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旅、映画、食べ物、哲学?

8都市目:マドリード(2)〜アセ・カロル/はじめのバル〜

グランビアは相変わらず殺人的だった。焼き尽くす日差しは、上からも下からも襲ってきて、恐ろしいほどである。演劇の照明装置がぶっ壊れたのだろうかというくらい辺りは真っ白に明るく、それがまた強烈だ。帽子とサングラスでギリギリ健康を保っているという感じである。

ぐぐーっとゆるい坂道を降りると最初は小さなロータリー、そのあとは大きなロータリーが現れた。これが例のシベレス広場だ。辺りには公園があるが人っ子一人いない。というか、街中に人っ子一人いない。要するに、みんな死にたくないということだ。シベレス広場の周りには幾つかの官庁風の建物と公園がある。一番目だ立つ建物には、横断幕が掲げられ、「Refugees Welcome(難民の皆さん、ようこそ)」と書いてあった。この難民の時代に、スペインはリベラルな姿勢をとっているようだ。確かバルセロナの住民が難民を受け入れようというデモをしたという話を聞いた。しかし不安に思うのは、このスペインという国にその経済的余裕があるのか、ということだ。非常に難しい問題である。

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しかし、それよりもとにかく暑い。わたしはロータリーを回って、その役所風の建物の横に伸びる道に入った。そこにはグランビアとは比べ物にならないほど大きな並木が植えられ、涼しげだった。この辺りはさしずめ、公的機関と博物館が並ぶ地区なのだろう。日本で言えば、丸の内と上野を足して二で割ったような感じだ。グランビアは銀座といったところだが、あんなところで「ビアブラ」しようものなら、数人は熱死する。

実はこの並木道が長かった。なかなかプラド美術館にはつかない。ここかなと思うと、まったくちがうなにかが現われ出てくるのである。まあこれはこれでいいなと思いつつまっすぐ歩くと、ズラーッと人だかりが見えた。「I have a bad feeling about this(嫌な予感がするぜ)」

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今写真だけ見ると、涼しそうに見える。しかし、空気自体が熱気を含んでいるので暑いものは暑い。

そう、それこそがプラド美術館だった。日本の金曜午後の美術館のイメージで行ったら大間違いで、建物を取り囲むように強烈な長さの列ができている。一瞬並ぼうかと思ったが、ここで水も買わずに並び続けたら、間違いなく熱中症で死ぬ、と思った。プラド美術館は、ひとまず断念しよう。わたしは先ほどのとは逆側の道に移り、グランビアの方に引き返した。当てはなかった。とりあえず水は必要なので、おばちゃんのいる売店へ行き、

「¡Hola! una agua, por favor.(こんにちは、水を一本ください)」と注文した。

「Un euro(1ユーロよ)」とおばさんは言った。フランスの物価と比べると驚くほど安い。

 

建物のおかげで日陰になっている道を歩けば、先ほどまでの魚焼きグリル感は薄れてくる。風も、気持ちよくはないが、少なくとも風ではある。

ずっとこの熱気の中にいるわけにはいかないので、どこかカフェのようなものを探そうとグランビアを歩いたが、見当たらなかった。あったのは、寿司屋やら服屋やらばかりである。ビアグランでシースーと行くつもりはない。6時になって、人も少しずつ出てくるようになった。仕事終わりにいっぱいというわけだろう。さて、どうしたものか。わたしもバルで一杯飲もうか。

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うろうろしていると、グランビアの終点までやってきてしまった。歩いて思ったのは、やはりマドリードは大都会ということである。でかくて、賑やかで……でかい(二回目)。映画館も、スタバも、もちろんある。できれば昔ながらのバルなんてものに行ってみたかったが、正直なところよくわからない。さてさて、これからどうしようか。映画でも見るか。いや、それはやめておこう。

というわけで、わたしは「マドリードのヘソ」と呼ばれる「プエルタ・デル・ソル」を目指してみることにした。何があるのか情報は全くないが、行ってみる価値はあるだろう。さらにその界隈にはきっと飲み食いできる場所もあるはずだと踏んだ。

 

