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旅、映画、食べ物、哲学?

あえて、冒険に出るということ

毎年、年が明けるタイミングで、このブログを更新していた。

新年の抱負というとなんだか堅苦しくて古臭いが、昨年の自分を振り返り、新しいテーマを決めるのに新年はもってこいだったからだ。

ところが今年はと言えば、元旦も過ぎ、節分も過ぎ、旧正月も過ぎ、もうそろそろ3月に突入しようとしている。まだペルシア暦や仏教暦では新年ではないので、救いようはある(?)が、例年から大きく遅れをとっているのは間違いない。私自身、何もノウルーズやソンクラーの訪れを待っているわけでもないのである。

今年のテーマが決まっていないわけではない。正月の時点で決まっていなかったわけでもない。ただ、間違いなく言えるのは、この二ヶ月間で、徐々に今年のテーマが熟成されてきた。だからこそ、ようやく、何か書こうという気になったのだ。

とはいえ、これから書くことは、今すぐには多くを語れない事柄に関わるので、やけに抽象的な、ヘンテコな文章になることはあらかじめ断っておきたい。答え合わせはいつかできることを願っているが、一種の哲学手記というか、求道日記のようなものとして読んでくれればと思う。

 

去年、私は自分のテーマとして「再起を図る」を掲げた。

その通りになったかというと、正直なところ、失敗に終わったような気もしないでもない。ブログの更新頻度などをみていただければ一目瞭然だが、「再起を図る」上で、私が中心におきたかった創作活動がほとんど捗らなかった。というのも昨年は様々な外的(環境的)変化があって、内面的にはかえって停滞が続いたのだ。環境の変化がさわがしいと、やはり心の自由というか、余裕というか、保つのが大変だということがわかった。

「外国を旅する」という意味では、香港、マカオ、台湾と、「再起」を図ることができたし、国内は、山陰(島根)、北部九州(長崎、福岡、佐賀)という私にとっては未知の場所を開拓することができた。だが、その時の心の内はというと、慌ただしさが拭えなかった。それが結局、それらの旅の記録をほとんど全く残せていないことに表れている。

文章を書くこと。音楽を作ること。絵を描くこと。そうした活動が、私が「生きる」上でいかに大切だったのかが、昨年という「口数少ない」一年を通して分かった。

 

だが昨年という一年が無収穫だったわけではない。

自分の向かう道のようなものが朧げながら見えてきたのは確かである。それは「文章を書くこと」だ。

大学時代から私を知る人、いや、ひょっとすると小中学生の頃からでも良いのかもしれないが、きっと「何を今更」感があると思う。私もそう思う。中学の頃から文筆業に憧れていたし、高校時代は文芸部だった。大学時代はブログを書きに書いていたし、修士論文などもすらすら書いていた。

だが、仕事を決める段になって、一種の「逃げ」に走った。文章を書く仕事は不安定だし、ルートが決まっていない。ルートが決まっていないことは時には良いことだが、歩き始めるには困難が伴う。

「文章は長らく書いているし、書くことは好きだけど、自分の文章は自己満足だから、結局他の人にとっては無価値だろう」と決めつけ、私は色々考えるのを放棄した。就職の時はちょうどコロナ禍が始まった年で、閉塞感もあったし、自身勇気を持って何かを始めるのが苦手だった。

 

結局、仕事をしてみると、それなりにこなせるものの、常に他人事感が否めない。もともと、興味が湧かないことを勉強しないタイプだったし、仕事について何か学ぼうという気が湧かない。気が湧かないことには何も始まらないし、どうにでもなれという気分で毎日を過ごしてしまう。

そんな日々を過ごしていた時、「勉強しない」私にマニュアル作成の仕事が舞い込んだ。文章を書くとなると(本当はマニュアル作成はそういう仕事では無いのだが……)俄然盛り上がり、今まで全く調べなかった事柄まで調べまくり、「読み物として」読める形のマニュアルを作った。楽しいことの少ない仕事だったが、あのマニュアル作成だけは面白かった。

そこで気づいたのだ。結局私は文章を書く方向に向いた人間なのだ、と(得意という意味で「向いている」と言いたいのではない)。何かを書くとなればとことん調べ上げることができるし、仕事や納期がある状態でもそれなりに楽しめる。それに、良い文章を書くためなら、努力や研究もできるような気がする。

 

そろそろ「時」が来たのかもしれない。

昨年度から始まった環境の変化で、余裕と気概を失いかけていたが、徐々に心の余白も出てきた。今年こそ、「文章を書くこと」を軸に、何かはじめてみても良い。

そんな今年の私のテーマは、「冒険に出ること」に決めた。1月2日あたりに決めたことだったが、徐々にこのテーマも熟成され、良い形になってきている。

というのも、二ヶ月かけて自分を見つめ直した時、重要な事柄が見えてきた。それは自分の弱さというか、傾向性というか、(先ほども少し触れたが)私は「逃げ」ているということだ。変化を不安に思い、色々と理由をこさえては、小賢しい表情で逃げているのだ。いや、これは私の問題だけではないだろう。もっと根源的な何かがある。

もし人が泳いでいるのを見たことがなければ、あなたは私におそらく泳ぐことは不可能だというだろう。なぜなら泳ぎを学ぶためには、水の中に身を置くという行為をスタートさせる、つまり、泳ぐことができる状態になければならない。推論は現に、私たちを閉じた大地の上に常に釘付けにする。しかし、もし素直に、恐れることなく、水に飛び込めば、まずは水に浮かび、どうにかこうにか水でもがいて、そして徐々にこの新しい環境に自分を適応させ、私は泳げるようになるだろう。このように、理論上は、知性によるのとは別の方法で認識したいと望むことには一種の不条理があるのだが、もし素直に危険を引き受ければ、理性が結びつけて、自分では解くことのできない結び目を行動がすぱっと断ち切ってくれるだろう。

19〜20世紀フランスの哲学者ベルクソンの言葉だ。人間も含む生命体は、基本的に身の安全を確保したい。だから新しいことはしないようにしている。本能や知性が新しいことを避ける。だが、進化のためには一つの「飛躍」が必要になる。

「冒険に出る」ということは、つまり、しなくても良いことをすることだ。しなくても良いが、それが人生にとって必要で、諦めた場合は、死の瞬間まで喉に引っかかった魚の骨のように嫌な感覚が残り続けるであろう何かをすることだ。そしてそのために、安全を求めて逃げる傾向性に立ち向かうことだ。根源的に引っ込み思案な自分と相対することだ。

だが、無謀になってはいけない。そもそも無謀では、ぽっとでの考えでは、自分と戦うことすらできない。知性は常に揚げ足を取ろうと手ぐすね引いて待っている。今しようとしていることが、自分の人生にとって本当に必要なのか確証があったほうがいい。今、確証といえるほどのものはないが、こうして文章を書きながら、確証を持ってもいいような感覚を感じる。

 

正直、自分の文章が誰かにとって、何か価値を持つかどうかはわからない。だが徐々に、試してみたいような感覚も生まれてきた。いや、これは正確ではない。どちらかというと、読み手にとって価値のある文章を書きたいと思っている、というほうが正しい。

「自分が書きたいか」というより、「自分が読みたいか」を軸にしていきたい。だが、今回だけは、自分の頭の整理のため、自分が今「書きたい」「書かないといけない」ことを書き綴っている。何か自分の人生にとって、この文章が意味を持つことをねがう。

 

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空白

なんというか、余裕がない1年間だった。

少しずつ新しいことを始めた一年でもある。

 

まず、新宿の大久保に引っ越し、一人暮らしを始めた。5月のことである。一人暮らしをはじめると、実家暮らしの便利さが身に染みるというが、私の場合はサバイバル能力が高いのか、なかなか楽しくそれなりに生きている。

次に、四年ぶりに海外旅行を始めた。気づけば、4回も出国している。香港、マカオ、香港、台北。なぜか香港とその周辺に3回も行っているが、それについてはまたの機会に話そう。

日本国内の旅も、長崎、出雲、福岡、と今まで行ったことない地域だった。

 

こうやってまとめると、比較的色々なことをしているのだが、その一つ一つに余裕がなかった。そのせいだろうか。このブログだけでなく、noteの更新もあまりできず、音楽制作も手が止まったまま。

その一つの理由は、仕事かもしれない。部署異動があり、慌ただしい部署に入ってしまったため、なんというか、自分の精神の動きと社会生活の流れのズレが、前以上に著しくなった。心の靴擦れで、正直なところ、疲れている。

世の中の状況も一つあるかもしれない。最近、今までにないほどにきな臭い。きな臭い上に、慌ただしい。そして、物価も上がりっぱなしで余裕がない。気候も足並みを揃えて、ばかに暑かったり、やけに寒かったりする。

 

クリスマスイヴ。

私は実家に戻った。久しぶりに両親と夕食を食べたが、その時、時間の流れの話になった。

何もそんな難しい話ではない。今年は凄く早く時間が過ぎたというお決まりの話である。そして、歳をとると時間の経過がはやくなる、という具合だ。

きっと、私のような小童より、父母の方が時間の流れは速いのだろうが、今年に限って言えば、私にとっても確かに一年が過ぎ去るのがあまりに早かった。まるで、この2023年という年自身が余裕がなかったかのようだ。

 

今日、クリスマスになり、試しに教会に足を踏み入れてみた。ミサの後、ちょっと浮き足だった状態の教会の椅子に座る。

余裕がない時というのは、実は今という瞬間、そして今まさに踏みしめている足の感覚から、意識が遠のいていることが多いように思う。

未来のこと、過去のこと、あるいは想念に意識が持っていかれて、まるで足のない幽霊のように1日1日が過ぎてゆくのである。

今、こうして椅子に座っているように、少し立ち止まって自分の立っている足元を眺める時間が必要だ。余白がなければ生きていけない。

クリスマスに限らず、少し時間があれば、ゆっくりと椅子に座る時間を見つけたい。そして余白の時間を待ち、楽しむことができたとき、人は寛容な心持ちにもなれるのだと思うから。

 

再起

またあっという間に一年が終わり、新しい年になった。

意識は時に緩やかに、時に急いで進んでいく。年というのはそこに嵌め込まれる人為的な制度に過ぎない。本当は12月32日と1月1日に違いなんてない。だけど、ぼーっとしているうちに繰返しの単調な生活を漫然と過ごしながら死へと向かっていくことに不満があるなら、心機一転するいい機会である。

でもその前に、ちょっと去年を振り返りたい。

 

去年は私にとって、「思いついたことはなんでもやる」というモットーを掲げて始まった。それができたかどうかはよくわからない。ただ、10月にnoteを本格的に始動させ、ほぼ同時にsound cloudで毎月曲を一曲アップロードし始めた。そして、去年は国内を旅することが多くなり、その中で、自分の「思いつき」も重んじることが多かった。

5月頭に高野山・大阪・神戸・明石、7月には淡路島・徳島・高松、8月は広島・松山・今治尾道・倉敷と松本、9月は静岡・彦根・大阪・京都・比叡山・福井・金沢・和倉・美川・富山、10月は仙台・平泉、11月は高松・金比羅山・丸亀・倉敷・岡山。

瀬戸内沿岸地域に偏りがあるが、日本国内はほとんどが未到の地だったので面白かった。

瀬戸内沿岸地域が多い、という事実は実は去年の一年間が私にとって実際のところどういう意味合いを持っていたのかを示している。というのは、私は父方も母方も両方とも瀬戸内(というか四国)にルーツがあったのだ。つまり、去年は「思いつき」を実現する、ということ以上に、「自分のルーツ」を見つめ直す、という意味があった。自分のルーツを見つめ直したい、という「思いつき」を受け取った一年だった。

