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旅、映画、食べ物、哲学?

反抗と悲しみ

昔、国歌を聞くのにはまっていたことがあった。YouTubeにあるフィリピン国歌は、フィリピン政府かなにかの公式の動画であり、フィリピン独立に関わるシーンを集めた一種のプロモーションヴィデオになっているのだが、その中で印象的なシーンがあった。

スペインによる支配に対する反乱を起こす人々がなにやら紙をびりっとちぎり、刀を掲げて、敵に向かって行く。歴史的背景等はよくわからないのだが、そのシーンがとてつもなくカッコよかったのだ。「もう支配されない!」と枷を断ち切るように、紙をちぎる仕草は自分たちの自由を奪うものへの意思表示に見えた。

 

革命、反乱の類は常にかっこいい。高揚感ある音楽とともにバリケードを築く「レ・ミゼラブル」のあのシーンは胸を打つ。授業や本で聞くアメリカ独立戦争を告げる「我に自由を与えよ、さもなくば死を!」は思わず立ち上がりたくなる。チェ・ゲバラは常にヒーローの象徴である。

私たちの胸の中には必ず一人革命家がいるのかもしれない。放っておけば私たちを蝕んでゆく社会や秩序に対し、ノーをつきつける。「それでいいはずはない。それでいいはずはないのだ。君にはそうしない権利がある。誰にだってある。もし君の大事なものを犠牲にせよと巨大な悪がいうのなら、親の制止を振り切ってでも、立ち上がっていいんだ。もし誰かがその人の大事なものを奪われそうなら、共に戦うんだ」と。

しかし何がそんなに私たちを憧れさせるのだろう。

 

反抗は何も創造しない、とカミュは言う。その後どういう話の展開になるのかはまだ読んでいないのでわからない。だが、この一文だけに限定していいのなら、私はそうは思わない。反抗すること、革命を起こすことは、創造する権利を再び自らの手に戻そうとすることなのではないか。

通常生きている分には、私たちにとって社会は、自らの手で創造するものではない。誰かが創造したシステムである。いやそんなことないぞ、と踏ん張ってみても無駄である。選挙を通じて私たちは声を届けることはできるが、選挙というシステム自体を作ることはできない。それに、比例代表制に至っては政党を選ばなければいけない。

自分で立候補するにせよ、選挙というシステムを通過しないといけない。そしてそのシステムは、多くの場合、社会にとって健全なものだけを許容する。そうなると、やはり、人の作ったルールで遊ばないといけないわけである。

革命は、そうしたものを拒否する。「きちんとした手順を踏んで意見を反映させればいい。時間がかかるなら待てばいい」という非常に健全かつ合理的な声に一言言う。「無理だ、待てない」と。そもそもが、そんなことをしたいわけではないのである。決まった秩序とシステムの中ではできないことを目指している。国家を、ひいては社会を自らの手に取り戻すことを求めているのだ。

自由とは、単に権利が保障されることではない。自分の手に、何かを作り出す権限を取り戻した先にあるものだ。「君は自由の刑に処せられている」とか「自由や権利には義務が伴うんだ」といったお小言はそこでは無効である。とにかく、自分の手で何かを成し遂げること。そして自分をしばりつけるくさりをハンモックにでも変えてしまうこと。そこに、革命における自由があるように思う。

 

そしてそこにこそ、革命の悲劇がある。

社会は共有物だから、それを一から作り直そうとすると、他の革命家と齟齬が生じてしまうのである。それは権力欲とはちょっと違う。例えば、設計図を発注するとしよう。建築家たちは創作意欲に燃えているだろう。それで、10人の建築家がつくった10の設計図は全く同じになるだろうか? おそらくはならない。だから、普通はコンペティションを開く。選ばれなかった人は、コンペのルールを尊重し、胸の奥で煮えたぎる思いに蓋をしてさるだろう。

だが革命はどうか。そもそも、ルールを覆そうとしているのだ。

そうして、革命は一気に悲劇に変わってしまう。ロベスピエールにはロベスピエールの、ダントンにはダントンの、そしておそらくはルイ16世にはルイ16世の設計図があった。レーニンにはレーニンの、ケレンスキーにはケレンスキーの、スターリンにはスターリンの、トロツキーにはトロツキーの思いがある。ガンディーも、ネールも、ジンナーもそうなのだ。榎本武揚にも、西郷隆盛にも、高杉晋作にも、小栗上野介にも、徳川慶喜にもそれはあったはずなのだ。

革命が血なまぐさい結果に終わるのは、本来の趣旨に反している。ところが、何かを実現させようとすると一気に現実的問題が立ち上がってくるように、革命と人々の間の対立と派閥争いは常につながっている。血で血を洗う争いとつながっている。

 

何かを作ろうと、そして自分の手に創造を取り戻そうとする、そこにはヒロイズムがある。だがいざやってみると、互いの思いと信念がぶつかり合う。そこで人は死に、あるいは独裁者になり、あるいはチェ・ゲバラのように現場を去って行く。革命は胸にざらりとくる悲しさも持っているのである。高揚感ゆえだろうか。

 

そんなことを、ハンガリーの1848年革命について調べながら思った。

ブダペシュトの「くさり橋」についての動画を作るためだったが、結構胸にくるものがあった。

動画のURL:

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