ナントの街を歩いていて気づくのが、他の街、他の国と比べて人種間交流が多いことだ。何が言いたいのかというと、黒人と白人が楽しそうに一緒にいる度合いが高い。もちろん今のご時世他のところでは差別が強くあるわけではない。だがなんとなくグループが出来ている。ナントにはそんなグループは存在しないのである。
例えば、マシーヌ・ドゥ・リルを離れて河岸を歩いていると、よく黒人のお父さんがベビーカーに子供を乗せて歩いている横に、別の白人のお父さんがいてパパ友なのだろうか、談笑している。その様子を見ていると、きっとこの街は暮らしやすいんだろうなと思った。だがその一方でこの街が黒人奴隷取引の主要港町であったというくらい歴史を乗り越えようとする意志の強さも感じさせられた。ナントに住んでみたい。いつか子供ができたらナントに行きたい、などと叶いもしないことを思いながら、わたしは川沿いの奇怪な形の卓球台を横目に中心部へと向かう橋を渡った。
ナントの街はロワール川で二分されている。北は中心街があり、中洲には件のレ・マシーヌ・ドゥ・リルがある。南は知らない。要するに北が栄えているというわけだ。わたしは中洲から北の中心街へとモダンな橋を渡ったのだった。
橋を渡るとホテルのそばだった。それにフランス人の夕食時間まであと30分から1時間ほどある。わたしはホテルのある坂道をとにかく上へ上へと登ることにした。特に意味はないが、やってみたくなったのだ。登り切ると、真ん中に噴水のある広場があって、劇場らしきものがあった。その前には謎の現代アートが鎮座ましましている。真っ黒いその姿は、牛なのか、はたまた特に意味はないのか。
ナントは住みやすそうな街であるとともに、奇妙奇天烈な街であった。町中に謎のアート作品が置かれている。ビルボのグッゲンハイム美術館前やボルドーの「ボルドーまもるくん」、あるいは昔住んでいたベルリンの手を挙げたカラフルなクマなど、ヨーロッパには街中にアートを飾る街も多いが、ナントのものは群を抜いたわけがわからない。しかも19世紀後半のいわゆるベルエポック(古き良き時代)や(第一次大戦と第二次大戦の間の)戦間期のいわゆるレザネフォル(狂乱の時代)の雰囲気漂う街に地味に溶け込んでいるのである。
例えば劇場の広場から川沿いに戻って別の広場に入ると、広場のど真ん中に砂浜のようなオブジェがあり、シュロの木のような形の構造物が天高くそびえている。シュロの木の幹の上の方には裸の人形がぐったりと身を横たえている。変なオブジェであり、彼がハチ公前にあったら違和感しかないわけだが、案外ナントの街は何ともないかのように振舞っている。
そんな広場のところには必ずストリートミュージシャンがいて音楽を奏でている。といっても、一方的でないこともあり、観客の女の子にピアノを弾かせてみたりもしている。変な街だ。だがそれがいい。
トラムの線路沿いに歩いていると、街に入った時に目にしたブルターニュ公居城が見えてきた。たまにはこういうところに入ってみよう、と思いつき、わたしは空堀にかかった橋をわたった。最後のブルターニュ公アンヌは人気があるようで、堀の周りにも関連展示がある。
城の屋内部分はもう開館時間を過ぎていては入れなかったが、中庭あたりを散策した。かつてここで、フランス王国に対抗するブルターニュ公国が独立していた。そしてフランスになってから、ナントの勅令が発布された。ナントの特権的地位が剥奪されるのはフランス革命の後にフランスが今のようなパリ一極集中に切り替わってからである……この街の歴史はこの城とともにあったわけだ。塔がいくつか並んだこの城は、全体的に優しい感じの丸っこい形をしていた。屋根はねずみ色、漆喰は城。中庭から見るブルターニュ公居城は、まるでアパートのようである。だが、由緒はやはり感じられる。不思議な形の井戸、何人もの人に踏みならされてきた階段、その一つ一つは歴史に彩られている。
しばらくうろちょろしていると、中庭の開館時間も終わりに近い雰囲気が漂ったので、わたしは堀にかかる橋を渡って現代のナントに戻ってきた。しばらく堀のそばに腰掛けた。まさにブルターニュ公居城は、「つわものどもが夢の跡」である。なんとなく感慨に浸っていると、お腹がすいてきた。そろそろ、夕食の時間である。
