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旅、映画、食べ物、哲学?

最初の晩餐〜ローマ(1)〜

ローマは思ったより寒かった。

以前一度冬に訪れたことがあったが、あれはミラノやヴェネツィアなど北部の町を訪ねた後だったからか、心なしか、暖かく感じた。だが、ローマはローマで寒い。空気はしっとりしていて、ヨーロッパ特有のキーンとした寒さではないが。

 

ローマからは7人という大人数での行動となる。北京では二人だったが、ローマフィウミチーノ空港でまずウィーンから来た友人と合流し、そのままローマ市内へ向かう。暴君として知られる(私にとっては空回りしすぎたちょっとかわいそうな)皇帝ネロが建てさせた黄金宮殿ドムス・アウレアや、ローマ帝国を最大版図へと導いた軍人皇帝にして五賢帝の一人トラヤヌスが建てさせたトラヤヌス浴場(テルマエ)にほど近いアパートまで行けば、ポーランドから旅をスタートさせた友人たちが待っている。

空港からの列車はなんとなく日本に似た風景を駆け抜ける。こう見ると、なるほど日本のよくある建物はイタリアのイメージだったのかと思ったりするが、どちらが先かはわからない。あるいは、同時かもしれない。そんな街並みに夕日は沈み、夜の帳が下りる。ローマ最大の駅で長距離列車の発着駅でもあるテルミニ駅に着いた時にはもう外は夜だった。

テルミニからは地下鉄に乗り換え、スリが多いことで有名なB線で最寄りのコロッセオ駅を目指す。最寄りがコロッセオ駅とは贅沢である。

コロッセオ駅は、その名の通り、コロッセオの目と鼻の先にあるわけで、改札口から出ればすぐにコロッセオだ。ローマはこれで3度目なので、それは理解していたのだが、やはり改めて感動する。そびえ立つ、という表現が適切な風景がそこにはある。これから、数日間は、このコロッセオが宿泊先の象徴となるわけだ。コロッセオをみて安心するということにもなってゆくわけだ。それは少々面白い。

 

そこから15分ほど歩けばアパートだ。随分と感じのいい地区である。やはり宿泊先が安心できる方がありがたい。宿泊先はしばらくの住処となるからだ。良い選択だ。

アパートに入ると、友人たちがいた。久々の再会である。ポーランドからイタリアへ向かう過程で様々なトラブルが降りかかったらしく、再会の喜びもひとしおだ。しかし、それもつかの間、私は夕飯を食べる先客がローマにいたため、彼らが友人のうちの一人のボーイフレンドと夕飯に向かうのをひとまず見送って、その「先客」の連絡を待った。

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その先客というのはマッテオというローマ出身の友人である。彼はモントリオールで会い、同じ部屋に留まっていた同居人であった。前回の旅でも声をかけてくれたのだが、前回の行程にイタリアはなかったので会えなかった。それにしても、モントリオールがきっかけで、パリではパリジャンに、ローマではローマっ子に会えるのだから、面白い。語学研修をする意義はいろいろあるのだろうが、隠れた効能は、こういうことなのかもしれない。

マッテオは車で迎えに来てくれた。異性なら惚れる展開である。冗談はさておき、マッテオの話である。彼はローマ出身だが、現在ミラノの大学で学んでいる。それは知っていたので、会えたのはかなり奇跡的なのだが、どうやらサッカーの試合を見に来ていたらしい。やはりイタリアのサッカー熱は凄いようである。さて、そんな彼の実家はローマではあるが、中心地まで車で30分ほどかかるという。ローマも広い。

今回連れて行ってくれたのは、トラステヴェレという界隈である。私が一度行ってみたいと思っていたローマの下町である。一度行ってみたいが、アクセスが良いわけでもなく、ハードルも高い。だから、連れて行ってくれたのは非常にありがたかった。一瞬、ローマでやりたいことリストが一つ、初っ端から消えたというわけである。

泊まっていた地区からトラステヴェレまでは、多少かかる。車はコロッセオを通り、ローマ帝国の政治と文化と経済の中心フォルム・ローマーヌムを抜け、コンスタンティヌス凱旋門をバックにして馬車レースが行われたキルクス・マクシムスを横目に走って行く。

