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旅、映画、食べ物、哲学?

時の交差路あるいは永遠の都〜ローマ(2)〜

ローマは永遠の都と称される。

伝説によれば、紀元前753年にロムルスとレムスという双子の兄弟によって建設されたローマは800年後には類稀なる地中海世界の大帝国の首都となり、その後衰退するものの、中世の間は西方キリスト教の頂点ローマ教皇庁の拠点としてヨーロッパの都であり続けた。ルネサンス以降はバロック文化の中心として栄え、現在ではイタリア共和国の首都である。それゆえに、ほぼ永遠と言ってよいほどに長生きをしているともいえよう。だが、実際ローマに行ってみると、「都」として永続しているという意味で「永遠」というのとは違う「永遠性」を感じるだろう。というのも、ローマは確かにヨーロッパの街として洗練されてはいるが、ロンドンやパリと比べると、明らかに「都会」ではないのだが、ローマはローマにしかできないローマらしさをたたえているからである。それはどの街でも同じことだが、特にこのローマは、「永遠の都」という二つ名がふさわしいような雰囲気を、「都会」でなくても、持っている。

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フォルム・ローマーヌム。夜景は初めて見た。

 

永遠には二種類あるという。こういうことは中世ヨーロッパにおいては、よく考えられてきたらしい。というのも、中世ヨーロッパの学者といえば「神は永遠である」などといったことを真面目に問うてきた人々である。そうすると、必然的に、「永遠とはどういうことなのか」というところに行き着くというわけだ。

ではその二種類の永遠は何と何か。一つ目は、要するに、「永続する」という意味である。「永遠の都」が、ローマ帝国カトリックイタリア王国イタリア共和国へと引き継がれながらも、常に都として存在してきた、というときにはこの第一の意味での「永遠」を使っていることになる。「いままでも、そしてこれからも」というわけだ。

ではもう一つは何か、というと、これは少し難しい。「永遠の今」と言われるやつである。神にとっての永遠は、これらしい。つまり、神にとっては、「過ぎ去ったもの」としての「過去」や、「まだ来ていないもの」としての「未来」はありえない。なぜなら神に制約はないから、過去や未来を想定すれば、時間に制約されることになってしまうからである。では、神にとっての時間とは何かというと、過去も現在も未来もまた、現在のこととして把握されるものなのだ。時は過ぎ去ることはなく、常に今があるだけである。つまり、現在過去未来が永遠の元に一つになっている。

正直、私の理解が追いついていない部分も大きいだろう。だから説明するのもまずおこがましいわけであるが、これからいうことはよりおこがましいだろう。つまり、ローマには、「永遠の今」に近い雰囲気があるのだ。未来についてはわからないが、少なくとも、ローマという町は、常に都であり続けた、という以上に、かつての足跡がくっきりと残されており、今ローマに降り立つことは、かつてのローマに降り立つことでもあることをひしひしと感じさせる。どの街も同じようなことは確かにあるが、ローマはそれが紀元前にまで遡ることができるのだから、尋常ではない。そういう意味でも、ローマは「永遠の都」といえよう。

 

例えば、最初の朝のことだが、私たちは散歩に出かけた。アパートから少し歩くと公園があって、その公園の中に入ると、かつてのトラヤヌス浴場の跡地が現れる。もちろん、いたるところが崩れているし、草も生えている(爆笑しているわけではない)。しかしそれは、トラヤヌス浴場の歩んできた歴史そのものを見せてくれるのである。すぐそばにあるネロ帝の邸宅(ネロ邸)だった「ドムス・アウレア(黄金宮殿)」もまた、同じである。ローマでは、現在にいながら、過去に行くことができる。

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トラヤヌス帝の浴場の跡地。徒歩5分もかからなかった。

その一つの理由は、中世の人々のテキトーさにある。ヨーロッパでは、中世になると文化的レヴェルががくんと落ちた。ローマ時代は、イタリアの火山灰を用いたローマン・コンクリートを用いた建築物が多数建てられていたが、中世の人にその技術は引き継がれなかった。しかも、ローマン・コンクリートの建造物は堅固であり、壊すことができなかったという。中世の人たちは、考えた結果、一つの結論にたどり着く。

「壊せないなら、土台にしちゃえばいいじゃない」

というわけで、ローマでは現在に至るまで、様々な建造物が古代の建造物の上に建てられているのだ。さらに、教会などの材料も、採掘場が限界を迎えていたこともあって、遺跡から石を切り出して再利用された。ローマではつぎはぎのない石柱が見られたが、そうした石柱も切られたり、そのまま使われる形で教会建築になっている。この再利用の精神は、一方では遺跡の破壊という結果になった。古代の神殿に十字架がつけられるという状況や、古代建築の荒廃はこのせいだ。さらに、ローマに地下鉄が少ししか通っていないのは、掘れば遺跡が出てくるという状況だからだが、これもまた、建造物が上に作られたせいでもある(もちろん、それ以外にも、砂がたまっていって、地面がせり上がっているということもある)。だが、その一方で、再利用されたことで、歴史が決して剥製のようなものではなく、街の持つ生命の一部として存続し続けることにもなった。それくらい、ローマは遺跡と現在の建物が共存しているのだ。

