥雑な感じを残しており、信号があまりない感じはヴェトナムのようだった。あらゆるものの交差点、それが台北なのだろうか。

と、そんなことを考えている間にも、バスはかなり揺れていた。これはおそらく、日本ではあまりないことだろう。揺れる揺れる、かなり揺れる。立っている客にはかなり厳しいものがある。まるで起震車だった。そんな揺れの中でも、隣に立っていた女子学生風の人はかなり真剣に何かを読んでいた。ふと見ると、なんとそれは日本語の教材だった。台湾には結構いると聞いてはいたが、やはりいるものなのか。なんとなく嬉しくなって一瞬話しかけようかと思った。だが、突然わけのわからない日本人に「おう、日本語やってんじゃん」と話しかけられるのも迷惑だろう。そう思い、わたしは再びバスの窓の外を眺めることにした。

しばらくバスは走り、日本語の学生は、他の学生たちとともにバスを降りて行った。どうやらこの路線には大学があったようだ。そしてバスが満員だったのも、ほとんどの客が大学生だったからだった。そこから先はかなり空いていた。だがそんな時間もつかの間、すぐにバスは「故宮博物院」に停車したのである。

故宮とは、古い宮殿のことだ。だからわたしは今の今まであれは台湾が清に統治されていた時の総督府跡か何かだと思い込んでいた。だが調べてみると、辛亥革命で政権を取った中華民国政府が公開していた清の所蔵していた宝物を北京を、満州事変などの日本軍の東北部侵攻を機に南部に政府が移し、戦後に始まった国共内戦中華民国と現在の中華人民共和国による戦い)での中華民国の敗北により、台湾に移動させたのが始まりらしい。要するに、かなり最近の建物なのだ。なんと開館したのは1965年だという(余談だが、わたしの両親より若い)。確かに建物はモダンで、ガラス張りの場所があったり、中だってかなり綺麗だった。だがそう知ってみると、かなり驚きの事実である。

バス停を降りると、巨大なタイル張りの広場がある。タイルの色は真っ白で、あの日の激しい太陽の光が反射してかなり暑かった。上からも下からも日光が押し寄せてくる。だが、太陽の光にきらめく故宮博物院は美しかった。広場の端にはヤシだかシュロだかの木がいくつも植えられており、南国の雰囲気を醸し出す。広い広場を抜け、ジグザグの大きな階段を上ると、故宮博物院にたどり着くのだが、これもまた暑い。故宮博物院前の階段を上りきって振り向けば、遠くに山が見えた。そしてもう一度正面を向くと、そこには中国の宮殿「風」の博物館がある。赤地で、左上には青い正方形、そしてその青い窓の中には白い星が輝く中華民国国旗が屋根の上にははためいていた。

中にはホールがあり、みんな荷物を預けていた。荷物の持ち込みは禁止だということは知っていたので、わたしも預けることにした。と言っても、わたしの荷物というのは、本と水と傘を入れたビニール袋だけだったのだが。

勇み足で入り口へ向かうと、係員が何やら中国語で話しかけてきた。わからない。だから「ん?」という表情をすると、チケットが必要だという。そんな気もしていたのだ。だが、どれがチケットカウンターなのかわからず、もしかすると無料かもしれない、などと甘いことを考えていた(一つ弁解させてもらうと、ロンドンの博物館はどんなに有名どころでも無料なので、海外に行くたびに、いつもいわゆる「ワンチャン」無料じゃないかなと思ってしまうのだ)。そのおばちゃんにチケットカウンターの場所を聞き、それでもよくわからず係員に聞くと、目の前だった。

チケット代は250元。日本円にすれば1000円。まあそんなものだろう。わたしは今度こそ意気揚々と博物院に入場した。

作りは、どことなく日本の国立博物館に似ている。大階段があり、それを登って行く。所蔵品はかなり多くあり、特に青磁の陶器は美しかった。椀や壺、杯などはそれぞれが薄く繊細で、シンプルな青い姿をしており、そののっぺりとした姿はどことなく引きつけてくるものがあった。なぜだかはわからない。だがあの、壊れそうなくらいに薄い、色はただ単に水色の陶器たちは、わたしの心を惹きつけたのだ。それは、もしかすると、そのシンプルさがまるで、人間が作ったようには見えないほどだったからかもしれない。誰かが作ったというよりも、まるでおのずから出来上がったかのように見える。

一方で、それとは違った意味で玉器も素晴らしかった。というのは、かなりゴテゴテしているのだが、繊細なのである。小さいにもかかわらず、丹念に彫り込まれている。そこには美しさと同時に、人間の執念があった。執念。それは人の心を固定し、ともすれば誤った道へと導きかねない。だがこの玉器は、執念のない人間なんてつまらない、と語りかけていた。執念があるからこそ、あそこまでのものは作られる。まさにいい意味での執念の塊だった。ただし、その展示室で展示されているはずだった有名な「白菜」と「豚の角煮」を模した玉が、リニューアルオープンした故宮博物院南院の方に写っていたのは残念だった。台湾を訪れたことのある友人に、「故宮博物院の角煮は必見」と言われていたからである。

芸術品は人間の心を映す。それはきっと、芸術家が触れているからだろう。芸術家たちの手垢にまみれているから、その芸術には、その芸術家の心が写り込んでしまっている。人間の執念、そして人間の自然と一致したいという思い。古代の人たちの作った、エキセントリックで、少しばかりシュールな動物たちは、きっと動物という自然からの「使者」たちの持つ、神秘的な部分を写しているのだろう。かなり滑稽に見える動物もたくさんいたが、そこには何かがあるに違いない。もちろん、もしかすると古代人の芸術家が勝手にジョークで作ったのかもしれないのだが。

二時間ばかり博物院を歩き回った後、わたしは駅に戻ることにした。食事時だったからである。暗い美術館から一歩外に出ると、そこは光の王国だった。激しい太陽が照りつけ、目の前は真っ白、灼熱の地獄である。そんな広場で、社会科見学だろうか、クラスTシャツのようなものを着た少年少女たちが、みんなで写真を撮っている。館内でもかなり見たのだが、ここはどうやら社会科見学スポットみたいだ。東京で言えば、上野、だろうか。なんにせよ、この少年たちはまだよくわかっていないだろうが、こうやって文化は継承されて行くのかもしれない。作品が彼らの目にはまったく面白くもなんともなかったとしても、「行ったよね」という思い出は残る。それが一つの文化なのかもしれない。

などと、格好つけてみても暑い。わたしはとぼとぼとバス停へと向かった。