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旅、映画、食べ物、哲学?

ロスト・イン・新宿〜街は生きている〜

散歩の面白さの一つは、知っている町が知らないところにガラリと変わって見えることにある。私たちが普段歩く道は、ほとんどの場合、目的地に行くための最短経路だから、見逃している景色がたくさんある。しかし散歩には多くの場合目的地などないのだから、どこにだって行ける。だから散歩というのは、自分の目に覆った必要性のベールを剥がす一つの機会でもあるのだ。なんてことはない、普段左に行く道を右に行ったりすることができる、ということである。

 

この前、暇を持て余していた私は、四谷から新宿まで歩いてみることにした。本当のことを言うと、そのルートはよく歩くところである。常連と言っていい。そんな惰性もあって、私は新宿大通りを歩き出したのだが、途中で、同じことばかりしていてもつまらないなという考えにとりつかれてしまった。あまり元気のいい日ではなかったし、まあ適当に新宿を抜けて大久保に行くか、とも思ったが、どうしても道を逸れたいという欲望が頭を占めてゆく。

新宿に近づき、あと少しで世界堂というところで、私は右に曲がることにした。その曲がり角の向こうにあるタリーズでコーヒーを飲んだことがある。昔の話だ。新宿を歩き尽くそうとしていたが、あれは夏の日のこと、ヘトヘトになってアイスコーヒーを飲んだ。当時私はコーヒーはホットに限ると思っていた。そこで飲んだアイスコーヒーはそんな妄執からの独立の象徴である。

そのタリーズの先には、商店街のようなものがあって、そこも見たことのある世界だった。友人と別の方面から歩いたことがある。いくつか個人経営の食べ物屋があって、入ってみたいなと思いつつ、前回来た時も昼食を食べたあとだった。「も」と言ったように、今回もしっかりカレーを食べたあとだった。まあ仕方がない。そういうものだ。そういう星のもとに生まれたに違いない。

そこを抜けると、大通りが横に走っているのが見える。柳の並木がある。そこもまた昔散歩したところだ。そしてその道を進めば難なく新宿に着く……だが、私の胸の奥は煮えたぎっていた。敷かれたレールを行くんじゃない、と。新しい道へ行くんだ、新しい街を見るんだ、今までは覆い隠されてきたものを見つけに行くんだ……

そういうわけで、私は直進することにした。それを元気付けてくれたのは人通りだった。大通りを渡ると、知らない道が伸びていて、そこは一見すると何もなさそうなのだが、やけに人の出入りがある。いったい何があるというのだろう? 「どうせ何もありやしない」という右肩に座る天使もあらわれぬまま、私は路地に入る。

予想外に、そこは開けた場所だった。道が一気に広がって、広場のようになっており、店も並んでいて、子供達が遊べるようになっている。実際子供連れもたくさんいる。ベビーカーを押す母親の前を子供が先を急ぎたそうに走っている。家族なのか、そうではないのかよくわからないおじいさんが子供に話しかける。まあ結局のところ、家族だろうがそうでなかろうが、そこにいるのは常に異邦人だ。

広場の入り口のケララ、というカレー食堂が目に入る。あいにく昼は食べてきた。私は先に進むことにした。広場はとてもいい雰囲気で、どこか既視感がある。さて、なんだったかなと、考えているうちに思い出した。それは、私がマドリードで泊まっていたオスタルの近くにあった広場だった。あそこも路地が開ける形で展開しており、憩いの場になっていた。あまり治安のよくない界隈に軽やかな風を取り入れるような場所だ。あそこのバルはいつも閉まっていたからついぞいけなかったな、と思いながら、私は新宿に心を戻し、先へと進んだ。

広場を超えると、道はまた狭くなる。今度は人通りも少し少なくなり、住宅街の様相を呈している。まるで食道のような路地である。胃のところで膨らんで、それで、また管が続く。私はどこへ運ばれるのか。街はやはり生きている。

 

住宅街の中を突き進む。途中でガスの工事をしていたり、そこを買い物帰りのお母さんおばあちゃんが歩いていたりする。すぐそばにバハーイー教の施設があることも、さらには新宿高層ビル群があることも忘れるいうな光景だ。とはいえ、高台となっているこの地区からは、時々、「新宿」が見える。その度に、新宿はミニチュアになる。

どこにいくのかあてもないので、前を歩く人を水先案内人に勝手に任命して歩いていると、商店街らしい看板が左側にあったから、そちらに向かった。商店街があるようにはとても思えないのだが、看板だけが生き残っているのだろうか。

中に入ると、そこは、過渡期のような状態だった。一部店が残り、一部住宅になっている。豆腐屋があるかと思えば、紳士服屋もある。よくもまあこんな細い路地に商店街をつくったものだ。