 

きっかけというものはほとんどない。強いていうなら、友人が淡路島に転勤になったからかもしれない。友人に会いにいく、という口実のもと、自分のルーツである「関西」を回ってみようと思ったからだ。

私の父方の先祖は、祖母が京都、祖父が神戸であり、雑煮も白味噌でないと気持ちが悪い。だが、祖父の方をたどっていくと、最終的には香川県の高松に辿り着く。だから、ルーツとしては、「関西」であり、もっと辿れば「四国」になる。

母方はというともっとストレートに瀬戸内にたどり着く。祖母が愛媛の出身で(正月なので明かすと愛媛はおすまし系雑煮が主流とのことで、母はすまし系出身者になる)、そのルーツを辿ると宮崎らしい。宮崎が瀬戸内かというのは議論が必要だが、「環瀬戸内」世界ではある。

そんな知識はあったのだが、いかんせん私は国内では出不精で、そのあたりに行くことがなかった。大阪はかろうじて大学四年の時に行き、ミナミのエネルギーの強さに惹かれたのだが、それ以降は行かなかった。

だが口実ができた、というわけで、私は神戸に行ってみた。それが五月の旅だった。その時友人から、神戸からのバスに乗れば徳島に着くこと、四国はもう目と鼻の先だということを聞いた。そう言われると行ってみたくなる。母のルーツである愛媛には幼少期に行ったことがあるが、記憶という記憶はない。そして7月、徳島まで足を伸ばしてみたのだが、その際、父方のルーツである高松に行くことを思い立ってしまい、隣の香川に行く羽目になったのである。そのあとは愛媛も気になるようになり、広島へ行った際に船に乗り込んだ。

そんな「思いつき」の芋づる式により、毎月最低一回の国内旅行が六ヶ月も続いた。

 

私たちの人生は絶えず過去の記憶を引き受けながら進む。幼少期の記憶にならない記憶、思い出すこともできないような出来事でさえ、自分の人格の一部になっていると思えば、ひょっとすると、遠い昔のルーツのあゆみが私の心臓の鼓動の一部になっているかもしれない。そう思えば、ルーツの場所を訪れることは、あながちくだらないことでもなく、道に迷った時の対処法の一つと言えるかもしれない。靴擦れを起こしたら、自分の足に合う靴を探さないといけないが、自分の足の形が分からなければ、靴の探しようもない。足元をじっと見つめる必要がある。例えて言えば、そんなところである。

そう思いつつたずねた高松は一つの発見だった。海が近く、ゆったりとしていながらも、四国の玄関口としてしっかりと「街」でもある高松を歩くと、なんだか自分の胸の奥でピースがはまったような感覚になった。それは言葉になる部分から言葉にならない部分まで、さまざまなところからくる感覚だが、あえて一ついうとすれば、次のようになる。

昔から私は新しい街に来ると、何かに取り憑かれたように水辺を探していた。それは川のこともあれば海のこともあったが、一つの条件として、ビーチや川遊びのできる河原ではダメで、絶対に何かしらの船が浮かんだ港であって欲しかった。そしてそれに付随して、昔から船上生活に漠とした憧れを抱き続けていた。正直、マイホームなどどうでも良くて、マイシップが欲しかった。そんなあれこれが、高松の港や瀬戸内の海を見ていて、「だからか」と符合してしまったのである。

もちろん、高松はいい街で、誰だって同じ気持ちになるのかもしれないし、誰だって港のある水辺が好きなのかもしれない。それでも、ルーツを目指していた私には、大事な感覚だった。

 

一連のルーツを目指す旅へと誘った「思いつき」は、自分の足元をじっと見つめる必要があるというメッセージだったのかもしれない。ルーツの旅のみならず、去年はさまざまな折に、自分の趣味趣向や生について内省する機会が訪れた。おかげで、完全にではないが、自分の足の形に思いを馳せることができた。

だが、「思いつき」を回収しようとしてきた一年は、なんともいえない「空っぽさ」を味わう一年でもあった。それはきっと、「つくりあげる」ことよりも、とにかく思いついたら即「表現すること」にウェイトを置き過ぎたからだと思う。

クリスマスの日、深夜ラジオで、

「つくること、そして最後につくり終えること。そこに歓びがある」

という言葉を聞いた。思えば、「つくりあげる」ということを、私は本当にしたことがあったろうか。論文は常に締め切りで尻切れ蜻蛉だったし、もっと昔の小説も、最後は焦って書き上げた。これを書いている今だって、なんだか気持ちが逸って仕方ない。

 

今年は、多少時間がかかっても一歩一歩大切に、形が見えてきた足で、歩き始めよう。それが人にも自分にも優しく生きる糧にもなる。心の平安はきっと一歩一歩のうちにある。

2020年から去年まで、ちょうどコロナ流行と並行して、この三年間は就職活動とその後の閉じた円環のような繰返しの労働生活の中で閉塞感とともに生きていた。すぐさま飛び立つことはまだできそうもないが、歩き始めることはできる。

再起を図ることはできるはずである。

 

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鳥籠のクリスマス

長らく、こちらのブログの更新ができずにいた。

理由は一つ。今年に入って、noteという媒体で文章を書くようになったからだ。その試用期間のために、こちらはお休みしていた。もちろん、私の怠惰な性格のせいもあって、noteも二ヶ月ほど毎週二回投稿してみたが、12月に入ってからエネルギー切れ状態となっているのも隠せない事実ではある。

それがなぜ今になって再開したのか。こちらも理由は一つ。このブログを2016年に開設してから、毎年クリスマスには記事を書いていた。だから、今年も、というわけで久々にログインしたという次第だ(ちなみにnoteの方でもクリスマスの記事を書いている。一昨年のこちらの記事の焼き直しのようで申し訳ないがホットワインの記事だ(クリスマスとホットワイン(飲み物という名の冒険⑧)|河内集平(Jam=Salami)|note))。

来年はできるだけ両方とも更新しようと思っている。使い分けは考えていて、こちらはどちらかといえば私個人のプライヴェートな考えに深く関わっていたり、長ったらしい旅行記など(ようするに今までのスタイルでも読んでくれた人たちのためのもの)を、noteはできるだけ短文(今はできていないのだが)、テーマや題材を絞るなど、多くの人に読んでもらうものを目指そうと思う。

 

さて、クリスマスだ。

今年のクリスマスは私にとって、今までと大きく異なる。今まで一度も経験したことのない状況に直面しているからだ。端的にいえば流行病にかかってしまったのである。

初めは異様な喉な渇きを感じ、「今年は乾燥しすぎだろ」と思っていたら、みるみるうちに喉が痛くなっていき、三日ほど前に正式に陽性と診断された。特にすごい人混みや飲食店に行った覚えもなかったから意外なことだったが、今までかかっていなかったことが奇跡だったのかもしれない。

ちょうど症状が現れる一日前に大学時代の友人のオンラインで飲み会をしたのだが(オンラインなので感染とは全くの無関係である)、その友人のうち一人が罹患した時の話を聞いたところだった。喉にガラス片が刺さっているような感覚。その表現を聞いていたことで、すぐに検査を思い立ったのだから、不幸中の幸いである。

とにかく、クリスマスだというのに、私は部屋に閉じこもって家族とも直接の接触を避けざるを得なくなった。いうなれば、「カクリスマス」である。

とはいえ、湿っぽくなっても仕方がない。こんな経験もなかなかないから、できるだけこの境遇を楽しむことにした。喉は痛いし体も重いが、掃除をしてみたり、積読を読んでみたり、サバイバル生活をしているつもりになってみたり、ギターを弾いてみたりしている。

 

本当はすぐに寝た方が良いのだが、こんな状況の中どうしても聴きたい深夜ラジオが2本ほどあった。そのうちの一つはちょうど昨日、イヴの夜、というかクリスマスの朝に放送していた、作家の沢木耕太郎のラジオだった。

その中で、コロナ禍の困難に困惑しつつもタイはチェンマイを目指す話をしていた。そんな時、ふと、「一人で東南アジアを旅する」ということが、なんとなく自分とかけ離れたことのように聞いている自分に気づいた。それは冷静に考えれば、あまりにおかしなことだった。思えばほんの数年前には、私だってバンコクの街を一人で歩き、ホテルを取り、電車に乗って国境越えをしたはずなのだ。

考えてみると、現在の私(と、同じようなことになってしまった人々)の境遇ほど異常な状況ではないが、少し前まで私たちはあまり外に出られずにいたし、海外という意味では私も含め今でも出られずにいる人が多いと思う。それは単純に行動の話だが、その行動が徐々に心にフィードバックしてきていて、いつの間にやら、半径数メートルの精神になっていることがある。

別に悪いことではない。そういう時も必要だ。だが、ともすると、自分の「できない」が増えていくようにも思う。一人で海外なんていけない、といつの間にか私も思い込んでいたのだ。本当はただ国境線を越えるだけで良いのに。

 

それだけならまで良いが、ここ数年ずっと問題とされている「分断」という言葉もまた、この「半径数メートルの精神」に関係がある気がしている。半径数メートルの精神のなかに、インターネットを通じて膨大な量の、しかし偏った情報が入ってくる。本当は外に出てみれば違うものが見えるかもしれないが、それだけが全てのように見えてくる。これが分断の種になる。

もちろん、話はそんなに単純ではないかもしれない。そもそも、分断はコロナ云々の前から問題だった。だけど、自分を顧みても、コロナ禍になってから急速に精神が縮こまっていくのを感じている。以前から何かが燻り続けていたのは事実だが、ミャンマーのクーデタも、アメリカの議事堂襲撃も、ロシアによる軍事侵攻も、コロナ禍になってから起きている。

 

クリスマスに思うことは、クリスマスごときが特効薬になるとは思えないが、キリスト教流の「許す」こと、「寛容」であることが、縮こまった精神を開こうとする一つの試みになるということだ。クリスマスにはそんな意味があるし、力がある。クリスマスは、第一次世界大戦を中断してサッカーをした人たちのように、望めば(if you want it)戦争だって止めることができる日のはずなのだ。それはきっと私たち異教徒にとっても同じのはずだ。

だから、何かと縮こまってしまう世の中だけど、できるだけ、心を広く温かく今日を生きようと思う。あとしばらく続く隔離生活だが、できるだけ面白がってやろうという精神も持ち続けよう。

鳥籠から、ハッピークリスマス。

まだ『天才』ではない

私は『天才』という人の存在をあまり信じていない。

いや、それは嘘だ。天才は確かにいる。

ちょっと子供じみた表現を許していただけるならば、私はすべての人が天才なのだと思っている。だけど、いわゆる『天才』と言われている人は、自分の中にある天才的な部分を解放するのに生まれつき長けているか、そのように見えるのに対して、そうではない『凡人』にはそれがなかなかできないのだと思う。

 

天才以外に創造の才能がないという見方は間違っている。例えば、モーツァルトベートーヴェンを並べて、生まれつきの天才と努力の人というように言う場合があるが、それでは努力の人のベートーヴェンに才能がないといえば、皆さんはどう思われるだろう。ばかばかしいのではないか。ベートーヴェンは強烈な創造の才を持っている。いかにその音楽の形式が計算され尽くされていたとしても、あれだけの作品を作り上げる力を才能と呼ばずして何と言おう。

