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旅、映画、食べ物、哲学?

釣る人々

エジプトはナイル川の賜物、と言ったのはとあるギリシア人のおじさんである。やはり文明とは川によっているところが大きいらしい。だから古くからある街には、たいていの場合は川が流れている。プノンペンにはトンレサップ川とメコン川シェムリアップにはシェムリアップ川、ハノイには紅河、フエにはフーン川、ホーチミン市にはサイゴン川が流れているし、それが東京なら江戸川や荒川、タイのバンコクにはチャオプラヤ川、ロンドンにはテムズ川、パリにはセーヌ川モントリオールならサンローラン川、と言ったところである。

 

さてさて、今回東南アジアに行って見て気づいたことがある。それは川沿いや湖沿いを歩くと、必ず一人は釣りをしている人がいることだ。

はじめに見たのはプノンペンだった。私たちはプノンペンからシェムリアップまで午前9:00ごろにバスで出発する予定だったため、朝七時ごろに朝食を市場で済ませ(その模様については、続「おやじ」で書いた)、プノンペンに別れを告げるため、時間になるまで川沿いを散歩していた。河川敷に入って歩いていると、向こうの方に人だかりが見える。それは釣り人たちの集まりだった。浮世絵で見たような、釣竿を猟銃のように構えら男、普通に構えている男たち、そして突然やってきて「おーい、釣れとるかい?」とでも言うかのように、イツノマニカ人の釣竿で釣りを始める男……。私たちはしばらくその様子を見ていた。

だが、なかなか釣れない。

見ている間に二、三回、あれ、かかったかな、と思わせるような状況があったが、どれもゴミが引っかかったり、逃げられたりしたようであった。それでも男たちはめげずに釣り糸を垂らしていた。猟銃の構えの男も、一人我流でそのポーズをとり、一度はかかったものの、逃げられたり、ゴミを釣り上げたりしながらも、諦めなかった。負けられない戦いがそこにはあった、のだろうか。それはわからないが、なんとなく男気のようなものを感じた。

 

シェムリアップの川は細く、さすがに釣りをしていた人はいなかったような気がするが(いたっけか?)、ハノイの中心部にあるホアンキエム湖には釣り人たちがいた。カップルだらけの湖のほとりにおやじ二人で座り込み、何やらやっているなと思ったら、釣りなのだ。百歩譲ってメコン川と合流するプノンペンの川での釣りならわかる。だがこのようなところにいるのだろうか。いや、疑問を挟んではならない。釣りとは信じる心なのだ……

 f:id:LeFlaneur:20170218185238j:imageホアンキエム湖

ホーチミンサイゴン川にもやはりいる。

釣り人たちは釣り糸を垂らしつつ、いい漁場をなんとか探し当てようとウロウロしていた。

「何が釣れるんですか?」

そう、聞いてみたかった。だが、彼らの真剣勝負に水を差すのは、粋ではない……と、いうか、たんに聞いたところでなんのことかわからないだろうな、と言う弱気な姿勢が胸をよぎったのである。いつになったらこういう姿勢を脱ぎ捨てられるんだろう。

f:id:LeFlaneur:20170218185209j:imageサイゴン

私もかつて、奥多摩で渓流釣りをしたことがある。その時はビギナーズラックで随分と大量のマスを取ったものである。「天才」などとあらぬ絶賛を父の友人にされながら、まんざらでもない気分になったのを覚えている。

あの渓流釣りの場所では、時が来ると管理員のような人が来て魚を放っていた。それを思うと、東南アジアのシティー釣り人たちは本物の漁場を相手にしているのだ。管理された漁場で神童ぶっていた自分が恥ずかしい。しかも彼らが相手にするのは本物であるだけではない。汚い!ゴミが浮いている!それでもめげずに釣り糸を垂らし続ける彼らに賞賛を送りたい。