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旅、映画、食べ物、哲学?

LA LA LAND

果てしなく続く渋滞。その列は一向に進まず、車に乗る人々は、皆思い思いのことをして、なんとかその苛立たしい時間を潰している。だがそれは、単なる非生産的な時間ではない。誰もが自分の目指す先を思い、その道へと進もうともがく時間だからである。なんとなれば、その道の先にあるのは、「スターの街」なのだから……。

今年のアカデミー賞の作曲賞、主演女優賞などの六部門の賞を総なめにした、デミアン・チャゼル監督の映画「ラ・ラ・ランド」は大渋滞のシーンで始まる。見ているだけでも気が滅入ってくるような大渋滞が、少しずつ大きくなってゆく音楽とダンスの力で大舞台に変化するのだ。そのオープニングのシーンはどこか、フランスの「ロシュフォールの恋人たち」という映画の冒頭のダンスシーンを思わせるものがあり、監督が実現したかったという古き良きミュージカルの復活という仕事の成功を感じた(後で知ったのだが、「ロシュフォールの恋人たち」はチャゼル監督に大きな影響を与えていたのだという。見て貰えばわかるだろうが、オープニングの雰囲気が似ているし、音楽も「ロシュフォール」のミシェル・ルグランの曲に少しだけテイストが似ている)。舞台も現代、ストーリーもある意味現代的だが、あくまで技術にこだわりすぎず、歌と踊りの始まりも「レ・ミゼラブル」と比べてもいい意味で不自然であり、これぞ昔のミュージカル、という感じがしていた。だからかもしれない。この映画を観た後は、昔の映画を観た後のような、不思議な満足感に包まれたのであった。

 

実を言うと、私はこの映画をこんなに早く見る予定はなかった。これを観たのは一昨々日のことだが、その発端というのが我ながら面白いものであった。

その日、私は午後から用事があり、午前中は500円で見れる「午前十時の映画祭」を見ることにした。その日やっていたのは、高峰秀子主演の「浮雲」だった。この映画は自己破壊型ラブストーリーという感じで、その恋の発端が仏印、すなわち現在のヴェトナムのダラットだという。ちょうどヴェトナムに行ってきた帰りだったし、主演の高峰秀子も私の好きな作家沢木耕太郎のエッセーによく出てくるので観に行ってみよう、というわけである。

つまらない映画だったわけではない。よかったと思うし、実際引き込まれた。ただ、その後に用事があって、それから会食に行かないといけない、というのが問題であった。エンディングもエンディングだし、なんとなく観終わった後の気分が良くなかったのである。さらに悪いことに、隣で上映中だったのが「ラ・ラ・ランド」で、しかもその扉が開いていたのだ。重い気分で映写室を出て、通りかかった別の映写室の扉の向こうから軽快な音楽が聞こえてくる。そうなると当然、観たくなってくる。この重苦しい雰囲気をなんとか断ち切りたくて断ち切りたくて仕方がなってくるのである……。

 

そんなこんなで私は見ることにした。結果はよかったと思う。これもまた恋の話ではあったが、少なくとも自己破壊的ではない。いやむしろ、「ラ・ラ・ランド」のミアとセブはその逆なのかもしれない。「浮雲」の二人が恋愛にある種の依存を見せていたのに対し、ミアとセブはそれをなんとか抜け出すからである。

ラ・ラ・ランド」はハッピーエンドではないという意見があるが、それはそのせいだろう。ネタバレ覚悟で言うと、彼らは確かに恋愛を成就させることはできないのである。つまり、結婚とか、付き合い続ける、とか言うことには至らない、と言うことだ。

だが別の観点からすると、彼らは確かに恋愛を乗り越えたのだ。

 

