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旅、映画、食べ物、哲学?

時間と時の流れのせめぎ合い

前々から思っていることなのだが、私たちは二つの時間を生きているのかもしれない。一つは社会的な時間で、もう一つは私の心の奥を流れる時の流れである。そのようなことをいうと、難しいことを言っていると思うかもしれない。しかし、実はそこまで変なことではないし、ましてや難しいことをいうつもりもない。

社会的な時間というのは、いわゆる何時何分何曜日のことだ。今日や明日というのもまたそれだし、2019年や平成というのもそれのうちだ。私たちはこの時間を決めた覚えはないし、この時間は私たちが生まれた時から刻まれ続けている。そして流れる速度は基本的に一定である(時点の速度の変化などはあるだろうが)。

私たちの多くの活動はこの時間に従ってなされる。朝8時から始業だ、昼休みは一時間、終電は0:30、みんなでカウントダウンすれば新しい年になる…などなどこういうことは社会的な時間の賜物である。

普通はこの時間の中で私たちは生きているように思うだろう。だから、時が過ぎるのが速くなった、などというのである。しかし、たまに、人によってはしょっちゅう、社会的時間に置いてけぼりにされている感覚を覚えることはないか。私は大いにある。周りの時間があまりにはやく、私はついて行けない。ついて行けぬことランニングマシーンのごとしである。ランニングマシーンがあまりに速過ぎると走れなくなる。それと同じような感覚で、置いて行かれるのである。

そんな時、私は自分の時間と社会の時間が違うのだと意識するのだ。こう例えるのは適切ではないかもしれないが、ランニングマシーンの話にのっとって、自分の歩くスピードと考えてもいいかもしれない。社会的な時間は、私にもっとはやく、もっとはやく歩くことを要求する。私たちは下手に「社会的動物」なもんだから、はやく歩かねばと思う。だが、やはり心にはむずむずしたものが残るのだ。

 

大人とは、それを我慢するもの、なのかもしれない。だが、どうして我慢すべきなのかと、考えてみると、私が心から納得できる理由は見当たらない。

もちろん、社会的時間は有用だ。これがなければ待ち合わせもできない。「会いたくなったら会おう」はなかなか良いが、残念ながら会いたくなった時にその相手がどこにいるのか分からなければ会えないし、呼び出したにしても、いつ着くのかわからないと会えない。さらに、新年などは特にそうだが、心を入れ替えようと思える、というとても良い効果を私たちにもたらすことがある。「これを機に!」などといえるのはやはり社会的時間があればこそだろう。平成最後というのを過度に嫌う人もいるが、私はそれが何かのきっかけになれるなら、いいじゃないかと思う。

しかしやはり、時に、社会的時間について行けなくなる。そういう時は、しばらく休んだり、どこかに行くことが必要だと思うのだ。それがないと、私たちは焦燥感と疲れと義務感だけで生きることになる。それがいいならいい。でも私は活力を持って生きたい。時間を取り戻したい。

そのために、散歩をしたり、旅をしたりするのである。ときにスケジュールというものを壊してみるのも(もちろん人に迷惑かけない程度で)大事だ。意味のわからない行動をしてみるのも。すると、私たちは社会的時間に支配されているのではなく、自らの歩みで、時の流れを紡ぎ出していることを再確認できる。

何が言いたいのか。

そう、そろそろまた旅に出たいなぁ、というグチである。