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ある大学生の日常をエッセイ調にかっこつけて書く。

1都市目:ストラスブール(1)〜戦争と平和の狭間の街〜

パリのシャルルドゴール空港についた次の日、私はフランス版の新幹線とも言えるTGVに乗って東の果てのストラスブールを目指した。TGVは値が張るが、私はユーレイルパスという青春18切符のようなものを持っていたので、予約料だけを払えばよかった。パリからストラスブールまではだいたい2時間かかる。

正直、前日のフライトで私は疲れ切っており、ホテルを探す気にもなれず、ホテルはネットで予約をした。電車内でも、ひたすら車窓を眺めていた覚えがある。電車が駅に着くと、力を振り絞り、10kgあるリュックを背負って、駅へと降り立った。駅はヨーロッパの伝統的なスタイルのものだった。石造りの駅舎の真ん中に何本か線路が通っており、それを挟むように幾つかプラットフォームがあって、駅構内から直通していないプラットフォームに行くには、地下通路を通じてゆくしかない。そして、改札は存在せず、ただチケットに刻印をする黄色い機械が階段のそばに置かれている。だが、ストラスブールには独特の作りがあった。それは、古い石造りの駅舎を覆うように存在する、モダンなガラス張りの球状の構造だ。古さの新しさが混在する雰囲気が醸し出されていた。

翌日6時20分のディジョン行きの列車を予約し、街へと繰り出すと、なんとなく体の疲れも心の気だるさも風に洗い流されるような気分になっていった。不思議なことだが、街が、「さあ歩こう」という気分にさせてくれたのである。パリほどではなかったが、コートを羽織っていてちょうど良いくらいの温度の風が街を吹き抜け、空は曇天であったが、少しゴミゴミとした古い街並みを見ていると、外へと向かう気力も出てくる。私は街の中心地へと向かった。街の中心地にあるクレーバー(クレベール)広場に、ホテルがあったからでもあった。

街全体はどこか賑わった様子で、建物は背が高い。フランスの端というイメージがあったので、思わず「案外都会だな」と思ってしまった。よく考えれば、ストラスブールはドイツとフランスというEUの二大大国の狭間にあるわけで、交通の要衝でもあるのだろう。くだんのクレーバー広場の真ん中には仮設ステージがあったが、何かをするような雰囲気があるわけではなかった。私は広場の一角にある小さなホテルに入った。

「J'ai réservé une chambre(部屋ヲ一ツ予約シマシタ)」

とロビーにいた若い女性に伝えると、私の名前を尋ね、部屋の鍵を渡した。そのあと何事かフランス語で言ったが、正直聞き取れない。だが、「ディズール(10時)」と「フェルメ(閉まる)」と言っているので、おそらくロビーが10時で閉まるのだろう。早いな、と思いながら、私は頷いた。次は朝食の話だ。明日の列車は6時20分なので、いらないと答える。するとまた何事が言っている。今度は本当にわからない。聞き返すと、彼女は英語に切り替え、説明した。車はあるか?と。あるはずもないので、ない、と答えた。

話を聞いてみると、どうやら駅までの移動手段のことらしい。これはありがたい話だった。なぜなら、駅までの道は長く、そこまで治安も良好というようには見えなかったからだ。明るいうちなら良いのだが、明日は早朝の列車。カンボジアプノンペンで早朝のバスを降りて一度怖い目にあっているので、もうあれはゴメンだったのだ。是非、使いたい、というと、電車か車かどっちがいいかと聞く。駅までそこまで遠くない。私は電車を選んだ。正確には、路面電車すなわちトラムである。トラムの駅はホテルのすぐそこにあるらしい。私は手続きを終え、手動でドアを開ける方式の狭いエレベーターに乗り、ホテルの部屋に入った。部屋はちょうどよく狭い。私の好きなタイプの部屋だった。だが、1日の滞在だ。青年よ、ホテルを捨てよ、町に出よう。そんなわけで、私はロビーに鍵を預け、地図をもらい、レストランのある場所だけ聞いて、肌寒い外へと繰り出した。

 

ストラスブールは、先ほども言ったように、フランスとドイツの狭間にある。ストラスブールを中心都市とするアルザス地方と隣接するロレーヌ地方は、兼ねてからフランスとドイツという二つの大国の係争地帯となってきた。なんどもストラスブールというフランス語の名前とシュトラスブルクというドイツ語の名前をいったりきたりした。ことの起こりは1648年に結ばれた「ヴェストファーレン条約」である。それまではドイツ地方(その当時はドイツという国は存在せず、小さな国家が寄せ集められていたためこういう言い方をすることにする)を統合する「神聖ローマ帝国」の一員だったアルザスとロレーヌが隣国フランス王国に併合されたのだ。この条約は、当時支配的だったカトリック教会のやり方に反発するプロテスタントと立場を守りたいカトリック教会との泥沼の戦い「30年戦争」の講和条約だった。だが、この戦いは最終的に政治闘争の様相を呈し、カトリック教会と結ぶ神聖ローマ帝国と同じくカトリック教会と結んでいるが神聖ローマ帝国を潰したいフランス王国の戦となっており、アルザス=ロレーヌもその関係で争われたのである。そして、この地方は1871年までフランスのものであり続けた。だが、この地方に住む住民はドイツ系で、ドイツ語に似たアルザス語を話していた。

