Play Back

旅、映画、食べ物、哲学?

2019年宣言

年が明け、西暦2019年が始まった。


一昨年はいろいろなことがあった年だったが、去年はいろいろなことが降りかかってきた年だった。いろいろなことが降りかかりすぎて、踊らされるばかりの年だった。そう、間違いなく、去年は私は主体的に踊ってはいなかった。踊らされるがままに踊らされ、自分で踊っていた過去のことを思い出しながら、胸の疼きを覚える。そんな、一種惨めとも言えるような日々を送っていた。袋小路。疲れ。それはまるで、どうやって攻勢を仕掛けたところで敗北は必至の戦いの最中にいるような気分だった。

 


これ以上そうやって悲劇を語ることはしまい。そんなのは柄ではないし、馬鹿らしい。もちろん得たものはあった。一つは、社会というもののある側面を見ることができたということだ。そこには本音と建前があった。ちょっとずれた人がいた方が世の中面白いし、世の中うまく動くし、そうやって社会は機能しているんだ、と思っていたが、既存の社会秩序はそれを是認するほど心が広くはなかった。余裕がない。自らが思いついたことを自ら行動し、自らで自らの人生を創りあげることは、決して社会に望まれることではなかったのだ。

 


だが私の人生は創ることで生き生きとしてきた。旅は創造だった。街を歩くときでさえ、右に行くか、左に行くか、まっすぐ歩くか、思うがままに歩くのか、義務に従って歩くのか、合理的に歩くのか、あえて非合理を進むのか、そんなことで散歩を創り上げて行く。そしてもちろん、学園祭やこういうエッセイ、哲学することは、創ることだ。あるいは私にとっては学ぶことそれ自体も、創ることに近かった。歴史は、歴史を作ろうとする人々の中に没入することだったし、物理学や数学も、謎を解こうとする人々とともに前に進むことだった。だからこそやってこれた。私が真面目だから勉強ができるという偽りを信じ込む方がいらっしゃるが、私が学校や大学での勉強がそれなりに良い成果を収めるのは、私がそれが好きだからにすぎない。気に入っているのだ。気に入っていないものは私はできない。私には、喜びと興奮が必要なのだ。

「歓びのあるところほとんどに、創造のある」

とフランスの哲学者アンリ・ベルクソンが言うように、創るところに私の喜びは間違いなくあった。心踊らされる日々が、もっと先へもっと先へと進んでいきたいと思わせる、言葉にしようのない興奮があった。心は心地よかった。風通しが良かった。そこには「しなければいけない」とか「義務」とか仰々しいものではなく、心の灯火があるだけだった。私はそれが好きだったのだ。大好きだったのだ。

 


世の中、しなければいけないことはあるだろう。義務というのはあるだろう。その多くは自分が決めたものではなく、私たちが生きてきた、そして私たちを生かしてくれる社会によって強いられるものだろう。だが、やはり、我慢がならない。それは明らかなわがままである。社会がない世界を想像すれば、それがどんなにやばいかもわかる。頭ごなしに否定する気もない。だが、それでも、おそらく一度きりであり、あるいは一度きりである以外に想定するのが非常に難しいこの人生、どうしてこの思いを断ち切れようか(いや、断ち切れない(反語))。

 


本当は、新しい一年の始まりなのだから、もっとバランスの良いことを書きたいし、もっと綺麗に始めたい。しかし、去年という年がこのようなことを思わせる年だったのだから、しょうがない。これは、新しい一年の始まり、という口実で、新しい年の宣言をするエッセイなのだ。だから宣言する。もう、踊らされはしまい、と。好きなようにやらせてもらいたい、と。それが他の人のためにもなると思っている、と。だから今年の目標は、創造することだ。それは今までずっと目標に掲げてきた「自由になること」の先にあるものだ。いや、同じことなのかもしれない。

私は夢というものを一度捨てた。そんなものを持っているより、社会に適合しつつ、心の中で反抗するのが手っ取り早いように思えていたし、社会も悪いところではないと思っていた。もちろん、今でも社会はきっと悪くはないと思っている。だが、既存の社会にはどうしても変だと思うことはあるし、変なものは変だ。私はもう一度賭けたい。何かを創ることに。冒険と夢に。去年の終わりに、そう気が変わったのだ。新しい出会いがそうした。感謝している。だからそのための活動も、きちんと逃げずにやりたい。かつては逃げたことだ。だが、何度か旅して、少しくらいは度胸もついたはずである。それに、去年の暮れから少しずつ、仲間も集めている。

 


構想はある。というか、創った。それは、大学に入る直前に創ったものの延長線上にある。あの時は雑誌を立ち上げようとしていた。今回は、少し異なる。スタート地点には、翻訳がある。翻訳は好きだ。そこから始める。古い哲学書や文学などを日本語に、それもとっておきにファンキーな(?)日本語にする。英語やフランス語だけではない。もっと変な言語、アゼルバイジャン語やグジャラーティー語みたいなだれもよく知らないようなものもまた、最終的には翻訳をする。それをインターネットか何かを通じて出す。それで、多くの人が触れたことのない世界と人々との間の扉を開くのだ。基本的にはその翻訳活動を行う研究所ないし図書館のようなものを中心にいろいろと回していきたい。語学、文化交流、哲学、旅などをそれを中心にして動かしてゆく。

これには社会的な意味もある。つまり、「やりたいことをやる」ことがうまくいくという事例を作りたいのだ。だから翻訳も翻訳者の好きなものを訳したい。したいことをするのが、モットーである。


とまあ、昔やったように大風呂敷を広げてはみた。どうなるのだろう。それはわからない。すべてのことはイン・シャア・ッラー(神の思し召し)。未来のことを言う奴は嘘つきだ。だが、それでもこんなことを言ってみようと思う。それが、新年だからだ。

あけまして、おめでとう。