ベートーヴェンは、天才だ。だけどもっと一般大衆とかはどうだ。才能なんてない人たちもいっぱいいる。」と、いう人もいるだろう。申し訳ない。例えが悪かったみたいだ。だけど私が思うに、どの人にも個性があり、どの人にも何かしら表現したいものがある、あるいは既に表現してしまっているものがあるはずであり、それはそれぞれの「天才性」に裏付けられている。表現というと何やら芸術を想起させるけれど、事務仕事だってなんだって良い。その人にとってしっくりとくる仕事で、なおかつ、その人の人生をそこで表現できるもの。そこに天才性が現れている。だから、勘定の天才もいれば、作曲の天才もいれば、プロデュースの天才もいるし、マーケティングの天才もいる。

とはいえ、こういう言い方をすると誤解されそうなので付け加えておくと、決して天才性は職業と結びついたものではない。職業は自分の才能を発揮する方法の一つにすぎない。例えば、緻密の才能は事務仕事でも芸術活動でも生きてくるように、才能はもっとニュートラルなもので、それぞれの人の生活、働き、趣味、活動云々に滲み出てくるものだ。言ってしまえば、「その人らしさ」に近いのかもしれない。

まとめると、各人が各人の「天才性」をもっていて、それはそれぞれ独自のものだ。こうした言い方をしたくなるのは、私がゆとり教育最後の生き残りで、「金子みすゞ主義」「世界に一つだけの花主義」を引きずっているからかもしれない。だけど、やっぱり一抹にすぎないとしても、そこに真実はあるはずだ。単に口にするのが烏滸がましいだけで、ちょっとした部分を掘り下げてみれば、あなたも私も天才かもしれない。だってあなたも私も、それぞれの「やり方」をもって生きているじゃないか。

 

全ての人が「天才」であるとして、「天才/凡人」のような評価が生まれてしまう裏には何があるのか。それは、先ほども述べた「天才性」と「表現」の間の関係に関わるように思う。そこには、「天才」と「努力」の問題がある。

天才と努力。その二つは対比されることが多い。だけど、その「努力」と言うのは一体、何の努力なのだろう。私が思うに、それには二つの種類がある。

一つ目は、何かを生み出すための努力だ。絵を描くなら、絵具の使い方、キャンヴァスの使い方、そして様々な技法など。音楽を作るなら楽器の弾き方や、楽譜の使い方、楽典に関わることなど。他にもありとあらゆる活動には、その活動を成就させるためにどうしても必要なことがある。こうした技を学ぶために、人は努力する。

二つ目は、自分にはどんな才能があるのか見極める努力だ。これは目立たないことだが、人は人生を賭けてこの努力を絶えず行っているとも言えるし、多くの場合、失敗に終わるとも言える。どのように表現することで、自分の才能が一番発揮されるのか。どの仕事を選ぶか、どの方法論で何かを学び、何かを行うのか。こうした問いは私たちの人生の要所要所で登場し、悩ませる。答えを出すには並外れた努力を必要とする。

自分を知り、表現のための技術を手に入れ、そこからやっと、自分に合った表現ができるようになっていく。どちらがかけても意味がない。自分のうちにあるものをうまく表現できないと、不自由さに頭を抱えるだろうし、いくら技術があっても何を表現するのか見極められなければ、「なんて凡庸なんだ」と自分を責めることになる。スタート地点までいくのがしんどいが、そこまでいけば、天才も凡人もないはずなのだ。

『天才』と呼ばれる人は、この種の努力をあまり必要とせず、自分のもっているものを引き出すことができるという意味で「天才だ」と言われているように思われる。(音楽や語学ではありがちなのだが)幼少期からの蓄積があるのか、見えない努力を重ねているのか、あるいは本当になんの用意もなくなのか、『天才』は自分の才能を表現するやり方を心得ていて、表現する術を手元に持ち合わせている。裏を返せば、『天才』は才能に関わることではなく、もっと技術的な部分を要領よくこなせるかどうかにすぎないのではないか、と私は思う。

 

では、どうして『天才』、それも圧倒的で他を寄せ付けない『天才』というものが想定されることが多いのだろう。

自分と「すごい人」を比べる場合、なんらかの共通の尺度をもとにする必要がある。これは科学の基礎である。いきなりひよこと扇風機を比べろと言われても無理な話だ。色で比べるとか、重さで比べるとか、羽根の最大風速で比べるとか、基準を設定しないといけない。技能の場合、コンクールやコンテストなどで比べることが多い。

だが問題は、各人が持つ「天才性」はそもそもそれぞれ共通の尺度をもっているのかというところだ。漫才の賞レースやピアノコンクール、文学賞などでたいした成果を上げずとも、才能がある人はたくさんいる。コンクールでウケる才能を持った人もいれば、また別の才能を持った人もいる。それぞれが持つ天才性は互いに比較できないのだ。そういう意味で、冷静になって考えると、「彼/彼女は天才だ、到底自分は及ばない」というのは端的におかしな比較をしている。なぜなら比較できないものを比較しようとしているから。そういう意味で、その「彼/彼女」はあなたに到底及ばないはずだというのに。

 

『天才』と『凡人』を隔てるものはただ、自分の才能を自由に表現する術をもっているか、自分のことを心得ているかどうかにすぎない。私自身時々、自分の才能のなさに悲しく、悔しくなる。そういうときはできるだけ、これからは、自分にこう、声をかけてあげたい。

「まだ、精進が足りない。まだ、『天才』ではない。ゆっくり進もう」

 

思いつき

去年11月の終わりに成田山まで行った時のことだ。
あのころわたしは、お寺や神社に行くと、決まって、
「私の道をお示しください」
と唱えていた。

今仕事としてしていることは自分にとって一生続けたいこととは思えない。だが、もっと創造的なことを、もっと一から作ってみたい、と思い続けている反面、結局自分が何をしたいのかわからない。そもそも今の職についたのも、自分のしたいことが、一本の道のように見えてこないままだったからである。この袋小路が四年ほど続いている。そんなわけで、私は、道を、渇望していた。

 

本堂で、釈迦堂で、奥の院の前で、平和大塔で、私は導きを求めて、心に言葉を念じた。不動明王、釈迦如来大日如来と、厳密にいえば対象は違ったが、私にとってはその差異よりも、なんらかの存在の前で精神を集中させることが重要だった。

もちろん、祈ったとて、すぐに何か答えが出るとは限らない。だが、祈りの言葉が、自分の胸の奥にある何かを、ふつっと、心の表面へと浮き上がらせてくれることはある。あとはそれを待つのみである。

だから私は中庭を散歩することにした。成田山の中庭は、あの頃、紅葉で真っ赤になっていた。

 

時々風情のある灯籠が姿を表す紅葉の道を歩いているうちに、心に浮かんできたことがあった。いや、浮かんできた、というか、問いかけてきたと言うべきかもしれない

「道なんて本当にあるのか?」
私は池に目をやりつつ、自答した。わからない……だが、道がなければ、先へ進めない、と。

「いや、道なんてなくてもいいのではないだろうか。お前が思いついたことを全部やればいい。それが自ずと道になる」
そう言うのは簡単なことだけど、先へ進むには何か一つの道を選ばないといけない。例えば、映像作品を作るなり、文章を書くなり、音楽を作るなり、何かしら一本に絞りながら、他の活動を一つにしてゆくのがいいように思う。だから、何か計画なり、道なりを見つけたいのである。

「だが、目的地が先に見えないなら、まずは歩いてみるしかないではないか。そう、散歩のように。お前が散歩を好むのは、思いつきで路地に入ったりして、見えていなかった街の表情を見るのが楽しいからだろう。夢や目標なんて作らずとも、思いつきを叶えることで、新しい何かと出会えるかもしれない。それが、形になるのを待てばいい。答えを急ぐな」

そこまではっきりと、本当に、こんな自問自答をしたわけでもなかったように記憶しているが、紅葉を眺めながら池の周りを歩きながら、私の心の中で一つの言葉が形を持っていった。形を持っていったのは、当たり前といえば当たり前のこと。だけど、今の私にとっては、大切なことだった。

 

だから、2022年、と言う新しい年が始まるにあたって、一つの「抱負」を述べなさい、と言われたら、次のように答えたい。
「思いついたことをできる限り実際にやってしまうこと」と。

「思いつきを大切にすること」と。

ユダヤ教神秘主義では、人が思いついたこと、人の思い、と言うのは神の思し召しなのだと言う。だから、というわけではないけれど、2022年は、いや、2022年以降は、自分の思いつきを、もっともっと大切にしてゆきたい。それが、日々をもっと創造的にするだろう。それが、私の道の一歩一歩になるはずだ。それが、巡り巡って私自身を助け、自分の望む人生様式へと導いてくれるかもしれないのだ。

だって、ふとした瞬間の思いつきは、神か仏か、或いは偶然、もしくは悪魔か、いずれにしたって、何か奇跡的な産物なのだから。

 

寛容のレッスン〜クリスマスに〜

今年のクリスマスは、家族でセッションをした。父がフルートを吹き、母がピアノを弾き、私が音程の悪いヴァイオリンを鳴らした。

クリスマスイヴの昨日はそこまでひどくない音を鳴らせたが、今日はあまりかんばしくない。腕やら体やらが硬いようで、うまく音が出ないのである。昼ごろは鳴っていたはず楽器が今夜は掠れ声だ。そう思うと心が段々と狭くなってゆき、体も硬くなってゆく…。そして結局、全然弾けないままになる。

 

ヴァイオリンほど身体・精神の調子と連動している楽器は滅多にないのではないかと思う。そもそも、かなり不自然なポーズをしているし、音程だって自分でとらないといけない。そんな微妙な状態にあっては、身体や精神の乱れが音に直結してしまうのだ。

以前、ヴァイオリンの教本を立ち読みをしていたら、「あがり」の対処法が前面に押し出されているものがあった。「あがり」とはもちろんお茶のことではない。緊張して弾けなくなってしまうことだ。なぜ「あがり」のことばかり書くのだろう、と疑問だったのだが、今ではなんとなくわかる。緊張で体が硬いと音が出ない。緊張していると音が取れない。心身とヴァイオリンは直結している、直結しすぎているのだ。

有名なヴァイオリニストであるメニューインは自分の練習メニューの中にヨガを取り入れたが、これはそう言う意味で、的をいたことだと思う。演奏するには常に平常心、心身の調和が保たれている必要があり、それはヨガの呼吸法が目指すところでもあるのだから。

 

だが、この、クリスマスという日に、私は別のことも思ったりする。

楽器を構え、不安になる。うまく合うだろうか。間違えないだろうか。そして案の定間違えたりすると、落胆でどんどん他の場所も間違え、体が固まってゆく。私にはぼんやりとした完璧主義がある。ぼんやりとしていなければ、完璧さを追求するから良いのだが、ぼんやりとしているから、自分を責めるだけに終始する。その、ある種の狭量さが、心身のバランスを、演奏中に乱してゆくのである。

思えば、ヴァイオリンに限った話ではない。カレーを作るときにも、うまく味がまとまらないと、「だめだ」と頭を抱えるし、旅の最中に行こうと思ったところ全てを回ってやろうと焦る。文章を書いていても、自分はなんて書くのが下手なんだ、とときに腹が立つ。外国語が聞き取れず、外国語を話そうとしてしっちゃかめっちゃかになると、自分は語学は好きだが、上達しない、と悲しさにも似た感情を覚える。焦り、自分を責めると、呼吸も荒くなってしまう。程度の差はあれ、誰しも似たようなところはあるんじゃないかと想像している。

