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旅、映画、食べ物、哲学?

16都市目:パリ(4)〜Time To Say Goodbye〜

ジャズクラブでパリの夜を締める前、私は移民街散歩を敢行した。もともと移民街という場所が好きだった。それは単純にこの前パリに来た時に移民街に泊まっていたからかもしれない。前回のパリでは、私はパリ北駅からより北上し、インド人街を抜けたところにあるユースに泊まっていた。そこで感じたのは、私がアジア人だからか、移民の人々が私たちを優しく迎えてくれたということだった。遠いアフリカや中東、インド、中国、ヴェトナムといった国と地域からパリで働く彼らのヴァイタリティに触れるのも好きだった。何より文化が混ざり合う土地には、他の土地にはない魅力がある。危ないという人もいるし、多分危ないんだろう。テロもあった。だから気をつけつつではあるが、今回も移民街を訪れた。

 

オルセーで友人と別れた後、私はオーステルリッツ駅へ向かった。メトロではなく、「パリの親戚」が住むショワズィ・ル・ロワまで行く時に使った鈍行列車を使う。いわばパリの中央線である。なぜ、オーステルリッツ駅か? それは、そこに大きなモスクがあるからだった。

今回の旅では、私は『エキゾチック・パリ案内』という新書を持ってきていた。著者は明治大学の清岡智比古先生。ハイテンションなフランス語入門書の著者だ。移民街や移民文化の話に詳しく、この本も移民街の話だ。これを読んだらいくほかあるまい。それに、オーステルリッツ駅のそばにあるグランド・モスケ・ドゥ・パリの食堂に行くとうまいクスクスが食えるらしい。クスクスは私の得意料理(?)である。これは研究だ。そんなわけで、オーステルリッツ駅へと向かったわけだ。

そのモスクに行くには、駅から出て、植物園を抜ける必要がある。植物園はこれはこれで有名らしく、観光客も多かった。花についてなんぞ何も知らないが、眺めつつ歩き、抜けるとモスクがあった。食堂のメニューを見ると、なかなかのお値段だ。予想はしていたが少し腰が引けてしまい、もっと庶民的なアラブ料理でもないかとあたりを徘徊したが、ピンとくるものはない。出入りが激しいのもモスクの食堂だ。まあ、旅も終盤、これまだだいぶ節約してきたわけだし、今回くらいはハメを外してもよかろう。私は自分にそう言い聞かせ、モスクの敷地内へ入った。

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キョロキョロしながら入る。祈りの家に入るのはやはり、気を使う。モスクは日本でも一度立ち入ったことがある。だが、どうしてもキョロキョロしてしまう。というかよく考えれば、フランスではカフェであっても、割とキョロキョロしているので、あまり代わり映えはしないのかもしれない。なんとか店員を見つけ、一人だと伝え、席に着く。食道内は随分とド派手な感じで、テーブルも金色、しかも細かな装飾が美しい。まさにエキゾチックという感じだった。私はメニューにある、一番安かったメルゲーズのクスクスを頼んだ。メルゲーズとは、モロッコ風のソーセージで、豚は使えないから、ラムやビーフでできている。そして辛味が効いている。飲み物は、アルコールも厳禁なので、水である。

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しばらく待っていると鍋に入ったクスクスのソース(スープ)、メルゲーズ、クスクスの大皿が出てきた。間違いなく一人で食べる量ではない。まあ、いい。フランスに来て、こういうものを平らげてきたではないか。

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とりあえず全部皿に盛り、混ぜ合わせ、ひとくち口に運ぶ。途端に良い香りがする。やばい。これはやばい。もちろん悪い意味ではない。うますぎる。セロリと野菜のスープ、メルゲーズ、そして自分で作ったんじゃあ再現など到底不可能な一粒一粒がしっかりしたキメ細やかなクスクスが絶妙に合う。こんな表現使いたくないが、ハーモニーを奏でている。非常にうまい。異常にうまい。思わず心の中で、「これが本物か!」と嘆息してしまった。

あとはもう、無心にばくばく食っていた。途中でお腹がいっぱいになったが、こんなにうまいものを残したくはない、ととにかく食い続け、最後にはペロリと完食してしまった。今まで作ってきたクスクスが、いかに稚拙なものか、思い知らされた。お腹はパンパンだったが、後悔はしない。うまかったからだ。だがわたしは少し、ぐったりした感じで椅子に腰掛けた。何かさっぱりさせたい。ふと周りを見ると、お茶を飲んでいる人たちがいた。お茶は、いわゆる「ミントティー」だ。今回行きそびれたが、モロッコに行ってみたかったので多少調べたのだが、向こうではよく飲まれている飲み物で、好き嫌いが分かれるという。リスキーではあるが試してみよう。というのも、お腹いっぱいになった後、ヨーロッパ料理ならエスプレッソ、トルコ料理ならチャイ、インド料理ならチャーイを飲むのが一番だと経験的に学んでいたので、モロッコ系の料理ならモロッコの温かい飲み物が効くに違いないと思ったからだ。

