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旅、映画、食べ物、哲学?

過去の感じ方

イタリアの首都ローマの街を歩いていた時のことだ。

独特の赤みを帯びたベージュ色、とでも言えるような建物が立ち並んでいる道を進み、わたしは古代ローマの神殿「パンテオン」を目指していた。だが一向にパンテオンは現れず、途方に暮れていた。季節は12月だったが、空気は湿っている。足は、午前中にフォロ・ロマーノ(フォールム・ローマーヌム)と呼ばれる古代ローマ時代の中心地だった遺跡を歩いたので疲れていた。

大通り沿いにしばらく歩いていたら、目の前に橋が見えた。といっても、日本橋のような橋ではない。どちらかと言うともっと平凡な、道路がそのまま橋につながっていて、橋には何の装飾もついておらず、ただ柵だけが付いていて、一見すると橋なのかもよくわからないような代物である。

街を歩いていて橋にぶち当たる。そんなことは普通にあることだ。

だが、今回のケースは普通ではなかった。というのも、地図を見てみたら、ローマに流れる「テヴェレ(ティベリス)川」は、わたしが今いると思っていたところからかなり離れたところにあったのである。それだけではない。わたしが今いるところは、地図上では、明らかに橋ではなかったのだ。ははん。これはきっと途中で地図上の自分を見失ったんだろう。本当は川のところにいるんじゃないか。まったくもって、パンテオン探しは徒労だったわけだ。だって、パンテオンは川沿いになんてないんだから。

でもまあ、川を見つけてしまった以上、とりあえず川だけは拝ましてもらおう、そう思って橋の上に行ってみると、驚くべき事実が明らかになった。確かに、わたしは橋の上にいたのだが、橋の下にあったのは、川でも池でも運河でも湖でもなかったのだ。橋の下にあったのは、かつての古代ローマの遺跡、そして今の猫たちのねぐらだったのである(遺跡には猫が住み着いている、というか、遺跡の管理人が餌を与えているという。後でテレビ番組でそれを知った)。

 

ヨーロッパの街を歩くと今のような体験をする確率が高い。もちろん、「川かと思ったら古代ローマ」みたいなノリは、イタリア、それもローマでしか起こらないだろうが、似たような体験はする。

例えば、フランスはパリのカルチエラタンに行った時、今度は夏なのにもかかわらず寒いという状況だったが、坂道を登っていると、突如として左隣に古代ローマ時代の「公衆浴場(テルマエ)」の跡地と思しきものが出現したことがある。古代ローマではなくても、ロンドンにはロンドンの、パリにはパリの、ベルリンにはベルリンの古い時代の建物というものは、道を歩いているだけで見つけられるような気がする。それも、不意に、見つかるのだ。ヨーロッパでは古い建物が今の建物に混じっていて、残っている。そこには、残していこうという気概が感じられる。

 

古い建物を見ていると、その街の歴史が見える。その街の人々の手垢がいい意味で一番染み付いているのが、古い建物だからだ。そして古い建物が見えると、その街の歴史が蘇ってくる。だが、どうやって古い建物が残っていて、どうやって接するのかは地域によって違うような気がするのだ。それぞれに、それぞれの方法がある。

 

まずは北米大陸モントリオールケベック・シティに行った時には、よく「オールドシティ(ヴュー・モンレアル、ヴュー・ケベック)」、つまり旧市街を訪れたものだった。ヨーロッパでは混在している古い建物、遺跡が、一箇所に集中している感覚であり、新市街とのコントラストがなかなかすごい。