 

大抵のことは、練習したり、場数を踏めば解決する。だが、それでも焦るのはなぜだろう。答えはすぐには出ないが、過程を楽しむ余裕を持てず、結果にばかり目が行くから、かもしれない。

と、言葉で言ってはみても、自分の性根はなかなか変わらないものだ。だが、後ほんの十数分ではあるけれど、クリスマスなのだ。クリスマスは人に寛容になる日だと言う。それならば、自分に寛容になってみても良い。寛容のレッスンを続けよう。そうしたら人生はもう少し、リラックスした状態で進んでゆくかもしれない。そうなれば、いい音も自ずから出るはずだ。

ヒッポドロームのおじさん

イスタンブル旧市街のど真ん中に、スルタンアフメット地区はある。

泣く子も黙るアヤソフィアにブルーモスクといった「イスタンブルといえばコレ」的な観光地の数々に取り囲まれて、ヒッポドロームという広場がある。この広場がスルタンアフメット地区の中心部と言えると思う。

実はこの広場の名前である「ヒッポドローム」とはフランス語(hippodrome。本当はイッポドロームと発音するはずだ)で「競馬場」という意味なのだが、かつては競馬場であった。イスタンブルで「かつて」という言葉を使うのは、京都で「先の戦争」という時なみの(いやそれ以上の)覚悟が必要なのだが、この場合は1500年ほど前である。東ローマ帝国ビザンツ帝国)の首都だったこの街で、市民たちが日々の憂さを晴らしにやってきた競馬場こそ、この広場。歴史が深い街ともなると、何千年とランドマークがあまり変わらないことがある。

その、ヒッポドロームはかつて帝国市民が集い、時に皇帝に反対する暴動の出火元となった場所だった。つまり、時の皇帝は、ヒッポドロームはちょっと緊張感を持って、赴かなければいけない場所だった、と想像される。ちなみに、現代のヒッポドロームでちょっと緊張感を持たざるを得なくなるのは、他でもない私たち日本人観光客だ。

 

ヒッポドロームの近くにある地下神殿の前を友人と歩いていたら、近くにいたおじさんがこれ見よがしに特徴的なだみ声を上げた。

「これってもしかして東京オリンピックのエンブレムかなあ」

もちろん、日本語である。今時舞台演劇でもこんなにこれ見よがしの独り言を言うことはないだろう。面白すぎたので、ちょっと笑ってしまう。すると、その機に乗じておじさんが近づいてくる。

「日本人?ほら見て、これ東京オリンピックのバッジ」

と見せてくる。間違いない、商談が始まる。

私はイスタンブルは二度目だったから、大体察しはつく。この手のおじさんはヒッポドローム界隈にたくさんいる。この後色々と話しかけてきて、そのまま工芸品系の店へゆき、セールストークが始まる。それで特に危険な目にはまだ会ったことがないし、話を聞くのは貴重なことでもあるし、大体バックパックしか持っていない私は何か買おうという気が1ミリもないので回避もできるのだが、芝居がかっていて結構長いから疲れてしまう。だから、こちらとしてはこのおじさんがどこまで面白いおじさんなのかを見極めるほかない。

イスタンブルは初めて?」とおじさん。二度目だと言うと、

「だからイェレバタン・サラユ(地下神殿)のことも知ってたんだね」と言う。なんだ、でかい独り言の前から私たちをマークして会話を聞いてたんじゃないか。

「お土産は買った?」ほら始まった。まだだ、と言うと、

「バザールはダメだよ。あそこは質が悪い」と言う。このセリフ、何度聞いたことだろう。おそらく正しいのだが、あまり言われるとへそまがり根性が鎌首を持ち上げそうになる。

「絨毯はもう見た?」とおじさんは聞く。絨毯はあいにく、前回の滞在でこの手のおじさん、ヒッポドロームにたむろするおじさんに連れられ、色々と知見を得た。だから、いらない、という素振りを見せると、

トルコ石は?」という。正直トルコ石の色は嫌いじゃない。話だけ聞いて帰えるチャンスかもしれないので、それなりの反応をする。

「知り合いがトルコ石の店をやってる。彼は日本に留学してたから日本語が話せる」という。なるほど、と思っていると、仕込んでいたかのように若い男性がやってくる。そうこの若い男性こそ、日本語が話せる知り合いである。

 

とまあ、そう言う感じで、おじさんは退場し、青年への私たちは引き渡された。青年はこちらが一言も言っていないにも関わらず、

「日本人はすぐにお金がないから買えないって言う。そう言うの嫌い。だって、お金なかったらトルコ旅行なんてしない」

ステレオタイプな批判をしている。一理あるような、ないような話である。まず旅行をする場合、飛行機代とホテル代、食費がかかる。旅行をする以上はいろいろなところへの入場料も確保する人がほとんどだ。お土産は二の次三の次、必要経費がいなのだから、その経費がないから、買えない、と言うパターンはあると思うし、私自身は割とそう言う感じでやっている。総資産云々とはあまり関係のない話なのである。だが、私含めて、そう言う話をされると、なんとなく自分が悪いことをしているような気になって恐縮してしまうから難しい。

お兄さんはああだこうだと喋り続け、私たちは彼の父が経営すると言う宝石店へと行く。

「チャイ?アップルティー?」とお兄さんが尋ねる。トルコでは商談の際にアップルティーを飲む、とかつて連れたゆかれた絨毯屋で聞かされた。こう言った文化をのぞくことができるのは面白いが、私はチャイの方が好きなのでチャイを頼んだ。

ちなみに、チャイといってもインド式のロイヤルミルクティーにスパイスが入ったものではない。お湯で煮出したストレートティーに角砂糖はとにかくたくさん入れて飲むのがトルコ式である。こいつのせいで、私は一時期砂糖中毒になっていたように思う。

チャイを飲みながら、商談のスタートだ。

トルコ石には、トルコ産のものと、トルコ産以外のものがある。トルコ産のものは珍しいが、質がいいのだよ」とお兄さんの父親が、英語で説明する。トルコ石の原産はイランの方だと聞いたこともあるが、正直わからない。ひょっとするとトルコ産の方がいいのかもしれない。商品を購入する前の前説は間違った情報は言っていないと思うのだが……。

店主はずらりとトルコ石を見せてくれる。イメージしていたちょっとくすんだトルコブルーというよりも、鮮やかで繊細な色をしている。騙されてはいけない。今見せてくれているのは結構高いやつのはずである。

いろいろ聞いていると、どうやら、石の値段だけでなく、そこに指輪だったり、ネックレスの鎖だったりの値段が加算されていく方式のようだ。逆にいえば、石だけ買えば石だけの値段になる。だが、そんな選択はおそらく許されない。

一通りトルコ石について学んだので、私は「まあいいかな」という顔をして店を後にすることにした。学生風情なので、それでも大概許される。代わりにベリーダンスが見られるフェリーの券を買わされそうになったが、正直私はロカンタ(大衆食堂)で夕飯が食べたい。

「どこに泊まっているんだい?」

と店主が聞くので、新市街の「ガラタ地区」だと言うと、

「綺麗なところだね。でも治安が悪いから気をつけるといい」

と言う。おそらくそれは正しいのだろう。だが、日本語で捲し立てるおじさんに絡まれることはない。いや、日本語で捲し立てるおじさんがいるくらいがちょうどいいのか。トルコの治安はわからない。

 

ヒッポドロームでおじさんに絡まれた話はここでひと段落する(本当は別のおじさんに絡まれているのだが、その話は別件なのでここではやめておこう)。「ひと段落」と言う言い方をしたのはなぜか。そう。「五輪バッジ」おじさんは、私たちの滞在中、また登場したのである。

翌日(だったはず)、イスタンブル(スィルケジ)駅に用があり、駅に向かってヒッポドロームのあたりを歩いていると、例のおじさんがいる。

おじさんはこちらに気づくと、例のだみ声で声をかけてきた。捕まっちまったよ、と思いながら私たちはおじさんの近くで足を止める。

トルコ石どうだった?」と聞く。おそらく、成果がなかったことはお兄さんから聞いているはずだ。きっと、結託している以上は何かそう言ったつながりがあるはずなのだから。買わなかったよ、というと、

「それもいいと思う。絨毯は?」とさらに絨毯を進めてくる。だが今回はこっちが上手だ。なぜか。駅で用事があるからだ。

「ちょっとこれから駅でセマー(トルコのイスラームの求道者(スーフィー)が修行として行う旋回踊り)を見にいくから」と私たちは足早に立ち去った。

「楽しんで」とおじさんは言う。完全に悪い人ではないのである。

 

ここで、おじさんとの物語は終わるはずだった。

実は、おじさんとの邂逅はここで第三章に突入する。またも、出会う。

それは滞在日もそろそろ終わりとなる日のこと。古本屋街に行くために、バザール方面へとヒッポドローム近くの坂道を登っていたら、おじさんがいた。今度は仲間とタバコを吸っていた。あまりに面白いので、私はこちらから、

「メルハバ(こんにちは)」と声をかけた。

おじさんは明らかに狼狽していた。見かけるはずのない人を見かけたような顔だった。

「まだいたの!?」とおじさんはだみ声で言う。おいおい、まだいたらだめなのか、と思いつつ、

「まだいました。よく会いますね」と返した。

おじさんは次に出す言葉を思いついていないようで、困った表情をしていたので、

「ホシュチャカル(じゃあね)」と私たちは古本屋へと向かった。

「ギュレギュレ(バイバイ)」とおじさんは言う。ひょっとして、セールスの時は無理しているけど、本当はシャイなのかもしれない。そう思うと可愛げがある。

 

トプカプ宮殿を歩いていたら、警備員に声をかけられたことがある。別に悪いことをしたわけじゃない。単に、警備員のおじさんが当時イスタンブルで活躍していたサッカーの香川真司選手を褒め称えたかっただけである。その時、「スルタンアフメット地区は日本人目当ての悪いトルコ人が声をかけようと待ち構えているから注意しな」と言っていた。

だみ声の五輪バッジおじさんもその一人である。だが、私たちがちょっと長く滞在したために、おじさんとしては2、3日イスタンブルにいる、一生に一度くらいしか会わない日本人観光客だった私たちと三度も出くわすことになり、最後にはどうしたらいいかわからない感じになっていた。おかげで、こちらとしては、そう言うおじさんの人間味のようなものを垣間見た気がする。イスタンブルは面白い街である。

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ヒッポドローム。おじさんたちがいるのは大体このアングルよりも後ろの方、
路面電車の駅の近くだ。

受動のレッスン:ヴァイオリンとカレー

今年になってヴァイオリンを始めた。

そういうことにしている。

本当は中学生の時に習っていたことがあった。シャーロックホームズが好きだったし、家には曾祖父さんの形見のような古い鈴木ヴァイオリンがあったからである。だけど、ピアノを習っていた時も、というか、小中高と全体的にだが、私はどうもお稽古ごとが苦手なようで、すぐに嫌になってしまった。そうして数年してやめた。

