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旅、映画、食べ物、哲学?

18都市目:モスクワ(1)〜Снова в СССР?〜

シャルル・ド・ゴール空港からアエロフロートで空を飛び、モスクワはシェレメチエヴォ空港まで三時間。夜も遅いフライトなので多少は眠ったが、時差を換算していなかったがために、5時間寝るつもりが3時間しかなく、寝不足感は否めない。フライト中膝の上には読み終わっていない『エキゾチック・パリ案内』。正直、いいフライトではなかった。というか私はフライトが苦手なのである。だが、とにかく、一ヶ月ぶりに、3時間後には、ロシアへ戻ってきたわけだ。最後の国にして、神秘の国である。ベルリン、ヴェトナムに継ぐ、私にとっては3カ国目の旧東側諸国だ。

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ロシア。17世紀後半のピョートル大帝の西欧化改革で、ヨーロッパ化が進み、18世紀のエカチェリーナ二世により東ヨーロッパの大国となり、さらにはアジア方面にまで領土を広げ、19世紀には七つの海を支配する英国の好敵手として存在感を強めた国。日本の本格的な国際社会デヴュー(?)となった日露戦争の相手でもあった。しかしその頃からこの国の体制は揺らぎ始め、1917年、二度に亘る革命がロシア帝国を襲い、レーニン率いるボルシェビキにより、社会主義体制のロシア、のちのソヴェート連邦が生まれた。それからも、ロシアは英国など西欧諸国の対抗勢力であり続けた。世界恐慌で世界経済が揺れる中、時のスターリン政権は五カ年計画を行い、社会主義国として世界恐慌を回避。第二次世界大戦後には、戦勝国アメリカ率いる資本主義諸国(西側)に対して、社会主義体制を堅持する東側諸国の中心となった。ロシアは、大国であり続けるとともに、西欧の対抗勢力だった。宇宙開発競争、核開発競争、ヴェトナムや朝鮮半島、アフガンを襲う代理戦争、国連を舞台とした論争……米ソ冷戦である。

「帰りにモスクワによるよ」と伝えると、特にドイツ人は皆顔をしかめた。

「モスクワ? なぜ? あそこはロシアだぞ?」まだまだ、ロシアの悪印象はぬぐいきれていないようである。まあ、日本人に「平壌に行くよ」といえば、大抵の人は、「え!?」という感じになるだろう。同じことだ。いや、ソ連からすれば平壌は手先のようなもの、もっと話は大きいかもしれない。

1991年、ゴルバチョフが敷き、エリツィンが強奪した路線に従い、ソ連は解体され、ロシア連邦が生まれた。旅行もしやすくなったらしい。だが旅行者とは面白いもので、西側のバックパッカーはかつて節約のため、アエロフロートを使ったらしいし、シベリア鉄道に乗った人もたくさんいるらしい。旅人に冷戦なんて関係ないし、関係したくもないのだろう。

 

トランジットコーナーには入らず、モスクワ市内観光をするために、ヴィザを携えて、パスポートコントロールへ行くと、

「お前はここではない。あっちへ行け」と女性係員に言われた。彼女はヴィザの存在に気付かず、私のチケットだけ見てそう判断したのだろう。だがあの時はよくわからなかったので、別のところに並んだ。すると女性が出てきて、すごい剣幕で、

「なぜそこにいる? お前はここではない。トランジットに行け」という。私も疲れていたのでパスポートを開き、

「ほら、みろよ、トランジットヴィザがある」とこれ見よがしに言った。係員はハッとした様子で、戻っていった。

それからその女性のパスポートコントロールでスタンプをもらうと、女性は申し訳なさそうに、

「すみませんでした」といった。なんだか申し訳ないことをした気分にこちらもなってきて、

「……いえ」と答えた。ロシア人、悪い人たちではないんだなと思ったのはこの時である。後でいろいろな人に聞いてみると、あまりモスクワで外に出る人はいないらしい。

 