状況が変わるのは、ドイツ地方の完全統一をもくろむ北のプロイセン王国ナポレオン三世フランス帝国に仕掛けた「普仏戦争」だった。民衆の要望に応える形で踏み切られたこの戦いはフランス不利の戦況で進み、ついにはスダン要塞でナポレオン三世プロイセン軍によって捕虜にされるという形で戦争は終結へと向かう。プロイセン軍はそのままパリへと進軍し、絶対王政時代の中心ヴェルサイユ宮殿で、ドイツ帝国の建国を宣言するとともに、フランス臨時政府にアルザス=ロレーヌの割譲を認めさせた(割譲されるアルザスの様子を描いたのが、「最後の授業」という物語だ)。

1914年、ドイツ帝国が東欧の混乱に首をつっこむ形で第一次世界大戦が勃発すると、フランス共和国ドイツ帝国に対して宣戦布告をし、アルザス=ロレーヌ地方の奪還を目指した。アルザス=ロレーヌに位置するナンシーやヴェルダンは激戦地となった。フランスはかなりの痛手を被ったが、アメリカの支援もあってフランス側が勝利するとフランスは、奇しくもドイツ帝国の建国とアルザス=ロレーヌ割譲が宣言されたヴェルサイユでの講和会議で、ドイツから莫大な賠償金とアルザス=ロレーヌの奪還をドイツ政府に認めさせたのだった。

そして話はまだ続く。1933年にドイツで成立したヒトラー率いるナチス政権は、1939年に第二次世界大戦が勃発するとフランスに進軍、アルザス=ロレーヌを併合したどころか、最終的にはパリも含めたフランスの北半分を併合し、南半分をフランス人による傀儡政権「ヴィシー政権」の領地としてしまった。その後、北部ノルマンディー地方からアメリカ・イギリス・ドゴール将軍率いる自由フランスなどからなる「連合国軍」が上陸すると、フランス一帯は解放され、ドイツ敗戦後はアルザス・ロレーヌは再びフランスのものとなった。戦後、EU構想が持ち上がる中、ドイツとフランスは積年の争いに終止符を打つべく、この地にEUの機関を置いた。「欧州の平和はアルザス=ロレーヌにあり」と。

 

街を歩いてみると、やはりこの土地はドイツ文化の町なのだと気づかされる。例えば、アルザス語である。街を歩くと、フランス語ではない言葉を喋る人がかなり多いように思うが、私にはそれがアルザス語なのか、ドイツ語なのか判別できない。だが、レストランに入ってみると、その言葉で店員同士が話しているので、この言葉が未だに「生きているのだ」と気づかされた。さらに、標識は、フランス語とアルザス語のに言語表記だが、見てみるとやはりドイツ語みたいである。店の名前だってドイツ語みたいなものが並んでいる。ドイツ語がわかる方なら、下の写真を見て、読んでみればわかるはずだ。

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「リュ・ドゥ・ラ・アッシュ=アハトゲッセル」

「リュ・ドュ・サングリエ=ハーヴェァグラース」

街並みも、パリなどとはだいぶ違う。市の地区の紋章が並び、建物は木と漆喰でできた背の高い建物である。おそらくすべて石でできた教会は天まで届きそうな大きな塔があり荘厳だ。フランスというより、南の方のドイツのような雰囲気がある。看板の文字はドイツ特有のひげ文字で、居酒屋には「Winstub(ヴィンシュトゥプ)」。テラス付きのカフェは少ない。

私はストラスブールでやることも指してなかったので、とりあえず目に入った巨大な教会の中に入った。それは街の中心部にあり、レストラン街のそばらしいが、おそらく街で最も有名な教会のようだ。かなりの行列ができている。私はそこに並び、順番を待った。教会前の広場では、四人組の軍人が銃を持って歩いている。平穏そうに見えるがフランスは未だ非常事態宣言発令中の国だ。軍人の姿を見ると、それをありありと見せ付けられることになる。どうやらストラスブールはフランスとドイツの狭間にあるせいか、厳重注意のようだ。かなりの軍人がパトロールしていた。

そうこうするうちに、私の番が回ってきたので、私は教会の中に入った。

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