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旅、映画、食べ物、哲学?

心の音楽〜「神様メール」〜

「神が愛であふれたお方なら、なぜ世界は苦しみに溢れているのか?」

そんな問いがキリスト教が浸透したヨーロッパで強く問い直されるようになったのは1755年に起こったリスボン大震災のときからだったという。

ベルギー映画「神様メール(Le Tout Nouveau Testament)」は、そんな問いを根本的に解決する。そもそも神はみんな思っているような愛に溢れた存在ではなく、ひねくれていて、暇つぶしで人間に苦痛を与え続けている、と。

劇中で神は、「隣の列は早く進む」とか、「ジャムを塗ったパンはジャム側を下にして落ちる」とか、「一生に一度の恋に落ちた人は、大抵その人と結ばれない」などといった、「あるある」な感じの苦痛の法則を何千個も作ってはほくそ笑む。そして下界の神父にはこう言ってみせる。「隣人を愛せ? そんなこと俺は言ってない。あれは息子の口から出まかせだ。俺が言うとしたら、隣人を憎め、だ」

 

この映画の主人公はエアという女の子。彼女は神の娘である。兄はJCといい、言わずとしてたイエス・キリストだ。母親は「女神」と言われるが、ぼんやりとしていて、刺繍と野球のブロマイド集めだけが趣味だが、子供からは慕われている。父なる神は先ほど言ったようにとんでもないやつで、書斎の閉じこもって下界に災厄を楽しそうに与えているは、娘に暴力を振るうは、妻も蔑ろにするはで、とにかくひん曲がっている。彼らはブリュッセルにある汚いアパート(=天界)に住んでいる。エアは父が下界にしていることを知り、下界への家出を決意する。

エアは兄イエスのアドバイスをもらい、父の書斎に侵入、全人類に余命を通達するメールを送信して、全宇宙を統べるパソコンを壊す。それから洗濯機を通じて下界へとおり、人々を救う「新・新約聖書(le Tout Nouveau Testament:「マジで新しい契約」)」を作るべく、六人の使徒を探す。なぜ六人か。それはイエスの十二人の弟子と合わせて十八人、母なる女神の好きな野球チームと同じ人数にするためだ(あれ?9人では?と思ったが詳しくないのでちょっとわからない)。

一方、下界では大騒ぎだ。はじめは余命メールを信じない人もいたが、余命通りに人が死んでいくため、もはや争うことができない。今まで通りに日々を生きようとする人、仕事を辞める人、今までは諦めていたことをやってみようと奮い立つ人、自分には余命があるのだからと危ないチャレンジを繰り返す人…。人生の終わりを突きつけられた人々は様々な選択をした。

これを見て神は激怒。天のテレビでは様々な紛争がストップしている様子が報じられている。余命という人々の弱みを自分がもう既に握っていないこと、人々がいろいろなことを諦めなくなってしまったことに焦る神は、エアを追って下界へと向かう。

 

この神の描写はとても面白い。JCからは「パパはパソコンがないと何もできない」と言われるが、本当にその通りなのである。例えば下界に降りてから自分の作った苦痛の法則に翻弄されっぱなしでもある。そして、エアが、兄の故事を踏まえてか、水の上を歩くシーンでは、神はエアを追おうとするが、結局水に沈んでしまう。「え、こんな描き方して大丈夫?」というシーンの連続である。完全にコミックリリーフに徹しているか、そうでなければヒール役として登場するのである。言ってしまえば、日本のバイキンマンロケット団みたいな役だ。

注意深く見ると、実はエアも「神」と呼び続けるこの男が「本当の」神なのかもわからない。例えば暇すぎて自分の名の元に人類に戦争をさせる、というシーンでは、「神のために(pour le Dieu)」「アッラーのために(pour Allah)」といった言い方の後に、「バアルのために(pour Ba'al)」が出てくるが、神やアッラーが同じ「唯一の神」を表している一方で、「バアル」というのは古代シリアの神々の中で一番偉いとされる神の名前だ。するとこれはちょっとおかしいのである。奇跡も起こせないし、最後には天界に帰ることすらできない。これは何なのだろうか。

おそらくだが、この作品には、実は「本来の」神が別にいるのだ。というのも、最後にその人物が全宇宙を管理するパソコンを再起動するとき、父である「神」には一言も喋らなかったパソコンが「またお会いできて嬉しいです」と述べるからである。おそらくその人物(というか神)が「本当」の神なのだが、その辺りは作品をご覧いただきたいと思う。

 

さて、エアは下界で使徒を獲得してゆく。まず、使徒にはカウントされないのだが、下界での父親代わり兼聖書執筆者としてホームレスのヴィクトル。彼は最初は面倒がりながらもエアと優しく行動を共にし、識字障害だが、綴りに不安を覚えながらも聖書を書き記してゆく。また、おそらく無実の罪で受刑者となった過去がある。

