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旅、映画、食べ物、哲学?

時の流れを感じながら

ヴェトナムに行くのは二度目だった。去年の二月半ばに、私は今回行ったのと同じ友人と、東南アジアの旅に出かけており、その時に最初に訪れたのがヴェトナムだったのである(東南アジアの旅と言っても10日間であり、ヴェトナム以外にはタイのバンコクにしかいっていないのだが)。二度目でしかも一年後、というのは面白いもので、町を訪ねるだけで時の流れを感じることができる。

例えば、ハノイでは、ホアンキエム湖に新しくできた自動販売機と信号機を見た。ネットで調べて動向を確認してみると、おそらくこれは去年の夏くらいにできたものなのであろう(といっても、全くもって根拠がない。そもそも去年の春になかったというのも私の曖昧な記憶である。だが、なかった気がするのだ)。それは、番号を打ち込んで、飲み物が出てくる、というヨーロッパやアメリカにあるようなものだった。ヴェトナムで飲み物と言ったら、おばちゃんが売っているものを買うのがスタンダードなので、ちょっとだけ寂しさを感じるとともに、やはりこの国は変わってゆくのだなということを実感した。

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ハノイでいうと、バイクの路上駐車の取り締まりも、最近始まったことらしい。この現場にも今回は居合わせた。路上食堂で焼きそばを食べていた時のことだ。突然、拡声器を通したのであろう声がし、店の人やバイクの主がその声を聞くや否や道路に止められているバイクの方にすっ飛んで行く。「やべえ、サツがきやがった!」と、まるで違法賭博の人たちのように、車道に出ているバイクを歩道に入れてゆくのである。そして、警察車が通り過ぎるのをやり過ごす。ただ、奇妙なことがある。後で知ったことなのだが、この取り締まりは「歩道占拠の取り締まり」のはずなのだ。車道に出ているバイクを歩道に入れたのでは、逆に歩道占拠を促進しているのではないかと思うが……。

とまあ、いろいろな変化を通じて、私はヴェトナムという国の変化を感じ取っていたのだが、一つかなりショックな変化があったのである。

それは、ホーチミンでのことだ。去年はブイヴィエン通りというバックパッカー、というか欧米人が集まってどんちゃん騒ぎする通りにある「アンアン2」というホテルに泊まっていたのだが、そこがあまりにどんちゃん騒ぎだったので、今回は少し離れた場所に宿泊した。だがやはり今までいた場所というものはきになるもので、私たちはかつて泊まった界隈に行ってみたのだった。

すると、ない。どこを探しても「アンアン2」がないのである。「アンアン2」があったはずのところには、なんと別のホテルが建てられ、外観も黒くなっていたのだ。泊まっていたところだったし、綺麗なホテルだったので、随分と驚いた。「地球の歩き方」にも載っていたし、日本人がやっている現地旅行社とも合体していたようなホテルだったし、まさかなくならないはず、と正直なところ思っていたので、これにはショックである。

そういえば、今思い出したのだが、ハノイでも似たようなことがあった。去年ふらりと立ち寄った、「たい焼きの王」という怪しげな鯛焼き屋があったのだが、そこも跡形もなく亡くなっていた。「たい焼きの王」の鯛焼きは、正直あんこがパサパサで、生地は美味しいのだが明らかにパイという有様、店員たちは店の外でくっちゃべっているような店だった。だがそれでも彼らは日本の接客を真似てなのか、満面の笑顔で客を迎えていた。そんな店が今やないとは。彼らはどうしているのか。発展とはこういうことを言うのか。いろいろなことを考えたものであった。

あったものがなくなる。それはショッキングなことである。その一方で、自動販売機のようななかったものが存在するようになることもある。ホーチミンでは今、地下鉄が建設中のようで、去年よりも工事現場の規模がでかくなっていた。それはいいことなのかもしれない。だが、そのおかげで、鳩が集まる広場はなくなっていた。

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それに気がついた時、私に一つの不安がよぎった。「あのジャズバーは……」

去年、私はホーチミンのジャズバーに行った。そこは、ヴェトナム随一のサックスプレイヤーだというブラザートムのような男が演奏していた場所で、私が初めて行ったジャズクラブであった。去年の貧乏旅行の中に一時の豊かな時間を流れさせてくれた場所であり、今回も行こうと思っていた。いや、むしろここに行くためにホーチミンに行こうとしていたのである。

案の定、そのジャズバーは残っていた。そして、また例のブラザートムがサックスを吹いていた。今回は彼の娘もいて、二人でサックスを演奏するという一幕もあった。やはり時代は変わってゆくのだ。こうやって、バトンを託しながら。だが、ジャズクラブは変わらない。残りつつ、変化してゆくのである。

そのジャズクラブで、一人の初老の紳士と出会った。大阪出身だという彼も、ホーチミンは二度目だったらしい。いや、そう言うと嘘になる。彼の一度目は、ホーチミン市ではなく、サイゴンだったのだから。ジャズクラブでは、さすがにそのことを詳しく聞くことはできなかった。南ヴェトナムの時代の話だ、非常に好奇心をそそられたが、あの場はジャズを楽しむ場である。そうは言っても、別れた後で、「いや、やっぱり聞いておけばよかったな」と心残りになっていたのだが、なんとその翌日、彼とはホーチミンの中華街「チュロン」で再会を果たしたのだ。私たちは再会を祝ってカフェに入った。サイゴンの話を聞きたかったから、という理由もなかったわけではない。

彼が喧騒の街サイゴンを訪れたのは1976年だという。その当時は、北ヴェトナムによる奇襲作戦「テト攻勢」を経て、米軍が南ヴェトナムから撤退するころであり、戦況は相当悪化していた。彼が、当時の友人に会って見せようと思っていたという色あせた写真には、鉄条網がつけられた大学が映る。ちなみに見せられなかったという。彼の友人はどこにいるか、今ではわからなくなってしまったらしい。

彼が泊まっていたのは、今では高級ホテルだらけの川沿いの地区。川の向こう側には北ヴェトナム解放軍が迫っていた。そのためだろう、彼の話では、夜中絶えず銃声が聞こえたという。

「ああいうのは、慣れてる人じゃないと眠れない」

そう、彼は言った。だが、それ以上は語らなかった。

今のヴェトナムでは、バイクの音で目がさめる。朝六時になると、大量のバイクが動くからである。やはり時代は、変わった。今度はたぶん、いい方に。