Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

10都市目:ビルボ(1)〜危機一髪〜

バスはひたすら、一面に広がる荒野の中を走っていた。太陽が照りつけ、地面に生えるのは短い草ばかり。遠くには剥き出しの山の稜線が見えていて、時々、道を見下ろすように、丘には牛の形をかたどった看板が置かれていた。テレビで見たことのあるスペインの風景が、だいたい、BGMでジプシーキングスがかかっているようなあの風景がバスの外側には広がっていた。しかし残念なことに窓際ではないので、全体的に見えるわけではない。それでもいい。バスの旅には変わりない。とにかく、流れてゆく荒野の風景を見ているだけで、心の癒しになった。

途中レルマで休憩が入った。わたしはそこのインターチェンジで水を買ったのだが、そのインターチェンジの様子は、イタリアやカナダのものと差して変わらなかったため、どこも同じなのだなと思った。10分もすれば、バスはまた動き出し、一路ビルバオをめざす。風景はやはり荒野である。4時間45分の長旅。しかし、それくらいがちょうどいい。そのうち、このバスから出たくなくてたまらなくなってくる。

16:00になると、風景が変わってきた。徐々に山が険しくなり、そびえ立つようになる。石ころしかなかった荒野には徐々に木が生え始める。高い山と山の間には大きな雲がある。バスはそこを突っ切った。するとどうだろう、岩山の風景にはまばらに木が生え始め、最後には日本で見慣れた緑の山へと大変身してしまうのだ。あたりは緑で溢れた山の風景に変わった。道は山道、曲がりくねっていて天気も悪い。先ほどの太陽は信じられないくらいだ。山道に時折見える小さな家は、白壁に赤の屋根。この土地特有の風景だという。

 

ビルバオは、イベリア半島の中でも「湿潤スペイン」という地域にある。全体的に乾燥した気候のイベリア半島の中にあって、湿潤スペインでは緑が生い茂り、雨が降っている。実際にバスで走ってみて変化の激しさに驚いた。先ほどまで荒野だったのが、いきなり緑になるのだ。

湿潤スペインと別の地域にはもう一つ大きな違いがある。それは、民族である。この土地は、バスク人の土地なのだ。スペインは、大雑把に言って、スペイン語カスティーリャ語)を話す地域、カタルーニャ語を話す地域、ガリシア語を話す地域、そしてバスク語を話す地域の四つに分けられる。このうち、カスティーリャ語カタルーニャ語ガリシア語は、それぞれ紆余曲折を経てきたとは言っても、結局のところラテン語の子孫である。つまり、かつてヨーロッパ全域を支配したローマ人の言葉を話す人たちの子孫だ。ところが、湿潤スペインに住むバスク人たちが話すバスク語は、ラテン語はおろか、英語やロシア語、アイルランド語とも全く違う(印欧語族ではない)言語なのだ。諸説あるが、このバスク語、ローマ人やケルト人といった今のヨーロッパ文明を築き上げた人たちがイベリアに入ってくる前に存在した「原イベリア人」の言葉なのではないかという説もある。とにかく、ここはちょっと他とは違うのだ。

百聞は一見に如かず。朝の挨拶を見てみれば、バスク人の言葉がいかに周りと違うのかがわかるはずだ。

スペイン語:Buenos dias

カタルーニャ語:Bon dia

ガリシア語:Bos dias

フランス語:Bonjour

バスク語:Egun on

そんなバスク人たちは、漁業と牧畜を営み、独自の文化を持っていた。ローマ帝国もなかなか手を出せなかったくらいだ。雨の多い山奥に住んでいたことも、他の敵を寄せ付けづらかった理由の一つである。ローマが滅亡し、ゴート人が入ってきた時もマイペースだったが、イスラーム勢力が入ってきて、ゴート人貴族ペラヨがバスク人の土地に亡命してきた時から、バスクの歴史は動き出す。彼らはペラヨが作ったアストゥリアス王国の成立の手助けをしたのだ。ところがピレネー山脈の北側でフランク王国が成立し、だーっと南に征服の魔の手を伸ばしてきたとき、バスク貴族たちは、北のフランク南のウマイヤ朝のどちらにつくのかを迫られることになる。そんな最中、バスク人は「どちらにもつかない」という決断を下す。それを指導したのがイニゴ・アリスタという男だった。彼はパンプローナを中心に独立したパンプローナ王国を立ち上げたのである。といってもこの国は結局南のイスラームの国コルドバの勢力身長とともに衰退していく。その代わりに、パンプローナではなくナバラというバスク人の王国が力を徐々につけてゆくのだった。

