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旅、映画、食べ物、哲学?

異邦人たること〜安部公房「内なる辺境」を読んで思い出したこと〜

大学一年生の時、プラトンの『ソクラテスの弁明』を読まされた。そしてその内容について、軽く発表を、というわけだ。もちろん一気に全部読むわけではなく、何回かに分けて読むわけだが、私は運が悪いことに、初回に当たってしまった。とはいえ、最初に読む哲学書だったし、割とワクワクと楽しみながら読んでいたと記憶している。発表も大体そんな感じである。

その時、私はこんなことを言った。多分ソクラテスは「アテナイ人」ではあったけど、「精神的な異邦人」だったのだと。

ソクラテスの弁明』はいきなりソクラテスが法廷に引っ張り出されているシーンから始まる。原告は弁論家・詩人・職人の代表者のような人たち。罪状は「若者をたぶらかし、『国家が定める神』を信仰しないこと」だが、もっと本音で言えば、名誉毀損に近いだろう。ソクラテスは、弁論家・詩人・職人という、当時アテナイで尊敬を集めていた人々を質問攻めにし、「彼らは本当に大切なことについては知らない」ということを暴き出したからだ。

異邦人とどう関係してくるのか。それは、何かに所属する、ということについて考えてみればわかるはずだ。原告団は、結局のところ、徒党を組んでいる。弁論家・詩人・職人。そう言った職業に属し、そう言った職業を極めた人たちだ。ところが、ソクラテスソクラテスであり、彼ら職業の中での常識などは一切通用しない。だからこそ、親方だろうが、政治家先生だろうか、偉い詩人の先生だろうが関係なく、ソクラテスは問い詰めるし、その答えとして求められているのは、ある職業団体の中で通用するような特殊なものではなく、ある種普遍的なものなのである。

見方を変えれば、ソクラテスは「世界市民」なのかもしれない。だが、『弁明』においてはむしろ、ソクラテスの「異邦人」性の方が見えてくるように思う。つまり、彼がアテナイのコミュニティから爪弾きにされていく様である。そこに描かれているのは、紛れもなく、集団とハブられた人だった。

ソクラテスは自分の立ち位置がよくわかっていないのか、アテナイ人であることをやめようとしないし、アテナイ人に対してむしろ自分に感謝せよと迫っていく。悲劇を生んだのは、彼が「精神的異邦人」だったからではなく、自分の「血統的アテナイ人」にしがみついたからではないだろうか。彼の目に映ったものは、もはや「普通の」アテナイ人に見えるものではなかったに違いない。彼の関心は、通常はどうでもよいものだった。それでも彼はアテナイ人としての意地を貫き、自殺紛いの処刑で死んだ。

 

大学で哲学を学ぶとなったときに、簡単な概説書に目を通し、誰に関心があるのかを洗ったことがある。概説書に全てがあるわけではないが、実物に攻めかかるのには少々不安があったのだ。その時選ばれたのが、フッサールベルクソンデリダだった。その前は少しスピノザに興味があった。選ぶ際の基準として設けていたわけではないのだが、なぜだか、ユダヤ人ばかりだった。自分でも理由はよくわからなかった。

ソクラテスの弁明』を読んで一つわかったのは、「異邦人」という視点の面白さだった。徒党を組む共同体からは外れた存在。根がない、あるいは根があっても、その根にあまり関心がない存在。ユダヤ人が皆同じような視点を持っているわけではないし、ユダヤ人にはある程度共通の「イスラエル」観念があるように思われるので、話も違ってくるだろうが、少なくとも他の「根を持つ」人々と比べると、自由度は高いのかもしれない。そんなことに気づいた。つまり、思想の上で引き付けてくる何かはきっと「異邦人」のもつ力なのだろう、と。

だが、ユダヤ人でなければ異邦人にならないわけではない。ソクラテスのように、心の内でずれていくことができる。精神的な異邦人だ。

こうした考えを進めているときに読んだカミュの『異邦人』の後書きにはこんなことが書かれていた。「母親の葬儀で涙を流さない人間は、すべてこの社会で死刑に宣告される恐れがある、という意味では、お芝居をしないと、彼が暮らす社会では、異邦人として扱われるほかないということである」。根を張っているという状態は実は、お芝居をしている状態なのかもしれない。お芝居をやめれば(やめることができれば)、それは異邦人となることに他ならない。

 