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ミントティーはミントの風味がさっぱりとした、甘いお茶だった。甘いと言っても砂糖が激しくくるわけではなく、紅茶の茶葉の苦味を引き立てるような形でくる砂糖のほんのりとした甘さである。端的に言えば、このタイミングでミントティーは正解も正解、大正解であった。

満足して、少々高い会計を済ませ、「シュクラン!(アラビア語でありがとう)」と伝えて、私は店、というかモスクを後にした。しかし歩くとやはり腹がパンパンである。どこか休めるところ、公園のような場所はないか。そう思いながら歩くと、大きな公園にぶち当たった。そこには「アレーナ」があった。つまり、かつてパリがルテティアと呼ばれた古代ローマ時代の闘技場である。史跡公園だ。面白い。これはこれでフランスの今の文化とは違う世界だ。私は中に入り、汚い便所で用を足し、アレーナの石段に座ってゆっくりすることにした。

ベルクソンの読書会のメンバーで合宿などと題してやってきたものの、一行も読んでいない。せっかくだ、ここで読もう。私は本を取り出して読むことにした。ベルクソンがコメディをテーマに書いた『笑い』である。タイトルのインパクトがすごい。内容もなかなか面白そうだ。あたりでは笑い声も聞こえる。古代ローマの闘技場跡は、いまではパリ市民の憩いの場のようだ。

f:id:LeFlaneur:20180831224352j:plainしばらく本を読んでいると、アレーナの舞台で試合が始まった。有名な、ペタンクである。カーリングのような感じのルールで、それをボールを投げて行うスポーツだ。おじさんが三人、おもむろにやっている。なかなかうまいもので、ホイホイと高得点を決めて行く。しばらくすると若者の集団がやってきて、騒ぎながらその試合を見ている。パリの昼下がり。良い雰囲気だ。今日はいい日である。私は何故だか嬉しくなってきた。

試合も終わり、本もキリが良くなってから、私はアレーナを出て、アラブ世界研究所という場所を目指した。だが結論を先に言うと、入りはしなかった。なぜなら、あまりに閑散としていて、ふらりと入る雰囲気ではなかったからだ。太陽の熱で窓ガラスが変化し、室内を照らすというアラブ世界研究所の建築を内側から見てみたい気はしたが、結局外側を眺めただけであった。だがそれはそれでよかった。

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そのあとは、川沿いにカルチエ・ラタンを歩き、映画館のラインナップを見たり、市場を覗いたりした。カルチエ・ラタンはさすが学生街で物価が安い。早く見つけていれば格好の昼食場所だったのに、などと思いながら、喧騒を楽しんだ。さて、どうしようか。まだ時間はある。私はアラブ文化の次はユダヤ文化だ、と、前回ユダヤ人街巡りをしようとした時にきちんと回れなかったマレ地区に行くことにした。待ち合わせ場所にも近い。

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マレ地区に行くために、セーヌ川を渡る。その際セーヌ川沿いの古本スタンドを冷やかすと、昔の地図や写真があって、思わず欲しくなる。それでもセーヌ川に架かる橋を渡る。ちょっと川の方を見たら、川辺でモデルが写真を撮っていた。さすがパリ。モードの発信地でもあるわけだ。だが、「パリで撮影してきましたー」という言葉に潜むキャピキャピ感だけでパリを見ては、パリを取りこぼしてしまう。パリはもっと奥深い。などと思いつつ、「あ、有名人かな?」と浮き足立ってしまったことは隠しきれない。

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マレ地区のユダヤ人街は、きちんと歩くと案外面白かった。この前は気づかなかったが、パリのメトロのデザインをした人が設計したシナゴーグユダヤ教の教会)には、敬虔派と呼ばれる黒服に黒いハット、長い髭の人たちが集っているし、商店にはヘブライ文字が書かれ、街を歩く青年はキッパというユダヤ教の丸帽子をかぶっている。パリは昔からユダヤ人の街でもあった。哲学者ベルクソンユダヤ人だ。マティスなどパリに出てきた東欧のユダヤ人の芸術家もいる。パリという街はヨーロッパの中心地だった。だからこそ、たくさんの人が入ってきて、故郷を追われたユダヤ人の拠り所でもあったのだ。食事も、面白そうなものがたくさん売っていた。豆のペーストのホムズ、豆コロッケのファラフェル、言わずと知れたベーグル……だが、クスクスでいっぱいの腹には少しきついものがあった。

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 そんなこんなで、時間になり、前回紹介したアンファンルージュ市場に私はたどり着き、その跡はジャズクラブへ行ったのであった。これで移民街巡りはひとまず終了、のはずだった。

 

だが実は翌日もまた、移民街へ赴くことになった。

その日は最終日だった。チェックアウトし、ホテルの人が手配してくれた空港行きのバンの打ち合わせをし、外に出た。この日は、モンマルトルへ行くことにしていた。モンマルトルは、丘の上に立つサクレ・クール寺院が有名だった。寺院の頂点まで登れば、パリが一望できる。最後はそうやって終わらしたい。俺たちのパリを一望したかった。