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再利用建築の代表格マルケッルス劇場。下は古代の劇場、上は貴族の邸宅。

それがよくわかったのは、今回の旅で初めて訪れたサンタ・マリア・イン・コスメディン教会だった。この教会は「真実の口」で有名だが、今までその混雑を理由に近づかなかった。しかし、この教会、真実の口以上に、中が面白いのだ。まず、この教会は、教会建築の中でもかなり古い「バシリカ様式」で建てられている。バシリカとは、ハリーポッターに登場する大蛇バジリスクにどことなく似ているが、全く関係ないもので(強いて言うなら、語源が同じで、ギリシア語で国王を表す「バシレイオス(ヴァシリオス)」に関わる言葉だ)、古代ローマにおいては「公会堂」をさす名称だった。公会堂とはつまり、裁判などが行われた、大勢が集まる、列柱で囲われた建造物だが、キリスト教時代になると、教会として使われるようになる。このサンタ・マリア・イン・コスメディン教会は、そんな、バシリカ様式で建てられているほか、東方正教会のスタイルも残しているらしい。一方で、この教会は、地下に降りることができる。お布施が必要になるが、お金を入れると、係りのお兄さんが日本語で「アリガトーゴザイマス」と言ってくれる。「グラッツィエ」と返すと驚いたような表情で微笑んでくれた。

教会の地下にはこの教会の最初期の礼拝堂がある。コンクリートとレンガを用いた建築方法からもわかるように、古代ローマの廃墟を利用したという。ひっそりとしていて、静かながらも、この観光地となった教会を古代が支えているのである。そして、上もまた非常に古い様式だ。その古さは様式だけではなく、天井に描かれたフレスコ画からもわかる。見逃してしまったが、調べてみると、ここには、世の男女を浮足立たせる「バレンタインデー」の発端となった聖人ウァレンティヌスの遺骨があるという。古い形でのキリスト教信仰がここに残っているというわけだ。

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サンタ・マリア・イン・コスメディン教会の地下礼拝堂

この教会からすぐのところには、有名な「マルケッルス劇場(半円形の劇場だが、上の部分が建て増しされ、かつて貴族オルシーニ家がそこを邸宅としていた、というこれまた現在と過去の共存を示す遺産)」や、「キルクス・マクシムス(かつて馬車レースが行われた。ここも今回初めて訪れた)」、そして「フォルム・ローマーヌム」などの古代ローマの遺物が数え切れないほどある。古代の遺産と、それを再利用した中世。この界隈はそれを強く印象付けてくれる。そこにこそ、過去との共存というローマの姿が見えるはずだ。

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キルクス・マクシムス。ここで馬車同士のデスレースが繰り広げられた。市民は無料で見ることができたという。

だが、よく考えてみれば、ローマがそのようになったのは中世からの話ではないのかもしれない。古代ローマ人自体、使えるものならなんでも使う人たちだった。道路網、水道網、建造物を支えた、古代ローマの土木技術は、先住民のエトルリア人の技術をベースにしている。さらに、学問、神殿にいる神々、文字、音楽などは皆、ギリシア人の文化をベースにしている。ローマ人自体が再利用の人々だったのだ。

だが、それだけではない。古代ローマ人も、中世ローマ人や現代のイタリア人も、そうして再利用したものを、自分のものとして、自分の色をつけて、うまく共存させることで、ローマらしさを演出することに長けている。ただのつぎはぎではない。それは面白いようにパッチワークとして完成されているのだ。そう考えると、ローマの精神は、過去から現在に至るまで生き続けているのかもしれない。

 

ローマの精神。それはやはり、ローマという町が「コスモポリス(世界都市)」になりきれないところにも宿っているのかもしれない。ローマは、古代においては「カピトル・ムンディ(世界の首都)」と呼ばれているにもかかわらず、どこかローカルである。どの街もそうであるといえば、そうであるだろう。だが特に、ローマはそうである。パリにはパリらしさがあるし、ロンドンにもロンドンらしさはある。だがパリやロンドンはもはや、純然たるパリやロンドンではない。パリやロンドンの中には、ポンディシェリーやデリー、東京や香港、セネガルやシリアがある。それらを含めてパリやロンドンであり、そこにコスモポリスとしての良さがある。東京も同じだと思う。しかしローマは、そういうものと無縁ではないものの、ローマはローマなのである。ローマの面白い点はそこにある。