それが最近、またヴァイオリンを引っ張り出してみるようになった。理由があったかどうかは覚えていない。うっすらとまた始めてみるか、と思っていたり、民族音楽の類を聴きながら、ヴァイオリンっていろんなところに出てくるなと感心していたり、多分そういったことの積み重ねによるものだろう。音楽が気になって和声法などを学んでみたり、楽器に興味が出てきて、メルカリで民族楽器を買ったり、サウンドハウスクラリネットを買ったりと、そういった湧き上がる力も手伝って、ヴァイオリンの修行が始まった。

もちろん、教室に通うわけではない。大抵のヴァイオリンの本や動画を見ていると、教室には通った方がいい、という。そうなんだと思う。だけど教室に通うとまた嫌になるのが目に見えているから、一人でこっそりとやることに拘った。そういうわけで、最近は時間がある時に、買った教本の曲をひたすら引こうと試みたりしつつ、音程の悪さに眉間に皺寄せて試行錯誤をする日々である。

 

ヴァイオリンについての本、つまり教本や奏法についての本が面白いのは、受動に重きを置いていることではないかと思う。こういうテクニックがある、こういう風に構える、ということはもちろん書いてあるのだが、常に強調されるのは、「ヴァイオリンを邪魔しない」「弓の自然が動きを邪魔しない」ということだ。そういった、受動を強調した言い方のさいたるものが、神童と呼ばれたヴァイオリニスト、イェフディ・メニューインの『ヴァイオリン奏法』の冒頭の言葉である。

もしも、人びとがその楽器の僕となることを嫌い、自発的に、しかも心底から己を殺すことを肯んじないならば、ヴァイオリンは直ちに復襲を企てる。その多様な音色は出されずじまいとなり、その無限の精妙さはかげをひそめる。そしてその人は、ただ愛すべき一個の音楽的調度品をかかえたまま、不機嫌で生気のない顔をして、取り残されることになるだろう。

(イェフディ・メニューイン『ヴァイオリン奏法』(服部成三郎・服部豊子=訳/音楽之友社))

ヴァイオリンを弾きこなすためには、ヴァイオリンのしもべとならなければならないようである。ヴァイオリンを動かしているというより、ヴァイオリンに動かされる。それはヴァイオリニストの意思がヴァイオリンの意思と一つになることでもあるのではないかと想像している。想像している、というのは、残念ながら、私はまだその境地を一ミリも体験できていないからだ。

 

私はどちらかといえば我の強いタイプだと思うし、こういった風にブログを続けているのもその決定的な証拠である。自分を表現してやろうと思っている。だが、最近気になるものは、ヴァイオリンのように、絶対的服従を要求してくるものが多いように思う。

例えばカレーである。カレー作りである。カレー作りというとスパイスの調合を決め、調理し、という極めて自発的で能動的な行動に思われるかもしれない。だが何度か作ってみてわかってきたのは、カレーが本当にうまく行く時は、自分の意思の外にある何かの力によるようだ、ということだ。

私はスパイスの量を決め、玉ねぎの炒め具合を決め、肉を選定し、トマトの配分を決める。だがこれは条件を決めているにすぎない。肥料を決め、水やりをする程度のことだ。あとはカレーの領分で、条件付けがうまくやり、カレーに時間をしっかりと与えることで、カレーがカレーになるのだ。何をいってるんだこいつは、と思われるかもしれないので別の例に移る。

もっとわかりやすいのは乗馬だ。最近はやっていないが、一時期乗馬をやっていたことがある。乗馬で「楽しい」と心底思えた瞬間は、自分の指示が馬に伝わった時でも、パカラパカラと走った時でもなかった。それは自分の「走ってほしい」とかいった雑念が無になり、言葉や意思を超えて、馬とひとつになったように感じた一瞬だった。人馬一体というやつだろうか。そしてそういう時に、指示も伝わるものだし、走りも気持ちいい。無になった時、馬と一つになった時、やっと馬に乗ることができるのである。

 

このような、「受動のレッスン」ともいえるような、自我を一瞬だけでも捨てて、身を委ねることへの憧れは、どこからくるのだろう。

多分それは、自分の意思や、自分の言葉、自我のようなものをゴリゴリと押し通してゆくばかりでは得られない自由を求めるところから来るように思う。

ゴシゴシと擦っているときとは違う、自分から出るとは思えないような音がヴァイオリンから出た一瞬。カレー鍋の火を切って、少し寝かせてから味見をしたら、作っている時とは違う、自分が作ったとは思えないまとまった味がした一瞬。自分の可能性が一つ広がったように思える。だがその新しい可能性は、今までの自分の枠内からは生まれず、何かに身を委ねてみないと始まらない。

だから、いい感じの音色が出たり、いい味になった時は嬉しさを心に感じつつ、ヴァイオリンからいい音が鳴ったとか、カレーが美味しくなったとか、できるだけ主語を自分以外のところに置いておきたい。そんなちょっと変わった感覚を楽しんでいる。

無口な海

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私の経験上、海が何か答えを出してくれたということはまずない。何か悩みを抱えて海までたどり着き、海を眺めるうちに、答えが出ることはほとんどない。

だけど、海は口数を減らしてくれる。それだけは確実なことだと思う。つまり、常日頃私たちはしゃべり過ぎていて、胸の内からくる声にも耳を貸さず、あれこれ言い訳ばかりしているが、海を前にすると、そう言った言葉が消えてゆく。

だから本当はこんなブログを書いていちゃいけないのである。だけど、それでも、私はこうして書いている。今日、海に行った話をするためだ。

 

今日はそれが曇っていた。そして私は海はおろか、どこかに出かけようと心に決めていたわけではなかった。だが、昨日は部屋から一歩も出なかったし、自分の自由に使える日は、多くの人と同じく、二日しかない。とりあえず外に出ようとそれなりの服を着て、髭を剃り、髪を整えておいた。

だが、どこに行こうか、と思う段になって、何も思い浮かばなかった。そういう時、(最近は「そういう時」ばかりやってくるのだが)私は今住んでいる場所から遠くはない吉祥寺か、少し時間はかかるが気に入っているお茶の水・神保町界隈か、あるいは上野にいくことが多い。ほとんどルーティーン化している。それではつまらない。そう思いながら時計の針は夕方へと突入してゆく。

ふと思い出したのは、乱数表のことだった。このブログにも書いたが、かつて私は行き先が決まらない散歩のとっかかりを作るために、乱数表を使ったことがあった。運を天にまかせる。幸い最近の駅には必ず番号がふられていて、路線だけ決めて、その路線に存在する駅の数を乱数生成サイトに打ち込めば、あとは神のご意志か、偶然か、とにかく勝手に行き先が決まる。

わかりやすいので山手線でやることが多いのだが、最初にこれを試した時は「鶯谷」、次にやった時は「上野」が出ていた。どうも似たり寄ったりである。でもあえて、今やってみたらどこが出るのだろう。私は乱数に導いてもらうことにした。

山手線の駅の数は30(たぶん、最初にやった時は、悪名高き「高輪ゲートウェイ」が存在していなかったから29だったのだろう)。乱数メーカーに30という数字を打ち込み、ボタンを押す。

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神は「27」とおっしゃった。上野は「5」とかだったから、ひょっとすると今日はちょっと違うエリアかもしれない。駅の番号表と照らし合わせてみると、行き先は「田町」に定まった。

田町。多分行ったことのない町。路線図では浜松町と品川の間にあるから、イメージはつくけれど、田町自体はわからない。でもわからないままの方が面白い。私はあえて、山手線の車中で目を閉じた。車窓から何も見えないようにするためだ。

 

田町駅は大きくも、小さくもなかった。駅自体は小ぶりだが、改札を出ると大きく感じる。品川と同じで複合型施設があるらしい。その施設に入ってしまうと、大事なことを見失ってしまいそうなので、私は駅前の地図を見た。

田町はどうやら東京湾にかなり近いらしい。となると、選択肢はただ一つ。海が見たい。それと、浜松町の方へ歩いてゆけば、新橋を通って東京駅へ戻れる。今日は日中ダラダラしていたから、もう16時。あまりゆっくりはできないかもしれないから、どういうルートで戻るかもそれなりに頭に入れておいた。

 

駅前の通りは割と品川に似ている。人通りもそれなりにあり、人の生活を感じる。時折運河が走っていて、街に個性を添えている。まるで連なる島を一つにまとめているようだ。島によって、市街地、工場地とそれぞれの色も違う。そう思いながら歩くと、地区のかおりのようなものを感じられて楽しい。

歩きながらわかってきたことだが、ここはいわゆる「芝浦」というエリアのようだ。芝浦工業大学のキャンパスもあるし、海の方へゆけば、芝浦埠頭がある。不勉強でわからないが、落語の「芝浜」もこの辺なのかもしれない。落語の中で「朝靄」だった光景が、今日の曇天・うっすらとかかる霧とシンクロしている。大金でも落ちてないかな、なんて思いながら歩いたわけではないが、思えば、こうやって午後に内地にある家を出て、こんな海の目の前にまできているなんて、不思議な夢でも見ているかのようだ。

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潮彩橋というらしい。欄干のカモメがちょっとシュールだ。

 

子供連れで賑わう「埠頭公園」を抜け、しばらく歩くと、倉庫が立ち並んでいる界隈に来る。上空をモノレールが走り、曇天と鉄の倉庫が硬い空気を作り出している。ガードレールには所々錆がついていて、道を歩く人はほとんどいない。雑草も伸び放題である。埠頭公園のあたりに、「レインボープロムナード」はこちら、という看板があって、その方向に歩いてきたのだが、まさかこの裏寂れた道がレインボープロムナードなのだろうか。少し首を傾げつつ、浜松方面へと進む。

そうすると、倉庫の奥に、たった一人でたつ小高いビルが見えてきた。なんだろうと思っていながら歩いていたら、倉庫のある区域と、ビルの敷地のちょうど間から、海が顔をのぞかせていた。海まで行く道は封鎖されており、柵の向こう側に船着場がみえる。どうやらこのビルは、客船ターミナルのようだった。昔イタリアからギリシアまで船に乗ったこと、その時船の出港時刻に遅刻しそうになって必死に走ったこと…色々なことが頭に浮かんできた。今私は、柵のこちら側で、海を眺めている。

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ターミナルビルの前を通り過ぎると橋がかかっていた。その橋から港の様子が見えた。

新日の出橋、というその橋を渡り、私は次の「島」へと進んだ。どでかくて、閑散とした道を歩いていると、この地区にはもっと大きな客船ターミナルがあることを知った。私はそこへ行くことにした。

 

日の出の客船ターミナルは確かに大きかった。コンビニもあるし、おしゃれなレストランが何軒も連なっている。だが肝心のもの、そう、客がほとんどいなかった。昨今の様々な事情だろう。船の世界はかなり向かい風の中にあるのだと思う。しかし、ただ思いつきでこんなところにやってきたただの酔狂にとって、人のいない港というのは、案外悪くない。海の音、キィキィという桟橋の音が響いているのは、悪くない。

この天気もあるだろう。グレーの空が、海をグレーに染め上げ、靄のかかった空気が風景を優しく包む。人はほとんどいないし、いてもあまり喋らないから、海それ自体が内省的に見える。波もゆったりと、小刻みに、うちへうちへと思いを巡らしている。海を見つめる悩める人々の言葉と悲しみを吸い込みすぎたのかもしれない。

私はそんな海を眺めた。そういうと、センチメンタルぶっているみたいで嫌だが、海を前にしたら、言葉数は減ってゆき、センチメンタルも何もなくなる。思い出すことも何もなくなっている。ただ、それだけのことだ。内省的で、無口な海は、私の意識だけを飲み込んで、私はただたちすくすだけなのだ。

