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旅、映画、食べ物、哲学?

嵐の前の激しさ PART3

「嵐の前の激しさ」

再びガタガタと揺れるバスに乗り、わたしは「士林(チーリン)」駅へと引き返した。昼食の時間だ。わたしは灼熱地獄の中、食べ物屋を探す。そうだ、士林観光夜市まで行ってみよう、と思った。せっかく士林にいるのだ。夜市と言ってもきっと、昼も何かやっているはずである。

だが、駅に沿って歩いてみても、何も見つからない。それもそのはず。先ほども言ったように、士林観光夜市の最寄駅は、非常にややこしいことに、「士林」駅ではなく、一駅前の「劍潭(ジエンタン)」駅だったのである。その時はそんなことにも気づかずに、やみくもに歩いた。だが、灼熱地獄に徐々に気持ちも萎えて行き、博物院で歩き回った足の疲れも出てきたので、駅前であらかじめ見つけてたった台南料理の小さな食堂へ行くことにした。

台南とは、台湾南部の都市のことだ。かつてこの島を支配したオランダ人たちが、「ゼーランディア城」と「プロビデンシア城」を築き、統治の根拠地として以来、台湾最古の都市として、19世紀の半ばに清が台湾の中心を新都市の台北に置き、日本が植民地支配の拠点を台北とするまでの間、政治と経済の中心になっていた都市である。実は台湾で一番訪れたかったのはこの街だった。やはり歴史のある都市は風格が違う。建物はどことなく戦前の雰囲気を湛えているらしいその街は魅力があった。そしてなにより、「小吃(シャオチー)」と呼ばれる屋台料理で有名なのである。歴史と美食、それほどわたしの心を惹きつけるものもない。だが、問題は台風14号であった。あの野郎は、滞在三日目に台湾南部に猛烈な被害を与えようとしていた。それは予想がされていたので、南部行きは断念せざるをえなかった。

その、台南の料理の店が士林にあったというわけだ。士林観光夜市の昼が楽しめなかったことだ。わたしはどぎまぎしつつも店に入り、「にいはお」と挨拶をした。

徐々に気づいてはいたが、かの地で店に入って「にいはお」というと、「你好」と返してくれるが、なんとなく気まずい空気感が流れる。このときもやはり流れた。仕方がないのでじーっと店員を見つめると、「何が欲しいんだい?」というようなことを聞いてくる。だが、何が欲しったって、店先に掲げてあるメニューが読めない。当たり前だが中国語は漢字表記なので、日本人にはそれを発音するのが難しい(これがヴェトナムとは決定的に違う)。そうこうするうちに店員が察してくれ、紙のメニューをくれた。博物館最寄の観光地だ。こういう展開は正直予想ができていた。わたしはメニューを見た。本当は台南名物の「台南担仔麺(タイナン・タンツーミエン)」と呼ばれるものが食べたかった。というのも、かつて日本の台湾料理屋に行って食った時、非常に美味しかったからである。だが、この台南料理屋は頑固なのか、それがない。しかたなく、次点でうまそうな「牛スジ入り牛肉麺」(日本語表記も入ったメニューだった)を指差して、「うぉーしゃんやおじぇーが(コレガ欲シイデス)」と言った。

相変わらず汚い、だが生活感あふれる素晴らしいレストランの店内で、わたしはテーブルについた。なかなか盛況である。台湾人なのか中国人なのか、はたまた日本人なのかわからないやつらがみんなで麺を食ったり、ご飯を頬張ったりしている。いや、これは多分台湾人だろう。ここで学んだのだが、ヴェトナム屋台の店ではテーブルに置かれている紙ナプキン(というかトイレットペーパー)は、台湾では店の壁にくっついており、みんな立ち上がってそこまでいき、ずずっと紙を引き抜いている。

運ばれてきたのは、なんとびっくり、前日に食べた「牛肉拉麺」のようなものだった。

前日、つまり台湾到着初日、わたしはホテルのそばをさまよっていて、小さな市場を見つけた。後で確認するとガイドブックにはただただ「市場」と書かれた場所で、狭い路地に野菜やら魚やら果物やらを売った店がぐちゃっと存在し、その間をぬって、なにやらうまそうなものを煮たり焼いたりしている店が何軒かある。この日の夜はここに決まりだった。わたしはその中でも一番いい香りのした「拉麺屋」に入った。そこのおっさんと体当たり会話をし、メニューを手に入れた。そして一番推しの商品と思われる「牛肉拉麺」を注文したのだった。肉はトロトロに茹でられ、八角の香りがし、肉出汁のでたスープは濃厚でピリ辛で、非常に旨かった。麺はぶっというどんのような麺で、日本のラーメンとは全く違う。初めはパンチのない麺に微妙な気分になったが、食べているうちにこれが病みつきになる。