次に、第一の使徒、オレリー。彼女は幼少期に左腕を失い、美しい容姿ではあるが、常に悲しみと寂しさをたたえている。子供の頃にホームレスに言われた「世界はスケート場のようなもので、たくさんの人が滑って転ぶ」という言葉が耳から離れない。

第二の使徒はジャン=クロード。彼は幼い頃冒険家に憧れていたが、今では「くそな」仕事、大手スーパーの数字を扱う部門の管理職につき、満たされない日々と送っており、余命宣告メールと同時に会社にも家にも帰らずに公園で寝泊まりしている。

第三の使徒はマルク。彼は自身を「性的妄想者」と呼び、性欲を持て余し続けている。そのきっかけとなったのは、スペインの海岸で出会った美しいドイツ人少女だったが、再会を果たしてはいなかった。

第四の使徒はフランソワ。彼は幼少期から「死」に執着しており、虫や、いとこのペットを殺すこともあったため、自分を「殺し屋」だと認識している。余命宣告メールの件以降、銃を購入し、公園をゆく人に銃口を向けている。もし射って殺しても、それは運命のせいで自分のせいではないという感覚に溺れながら。

第五の使徒はマルティーヌ。中年の彼女は、幼少期にはロマンスに憧れていたが、今では夫との冷め切った関係に満たされない思いを抱きながら、ブランド品や美容健康にお金を費やしているが、それでも心は晴れない。

第六の使徒はウィリー。彼はまだ少年だが、体が弱く、母親や医者の過保護な視線に嫌気を感じている。余命宣告メールを期に、女の子になると言い出し、ドレスを来て生活している。

エアは彼らの胸に耳を当て、それぞれの人の持つ「心の音楽」を聞き当ててゆく。そのとき、彼らは救いを手に入れてゆくことになる。

 

この「心の音楽」はこの映画の一つのテーマであると思う。

旧約聖書ユダヤの民に乳と蜜の流れる土地を約束し、戒律を与えた。新約聖書はすべての人を愛することを人々に求め、天の国の到来を約束した。クルアーンは人々に神に感謝し、賛美することと、貧しく地上では救われない人々を助けて、「平和の家」を築くことを求め、美しい天の楽園を約束した。

それでは、「マジで新しい契約」は何を人々に約束し、求めるのか。それは「心の音楽」に気づくことではないか。つまり、今までの約束は人々への奉仕を求めてきたが、「今回」は自分を大切にすることを教えているといえる。もっと自由に、自分の胸の内にある音楽を聴くこと。それは一番難しいことなのかもしれない。だが、自分の音楽に気づいたとき、人は自分のもつ可能性に気づく。

ジャン=クロードは自分の中に流れる「鳥のさえずり(ラモー)」に気づき、鳥たちと心を通わせ、自由に旅立つ。ウィリーは自分の中に流れる「海(C. トレネ)」に気づき、魚の歌を聞いて、海へと向かう。自分の心の奥底を流れる音楽の前に、種の違いは関係ない。マルティーヌはサーカスの音楽(「剣闘士の入場(フュシック)」)を通して、ゴリラと恋に落ちる。愛を知らなかった「殺し屋」フランソワはオレリーと恋に落ちる。マルクも自分の音楽で「声」の仕事につき、初恋の少女と巡り合う。

心の音楽はおそらく誰にでもあるもので、人と人、いや、人とありとあらゆるものとを引き合わせ、自分の調子を作り上げているが、多くの場合、聞こえなくなっているのかもしれない。エアはそんな音楽を聴くことができる。それがそのまま、エアの見せる奇跡なのだ。

 

この「心の音楽」は、作品全体の作りにも関わっている。

劇中では、聖書に則り、途中で、「創世記」などの章題が登場する。「創世記」「出エジプト記(l'Exode:原義は「出る」なのでここではエアの「家出」)」ときて、六人それぞれの使徒の「福音書」が続き、最後に「雅歌」がくる。「雅歌」は旧約聖書の中にある、他の内容とは一転して、ラヴソング集である。キリスト教では、キリストと教会の間の愛を歌った歌だと考えられている。

最後に「愛の歌」が集まった「雅歌」が現れるのはきっと、人々の心の音楽が開かれること、そして、映画最後で現れる、愛に満ち溢れた世界の「再起動」を表現してのことである。聖書的な世界観と「心の音楽」はこの最後の章題を「雅歌」にすることで、映画のクライマックスとして結実する。

 

だがそんな小難しく考えなくたってこの映画のメッセージははっきりしている。

そう、私の心の音楽は何だろうか? そしてあなたの心の音楽は何だろうか? 耳をすませて聴いてみよう。そのとき、自分に気づくだろう。メールで伝えられた余命宣告のように、自分の音楽が手元に聞こえてくるだろう。奇跡はきっとそこにあるのだ。