モスクワに行ってみようと思ったのは、単純な興味からである。滅多に行ける場所ではないし、西欧から隔絶されてきた歴史、独自路線を進んだ歴史も相まって、街並みも滅多に見られるものではないからだ。文字に惹かれて、ロシア語をやっていたこともあった。もちろん、NHKのテレビである。ハイテンションで小林麻耶が「ズドラーストビーチェ!(多分本当はズドゥラーストゥヴイーチェ:今日は)」という楽しい番組は毎回見ていた。「カテューシャ」や「カリンカ」、「モスクワの夕べ」、「スラヴ娘の別れ」などロシアの歌も好きだった。一度は行ってみたい国の一つだった。

さて、ついたのは4時ごろで、市内まで走る列車がまた走っていない。タクシーなど使うのは面倒だし、早朝の街が独特の怖さを持っていることはプノンペンで経験済みである。というわけで、私たちは空港のベンチで時間を潰した。眠かったが、なんとなく眠れず、くだらない話や、私の持ちネタだったロシアンジョークを言ったりしていた。思えば、まだソ連だったら捕まっていたに違いない。だってそこで披露したジョークというのは、

「ブレジネフ政権のソ連で、『ブレジネフは馬鹿野郎だ!』と叫んだ男が逮捕された。容疑はもちろん『名誉毀損』と『国家機密漏洩罪』」

といったきわどい類のやつだからである。

空が白み、電車が動き始めるぞという頃合いになると、私はバックパックを預けたかったが、これがまた難儀だった。表示に従って行くと、

「ここではない」と言われる。

「じゃあ、どこに?」と英語とロシア語を混ぜながら言うと、

「下だ」と言われる。これは社会主義名物のたらい回しか? とハラハラしながら(※ロシアは社会主義国家ではありません)、地下に降りた。幸運なことに、たらい回しではなく、そこに荷物置き場があった。だがこれはこれで難しく、ルーブルに両替しなければいけなく、私は友人とバッグを置いて両替所に駆け込み、ユーロをルーブルにした。戻ってきて、拷問部屋のような荷物置き場に荷物を置き、地上に戻ると、列車の時間も近かった。

そして、である。これまた列車の発着駅も難しいのである。空港の施設からすぐに行けるのかと思いきや、あるけどあるけどつかない。最終的になんとかしてチケットを買ったが、友人が一人消えている。おっと、これはトラブルだ。と思っていると、入り口付近にいて、こっち来なよと言ってもこない。どうやら係員に止められている。どうやら私たちが駅の入り口と思っていたのは、空港の入り口で、X線検査なしでは入れないようなのだ。私たちは結局訳も分からず、荷物のX線検査を受けさせられ、空港敷地内に入ってしまった。ぐるりと回り、逆方向へ行けば駅に行けたのに、こちらとしても標識がないので、よくわからなかった。難しすぎるぞ、モスクワ。しかもこちとら睡眠時間三時間で朦朧としている。そんなこんなで、なんとか列車に乗り込み、めざせモスクワである。

 

列車から見える景色は、ドイツとあまり変わらないなという感じだった。案外普通なんだろうか、と思っているうちに、体力が限界を迎え、すーっと睡眠に移行する。ふっと起きると、雰囲気が少し違った。アパートが並んでいるが、それは英国のフラットでも、パリのアパルトマンでも、ドイツのアパートとも雰囲気は違った。おそらくソ連時代に建てられたものだ。強いて言うなら「労働者集団居住施設」という雰囲気である。

空港からの列車は、ベラルースキー駅にたどり着く。モスクワの駅は、パリと同じシステムを取っており、行き先の名前が付いている。だからモスクワにモスクワ駅はない。ベラルースキー駅というのは要するに、ベラルーシ方面というわけだ。他にもキエフ駅などがある。ベラルースキー駅はぱっと見、ちゃっちいたとえで申し訳ないが、箱館にありそうだなあという感じだった。いや、本当は逆なのだ。

