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旅、映画、食べ物、哲学?

6都市目:トゥールーズ(2)〜カスレクエストと理系のロマン〜

できるだけ先ほどのホームレスのいるところを避けながら、わたしは街の中心部へと戻った。何だか暑い。泊まる場所があんな感じだと少し元気もなくなるもののようだ。

三時にランチ場所が空いているのかよくわからないので、ウィルソン広場のハンバーガーショップ「Quick」に入ってみた。フランスで安くて美味しい店はないかとフランスに語学留学していた友達に聞いたところ、ここがいいと言っていたからだ。食券機のようなものでオーダーするというのは聞いていたので、モニターをいじってみたが、使い勝手が悪い。悪戦苦闘しながらチーズバーガーとポテトとミニッツメイドのセットを注文していると、おばあさんがやって来て何やら聞いてくる。何を言っているのかわからないので、すみません、英語は話せますか?と尋ねると、メガジャイアントを頼むのかと聞いてくる。私は違うものを頼む予定だったので、違うと答えた。するとおばあさんはどこかに去って行った。

機械に支払おうとしたが、支払いはカウンターらしい。カウンターに近づくと、お姉さんが馬鹿でかい声で数字を叫んでいる。しかし残念ながらフランス語の数字はマスターしきれていない。困っているとさっきのおばあさんだ。あなたじゃないのと指を指す。あまりにもQuickすぎるなと思ったが、案の定わたしのオーダーだった。明らかにめんどくさそうな表情のお姉さんに支払って、わたしはテーブルについた。

ハンバーガーはヨーロピアンサイズなのかと思いきや、思いのほか小さい。ポテトはべろんべろんで、パテはペタッとしていて、チーズはかなりのチーズ味。嫌いな人は嫌いそうだが、わたしは嫌いじゃない。チーズバーガーを喰らっていると、先ほどのおばあさんが前の席に座ってハンバーガーを食べ始めた。そういえばわたしの友人もディジョンのQuickでおじいさんと交流したと言っていた。そういうのもいいだろう。それに、わたしにはこの街で土地の人と喋りたい理由があった。

トゥールーズは山に囲まれていて、鹿やカモなどのジビエ料理が有名だ。中でも、鴨のコンフィ(平たくいえば素揚げ)を、ソーセージや白インゲン豆の煮込みに乗せて、さらにオーブンで焼いた「カスレ」という料理は名物である。わたしはこの料理をテレビのフランス語講座で知って、そのあと鎌倉のレストランで食べ、大好きになった。フランス料理屋を舞台にした近藤史恵のミステリ小説『タルト・タタンの夢』にもカスレが出て来て、読んでいるそばからお腹が空いたのを覚えている。トルコのイスケンデルケバブといい、ヴェトナムのフォーといい、インドのラムカレーといい、わたしは肉を煮込んだ料理に目がないらしい。とにかく、トゥールーズに来たからには、これを食べずにはいられなかったが、どこで食べられるのかすら知らなかった。だから現地人の人の協力が不可欠だったのである。

わたしは、トゥールーズ人を「Toulousain」というのを思い出し、勇気を振り絞っておばあさんに話しかけてみた。

「Vous êtes Toulousaine?(トゥールーズの方ですか?)」

「ええ、そうよ。ずっと住んでいるわ。あなたは?」おっと、カスレの話に持って行く前に世間話になってしまったが、まあいいだろう。

「日本からです」

「どれくらいヨーロッパに住んでいるの?」なぜかヨーロッパに住んでいる設定になってしまった。

「これはヴァカンスなので、一ヶ月です」

「仕事?あ、それとも大学?」おばあさんは聞く。

「えーっと、ヴァカンスです」

「家族がヨーロッパにいるの?」

「いえ、そういうわけでは」

「一人で旅行?」

「ええ、まあ、そういうところですね」

「あら!」このあと知ることになるが、ヨーロッパ人にとってひとり旅は結構驚きのようだ。これは意外だった。

「日本のどこ?」おばあさんは続けた。

「東京です」

「あらま、じゃあ、大都市ね。大都市には慣れてるのね。トゥールーズはそんなに大きくないですけどね、フランスでは大きい方よ。スペイン語はできる?」とおばあさんが聞く。きっとわたしのフランス語があまりに不自由だったからだろう。面白いのは、スペインにもほど近く、歴史的にもカタルーニャと関係の深かったトゥールーズでは、「英語<スペイン語」だということだ。正直いうと、フランス語の方ができる。スペイン語はまだ半年しかやっていないのだ。だが、なんだか嘘がつけず、