何かこだわりのありそうなパン屋は盛況。

料理屋と思しき店の店先でおじいさんが座り、道行く人を見ているのは、東南アジアを思わせる光景。

しばらく歩くとガレージのようなところで女性ものの服ばかりを売る店を見つけた。ラジオの音を垂れ流していて、その雰囲気がとてもノスタルジックだ。

上に目をやると、細い路地に囲まれて、青い空が見える。

 

思いがけず楽しかった商店路地を抜けたら、またもや大通りだ。しかもこれはちょっと変わっていて、二股に分かれる付け根のところに出た。付け根のところには神社があり、面白いことに、通り抜けができる神社だった。これは行ってみたい。道路を渡って、お参りといこう。

この神社はどうやら弁財天に捧げたものらしい。「抜弁天」というらしいが、読み方はわからない。厳島神社と関係があるようで、厳島神社と書かれていた。タイムズスクエアでいえばコカコーラのポジションにある神社はあまり見たことがなかった。しかも、入り口が二つある。さっき言ったように、通り抜けができるのだ。

中に入ると、通り抜けられる道が横たわり、それに交差するように、小さな山道があって、一本道の方向に神社があった。さすが厳島神社、その神社のまわりは水で覆われている。龍の彫刻が神社を守っている。こんなところに、こんな神社があるとは。だから散歩はやめられない。あの時直進しなければ、私はこの神社を一生目にすることはなかっただろう。神社というのは面白いもので、ひっそりとして、街の中に異空間を作り出す。この異空間に入ることができたことに敬意を表し、一礼して外に出た。

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向こう岸に渡ると、ランドリーショップがあった。洗剤とお湯の匂いが排気口からは流れてくる。なんとなく懐かしい香りがする。旅をするとランドリーショップによく行く。というか、いかざるをえない。治安が悪そうだったアテネ、ランドリーが見当たらなかったハノイは別として、大抵はコインランドリーで済ませたが、そこの匂いは古今東西同じである。洗剤、お湯、ちょっとむわっとした空気。無関係な人たちが口を聞くこともなく交流する場所。新宿でもドラム式洗濯機はゴーゴーと回っていた。

さて、次はどこに行こうか。抜弁天に満足して新宿に向かうか。それとも……。「それとも」のほうにかけたかったが、どこに行ったらいいかわからない。あまりよろしくないが、一応、道端にあった広域避難マップで自分の位置を確かめた。すると、この道に交差している路地を進めば大久保につくようだ。ではそっちをためしてみよう。結局知らない道なのだから。私は「総務省はこちら」というようなことが書いてある看板のある路地に入った。入りやすそうだったし、総務省霞が関のイメージがあるので、ちょっと謎だったからだ。

路地を歩くと、そこは住宅街という感じだった。それもかなり閑静だ。この道は何もないかもなと思っていると、電柱に貼られた広告に目が止まった。「東京バハイセンター、ここを左折」。行ってみることにした。

 

バハイというのは、バハーイー教のことだ。バハーイー教というのは、シーア派から分離し、自らをマフディー(救世主)であるとしたバーブが作ったバーブ教を、さらにバーブの弟子で預言者を名乗るバハーウッラーが発展させたものらしい。イスラームの正統教義ではムハンマドが最後の預言者であり、それ以降は預言者が現れないことになっているから、バハーイー教は異端も異端、というか異教である。そのため、バハーイー教は19世紀に生まれてから、ペルシア、イランでは迫害の対象となってきたらしい(バーブは処刑されている)。それではやばい新興宗教なのかというと、調べれば調べるほど、そういう感じはしない。世界平和を歌い、あらゆる宗教の融和を訴えている(というか、クリシュナ、モーゼ、釈迦、イエスムハンマドなどはみな預言者だという)。教育の普及、貧富の差の是正、男女差別反対を掲げているのも面白い。また、民族主義を乗り越える、という意味で、同じく19世紀に起こったエスペラント運動(ポーランドユダヤ人眼科医ザメンホフにより作られた人工的な国際語の普及運動、日本では新渡戸稲造が関わる)との関係もあるらしい。

なんとなく調べていたら出てきたもので、なんとなく興味があったから、まさか道端で出会うとは思っておらず、驚いた。後で調べたら日本でも藤田左弌郎という人物が伝道したいたようで、東京にもバハイセンターがあるようだ。

左折して、しばらく歩くと、これといって特別とは言えないような施設があり、そこに「バブ生誕200周年」という横断幕がかかっているから、たぶんそれがバハイセンターなのだろう。創価学会幸福の科学のような豪奢な施設を想像していたからちょっと拍子抜けしてしまったが、よく考えてみれば日本のイスラームの施設も、東京ジャーミーなどを除けば、こういうビルにあるのが普通である。マスジド大塚も似たようなところだったし、大久保に至っては魚屋の二階である。そのほうが、豪奢な建物でアピールしてくるより好感もわく。