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外に出てみると、寒い。パリも寒くなってくる季節ではあったが、モスクワは寒い。モスクワ経験者の友人が、「ロシアも夏は暑い」と言っていたので、暑かったらどうしようと思っていたが、むしろ寒い。いやすごく寒い。さすがロシアである。それにしても困ったのは、市内中心部に出るための地下鉄Метроの駅が見当たらないのである。モスクワに着いてから、なんだか常に何かを探している気がする。

どうにかこうにか探し当て、地下鉄のエスカレーターを降りる。深い。深すぎる。なぜこんなに深いんだ、というレヴェルで深い。そして、エスカレーターの周りにある装飾がやけに派手だ。まるで宮殿のようである。これがロシアの有名なメトロなのか。

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モスクワの地下鉄のホーム。なに駅かは忘れた。駅によって装飾が異なるのでゆっくり旅する人はそれも楽しめそう。

やっとの事でホームにたどり着くと、表示が分かりづらすぎて、どこに行けば良いのかわからない。私たちはとりあえず赤の広場があるチアトラーリナヤ駅を目指していたが、列車が多すぎる。しかたがない。片言ロシア語で頑張ろう。わたしは近くにいた、小柄でガシっとした体型の、映画でソ連兵をやっていそうな男性に話しかけた。

「イズヴィニーチェ・パジャールスタ(すみません)」やばい。これ以上よくわからない。「えーっと、エータ……イッチー‥‥チアトラーリナヤ?(これ……行くこと‥‥‥チアトラーリナヤ)」ひどすぎる。うろおぼえすぎる。

要領をえなかったので男性に地図を見せると、男性はなにやらロシア語で言った。また同じことを繰り返して聞いてみると、

「Нет(いかないよ)」という。それから何かを続ける。しばらくしてこちらがわからないと気づき、こっち来いと私たちを階段まで案内した。この階段を登れと言っているようだ。この優しいお兄さん、実は今自分の列車を一本逃している。なのに私たちを誘導してくれたのだ。私も困っていたので、

「スパスィーバ、オーチニスパスィーバ!(ありがとうございます、ほんとに、ほんとに、ありがとうございます!)」と強く言った。お兄さんは少しにこりとして去っていった。おかげさまでメトロに乗ることができた。

多分だが、ロシア人は顔が固いし、筋肉があるので怖いように感じる一方で、内心はすごく優しいのである。正直、カンボジアやヴェトナムといったアジア圏がランクインしていた私の心の中の優しい国ランキング上位にロシアは一瞬にして食い込んできた。いい人たちである。一瞬怖いのだが。女性はみんなモデルみたいだし、男性は皆プーチンみたいだからだ。

 

長いエスカレーターを抜け、外に出ると、巨大な赤い建物が見える。その中に赤の広場があるようだ。近くにあるチェーン店風のカフェの前では、かなりやる気のないマスコットキャラクターがぶらぶらしている。これがロシアか。突っ込みどころが満載すぎる。私たちはとりあえず両替をして、その謎のカフェで朝食を食べることにした。

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カフェのある建物に入ると、なんと金属探知機があった。まじか、やらねばならないのか。私は時計をはずし、係員に、やるんだよね?的なアイコンタクトをとった。すると係員は首を横に振り、通れという。いやいやいや、なんのためにあるんだよ。私は少し笑いそうになりながら地下にあるカフェへと向かった。ロシア、すごい。しかもカフェがあるというのに、建物の内装は、学校の地下室感が半端ない。

「ドーブライ・ウートゥラ!ヴイ・ガバリーチェ・パ・アングリスキー?(おはようございます、英語しゃべりますか?)」とカフェの店員に言うと、

「もちろんです!」とかなりハイテンションである。たぶん、客が少なくて暇だったんだろう。ノリはもう、文化祭で端っこの教室になってしまったクラスである。テレビでロシア語に出てきそうな若者たちに案内され、私たちは席に着いた。

