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旅、映画、食べ物、哲学?

On "Happy Christmas"

確か去年のことだったと思うが、トランプ大統領が「Happy Holidays」ではなく「Happy Christmas」といったことで問題になった。なぜかというと、現在アメリカでは、特にリベラル層を中心にだと思うが、あらゆる宗教や人種がアメリカにいるという理由で「Happy Christmas」というキリスト教的要素の強い言葉ではなく、「Happy Holidays」という中立的な表現を使おうという動きがあるからだ。ランプ大統領の政策の多くは賛成しかねるが、「Happy Christmas」に関しては、私は「Happy Holidays」という表現に違和感を感じている。

これは、「英語はいろいろな発音があっていいんだよ」説と同じ過ちを犯している(これが過ちであるということについてはまたいずれ書こうかと思う)。「Happy Holidays」という人はなぜクリスマスについてだけこれを使うのか、ということである。おかしいではないか。ラマダン明け、ディワリ、テト、旧正月、ソンクラー、花まつり、お盆、ハヌカ……といった世界中の祭りについて、たぶん「Happy Holidays」派の人は、「Happy Holidays」とは言わないだろう。だが、明らかにキリスト教の祭りであるクリスマスだけはそう言って、他の宗教の人も祝っていいというアピールをする。クリスマスだけが普遍的とでも言いたげである。妙な話だ。

 

とまで言ってしまうと、まるでクリスマスを毛嫌いしているようだが、そうではない。私はあくまでクリスマスが好きなのである。だが、どうしてなのだろうと考えれば考えるほど、やはりそこにはクリスマスの持つキリスト教の文化の影響があるのだ。それを無視してしまっては、もはやクリスマスではない。ただの冬至である。冬至とクリスマスの間には、大きな差がある。

 

クリスマスは赦しの日だ、とシャーロック・ホームズが言っている。そう、クリスマスは赦しの日だ。だからこそ、第一次世界大戦中も、クリスマスの日には休戦をした。憎み合う二つの国の兵士も、戦争をやめた。これは、キリスト教の文化の背景なしには成立しないだろう。敵であっても、罪を犯した人でも赦されるのがキリスト教だ。キリスト教のいいところだ。私はキリスト教徒ではないし、そのような家庭にも育ってはいないが、そこは認めたい。

キリスト教の文脈だけでなく、ヨーロッパやアメリカという地域がクリスマスを作ったというのも、クリスマスの大事な側面だ。「どんな場所でも、長い冬が中間地点に来たら、皆で抱きしめあい、『よくぞ乗り切った。よくやった。暗い冬も半分やりきったんだ』と言い合うだろう。」という言葉が英国のSFドラマドクターフーのクリスマススペシャルの冒頭で登場するが、これはやはり、ヨーロッパの考え方だ。ヨーロッパの冬は暗い。私もドイツにいた時、冬は朝から本当に暗く、昼間はどんよりしていて、夜はすぐにやってきたのを思い出す。あのような気がめいる時の中にあれば、クリスマスは本当に心の灯火だろう。暖かいだろう。だからこそ家族で集まる。クリスマスキャロルも心に染み渡る。そこには、感謝の日がある。

 

もちろんだからといって、クリスマスがヨーロッパのキリスト教徒のものなどというつもりはないし、そんなことになったら私が困る。だが、あくまでそんなバックグラウンドを持ったものだからこそ輝くのがクリスマスであり、それがあるからこそクリスマスはクリスマスであり続けるのだと思うのだ。

私はドイツに住んでいたことがあり、家族はドイツかぶれだし、私自身はドクター・フーアガサ・クリスティーといったクリスマスとタイアップすることが多いイギリスの文化に親しんできたから、私にとってのクリスマスは、そうなのだ。懐かしさを伝えてくれ、温かみと親しみもあるが、やはり日本的なものでは絶対にありえない、ましてや中立的なものではないのが、私にとってのクリスマスなのだ。恋人や友人とケンタッキーを食べる(?)現代日本式のクリスマスも、間違いなく、そうしたヨーロッパとアメリカの残り香があり、そしてそれゆえに、心に残るものなのではないか。

 

だから、私はトランプ大統領を支持するわけではないが、こう言いたいのである。

「Happy Christmas!」と。