その後、サンチョ2世という国王が現れ、ナバラ王国を強化、さらにサンチョ3世の時代には、あろうことか、アストゥリアス王国の末裔であるレオン王国レオン王国から独立したカスティーリャ王国、そしてあのバルセロナを収めるアラゴン王国といったキリスト教勢力の雄国たちを次々と平らげ、北スペインを統一するに至る(戦争よりも、政略結婚でそれを成し遂げた)。サンチョ3世は自らを「ヒスパニア皇帝」と名乗ったという。彼は現在世界遺産に登録されている「サンティアゴデコンポステーラの巡礼路」を整備、中世ヨーロッパに「大巡礼ブーム」が捲き起こる下地を作った。しかし、サンチョ3世が死ぬや、国は崩壊、それ以降ナバラは弱小国家に成り下がる。ナバラ王国の王は最後にはフランス人のものになり、その領土はスペイン王国に併合されてしまった(ちなみに、ナバラ王国の王になったフランスの家は「ブルボン家」であり、ブルボン家エンリケ王はフランスの内戦に参戦して勝ち上がり、フランスのブルボン朝の開祖となる。アンリ4世である)。

スペイン王国は、カタルーニャに対してと同様に、バスク人の言葉バスク語を禁止した。特に、フランコ独裁政権下では、弾圧されもした。バスク人たちは結束し、独立を求めたが、毎度失敗した。フランコの軍隊と共和国軍の戦いであるスペイン内戦勃発時は、バスク人たちは強烈にフランコ軍に抵抗した。フランコを支援するナチスドイツは、空軍機をバスク地方ゲルニカに向かわせ、無差別に空爆をした。これは有名な話で、ピカソの絵にもなっている。フランコ政権崩壊後、バスクは自治州となった。しかし、バスク人たちはそれだけでは納得せず、フランコ時代に組織されたテロ集団「ETAバスク祖国と自由)」が幾度となくテロを繰り返していた。この抵抗運動が終わるのは、つい最近である。ほんのつい最近、ETA武装解除をしたという。今では独立といえばカタルーニャだが、かつてはバスクの方がぶいぶい言わせていたのである。

 

うねる山道を通っていると、先ほどまで雨が降らんばかりの分厚い雲だったのが、少しだけ晴れた。太い川が流れる町があわられた。さっぱりした町だ。マドリードバルセロナの「Ah ah...果てしないー!」という大都会感はなく、フランスの街ともどこか違う。なんと言えばいいのかわからないが、こざっぱりとしている。

バス停はいつもと違って地上にある。地方都市のバスターミナルって感じだ。バスが停車し、わたしもバスを降りた。空気はスッとしていて、涼しかった。昨日までのうだる暑さが嘘のようである。わたしは人の流れに従って、駅の方へ向かった。訳あってWiFiに接続したくなかったので、スクリーンショットしておいた地図を頼りにツーリストインフォメーションを探すことにした。

 

やけに近未来的なビルバオの地下鉄を使って、アバンド駅に着いた。駅の表示はやはり、スペイン語カスティーリャ語)とバスク語の二言語だ。アナウンスも、である。といっても、発音の雰囲気はそこまで変わらない。

アバンド駅を出て、グランビアなる道を歩いた。とにかくかがたくさん植わっていて、気持ちの良い涼しい風が吹いている。風通しの良さそうな服を着た女性たちが歩いている。建物はどことなくスイスのチューリッヒにあったものに似ていて、バルセロナマドリードよりも、ヨーロッパっぽいなと感じる。

f:id:LeFlaneur:20171230085648j:image

インフォメーションがあるのではないかと、グランビアのはじにあるロータリーをくるくる歩いたが見えるのは銀行とブティックばかり。どうしたものかと思って確認すると、自分が全く違うところにいると気づいた。わたしは仕方なくグランビアを逆戻りして、アバンド駅の近くにある中央駅へ向かった。インフォメーションはその側にあるはずだった。だが、探せども探せども見当たらない。

結局、全く見つからず、仕方ないので旧市街に入ってホテル探しをすることにした。またあの近未来的な地下鉄で、旧市街があると思しきサスピカレアック駅を目指した。

f:id:LeFlaneur:20171230085905j:image

 

ビルバオの地下鉄は、どの駅もシルバーで、長い動く歩道があって、なぜだか月エレベーターを思い起こさせられる。まるでSFである。それが、旧市街の駅サスピカレアック駅もそうなのだから笑えてくる。長いエスカレーターを登ると、見えてくるのは月面ではなく、古い建物に囲まれた広場だ。

f:id:LeFlaneur:20171230085803j:image

道幅の狭い旧市街の道を歩くと、まず町の色がバルセロナマドリードと違う方に気づく。マドリードの白、バルセロナサフラン色にくらべ、ビルバオはどことなくくすんでいるのだ。いわゆる石の色だ。山の石を使っているのだろうか。

バルコニーには花があり、建物と建物の間にはイルミネーション用のライトがつる下がっていて、バスクの旗がかたどられている。数メートルおきにバルコニーにバスクの旗が掲げてある。ビルバオ新市街のグランビアを歩いていた時はあまり感じなかったが、旧市街に来るとやはりわたしはバスクにいるのだなと感じる。

f:id:LeFlaneur:20171230085832j:image

旧市街は人で溢れ、時々ストリートミュージシャンが演奏している。しかも、ただのストリートミュージシャンじゃない。むしろ、パフォーマーというべき人が多くて、例えば操り人形にピアノを弾かせている人は、ずっと同じところでやっていた。またはなんだか浮かれムードであった。