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中に入る勇気もないので、外から眺めて、散歩を続行した。

道はくねくねと曲がっている。家々が並び、のどかな生活感あふれる地区。すぐそばにバハーイー教の施設があることも、さらには新宿高層ビル群があることも忘れるいうな光景だ。とはいえ、少し高台となっているこの地区からは、時々、「新宿」が見える。その度に、新宿はミニチュアになる。階段が見えた。さきほど「階段あり、四輪車通り抜けできません」と書かれていたが、てっきり下りの階段だと思っており、目の前の階段が登りだと知って少し驚いた。仕方ない、登ろう。 

階段を登っても、目の前には大きな橋のようなものがあった。どうやら、住宅街を巨大な道路が横切っているようだ。突然都会に引き戻される。私は道路たどり着くための坂道を登った。すると、風景は明らかに都会である。道が右に進めといったので、私は右に向かってみた。何やら公民館のような建物があるが、びっくりするくらいでかい。

さて、でかい道路をまっすぐ歩くと、総務省の施設があった。既視感がある。きたことがあるのだろうか? 真相はわからないが、なんとなく、呼ばれたような気がして道を渡った。

 

少し歩くと、団地に囲まれた広場が見えてくる。この団地が面白いのは、一階部分が店になっていることで、ラーメン屋やら薬局やらが並んでいる。私の脳裏にはスペインの国境の町イルンが浮かんだ。あそこもまた、こんな風景だった。広場は公園になっていて、子供が遊び、老人がベンチに腰掛けている。地面は鳩でいっぱいで、えさやりをする人がいる。住人である、ということが強い意味を持つ、こうした団地の真ん中に異邦人として足を踏み入れると、ちょっとした緊張感がある。だが、自分は異邦人なのだ、という実感のは心地がよかったりもする。団地に意識を戻し、そののどかな空気感を見る。こんなにくつろげる場所が新宿の奥地にあることを私は知らなかった。

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犬の散歩をする人を横目に、広場をうろついていると、広場には続きがあることを知った。下り坂があって、その向こうは大規模な公園が広がっているようだ。木々はこっちに来いと呼んでいる。私は一つ返事で坂道を降った。

こんな団地の真ん中に森があった。それだけで面白いのに、さらに面白いことに、森の中には割と「いわゆる」という形の教会があるではないか。都会の中の、団地の中に、山梨県がある。そんな状況だ。それにしても平日の昼だ。森の中にいるのは小さい子供とママ友たち、そして老人達だった。だがそれでも驚くのは、この森にはかなりの活気があるということだ。もっと閑散としていてもおかしくないのに、大人気である。

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土と木の匂いを吸い込みながら道に沿って歩いているうちに、教会のある高台のさらに上に、「箱根山」という小高い山というか丘があることを知った。私は登ってみることにした。なぜかって? そこに山があるからだ。

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山に登る階段は人気がなく、頂上も人気がないことが想像された。それもいい。高いところがあれば登りたいし、登ったからにはゆっくりとした時を過ごしたい。閑散としているくらいがいい。私は階段を駆け上がった。嘘だ。駆け上がってはいない。だが、気持ち的な問題だ。駈け上がるかのように登ったのだ。

頂上に上がると、地図の右端においてあるような方位を示すマークが書いてある。そしてベンチもある。頂上に立って、地の果てまで眺めてやろうかと思ったが、「させねーよ」と木が立ちふさがっている。こちらが迂闊だった。人間ごときがそんなこと、許されないのだ。嘘だ。また嘘をついた。兎にも角にも、こうやって上から何かを眺めるのは好きだ。理由はわからない。だけど、不思議と多くの人は似たような気持ちを抱いているに違いない。そうでなければ展望台なんて地球上から消え去ってしまうだろう。それでも皆、眺めたいのだ。

しかしそれにしても、こうやって上から街を見ると、自分がやっぱり都会の真ん中にいたことがわかる。この一帯には住宅街が広がっているが、少し先に行くと高層ビル群。神奈川出身の友人が「東京に人は住んでないと思ってた」と言っていたのを思い出す。私は東京に住んでいるが、確かに新宿や千代田には人が住んでいないと思っていた節はある。だがこうしてわかるのは、気付かないだけで新宿もまた人が住む街なのだということだ。そして人が住んでいる以上は、この街は生きている。

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山の上で沢木耕太郎の本を読んだ。その時、私は一つのことに気がついた。今読んでいる本は、「まだ読んでいないな」と思って買ったのだが、読んでことがある本だったのだ。どうして中盤まで来てやっと気づいたのだろう。多分、本というのも散歩と同じで、ある時には気付かないものが、別の時に読めばありありと見えてくるから、なんども読めば、その本は毎回別の本のごとく新しいのだろう。面白いではないか。

