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旅、映画、食べ物、哲学?

8都市目:マドリード(1)〜イベリアのヘソのでっけえ通り〜

ついに、バルセロナを離れる。列車に乗り込んでみると、AVEという列車がなんとも先端的な列車であるということがひしひしと感じられてくる。2人掛の椅子がずらっと並び、天井からは幾つかモニターが置かれている。今までの列車にはこのようなモニターはなかった。しかも今回とったのは2等席なのである。しかもしかも、ヨーロッパの鉄道にしてはものすごく綺麗なのである。

後で知ったのだが、AVEは飛行機のような旅をというコンセプトで出来上がっているという。だからこそ、モニターが取り付けられ、そこでは映画を放映している。一昔前の飛行機のように、一本の映画をモニターで映し出し、見たい人がイアフォンを差し込む。ちなみにわたしが乗った時の映画はトム・ハンクス主演の「ハドソン川の奇跡」である。みようかとも思ったが、カタルーニャからカスティーリャへと移動する景色の変化を見たかったのでやめた。

 

マドリードイベリア半島のど真ん中にある。そんな地の利の良いマドリードが歴史の表舞台に颯爽と登場するのは、16世紀になってからだ。

マドリードを含む広大な領域を支配していたカスティーリャ王国は首都をマドリード近郊のトレド、イベリアの東半分と西地中海を支配したアラゴン連合王国は首都をバルセロナマドリードの中間にあるサラゴサに置いていた。その後、1400年代にカスティーリャのイサベラ王女とアラゴンのフェラン王子が結婚し、両国がスペイン王国として合同を果たすと、固定された首都というものを持たなかった。特に、オーストリアハプスブルク家出身のカルロス1世の時代には、カルロスは各地を移動しながら各地の代理人とともに政治をするという体制をとっていた。その頃のマドリードはまだ地方の小都市である。

それが変わるのが、カルロスの次に王位についたフェリペ二世の時代である。フェリペはカルロスからスペイン、ネーデルラント(オランダ、ベルギー)、中南米、フィリピンのみを受け継ぎ(のみといっても世界の半分である)、オーストリアに行く必要がなくなった。フェリペは王国をより合理的な統治することを考え始めた。そのために、フェリペは当時は小さな宮殿が立つ町だったマドリードを巨大な首都に変えた。理由は、イベリアのど真ん中だからである。地の利が良い。フェリペ二世はこの土地からほぼ移動することなく、命令を下し、広大な帝国を収めようとした。この時代はネーデルラントの独立、イングランドとの接近と敵対など激動の時代だが、中南米からもたらされる莫大な資産をスペインが手にした黄金期でもある。それを可能にしたのが、イベリアの中心に築かれたマドリードへの一極集中であり、それがそのまま絶対王政を産んだ。

スペインの歴史はその後、いわゆる「スペイン継承戦争」によるハプスブルクからブルボンへの王朝交代、フランス革命への干渉とナポレオン軍による侵略とブルボン王朝復活、女王追放、第一共和制、王政復古、クーデタ、第二共和制、左右対立からスペイン内戦、フランコ独裁政権王政復古民主化を経ていまに至る。その間中、マドリードは首都であった(ナポレオンに支配されていた時は南のガディス)。ナチスドイツとファシスタイタリアの支援を受けるフランコ率いる反乱軍が各地で勝利を収めた時も、スペイン共和国政府はマドリードを背に「¡No passaran!(奴らを通すな!)」のモットーのもと戦った。今ではマドリードは、各自治州に権限を委譲した自治州国家の中心部として機能している。

 

列車はバルセロナからアラゴン王国の古都サラゴサを経由して、マドリードへと入る。実はサラゴサは泊まるべきか迷っていた町だった。アルカサルというイスラーム式の宮殿もあるし、かつての都というのも興味があった。だが、やはりマドリードに行かずしてスペインに行ったとは言えまい。

風景は徐々に荒涼としてくる。バルセロナが背にしている緑の山、モンセラットなどの山を越えればもう荒れ地である。サラゴサ周辺はまだ緑が多いが、マドリードに近づけば近づくほど、地面は乾いた砂とゴロゴロした石や岩で覆われる。草というと、藁のようなものが所々にあるだけだ。これが、スペインの大地。かつてギリシア人はイベリアのど真ん中には来なかったというが、その理由もわかる。むしろここを手にしようとしたローマ人が異常なぐらいである。逆にモロッコなどの砂漠の土地から来たイスラーム勢力がここを支配するのは容易かったかもしれない。

電車の中は、映画のおかげか静かそのものである。モニターでは時折飛行機がハドソン川に難着陸をするシーンが描かれている。そういえば、母がこの映画を見たがっていた。名作だという。「ブリッジ・オヴ・スパイ」「インフェルノ」「ハドソン川の奇跡」とトム・ハンクスが異常に忙しかったときの作品だったはずだ。