プエルタ・デル・ソルとは、「太陽の扉」という意味である。由来は知らないが、マドリードを作ったフェリペ二世の頃のスペインは、「太陽の沈まぬ国」と呼ばれたのと関係あるのだろうか。スペインは、日本以上に太陽を重んじる国だ。あんなに激しく降り注ぐ太陽を、スペイン人は恵みとして考えられるのであろうか。もしそうなら、凄い心の広さである。

グランビアを引き返して、南の方に伸びる路地を進む。そこは急な坂道なっていた。バルセロナは山やグエル公園のある界隈以外は比較的平らなので、山にもグエル公園にも行っていないわたしは、久しぶりに坂道を下りるような気がした。白っぽい建物が立ち並ぶ路地の空は現代アートで飾られていて、しゃれた雰囲気になっている。そこに入る店は、バルが多く、多すぎて逆にどこが良いのかわからなくなっている。さらに坂を下れば、プエルタ・デル・ソルだ。

そこは広場になっていて、ど真ん中には騎馬像が立っている。近寄って見ると、「カルロス3世」と書かれていた。

スペインの歴史の中には二人のカルロス3世がいる。一人目は、スペイン王家の地位を手中に収めんとするフランスのブルボン家と元々王位についてきたハプスブルク家との間に勃発した「スペイン継承戦争」の時のハプスブルク家当主だ。しかし、現在のスペイン王室はこの戦いに勝利したブルボン家スペイン語ではボルボン家)なので、ハプスブルク家の反乱軍トップの騎馬像を置くはずがない。だからこのフェリペ3世はもう一人の、フェリペ3世だ。こちらのフェリペは、ボルボン家の国王で、フランス革命が起こる直前までスペインの王位についていた人だ。彼は、マリア・テレジア、エカチェリーナ二世、フリードリヒ二世ルイ16世などの例に漏れず、「啓蒙的専制君主」として知られる。良い人材を登用し、国家の再建に勤め、宗教勢力を牽制し(イエズス会を追放した)、首都を美しい街に仕上げた。これは調べて見てわかったのだが、プラド美術館に行くために通ったシベレス広場やプラド美術館の前の通りはフェリペ3世の業績の一つだそうである。だから、マドリードの中心に騎馬像が建てられているわけである。

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プエルタ・デル・ソルを取り囲むように、バルやテラス付きの店がある。まだ6時半くらいで、夕食時ではないが、どこも賑わっている。ヨーロッパのラテン系の習慣だという「アペロ(食事の前に軽く一杯飲む)」だろうか。いいなと思いつつ、なんとなく入りづらく、やり過ごしてしまった。わたしは最初に入ったのとは別の路地へ行った。するとちょうど良さそうなバルがあったのでは行ってみた。

バルといっても、どちらかというとカフェみたいな感じだ。わたしは中に入って行って、メニューをもらい、ビールを一杯頼んだ。出てきたビールは南米のビールだったが、スカッと爽やかでこういう暑さにやられる日にはちょうど良かった。

あの日の当たる道を歩いていると、店内は恐ろしく暗いように思えた。地元の人たちが飲んでいて、壁にはサッカーだか何かの旗が掲げられている。スポーツバーというやつだろうか。店員のお兄さんはすごく忙しそうに、スタスタと歩く。御通しとして出てきたオリーヴは塩辛かったが、ビールによくあった。やはりスペインは飲み文化だ。

 しばらくその店でくつろいだ後、わたしは外に出ることにした。店員さんは忙しそうにしながら給仕していてくれたので、チップを払い、Gracias(ありがとう)と店を出た。

 

夕ご飯は、マドリードの勝手もわからないし、暑くて疲れていたので、オスタルプラダのおじさんに聞くことにした。坂を登り、グランビアに着いた時、日は傾き始めていた。グランビアを渡って、オルタレサ通りに戻り、プラダに戻った。

「ひとつマドリードについて質問があります」とおじさんにいうと、おじさんはなんなりとというようなポーズをとった。

「¿Donde esta una buena taverna?(美味しいレストランはどこにありますか?)」と尋ねると、どんな食べ物かと聞いてきた。中華か、和食か、タパスか、と。

