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旅、映画、食べ物、哲学?

湯島聖堂に入る、また楽しからずや

今年の春だったか、フランスの国立行政学院、通称ENAが廃止になるというニュースがあった。

フランスといえば、「自由、平等、博愛」。その建前はもちろん生きているとはいえ、フランスの政治の中心は、ENAを出たエリートがほとんどで、そこに批判が集まっていたのだという。

これは多分とこにでも言えることで、英国だと、オックスブリッジといわれる、オックスフォードとケンブリッジの両大学群からの出身者がエリートだし、日本だとやはり東大が強いのだと思う。

 

こんな前置きをしたのは、江戸時代にもそういう学校があったという話をするためである。なんとなれば、空が青く、影が黒い、この猛暑の中の今日、その跡地に行ってきたからだ。先週行こうと思ったら、閉門時間だった「湯島聖堂」である。

学校としての名前は、「昌平坂学問所」とか、「昌平黌」とかいう。教えていたのはいわゆる「儒学」。中国の春秋戦国時代に活躍した孔子が始めた学問だ。だけど、幕府がこの学校で教えさせていたのは実はその儒学の発展形態である「朱子学」がメインだった。これは、中国の宋の時代、日本で言えば平安末期〜鎌倉時代くらい、だから今から九百年ほど前に朱熹という人物が始めた学問である。

まあ難しいことは置いておいて、そんな、エリート専門学校が今のお茶の水にあったのだ。そして今見れるのは、そんな学校の敷地内にある「孔子廟」と呼ばれる施設である。

私にとって「孔子廟」というと、ヴェトナムで二度行ったヴァン・ミエウ(文廟)という史跡だ。そこも同じくエリートのための学校にもなっていて、当時のヴェトナムの国家公務員試験にあたる「科挙」合格者一覧が掘り込まれた記念碑なども置かれていた。

だから孔子廟というのは、孔子を祀る場所でもあるし、勉強の場でもあるわけだ。ひょっとすると、孔子のご利益を狙っている一面もあるのかもしれない。でも、孔子本人はあまり「鬼神」と呼ばれる超自然的なものについて語らず、敬遠していたから、孔子廟という存在自体、本人からすると、どう見えるのだろう。まあ、なんだかんだ言って全部ご利益の対象にしてしまうのが、人間の愚かさ、浅はかさでもあり、同時に、人間臭さ、憎めなさでもある。

 

御茶ノ水駅から日本医科歯科大学の方へ向かう。どうやら、昌平坂学問所の敷地は今の日本医科歯科大学の方まであったという。だから今の湯島聖堂を見て、「案外ちっちゃいな」と思ってはいけない。そのように書いているということは、そう思ってしまったからである。反省である。

お茶の水から秋葉原方面にはぐーっと下り坂があり、「相生坂」というらしい。これは「昌平坂」ともいい、これが学問所の名前になっている。ちなみに昌平というのは、孔子の故郷の名前らしい。実際に歩いてみると、照り返しがすごい。隣には湯島聖堂の塀が立っており、日差しを遮るものは何もない。通学する人は大変だったろうなと思う。

正門のところにある「仰高門」を抜けると、いきなり木が鬱蒼と茂っている。暑い日にはありがたい。ありがたいが、イメージしていたものとは違う、森のような茂り方にびっくりしてしまう。そう思いながらしばらく歩くと、唐突に右手に巨像が現れた。

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仰高門

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鬱蒼としている

 

像の正体は孔子の像だった。日本のものというよりも、中国の顔立ちで、当時からあったのかなと訝しみつつ説明を読むと、どうやら戦後になってから台北から送られたらしい。それも、孔子像としては世界最大だそうだ。世界最大がこんな木々の中に隠れてるとは誰も思うまい。

鬱蒼としげる木々と巨大な孔子像、そして人気のない静けさは、学問所跡というより、神聖な場所の雰囲気を醸し出している。私は一呼吸すると、高台へと登る道を行くことにした。

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孔子像。木が顔にかかってしまっている。

 

高台には門がもう一つあった。「入徳門」というらしい。なかなか立派な門で、風格がある。だがまず目につくのはその変わった構造である。屋根の端から雨樋のような形の柱が2本降りている。中国の作りなのだろうか。どうも台湾でも、ヴェトナムでも、韓国でも、そして日本でも見たことがない形状のようだ(忘れているだけかもしれないけど)。 