その時、山に少年が登ってきた。別にその場にいてもよかったのだが、たった一人で登ってきた少年の、山を征服した喜びを減じたくなかったので、私はそそくさと山を降りた。頂上にいるのは一人でいい。

 

山を降りたら、そろそろ大久保に行こうという気になった。雑然とした街、大久保は私のお気に入りの界隈だ。以前アルバイトで受け持っている小学生に「大久保ってめっちゃ汚くない?」と言われ、「そうだね。そこがいい。あの街は最高だ」と返したら、ドン引きされたことがある。だが、街には独特の、住人の手垢みたいなものがあって、汚さは人が暮らしている象徴でもある。そしてそこにこそ、魅力があると思うのだ。

そういうわけで、大久保通りに出ようと思ったわけだが、公園の中にいると方向感覚が狂ってくる。もしかしたら、この公園はやはり都会の中の異世界なのかもしれない。私の中の方位自身は完全に狂ってしまった。

公園を徘徊し、

出口を見つけ、

外に出てみても、

自分がどこにいるのかわからない。おかしいぞ、と広域避難マップを見てみると、真逆の方向にいるではないか。まあ、大久保に行かないといけないわけではないのだが、一度大久保だと思ったら、もう大久保に行かずには済まされない。

私はもう一度公園を突っ切ることにした。

公園の入口を抜け、木に囲まれた遊歩道を歩くと、遠くの方から歌声が聞こえる。大友康平をさらにデスヴォイス方向に持っていったような歌声で、アコースティックギター一本で歌っている。遠すぎて歌詞までは聞き取れないが、その振り切った歌声がいい感じだ。私はベンチを見つけて、その声を聴いていることにした。どうやら、道路を挟んで向こう側にあるもう一つの公園から聞こえてくるようで、目をこらすと、ギターを持った人が地べたに座っている。

何をするわけでもなく、ちょっと肌寒い風に震えつつ、大友氏の弾き語りを聴く。この公園は、日々の息苦しさから離れている。風通しがいいのだ。

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歌が終わったので、私は大久保通りをめがけて歩き始めた。

 

私が始めに遭遇した団地前の広場を通り過ぎて、外に出ると、私が歩いてきた道こそが大久保通りだったことに気づいた。そして、私は大久保とは逆方向に歩いていたようだ。「なーんだ」と思いつつ、逆方向に歩かなかったらこの公園にたどり着かなかったのか、と思い、偶然性の面白さをかみしめた。

大久保通りは坂になっている。降れば大久保、登れば未知の世界。だが今日は大久保に行こう。坂を下ると、住宅街を見下ろすように架けられた巨大な道を通ることになる。下に見える住宅街は商店路地があった場所だ。この街は想像以上に面白い。

それにしても、右側に見える公園は思いの外でかい。途切れることなく公園はある。時に団地も現れるが、その雰囲気は、「団地の中に公園がある」というより「公園の中に団地がある」という様相を呈している。ほぼ全体が公園である。

しばらく歩いて、やっと公園の端にたどり着いた。入り口の前も広場になっていて、タバコを吸うおじいさん、遊ぶ子供が共存する世界である。台湾で似たような雰囲気を見たような気もするが、思い違いかもしれない。私はトイレを拝借し、大久保に行こうかと思った。だが、公園と大久保の境目に小さな商店街があった。万国旗が空を覆っている。なんだこれは、面白くないはずがない。

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商店街自体はしまっている店も結構あった。だが、活気がないわけではない。行き交う人もあれば、空いている店からは食べ物の匂いがする。

カレーの匂いがするな、と思って見てみると、お弁当屋だ。インド国旗などは掲げられていないが、完全にエスニックの匂いだ。店員の方も多分南アジア系である。店名は「希望」、ガラスには、「HOPE DREAM LOVE PEACE」。なかなか攻めている。一度入ってみたかったが、あいにくお腹は空いていない。

独特の雰囲気が楽しい商店街をぐるりと一周した。一周、というのは、この商店街はとある団地にあるような一つの建物の周りがぐるりと商店街となっているので、全部回るには一周しないといけないのである。もう少しわかりやすく言うと、建物の側面に焦点が並んでいるというべきか。とにかくこの商店街は万国旗で飾られ、活気もある。この辺りに住んでいたら、とてもいい場所だろう。というか、この辺りに住みたいものである。

 

商店街を回ったので、私は大久保に入ることにした。大久保は通常通り楽しかったので、この辺りでおひらきにしよう。

それにしても、この日の散歩は面白かった。新宿区から出ていないにもかかわらず、まるで異世界のような場所がたくさんあった。要するに、私には見えていないものがまだたくさんあるということだ。