マドリードにいるんだから和食はいらないです。タパスが食べたいな」と答えると、おじさんは少し悩んだ顔をして、しばらくすると、よし、それじゃあと地図を開いて、

「このホテルのそばに2軒あります。一つ目は、classicoな店で、バスク料理で、こっち側、もう一つは、modernoで、こっち側」と言いながら、地図に印を書いた。

「ありがとう」わたしはその後、そろそろ洗濯物がたまっていたのでコインランドリーの場所を聞き、再びマドリードの街に繰り出した。目的地はモダンの方。なぜならこのあとバスク地方に行くつもりなので、バスク料理をマドリードで食べる必要がないからだ。今度はバルセロナと違って、やばい場所でないといいなと願いながら。

 

モダンな店だと言われた場所は、治安が悪いと言われているチュエカ地区にある。しかし、行ってみる、とそうでもなさそうである。お目当の店はあまり人気のない坂道を下りたところにある。何軒か店があったが、紹介されたのだろう店は明らかに閉まっていた。残念。ハムの店と書かれていて、スペインといえば生ハムだから期待が持てたが、仕方あるまい。大丈夫、もう一軒あてがある。

もう1軒目のクラシコの方は、オルタレサ通りに並行して走っているフエンカラル通りにある。この道はショッピング街のようで、ブランド品を売る店がたくさんあって、若者たち、観光客たちで賑わっている。道の途中には観光局のバイトと思しき学生がいて、なにやら集計を取っている。わたしの特技「溶け込む」が効果を発揮したようで、誰にも声をかけられることはなかった。

フエンカラル通りの中間くらいに、紹介されたOrioという店はあった。とはいっても、見た目は明らかにクラシコではなく、モデルノである。店構えからして新宿NEWoMANにありそうな雰囲気だ。そしてかなりの人気店のようで、人でごった返していた。一瞬その雰囲気に臆病になったわたしはあたりをうろちょろしてみたが、やはりOrioしか店はない。ぜひに及ばず。食はOrioにあり、である。

「すみませーん、こんにちは」とわたしは勝手も分からないのでバルカウンターにいるマット・デイモンに似ているお兄さんに声をかけた。

「こんにちは。どうぞ」とマット。英語が流暢である。

「どうやって注文したらいいですか?」と尋ねると、マットもなんとなく雰囲気を察したようで、

「ああ、バルは初めて?」と聞いてきた。

「はじめてです」と答えると、マットは飲み物を聞いてきたので、とりあえずビール、とわたしは日本人のアイデンティティを前面に押し出す回答をぶつけた。

「自由にとっていいんですよ」とマットは言う。バルカウンターには色とりどりの食材が並んだ皿がたくさん並んでいた。これはバスク地方の良い予行演習になる。案外良かったかもしれない。

「いくら?」と聞いてみると、全部2ユーロだという。とすると、五つ食べたとして10ユーロ、ビール合わせて12ユーロだから、1500円くらい。悪くない。

すると後ろに店員の髪の毛がくるくるにカールしたラテン系の女性がやってきた。マットは女性に、わたしに料理を見せてやってくれというようなことを言っていた。女性は頷き、わたしを誘導した。

「これは生ハム、これはオムレツ、それでこれはサーモンよ、それからこれは……うーんと、芋。で、こっちはデザートみたいなやつよ。これは……そうね……魚ね」と彼女の超雑な説明が始まる。まあ、仕方ない。わたしたち日本人だって、例えばカンパチのお刺身を外国人に説明できるか、という話だ。間違いなく、「魚の一種です」というしかない。そういうことなので、そのあとの説明は大抵「魚」「ポテト」「魚」「魚」であった。