さて、前置きが長くなったが、これは読書感想文である。何のか。『ソクラテスの弁明』か。いや違う。そんな昔のことは忘れた(さっきまで書いていたが)。私がいま感想を述べようとしているのは、安部公房の『内なる辺境/都市への回路』の中にある「内なる辺境」と「異端のパスポート」というエッセイについてである。本当は「(続)内なる辺境」なども含めてお話ししたいが、まだ読み終わりそうにないし、なんだか書きたい気分だから、仕方ない。

安部公房という作家の本は読んだことがなかった。安部公房の本を読んでいる、というと、人は大抵、「『砂の女』!」と暗号のようにいうが、私はそもそも安部公房と『砂の女』すら繋がっていなかった。だが、何やらへんてこりんなものを書く人だろう、というテキトーなイメージだけはあった。それが縁あって興味を持ったので、いくつか手に取ってみた。

最初に読んだのは『笑う月』。エッセイが好きなので、そう言ったものが良かった。しかしこれは安部公房の夢を描く作品集だった。私は人の夢の話を聞いていると、大抵面白くないな、と感じてしまう。夢の中では人は必死すぎるのだ。だが、そう言った部分も含めて余さず語る『笑う月』は嫌いじゃなかった。

だから次に色々と買ったのだが、今読んでいるのは『内なる辺境/都市への回路』というわけだ。正直意外だった。それは、私が今関心をもっている…いや待てよ。そうじゃない……昔から、関心を無意識的に持ち続けていた話だったからだ。それこそ、先ほどから述べていた「異邦人」についてだった。それは「異端」であり、「辺境」であり、「都市」という言い方をされていた。いろいろなものがつながった気がした。

 

例えば「異端へのパスポート」で安部公房は、しょっぱなから類人猿の話をスタートする。それはなぜかというと、人類もといアウストラロピテクス系列のサルは異端だった、というのだ。人類は肉食だったのだ。サルはそれまでは木の実などを好んでいたが、人類だけはそうではなかった。その結果、行動範囲が広がったというのである。木の実を中心に生活している限り、行動を広げる必要はないし、武器を作ったりする必要もない。定着できる。だが、動物を追う人類は世界中に広がっていった。

はてさて、この説が現代の進化生物学と一致しているのか。それはよくわからない。間違っているかもしれない。だが、あり得ない話ではなさそうでもある。

狩猟民を主体とする人類に、その後、収穫民という部門ができて、最終的に両者は分裂。農耕民と狩猟民が別れ、また遊牧民というのも出てきて、定住と移動の二項対立が先鋭化していく…だが、今や農耕民が「正統」なものとされ、移動する人々は「異端」の烙印を押される…とまあ、ざっとこう言った筋立てだったと思う。以前読んだ『遊牧民族から見た世界史』という本の視点からすれば、必ずしもこういう見解は正しいとは言えないようにも思うが、少なくとも「正統」=定住、「異端」=移動、という見方ははっきりとあると思う。

そして安部公房の独特な視点が光るのは、現代、移動民がいる「辺境」は都市なのだというのだ。「チャラチャラした」「根無草」の人たちは、都市を闊歩している。現代と言わず、もっと前からと言ってもいいかもしれない。祖国も家族も愛さない、私は雲を愛する、とうたい、パリの路地を徘徊したボードレールも、この種の人だろう。

そして安部公房が特に「内なる辺境」でそうした「異端」の烙印を押されがちな人々としてあげるのがユダヤ人だった。あるものはドイツ人であり、あるものはフランス人であり、あるものはポーランド人であるが、どうにも染まりきれず、受け入れられることもない人々。安部公房が念頭に置いているのはカフカだった。

彼らの文学は、「国家」という、土地と定着を「正統」とする存在に、反抗する。異端を突きつける。辺境から反乱が起きようとしている、と安部公房はいう。カフカなどのユダヤ系作家が広く読まれるようになる、ということは、それは、国家の「正統信仰」が揺らぎ始めているからだ、と。

 

エッセイの発表から50年ほど経っているが、反乱は結局起きていないようだ。「コロナ禍」なるものによって、人は土地に定着を余儀なくされているし。

要するに、「お芝居」は続いている。だが、私が思うに、「正統」な人などというのは存在しないのだと思う。実を言えばすべての人が特殊なのだ。ここでこうやって書いている私も、読んでいるかもしれないあなたも、結局のところ全く違う波長を持って生きている。ところが、そのことに気づいてはいけないのである。社会の「フツー」ってやつを、「フツー」に受け入れてくれないといけない。そうでこそ「常識」が通じるし、「法律」が通じる。そんなことが社会の要請である。結局のところ、そう言ったフィクションをみんなで信じる、集団幻想を生きるために、私たちは「正統」と「異端」を区別する。そうこうするうちに、私たちはそれが幻想だなんてことに気づかなくなる。だがそれでも時々、ガタがくる。

