アンダイエの街には数時間いたが、外には出なかった。理由はない。駅の中で次の街ボルドーでのホームステイ先の人とメールをしたり、本を読んだりしていた。ふと目をやると、赤い看板のキオスク「Relay」や、価格帯が高めの自販機「Selecta」が置かれている。当たり前だが、フランスに戻って来たという感慨が生まれた。どれもフランスのものだ。TGVの自販機も懐かしい。スペインの長距離列車の駅はマドリードとバルセロナしか行っていないが、やはり雰囲気がやや違う。わたしは嬉しくなってRelayでサンドイッチを買って食べた。
さて、ボルドーである。わたしはこの街に一週間だけフランス語の勉強のために逗留した。要するに1ヶ月という長いスパンの旅をするための一種のアリバイ作りだ。たかが一週間、されど一週間。この間にかなりフランス語がわかるようになったと自負している。何もものすごく上達したわけじゃない。だが、フランス語を聞く耳が不完全ながらではあるができたし、フランス語を話す勇気も生まれた。
一週間という長いスパンの話を一つ一つ語るのはよそう。だから、出会った人々の主眼を置いて、ボルドーでの日々を紹介したい。
- ルネ家の人々
ボルドー駅まで迎えに来てくれたのは、宿泊先のルネ家のかっこいいおばあさんだった。実はこの人とはこの時しかあっていない。
電話ができないため少々苦労しながら駅で合流すると、おばあさんはわたしを赤い車に乗せ、ボルドーの街を駆け抜けた。ボルドーはびっくりするほど暑かった。しかも蒸している。海が近いからか、それはわからないが、ものすごかった。
「暑いですね」とカタコトのフランス語で言うと、
「ええ、毎年よ」とおばあさんは言った。ボルドーは特に暑いという。
車中で、ボルドーの話を聞いた。ボルドーの街は、白に近いベージュの建物が並び、屋根は青っぽい。18世紀ごろに建てられたものだという。ここで感動したのは、フランス人とフランス語できちんと会話したこともないのに、相手の言っていることがわかるということだった。こいつは幸先がいい。
ところどころ、質問を挟んでみた。
「あれはガンベッタ広場よ」
「ガンベッタっていろんなとこで見るんですけど、誰ですか?イタリア人?」
「フランス人だと思うわよ。政治家よ」
などなど。ちなみにガンベッタは、普仏戦争でナポレオン三世のフランス帝国が崩壊した後、第三共和制を立ち上げたメンバーのうちの一人である。
家の鍵の開け方等を教わり、一週間の我が家に入った。わたしはおばあさんに礼を言い、部屋で荷を解いた。と言ってもリュックひとつである。ベッドはダブルででかいが、ヨーロッパに来てからダブルに一人ということは結構あった。ふと、ベッドサイドの小さな机に目をやると、いくつかの本があって、やれヴィトゲンシュタインだ、やれロランバルトだと、二十世紀の有名な哲学者の名前の書かれた本がたくさんあった。ここのホストファミリーはどうやら哲学好きなようだ。
そのとき、ノックがあった。どうぞと言って開けると、ブロンドの、ちょっとリリージェームズ似の女性がいた。ドイツから来たもう一人のホームステイをしている人だ。
「英語喋れる?」と彼女は尋ねた。
「うん、少しなら」と答えると、
「よかった!わたしフランス語はダメなの」と言う。話を聞いてみると、彼女はしばらくしてからトゥールーズでフランス語の勉強をしに行くのだと言う。こうして、わたしの一週間に及ぶ、学校ではフランス語、家では英語、ラインの類は日本語、という超絶ハードなトリリンガル生活が始まるわけである。
その日は、そのドイツ人の女性にボルドーの街を紹介してもらった。酷暑の中街を二人でほっつき歩き、ここが市庁舎でここが教会だ、といろいろと解説を受けた。教会の前のテラスでオレンジジュースを飲んでいたとき、フランス人のウェイターって奴は呼び止めてもこないよねという話で盛り上がった。ドイツ人も日本人もその辺りは似ているので、心の奥底にちょっとした不満を抱えていたわけだ。