いい街に来たかもしれない、とわたしは思いながら、ホテルを探した。オスタルがよかったが、ペンシオンという似たような感じのものを見つけたので、わたしは階段を登って入ってみた。

映画をモチーフにしたペンシオンのようで、映画俳優の写真がたくさんかかっていた。NHKスペイン語番組に似たようなのが出て来たので、驚きはしなかった。しかし問題はフロントの人がいないことだ。声をかけても出てこない。わたしは別を当たることにした。

旧市街にはたくさんのホテルがある。先ほどのペンシオンの向かいにも別のペンシオンがあった。階段を上ると、フロントにおばちゃんがいたので、

「¡Holà! ¿Hay una habitation libre?(こんにちは、空いてる部屋はありませんか?)」とテレビ受け売りのフレーズを使ってみた。

「No. Lo siento...(いえ、ありません。残念だけど…)」とおばちゃんは言った。今まではこういう展開はあまりなかったからちょっと驚いた。だが、仕方ない。別を当たることにした。

そのすぐ側にあるオスタルに入ろうとすると、インターフォンのところに「Completo(満室)」の張り紙がある。別のところもそうだった。わたしは徐々に自分がとんでもなく良くない状況にあることを悟りつつあった。

そのあと、何軒か張り紙のないところもあったが、階段を上っていざ聞いてみれば、満室だった。時刻は7時半を回ろうとしていた。わたしはWiFiを取り出し、起動して、ユースホステルの場所を検索した。そしてそっち方面に行こうと、川を超えてみたものの、どこを探しても、ユースホステルの影すら見えない。日も傾き始めて徐々に心細さも募って来る。

バルセロナで難を逃れた。生きているし、バスク地方までやってこれた。しかしこれも運の尽き。この町の路上で野宿なのか。にしてもビルバオはどうしたんだろう。なぜこうも満室が多いのか。街並みも山並みも美しいが、気分はそれどころではない。外の気温は涼しいが、変な汗をかいてくる。ストリートパフォーマーの曲は切なく、操り人形は気力なく操られる。

その後何件かいっても無駄だった。ユースホステルに空きがないことはないから、何とかしてユースを見つけねばならない。わたしはまた電車に乗ろうと思ったが、最後のあがきと目に入った川のそばのホテルに入ってみた。三つ星(最高は五つ星、普通は二つ星か、一つ星に泊まる)だが、仕方ない。他に宿がないのだ。

 

ホテルのフロントは、フロントらしい感じで、カーペットが敷かれていた。すごく良いホテルのようだ。つまり、わたしのような貧乏旅行者からすれば、非常に良くないホテルである。

「¡Holà! ¿Hay una habitacion libre?(すみません、部屋はありますか?)」と駄目元で聞いてみる。フロントのぽっちゃりしたお姉さんは、コンピュータを覗き込んだ。またダメなのか…そう、希望を失いかけた時だ。

「Si, hay una habitacion.(ええありますよ)」

普段なら驚かないことだが、この時ばかりは驚いてしまった。野宿は免れたのだ。値段が100ユーロ以上したので少し緊張したが、15000円くらいなので日本のホテルからしたらやすい方だと自分を無理やり納得させた。今まで二日で7000円とかやってきたので予定外の出費だが、なんとかなるだろう。わたしはこのホテルに泊まることにした。

「どこも満室で…なので良かったです」わたしは英語で言った。

「明日はビルバオにとって大きな日ですから」とフロントの女性は言った。

聞いてみると、バスクの祭りグランセマナが明日始まるらしいのだ。そうか、だから部屋が満員だったか。調べたほうがいい時もあるな。わたしは少し反省した。お姉さんは祭りのチラシをくれた。しかし、残念ながら、明日にはビルバオからフランス領内に入らねばボルドー留学に間に合わない。とりあえずチラシだけもらって、わたしは部屋へと上がった。

中央駅のそばにあるオテル・アレナルはこざっぱりとしていた。階段を上ると木を基調とした廊下があり、所々にバスクのスポーツであるペロタの写真が飾ってある。ペロタとは、スカッシュに似たゲームで、壁打ちをするゲームだ。普通と違うのは、ラケットを使わず、手を用いることである。ボールを手でバシンと打って、壁にぶつけ、跳ね返ってきたものを相手が手で打ち返す。これ、ならないと痛いらしい。テレビのスペイン語の番組で、出演していた俳優の平岳大が悶絶していた。

部屋は広かった。かなり綺麗で、今までのところとは大違い、強いて言うならイビスに近い。テレビをつけると、バルセロナのランブラス通りが映っていた。花がたくさん置かれ、カタルーニャ首相のプッチダモンだけでなく、スペイン首相のラホイまでいた。このツーショットはもう二度と見れまい。

過酷を極めたホテル探しがやっと終わって、張っていた神経もあって、わたしはしばらくホテルのベッドに横たわっていようと思った。が、それはそれでなんとなく滅入りそうなことでもあった。夕方のような空模様だが、一応もう夜の8時、出かけるとしよう。