 

職業、国籍、性別、性的嗜好、財産、家柄、身分、民族……

そんなものは本来別にどうだっていいもののはずなのだ。ある人が会社で働いているとする。それではその人はそのままイコール会社員なのか? それは明らかに間違っている。だが多くの場合、私たちはそのように判断する。「土地」とどう関係あるのかはわからないが、これは明らかに「定住」と関わっている。つまり、「〇〇村の権兵衛さん」とおなじなのだ。ある職業、性別などの「枠」によってヒトをカテゴライズする。部落差別が起きたように、職業差別もあるだろう。性差別もあるだろう。国籍差別は、ないはずになっているが、メディアが「ヴェトナム人6名を逮捕」などと平気で言うのはなぜなのか。財産、家柄、身分もまだきっと残っていやがる。差別じゃなくて、区別、みたいなスローガンはまだ健在だが、問題は、カテゴライズにある。

そうした「枠」や「役割」を、私たちは演じているし、演じるように要請されている。子供は母親の葬儀で泣かないといけないし、母親が何歳なのか覚えていないといけない。然もなくば、犯罪を犯した暁には、「あの人は母の死に涙も流さなかった」と後ろ指さされるのである。

 

そんな社会に時々、嫌気を感じることがある。ないと言う人もいるかもしれない。それならそれでしょうがないし、その方が気楽かもしれない。だがもしあるとすれば、本来カテゴライズできない「自分」を、何らかの枠に押し込んでいることの気持ち悪さからきているのかもしれない。「△△としての自覚を持て」と言われても、本当にそれが自分なのかわからない。自分じゃない感じがする。その、気持ち悪さ。

カフカはあまり読まないのでよく知らないのだが、辺境の作家が人の心を打つとしたら、それは「それって変だよね」と言ってくれるからなのではないかと思う。明言しなくてもいい。異常な世界を見せてくれるだけかもしれない。だがそれでも、そこに生じるズレから見えるものがあるはずだ。私は私の知っているものでしか語れないが、例えばユダヤ人のベルクソンという哲学者は、みんなが躍起になっていることに対して「それは変だ」と平気で言ってのける。そうだな、変だなと気づくことができる。カテゴリーと枠の気持ち悪さに気がつける。

安部公房は、農耕民が、移動民とであうことで、村の外でも同じ時間が流れているということを知る、と書いていた。史実なのかはさておき、面白いことだ。それは私の言い方では、こうなるだろう。「君たちがお先真っ暗だと思っている境界線は、ただの線にすぎないんだよ」と移動民が身をもって伝えるのだ、と。

旅人の自由がそこにある。もちろん旅人だって、パスポートチェックは受ける。だがそれは儀礼のようなもの。自分が国籍に執着しない限り、その人はどこでのたれ死んでもいいし、いつまでいたっていい。肩書なんて関係ない。異邦人になる。そこでは自分は何者でもないし、「日本人だ」と言ってみても、どこかちょっと芝居臭い。実際の身に迫った国籍感覚は、正直あまりなく、ふわふわした感じにとどまる。そうともいかない時も、もちろんある。事件に巻き込まれれば、都合よく、旅レジを眺めるだろう。差別されれば、自分の身元を思い知るだろう。だがそういう時、その人はもはや、本当の旅人ではない……といえるかもしれない。少なくとも「精神的異邦人」ではない。

本当の意味での「精神的異邦人」は案外しれっと、境界線を乗り越えていく。そんな無自覚の行動をするだけで、人々に影響を与えるのだ。身についてしまった集団幻想に気づくのは、それがバカらしく思えた時だ。悪い夢は後で思い返すとなぜそんなに必死だったのかわからなくなる。幻想は定住という「安らぎ」を与えてくれるが、それが覚めた時、人は気づくかもしれない。「安らぎよりも素晴らしいものに」。そうなったらもう止まらないだろう。いろんな意味での定住が、煩わしくなる。まるで胸の奥の何かが解放されたかのように、だ。

 

進化という文脈から、そう言ったことが言えるのかどうかはわからない。アウストラロピテクスまで遡るのは少々危険かもしれない。だが人類が移動することで人間になっていったことを踏まえれば、安部公房のダイナミックな語りは、あながちおかしいことではないように思う。人類のエラン・ヴィタル(生命の弾み)は旅へと人をかき立てている可能性だってある。

もっとも、もう一つの動きがあって、私たちを常識と定住と集団幻想の方へと縛りつけようとしており、自分たちもまた縛られる安心感を覚えてはいるのだが。