さて、なんと、夕食はないというので(ホストファミリーは実はヴァカンス中だったのだ。最初は驚いたが、あれはあれでサバイバル力がついてよかったと思う)、その女性とピザ屋に入った。彼女はジャーナリストで、美術関連の記事を書いているらしい。出身はドイツ西部のエッセン、世界史好きにはルール工業地帯といえば1発でわかる。わたしが六歳の時に住んでいたのはドイツ東部のベルリンだから、エッセンには縁もゆかりもない。しかし話を聞いて驚いたのは、ベルリン名物(少なくともベルリーナー(ベルリンっ子)はそう思っているが)のソーセージのカレー粉ケチャップ和え(キューリーヴルスト)がエッセンにもあり、なんとそれはソーセージの中にケチャップとカレー粉が内蔵されているというのだ。
「それっておいしいの?」と無粋なことを聞くと、
「おいしいわ」と力説する。おそらく美味しいのだろう。だが実を言うと、似たような形状のものをカンボジアで食べたことがあり、それが異常にまずかったもので、それをどうしても思い出してしまう。それはアンコールワット観光をしている最中に、寺の敷地内にあるスタンドで買ったホットドッグだった。やけにケチャップ感のすごいぶにゅっとしたものがソーセージに詰め込まれており、そのソーセージもまた絶妙にまずい。もちろん、世界に冠たるドイツ(Deutschland über alles)にそんなひどいソーセージを出す店はあるまいが。
このジャーナリストのお姉さんとは、ホストファミリーが家を空けがちだったため、絡みが多かった。ある日、ホストファミリーが帰ってくると思いきや、帰ってこなかったというハプニングが起きた時、たまたま家の近くのスーパーでこのジャーナリストとあったので、
「じゃあ、寿司でも作ろうか」と、なぜか手巻き寿司パーティを敢行した。「OISHI(美味しい)」というメーカーのサトウのごはん的な酢飯を買い、サーモンと醤油を買った。そして一応作り始めたのだが酢飯のクオリティーがひどい。というのも、どう見ても酢飯ではなく、酸っぱいおはぎなのである。何がどうなるとあんな状態になるのかわかりかねるが、すごかった。だがサーモンのクオリティーは良い。とはいえ生物なので若干心配していたら、
「保証しているから大丈夫よ」とドイツ人は言う。この時、ああ、この人はドイツ人だなと思った。
ホストマザーのリリーはポールとアヌクという二人の子供と三人暮らしである。ポールとはサッカーなんだかドッジボールなんだかよくわからないことを家の中で遊んだものだ。しかし家の中ということもあり、どうにも心配でならない。ものを壊しちゃいけないなと、自制しつつのプレーである。それと、ポールとはセッションした思い出もある。わたしの部屋におもちゃのギターを持ってきたポール(念のために言うが、ベースではないし、左利きでもない)は何やら歌い始めた。わたしはその時(今もだけど)ギターを弾けなかったので、太鼓を叩いた。何かわたしも歌える歌はないか、と思い、
「アヴィニョンの橋で、って歌知ってる?」と聞くと、案の定知っていた。フランス語、英語、日本語で披露したが、我らがポール師匠はその曲に特段興味があるわけではなかった。
アヌクとは日本から持ってきただるま落としで遊んだ。私もフランス語が必ずしもできるわけではないので、「やってみな」「ほら、見て」「あー、残念」くらいの単語でやりとりしたわけだが、案外ウケがいい。
ボルドーの旅も終わりに近づいた頃、アヌクとポール師匠のために、カタカナで書いた二人の名前をプレゼントした。するとアヌク先生、なかなかの目の付け所で、
「文字数が足りない!Anoukだと四文字なのに、「アヌク」だと三文字だよ、変だよー」と怪訝そうな顔だ。まだ小さい子供だというのに、音節文字と表音文字の違いに気づくとは筋がいいじゃねえか。わたしは、
「変だろ?でもそれが日本の文字ってやつなのさ」と言った。アヌク先生は未だ多文化主義をご理解いただけていないようで、変だよと繰り返していた。
