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旅、映画、食べ物、哲学?

旅と自由

ブログに書いたかどうかは忘れたが、以前、散歩中に迷ったことがあった。

その日は大学の授業が13時30分からあったのだが、昼食の海鮮丼定食を待っていたら、授業に5分ほど遅刻する時間になってしまっていた。その授業に魅力をあまり感じなくなってきていた時だったし、階段で4階まで登らなければいけなかったこともあり、なんとなくめんどくさくなって、それじゃあ散歩でもしようという気になった。まじめにも授業に出る友人に別れを告げ、私は赤坂の方へと歩いて行った。

授業は1時間半。15時15分から次の授業が始まる。次の授業は好きな授業だったので、出る気だった。しかし散歩をしていると、面白いもので、より先へ、より面白いものがある方へ、と探索に出たくなってくるのである。そこで私は赤坂の奥地へと針路をとった。

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本当に知らない道というのは楽しいもので、まるでコイントスするように、私は右に左に歩き続けた。まさに、風の吹くまま、気の向くままである。曲がった道、登る道、知ってる道に出たら、振り出しに戻る。しばらく歩けば、神社が見えてくる。入ってみよう。ちょうどいい椅子もある。本でも読もう。心地よい風の中、読書を楽しんだ。どうやらこの界隈は、氷川神社の近くで、勝海舟のゆかりらしい。

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と、ふと気がついた。そういえば次の授業に間に合うためには、そろそろ戻らねばならないのである。私は数ページ読んでから、神社を後にして、戻ることにしたが、同じ道をまっすぐ戻るのは芸がない。どうせなら、氷川神社なるところのそばを通って帰ろう。普段はやらないが、今回はと、私はGoogleマップで、綿密な計画を立て、氷川神社を通って大学まで戻るルートを見出した。

ところが、である。氷川神社の横を通り、多分こっちが赤坂だろうなという道を通り、しばらく歩くと、地図にないどでかい公園が出てくるではないか。多分これは、某テレビ局の敷地内だろう。私はそう踏んで、公園でくつろぐ人々や、前衛的なオブジェを楽しい気持ちで眺めながら、公園の奥にあったビルに入った。

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とりあえずそのビルのトイレで用を足し、表示を見ると、それはテレビ局のそばの建物ではなさそうだった。東京ミッドタウン。赤坂とは真逆であった。

これは間違いなく間に合わない。初めは少々焦ったが、だんだん楽しくなってきた。こう言う日もある。いや、こう言う日の一つや二つあってしかるべきだ。どうしてやろうか。ミッドタウンでやっていた写真展も気になったが、金がないので却下だ。ならば、とりあえず外に出よう。私は東京ミッドタウンを出るや、横切る大通りの右に行くか、左に行くか、どちらが楽しいのか考えてみた。片方は街並みがある。もう片方はどこまでも続く。さて。いつもなら、街の方に行くだろう。だが今日はあえて、どこまでも続く道を行こう。なんとなく、街の方に行くと、私の知る場所に着きそうな気がしたのだ。知らないところに行きたい。私は左に曲がった。

そこは知らない道だった。たぶんここにきたことがないのだから当然だ。道をずんずん歩く。知らない道は楽しい。まるで異国にいるような気分がする。上りも下りもエキサイティングである。しばらく歩くと、乃木神社があるということがわかった。たしか、乃木希典を祀っているはずだ。ドラマで見た坂の上の雲の印象しかない。たしか、明治天皇が死んだ時、殉死した人である。とりあえず行ってみよう。と、歩き続けると、レンガの壁が見えた。なんだこれは、と思ったら、どうやら旧乃木邸らしい。まるで工場のような作りだ。中に入ると、視線を引きつける不思議な、ブロッコリー状のオブジェ。その周りは公園だ。雰囲気はいい感じである。

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レンガの門を抜けると、乃木邸があった。中には入らないが、覗くことはできる。結構質素な家である。さすがは侍の矜持を守った男だ、などというと偉そうだが、彼が何を大事にしていたのかがわかる気がした。そういえば、哲学者のメルロ=ポンティは、人の性格は身の回りに置くものからうかがい知れるというようなことを言っていた。

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しばらく公園で風を感じた。神社はやめておいた。

公園を出て、歩き始めると少し日が傾いてきた。とりあえず今まで道を歩いてみよう。はてさて、この道はどこまで続くのか。登ったり下ったり、道端に洋館らしきものがあったり。と、突然見たことのある風景が目に飛び込んできた。それは独特の形をしたアパートだった。いつ見たんだっけ。あれはそう、たしか、カンボジア大使館である。カンボジアは珍しく日本から行くにはビザがいる。だから私は、この近隣にある大使館でビザを申請したのだ。だからこの場所には、申請と受け取りの2度訪れていたことになる。どうりで見覚えあるわけだ。この辺りに、一階にレストランが並ぶアパートがあって、その見た目が、どことなくヨーロッパの町にある風景を思い出させ、印象に残っていた。

すると…このままいけば、青山通りだ。よく知っている道である。後で知ったが、ミッドタウンの分岐の時点で、右に曲がったならば、六本木を経て、あまり行かない場所にたどり着いていた。そう思うと、面白い。結果的に知っている場所へ続く道を、選んでしまっていたのだ。そんなものだ。ここまできたら、とりあえず渋谷にでも行ってしまおう。

 

この日、結局渋谷へ行き、それから、気分で新宿まで歩いた。新宿に着くときは、もう夜の帳も降りていた。突っ込もうと思えば突っ込める。なぜこんなとこにいるのか、と。それで良い。それでも良い。理由がわからないから良いのだ。あの日は、なんとも言い難い満足感があった、高揚感があった。

決まり切った電車に、決まり切った時間に乗る。安定した、平穏な日常。それも悪くはない。だがときに心が置いてきぼりになってしまう。どこかに落とした心をそのままに、空っぽのまま動き続ける。ときに置いてけぼりになった心が、抜け落ちてしまった傷口が疼く。何をやっているのか、完全に論理的に説明できるはずの日常生活なのに、「俺は何やってんだろう」とおもう。本当は、右に行くも左に行くも、寝るも起きるも自由なのに、それだけではなく、もっと深いところでも自由なのに、私たちは自由を忘れる。

今日はどこへ行く?どう足を踏み出す?右?左?それとも立ち止まる?旅に出ると、そんなことが自分にかかってくる。それは不思議と嫌なことではない。それは多分、自らの手で自らの旅を創り出しているからだ。人は時の流れの中を生き、何かを創り出し、それ故に自由なのだ、とフランスのお偉い哲学者はいう。いや、本当にあったというより、私はそう言いたいんじゃないかと思う。旅や散歩の効能は、私たちを解き放つことだ。自分が創り出す側に行くことだ。

と、最近ちょっと無気力に、不満ばかり垂れている自分への戒めも兼ねて、書いておこう。さて、明日はどこへ行こうか。