何かめぼしいものはないかと、賑やかで穏やかな、住みやすそうなナントの街をほっつき歩いて、店を探した。ナントの料理は知らないので、自分の嗅覚に頼るほかない。すると、「刺身」という文字がたくさん目につく。どうやら少し前まではクレイジーなジャパニーズフードだったはずな生魚は定着しつつあるようだ。そういえばボルドーで参加者二人の超ミニ寿司パーティをしたとき、ドイツ人のジャーナリストが「ヨーロッパでもみんな生魚は食べるわ」と言っていた。わたしがドイツにいた時は、「は?生魚だと?死ぬ気か?」というレベルであったというのに、世の移り変わりはこうも速いものだ。
そんなことを考えていると、わたしの脳裏に天才的な発想が浮かんだ。
そうだ、今日の夕飯、タルタルステーキにしよう。
タルタルステーキとは、洒落っ気も何もなく言って仕舞えば、要するに、生のハンバーグである。牛100%でそれも新鮮なものを使う。名前の由来は、モンゴル人が食べていたとのことだ。かつて、モンゴル帝国絶盛のころ、モンゴル帝国軍はなんとヨーロッパまで攻撃したのだが、その時自分のことを、モンゴルとか色々いうのが面倒になって、ヨーロッパでは有名とされた「タタール人」だと自己紹介した結果、なぜかヨーロッパ人が勘違いして、「タルタル(=地獄の神)⁈」と怯えたという。それがタルタルな訳だが、遊牧民は肉を馬と自分の腿の間に挟んで保存したらしく、それが、タルタルステーキになるわけだ。ちなみにこれはヨーロッパには珍しく生肉料理だが、焼いたものがドイツのハンブルク名物としてアメリカで有名になった。後のハンバーグである。
さて、心理学者もびっくりの連想法でタルタルステーキを食おうと思ったわけだが、実を言うと刺身の店のそばにタルタルステーキ屋があったのも一つの理由であった。なかなか混んでいるが、それはうまい証拠。生粋のフランス料理であるかは別出して、フランスでもよく食べられていると言う。というか、おそらく生肉だなんて珍奇なものを食べつづける輩はヨーロッパにフランス人以外でいるまい。
混んでいたので店員の人に認識してもらうのに一苦労したが、強引になんとかレストランに入り、「タルタル・トラディショネル(伝統のタルタル)」なるものとビールを頼んだ。フランスにいるんだからワインという選択肢もあるのだが、ナントの気温はなんとも暑く、なんとなくワインよりも、なんといってもビールだなという気になった次第である。最近いつもこうだ。これではヨーロッパのクソ田舎ベルリンで育ったという卑しき(?)出自がフランスのお高くとまった人々に露呈してしまう。
タルタル・トラディショネルとは、通常のタルタルステーキの上に生卵をポトンと落としたものだった。生肉の上に生卵をのせるとは、日本人のわたしからしても驚きである……と思ったのだが、この取り合わせは間違いなくユッケである。さっそくユッケならぬタルタル・トラディショネルのど真ん中にナイフを当て、卵を破壊し、肉とあえて、付け合わせのバルサミコ酢にひたしてパクリと食う。うまかった。肉本来の香りとちょうどいい調味料のバランスがいい。以前パリで食ったタルタルステーキはパクチーことコリアンダーがあまりに効き過ぎていて食べていて疲れたが、ナントのタルタルはなんとも絶妙なうまい料理であった。それに、ビールと合うのである。まったく、ワインで食べるやつらの気がしれない。などと調子に乗って、全部平らげると、ウェイターがやってきて、感想を聞いた。
「C'est très bon!(めっちゃうまかったっす)」と語彙力のかけらもないフランス語で答えると、
「Désert?(デザートですか?)」と尋ねるので、いつも通りエスプレッソだけ頼むことにした。ヨーロッパにきて食事をしたら、やはり最後はエスプレッソに限る。エスプレッソはヨーロピアンな量の食事と日本人の胃袋の壮絶な戦いに勝利した後のご褒美だ。それに、デザートを頼まずとも、カップの横にちょっとしたお菓子がついているから、1.5ユーロくらいでデザートまで済ませることができるというセコイ旅行者の味方でもあるのだ。
店を後にして、わたしはヤシの木の広場に戻った。ミュージシャンがたくさんいて、スムースな音楽が満ちていた。怪しい浮浪者に絡まれかけるなどこの広場ではちょっとした事件も起きたが、食後の散歩にはちょうど良い。時刻は8時45分ごろ、日は沈み始め、空が美しい。わたしはふと城に行きたくなった。
城は暗くなりつつある空のせいもあって、より哀愁をたたえていた。城の前にある公園にはベビーカーを押す家族、走り回る子供、談笑する夫婦。住みたい街ランキングはきっと高いに違いない。見るからに夏のヨーロッパの夕刻という感じで、漂ってくるビールの香りも良い。ナントは、やはり誰かと来たい、誰かと住みたい街だった。明日には離れるのは寂しいが、明日の目的地はカンペール。ブルターニュ文化の中心地。それはそれで気になる。