さて、我らがホストマザーリリーの話をしよう。彼女はカメラマンである。私がボルドーに着いた日はバカンス中で、途中で帰ってきた。私はギリギリでホームステイをお願いしたわけだし、泊まるところがあるだけで満足だった。それに、リリーはとてもいい人だった。
彼女は哲学が好きで、特に20世紀フランスのロラン・バルトやヴィトゲンシュタインが好きだという。私はベルクソンが好きだというと、いいと思うと言ってくれたが多分彼女の一押しではないのだろう。ボルドーを選んだ一つの理由が哲学者でエッセイストのモンテーニュが市長を務めていた街だったことを話すと、リリーの学校がモンテーニュ高校だったと教えてくれた。
また彼女は旅人でもあった。かつてインドやヴェトナムも訪れたことがあるという。ヴェトナムは南部の方しか行ってないというので、ハノイの話や、南北鉄道の話をした。
「インドにも興味あるんだ」と言うと、
「いいところよ。でも最初なら北よりも南がいいと思うわ。北はどこに行ってもお金をせびられるんだ」と彼女は答えた。どこにもそう言うのはあるらしい。イタリアやフランスも北より南の方が人が暖かいらしいし、ヴェトナムはその逆だと思う。
一度、リリーたちと夕食をゆっくり食べる機会があった。ポール師匠とアヌク先生のおかげもあって賑やかだったが、まず驚いたのは、フランス人は本当にコースみたいな流れで夕食を食べると言うことだ。ワンプレート主義のドイツ人といろいろな皿散乱主義の日本人二人の時はありえないような配膳だった。まず、パテとパンが置かれ、食べ始める。パテがなくなると、なぜかピザが出てくる。そして最後にはムースのようなデザートである。
そして、大人の時間だ。ヨーロッパの家庭には大人の時間がある。子供はもう8時くらいにベッドルームに引き下がり、大人は大人の会話を楽しむ。大人として初めてヨーロッパの家庭に来たので、初めての大人の時間体験だった。
「台湾人の子がフランスでは食事の時間帯以外にレストランがやってないことにびっくりしてたんだけど、日本でもそうなの?」
「うん、そうだね。でも、準備中でやってないとこもあるよ」
などと言ったどうでも良いところから、なぜか女性の結婚適齢期という概念の話まで出て来たわけだが、ただでさえ間延びしているかの記事がさらに間延びするのでやめておこう。
一つ書いておくなら、トゥールーズの話があった。我らがドイツ人の同居人がトゥールーズに留学するということについて、リリーが猛反対したのだ。
「トゥールーズは、どこにでもマリファナの匂いがしていて危険よ」というのだ。正直タバコの匂いの違いすらわからない私は気づかなかったが、そうらしい。実は日本でその話をしたら、確かにトゥールーズはマリファナくさいという人もいたので事実なのだろう。とは言っても、私に取ってのトゥールーズはハンバーガーショップのおばちゃんの街なのである。
「僕も行ったことあるけど、一度見てみて決めたらいいんじゃないかな」というゆるいアドバイスだけした。はてさてあのジャーナリストは今はトゥールーズにいるのか、ボルドーに残っているのか。それは神のみぞ知る。
2. フランス語教室の人々
フランス語教室の授業ははっきり行ってハードである。とにかく先生の言葉がはやい。まず聞き取るので精一杯だし、話すのも大変だ。しかしあれを超えたからこそ、少しだけフランス語が聞き取れるようになったし、その後パリ在住のドイツ時代の知り合いの家にお世話になった時にフランス語で会話ができた。
フランス語の授業は、カナダで行われた「ビーバーの生態」「メープルシロップについて」などといったのほほんとしたものではない。いきなり、「お金で幸せは買えるのか?」という哲学カフェにやって来たかと紛うほどの内容だった。さらに、
「1960年代に何がありましたか?」
「はい!大衆の消費社会化です」という超高度なやりとりまで行われる。聞いていて理解できないことはないが、話すとなると骨が折れる。