「この石畳は古代ローマに使われた石と同じものなんだ」とマッテオは言う。その話は何となく知っていた。だがローマ人が言うのだから正しいわけだ。

ローマ帝国は土木の力でヨーロッパ各地を開発し、征服していったと言っても過言ではない。「すべての道はローマに通ず」というが、帝都ローマからは無数の街道や、水を運ぶ水道橋がローマ帝国の領土隅々にわたるまで伸びていた。その中で大きな役割を果たしたのが石である。日本において江戸幕府もまた土木工事を通じて日本各地を「徳川の平和(パークス・トクガワーナ)」へと導いたが、それは木材によるところが大きい。一方で「ローマの平和(パークス・ローマーナ)」は石の上に成り立っている。そしてその石が、今のローマをも支えているのだ。

 

トラステヴェレとは、テヴェレの向こう側、という意味である。英単語を覚える際に接頭辞接尾辞を覚えると良いと言われた人もいるだろう。私の世代は特にそれが奨励され始めた時期だから、特にその信奉者は多いはずだ。私にとっては、違う意味を持つが同じ形の接尾辞が多いので(conなど)結局ケースバイケースで面倒だし、漢字だって結局は後になって初めて意味がわかるということがあるのだから、英語も同様セットで覚えたほうがいいんじゃないかと思うきっかけになった説である。まあそれはさておき、ここでいう「トラス」は、transporttransactiontransformなどのトランスと同じである。テヴェレ(Tevere)というのは川の名前だ。ローマ時代は「ティベル(Tiber)川」と呼ばれた。bvに変化している。日本人がbvを誤るのは、その二つの概念がなく、欧米人は間違えない、という考え方があるが、ラテン語とイタリア語でこういうことが起きるわけだし、ギリシア語は古代にbだったものがvの発音になっていたり、スペイン語vbで読むようになったりしているのだから、案外bvは近いものという我々日本人の勘は正しいのかもしれない。

古代ローマ時代、ローマの中心はテヴェレ川の東岸だった。遺跡も基本的にはその辺りから出てくる。現在も観光の中心はその辺りだ。コロッセオ、フォルム・ローマーヌム(フォロ・ロマーノ)、パンテオン、スペイン広場、トレヴィの泉……これらは皆東岸である。川の向こう側は古代ローマ当時は治安も良くなく、新興開発地区であった。中世に入ると、逆に遺跡の多い東岸は廃れ始め、西岸の北側にあるヴァティカン地区に光が当たる。ローマ時代は開発地区、街のはずれだったこの地区には使徒ペテロの墓が置かれ、その上にはローマ教皇庁が置かれたのだ。東岸がスラムと貴族の邸宅入りみだれる場所となっていたのに対し、西岸南部のトラステヴェレは徐々に下町として歴史を歩んで行くことになる。

実際にトラステヴェレに来てみると、まずローマの夜は寒いんだということがわかり、それから、結構暗いことがわかった。日本人一人では、入るのは大変そうである。案内されたのは、建物の地下にある店。店名はTrattoria da Enzo al 29。中は結構混んでいる。なかなかの人気店だ。

「ローマの人たちの中で人気なの?」と尋ねたら、

「そうだね、みんなここは美味しいって言うよ」とマッテオは答えた。

席に着くと、全編イタリア語のメニューが来た。周りには家族連れがたくさんいて、小さい子もいる。いきなりとても良い店に入ったようだ。壁には装飾として、調理器具にも、拷問道具にも見える古い道具が並べられている。

「ローマ名物といえば、カルボナーラだ。それか、カッチョアペペ。どっちにするのかは君に任せるけど、俺なら、カルボナーラをすすめる」という。ローマのカルボナーラはかつて食べたことがあったが、そんなに言うなら、ということで私はカルボナーラを選ぶことにした。さらに、アーティチョークか何かのサラダを頼むことにしたが、それは品切れなようで、とりあえずパスタだけ頼んだ。

「カナダの他のメンバーと会ったりする?」とマッテオはいう。

「そうだな、同じ階だった人とはよく会うよ」

「そうか。実は何人かローマに来てくれたんだ。それで会ったよ」

しばらく喋り、しばらくの間。それから思い出したように会話を始めたりなどする。久しぶりの会話なんてこんなもんだろう。混んでいるせいか、なかなか料理はこない。私はあまり飛行機というのが得意ではないので、長時間フライトの際は何も口にしないようにしており、北京ローマ間は何も口にしていたなかったから、空腹感が募る。頼んだ赤ワインを少々飲む。マッテオいわく、パスタには赤ワインらしい。牛などの肉には赤、魚や鶏肉などには白ということは知っていたが、パスタにも合わせるワインがあるとは知らなかった。