「えーっと、Un poco, un poquito(少しだけですけど)」と答えた。

「Tokyo es muy grande, grandioso, ¿no?」東京は大きいというような意味だ。うん、フランス語の時にもう聞き取れているし、スペイン語の方がきついのである。

「Si(西:はい)」と一応答え、わたしはおめあてのカスレの話を聞くことにした。「Eh, Où on peut manger de bon cassoulet?(仏:えーっと、どこで美味しいカスレは食べられますか?)」

「ああ、カスレが食べたいのね。たくさんあるけど…」おばあさんは少し悩んで、「Père Léonは美味しかったわ」と答えた。わたしはツーリストインフォメーションで手に入れた地図を取り出して、書いてくれというような仕草をした。おばあさんはあまり目が良くないらしく、今どこかと尋ねた。ウィルソン広場を指差すと、こっちの方、といいながら、「Esquirolにあるわ」といった。指差したところのそばには、「Esquille」という通りがあったので、ここかなと思った。記憶が曖昧になっている可能性もある。その通りはかなりこじんまりしているので、すごく小さな店なのだろう、などと色々と想像しながら説明を聞いた。

おばあさんと別れると、わたしはお盆を片付けて、Quickを出た。一応、その店がある通りに行ってみよう。それに、きちんとキャピトル広場も見ておきたいではないか。

ウィルソン広場を抜けて、ツーリストインフォメーションのある別の広場に入り、さらに進むとキャピトル広場がある。赤茶けた建物に真四角に囲まれた広場は直射日光をもろに受けている。美しさの本領を発揮するのは、きっと日暮れの後だ。だが、ホテルの立地から考えるに、あんまり長居はできない。広場は今は暖炉のようだ。しかしそれでも、この広場の持つ風格はある。この広場ができるかなり昔だと思うが、この街はかつてトロサと呼ばれ一国の首都であった。西ローマ帝国が弱体した後にフランスの南半分からイベリアを支配した西ゴート王国の首都だ。今の感覚でいうと、ポルトガル、スペイン、南仏は一つの国で、その首都がピレネー山脈を隔てたトゥールーズにあったわけだ。わたしは広場をしばらく眺めた。キャピトルというから、広場でひときわ目立つのは市庁舎。フランスの旗とEUの旗にならんで、赤地に刀のように鋭く尖った金の十字架の紋がある旗がなびいている。かつてはカタリ派結集のマーク、今ではオクシタニアの旗だ。広場の端っこでは、観光用の電車がちんちんいいながら走っている。わたしは路地に入って街を散策しつつ、例のカスレ店を見つけることにした。

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トゥールーズに来て驚くことは、全てが赤茶けていることだ。人はこれをバラ色というらしいが、やはり赤茶けている。限りなく赤に近い赤茶色のレンガで建物のほとんど全部が作られており、どこを歩いても赤茶けている。まるで異世界のようだ。フランスでは、ほとんどが白っぽい街なので珍しい。

レンガの壁に貼ってある標識は、ニ言語表記だ。前回触れたように、トゥールーズを中心地とするオクシタニアはかつてフランス語ではなく、オック語圏であった。もう話している人は少ないというが、一応尊重するという形で標識にはオック語が載っている(と、フランス人は言っていたのだが調べてみると絶滅危惧にはなっていないようだ)。時には、オック語だけのものもある。フランス語よりも、マルセイユの方でかつて話されていたプロヴァンス語や、ピレネー山脈を超えた向こう側にあるカタルーニャカタルーニャ語に近いと聞いたことがあるが、標識を見ればなんとなくわかる。

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上の「リュ・パガミニエール」がフランス語で、下の「カりエラ・パガミニエラス」がオック語だ。カタカナにしてみると、どことなくイベリア半島のかほりがする。他にもVをBの同じ音で発音するなど、イベリア半島の言語に近いところがある。オック語はアルビジョア十字軍のあと、フランス王国による悪名高き「ヴィレル・コトレの勅令」で公的な立場から追放され、民衆の言葉になった。フランス革命後、伝統や文化よりも理性と平等を重んじるジャコバン派政権はフランスの方言追放運動を開始、さらに第三共和制フランスは1881年オック語の学校教育は禁止された。第三共和制という政権もまた、フランスを共和国の理念と平等な市民という考え方で統一しようとしていた。フランスはEU加盟後も言語政策を改めようとはしなかったが、一応二言語表記はあるようだ。