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我に返って海沿いを歩くと、遊歩道が見えてきた。先程より人がいる。だが面白いことに、いや、当たり前かもしれないが、どの人も皆、黙って海を見つめていた。入ってくる船、出てゆく船、おりる客、乗り込む貨物。そんな海沿いの一連のことを、ただ黙って、皆見ている。表情は不思議と明るく、にこやかに見ている。ただ海だけが内省している。

なぜ皆こうも船と海に釘付けになっているのだろうか。思えば海は不思議と自由の象徴でもある。海にいざ落ちて仕舞えば、死を覚悟するほかない。それでも海に憧れる。船に憧れる。船酔いしようがしまいが、海はどこかで自由と繋がっている気がする。それは海を見ていると、結局、自分さえその気になれば、どこにだって行ける気がしてくるからかもしれない。いつもいつも、私たちは自分が決まった場所にしか行けないかのように行動しているが、そんなことはないのだ。「いや、でも現実は…」という私たちを叱りつける言葉を、海は黙らせてしまう。

今朝、悪夢を見た。宇宙に行く三日前の夢だった。最近、自分の現状に哀しみを覚えて、ここではないどこかへ行けるから、宇宙に行くことになっていた。だが三日前、突如恐怖に襲われる。閉ざされた空間で、十年間(そう、なぜか十年間だった)、私は宇宙にいないといけない。身の回りには何もない。ただただそこで歳をとってゆく。とてつもない恐怖だった。やはり行くのはやめよう。そう、誰かに、息も絶え絶え打ち明けている時、目が覚めた。

夢の中で見た宇宙の旅は自由というよりも、恐怖と閉塞だった。むしろ通常の生活の良くない部分を増幅させたようなものだった。海の旅も、実際には、同じかもしれない。すぐには降りられないし、死の恐怖もある。それでも、私たち海と遠いところに生きる人々は、船は寄港さえすれば、そこには見知らぬ世界があり、どこにだって行けるかもしれない、と夢想してしまう。今いる場所が宇宙や現実の海の只中、あるいはアルカトラズ島のように、閉塞感があるのなら、そこから出るには夢想の海へ出かけてゆくしかない。そこまで行けば、どこへだって行けるのだから。

今、どうしたって世の中は閉塞している。どこにだって行けた時代はどこかへ行ってしまった。海を眺める目には、自由への憧憬があり、海と船には自由の香りがある。少なくとも私は、海を眺め、無口になる時だけは、海とひとり、向かい合っている時だけは、自由に触れられた気がした。

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海を眺める人たち。なぜか黙って眺めてしまう。

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だから今日、乱数が田町を指したのは、きっと私にとって「自由」と「無口」が必要だったからなのだ。そう思うと、なんだか胸の奥が揺れる気がした。

フェンシングのこと、あるいは風向

今から、私はとんでもなく無謀なことをしようとしている。

スポーツ観戦記も書いたことがないのに、昨日初めてきちんと見た競技の観戦記のようなものを書こうとしているのだ。本当ならやめた方がいいのかもしれないが、書きたくなるほど熱中したのだからしょうがない。

柔道?いや違う。スケートボード?いやそれでもない。先程金メダルを取った卓球?見ていたけれど違うのだ。実はそのスポーツはフェンシングである。

 

経緯から話そう。一昨日の夜、オリンピックの日程表を眺めて、せっかくだから何か見ようと思った。馬に何度か乗ったことがあるので、乗馬を探したが、まだ先のようだ。それでは、と思って目に止まったのがフェンシングだった。アテネ大会だったか、北京だったか忘れてしまったが、太田選手が出ているフェンシングの試合を見て、その時幼いながらも面白かった記憶があったからだ。

勇足でテレビ欄を探すとフェンシングがない。何度探して見てもない。そんなに注目されていないのだろうか。そんなモヤモヤを抱えつつ、こうなったらもう意地だ、となんとかしてフェンシングを見る方策を探していると、NHKのホームページでテレビ放映のない競技の配信も行っていることに気がついた。

私は天邪鬼を具現化したような人間なので、注目されてないのだとしたらむしろ好都合だ、世の中の人々が柔道やら卓球やらスケートボードやらに熱狂している真裏でフェンシングを楽しんでやろう、とライヴ配信を見始めた。これが、フェンシングを見始めたきっかけになった。

最初見た試合は日本代表の選手が負けてしまった。そして次に見た試合でも同じく負けてしまった。だが惨敗というほどでもなく、かなり善戦している。どちらも女子のフルーレという競技である。

その時はルールも何も全く分からない状態で見ていたが、試合の中にある緊張感に呑み込まれ、ルールも知らないのに熱狂している自分に気がついた。二人の選手が向かい合う。そして細長い剣の切先を向け合って、まるで攻撃を仕掛けるコブラのように、相手を伺い、機を掴んで、シュッと剣を前へ出す。点数が入った選手のヘルメットのランプが点灯すると、すかさず勝者は「ウワー」とか「ギャー」とか叫ぶ。点数のシステムが分からないまま、これは入ったのか、入ってないのか、どちらのランプが点灯するのかを凝視し続けた。

 

後で、試合の合間に調べたところ、フェンシングには三つの競技がある。フルーレ、エペ、そしてサーブル。フルーレは相手の胴体を剣でつけば点になり、エペは相手の体のどこをついても点になる。サーブルは腕を含めた上半身への攻撃が有効で、「つき」だけでなく、「斬り」も点数の対象になる。だから、フルーレの選手は胴体部分にセンサーのついた服を纏い、エペの選手は体全体にセンサーがついており、サーブルの選手は上着にセンサーがついている。このセンサーに剣が一定の力で攻撃を与えた場合、点数が入り、ヘルメットが点灯する仕組みとなっている。

とまあ、ここまで、自分の中で整理をつけるためにも書いてみたわけだが、これは多分、きちんとしてページで読んでいただいた方がわかりやすい。要するに、三つの競技があり、ルールも異なるということだ。

強いてイメージをいうなら、フルーレは先ほども例えたコブラの攻撃に似ている。距離を詰め、シュッと攻撃に移る、を繰り返す緊迫感がある。

エペは試合展開が早く、どこをついてもいいため、初心者が見ていると、「今点数入ったのか!」と驚くことが多い。

サーブルは、海賊である。マストの上で海賊が戦うのと同じようなフォームで、斬り合う。そして、他の二つが試合を3セット行うのに対し、サーブルはたぶん8点先取で試合が切り替わる(確証がないのは、見ながらそうかなと思っていたからだ)。どの競技も15点先取なので、サーブルは2セットのみということになる。

 

さて、私が見ていた試合は両方とも日本敗退だった。だが面白かったので、別の日本の選手の試合に切り替えた。そう、あまり注目されていないようだが、結構な数の日本人選手が出ているのだ。すると、試合の雰囲気が違うことに気がついた。

日本の選手の名前は上野優佳選手。相手はエジプトのノーラ・モハメド選手。日本の上野選手が面白いように点をとってゆく。その勝ち方も、何も知らない私が見ても美しい。私が今までみた試合とは明らかにペースが違う。そして、何より格好良かったのは、モハメド選手は他の国の選手同様、点をとるや否や「イヤーオ!」と雄叫びをあげるのに対し、無言ですぐに次の攻撃の準備をし始めるところだった。その侍のような佇まいと、素早い攻撃に私は引き込まれた。上野選手はそのまま勝ち、三回戦へと駒を進めた。

調べてみるとこの選手、ユースオリンピックで金メダルをとった人らしく、注目の選手だったらしい。通りで強いわけだ。そう思いながら、第三回戦をつける。相手はアメリカのロス選手。どんな試合になるのだろう、とぼんやり思っているうちに上野選手はガンガン攻めて点数をものにしてゆく。途中でロスも取り返しにかかったところもあったが、最終的に上野選手の勝利で終わる。彼女は完全にその場をものにしていた。

三回戦に勝ったということは、その次は準々決勝である。なんの気無しに見ていた、あまり注目されていなそうなスポーツでここまで勝ち上がっている。ちょっとした興奮を感じながら、私は準々決勝を待った。

 

準々決勝の相手はリー・キーファー選手。国籍はまたもアメリカ。こんな紹介の仕方しかできなくて大変申し訳ないのだが、どちらかというと華奢でスタイルがいい。

私は若干たかを括っていた。今までの試合を見る限り、上野選手はどう考えても最強だった。素早く切り込み、攻撃できない時は相手のスキを探し出し、そこをすっとつく。だから、またやってくれる。なんなら金メダルとってしまうのではないか。そうしたら、フェンシングの放映権を野放しにしていた大手テレビ局も一泡吹くだろう。

だが、試合が始まると、キーファー選手は全く今までの相手と異なっていた。

開始数秒で、いきなり点数を取ると、立て続けに得点をものにしてゆく。もちろん、上野選手も取り返す。だがスピードが違うのだ。上野選手はまったくもって問題なく、今まで通り点数を取りに行っている。だがその倍のスピードでキーファー選手が点をとってゆく。上野選手が無言で点を奪うと、キーファー選手はひらりひらりと立て続けに点を奪い、「キャー」といとも楽しそうな雄叫びをあげ、飛び上がる。そんな展開が続き、フルーレの試合の3セットのうち、1セットと少しで、キーファー選手は15点を先取。11点も取っていた上野選手が負けてしまった。こんな試合は初めて見た気がする。

その後、このキーファー選手は金メダルを獲得したらしいが、そりゃそうだ、そうじゃなくっちゃ困る、と思ったものだ。あのスピードに勝てる誰かがいるとは思えなかった。

 

スポーツの試合はいかに場を掴むかにかかっているようだ。怒涛のようにフェンシングを見続けてわかったことだ。特に印象に残った上野選手の話だけをしたが、他の選手、他の試合もそうだった。

試合には風向きがある。風向きが良ければパフォーマンスを十分に発揮できるし、頭も回って、勝つための一手を仕掛けることもできる。ところが風向きが悪いと全てが裏目に出る。そして、その風向きがどちらを向くかは、その場を支配した選手にかかっている。場を支配できれば、風向きも変わる。本当は違うのかもしれないが、スポーツといったものにあまり縁のない私が外から見ていると、そう思えてならない。

今日、日本の男子フルーレの敷枝選手が準決勝まで進んだ。ところが、その先の風向きはよくなかった。敷枝選手も、私の好きな「雄叫びあげない系」フェンサーだったので、熱を入れて応援していたのだが、準決勝は全くと言っていいほどうまく行かなかった。今までなら入っていた切先がそれ、今までなら見せなかったスキが露呈した。3位決定戦でも悪い風を払拭できず、4位という結果となった。結果自体はありえないくらい素晴らしいものだ。だが、試合展開は見ている私もぶっ倒れそうになるものだった。

風を操れるかどうか。そのための一手を繰り出せるかどうか。それは難しいことだ。だが不可能ではない。その後見た卓球の試合では、明らかに悪い風向きでスタートした試合で、日本人ペアは風向きを変えることに成功していた。最後、風向きがまた悪い方に傾き始めたが、休憩を経ると、すっかり元通りにしてみせた。ひょっとすると休憩が大事だったのかもしれない。思えば、フェンシングで負けてしまった選手は、休憩に入る前に追い込まれ、休憩後に追い上げたが、一歩足りなかった、ということが多かったように思う。生きていく上でも、ガーっとある方向だけを見ざるを得ない状況では、風向きがどんどん悪くなることが多い。視野を広げるには休憩時間が必要なのだ。