例えば、モントリオール。新市街の中心地であるダウンタウンから旧市街に行く道筋を辿ってみよう。ダウンタウンは、ニューヨークを思わせるほどの高いビルが建っていて、ビル風がびゅうびゅう吹いている。たくさんの車が走り、とにかく道幅が広い。の割に、信号がすぐに黄色になるから困る(そのうち、黄色くらいなら渡っても良い、という悟りの境地に達するが、あまり真似しないように)。大通りの「サン・カトリーヌ通り」から旧市街に歩いて行くには、とりあえずまず、東の方へと向かう必要がある。要するに、大通りと垂直の方向へ行くのだ。すると、坂が現れる。その坂をぐーっと降りて行くと、途中で「チャイナ・タウン」が出てきて、ここの雰囲気は周りと随分違う。歩いている人もアジア系、漢字の看板がきらめき、アジアなんじゃないかと錯覚させる。そしてビル風は消え失せ、割と穏やかな空気が流れている。チャイナタウンを抜けると、坂が終わる。すると右手に巨大な黄緑色のガラスを張った「コングレ」という建物がある。「コングレス(議会)」かと思いきや、実はただの「展示場」らしい。ここまでくると、再び風が吹いてくる。きっと川の方から来ているのだ。しばらく歩くと目の前にきつい上り坂がある。これを登ると突如として古めかしい大聖堂が現れ、地面も石畳になり、周りの建物は、今までのガラス張りから、石造りになる。そう、旧市街はここから始まるのだ。

そんなわけで、本当に突然、まるでテーマパークのように始まるのが北米の旧市街なのかもしれない。そのせいか、あまり旧市街に生活感がないのだ。

 

逆にアジアは、生活感が溢れている。

ヴェトナムのハノイには、カナダ同様「旧市街」がある。だが行ってみるとどうだろう。あまり、他の地域と変わらない。「新市街」と記されていた場所も行ったのだが、正直、道幅くらいしか違いがない。両方とも、同じように生活感が溢れ、同じように崩れそうな建物が並ぶ。「フレンチ・ディストリクト」の建物は、どちらかというと他のは雰囲気が違って、巨大な石造りの建物が多く、生活感は限りなくゼロに近い。だが、その周りには、「ハノイ」としか言えないような独特の空間が広がっている。

台北は、それぞれの地区でかなり毛色が違ったが、旧市街らしきところも、かなり手垢にまみれている。ヨーロッパ的な「古い建物は残さないと」というような雰囲気はなくて、ただただ、「俺たちゃここに住んでんだ。なんか文句あっか? なんか文句あっか?」という矜持が漂う。本当は歴史ってそういうものなんじゃないかなとも思うのだ。時の流れをぶった切り、過去のものを、さも偉いものかのように保護するより、そこに住み続けている方が、むしろ歴史の流れには合っている。私はだからこそ、台北やハノイの街に、いいな、と思ったのだった。

 

一方で問題は、日本だ。

試しに東京を歩いてみると、ノスタルジックさも何もない。たまに廃墟のようなものや、古めかしい建物があって楽しいが、それはやはり昭和三十年代くらいからの歴史しかなく、やはり戦前戦後の断絶を感じる。それは歴史の悲劇のせいかもしれない。だがやはり、「家と女房は新しい方がいい」というような、日本の考え方が現れているのではないか、と思うと、少し残念である。

そう、思っていた。

だが、友人と歩いていた時のこと。彼は、「ブラタモリ」みたいに、古地図と地形図を頼りにやる街歩きにはまっていたので、そういった本を持っていた。ここの部分は高くなっていて、だからこそ大通りができたとか、だからこそ、幕府はそこから責められることに危機感を持っていたとか、そういう話を聞くと、一つ考えが湧いた。

確かに日本の街には何も残っちゃいない(残っているところももちろんある。京都は顕著だし、昭和の香りは東京にも残る)。しかしそれは、そろそろ誕生日(12/25。お分かりだろう)を迎えるある御仁の言葉を借りるならば「見てはいるが、見ず」という状態であったからこそだったのだ。日本の過去は、地形や区画に宿っている。それはブラタモリが伝えようとしていたことでもあった。それに気づかず、「やはり日本はダメだね」などと抜かすようでは、「街歩キスト」として青かったのである(街歩キストになった覚えはないが)。

だからもしかすると、その街を知るとは、いかにしてその街の生きてきた一生を感じるか、その方法を知ることから始まるのかもしれない。