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ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

『知と愛』のはなし

この前、友達と一緒に西田幾多郎の『知と愛』というエッセイを読んだ。読んでいる様子はツイキャスにあげているので、私のTwitterを知っている人なら、遡って見つけることができるだろう。このエッセイは、西田の『善の研究』という大著のエピローグのようなもので、もともとは独立したエッセイだったという。

彼は言う。知と愛は、同じ精神作用だ、と。知るということは、自分の思い込みを捨て、知識へ身を委ねることである。そして愛するということは、自分を捨て、相手を想うことである。どちらにも、「自分」は消え去ってしまい、そこには「純粋経験」だけがある、と(純粋経験とは、私たちが普段やっている経験である。例えば夕日を見ている時、私たちは決して、「私は今、夕日を見ている」などと感じはしない。じっさいには、ただただ目の前に夕日を感じているのである。そのとき、「自分」は消えている)。いや、それどころか、西田は、「知即愛、愛即知」と言って見せる。つまり、相手のことを知るがゆえに、相手をますます愛し、何かを愛するがゆえに、何かを知るのである。

なかなか納得させられる。高校生の時、私は古代ローマの本を読み漁った。そのおかげで今、ローマの歴史の流れをそらんずることができる。「ラティウムに住む男たちが、ローマの土地に国を建て、指導者ロムルスが王になり、王政が始まって、ヌマなどの前世を敷く王様の時代が続き、その中で隣国エトルリアの文明を吸収していくが、最後の国王タルクィニウス・スペルブスは……」と。これは正真正銘「知識」だ。それも、世界史の勉強の役にも立たないし(国王の話なんて、高校の教科書では「ロムルスがとレムスが建国。その後、エトルリア人の国王を追放して」で終了である)、実生活の役にも立たない知識である。だが、私にとっては意味があって、ローマ史の話をしろと言われて国王の話から始めるのは、二代目国王ヌマから六代目セルウィウス・トゥッリウスの業績が、最後の王様のせいで無に帰せられるのがかわいそうだからだ。それはある種、ローマの歴史という一連の流れを愛するからである。実際、ローマ史を調べていた頃は、しょっちゅうローマ人の話を私自身していたと記憶しているが、それはよく考えてみると、恋をした人が恋する相手の話をすぐにしてしまうのと非常に似たところがある。私はどうも「熱っぽい」性格のようで、ローマだけではなく、物理学(特に相対性理論量子力学の歴史)、数学(特にフェルマの最終定理)、江戸の歴史、幕末〜明治に活躍した榎本武揚フランス第二帝政を作ったナポレオン3世、世界の言語などに同じような感覚を抱いていた。今から思えば、あれこそまさに「知即愛、愛即知」だったと思う。逆に言えば、このような「愛」がなければ、本当に楽しんで「知る」ということはできないだろうし、ただ覚えただけの知識はすぐにどこかへ消えてしまうのだろう。もし、教えるのが上手い先生がいたとすると、それは話が上手いだけではやっぱりダメで、その知識への「愛」を豊富に持ち合わせた人に違いない。知ったかぶりや知識自慢ではなく、純粋な愛あってこそ、聞き手もその愛に飲み込まれ、知識を「人格的なもの」「いきいきしたもの」として受け取ることができるはずである。

人に関しても、間違いなくそういうことはある。初めは見た目が好きとか、声が好きとかだったとしても、だんだんとその人のことを知るにつれて、その人を好きになって行き、好きだから、知りたくなるのかもしれない。星野源の「くせのうた」という歌を思い出す。「君の癖を知りたいが、ひかれそうで、悩むのだ……」知ることは、愛することへと近づいてゆく。もちろん、知るからといって愛するわけではない。だが、愛していなければきっと、知るというよりも、決めつけて終わると思う。「あいつはこういうひとだから」「お前はこういうやつだよな」「お前が考えそうなことだ」などということは、「知る」ことではない、と思う。確かに初めは知ろうとしたのかもしれないが、もはや分析する方向へと進んでいて、それは愛とは言えないし、知ってもいない。嫌いな人に対してやりがちなことだ。いや、もしかすると相手を盲目的に好きになると、これまたやりがちなことなのかもしれない。

そうやって考えてみると、科学を「未来を予測するためのもの」と考えるのは、一つ間違いなのかもしれない。確かに、ニュートン力学は、ハレーという人がニュートンの数式を使って彗星の出現を予測した時、確かなものになった。自然科学とは違うが、経済学は経済の動きを予測する役目を期待されているし、気象学は気象予報を求められている。だが、科学の精神って、本当にそこにあるんだろうか? 今、理論物理学でホットな話題は、「TOE(=万物の理論)」だろう。これは何かというと、予測するというよりはむしろ、この宇宙を動かすあらゆる力(ちょっとマニアックな話をすると、四つの力であり、一つは万有引力、もう一つは電磁気力(静電気や磁石の持つ力)、最後の二つは原子を成立させている「強い力」と素粒子を変化させる「弱い力」。電磁気力と強い力と弱い力は、「統一理論」で統一されそうだ)を一つの理論によって説明し尽くそうという動きだ。これは予測ではなく、過去に遡って、全ては一つであったことを説明しようとしている。それはひとえに、「知りたい」という思いである。それは「愛」にも似たものである。予測することは、自分の知ったことを元に、相手をいわば「決めつけ」、次の出来事を読むことだ。これは愛とは違う。

西田幾多郎はあまり書いていなかったと思うが、「決めつけ」の問題は随分と根深いし、他人事ではない。人はみんな何かや誰かを愛しながら生きている。だがそれは、「決めつけ」に走る可能性を秘めている。ストーカーや、自然破壊はその極致と言っていいだろうが、どの人もそれをやりかねない可能性を持っている。歴史を楽しんで学ぶと、いつの間にか、現代という時代を変えてやりたくなってくる。相手を知ると、自分が相手にできることに思いを馳せ、いつの間にか自分が相手を変えてやろうという気持ちになる。必ずしもその全てが悪いわけではないし、それは歴史や人生を動かす原動力に確かになっている。だが、それは時に暴力的で、危険な側面も持つ。ちょっとした「君って〜な人だよね」「この民族の歴史は〜な感じのサイクルをいつもたどる」「日本人は〜な民族だ」は、いつか、危ないものになるのかもしれない。私たちは微妙な位置で生きていて、愛と知は微妙な位置にある。人を本当の意味で愛し続けるには、もしかすると何もしないという選択肢しかないのかもしれないし、何かを本当の意味で知るということは応用的なことは一切してはいけないということなのかもしれない。だが、行動や応用がない限り、人は歴史や人生を前に動かすことができないのもまた事実だ。

大切なのは、純粋な愛、純粋な知を楽しむ経験を持つことかもしれない。それを大事にした上で、それをいかに前に進めるかが問題だ。そうやって考えると、西田幾多郎のいうとおり、「純粋経験」へとたちかえらないといけないのかもしれない。そして、それこそ現代において哲学のできることなのかもしれない。それは一人で行うことでもいいし、誰かとともに対話することによってなのかもしれない。フランス人哲学者のベルクソンはこんなことを言っている。

「科学者は、自然に服従し、命令する。哲学者は、服従も、命令もしない。ただ、共感することを求める」