赤茶けた街を歩く。すると教会があった。ずいぶんでかい。そしてこの教会も赤茶けている。周りにある土産屋には、オクシタニアの十字架を掲げた旗も多い、かつては南仏の象徴、今ではお土産というわけだ。しばらく歩くとお目当ての店のあるはずの「Esquille通り」があった。さあ、どんな店なんだろう、と道を歩くと、驚くほどに何もない。ただ一軒インド料理屋があるだけだ。これはおかしい。もしや、潰れてインド料理屋になったのではないか。

仕方あるまい。私は「Esquille通り」を抜けて、散策を続けた。赤レンガで彩られた道を歩き、迷路のような街を進む。どこも同じ色で、どこも暖炉みたいだ。しばらくすると、ジャコバン修道院という大きな修道院があった。レンガでできた素朴で巨大な建物だ。ジャコバン修道院といえば、その「パリ支店」とも言えるような修道院を拠点に勢力を拡大したのが、ここトゥールーズオック語を潰した張本人ジャコバン派政権だ。皮肉な話である。暑いし、せっかくなので入ろうかと思って行ってみると、どうやらしまっている。まあ仕方あるまい。

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その建物を離れると、向かいのレンガの建物の大きな扉の前に「Lycée Collège Pière de Fermat(ピエール・ド・フェルマー中学・高校)」とある。中高一貫校だろうか。学校にしては重厚すぎる。学校の名前になっているピエール・ド・フェルマーといえば、17世紀の有名な数学者として知られている(座標を発明したデカルトや当時数学者のパトロンであり、自らも数論の研究をしたメルセンヌ神父と同時代人)。

フェルマーは特に「フェルマーの最終定理(大定理)」で有名だ。フェルマーは元々このトゥールーズの法律家だった。どうやらトゥールーズは法学で有名だったようだ(今でもトゥールーズ大学は有名で、世界中から留学生が来る。だからアジア人もよく見かける)。当時法律家というと、かなり高い地位にあり、貴族の仕事でもあった。あの頃の貴族の嗜みは、武術やギャンブルに加えて、数学である。そのためフェルマーも数学にはまり込み、自分で難題を考え出しては自分で証明し、その難題を証明部分をカットした状態で他の著名な数学者に送りつけ、「解いてみろ」と挑発することを趣味としていた。かなり、嫌われたようである。だが彼の素養は大したもので、手元には膨大な数の定理があった。フェルマーの死後、息子が父親の残した定理をまとめ、数学者たちはその証明に取り組んだ。ほとんどすべては証明が完成し、フェルマーの業績も世に認められるようになったが、たった一つ、証明されなかった定理がある。それが、「フェルマーの最終定理」だった。

おそらくみなさんも高校で学んだであろう「三平方の定理」というものがある。あれは直角三角形の底辺の二乗と高さの二乗を足したものは、斜辺の二乗に等しくなるという定理だった。これはつまり、ある数を二乗し、別の数を二乗し、その二つを足すと、また別の数の二乗に等しくなるような三組の整数が存在するということでもある。例えば、(3, 4, 5)の三つは有名だ。3×3=9、4×4=16、9+16=25、25=5×5。他にもいくつか存在するが、まあみなさん暇であれば試していただければと思う。フェルマーはいう。これを、二乗ではなく、三乗にしてみたらどうか、と。するとある数の三乗と別の数の三乗を足したらまた別の数の三乗になる、という関係が成り立つ三組の整数は存在しない。そこからフェルマーは、二乗以外では、こういう関係が成り立つ三組の整数は存在しないと導き出したのだ。そのことをフェルマー古代ギリシアディオファントスという数学者の書物の余白に落書きのように書き残し、こう続けた。

「私はこのことに関する驚くべき証明を発見したが、この余白には小さすぎて書ききれない」

この謎めいた一種のダイイングメッセージから、数多くの数学者を巻き込んだ、「フェルマーの最終定理」証明レースがスタートする。オイラーガウスなどの時代を超えた大数学者たちの努力もむなしく、この証明レースに見事回答が与えられるのは、フェルマーの死後、実に330年後の1995年5月のことである。最新の数学を使い、イギリス人のアンドリュー・ワイルズが、日本人数学者谷村豊と志村五郎の予想を証明する形で、フェルマー最終定理の証明を完成させたのだ。この話はスリリングかつドラマの詰まった熱い歴史物語だが、そのスタート地点となったのも、実はこのトゥールーズであった。