「酒は飲む?」と聞いてみた。モントリオールで私が一人、部屋でビールで晩酌していた時、「アルコールは嫌い」と言っていた気がしたからだ。

「飲むよ。特にビールはよく飲む。でも、ワインは嫌いなんだ」とマッテオ。それから冗談めかして、「変だろ、イタリア人なのにワインが嫌いだっていうのは」

「いや、まあ日本人でもサケが嫌いな人はいるから」と私は言った。サケとは、日本酒のことである。

そうこうするうちに、カルボナーラが来た。珍しく、スパゲッティ(細長い麺)ではなく、ペンネ(筒状の太いパスタ)である。見るからに美味しそうだ。一口食べる。少々強い塩味、チーズの香り、そしてアルデンテのパスタがとてもうまい。ベーコンも脂がのっていてうまい。

「ブォニッシマ」とイタリア語で言ってみる。マッテオは、はははと笑う。

「その肉は豚のここなんだ」と言いながら、マッテオは頬をさす。豚の頬肉か。面白い。後で別の店に、「ベーコンを使うのは禁止(forbidden)。豚の頬肉を使う」というようなことが書いてあったから、これが本物なのだ。かつてトレヴィの泉のそばで食ったチーズがダマダマになった卵パスタとは違う。うまくソースが作られている。それもきもらしい。マッテオは、ダマダマになったやつは偽物だと言っていた。

食いながら、これからの予定の話をした。ローマからナポリへ日帰り旅行をし、その次の日はバーリへ向かう。

ナポリはすごくいいところだ。でも、ピザ屋は混んでるよ。ピザはナポリ発祥なんだ。きちんとしたところは、一時間半は並ぶ。観光客も、現地人も来るからね。あと、ナポリに行ったら絶対にコーヒーを試すべきだ」とマッテオ。

「スタイルが違うのかな?」

「いや、でもナポリといえばコーヒーなんだ」ほう。どういうことかはわからないが、試してみる価値はある。

「それと、バーリは何かあるかな」と私がたずねる。

「バーリか。行ったことないけど、なんでバーリに行くの?」とマッテオ。すごく訝しげな表情である。

「実はバーリからギリシアまで船が出てるんだ」

「ああ、なるほど。あのへんだったら、シーフードだね。それだけは外せない」マッテオは言った。

食べ終わると、パスタは「Primi Piatti(最初の料理)」だから、「Secondi Piatti(次の料理)」も食べようということになった。要するに、コース料理のようなものだ。前菜があり、次にパスタが出てくる。そしてそれから、肉などを食べるわけだ。マッテオはサンドイッチのようなものを頼んだ。私はローマ名物のもつ煮込み、トリッパを食べたかったが、お勧めと聞くと、マッテオはトリッパではなく、「サルティンボッカ・アッラ・ロマーナ」なるものを指したので、それにしてみた。

出てきたのは、焼いた豚肉(たぶん)の上に生ハムが置かれ、白いソースをかけた料理だった。これは新たな発見だった。素朴ながらすごく美味しかったのである。家で作れそうで作れなさそうな味である。マッテオからナスのトマトソース和えのサンドイッチのおすそ分けも受けながら、お腹パンパンになりながら、ローマ料理を堪能した。マッテオは他にも様々な店を紹介してくれたが、結局行く暇がなかった。またローマに行った時は真っ先に行ってみよう。そう思った。

最後は、ティラミスとエスプレッソだ。こちらは感動するほど美味しいというわけではなかったが、美味しかった。おそらくお腹がパンパンだったこともある。だが、満足だった。それから二日連続でローマ伝統料理を食べることになるとは思っていないので、「これからみんなの付き添いでピザとかリゾットとかローマ的じゃないイタリア料理を食っても十分平気だな」などと謎の上から目線にもなったりした。

 

それからは車で送ってもらい、アパートに帰宅した。再会を誓って車を出て、部屋に戻ると、友人たちはまだ帰っていない。テレビを見ていると、みんな戻ってきたのだが、この日は様々なことがあったので、ぐったりとしていた。本当はイタリアのテレビなどつけながら、北京で土産に買った栗のお菓子をつまみつつ、ポーランド土産の栗のお酒を飲んで、ポーランドの土産話など聞こうと思っていたが、どうやらそうはいかないようだ。一緒に北京に行った友人と、独り起きていたポーランドからの友人の三人で一杯だけ栗の酒(通称クリシュ)を飲んで、イタリア到着後にあった事件の数々を聞いた。そうするうちに、1日は終わった。