メニューを広げると、モーニングセットがあった。メインは、ロシアの朝食の定番の一つだというブリヌイである。これはクレープのようなものだと聞いている。私はいろいろあるブリヌイの中でも、きのこのブリヌイを食うことにした。ロシアといえばきのこ、きのこといえばロシアだ。ロシア人数学者ペレルマンは100年の難問「ポワンカレ予想」を証明し、一躍有名人になった後で、有名人になることを嫌がり、山に引きこもって、きのこ狩りを始めたらしい。2000年代の話である。それだけ、ロシア人はきのこが好きなのだそうだ。ベリーも好きらしい。たぶん、あの不毛地帯ではベリーときのこくらいしか取れないのではないだろうか。

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チェーン店のカフェだったが、ブリヌイは最高に美味かった。ロシア料理は日本でも、ボルシ(チ)やペリメニやシャシュルィク、ビーフストロガノフなど食べてきたが、ブリヌイは初体験だった。弾力のあるクレープ生地にナイフを通すと、ホクホクのきのこソース。体が温まる、寒い朝にはぴったりの料理だった。

 

店を出て、楽しい気持ちで赤の広場に入った。巨大な赤い門をくぐり抜けて、中に入る。敷地内にある教会からは、ロシア正教の神秘的な聖歌が聞こえてくる。広場自体は残念ながらお祭り用のステージが作られている途中で、よくテレビに出てくるようなだだっ広いあの雰囲気ではなかった。しかし、すぐ右にはロシアの政治の中心地クレムリン、そして奥にはしっかりとカラフルな玉ねぎ頭の聖ヴァシーリー教会が見える。

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教会の開館時間はまだだった。中にはまだ入れない。そばにあるグムという市場に入ろうがと思ったが、グムの入り口には金属探知機がある。眠気も相まって、そういうごたごたが非常に面倒になっていた。行くのは断念だ。とりあえず散歩をしよう、と、教会の更に向こう側を流れるモスクワ川の方へと向かった。

川周辺は他の場所にも増して寒かった。小さな公園があるが人はあまりいない。橋を渡ると、川の向こう側に、いわゆる「スターリン様式」の建物がそびえている。そう、天高くソヴィエている。失礼、なんでもない。あとで知ったのだが、その建物はホテルだそうで、まだ現役らしい。スターリン様式というのはスターリン時代によく建てられた建物で、上へ上へと伸びてゆくタワーが印象的だ。まさにソ連という雰囲気である。モスクワには、まだまだそういう建物がたくさんある。当たり前といえば当たり前だ。私たちにとっては昔のことでも、この国ではつい30年前は普通にソ連だったのだ。

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スターリン様式のホテルと現代の労働者同志

川を越えたところは、北欧っぽい雰囲気があった。説明するのが難しいのだが、西欧でも、ドイツでも、南欧でもない、北欧風の空気感というものがあって、港町っぽいというかなんというか、建物も含めて北欧の文化との密接な関係性を感じさせた。クレムリン方面には救世主キリスト教会の黄金のドームが見える。川をもう一本渡り(今やってっきたのは対岸ではなく中洲である)、少し歩けばロシアの有名な美術館トレチャコフ美術館があるはずだ。だが、タイムリミットは10時間もない。引き返そう。

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聖ヴァシーリー大聖堂は開館時間を迎えていた。これまた場所がわかりにくいチケットカウンターでチケットをもらい(異様に安かったのだがなぜだろう?)、大聖堂の中に入った。

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中は薄暗く、赤かった。というのは、あの建物の色そのものだったのだ。中はどうなっているのかなんて誰も考えないから、入ってみてびっくりだ。しかも中の装飾は素朴で、時折花が素朴なタッチで描かれている。なんとなく落ち着く空間である。カトリックプロテスタントの教会と違い、巨大な礼拝堂があるというよりも、幾つかの部屋に礼拝堂があるという感じだった。もちろん、この教会、今は基本的に博物館になってしまっていたので、他の教会は違うのかもしれない。だがイメージ通り、イコンが飾られ、礼拝堂には天高く装飾が施されていた。

