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旅、映画、食べ物、哲学?

オリンピックが始まった

先日、オリンピックが始まった。私にとっては初めての東京オリンピックである。いや、実を言えば、自国開催のオリンピック自体が、物心ついてから初めてだ。

私はオリンピックの開会式というものが好きで、毎回見るようにしている。ただ、確か前回のリオデジャネイロオリンピックは見れなかったと思う。

あの時は、ちょうど、カナダのモントリオールに語学研修で行っていて、ボウリング大会をしていた。ちらっと会場のモニターで見た気はするのだが、そこまできちんとは見ていなかった。自分のボウリングスキルの予想外のあまりの低さに打ちのめされるのに忙しかったのだ。

実は日本でオリンピックを見るのは久々である。リオ大会は今言ったようにカナダだった。ロンドン大会も、語学研修で、ロンドンの目と鼻の先、アスコットにいた。だが、交通規制がどうの、ということで、試合を生で見ることはなかった。その前の北京のときは、家族旅行でこれまたロンドンにいた。

すると、日本で、日本国内の熱狂と話題の渦中の中でオリンピックを見ているのは、その前のアテネ以来ということになる。自分でもちょっとびっくりする。三年後はどこにいるのだろう。フランスにいたら展開として面白いので、うっすらと計画している。

 

さて、開会式である。

今回の開会式は、(ひょっとすると見ていない前回大会もそうなのかもしれないけれど)なんだか途中で組織委員会のプロモーションビデオのようなものが挟まって、統一感がないようだった。開会式を一つのエンターテイメント作品として押し出すというよりは、いくつかの作品群というような感じがして、現代的と言えば現代的、だがもう少し緩やかな流れのようなものを見たいように感じた。もしかすると、この感想は実は間違っているのかもしれない。だが、そう思ってしまったということは事実なので、そのように書いておこうと思う。

ただ、テーマとしての「多様性と調和」というものは、見せようとしているように感じる(感じさせるのではなく、見せようとしている点が、むしろ断片的に見えてしまった一つの理由かもしれない)。問題は、その多様性があまり多様ではなく見えてしまう瞬間が結構あったことだ。

例えば、あれだけの国の人々を集めている中で、日本の子供達の歌声をアジア大陸代表と言ってしまうのはどうだろう。オリンピックの旗は五つの輪でできているが、それに囚われすぎる必要はないし、囚われれば多様性が見えなくなりそうだ。いっそのこと、参加国・地域全ての子供たちの歌声を、それぞれの尺は少なくなったとしても、届けることができれば良いのに、と思ってしまった。

だが、大工が登場するパフォーマンスで演じられた多様性と調和は、私はなかなか好きであった。最初に町火消しと大工が登場し、何か作業を始める。私たちはそれを見て、「これはいったいなんなんだろう」と思って見ている。するとリズムがあってきて、ダンスパフォーマンスへとつながる。あれは自然と入り込んでゆけて、私にとってはとても心を掴まれるものがあった。

 

さて話は変わるが(内容が断片的だったために、感想も断片的になる)、日本的なるものを、演出上でどのように表現するか、という点も興味深かった。町火消しや大工、選手入場の際のゲーム音楽、漫画の吹き出しのような国名プレート、入場が五十音順になっていること、そして歌舞伎界を象徴する市川海老蔵の起用…と色々出てきたわけだが、どれも、いわゆる日本すぎて、大きく頷けるような日本らしさは逆にない。

私が見ていた中で、「これは日本をうまく表現している」とおもえたのは別のものだった。それは、ピクトグラムの実演だ。仮装大会みたいな手法で、時に「うまく考えたな」という角度から、ピクトグラムを見事に再現してゆく。なぜかはわからないが、日本らしさがあそこにはあった。日本が常連となっているイグノーベル賞にも通じるのかもしれないが、地味でどうでもよさそうなことに知恵と工夫を注ぎ込んでゆくところに、その「日本らしさ」があったのかもしれなかった。

ロンドンオリンピックの際、開会式・閉会式はさまざまな英国の顔が散りばめられていた。歴史にせよ、007、ミスター・ビーン、モンティパイソン、ビートルズ、クイーンなどの文化的なものにせよ。今回の東京の開会式は、そこまで日本の顔を押し出すことはなかったように思う。ひょっとすると、英国ほどの自信がまだないのかもしれない。それでも間違いなくあのピクトグラムのパフォーマンスには、日本の香りが漂っていたのである。

 