わたしはまず、生ハムを食うことにした。クロワッサンに生ハムが無造作に挟まれ、爪楊枝で押さえてある。ワイルドでいいじゃないか。爪楊枝を外し、一口かじると、生ハムの香りが口いっぱいに広がった。スペインの生ハム。本場の生ハムは、日本の生ハムとは全くの別物である。薄く、香り高い。バターの甘みがするクロワッサンとよく調和している。そして、やっぱり、ビールに合うわけだ。それから、「魚」を食べた。青魚がスライスされたバゲットの上に乗っていて、その青魚の上にドライトマトが添えられている。そしてそれをやっぱり爪楊枝で押さえてある。わたしは実は青魚ファンであるから、これは期待ができる。食べてみると、期待以上だった。程よい魚の魚らしい香り、そしてドライトマトの旨味が溶け合って、すごくおいしい。その後もう一枚とってしまうくらい、うまかった。わたしにとって、一番うまいバル食(ピンチョ)といっても過言ではない。次に食ったスパニッシュオムレツ(ジャガイモと玉ねぎを使ったオムレツ)が乗ったパンも、サーモンも、マットが持ってきたまん丸の生ハムコロッケも、どれも最高だった。面白いのは、コロッケ以外はどれもパンの上に乗っていることだ。いわばこれは、回転ずしのようなものなのだろう。

結局ビールももう一杯飲み、本当に合計5皿食ってしまったが、13ユーロである。お会計は爪楊枝の数できまる。だから本当に回転ずしだ。意図してか意図してないのかは分からないが、マットが最初のビールを片付けたので、本当は16ユーロのはずだ。

「バルは初めてなんだ」と、会計を担当したもう一人の黒髪にメガネの女性従業員に話しかけた。うまく伝わらず、この店が初めてみたいな雰囲気になったが、まあ仕方ない。

マドリードにはどれくらいいるの?」とその女性は尋ねた。

「今日着いて、明後日でるよ」と伝えると、女性はしばらく考えて、

「わかったわ」と答えた。またも、わたしは住んでいる人と思われてしまったようであった。

13ユーロで夕食となると、フランスの平均25ユーロ以上とは比べ物にならないくらいの安さである。もう一軒くらいいけそうだとも思った。なんならグランビアを渡って、またプエルタ・デル・ソルに行くもよし、さらに奥のマヨル広場に行くもよし。といっても、わたしはまだマドリードという街を信頼しきっていなかった。というのも父の知り合いがマドリードの路地裏で強盗にあった話をなんども聞かされたからだ。もちろん、それは少し前のことで、現在マドリードでの犯罪率はかなり低下している。犯罪に巻き込まれるにしても、すりなどの肉体的な損失のないものが多いらしい。だから安心しても良いのだが、念には念をである。なかなか行動に出れず、結局戻ることにした。と言ってもそのまま戻るのはつまらないので、フエンカラル通りをちょっと散歩してからオスタルのあるオルタレサ通りにあるカフェでコーヒーを一杯飲むことにした。

 

「Un cafe, por favor(エスプレッソコーヒーをください)」と頼み、わたしはマドリードの夜を見ていた。さきほど、Orioから出てフエンカラル通りをちょっと散歩した時も思ったのだがマドリードとは不思議な街で、夜になると一気に治安が良くなる。というのも老若男女が昼とは打って変わって街に繰り出し、日本人のように泥酔することもなく、楽しげに散歩しているのだ。まるで昼のようだった。むしろ昼のほうが閑散としていて、治安の悪さも感じなくもない。

コーヒーを飲み終わって、少しくつろいでから、わたしはスーパーで水を買って、オスタルに戻った。プラダのおじさんはおらず、顔の濃いお兄さんがいた。後でそう思ったのだが、多分お兄さんとおじさんはカップルなんじゃないだろうか。

「Trenta siete, por favor(307番でお願いします)」と頼むと、お兄さんは少し驚いたように、鍵をくれた。

「Buenos noches(おやすみ)」といって、部屋に戻ろうとしたら鍵が開かない。よく見たら303号室の鍵である。

「Perdon(すみません)」とお兄さんにいうと、「307号室だろ?」というようなことを言ってきたので、わたしは鍵を見せながら「Si, trenta siete, pero...(ええ、307号室です。でも……)」と答えた。お兄さんはハッとした表情になって、そのあと笑いながら、ごめんよと言いながら307号室の鍵をくれた。

部屋に入って、バスタブにつかってみたが、やはり狭い。テレビでは相変わらず南米の暴動をやっていた。随分と難局を迎えているようだった。さてと、明日はどうするか。プラドに再び行くか。ブログでも描くか。マヨル広場に行ってみるか。正直今考えるのは面倒だ。スペインのことわざにはこんなものがある。

Hasta mañana(また明日)