Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

偶然か、必然か、それとも運命か

人と人との出会いは偶然なのか、運命なのか、という話に、二日続けてなったことがある。メンバーも違うので、どうやらあの時は、この話をする「運命」にあったというわけだが、私は正直どちらでも良いと思っている。

すべての人はそれぞれの人の意思で動き、時に誰かに影響されつつもどうにかこうにか生きている。動物もある程度は自分の思うままに行動しているのかもしれない。出会いなんてものは、人と人がそれぞれの思惑で動く中でたまたま起こるもの。そう考えてみると、いろいろな偶然が重なり、いろいろなことが起きているような気がする。だって、運命に動かされて人は普通何かをしないからだ。何かがあってから、運命を感じる。行動する時はいつも自分本位で、何かが起こってみて、「運命だったのかもしれない」と思うわけである。

でも、そんな偶然の重なりは、もしかすると運命と言えるのかもしれない。ブラジルで羽ばたいたチョウの羽ばたきが、台風を起こすというような話があるが、それはある意味で、奇跡的なことである。もし、チョウがその時羽ばたかなければ台風が起きなかったかもしれない。これは人と人との間も同じことで、あの時の選択がなかったら、あの人とは合わなかったかも、ということもある。そしてそれは、それぞれの人の思惑を後から繋げていって考えると「運命」や「必然」があったような気がしてくるわけだ。そして、偶然であるがゆえに、それはなかなか起きないことだから、その「運命」はより感動的な「運命」として受け取られることになる。まさに、「あの日あの時あの場所で君に出会わなかったら、僕らは、いつまでも、見知らぬ他人の……まま」ということだ。

偶然か必然か、はこんな風に見方次第である。だから、人と人との出会いは運命か、偶然か、などとはなしあってもなにもえることはない。それはいわば、カタツムリを見ながら、「これはデンデンムシか?」「いやいや、これはマイマイだ」とやりあっているようなものである。要するに、起こっていることは同じなのだ。

だが、面白いのは、偶然だからこそ、運命だという点である。偶然は、滅多に起こらない。逆に必然はしょっちゅう起こる。もし、りんごが木から落ちるのを見て、「こりゃあ、運命だ!」などと言ったら笑われるに違いない。これは必然だけど、運命じゃないのだ。だけど、人と人との出会いは違う。偶然であり、だからこそ、私たちは「運命かもしれない」と感じる。偶然と言って仕舞えば、何度でも起こる気がする。運命と言って仕舞えば、すべて昔から決まっていたような気がする。だが真相は違う。偶然は滅多に起きない。そして運命は昔から決まっている必要はない。「君の前前前世から僕は探し続け」る必要なんてどこにもない。むしろ、滅多に起こらない偶然の中で、人と出会うから、運命なのではないだろうか。だからこそ、衝撃があるのではないだろうか。

そう考えると、実はどの人との出会いも、運命であり、偶然なのだ。いや、偶然だから、運命なのである。好きになった人も、嫌いになった人も、大して何の興味も湧かない人も、離れ離れになる人も、腐れ縁になる人も、そう、誰でも。そこに取り立てて、「運命の人」などと言いたがるのは、きっとそれぞれの運命の中でも、「運命だ」と思いたいくらいエモーショナルな出会いがあると信じるからだ。だけど、実際はどれも変わらぬ、偶然という運命の出会いなのだと思う。運命は、偶然だからこそ、何度でも訪れる。何度でも訪れるからといって、侮ってはいけない。だって、それは70億人のうちの一人との偶然の出会いなのだから。

などと、書いてみると、案外恥ずかしいものである。しかし、どうやらこれを公開する「運命」にあるようなので、「公開する」ボタンをクリックしてしまおうと思う。