歩いていると、一つの礼拝堂から歌声が聞こえてきた。ロシアの男声合唱団がポリフォニーを歌っている。やはり低音で響かせる。心落ち着く音楽で、私の意識は聖ヴァシーリー大聖堂に溶け込んでいった。

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不思議なのは、外側から見るとあんなに派手でモダンな建物が、16世紀から存在しているということである。創建されたのは、ツァーリ(皇帝)イヴァン雷帝がカザンを征服した記念だったから、1559年である。形でも変わっているのかと思うと、歴史紹介コーナーには今のままの聖ヴァシーリー大聖堂が描かれた版画や絵画が載っている。いやいや、トロツキーを写真から抹消した国だ、合成かもしれない、と疑わなくはないが、おそらく本当にあったのだろう。中に入ってみると、外側からは見えない経年の跡が見える。

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外に出て、赤の広場を抜け、私たちはぶらぶらしながら昼食場所でも見つけようということになった。広場では祭りをやっていた。楽しそうだが、入れない感じだった。入ったら、私たち三人は記録から抹消されるかもしれない。クレムリンは入ってみたかったが、とりあえず食べてからということにした。

赤の広場を出ると、大通りがある。大通りと言っても普通の人の思い浮かべる大通りの3倍はある。さすがロシアだ。おかげで車通りが激しすぎて道を渡れない。その奥にはメインストリートのトゥヴェルスカヤ通りがあるというのに。どうするのだろうと辺りを見回すと、皆地下道を使っている。地下には地下鉄駅があり、その前を素通りすれば、トゥヴェルスカヤ通りにたどり着く。

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だがこの通りを歩いたところで、レストランのレの字もなかった。両替商と、「タバコくれよ」といってくる謎のおっさんだけしかいない。そして驚くのは、旧ソ連の趣をかなり残した建物の数々である。社会主義風の建物には、今でも鎌とハンマーの紋章が刻まれ、今でも何かに使われている。もしかすると何も変わっていないのかもしれない。街を歩く警察官の帽子はやけにでかいし、街に人があまりいない感じも、ソヴェートだ。まだ、この国の実態はソヴェートなのかもしれない。そんなことを思った。そもそも、ソヴェートからロシアへの移行というのも革命があったとかそういうのではなく、体制の転換だったはずだ。資本主義ソヴェート……まあこれはあくまで10時間だけモスクワの街を歩いた感想だ。

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それにしても店がない。少し外れた道に入ると、あるにはあるがピザ屋に入る気はない。「はげ山の一夜」のプロコフィエフのゆかりの地らしく銅像がある。なかなかいい雰囲気の通りである。その通りを曲がると途中でバレエの劇場があった。ボリショイ(バリショイ)劇場もあるらしいがよくわからない(あとで知ったのだが、その劇場のすぐ裏にでーんとボリショイ劇場があったらしい。しかも私たちが使っていたチアトトラーリナヤ駅は、バリショーイ・チアートル、つまりボリショイ劇場という意味だった。私たちの目は節穴でございました)。ボリショイ劇場。おそらく知る限り、オペラ座を抜いて世界一テキトーな名前の劇場である。なんとなれば、ボリショイとは大きいという意味だ。だから大劇場である。するとボリショイ大サーカスは、頭痛が痛いと同じようなものになる。もう少し、泊まってみたいなとも思う。そうすればバレエの一つでも見ることができる。私たちは早くも、また来たいなと思いつつあった。

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いい散歩にはなったがレストランがない。というわけで私たちは禁じ手のガイドブックを開き、新アルバート通りという繁華街に行くことにした。そこにはロシア料理のビュッフェの店があるという。ダヴァーイ(さあ行こう)!である。