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旅、映画、食べ物、哲学?

1+1+1+...+1=1

カレーを作ることにハマっている。ルーを買ってきて、煮込むわけではない。南アジア系の人が経営しているショップでスパイスを買い込み、動画サイトで理解できないヒンディーやウルドゥーやベンガリーでのレシピ動画を見ながら、レシピを確認し、できるだけインド風に近いものを作るのだ。所謂インドカレーってやつを作っている。

別に最近始めたというわけではない。始めたのは、去年のことだ。いや、本当は一昨年からだったかもしれない。だが、本格的に始めたのは去年からだ。友人が一人暮らしを初めて、その新居に押しかけて、カレーを作る会、通称カレーの会を開いたことから、ことは始まった。きちんとした食材を求め、大久保へ行き、スパイスからカレーを作った。だが、最近になって飛躍的に、自分のカレーが改善されたことに気づいた。何やら、新しいステージに入ったようだった。

何が変わったのだろう。確実に言えるのは、1+1+1+1=1になった、ということだ。これは決定的だ。

どういうことかというと、以前のカレーは、なんとなくバラついていたのである。スパイスも、配合の通り入っていたし、玉ねぎや肉などの素材がそのままそこにあった。もちろん調理はされているわけだし、それなりにカレーの味もするわけだが、なんとなく、「何で作ったのか」がわかってしまう代物だった。ところが最近はというと、材料を組み合わせて作り出したカレーが、一つの「カレー」という料理となっている。玉ねぎ、肉、スパイス、ヨーグルト等の具材が、全く一つの料理となった。ソースは一つのソースとなった。そこにはもう、具材はない。……とまではいかないが、確実に、今までのものより「カレー」である。

そういう意味で、1+1+1+1=1なのである。組み合わせたものが、組み合わせたものではなく、一つのものとなることこそ、カレーが美味しく作れる一つの決め手なのかもしれない。もちろん決め手は他にもあるかもしれないが、私が知る限りは、これこそが重要なことのように思う。

 

これはカレーに限った話ではない。

現に、カレーが新たなステージに入ってから、他の料理も上達した。1+1+1+1=1を演出する術を少しえたのかもしれない。パスタにしたって、ソース自体がもう、1+1+1+1=1を要求しているし、さらにはパスタと絡めるという時には、パスタとソースが1つの実態とならないといけない。

きっと、旨い料理には多かれ少なかれそういう側面がある。自分の作るものはまだまだだが、外で食べるような立派な料理は、たいてい、1である。もちろん、特定のいくつかの具材からできてはいるのだが、食べてみれば一つのものなのだ。フレンチなどでも、例えば、肉にソースがかかっている料理だったとしても、その肉とソースは別個のものではなく、料理において一体となっている。塩味の焼き鳥は、焼いた鶏肉に塩をかけたものではない。塩味焼き鳥である。ご理解いただけるだろうか。不安はあるが、私はそう思うのだ。

 

料理を作る工程も、似たようなところがある。野菜を切り、油を引き、野菜を焼き、肉を焼き……と言った工程それぞれはバラバラの動作ではあるけれど、うまく行く時というのは、その一連の動作が途切れることなく、サラリと一つの流れとして進んで行った時だと思う。

料理以外でもそうだ。文章を書くときも、バラバラに書いているときは、最終的にあとで読んでみると、いまいちなことが多い。一挙に、ざさっと、ことが進むとき、内容もまた一体感を持って進んでいる。論旨がどうこうとか、論理展開がどうこうとかいうのではない。それらはきっと、きちんと見直した方がよくなるだろう。だが、文体や、文に漂う空気感は、途切れなく進んだ方が、良いと思う。

 

もっとわかりやすい例を出そうか。

それはそう、例えば、音楽もそうである。音楽は、一つ一つの楽器、一人ひとりの奏者、一つ一つの音符、一つ一つの展開が重要だ。だが、それが一体になっているからこそ、その音楽は、「音楽」となる。個が響いて、本質となる。何者も無駄なものはなく、それはバラバラとは言えない。料理の具材、文章の構成は、一つ一つの曲の展開や声と同じだ。ビートルズは、ジョン、ポール、ジョージ、リンゴだが、やっぱり彼らのソロ楽曲とは異なる。彼らのソロ楽曲にはビートルズの風が吹いているのは確かだが、やっぱり違う。ホワイトアルバムだろうがなんだろうが、ビートルズの楽曲はビートルズの楽曲なのではないかと思う。

 

チームで何かをする時に、対立や摩擦があったとしても、なんとなくうまくそれが一つのメロディーの中で結実し、それぞれの形で心が共鳴して、プロジェクトが成功しようがしまいが、なんだか満足できて、離れ難くなった時、それは1+1+1+1=1となっているだろう。そういう経験は、案外珍しいものではないかもしれない。サークルでも部活でも、あるいはもっとビジネスライクなところでもいい。人が集まったとき、1+1+1+1=1がある。

 

だが、ひとりでいるときも、私たちはきっと、1+1+1+1=1を生きているに違いない。1の数は幾つでもいい。だから数学者に則って、1+1+1+…+1=1とすべきだろう。1はn個あるのだ。だがめんどいので1+1+1+1=1とする。とにかく言いたいのは、私たちは1+1+1+1=1を生きているということなのだから。

自分の性格、というのもまた、1+1+1+1=1かもしれない。私たちはいろんな場所に応じて、いろんな顔を持っている。また、いろんなことを決める。いろんなものを買う。だけれども、そうしたものは=1へと収束してゆく。そこにこそ、自分はいるような気がする。そして、うまく収束できないとき、なんとなく、嫌な気持ちになる。果たしてこれをやりたいのだろうか、果たしてこれは「私」なのか。うまく噛み合わず、等式が成り立たない。

別に=1に名前を当てる必要なんてない。なんとなく、ここバラバラのものが一つの線で、いや、一つのメロディで繋がるかどうかが大事なのだ。これは、「自己分析」とか、そう言った代物ではない。要するに、しっくりくるか、しっくりこないか、である。しっくりきたら、それは1+1+1+1=1が成立しているのである。

 

私は、この1+1+1+1=1を大事にしたいし、今まで知らず知らずのうちに大事にしてきたのかもしれない。例えば、難しい本を読んで、発表するとき、一つ一つの言葉の意味を探すのはうんざりだった。知りたいのは、そうしたものも含み込むような流れだった。本が結局のところ、どんなふうに、1+1+1+1=1なのかが知りたかった。それじゃなきゃつまらないのである。

そう、それこそ、しっくりこないのである。

 

実は今日、カレーを作った。

あまり美味しくなかった。どうも工程がうまく行かず、1+1+1+1=1になっていなかった。1+1+1+1=1の成立を見るためには、どうにも、ここの要素を見直したりするのでは足りないようだ。エスプリ(精神・真髄)を掴まないといけない。動き出してくれないといけない。さて、次はうまく行くだろうか。