それが顕著に現れるのは料理である。ロンドンやパリの料理というと、なかなか思い浮かべるのが難しい。ロンドンであれば、悪名高い「うなぎのゼリー寄せ」くらいだろうか。たぶん、私が知らないだけで、ロンドンやパリにもあることにはあるのだろう。いつか試してみたいものだ。一つ言えるのは、ロンドンやパリになると、何が伝統料理なのかよくわからなくなっているか、存在していても、それを出している店が見つけづらくなっている。一方ローマでは実際にローマ料理を出している店を結構見かけるのである。もつ煮込みのトリッパ、ミートボール、サルティンボッカ、カルボナーラ、カッチオ・ア・ペペ、パスタ・アルフレ……といった家庭料理が見受けられるだろう。

今回のローマ滞在では、ローマ伝統料理をいつもより多く食べたと思う。なにせ、初日も、二日目も、三日目も、ローマ伝統料理を食べたのだ。初日に関してはもう書いた。「カルボナーラ」と「サルティンボッカ」である。では他の日はどうだったかというと、二日目はローマ風ミートボール、三日目はトリッパとパスタ・アルフレドだった。

 

特に思い出に残るのは、二日目の店だ。

その日は半日ローマの遺跡で過ごし、そのあとでヴァティカンの美術館に行こうとしたのだが、結局閉館ぎりぎりについたら、もう閉館しており、中を見ることができなかった。それは明らかに、私が遺跡でローマの話をペラペラと話しすぎたり、知っているルートを取ろうとして失敗したりしたせいなので7割がた私のせいだったわけだが、唯一の救いはサンピエトロ大聖堂で生で礼拝が聞けたことだった。キリスト教系の幼稚園に通い、大学もキリスト教系だったが、キリスト教徒でも、それに準ずる立場でもないので、礼拝の参加は見送ったが、充分その凄さは伝わってきた。それに、バロックの教会に来ると、広いローマという都の観点から見た、古代と中世と近世の共存を見ることができる。時代間の行き来がタクシー一本。これはやはりローマが永遠の都であるがゆえだろう。

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ヴァティカンのサンピエトロ大聖堂

そのあとはサンタンジェロ城に行こうと思ったが、これもなんだかんだで断念。旅とはこういうものだ。結局、翌日リヴェンジを果たすこともできたし、無料だったから、要するに、これは神のご加護だったというわけだ。とにかく、その足でナヴォーナ広場まで出て、私たちは件のローマ伝統料理屋に入った。店名に「オスタリア・ロマーナ」と併記されており、マッテオに紹介された店かと思って入ったが、別の店だった。だが、店内は賑わっており、イタリア人も多かった。

外が寒かったので、ローマ風もつ煮「トリッパ」を頼んだ。以前来た時に食べて気に入った料理だ。もつをトマトで煮込んだもので、寒いと美味いだろう。しかし、しばらくして店のおばちゃんがやってきて、

「トリッパはないの。ミートボールならあるわ」と言ってきた。ミートボールがローマのものなのかわからないが、とにかくローマのものが食いたいので、メニューを広げ、

Vorrei mangiare qualcosa di Roma.(何かローマのものが食べたいのですが)」と伝えた。

「それなら、サルティンボッカね」と店員のおばちゃんは英語で答える。こういうのが一番やりやすい。

Va bene, però ho già mangiato Saltimbocca  ieri...(いいですね、でもサルティンボッカは昨日もう食べちゃったんです)」

OK。それなら、ミートボールね。これはミートボールのパスタ、こっちは煮込み。これもローマ料理よ」なんだが、ミートボールと言われると、お弁当に入ってる冷凍のやつを思い出してしまった気が進まなかったが、そこまでいうならミートボールだ、と、ミートボールを頼んだ。

これが、舐めてはいけないミートボールだったのだ。切ってみると、中身はキメが細やかで、ゴツゴツ感はない。それでいて、ソーセージっぽくはない。きちんと肉らしい味だ。トマトソースもうまくマッチし、赤ワインにも合う。これは本気のミートボールである。これはかなり美味い。そのうえ、再現不能である。このミートボールはなかなかだ。

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本気のミートボールを出してくれた店

 

というわけで、ローマ料理というのもなかなか美味いのである。トリッパも翌日、老舗のローマ料理屋で食べたが、美味しかった。どれも、しかも、奥深い味がする。家庭料理らしい単純さを持ちながら、どこか複雑である。

ローマという街も、古い街で済ませて仕舞えば、遺跡がある街で済ませて仕舞えば、わかりやすいが、街並みにも、人にも、この街が背負ってきた何かを感じさせる。それに、来るたびに違う顔を見せてくれる(3度目にして初めて行ったところもたくさんある)。そうしたことをひっくるめて、ローマは永遠なのだろう。

今回は億劫になってトレヴィの泉にコインを投げなかったが、また行こう。永遠の都は、その扉を開いて待っていてくれるはずだ。次はもっと中世のことも知って、そしてイタリア語ももっと上達して、また来よう。そう、思っている。

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サンタンジェロ城から見たローマ。初めて登った。無料だったので、チケットがカウンターにどっさりと置かれており、「もってけ泥棒」といった雰囲気でチケットが配られた。それもいい経験。