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旅、映画、食べ物、哲学?

16都市目:パリ(2)〜俺たちのヴォージラール、そしてエッフェル塔〜

前にも書いたが、私たちはパリにアパルトマンを一室借りて、5日間住んでいた。日本の「パリ生活社」という会社を使ってネットで予約したため、説明書きが日本語だったし、問題もなく入居できたのがよかった(ちなみに、実は現在私は友人と京都の一軒家に三日間だけ泊まることにしたのだが、中国の会社が仲介のため、説明書きが英語で難儀している)。初心者には良さそうだ。

さて、パリといえば、美しいブールヴァール(大通り)、セーヌ川、美術館、そして異様に高い物価で有名である。ホテルではなく何人かでアパルトマンを借りると、この歓迎することはできないパリの最後の特色を回避することができる。まず、ホテル代も、部屋の値段を何人かで割ることでかなり節約できる。次に、パリの強烈な食費もまた、自炊することでだいぶ楽になる。なんと、一人で旅していた時と比べて出費が半分くらいになっている。私はこのことで旅する技術を一つ身につけたような気がする。何人かで、物価の高い地域を、長い期間かけて旅する時はアパートを使うべし、という技術である。

私たちの泊まったヴォージラール地区はパリの左岸、つまり地図で見た時に下に位置する方にある。最寄駅はヴォージラール駅、ハブ駅となるのはブルターニュからの列車も乗り入れているモンパルナス駅だ。基本的にかなり便利という場所ではなかったが、だが、慣れてみると静かな空気感が良い。15分ほど歩けば、フランスが世界に誇るスーパーマーケット「キャルフール」もある。しかも家の向かいにはしっとりしたクロワッサンを売るパン屋まである。その点生活には便利だ。近くに朝市があったらしいが、最後の最後まで気づかず、利用せずに終わった。あな口惜し。

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生活パターンはおのずと決まってくる。

朝起きる。たいていの場合、シャワーを浴びるのが面倒になったまま寝ていたので朝シャンとやらをかます。部屋に戻ると友人が起きている。そこで声をかける。

「パン買いに行こう」

そして朝食のパンを買いに行くのだ。9月の初めだが、朝は肌寒いのでコートを羽織り、はす向かいのパン屋でパンを買う。ボンジュールといい、フランス語で済ませる。もちろん、完璧に数字が聞き取れているわけもなく、レジに表示される数字を見て支払う。買うのはクロワッサンだ。その方がジャムなどを買わなくてもいいし、単純に私の趣味である。

調理当番は私だった。だからパンを買って帰ったら、部屋のテレビをつけ、子供用のアニメを横目に、たいていは卵料理を作った。形が春巻きにしか見えないオムレツ、目玉焼きなどだ。前日の夕食が残っていれば、オムレツと一緒に出したりする。コーヒーを入れ、ヨーロッパに売っているものすごくうまいミックスフルーツジュースも出す。これが朝食である。我ながら、この「フランス修行」で朝食は上手く仕上がるようになったと思う。毎日の日課は、この朝食を食いながら、それぞれが行きたいところをあげつつ、甲高い声のウサギが主人公のアニメを見ることだ。

そして、そのあとは外へ繰り出す。前にも書いたが、初日の行き先はエクトルのハイスピードツアーだった。次の日はルーヴル、そしてその後にカルチエラタン。三日目は私はロンドンへ、後の二人はモン・サン・ミッシェル。四日目はオルセー方面だ。「次は〜〇〇、次は〜〇〇、お出口は左側です」的なアナウンスゼロの無音のメトロに乗って街に繰り出したものだ。いつ降りるべきかは、はじめはわからないので表示を見ていないといけなかったが、徐々に、「そろそろかな?」がつかめてくる。私たちは確かにパリで暮らしていた。メトロは、一週間のカードではなく、カルネという10回分チケットを使っていた。理由は忘れた。だが何かあったはずだ。

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外出が終わると、私たちは5時くらいにヴォージラールに戻ってきた。そしてキャルフールで夕食の材料と翌日の食材を買った。これもまた私が作ることになっていた。たいていはクスクスである。クスクスは、北アフリカの料理だ。だが、シャルル10世による侵攻以来クスクスの故郷はフランスの統治下におかれ、パリは北アフリカマグレブ)出身の移民も多くなり、クスクスは今やフランス、特にパリの庶民の味に変わった。私は予てからクスクスが好きで、クスクス・ロワイヤルという007顔負けの名前のモロッコ料理を作ったこともあったので、一種の得意料理とかしていた。このクスクス、調理の手間がかからなくて良いのだ。そして、クスクスのパッケージは大きい。だから、必然的に毎日クスクスになる。みんながパリに着いた日は鶏出汁トマト味+メルゲーズ(モロッコ風ソーセージ)のソース(翌朝のオムレツの付け合わせにもなった)、次の日は鶏の蒸し焼き、といろいろなものにあうのもよかった。そしてボルドー土産のワイン、その次の日からはスーパーで買ったワインを合わせるのだ。

たらふく食ったあとは、CDをかけたりしながら、友人の買ったウィスキーを異常なペースで飲む。音楽はクラシックがいいのか、ジャズやロックがいいのか、EDMはどうか、っていうかEDMってなんだ、ラップはありか、などとなぜか音楽談義を盛り上げたりした。そしてみんな眠くなってくるので、寝る。時たまテレビも見る。楽しい1日は終わり、翌日が始まる。

 