 

などと、話を無理やり広げることで、自分の無知をカバーしようとして見たが、やっぱりルールなどきちんと知りたい。今回は配信だけで、実況もほぼないに等しかったから、全くの無の状態で見てしまった。これも面白かったけど、次のパリではもっとわかった状態で楽しめるだろうか。

大丈夫だ。上野選手も敷枝選手もまだ若い、きっと三年後にはとんでもないことになっている。注目も集まるだろう。そうなったら、私はあいも変わらず何も知らない状態だったとしても、こう言ってやろうと思う。「ほら、フェンシング面白いって三年前に行ったじゃないか!」と。

 

いや待てよ。今年も日本チームのフェンシングの日程は終わっていない。まだチャンスはあるぞ。

オリンピックが始まった

先日、オリンピックが始まった。私にとっては初めての東京オリンピックである。いや、実を言えば、自国開催のオリンピック自体が、物心ついてから初めてだ。

私はオリンピックの開会式というものが好きで、毎回見るようにしている。ただ、確か前回のリオデジャネイロオリンピックは見れなかったと思う。

あの時は、ちょうど、カナダのモントリオールに語学研修で行っていて、ボウリング大会をしていた。ちらっと会場のモニターで見た気はするのだが、そこまできちんとは見ていなかった。自分のボウリングスキルの予想外のあまりの低さに打ちのめされるのに忙しかったのだ。

実は日本でオリンピックを見るのは久々である。リオ大会は今言ったようにカナダだった。ロンドン大会も、語学研修で、ロンドンの目と鼻の先、アスコットにいた。だが、交通規制がどうの、ということで、試合を生で見ることはなかった。その前の北京のときは、家族旅行でこれまたロンドンにいた。

すると、日本で、日本国内の熱狂と話題の渦中の中でオリンピックを見ているのは、その前のアテネ以来ということになる。自分でもちょっとびっくりする。三年後はどこにいるのだろう。フランスにいたら展開として面白いので、うっすらと計画している。

 

さて、開会式である。

今回の開会式は、(ひょっとすると見ていない前回大会もそうなのかもしれないけれど)なんだか途中で組織委員会のプロモーションビデオのようなものが挟まって、統一感がないようだった。開会式を一つのエンターテイメント作品として押し出すというよりは、いくつかの作品群というような感じがして、現代的と言えば現代的、だがもう少し緩やかな流れのようなものを見たいように感じた。もしかすると、この感想は実は間違っているのかもしれない。だが、そう思ってしまったということは事実なので、そのように書いておこうと思う。

ただ、テーマとしての「多様性と調和」というものは、見せようとしているように感じる(感じさせるのではなく、見せようとしている点が、むしろ断片的に見えてしまった一つの理由かもしれない)。問題は、その多様性があまり多様ではなく見えてしまう瞬間が結構あったことだ。

例えば、あれだけの国の人々を集めている中で、日本の子供達の歌声をアジア大陸代表と言ってしまうのはどうだろう。オリンピックの旗は五つの輪でできているが、それに囚われすぎる必要はないし、囚われれば多様性が見えなくなりそうだ。いっそのこと、参加国・地域全ての子供たちの歌声を、それぞれの尺は少なくなったとしても、届けることができれば良いのに、と思ってしまった。

だが、大工が登場するパフォーマンスで演じられた多様性と調和は、私はなかなか好きであった。最初に町火消しと大工が登場し、何か作業を始める。私たちはそれを見て、「これはいったいなんなんだろう」と思って見ている。するとリズムがあってきて、ダンスパフォーマンスへとつながる。あれは自然と入り込んでゆけて、私にとってはとても心を掴まれるものがあった。

 

さて話は変わるが(内容が断片的だったために、感想も断片的になる)、日本的なるものを、演出上でどのように表現するか、という点も興味深かった。町火消しや大工、選手入場の際のゲーム音楽、漫画の吹き出しのような国名プレート、入場が五十音順になっていること、そして歌舞伎界を象徴する市川海老蔵の起用…と色々出てきたわけだが、どれも、いわゆる日本すぎて、大きく頷けるような日本らしさは逆にない。

私が見ていた中で、「これは日本をうまく表現している」とおもえたのは別のものだった。それは、ピクトグラムの実演だ。仮装大会みたいな手法で、時に「うまく考えたな」という角度から、ピクトグラムを見事に再現してゆく。なぜかはわからないが、日本らしさがあそこにはあった。日本が常連となっているイグノーベル賞にも通じるのかもしれないが、地味でどうでもよさそうなことに知恵と工夫を注ぎ込んでゆくところに、その「日本らしさ」があったのかもしれなかった。

ロンドンオリンピックの際、開会式・閉会式はさまざまな英国の顔が散りばめられていた。歴史にせよ、007、ミスター・ビーン、モンティパイソン、ビートルズ、クイーンなどの文化的なものにせよ。今回の東京の開会式は、そこまで日本の顔を押し出すことはなかったように思う。ひょっとすると、英国ほどの自信がまだないのかもしれない。それでも間違いなくあのピクトグラムのパフォーマンスには、日本の香りが漂っていたのである。

 

とはいえ、私は開会式の華は選手入場だと思う。各国の選手たちがそれぞれの衣装で登場する。今回印象的だったのは、みんななんだか自由だったところだ。カメラに駆け寄ってくる選手、ダンスする選手、飛び跳ねる選手たち。衣装も、かっちりしたものだけでなく、ジャージのような格好、普通の観光客のような装いも見えた。もちろん民族衣装の人もいて、見ていてすごく華やかだ。

そうなのである。結局のところ、多様性は誰かが作ったパフォーマンスで探さなくても、選手入場の中にある。そこには対立する国もいるし、難民もいるし、あるいは組織的ドーピングで問題になってしまった国もいる。この世界には、7月23日の国立競技場内以上の多様性が本当はあって、あの選手入場なんて、その一部だ。だけど、それでも、そうした多様性の一部がテレビを通じて人々の目の前に一挙に現れるのは壮観である。

 

色々な声があり、それぞれ理を持っていて、皮肉や文句を言う人にも正当性がある。だが、今年ほど、オリンピックが必要な年もそうそうないものだ、と私は思っている。

 

コロナの蔓延はもちろんのこと、よく言われるように、私たちは「分断」の時代の最中にいる。かつてある哲学者が、人々の意見が相違するのは当然であって、それが多様性なのだから、「分断」は問題ないことだという旨のことを言っていた。私は違うと思う。分断は、人々の意見が食い違うことではない。食い違った意見が内輪ウケだけで成立している状況だ。

あまりリアルな話をすると生々しくって嫌なので、ある国が犬派と猫派に分断されているとする。犬派は猫派が何を言おうと、犬の方が可愛いと思っていて、猫が好きなのはバカだけだから相手にするなという。そして、逆もまた然りの状況にある。これが分断であり、現代社会を眺めてみるとしょっちゅう目にする。厄介なのは、相手の意見がゴミ同然として扱われることだ。相手はもはや同じ人として認められてないんじゃないかと思う。そしてグループ内は一種の集団催眠状態で、自分たちの意見の正しさを疑うこともない。疑うべき点が出てきたら、真っ先に隠す。

多様性を語ること自体が、そうしたグループの一つになってしまいかねない状況すらある。「犬も猫もいいよね派」というものが出来てしまうと、その派閥内では「犬派」や「猫派」自体が「時代遅れの」「守旧派」だ、なんて槍玉に挙げられる。どの意見も皆、それぞれの仲良しグループ内のものと化してしまう。とかく論破や中傷や冷笑がもてはやされる。敵対する相手の言葉の奥にあるかもしれない真実すら探そうともしないで、攻撃だけを美徳とする。

そんなにっちもさっちも行かない現状が続く中で、コロナが流行ってしまった。その結果として、分断はますます広がっているように思う。

まず、国同士が物理的に分断され、精神的にもかなり遠いものになっている。外国という、自分たちと異質なものに、元から私たちは警戒感を抱きがちがだったが、その警戒感に、科学と医学のお墨付きがついてしまった。

元から忌避していたものへの風当たりの強さは、夜の街や酒などにまで広がっている。あるいは、デモや反政府運動、自分たちとは違う宗教や民族的背景を持つ人たち、生まれたての民主的政権にまでも。

 

今こそ、やっぱり、休戦が必要なのだ。そしてより大事なのは、相手を相手として認めることだ。それを理念として掲げ続けているのがオリンピックである。今やカネと国の威信にまみれているという批判はもっともであるが、理念は理念のまま、私は一つ信じて見たいように思う。というのも、選手たちはスタジアムで戦い、最後には握手をするからだ。それがスポーツマンシップであり、そこには分断は認められないからだ。

握手すら、ままならない時代だ。そんな時にこそ、これだけさまざまな国と地域の様々な背景を持つ人々が集うことに意味があるし、どうせもう歴史に刻まれてしまうのだから、何か意味のある大会にしていく責任が開催側にはある。いつまで続くかわからないコロナウイルスと分断という二つの病、精神と身体を蝕む感染症に、それぞれどのように立ち向かうのか、そのメッセージを投げかけるチャンスである。

 

今回のオリンピックのテレビ中継を見ていてとてもいいなと思うことがある。それは日本だけでなく、色々な国のことが話に出て、アスリート全員に向けられた応援の言葉も時折聞かれることだ。

昔は、日本のメダルばかり気にしている風があったり、選手が「金メダルを取ります」という宣言さえさせられている場面もあったりして、とても気味が悪かったから、今のやり方のほうがいいと思う。

私も、自分が何度か行って、情が写ってきているヴェトナムやトルコなども精一杯応援しようと思う。

どちらの国も、今のところ試合で見かけていないのだが…。

短文:ドミトリー

私はドミトリーというものがあまり好きではない。

そういう風に堂々と言えるようになったのもわりと最近のことである。

 

ドミトリーというのは、安宿の一種で、二段ベッドのようなものが一部屋に並んだ作りをしている。バックパッカーといえばドミトリーに泊まるということになっており、旅人の交流の場にもなっている。

私はパックツアーの類や、ガラガラとスーツケースを引く類の旅よりも、リュックサックだけ背負って、自分の足で歩く旅に憧れを抱いていた。沢木耕太郎にも憧れた。だから、ドミトリーが好きではない、ということ自体がなんらかの甘えというか、弱みのように思えてならなかった。そう言った恥ずかしさがある。ドミトリーを渡り歩く人への憧れもなくもない。

 

だが、やっぱりどうも性に合わないのだ。

1人でいるのが好きだ、とまでは言わない。だけど、1人でいる時間が一番ちょうどいい自分でいられる。ドミトリーというのは、共同生活が強すぎる。

例えば出かける時は、ある程度荷物に気をつけておかないといけないし、シャワーを浴びる時も同様だ。それに部屋の中にいても、人の目があるとなんとなく落ち着かず、話しかけたりしなきゃいけないんじゃないかとそわそわしてしまう。そもそも見知らぬ人が帰ってくる部屋で寝ているのもなんとなく苦手のようだ。

正直、そんなにドミトリーを使ったことがあるわけではない。だが、あの場にいて、直感的に、ここは落ち着けないなと、そう思ってしまったのだ。だから、はじめは青く淡い憧れを抱いていたドミトリーを、私はほとんど使わなくなった。

 

