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旅、映画、食べ物、哲学?

旅することは動き続けることではない PART4

「旅はDéjà vu:新しいものと古いもののあいだ」

ほんの思いつきだった。ただただ、名前が面白かっただけだ。ただそれだけの理由で、わたしは台北MRTに乗って、「三重」に行った。

台北市の中心部は、主に「淡水河」右岸にある。三重があるのはそこから離れた「淡水河」左岸、「トラス・タンスュイ」だった。河が見てみたかったので、「大埠頭」という仰々しい名前の駅で降りようかと思ったが、ひとまず「三重」に行くことが先決と途中下車はしなかった。それに、河を渡る時くらい、電車は地上に出てくると思ったのだ。イタリアのローマで乗った地下鉄は少なくとも、テヴェレ川を渡るときには地上に出てきて、橋の上を渡っていた。

しかし、その読みが甘かった。台北のMRTは地下を通ったまま淡水河を渡ってしまったのだ。なかなかの技術である。もし、博多で起きた陥没事件のようなことが起きれば、台北のMRTは水で充満してしまうリスクもあるのだから。

「三重」は案外近かった。何があるのかもわからない状態で、わたしはとりあえず「三重」に降り立ち、エスカレーターを使って、地上に出た。一緒に降りた人がガイド役だ。わたしはとにかく彼らに従うことにした。

地下鉄の出口から出ると、そこは近代・現代・近未来が共存した街だった。広い車道ではバイクが轟音を立てながら猛スピードで走っている。トラックが体をがたつかせながら走り去ると、乗用車が猛スピードで走る。それはまさに、わたしが今年の2月に見た、ヴェトナムの光景だった。歩道を塞がんばかりにびっしりと路駐されたバイクどももまさにあのヴェトナムの光景そのものである。ヴェトナムと違うのは、車通りがそこまで多くないことを別にすれば、建物だった。高いのだ。何階建てなのだろう、と思うくらいのどでかい薄ピンクの建物や、ガラス張りの建物、コンクリートがむき出しになっている古めかしいけれど背の高い建物、緑色のモダンな高層の建物などが林立している。台北の建物は、日本よりなんとなく高いような気がしたが、「三重」のものは中でも高い方だと思う。

行く当てもないので、建物がたくさんある方向へと進んだ。建物の背が高いので、建物の森へと入っていたという表現の方が正しいかもしれない。「三重」の建物は不思議と、門のところがグニュンと円柱状になっているのが特徴だ。台北駅あたりではどちらかというと、四角いものが多かった。もしかするとこれは古い様式なのかもしれない。もしかすると日本統治時代の名残かもしれない。どことなく昭和前期の香りが、「三重」にはあった。ボロボロの看板、ボロボロのネオンからは、そんな空気感がにじみ出てきていた。

その一方で、再開発なのか、ガラス張りの建物も目につく。ここはまさに、古いものと新しいもののせめぎ合いの最前線なのかもしれない。

しばらく歩くと、古き良き時代の香りのする界隈に、市場があった。路上の市場である。わたしは反射的に市場の方へと向かった。すると時間が時間(15:00)だからか、いまいち活気はない。だかかなりいい雰囲気なのは確かで、観光用の市場などには絶対に真似できないような日常感が漂っている。もう少しいい時間に来てみたいと思った。だが、次の日は台風16号「馬勒卡」が台北に襲来する予定だ。もう来れないだろう。旅は一期一会、そういう運命だったのだ。

市場を通り抜けると、大きな通りに出た。そこは環状道路のようなもので車が猛スピードで走っていた。それなのにもかかわらず、歩道はバイクで塞がれている。なんてこたアない。ヴェトナムのハノイで経験している。わたしは慣れた足取りでバイクの外側を歩くことに成功した。内心ヒヤヒヤしていていなかった、といえば嘘になる。

「三重」はかなりいい街だった。今度台北に行ったらまた行くだろう。だが今回は徐々にわたしも疲れてきていた。「中正紀念堂」から「両替屋探し」、「両替屋探し」から「慶康街」、「慶康街」から「行天宮・吉林通り」、そして「三重」。今日は歩きすぎていた。そしてなにより、暑すぎた。きっと30度はゆうに超えている。日差しも激しい。「三重」についた頃には、小雨が降ったりしていたが、それでも、灼熱地獄が蒸し焼き地獄に変わっただけだった。わたしは右岸に戻ることにした。

 

途中でわたしは、「台北大橋」駅で降りることにした。それは、左岸最後の駅である。三重「県」ならぬ三重「區」の東端に位置する川沿いの駅だ。どうしておりたのかというと、ここで降りれば河が観れると思ったからだ。不思議と、淡水河をまだ見ていないような気がしたのだった(実際には、「淡水」という街に小旅行をし、そこでばっちり見ているのだが……。「嵐の前の激しさ PART 4」を参照)。

台北大橋駅は閑散としていた。だが地上に上るとその様子は一変する。狭くて、その上バイクが停められている道をキャパオーバーの人間が通り、広い車道は車とバイクで覆われていた。建物はやはり背が高く、「活気」という言葉を一つの街にしたらこうなる、というような見てくれをしていた。

河が観たい、という目的を忘れ、わたしは散歩を開始した。街の活気に飲み込まれてしまったのだ。

人の波に流されながら歩くと、新しく開業したジムの前で若い男がビラを配っていた。何やら色々と話しかけられたが、よくわからないし、明後日には日本に帰ってしまうので、わたしは足早に立ち去った。

とにかく盛り上がっている。ビルには看板と広告が並び、歩いている人も賑やかである。さきほどの「三重」が、どことなく哀愁を漂っているのに比べて、この「台北大橋」周辺の地区はそんなもの全くなかった。エネルギーに満ち溢れた街。ここは経済成長の中心にいるようだ。「三重」が古いものと新しいもののせめぎ合いの最前線ならば、「台北大橋」は新しいものの前線基地だった。建物はまだコンクリートむき出しの古めかしい建物ばかりだが、内実はエネルギーであふれている。

ふと、この街に来た理由を思い出し、わたしは川の方へ歩いた。すると市場があった。かなり面白そうだったが、疲れからか、通り過ぎてしまった。

結論から言うと、河を見ることは叶わなかった。なぜなら、河は大きな壁の向こう側にあったからだ。だがこの時になってやっと思い出した。そう、わたしは二日目に淡水河で美しい夕日を見たのだった。美しく、荒れ狂う空を。わたしは自分の忘れっぽさを心の中で笑いつつ、台北大橋駅に戻った。

 

電車が動き出す。そろそろ四時半だ。「西門町」に行き、そこを散策した後で、「華西観光夜市」で夕食としよう。このまま中和新蘆線に乗り、「忠孝新生」駅まで行けば、「西門町」駅に続く「板南線」に乗り継げる。だが、この歩き疲れた状態で、果たしていいのだろうか。いちど「台北駅」へ戻り、ホテルで一眠りでもしたほうがいいのではないか。

結局のところ、わたしはそのまま西門町に行く決断をした。それが、大きな間違いだったのだ。