ところがこの生活リズムが一つの破綻をきたしたことがある。

それは日曜日だから四日目である。ヨーロッパの日曜日は不便、それは知っていたしカンペールでは痛いほど味わった。だが、私はパリでは大丈夫だと思っていた。ところがだ、朝パン屋に行くとパン屋が閉まっている。スーパーもそうだ。これはやらかした。やらかしおにいさんだ。あの時は奇跡的に空いているパン屋でクロワッサンを買い、夕食はムスリム系のやっている小さな商店で買ったミートソースやらサラミを駆使して作った。クロワッサンはいつものやつより上手くて拍子抜けしたが、夕食の方は「買い置きしておけばな」という内容のものができた。そういえば、あの日は色々と上手くいっていなかった気がする……

 

四日目はオルセーへと出かけたが、オルセーは異常に混んでいた。日曜日は無料で入れるらしくてとんでもない混み方だった。あいにく友人Sくんが別のパリに滞在中の彼の友人にあいにいくそうだったので、その予定のことも鑑み、今日はやめることにした。そして、私たちはセーヌ川の川沿いを歩いた。セーヌ川沿いは人々の憩いの場だった。ランナーは走り、子供は遊ぶ。かつて「臭い」と言われ続けてきたセーヌもまだマシになってきたようだ。私たちはとりあえず、セーヌ川沿いにパリの象徴エッフェル塔を目指した。

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三年前に来た時と比べ、エッフェル塔は警戒態勢だ。テロのせいだ。柵が設けられ、荷物検査もある。とりあえず登るのは後回しということで、S君とエッフェル塔側の橋で待ち合わせることにし、そのまま凱旋門方面まで歩いた。パリを体感する日だ。ヴォージラール最終日にふさわしかった。そう、四日目は最終日だった。

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凱旋門まで頑張ってつくと、シャンゼリゼ通りが見える。あの、シャンゼリゼ通りだ。だが、様子がおかしい。テロがあったからか。そう思いながら見ると、歩行者天国になっていた。第一日曜日だからだそうだ。ここに来ると必然的にあの歌を思い出す……

通りに沿ってぶらぶらしてたら、心もオープンになってくる

通りで会う人には誰にでも「ボンジュール」って声かけたくなる

誰にでもって言ったろ、つまりは君のこと

だから君に適当なことで話しかけたんだ

君と知り合うためには、それで十分だったわけだ

 

シャンゼリゼ通りには、そうシャンゼリゼ通りには

晴れの日も、雨の日も

真昼でも、夜中でも

欲しいものならなんでもあるんです

シャンゼリゼ通りにはね

オーシャンゼリゼー、だ。ところがこの歌には間違いがあった。晴れの日も、雨の日も、真昼でも、夜中でも、欲しいものはなんでもあるはずが、第一日曜日はテロ対策で駅が使用できないのだ。Sくんは必死で約束のために駅を探したが、結局コンコルドの方まででなければいけなかった。

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S君と別れ、私はモントリオールでも見たユダヤ人街を探しにほっつき歩いた。結局それらしいところも閑散としており、なんとなく徒労に終わってしまったが。昼もうまいファラフェルでも食おうと思ったが、結局のところチェーン店クィックのハンバーガーだった。まあ、こんなものだ。しかし疲れからか、イアフォンと古い、使い慣れたiPodをなくしてしまう。なんとなく良くない。

待ち合わせ場所へ行き、エッフェル塔に登った。

なんとなく上手くいかない日だったが、エッフェル塔からの風景だけは、今思い出しても最高だった。6歳の時登ったきりだったが、今登ってみるとそれはそれはすごかった。特に頂上からの景色は圧巻で、パリが全て見える。その昔、衛生状況と治安が悪かったパリを憂い、フランス皇帝ナポレオン3世はパリの大改造をセーヌ県知事オスマンに命じた。その結果が、美しい放射状の太い道路と並木道、そしてオスマン様式と呼ばれる今のパリの街並みだ。エッフェル塔から眺めればそれは一目瞭然だった。そのパリの姿はさながら芸術だった。それでいて、パリは生きていた。映画「ヒューゴの不思議な発明」では機械に例えられていたパリの街は、確かに鼓動していた。車が走り、街の生活が街の時計の針を進める。そして私たちはここで今暮らしている。そのことの持つ感慨は言葉には到底表しきれない。

ロラン・バルトは著書『エッフェル塔』でエッフェル塔は見られるものであると同時に、そこから見るものであると書いていた気がする(忘れた)。そういえば、俺たちのヴォージラールからはかろうじてエッフェル塔が見える。いま、私はそのエッフェル塔からパリを見ている。それは少しだけ不思議な体験である。不思議といえば、エッフェル塔という空間だ。その空間は、繊細なレースのような鉄筋に彩られ、科学技術と美が共存していた。19世紀から20世紀初頭のベルエポックと呼ばれる時代の空気感は、さもこのようなものだったのではないか。というのも、あの時代は科学と自然物、科学と魔術が共存していたのだ。アールヌーヴォーの時代である。

エッフェル塔を降り、私たちはメトロに乗った。少し離れた駅から乗ったのは、有名なシャイヨー宮殿から見るエッフェル塔の雰囲気をみるためと、もう一つ、私が密かに一番素晴らしいエッフェル塔の見方であると思っているやり方をやるためだ。それは、エッフェル塔周辺では地上の高架橋を走るメトロからパリの街並みの隙間を通してエッフェル塔を見るというやり方だ。訪れる機会があれば、是非お試しを。

 

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さて、そのあとは家に帰り、あまり美味しくないクスクスを食った。明日には、ヴォージラールを出る。名残り惜しすぎる。俺たちの家ヴォージラール。またいつかいきたいものだ。だがヴォージラールは私たちの心の中にある。

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