すると目の前にいる小さな女の子が、椅子越しにこちらを見てきた。にっこりと微笑むと、きゃっきゃ言いながら椅子の向こう側に隠れる。今度は上からこっちを見てくるので、目を合わせたら、また隠れた。今度は窓際から来たので、また目を合わせるとまた隠れた。言葉は交わさなかったし、隣にいたのも彼女のお姉ちゃんのようでこちらに話しかけてくることはなかった。それでも、小さな交流がちょっと嬉しかった。列車の中の交流、などといっても、今の世の中そんなにあるはずもない。みんな携帯電話を眺め、音楽を聴く。わたしも音楽を聴いていた。すると途端に会話などしなくなる。暇じゃないからだ。わたしも暇がちょっと怖くて、音楽を聴いて風景に浸っている。でも、やはり暇な方が見えるものは大きいだろう。そんな暇な時間を感じるのが旅の醍醐味でもあるのに、できているのだろうかと不満に思うことがあった。

 

バルセロナサラゴサ経由マドリード行のAVEがマドリードの中央駅であるアトーチャレンフェに着いたのはもう4時すぎだったが、日はもちろん高かった。ヨーロッパの夕暮れは21:00すぎである。まだまだ昼だ。前、酒飲みの友人が「9時? まだ昼じゃん」と言っていたという逸話を聞いたことがあるが、夏のヨーロッパに関して言うならば、マジで「9時はまだギリギリ昼」である。

黒いバックパックを背中に背負い、わたしはアトーチャ駅の地下へと向かった。今度はマドリードの地下鉄に挑戦だ。

マドリードの地下鉄はバルセロナ以上にむわっとしていて、非常に暑かった。値段はバルセロナのメトロよりも良心的な1.50ユーロ。しかし、チケットを買うときに行き先を指定する形式なので、(当たり前といえば当たり前だが)行きたい場所にしか行けない。旅人にとってはディスアドヴァンティジでもある。さらに、見た目ががらんとしているところに蛍光灯があって、落書きだらけの壁を照らしているので、治安が悪そうな雰囲気を湛えている。「いやあ、都会に来ちまったなあ」とわたしは少々警戒しながら、予約したホテルのある「グランビア」駅行のチケットを買った。

スリなどいないだろうかと警戒していたが、何せ人混みがなかったので、案外平気であった。ちょうどシエスタの時間が終わり、仕事が始まる時間、人もそんなにいないし、シエスタ時間ほど治安は悪化しないようだ。そう、実はシエスタの時間帯である14:00〜16:00は街の治安が悪化することで有名である。それは、シエスタ(昼寝、昼休み)中に街中からは人がいなくなり、高価なものを身につけた観光客だけが街を歩くようになるからだ。いわば、夜中のようなものである。実を言うと、バルセロナで15:00くらいに船に乗ったのも、そして14:00の列車でマドリードに行くという行程でもいいやと思ったのも、その理由あってのことである。シエスタ時間に街を歩くのは少し避けたいとの思いがあったのだ。単純に、強烈に暑いからという理由もなくはないが。

マドリードバルセロナの地下鉄の違いは、値段と治安の悪そうな雰囲気とバルセロナ以上の熱気だけではない。当たり前のことだが、アナウンスが違う。つまり、カタルーニャ語は消え、カスティーリャ語(=スペイン語)だけになるのだ。とそうこうするうちに、

「Proxima estacion, Gran Via(次は〜グランビア)」というアナウンスが入り、わたしは地下鉄を降りた。

バルセロナのランブラスときて、マドリードのグランビアとくれば、もう、目抜通りである。テロが起こるかもしれないからそういう場所は避けようと思っていたが、やはり交通の便にはかなわない。それに、テロやスリはともかく、目抜通りはなかなか凶悪犯罪を働きづらい場所でもある。

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と、ランブラスのイメージで地上に上ると、それは大きな間違いだった。グランビアは、本来の意味で「でっけえ(グラン)」「道(ビア)」だった。その全てを焼き尽くさんばかりの強烈な日差しを防ぐものは日陰側に立っている建物以外には存在しない。日向は焼き尽くされるがままで、申し訳程度に植えられた並木は並木としての用をなしていない。さらに、マドリードの街は暑さ対策のためだろうが、真っ白に塗られており、それが熱波を反射して、道行く人に浴びせかける。歩道はツルツルに磨き上げられた石のタイルなもんだから、その熱波はさらに下からも私たちを襲う。タイに行った時、「蒸し鶏はこういう気分なのだな」と思ったが、マドリードでは「焼き魚はこういう気分なのだな」と思った。とにかく、上から、下から、横から、日差しが猛威をふるってくるわけである。