さらに大変なのは訛りである。私だって日本語訛りのフランス語には違いないが、どうしてもアフリカ系のフランス語が聞き取れないのだ。それもモーリタニア出身のアラサンは、哲学専攻と来ていて、一緒に話すことも多かった。だが私には彼のいうことがわからず、申し訳ない気分になりながら、「ごめんもう一回」と繰り返したのを覚えている。一度、プラトンとカントが好きだというアラサンに、私はプラトンとカントが嫌いだと伝えねばならない時は骨が折れた。だがそれでも粘り強く私と会話をしてくれたアラサンはありがたい存在だった。
語学学校となると、大学の機関ではないので仕事のために語学を学ぶ人がたくさんいた。ブラジル、スペイン、スロバキア、レバノン、モーリタニア、ハワイといろいろなところから来ていて、もちろん日本人もいた。一週間しかいない、しかも無精髭を生やした日焼けした謎の日本人の登場に驚いたかもしれないと思い、挨拶をしてみると、
「あ!日本人でしたか」とお決まりの返しが返ってきた。私はなぜだか日本人でない設定になることが多い。
「全然聞き取れないですよね」と彼女が言った時は少々気が楽になった。やはり先生の喋り方は速いのである。彼女曰く、日本人は英語同様フランス語の文法とボキャブラリー、読解だけ習うので、やたらと高いクラスに付けられるが、いざ来てみるとなかなかついて行けないのだという。理解できる話だが、それなら頑張って話すようにしなければならないだろう。
だが、フランス語の授業の構成にはそれを阻止してしまう構造がある。フランスの語学学校では、緊張をほぐしたいのか、文法ミスなどをするとそれを馬鹿にするのである。それをやられるとこちらも気が削がれるからやめてほしいのだが…。フランスの他の地域で語学学校に通っていた私の友人もからかわれたというからフランス人気質というヤツなのかもしれない。
3. ボルドーの街
そんなこんなで頭も心も疲れ果て、さらには十日間でフランス東部とスペイン北部を回るというクレイジーなことをしてしまったために体も疲れ果て、ボルドーの街を生気のない屍のように彷徨ったものである。ボルドーの街は暑くて蚊もいたわけだが、それでも美しい街だった。午後たまたま入った教会で市民向けコンサートをやっていて、疲れた心にパワーをチャージしてくれたのを覚えている。
それとボルドーといえば謎の像である。私は密かにボルドーまもるくんと呼んでいたが、正体はわからずじまい。あれだけは未だに引っかかっているが、一人色々なところに佇むまもるくんは、一人旅の私にとって親近感を持って感じられた。
昼ごはんはケバブ。同じ店を何回か使ったため顔も覚えてくれた。ケバブを頼むと、「〇〇ソースね」と前選んだやつを覚えていてくれて少し嬉しかった。とは言っても、そのソースに思い入れがあるわけでもない。実は聞き取れたヤツがそれしかなかったため、それにしたというだけである。
さてそのケバブ屋で日本人と知り合った。一人で明らかに日本人っぽい人がケバブを食べていたものだから、特に理由はないが話しかけてみたのだ。冗談でフランス語で話しかけると、ずっとフランス語になりそうだったので、「あ、日本語で大丈夫ですよ」と言って、なぜか公園のベンチで3時間ほど話した。十日間とはいえ、話し相手もそんなにいたわけではない。それも日本語となるとさっぱりだ。久々の日本語だった。
彼女は外国語大学の学生で、私より一つ年上である。どうやら大学の何かで半年間ボルドーにいるらしい。そして驚くことに、今週日本に帰るらしい。そのあと一度たまたま公園であって喋ったりもした。旅とは面白いもので、色々な人に会うが、別れればそれで終わりである。それを寂しいと思うか、面白いことだと思うかは個人の趣味趣向によるが、私は結構好きだ。ホラもふけるし、世界も広がる。
ボルドーにやって来た当初は、一週間も同じところにいるなど信じられなかったが、一度居着いてしまうと名残惜しい。身も心もそして脳も疲れた街だったが、ボルドーは私の心で生き続ける。