もう少し積極的な理由もある。

どうやら私は安い個室が好きみたいなのだ。狭くても構わない。だが数日間だけ、その小さな部屋が私の家になる。買ってきたものを並べたり、持ってきたものを並べたり、リュックの収納場所を決めたりする。

そして、ちょっと妙かも知らないけれど、そんな個室から外に出かける時、鍵をガシャっとかける瞬間が好きでたまらない。理由はわからないし、意味づけもできないのだが、なぜだか、そのガシャッが好きである。そして鍵をポケットに入れるにせよ、フロントに預けるにせよ、なんだがその街の立派な住人になったような気がするのだ。

大きくて豪華すぎると、ホテル感が強いので、安い部屋が良い。だが清潔感もそこそこあってほしいし、シャワーくらいはついていてほしい。テレビもだ。それは多分、街に住んでいることの象徴のような物品たちなのだろう。

 

そしてこれが私の旅のスタイルなのだ。

旅が自分と向き合う時間であるなら、スタイルも自分に合ったものを模索するのが大事だ。そう思えるようになったから、私は堂々とドミトリーよりも個室の部屋がいいと言えるようになったのかもしれない。自分と向き合い、話し合うことが大事だと気付いたから。

短文:新宿の猫

数ヶ月ぶりにTwitterを使い始めたら、世の中を騒がしていたのは巨大な猫だった。化け猫の類ではない。立体的な広告だそうだ。

それはどうやら新宿のビルの掲示板のようなところに出現しているらしい。評判も上々で、迫力があるという。

新宿方面に行く予定は結構あるのだが、最近ほとんど新宿で降りることがない。ピンポイントで新宿に降りる予定がないというのもそうだし、やっぱり、昨今の事情で飲み食いをしに行かなくなったというのも大きい。

だから、猫を見てみたければ降りればいいのだけれど、なかなか降りようという決心も湧かない。夜は早く家に帰って食事を済ませてしまいたいし、多分朝は忙しい。

そういうわけで、時々、帰りの電車から見えないものかと新宿の街を見ている。だが、どうも電車からは見えないようで、見当たらない。そもそも、詳しく調べたわけではないので、東口なのか西口なのか、はたまた南口なのかすら分かっていない。

そもそも猫なんてそんなもんじゃないか。どこにいるかなんてわかるもんじゃない。どっしり構えてると思えばすぐにどこか行く。

などと言いつつも、猫、見てみたいなあと思いながら、先程Twitterを眺めていたら、東口らしいということがわかった。目をこらしたら見えるだろうか。いや、降りればいいのだが、ここまできたらもう少し頑張ってみたくもなる。

まだ私の中で新宿の猫は生死も存在もわからない。はてさて、私は猫が存在しているうちに、猫を見つけることができるのか。それはひょっとすると確率次第。気分はニールス・ボーアである。

湯島聖堂に入る、また楽しからずや

今年の春だったか、フランスの国立行政学院、通称ENAが廃止になるというニュースがあった。

フランスといえば、「自由、平等、博愛」。その建前はもちろん生きているとはいえ、フランスの政治の中心は、ENAを出たエリートがほとんどで、そこに批判が集まっていたのだという。

これは多分とこにでも言えることで、英国だと、オックスブリッジといわれる、オックスフォードとケンブリッジの両大学群からの出身者がエリートだし、日本だとやはり東大が強いのだと思う。

 

こんな前置きをしたのは、江戸時代にもそういう学校があったという話をするためである。なんとなれば、空が青く、影が黒い、この猛暑の中の今日、その跡地に行ってきたからだ。先週行こうと思ったら、閉門時間だった「湯島聖堂」である。

学校としての名前は、「昌平坂学問所」とか、「昌平黌」とかいう。教えていたのはいわゆる「儒学」。中国の春秋戦国時代に活躍した孔子が始めた学問だ。だけど、幕府がこの学校で教えさせていたのは実はその儒学の発展形態である「朱子学」がメインだった。これは、中国の宋の時代、日本で言えば平安末期〜鎌倉時代くらい、だから今から九百年ほど前に朱熹という人物が始めた学問である。

まあ難しいことは置いておいて、そんな、エリート専門学校が今のお茶の水にあったのだ。そして今見れるのは、そんな学校の敷地内にある「孔子廟」と呼ばれる施設である。

私にとって「孔子廟」というと、ヴェトナムで二度行ったヴァン・ミエウ(文廟)という史跡だ。そこも同じくエリートのための学校にもなっていて、当時のヴェトナムの国家公務員試験にあたる「科挙」合格者一覧が掘り込まれた記念碑なども置かれていた。

だから孔子廟というのは、孔子を祀る場所でもあるし、勉強の場でもあるわけだ。ひょっとすると、孔子のご利益を狙っている一面もあるのかもしれない。でも、孔子本人はあまり「鬼神」と呼ばれる超自然的なものについて語らず、敬遠していたから、孔子廟という存在自体、本人からすると、どう見えるのだろう。まあ、なんだかんだ言って全部ご利益の対象にしてしまうのが、人間の愚かさ、浅はかさでもあり、同時に、人間臭さ、憎めなさでもある。

 

御茶ノ水駅から日本医科歯科大学の方へ向かう。どうやら、昌平坂学問所の敷地は今の日本医科歯科大学の方まであったという。だから今の湯島聖堂を見て、「案外ちっちゃいな」と思ってはいけない。そのように書いているということは、そう思ってしまったからである。反省である。

お茶の水から秋葉原方面にはぐーっと下り坂があり、「相生坂」というらしい。これは「昌平坂」ともいい、これが学問所の名前になっている。ちなみに昌平というのは、孔子の故郷の名前らしい。実際に歩いてみると、照り返しがすごい。隣には湯島聖堂の塀が立っており、日差しを遮るものは何もない。通学する人は大変だったろうなと思う。

正門のところにある「仰高門」を抜けると、いきなり木が鬱蒼と茂っている。暑い日にはありがたい。ありがたいが、イメージしていたものとは違う、森のような茂り方にびっくりしてしまう。そう思いながらしばらく歩くと、唐突に右手に巨像が現れた。

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仰高門

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鬱蒼としている

 

像の正体は孔子の像だった。日本のものというよりも、中国の顔立ちで、当時からあったのかなと訝しみつつ説明を読むと、どうやら戦後になってから台北から送られたらしい。それも、孔子像としては世界最大だそうだ。世界最大がこんな木々の中に隠れてるとは誰も思うまい。

鬱蒼としげる木々と巨大な孔子像、そして人気のない静けさは、学問所跡というより、神聖な場所の雰囲気を醸し出している。私は一呼吸すると、高台へと登る道を行くことにした。

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孔子像。木が顔にかかってしまっている。

 

高台には門がもう一つあった。「入徳門」というらしい。なかなか立派な門で、風格がある。だがまず目につくのはその変わった構造である。屋根の端から雨樋のような形の柱が2本降りている。中国の作りなのだろうか。どうも台湾でも、ヴェトナムでも、韓国でも、そして日本でも見たことがない形状のようだ(忘れているだけかもしれないけど)。 

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面白い形の入徳門

入徳門を抜けると、さらに階段がある。ヴェトナムの文廟はすごく平たかったイメージがあるが、そういえば、台北蒋介石孫文の廟は必ず高台が待っていた。特に蒋介石のものは長くて白い階段があって、照り返しで目がチカチカした。今日も日差しがすごいが、階段自体の色が渋めなので、安心して登れる。

登った先にはもう一つ門がある。「杏壇門」というらしい。何やら受付のようなものがあり、受付の人がいる。入場料は取らないと思っていたので、おっかなびっくり、受付のない正面の入り口から入った。何も言われないし、大丈夫そうだ。

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杏壇門

杏壇門の中にはいると、前庭がある。大成殿と呼ばれる孔子廟本体と門との間の吹き抜けの開けた空間だ。そこには何やらクリスタルのような、透明なオブジェが、日差しを受けて輝きながら、いくつか置かれていた。明らかに場違いなので、不思議だなあ、と思ってあたりを見回すと、東京ビエンナーレという芸術祭の一部らしい。受付もそのためのもののようだ。

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大成殿。昔はここで博覧会もやったらしい。

ともかく、私は孔子廟の方へと歩いた。二百円払うことで中を見せてもらえるらしい。見ない手はないので、二百円を握りしめて中に入った。

 

入って向かって右側に受付のようなものがあるが、係の人が見当たらない。どうしようかと思うと、机の下に係の人がかがみ込んでいるだけだった。何やらお香のようなものに火をつけようとしている。それをじーっと見つめているのも迷惑だろうから、

「すみません…こんにちは」

とおっかなびっくり声をかけ、お金を払って、案内の紙だけもらった。

中は四角く、がらんとしているが、中国の寺院の典型的な形をしている。つまり、真ん中奥にメインで祀られる祠があって、その周りに別の祠がある。中心には食べ物が並べられている。お供物にあたるものだ。お供物にもいろいろあるらしく、説明が書かれていた。

四方の壁には孔子の弟子を描いた絵が掲げられていた。元々あった絵を再現して描いたという。狩野派などが描いだ講師にまつわる絵も展示されており、孔子だけでなく、儒学に関わるさまざまな人々もまたここに祀られているようだった。その空間は、もはやご利益重視というより、彼らに見守られている感覚の方が強かった。あまり奥まで入ってくる人もいないようで、静かだったことも相まって、である。

 

この昌平坂学問所湯島聖堂とゆかりの深い一族として、林家がある。廟内にも歴代当主の系譜図が描かれていた。初代林羅山は若い頃は徳川家康のブレーンであり、その後、江戸時代になって、孔子廟を建てた。それから林家は徳川家の御用学者になってゆき、昌平坂学問所学頭を代々勤めることになる。そうすると、なにやら伝統的な古臭い学問をしていたと思われがちだが、歴史上、意外なところで林家が登場することがある。

例えば、林大学頭復斎(11代目当主)はペリー来航の際、ペリーと日米和親条約締結のための交渉を行う特命全権大使だった。ペリー来航というと、日本に黒船が来て、大砲で脅しつけ、幕府は怯えて開国した、とされることが多いが、これは少々間違った見解だと思う。林復斎はペリーの要求に対して毅然と挑んだという記録がある。実物を見たわけではないが、それを元にその時の外交交渉を書いた本を読んでいると、気持ちいくらいズバズバと林がペリーを論破してゆく姿が見て取れる。話の主導権は完全に復斎が握ったまま交渉が進むのだ。だんだんペリーが可哀想になるほどである。

ペリーは生粋の軍人で、林は学者だから、仕方ないといえば仕方ないのだが、それは儒学、あるいは林家が専門としていた朱子学が論理性を重視していた、ということでもある。そして、幕府も、そのような人物にペリーの応接を任せる、という判断に誤まりがなかったのだろう。この復斎は甥っ子も、それぞれ外国奉行になっているので、古い学問の牙城の林家、とはいえ、外交にもその手腕を発揮していた。

 

そんなことに思いを巡らしつつ、孔子廟を後にする。係の人はまたお香を炊こうとしていたので、そっと離れようとすると、

「ありがとうございました」

と声をかけてくれた。これは孔子廟の前で礼を逸してしまったな、と恥ずかしくなりながら、

「ありがとうございました」

と外に出た。相変わらず日差しは強い。空も青い。だけど、こういう静けさのある廟があり、木が生い茂っているから、なんとなく気分はすーっと落ち着いている。なかなかいい場所を見つけたかもしれない。

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