ホテルはグランビアから一本横に入ったオルタレサ通りにあった。厳密に言えば、わたしが予約したのはホテル(オテル)ではない。わたしが予約したのはオスタルというスペイン独特の民宿である。アパートの中の一室がオスタルに改装され、その人部屋を使うというシステムになっている。だから、最初は驚いたのだが、同じ建物にたくさんのオスタルがあるという状況は普通のことである。だから看板を見てもよくわからず、インターフォンのボタンのところにオスタルの名前が書かれている。

オルタレサ通りはかつて治安が悪いと呼ばれたチュエカ地区(中国街という意味らしいが、中国感は皆無)にあるが、オスタル街でもあって、たくさんのオスタルが軒を連ねていた。わたしが予約したのはオスタルプラダというものだったが、見つけるのに少し手間取った。やっとこさ、インターフォンのところにオスタルプラダを見つけたので、わたしはそのアパートに入り、小さくてレトロなエレベータに乗って四階のオスタルプラダへと向かった。

踊り場に出ると、二つドアがあり、片方がオスタルプラダ、もう片方が別のオスタルになっている。面白いシステムだなあと思いつつ、わたしはプラダインターフォンを押した。すると、ラホイスペイン首相に少しだけ似た、細身で白い髭を蓄えた、Tシャツのおじさんが出てきた。

「¡Hola!(こんにちは)予約しているものです」と言うと、

「Ah, buenas tardes(こんにちは)こちらへどうぞ」とわたしを中に入れた。入ってみるとやはり家だ。そのあと手続きを済ませ、わたしのパスポートを受け取り、書類を書く、というような仕草をすると、おじさんはわたしに鍵を渡し、部屋へ誘導した。このおじさん、そこまで英語ができるわけではないようで、その点なぜだか好感が湧く。

「タバコですね」とおじさんは部屋を開けていった。確かに少しくさかった。といっても、正直トゥールーズのタバコ臭い部屋に止まったくらいなので、大して気にはならない。しかしおじさんは気にしているようで、窓を開けた。

「僕はタバコは吸いません」とわたしが言うと、おじさんは満足そうにうなずいていた。

プラダのおじさんが案内してくれた部屋は随分と綺麗な部屋だった。これが、二日で60ユーロほどなのだから、とんでもないことである。テレビも、バスタブも付いている。とはいっても、バスタブは大きさが狭く、さらに浅いので、体を温めるのには使えなさそうだ。

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プラダのおじさんがパスポートを返してくれるまでの間、わたしはテレビをつけ、ネットやらガイドブックやらでこのあとどうするかの情報収集をした。情報収集するのは好きではないが、まあ、仕方ない。マドリードという場所の勝手がわからないのだ。見ていると、世界規模を誇るプラド美術館が18:00から無料展示らしい。ならば、行ってみよう。今回の旅でまだ博物館にも美術館にも行っていないではないか。

とまあそんなこんなでわたしは蒸し暑い部屋で待っていたわけだが、おじさんは戻ってこない。まあ、これがスペインというわけである。わたしは仕方ないので、とりあえず顔を洗い、テレビを眺めた。南米のどこかでコンフリクトがあったのか、街が炎に包まれ、人々が逃げ惑っていた。やはり同じスペイン語圏として、こういうニュースはきちんと報道するんだなあと思った。

それでもおじさんが来なかったため、わたしはフロントへ向かった。おじさんがいないので、事務室的なところに行くとおじさんがいた。おじさんは謝りながら書類を仕上げ、パスポートを返してくれた。

「二泊?」とおじさんは言う。

「ええ、二泊です」とわたしは行った。

「じゃあ、お金は明日か明後日でいいですよ」とおじさんは言った。わたしは、ありがとう、といい、

「¿Hay una mapa de Madrid?(マドリードの地図はありますか?)」と尋ねた。いまこそ、この度のためにラジオで勉強したスペイン語を使う時だ。

「Si(ええ)」とプラダのおじさんは言うと、地図を取り出した。それから、「Aqui, Prda. Y aqui, Grand via, y aqui, Puelta del sol(ここがオスタルプラダで、こちらがグランビアです。それからこちらがプエルタデルソルです)」と地図の見方を説明してくれた。

「De aquerdo. Ah...quiero ir a Prado(わかりました、えーっと、プラド美術館に行きたいです)」と言うと、おじさんは青ペンでプラド美術館のところをくるくるとマークした。それから、身振り手振りを交えて行き方を教えてくれた。

曰く、まずオルタレサ通りを抜けて、グランビアに出る。グランビアをまっすぐ向かって左に歩くと坂道があって、最後にロータリーが出てくる。シベレス広場というらしい。そこをくるっと回って90度行ったところの道をまっすぐ歩き続ければプラド美術館があるそうだ。

「De aquerdo. Gracias.(わかりました。ありがとうございます)」と言うと、わたしは鍵を置いて、外に出た。帰ってくる時はインターフォンを鳴らしてね、とのことだった。