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面白い形の入徳門

入徳門を抜けると、さらに階段がある。ヴェトナムの文廟はすごく平たかったイメージがあるが、そういえば、台北蒋介石孫文の廟は必ず高台が待っていた。特に蒋介石のものは長くて白い階段があって、照り返しで目がチカチカした。今日も日差しがすごいが、階段自体の色が渋めなので、安心して登れる。

登った先にはもう一つ門がある。「杏壇門」というらしい。何やら受付のようなものがあり、受付の人がいる。入場料は取らないと思っていたので、おっかなびっくり、受付のない正面の入り口から入った。何も言われないし、大丈夫そうだ。

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杏壇門

杏壇門の中にはいると、前庭がある。大成殿と呼ばれる孔子廟本体と門との間の吹き抜けの開けた空間だ。そこには何やらクリスタルのような、透明なオブジェが、日差しを受けて輝きながら、いくつか置かれていた。明らかに場違いなので、不思議だなあ、と思ってあたりを見回すと、東京ビエンナーレという芸術祭の一部らしい。受付もそのためのもののようだ。

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大成殿。昔はここで博覧会もやったらしい。

ともかく、私は孔子廟の方へと歩いた。二百円払うことで中を見せてもらえるらしい。見ない手はないので、二百円を握りしめて中に入った。

 

入って向かって右側に受付のようなものがあるが、係の人が見当たらない。どうしようかと思うと、机の下に係の人がかがみ込んでいるだけだった。何やらお香のようなものに火をつけようとしている。それをじーっと見つめているのも迷惑だろうから、

「すみません…こんにちは」

とおっかなびっくり声をかけ、お金を払って、案内の紙だけもらった。

中は四角く、がらんとしているが、中国の寺院の典型的な形をしている。つまり、真ん中奥にメインで祀られる祠があって、その周りに別の祠がある。中心には食べ物が並べられている。お供物にあたるものだ。お供物にもいろいろあるらしく、説明が書かれていた。

四方の壁には孔子の弟子を描いた絵が掲げられていた。元々あった絵を再現して描いたという。狩野派などが描いだ講師にまつわる絵も展示されており、孔子だけでなく、儒学に関わるさまざまな人々もまたここに祀られているようだった。その空間は、もはやご利益重視というより、彼らに見守られている感覚の方が強かった。あまり奥まで入ってくる人もいないようで、静かだったことも相まって、である。

 

この昌平坂学問所湯島聖堂とゆかりの深い一族として、林家がある。廟内にも歴代当主の系譜図が描かれていた。初代林羅山は若い頃は徳川家康のブレーンであり、その後、江戸時代になって、孔子廟を建てた。それから林家は徳川家の御用学者になってゆき、昌平坂学問所学頭を代々勤めることになる。そうすると、なにやら伝統的な古臭い学問をしていたと思われがちだが、歴史上、意外なところで林家が登場することがある。

例えば、林大学頭復斎(11代目当主)はペリー来航の際、ペリーと日米和親条約締結のための交渉を行う特命全権大使だった。ペリー来航というと、日本に黒船が来て、大砲で脅しつけ、幕府は怯えて開国した、とされることが多いが、これは少々間違った見解だと思う。林復斎はペリーの要求に対して毅然と挑んだという記録がある。実物を見たわけではないが、それを元にその時の外交交渉を書いた本を読んでいると、気持ちいくらいズバズバと林がペリーを論破してゆく姿が見て取れる。話の主導権は完全に復斎が握ったまま交渉が進むのだ。だんだんペリーが可哀想になるほどである。

ペリーは生粋の軍人で、林は学者だから、仕方ないといえば仕方ないのだが、それは儒学、あるいは林家が専門としていた朱子学が論理性を重視していた、ということでもある。そして、幕府も、そのような人物にペリーの応接を任せる、という判断に誤まりがなかったのだろう。この復斎は甥っ子も、それぞれ外国奉行になっているので、古い学問の牙城の林家、とはいえ、外交にもその手腕を発揮していた。

 

そんなことに思いを巡らしつつ、孔子廟を後にする。係の人はまたお香を炊こうとしていたので、そっと離れようとすると、

「ありがとうございました」

と声をかけてくれた。これは孔子廟の前で礼を逸してしまったな、と恥ずかしくなりながら、

「ありがとうございました」

と外に出た。相変わらず日差しは強い。空も青い。だけど、こういう静けさのある廟があり、木が生い茂っているから、なんとなく気分はすーっと落ち着いている。なかなかいい場所を見つけたかもしれない。

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