そして、この日の昼。台湾到着後二件目の店で、再び同じような麺が出てきたわけだ。もう、これを食い続けるしかない。わたしはこの奇遇に面白さを覚えながら麺に手をつけた。なんとなく、昨日のものよりも薄味だ。暑かったから、もっと濃いものがよかったのだが、飲んでいるうちになかなか旨い出汁が出ていることに気づく。肉も昨日ほどやわからくはないが、「肉を食ってるぞ」というワイルドさがあって悪くなかった。

食べ終わって会計をし、わたしは再び灼熱地獄に出た。

この時気づいたのだが、ポケットに入れてあった「1000台湾元」がそろそろ底をつこうとしていた。これはまずい。両替しないといけない。だが、士林駅には銀行がなかった。

台湾に来て感じた最大の誤算は、両替だった。ヴェトナムやタイ、いやひいてはフランスやドイツ、イタリアやカナダでは、街中に両替商がいたものだ。ちょっとした商店の隣にはレートが掲げられ、そこですぐに両替が出来た。だが、台湾では両替には許可が要り、「Money Exchanger」と書かれた銀行でしかできない。これは大きな誤算で、後々まで影響を及ぼすことになるのだが、それはまだ先のことである。

わたしは銀行を探しに都心に出てみることに決意し、かなり離れた場所にある「台北101/世貿中心」駅へと向かうことにした。トークン型の切符を購入し、改札を通る。その次点でふと、台北郊外にある「淡水」という保養地に行ってみたいと突然思った。だが、金が底をつきそうだし、切符はもう買ってしまった。仕方がないので、ヘトヘトになりつつ、有名な101がどのようなものかワクワクしつつ、わたしは電車に揺られた。

何十分電車に乗っただろうか。電車は高架鉄道から地下鉄へと変わり、最寄の「台北車站」を過ぎ、それからもかなり長い旅路である。台北101駅で降りると、意外にも駅は閑散としていた。

とりあえずわたしは外に出た。すると愕然とした。何もないのだ。ただでかい台北101というタワーが天を貫くようにそびえ立っている。周りにはビルも何もない。これは誤算だった。101はわたしの頭の中で勝手に109的な存在になっていて、周りは栄えていると思ったのだ。だが、何もない。とにかく101の中に入ると、これもまたブティックしかない。ジーパンにTシャツだったわたしには用のない場所だ。案内図があったので銀行を探したが、あるにはあるものの、いつまでたっても見つからない。わたしは諦めて101の外に出た。

駅に戻って、駅周辺の地図を見た。すると、何やらありそうな大通りがあることを発見した。そこまで行けば銀行があるのではないか。わたしはそう思って、灼熱地獄を再び歩みだした。

たしかに、そこは再開発地区だった。映画館やら、ショッピングモールがある。だが、銀行はない。そして火曜日だったせいか、誰も人がいない。わたしは諦めて帰ることにした。体力も限界だった。太陽に照らし続けられたため、軽い熱中症だったのかもしれない。わたしはふらふらになりながら、近くにあった「市政府」駅を降り、電車に乗り込んだ。そして数十分間、台北車站まで、「無の境地」というような表情で電車の椅子に腰掛けた。

無の境地になったせいだろうか、わたしはとんでもなくバカな間違いをしたことに気づいた。というのは、確かにわたしのポケットにあった1000台湾元は底をつこうとしていたのだが、それはわたしが持つ台湾元の全てではなかったのだ。

10,000円でどれくらいのことができるのか、何日暮らせるのか、というのは旅をする上でとても大事なことだ。だからわたしは10,000円分を台湾元に変えていた。総計2,500台湾元ほどになる。そして日本を発つ日、そのうちの1,000台湾元をポケットにくしゃっと突っ込んで、あとは腹に巻いている貴重品入れに入れたのだった。つまり、残り1,500台湾元ほど残っていたのだ。なら、両替などする必要なかった。この事実に気づき、わたしはどっと疲れてしまった。

台北車站に着くと、まっすぐホテルに帰った。時間は2時半か3時くらいだったと思う。エアコンをつけ、ベッドの上に座り、無音のテレビをつけた。ホテルの部屋の大きさは家庭用のユニットバスくらいである。ベッドがあり、小さなテーブルがあり、薄型テレビが壁に張り付いている。テレビの音をつけると音が隣の部屋まで漏れるせいか、テレビは無音だ。ヘッドッフォンをつけないと音がわからない。その日、テレビをつけると日本語の番組をまたやっていて、渋滞に関する例文を女性が言っていた。

しばらく快適なエアコンの風にあたり、ベッドの上でぼーっとする。まだ二日目だったが、わたしにとってはもうここは我が家だった。そのせいか、徐々に力が湧いてくる。コンビニで買ったペットボトルのウーロン茶(このウーロン茶は侮れない。かなりうまい)をゴクゴクと飲み、わたしはふと思った。

「淡水に行こう」と。