主人公のミアは叔母に憧れて女優を目指しているが、オーディションはいつでも失敗する。一方もう一人の主人公セブはジャズピアニストを目指しているが、ジャズの伝統に固執するがゆえに周りには理解されず、道を開けずにいた。そんな二人は、はじめは互いを馬鹿にするが、映画やジャズを通じて恋に落ちてゆく。二人とも夢を抱えていたからかもしれない。ミアは女優として成功する夢を、そしてセブはジャズピアニストになってジャズクラブ「チキンアンドスティック」を開くことで死に体のジャズ文化を救うという夢を。だが、セブはそんな時に、ミアとミアの母親の電話を聞いてしまう。

「彼はジャズピアニストなのよ、いいえ、まだレギュラー出演はないの、大丈夫よ、彼はジャズクラブを開くの、大丈夫、きっとなんとかなる……」

セブは自分のこだわりが彼女の親が求めるような安定を妨げていると気づき、かつての友人で、自分とは音楽の方向性が合わないキースとのバンド活動に参加する。そして案の定このバンドは成功するのだった。

そこから、「破綻」が始まってゆく。ミアは一度セブたちのライブに行くが、それがセブのやりたかったことではないことに気づいてしまうのだ。そのことがきっかけで喧嘩になり、また、バンド活動がますます多忙になることで、セブはミアの念願の一人舞台を見に行くことができなくなる。しかも悪いことに、この芝居は大不評で、ミアはもう田舎に帰ろうと決意したのだ。互いの夢に恋した二人はすれ違ってゆく。

だが、思いがけない形で「夢」は実現の方向へと向かう。ミアの一人芝居を見ていたという映画のプロデューサーが是非ミアを主役に、との話をセブのもとに持ってきたのだ。しかもその映画の舞台はパリ。それはミアの叔母が訪れた場所であり、ミアと叔母の思い出の映画「カサブランカ」で重要な意味を持つ土地であった。すっかり自信を喪失していたミアをセブは半ば強引にオーディション会場へと連れてゆくのだ。

 

二人の恋の終わりが描かれるのは、物語の中盤。それはつまり、その恋の終わりがこの物語の結末ではないということである。二人は確かに別の道を歩む。だが、自信喪失したミアをセブは放っておけずにハリウッドに連れてゆくし、ミアだってそれについてゆく。これは「悲恋」ではない。恋を乗り越え、ある意味で「愛」に変わったのではないだろうか。

それが顕著に現れるのが、最後のシーンだ。

ミアは別の男と結婚し、子供もできて、大スターになっている。一方のセブは、ジャズクラブのオーナーになっていた。そのクラブにたまたま訪れたミアは、セブとの思いがけぬ再会を果たすことになる。セブのピアノが始まると物語は映画の序盤、初めてセブとミアが出会うシーンとなり、そこから、「もしセブとミアが結ばれていたら」というある種の「if」ストーリーが走馬灯のように流れてゆく。見ていて気づくのは、そのシーンがどことなく違和感のある映像であることだ。特に、最後にセブとミアがセブのクラブを訪れるカットになると、それが顕著になる。前でピアノを弾く男はどこか生命力のない感じで、音も平べったい。やはりピアノの前にはセブがいないといけないのである。もっとも、それは私の主観でそういう風に見えたのかもしれないが。

ピアノが終わると、場面は現実世界に戻るが、ミアはセブに声をかけることもなく、そっと夫とともに外へと出てゆく。セブはそれを見守り、最後には二人とも、少しだけ寂しそうな顔をしながらも、笑顔を見せ、離れ離れになってゆくのである。私はこれが二人とも相手の行く先を認めたが故の表情だと思う。二人は恋を乗り越えたのだ。そして、互いの夢が叶ったことを知り、二人の「愛」は成就した。互いの夢は今や現実のものとなって、それ以上のことを望むことはない。これはハッピーエンドなのだ。

 

これは「現代的だ」という人もいるだろう。だがやはりこれは古い映画へのリスペクトに溢れていた。というのも、蛇足ながら、この映画のエンディングもどことなく「カサブランカ」を感じさせるものがあるからである。