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客引きだらけの参道を登り、階段を登り、サクレクールの目の前の広場まで来て、後ろを見ると、それだけでもかなりパリが一望できた。私たちは階段に腰掛け、パリを見ることにした。不思議なものだ。この街で一週間暮らしたというのだから。ジャンキーな味のレオというチョコバーを食いちぎりつつ見るパリは、生活感があった。帰りたくない。やはり、帰りたくない。そう思っていると、ストリートミュージシャンがTime to Say Goodbyeを弾き始めた。なんてタイムリーなんだろう。だが、お別れなんていいたくない。

「知ってる? この歌って、結婚式の歌で、新たな門出を歌う歌なんだよ」と友人が言った。聞いたことのある話だった。

「だから、お別れじゃなくて、始まりなんだ」と彼は言う。そうか、はじまりなのか。パリはいつでも心の中にある。そんなセリフが、映画「カサブランカ」にはあった。パリは移動祝祭日だとヘミングウェイはいった。パリの旅は終わるが、パリは生き続けるのだ。そしてこの時間は、私たちの人生に新しい何かをくれたのだ。

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しばらく感傷に浸って、サクレクール寺院を登ることにした。中に入ると急な螺旋階段が続き、目が回りそうになりながら、頂上を目指すことになる。だが、その苦難も、少し外に出ると苦難以上の対価を支払われることになる。まるでヒーローのように教会の屋根伝いを歩き、最後には展望台へとたどり着くと、確かにパリが一望できた。遠くにはエッフェル塔もある。そういえば、ヴォージラール最後の日は、エッフェル塔からパリを見た。サクレクール寺院もあった。随分と昔のことのようだ。しばらく暮らした街を一望していると、色々と思い出すものだ……

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とてもよいエンディングを迎えたはずが、階段を降りてみると、友人二人が体調を崩してしまった。何か元気が出る食べ物を食べたい。私はここで、友人の内の一人がインド好きだったことを思い出し、なぜか最後にパリ北駅のそばのインド人街へ行くことにした。これこそ、移民街巡り、そしてパリ回りの最後である。

というわけで、私が前回パリに来た時の宿泊地があったインド人街へ戻ってきた。思えば面白いものである。あまり知られていないが、フランスはインドに拠点を持っていた。いわゆるポンディシェリシャンデルナゴルである。うちポンディシェリは現在のインド・タミルナードゥ州にあり、いわゆる南インドだ。言語もヒンディー語ではなくタミル語で、料理のスタイルも違う。どうやらフランス料理が入ったらしく、ポンディシェリ料理なるものが出来上がったらしい、と清岡先生の本に書いてあった。

さて、サリーを着た女性が闊歩し、ピーナッツ売りがうろつき、タミル文字で溢れ、インドの伝統衣装の店やカレー屋だらけの界隈へとたどり着くと、インド好きの友人はすぐに持ち直した。もはやここはインド。だから移民街は楽しい。何軒かあるカレー屋の内、一番インド系の人で溢れていた店に入り、マトンカレーを頼んだ。出てきたのは、やはり北インド風のシャバシャバしたスープ系カレーではなく、ペースト状のカレーにマトンが入り、パラパラの米にどさっとかかった見たことのない様式だった。これをぐちゃぐちゃに混ぜて食うらしい。周りを見よう見まねでやってみる。口に入れる。これが、びっくりするほどうまい。今でもふと食べたくなるほどだ。なのに、同じ味のものはどこにもない。

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インドを「出国」し、私たちは思い出の界隈であるカルチエ・ラタンに入った。最後はここと決めていた。旅の始まりにもなったベルクソンに捧げる碑文があるパンテオンへ向かい、それから、カフェに入った。パリの地下鉄でテロという誤報があったり、この時はこの時で大変だったが、最後にカルチエ・ラタンへ行ったのは正解だった。パリの旅が終わるに当たって、挨拶しなければいけない街だったし、思い出がいっぱいだった。

その後、歩いてホテルへ戻った。途中のスーパーで、いくつかお土産も買った。ケチな私はクッキーだけだったが。着いた時にいたフロントのお兄さんがいた。

「鍵?」と聞いてきたので、

「もうチェックアウトしたんだ」というと、

「え、マジ? もう一泊して来なよ」という。はははと笑うと、

「これは冗談じゃないぜ? どうだい、無料にするって言ったら泊まってくか?」と真顔で聞いてきた。

「泊まりたいね。でも日本行きの航空券を買っちゃったからね」と答えると、なんとなく寂しそうだった。後ろ髪引かれる思いである。

バンがやってくるまではしばらくあったが、時間は容赦なく過ぎた。私たちはシャルル・ド・ゴール国際空港へと運ばれ、夕食をポールで済ませた後、アエロフロートにチェックインした。もう終わるのだ。旅も、パリも。なんとなくセンチメンタルな気持ちになったが、よく考えたらまだ終わりというわけではなかった。

「まだモスクワがある。きっとモスクワもいいとこだ」私たちはそんなことを言いながら空港での時間を潰したのだった。

Au revoir, Paris.(パリよ、さらば)という言葉は言いたくなかった。だが、Au revoirとはまた会いましょうという意味だ。また、くればいいのだ。