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旅、映画、食べ物、哲学?

ざらり、音楽のはなし

この前の日曜日のことになるが、カナダで知り合った友達と再会した。というと、夏のカナダ研修以来あっていないような雰囲気が出てしまうが、実を言うと大体4ヶ月ぶりくらいになる。というのも、12月にカナダで僕らの面倒を見てくれた人が来日したからだ。その前にも一度みんなで会ったから、実に戻ってきてから三度目の「再会」である。

あまりに短すぎる制限時間の中で食事をした私たちは、ふとカラオケに行くことになった。このメンバーはみんな歌が歌える人たちで、研修の最終日などは歌の発表もやったわけだが、なぜだか、一度もみんなでカラオケに行ったことはなかった。それぞれ想い想いの歌を歌った後で、思い出の歌を歌おうということになった。それは三曲。発音のクラスの聞き取り問題になっていたジャスティン・ビーバーの「Love yourself」、フェアウェルパーティーでみんなで歌ったGreeeenの「キセキ」、そしてフェアウェルパーティーの出し物で発表した、映画「天使にラヴソングを」の「Ain't no mountains high enough」である。僕がジャスティン・ビーバーを聞くことは、ラジオで流れてきたときくらいしかない。そのせいかもわからないが、「Love yourself」が始まった時、胸に何か、ざらりとした感触を感じた。それはこの曲が嫌いで感じたことではない。長くて短かったあのモントリオールの語学研修の思い出が、曲の始まりとともに、心をざらっと、通り過ぎたからだった。

そういえば、カナダから帰ってきてすぐ、道を歩いていたら、まさにこの「Love yourself」が何かの店から聞こえてきたことがあった。あの時も、そうだった。あの時も、胸に何かざらりとしたものを感じたのを覚えている。音楽が日々を凝縮し、胸に染み入ってくる。まさにそんな感覚である。

 

少し話は広がるが、音楽にはそんな力があるのかもしれない。特に疲れている時、何か悲しいことがあった時、何かを失った時、孤独を感じている時、僕たちの胸の奥に直接やってきて、生乾きの傷跡にすっと触れてくる。そんなとき、ざらりと何かを感じる。なにも、ひどい失恋やすごい喪失感を抱えていなくてもいい。たとえば、忙しいけど楽しかった日々が過ぎ去ってしまった時。そんな時は別に、「ああ、絶望だ!!」というような大げさな感情はないが、なんとなく寂しい。それは多分、忙しいけど楽しかった日々を過ごす時、そんな日々、そこで時間を共有している人たち、そこで起こるできことはみんな、僕たちとまるで一体化しているかのようになっているからだ。だから、日々が過ぎ去り、離れ離れになると、僕らは喪失感を覚える。僕らは自分と一体になっていた時の流れとの別れを経験するのだ。そんなとき、その日々を思い出す音楽が流れると、胸の奥に、ざらりとした感触を感じる。

思い出させる音楽。それは、そんなに思い入れがなくてもいいのかもしれない。大事なのは、そこで流れていた、ということだ。「Love yourself」は、「あぁ、ジャスティン・ビーバーっていい声しているな。澄んだ声だなあ」程度の感想しかなかったが、今聞くとカナダがパッと思い出される。5年ほど前に言ったイギリスを思い出させる歌もあるが、正直あれは曲名すら知らないポップスだ。去年のヴェトナムとタイを思い出させる歌は、これもまた曲名すら知らないアメリカンなポップスである。どれもアメリカンなポップス。僕が好きなのは60年代のロックやジャズ。大して思い入れのない曲たちが、僕の心の寂しさに、ざらりとした感覚を抱かせる。いつもというわけではないが、時に泣きそうな気分にさせる。

なにも、音楽でなくてもいいのかもしれない。だが僕は、音楽が一番、心に染み込んでくるように思う。理由なんてものはわからない。だが、そんなものわからなくったって、音楽は心に押し寄せてくる感じがするのだ。往年の映画「カサブランカ」の主人公でカフェを経営するリックは、相棒のピアニストのサムに、「時の過ぎゆくままに(As Time Goes By)」という歌を弾くことを禁じていた。それは、その歌が、かつてパリで離れ離れになった恋人を思い出させるからだった。きっとリックは、「As Time Goes By」を聞くと、心にざらりとした何かを感じるのだろう。そしてそれは、彼の冷静ではいられなくする。だからこそ彼はこの曲から逃げたのだ。本年度アカデミー賞主演女優賞や作曲賞を総なめにした「ラ・ラ・ランド」では、主人公のミアがかつての恋人セブと出会った時に聞いたピアノの曲で、「自分たちにはかなわなかった日々」に想いを馳せるシーンがある。これはある種、あの「ざらり」感を映像に表現したものと言える。音楽は確かに、失われた日々を、マドレーヌ以上に思い出させてくれる。いや、思い出させてしまう。

 

過去だけではない。思い入れも思い出もない音楽が、心に直接来るってこともある。そして、その時感じている寂しさにざらりとした感触を残すこともある。

一週間台湾にいた、去年の9月。あれは確か5日目だったと思うが、僕はどことなく心に「寂しさ」を抱えていた。理由はいろいろある。たとえば、疲れていた。中国語に疲れ、体力的に疲れていた。そして、その前日日本語が喋れる台湾人のおっさんと話したことで、「誰かと話したい」というモードになってしまったということもある。だが一番大きいのは、旅のタイムリミットが近づいていたからだった。あと2日で、僕に何ができるのだろう、そう考えていた。いや、実を言うと、「あと1日」だったのだ。なぜなら、翌日は台風接近の日だったんだから。

僕はあてもなく、「西門町」という若者スポットを歩いていた。そこは日本好きが集まる場所で、もしかすると、誰かと話せるのではないか、と思っていたからだった。だが、そううまくはいかず、たださまようだけであった。そんな中、ストリートミュージシャンが歌い始めたのだ。曲名なんて知らない。とにかく高めの綺麗な声で、彼は歌い始めた。日が暮れ始めていた。中国語の曲が、僕の胸に直接やってきて、そう、あの時僕は、「ざらり」を感じたのだ。異国の地で一人なのが嫌なのではない。いや、何も嫌なことなどない。むしろもっと長くいたかった。だが、この時は心が疼いた。

同じような感覚を抱いたのは、その2日後、台北駅でだった。僕は帰るのが嫌で、地下街をうろうろしていたのだが、そこにもストリートミュージシャンがいて、しばらく聞いいていると、「なだそうそう」の中国語版を歌い始めた。みんなが歌っている。僕は歌わなかったが、ざらりと感じた。そして、ようやく、帰る決心がついた。

 

音楽は不思議だ。胸に直接来て、人の心を疼かせ、そして、人の心を踊らせるのだから(「ラ・ラ・ランド」のオープニングを聞くと、楽しげな歩き方になってしまったりする)。一体どうなっているんだろう。などと、思ったりする。