とはいえ、私は開会式の華は選手入場だと思う。各国の選手たちがそれぞれの衣装で登場する。今回印象的だったのは、みんななんだか自由だったところだ。カメラに駆け寄ってくる選手、ダンスする選手、飛び跳ねる選手たち。衣装も、かっちりしたものだけでなく、ジャージのような格好、普通の観光客のような装いも見えた。もちろん民族衣装の人もいて、見ていてすごく華やかだ。

そうなのである。結局のところ、多様性は誰かが作ったパフォーマンスで探さなくても、選手入場の中にある。そこには対立する国もいるし、難民もいるし、あるいは組織的ドーピングで問題になってしまった国もいる。この世界には、7月23日の国立競技場内以上の多様性が本当はあって、あの選手入場なんて、その一部だ。だけど、それでも、そうした多様性の一部がテレビを通じて人々の目の前に一挙に現れるのは壮観である。

 

色々な声があり、それぞれ理を持っていて、皮肉や文句を言う人にも正当性がある。だが、今年ほど、オリンピックが必要な年もそうそうないものだ、と私は思っている。

 

コロナの蔓延はもちろんのこと、よく言われるように、私たちは「分断」の時代の最中にいる。かつてある哲学者が、人々の意見が相違するのは当然であって、それが多様性なのだから、「分断」は問題ないことだという旨のことを言っていた。私は違うと思う。分断は、人々の意見が食い違うことではない。食い違った意見が内輪ウケだけで成立している状況だ。

あまりリアルな話をすると生々しくって嫌なので、ある国が犬派と猫派に分断されているとする。犬派は猫派が何を言おうと、犬の方が可愛いと思っていて、猫が好きなのはバカだけだから相手にするなという。そして、逆もまた然りの状況にある。これが分断であり、現代社会を眺めてみるとしょっちゅう目にする。厄介なのは、相手の意見がゴミ同然として扱われることだ。相手はもはや同じ人として認められてないんじゃないかと思う。そしてグループ内は一種の集団催眠状態で、自分たちの意見の正しさを疑うこともない。疑うべき点が出てきたら、真っ先に隠す。

多様性を語ること自体が、そうしたグループの一つになってしまいかねない状況すらある。「犬も猫もいいよね派」というものが出来てしまうと、その派閥内では「犬派」や「猫派」自体が「時代遅れの」「守旧派」だ、なんて槍玉に挙げられる。どの意見も皆、それぞれの仲良しグループ内のものと化してしまう。とかく論破や中傷や冷笑がもてはやされる。敵対する相手の言葉の奥にあるかもしれない真実すら探そうともしないで、攻撃だけを美徳とする。

そんなにっちもさっちも行かない現状が続く中で、コロナが流行ってしまった。その結果として、分断はますます広がっているように思う。

まず、国同士が物理的に分断され、精神的にもかなり遠いものになっている。外国という、自分たちと異質なものに、元から私たちは警戒感を抱きがちがだったが、その警戒感に、科学と医学のお墨付きがついてしまった。

元から忌避していたものへの風当たりの強さは、夜の街や酒などにまで広がっている。あるいは、デモや反政府運動、自分たちとは違う宗教や民族的背景を持つ人たち、生まれたての民主的政権にまでも。

 

今こそ、やっぱり、休戦が必要なのだ。そしてより大事なのは、相手を相手として認めることだ。それを理念として掲げ続けているのがオリンピックである。今やカネと国の威信にまみれているという批判はもっともであるが、理念は理念のまま、私は一つ信じて見たいように思う。というのも、選手たちはスタジアムで戦い、最後には握手をするからだ。それがスポーツマンシップであり、そこには分断は認められないからだ。

握手すら、ままならない時代だ。そんな時にこそ、これだけさまざまな国と地域の様々な背景を持つ人々が集うことに意味があるし、どうせもう歴史に刻まれてしまうのだから、何か意味のある大会にしていく責任が開催側にはある。いつまで続くかわからないコロナウイルスと分断という二つの病、精神と身体を蝕む感染症に、それぞれどのように立ち向かうのか、そのメッセージを投げかけるチャンスである。

 

今回のオリンピックのテレビ中継を見ていてとてもいいなと思うことがある。それは日本だけでなく、色々な国のことが話に出て、アスリート全員に向けられた応援の言葉も時折聞かれることだ。

昔は、日本のメダルばかり気にしている風があったり、選手が「金メダルを取ります」という宣言さえさせられている場面もあったりして、とても気味が悪かったから、今のやり方のほうがいいと思う。

私も、自分が何度か行って、情が写ってきているヴェトナムやトルコなども精一杯応援しようと思う。

どちらの国も、今のところ試合で見かけていないのだが…。