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トゥールーズには、もう一つ理系な話がある。それは、この街がESA、ヨーロッパ宇宙機関の街であるということだ。米ソ冷戦時代、二大勢力の宇宙開発に対抗するべく出来上がったのが、ヨーロッパ共同のESAだ。フランスはその前から、フランス国立宇宙センター(CNES)を立ち上げ、冷戦の中でフランスは独自路線を行くというシャルル・ド・ゴール大統領の政策の下、トゥールーズで研究を行っていた。それもあってか、トゥールーズはヨーロッパ宇宙研究の中心地になった。ここには、UFOの研究所もあるとかないとか言われている。

さらに、トゥールーズという町には新取の気質があるのか、フランス航空機の中心地もある。例えば、数多くの飛行機の機体を作っているエアバス社はトゥールーズに拠点を置いているし、パイロットであり作家でもあり、『星の王子さま』で有名なサン=テグジュペリトゥールーズで航空機の教官をしていたことがあった。彼は、『人間の大地』という小説の中で、フランスの海外への航空郵便の拠点としてトゥールーズを描いているのである。これもまた、アルビジョワ十字軍や西ゴート王国とは違うトゥールーズの一面でもある。

フェルマー高校を抜け、狭い路地を歩くと、ケバブ屋や寿司屋が並ぶ界隈があった。さすがは大学街。世界中の人が集まる場でもあるのだろう。その道を歩いていたら、いつの間にかキャピトル広場に戻ってきていた。暑かったのでキャピトル広場をちょっとぶらついてから、裏のツーリストインフォメーションのある広場へと向かい、そこでオレンジジュースを買うことにした。初めて来た時から、フレッシュなオレンジジュース屋があるのが見えていて、気になっていたのだ。一番並んでいそうな店に行き、ジュースを買う。カップの大きさで値段が変わるらしい。少し高いが、私は3ユーロのものを選んだ。青空のもとベンチに座り、ジュースを飲むと甘くてうまい。さて、どこを歩いてきたんだろう。ふとそう思って、私は地図を広げた。

すると、なんということだろう。おばあさんと言っていたカスレ屋のある「Esquirol」が全く別のところにあるじゃないか。かなり南の方に、どでかい通りがあり、そこに「Esquirol広場」とある。そうか、こっちなのか。私は笑い出したい気分だったが、ここで笑い出すと狂人になってしまうので、ひとまずジュースを飲んだ。

キャピトル広場から伸びるローマ通りをなければ、エスキロル広場だ。ローマ通りは路地のような雰囲気があるが人がたくさんおり、ストリートミュージシャンが弾き語りをしている。それを道の反対側にいる人が聴いている。何と無く懐かしくなるような物哀しい旋律だ。始めて来た通りなのに、なんだか知っているような、雰囲気がある。

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石畳の賑わった通りをひたすらに歩くと、大きな通りに出た。どうみても通りだが、エスキロル広場。目の前にはバス停がある。バス停の向かいに大きなレストランがあったので名前を見ると「Père Léon」とある。地元のおばあさんのおすすめ、というイメージからは程遠い、こぎれいなカフェとレストランを合体させたような店だった。なるほど。少し高そうだが、夜はここで食べよう。

ホテルのそばまでバスとか出ていないだろうか、と、私はバス停の地図を見た。複雑でワケがわからなかったが、なんとか、これかなというものを見つけた。するとバス停にいた青いシャツを着た若い女性が声をかけてきた。フランス語でよくわからなかったので、少し眉をひそめると、

「お手伝いしましょうか?」と英語で尋ねた。

もうなんとなく帰り方はわかったので、「いいえ、ありがとうございます」と断って、その場を立ち去った。思えば、あのとき嘘でも尋ねてみればよかったのかもしれない。それが一時であっても、一つの出会いとなるのだから。だが、もしかすると、私には心の余裕が足りていなかったのかもしれないようだ。私はホテルとは逆方向にエスキロル「広場」を歩くことにした。その先には、川があった。

(続く)