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ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

On my life

この前、生きることと死ぬことの話をした。発端は、ある高校生が、死んだ後に魂だけになるのが怖いと言ったことだった。

その時、友達が「死んだ後のことはわからないから、怖くない」と言っていた。死んだ後にはもしかするといいことがあるかもしれない。悪いこととは限らない。だから、死ぬことを恐れることはない、と。私はそれを聞いて、半分賛成半分反対というような感じであった。

私も昔死ぬのが怖かった。それは、あの高校生が言っていたように、死後の世界に行くという怖さと、本当に行けるのかという怖さだった。自分の意識がなくなってしまう。今は一生続くと思っているような意識が、なくなるとはどういうことなのか、そのわからなさが怖かった。だが、年をとるにつれて、あまり考えなくなった。

 

一つは物理学をやったことのおかげだった。この宇宙には、「エネルギー保存の法則」というものがある。それはいわば、エネルギーというものを平に保つ法則だ。そう考えると、自らエネルギーを生成するという生命のあり方は、この法則を大幅に逸脱したものである。そうすると、必ず人は死ななければならない。どんなに不老不死の技術を施そうとも、それを維持するには、「維持し続けねばならない」ので、際限がなくなってしまう。放っておけば、エネルギーを発散しながら、ついにはエネルギーが一定の、つまり「死」という状態にならざるをえないのである。中学の時物理学の本を読んでいて私は子供ながらにそう思った。なぜだかわからないが、諦めがついた。宇宙全体が自分を殺しにかかるなら、もう、それは受け入れざるをえない。

そういうわけで、私はもう悩まなくなった。というより、悩んでも仕方がないと思うようになった。死ぬ時は死ぬんだ。でもそれは今じゃない。それならいいではないか、と。この種の問題は、時に考えないことが一番の解決策であり得る。

 

そもそも、私たちは死後の世界を知らない。私たちには生きている世界しか見えない。それは仕方のないことだ。そして、想像も、論理も、なんらかの材料がなければ始まらない。馬も鳥も知らない人はペガサスを思いつくことすらない。だから、死後の世界をどう頑張って考えてみたところで、私たちは自分たちの世界をベースに考えるしかなく、単なる妄想でしかないのだ。それが、人の心を安心させるなら、それはそれで構わない。生まれ変わりも、死後の楽園も、あるいは地獄も、話としては面白い。でも、本当にあるかは、一生かけてもわからないだろう。いや、一生かけているうちはわからないだろう。そうしたら、もう、死んでみてからでないとわからないのだ。そして死んだら戻ってはこれなさそうだ。なら、もう考えるのはやめたほうがいい。物語の世界を広げる以外に、私たちには手段はないのだから、それで我慢するしかない。前世についても、私は少なくともそんなもの覚えていないし、もしあったとしても、今覚えていないということはきっと、来世でも私は何も覚えていないのだろう。なら、変わらないじゃないか。今を生きるしかない。

それでいいのか、という人がいるかもしれない。だが、それでいいのかという人に問いたい。それ以外にできるのか? 死後の世界について思い悩む時間があったら、人生に目を向けたほうがいいのではないか。もちろん、それは人の勝手だ。そして、思い悩むというのは、思い悩もうとして思い悩むというより、思い悩んでしまうものだ。だから、止めはしない。だけど、少なくとも思い悩むことを肯定することは、私にはできない。

まあひとまずのところ、私は死んでも何もないと思うようにしている。なぜなら、わからないからだ。わからないことに希望を持っていても、それが違った時に絶望しかない。だから私はもう何もないと思うことにした。すると、もし死後の世界があった時、地獄だろうと天国だろうと、なんとなく棚から牡丹餅的な幸福感に包まれそうだし、存在しなければ、そのまま消えてなくなるだけだからだ。そのほうがいい。それに、「来世がある」と思わないほうが、懸命に行きられる。「来世やろうは馬鹿野郎」である。死後の世界を考えても、得るものはどっとくる疲れと絶望感だけだ。

 

だから、私は生きるということが大事だと思う。なぜなら私たちは生きているからだ。生きるべきだから、でも、尊い命だからでもない。私たちは生きているからだ。生きているということに価値がある。神に与えられたのか、仏性を持って生まれてきたのかなどはわからない。私は否定しない。だがとにかく生きている。過去から現在へと、私たちは自分を試しながら生きている。各人各様のやり方で、だ。そうやって生きてきて、これからもそうやって生きてゆくしかない。だが生きてゆくしかない、というのは、生きて行けということであり、生きて行けるということだ。人生抜きに私たちは存在しえない。だから、この人生を生きてみようじゃないか。

「死を思え」と人はいう。だが、その前に、「死んでも悔いはない」という人生を作ることが大事だ。自分の死が意味を持つとすれば、人生あってのことだと思う。死とは人生の終わりだ。人生は、「こうもできる」という可能性の世界だ。だから死とは可能性の終わりだ。そう考えるなら、可能性に執着があるなら、生きていたほうが良い。それだから、人生は生きておいたほうがいいと思う。哲学には「自殺」の問題というものがあるが、私は「生きておいたほうがいいのに」という立場で、自殺には反対なのだ。まあもちろん、それは私が恵まれているのかもしれない。だから人のことはわからないが、とりあえず私は死ぬなんて思えないし、思ったこともない。生きているのだから、生きていくしかない。どんなに悪いことがあっても、自分を変える機会になるかもしれない。人生、悪い状態で終わるなら、それを打開してから終わったほうがいいじゃないか。

 

私は旅に出る前は、できるだけ悔いを残さないようにしたいと思っている。明後日私はヨーロッパに立つが、今回は異例の長さであり、最近のヨーロッパ情勢の変化もあり、前にもまして悔いを残すまいと思う。それは、死ぬかもしれないと恐れているのではない。むしろ、「生きる」ためなのだ。いつでも、悔いがないように行きたいが、そんなに気を張って生きられない。だからこの機会を利用して、後に伸ばし伸ばしにしていたことをやってしまいたいと望むのである。そうやってこそ、何か大変なことが起きて、どんなに対処しようとしても無理という状態になった時も、運命を受け入れることができる。

美空ひばりのいうように「生きることは旅すること」なのかは知らない。まだそんなに生きちゃいない。だが、私は旅の中で、生きることを感じる。それは本当の意味で生きることができるからだ。旅という短い期間の中で、自分を試すことができる。そして自分を学ぶことができる。そうする中で、生きることができるのだ。それは、旅の中だけではなく、旅の少し前でもそうなのかもしれない。「悔いを残さずに旅立つ」というのは、そういうことなのだと思っている。できるかはわからないし、まだまだ悔いが残りそうなことはたくさんある。でも、できるだけそういうものは少なくしたいものだ。

 

だから、私は死に希望を持たないし、生きることにしか興味がない。それでいいと思っている。どちらにせよ、生きているという事実には変わりない。だから、死とは何かを問う時間があったら、どう生きるかを問いたい。今をどう生きるかを考えたい。あんまり生きる生きるというと、薄っぺらいポエムみたいで嫌な感じだが、仕方がない。私たちは、生きているのだ。