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旅、映画、食べ物、哲学?

インド映画の効能

今年一の大発見は、人間はやはり弱いのだということだった。もちろんそんなことはわかってはいたわけだが、やはり弱い。いつでもやる気に溢れることなんてできないし、打開する道を見出すことも容易ではなく、くじけてしまうこともままある。心の奥の灯火が灯らず、無気力が続くこともあるし、ままならぬ状況に心が壊れてしまいそうになることもある。実際に壊れることもある。もちろん人の悩みには、迷いにすぎないこともある。一度の旅が、一度の散歩が、心を癒してくれることもある。だが、自分ではどうしようもないものもある。散歩をし、友人と楽しいひと時を味わい、旨い酒と食べ物を得たところで、問題が解決しないこともある。そういうとき、やはり自分の弱さを実感せざるをえなくなる。苦しいが、乗り越えるのに必要な気力も見出せない。何もかも分からない。そんな状況を前に、私たちは膝を折る。

そんなことは、人生で何度もあることなのかもしれない。だが、人生で何度もあるからといって楽観的になれるわけでもないし、悲観的になりたいわけでもないのだ。そんなときには、やはり自力では抜け出せないので、何かが必要だ。自分を動かし、悩みや苦しみなど、瑣末なことのように見える何かが。それで解決しなかったとしても、すこしでもいい、自分を奮い立たせてくれる何かが必要なのだ。そんなとき、私はインド映画を見る。劇中歌を聞くだけでもいい。無論、インド映画が解決になることはない。だが、見るのである。

 

インド映画というと、荒唐無稽なイメージがあるかもしれない。謎のタイミングで始まる異常に大人数でのダンスシーン、ど派手すぎるアクション、「ヒュッ」「バシーン」というへんちくりんな効果音、完璧すぎるヒーロー、勧善懲悪。嫌いな人は嫌いだろう。逆に好きな人は好きだろう。そんなイメージだ。そしてそのイメージはほとんど正しい。もちろん、数年前に流行った「きっと、うまくいく」のように、インド映画伝統のわけのわからなさが少ない作品もある。だが、特に今現在日本で流行っているインド映画「バーフバリ」やその原点とも言われる「マガディーラ」、あるいは20年くらい前の「ムトゥ 踊るマハラジャ」などは荒唐無稽と言われれば荒唐無稽である。

しかし、荒唐無稽には荒唐無稽なりの意義がある。むしろ、それだからよいのだ。

作家の沢木耕太郎が、インドに行ったときにインド映画を見た感想を『深夜特急』で書いていた。沢木さん曰く、インド映画で出てくる派手な衣装、派手な生活というのは、実際のインドの生活とは到底掛け離れているが、だからこそ、インド人にとってインド映画は必要なのだ。劇場は夢を見る場なのである。これにはかなり納得した。暗い映画は暗い映画でいいとは思うのだが、なぜ劇場でもこんな重いものを?と思うこともある。勧善懲悪、ハッピーエンド。現実の世界ではありえないとは言えないが、現実ははるかに複雑怪奇で、不安定である。インド映画で悪役が勝ちそうになっても、心のどこかで「大丈夫、主人公が出てきてくれる」という安心感がある。しかし実際の世界では、そうはいかないこともある。だが、だからこそ、映画に夢を託すのだ。きっと大丈夫だ、きっと強いヒーローが救ってくれるんだ、と。

そして、ダンスである。インド映画のダンスシーンの音楽は、独特の中毒性がある。多分、あのリズムだ。でんででっでんでんででっでんでんででっでん、というようなリズムを刻まれると、なぜだろう、私の胸の奥の奥にある何かがリズムに同期し始め自然と体を動かしたくなるのである。インド映画はキレッキレのダンスがかっこいいなということももちろんあるのだが、それだけではなく、俺も踊りたい、と思わせる何かがある。そのとき、ダンスを通じて客と銀幕は一体化する。夢の世界へと誘われる。いや、あるいは、もうすでに夢の世界に入ってしまっているのかもしれない。

ヒーローの完璧さも熱狂の渦を生む一つのファクターだ。全国で「バーフバリ」の応援上映が行われていたが、あれが人気を持ったのは、映画を見ていると、そのヒーローを全力で応援、というか称えたくなるからである。「よくぞ言った!」「そうだ!」「バーフバリーーー」とまあ、こんな感じで、音楽のせいか、ダンスのせいか、映画の構成のせいか、まあ、多分どれも正解でどれかだけというわけではない何かに引き寄せられた観客は、インド映画の絶対的ヒーローに引き込まれるのである。インドの映画館では、踊ったりするのが自由だというが、インド映画を見ていて思うのは、もはやそういうふうにできているのである。そうせざるをえなくなる何かがあるのである。この前「マガディーラ」を見たとき、思わず終わったあと拍手をしそうになったし、主人公の登場シーンでも拍手しそうになった。逆に日本の慣習に従って耐えているのが辛いレベルである。

 

そして、そんなインド映画のヒーローは私達の持つ弱さを乗り越えている。もちろん、そうではないのもいる。例えば「チェンナイエクスプレス」の主人公は、いろいろな事件に巻き込まれ、恋をして変わってゆくから、初めから強いわけではない。しかし、傾向として強い人が多い。強いだけではない。ハナにつく強さではない、ということだ。「強く生きろよ」というタイプではない。彼らは彼らで強く生きているのである。

「きっと、うまくいく」の主人公ランチョーは普通の人ならすぐに絡め取られてしまいがちな学歴主義だったり、勉強や就職といった社会のルールを超えて、自分らしく生きる。「pk」の主人公は宇宙人である。そんな異邦人の立場から、インド社会に根強く残る宗教や反宗教という価値観に真正面から挑む。普通はタブーでできないことなのに、だ。「バーフバリ」の主人公は親子だが、両方とも、まず力の強さが尋常ではない上に、常に正しく、愛する人のために戦う。「リンガー」の主人公のマハラジャは人に対等に接し、もちろん力も強く、正義に従う。「ジョーダーとアクバル」のアクバル大帝は宗教を超えて、帝国を一つにしようと、周りの保守的な考えから突き抜けている。そんな彼らは、周りをも変えてゆく。劇場にいる私たち観客の心も溶かしてゆく。

 

そうした主人公たちの突き抜けた生き方を映画を通じて、熱狂の中で見て、そしてハッピーエンドの大団円に盛り上がったとき、「いがいとなんとかなるんじゃないか」という勇気をもらえることがある。もちろん、それは幻想かもしれない。いがいとなんとかなることなんて、珍しいのである。だが、折れそうな心、出口の見えない状況に立ち向かうちょっとした勇気を少しでも与えてくれるのには十分である。それは映画の上映中だけでもいい。

ハッピーエンドは自分で作るしかない。そんなことはわかっていても気力が湧かない。そんなことはわかっていても、状況は簡単には変わらない。もう取り返しはつかない。そんな只中で悶え苦しむときに、映画を見ているときだけは、「いける」と思わせてくれる力がインド映画にはある。その「いける」がいつか自分の軸となり、いつか心の中のインドの勇者が育ち、道を塞ぐ重くで暗い何かを粉砕してくれるかもしれない。ほら、インド映画は語りかけている。自由になろう、と。生きよう、と。さあ踊ろう、と。さあ歌おう、と。「うまーくいーく」と。

少なくとも、映画を見終わって、YouTubeなどで劇中歌を聞いているときくらいは、そんなふうに思うこともある。いや、そんな気になることもあるのである。