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旅、映画、食べ物、哲学?

スキマ時間と安息日

ここ最近ずっと違和感を覚えている言葉がある。それは、「スキマ時間」だ。CMを見ると、よくこんな言い方がされているのが耳につく。「スキマ時間を利用して……」「そのスキマ時間もったいない!」それはだいたい、ニュースアプリだったり、バイトアプリだったりのCMだ。いわゆる「意識高い系」の潮流に乗って、自分の時間を管理しようというお誘いのようだ。

だがひとつ思うのは、本当に「スキマ時間」はもったいないのだろうか、ということだ。その前に、「スキマ時間」とは一体何なのだろう?

 

たいていの場合、「スキマ時間」と言われるのは、仕事と仕事の合間だったり、あるいは電車等の移動の時間だ。それも、ただその時間があるというだけでなく、その時間にぼーっとしてしまったり、意味もなくツイッターを眺めてしたりしてしまうことを、無駄になった「スキマ時間」と捉えているように思う。そこには、少しでも無為に過ごしてしまうことへの危機感が現れているのかもしれない。

だが、一体何が悪いのだろう?確かに、生産性はない。ぼーっとしている時間、ツイッターをいじっている時間、動画を無意味に流し見てしまう時間……確かにこれは必要ない。そこで勉強をしていたらどんなに良いことだろう。どんなに、使えることだろう。そこでお金を稼げればどんなに良いだろう。どんなに、将来性があることだろう。あなたの生産的人生は、さらに生産的になる。だが、わたしは生産的ではない時間が重要だと思うのだ。それは、ぼーっとしたり、考え事をしたり、好きなことをしたり、という案外擁護するのが簡単そうな時間だけでなく、スマホをいじる等の本当に無駄といえなくもない時間を含めている。つまり、自分にとって次の行動につながるわけでもないし、脈絡もあるわけではない、と判断されがちだし、その判断は基本的に間違っていないような時間は、人間にとって必要だと思う。

 

そもそも、「スキマ時間」を埋めよう、という考え方は、私が最も好む哲学者の言葉を使えば、「空間化された」時間の考え方である。時間を数直線のように扱っている。よく、芸能人の1日の過ごし方を円グラフにしたものがインタビューコーナーの余興として出てくるが、あのような感じである。もし、あなたが自分の時間をあのように捉えているなら、スキマ時間がいかに無駄なものかがひしひしと感じられるだろう。「1日に使える時間は限られている。なのに、あなたはこの15分間を何と無駄なことに使ったのか!」と。

この考え方は、私たちに教育されているものだ。中高生の時、紙を渡されて、勉強時間を記入させられなかっただろうか。おそらく多くの人は、学校、あるいは予備校、学習塾で似たようなことをさせられたことだろう。あの時の、「遊び」の時間を入れることに感じる罪悪感といったらない。あえて入れる人も、明らかに背徳感を楽しんでいる(私がそうだった。ちょっとしたアンチモラリストになった気持ちである)。私たちは何の説明もなく、何の意志もなく、勉強の時間こそが有意義で、それ以外は無駄なのだという価値観を押し付けられるがままの状態になっており、仕事を始めるや否や、仕事もまたそのような位置付けとなってゆく。今度は不思議と自発的に思っている気がするが、その理由は多くの場合明確には答えられないだろう。

有意義なものは増やし、無駄なものは切って捨てなければいけない。円グラフの「スキマ」は、だから、有意義なものへと昇華させよう。趣味の時間は重要だ。だが趣味でも何でもない時間は消し去るべきだ。食事の時間は重要だが、切り詰めようと思えば切り詰められる。そうやって出来上がるのは、私たちの生産的人生の生産的かつ合理的な、精密機械のごとき、完璧な時系列円グラフである。一度これがカチコチと動き始めればスムーズに、そして最も高い効率性で働くだろう。だが、これははたして人間か?「できる男M-1000-32-5」が生産され、名もなき一人の人間は死んでしまうのではないか?これではまるでサイバーマンだ。

スキマ時間は、何に必要かは決して説明できないが、確かに必要である。それは自分を保つためかもしれない。格好つけて言うなら、それは人間性の担保である。ツイッターを弄る時間を終えて、何していたんだろうという気持ちになるのはわかる。私もそうなる。だが、その感情を、生産性を基準にして測ると、どうも何かを見誤っているような気がする。そうではない。むしろ、それは、SNS社会に飲まれてしまった焦りだ。本来は本当に何もしなくてもいいはずだ。空を眺めるだけでもいいはずだ。思い出し笑いするのもいい。それでもあなたが選んだのは、何かをしている気になる道具であるツイッターだった。そこにあなたの貴重で無駄なひと時が回収されていった。もったいない。スキマ時間が終われば待っているのは、生産的な時間なのに。だが、ツイッターを弄るにせよ、生産的な時間から離脱できたという点では、人間性は保たれている。

 

思ってみれば、スキマ時間だけではない。私たちは社会的合理性の網目に絡め取られている。あらゆる理由付けの中にいる。私は今大学院でフランス哲学を中心に読書しているが、ギリシア語の授業もとっている。その話をするとこう言われる。「なぜですか?ギリシア語使うんですか?」と。まあ、こじつければ使う必要があるとも言えなくもないので、たいていこじつけて答えている。だが、真意はそこにはない。すべてが必要な授業では困るのだ。必要ではない授業が必要なのだ。正直、私の受けている授業のほとんどは必要がない。もちろん、インスピレーションにはなる。だが、ならない時の方が多い。それでも受けるのは、基本的には必要ないものがないと何となく嫌だからだ。それではいけないのだろうか。

私たちは常に必要性を問われているように感じる。それは特に、高度に社会的なことだと強い。極端に言えば、会社の休業になぜ理由がいるのだろうか。休みたくなったから休む。それではどうしていけないのか。もちろん誰かに迷惑はかかる。だが、私たちは生きているだけで多かれ少なかれ迷惑はかけているし、人に迷惑をかけられている。それに、休まれると端的に少しいらつく。だが、別にいいではないか。その人が休む日はまさにその日だったのだ。その後、いくらサボったとしても、ああこの人は乗っていないんだろうな、ということだ。ただ休んでいるなら、それは休んでいるだけのことである。それでも、社会や会社は許さない。だが、それを重ねて行けば、出来上がるのはロボットの国ではないか?機械的な日常が突然に嫌になることもある。この場から離れたいと願うときもある。思わない人は、あまり多くはないと思う。その気持ちを抑えつける意味は一体どこにあるのか。

 

少々話がいきすぎた。無論、休みを感情の赴くままに取り続けるのは難しいだろう。これは人に変化を強いることだろう。しかしもうすこし、必然性から一歩身を引いてみてもいいと思う。スキマ時間くらいは、私たちは社会の必然性や合理性から抜け出ることができるし、現に抜け出ているはずだ。スキマ時間は、いわば安楽日であってしかるべきだ。そう思うと、ユダヤ教安息日を導入した意義は計り知れない。もしかすると、それは毎週の祈りの時間だったかもしれない。だが、労働を1日だけ停止するという考え方は現代人にはできまい。とにかく何もしない日を作ることで、私たちは自分に帰ることができるかもしれない。とにかく何もしない時間は、私たちにとって窮屈な日常からいっときでも抜け出る時間になりうる。だから、スキマ時間を管理しないようにしよう。もちろんしたければしていい。だが私はごめんこうむりたい。