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旅、映画、食べ物、哲学?

台風の日〜莫蘭蒂の巻〜

フィリピン沖で発生した「莫蘭蒂」こと台風14号は、その勢力を拡大しながら台湾へと迫っていた。初めは台湾に上陸する予定だったが、神のご加護か、単なる偶然か、進路を南よりに切り替えて、台湾の南側をかすめて行くルートをとることになっていた。

だが、慈悲深き神とて甘くはない。実を言うと、台風14号に加えて、「馬勒卡」こと台風16号がフィリピン沖で発生、台湾の北側をかすめながら通って、日本へ向かうルートで動き始めていたのだ。さすがは台風のデパート。わたしは滞在中台風を2度も経験することになるのだ。いざとなればホテルに引きこもる覚悟はできていたが、二回も来るとは、なんともまあ、悲しい運命である。

だがとにかく、どちらの台風も台湾に上陸はしないという予報であった。そして台北滞在三日目は「莫蘭蒂」の方が台湾に近づいてくるまさにその日であった……

 

台北滞在三日目

台湾の台風はひどい。日本のものなど比べものにならない威力だ。そういう話を聞いていたので、朝起きて窓の外を見た時は驚いた。空を分厚い雲が覆ってはいるものの雨すら降っていなさそうなのだ。もしかすると、これが本物の嵐の前の静けさかもしれない。そう思いつつ、わたしは一階へと降り、朝食をとった。

余談だが、朝食は、朝食券をホテル併設のカフェまで持って行き、カウンターでそれをわたし、コーヒーか紅茶か、どちらを飲みたいのかをオーダーするシステムになっている。そうするとコーヒーか紅茶と、サンドイッチが出てくる。サンドイッチの味はどこか「台北味」で、甘辛い鶏肉の具が入っていることが多かった。わたしは毎回コーヒーを頼むのだが、最初に必ず中国語で質問を受ける。そんなことはもう慣れっ子だったが、一瞬何を言われたのかわからなくて混同したものだった。とにかく、なんとか英語にしてもらい、ものすごい量の、ものすごく熱い、だがなかなか美味しいコーヒーを頼む。これが、カフェ周辺の効き過ぎたエアコンの環境では、暖かくて良い。毎回、口にやけどをしながら飲んでいる。

そんなことはさておき、わたしは食事をすませると、外に出てみようという気になった。結構多くの客がホテル外に出て行く姿を見たし、行けそうな気がしたのだ。

外は小雨だった。風はまあまあある。そしてむわっと蒸し暑い。そりゃそうだ。今台北の南東にはどでかい台風があるのだ。この台風は、台湾のテレビの漢文を何とかして読みくだした結果によれば、100年の歴史を塗り替えるほどのでかさらしい。だがそれも、遠く離れているためか、強い風がむしろ気持ちよくさえ感じられてくる。

わたしはホテルのそばの「二二八和平記念公園」にある、「国立台灣博物館」に行こうと思った。台風の予定日に、さすがにどこか電車に乗って遠出する気にはならなかったが、最寄りの博物館くらいなら平気そうだと思ったからだ。

「国立台灣博物館」は、日本統治時代に作られた、質実剛健な感じの、どことなくロンドンのナショナルギャラリーに似た、青いドームつきの塔にギリシア神殿風の建物という建物の中にある。強い風で、ドームのてっぺんに掲げられていた中華民国の国旗がはためいていた。台風の日にやっているのだろうか。そう思いながら建物を眺めていたら、別の観光客が博物館へと繋がる階段を登り、入り口あたりで立ち止まった。やはりやっていないのか。そう思った時、扉が開き、警備員が観光客を迎え入れた。わたしは今だとばかりに階段を登り、便乗して中に入ったのだった。

警備員が傘は外に置いておいてくれというので、わたしは傘を外へ置き、エアコンのよく効いた館内に入り、故宮博物院の二の舞にはなるまじとチケットカウンターでチケットを買い、入館した。チケットの値段は30台湾元だった。思い出してみると故宮博物院は250台湾元。なんという差だろうか。

中に入るとホールがある。そこは日本の国立博物館の大階段と同じ作りだが、天井は丸く、ドームを下から見上げることができるようになっている。明治大正のロマンがそこにはあるような気がした。それが良いことか、悪いことかはわからない。だがとにかく、この博物館のホールに立つと、すっと背筋を伸ばしたくなる。

わたしは2階へ上がり、とりあえず回ってみることにした。

国立台湾博物館は、大きく分けて二つの展示コーナーがある。まずは、「台湾の自然と動物」コーナー。そしてもう一つは、「台湾の先住民族」コーナーだ。自然と動物の方は、まあ、よく知床などで見かけるビジターセンターのようなものだったが、「先住民族」コーナーはなかなか充実していた面白かった。台湾には何種類もの原住民族がいるらしく、それぞれの衣装とともに、映像も流され、工芸品も置かれ、その生活ぶりを伝えていた。「布農族」という人々のコーナーでは歌を聞くこともできた。というのも、彼らは歌で名の知れた民族らしい。試しに乾杯の歌を流すと、どことなく懐かしいような、それでいてどことなくエキゾチックな歌が流れてきた。低音を響かせ、高い音で歌い上げる、いわゆる「ポリフォニー(多声音楽)」とよばれるものらしい。楽器も展示されている。わたしはしばらくそのコーナーを回ったが、ふと、動物のコーナーと同じように、この人たちのことを展示するというのはどういうことだろう、と思った。

たまには動かない旅もいい。わたしは椅子に座って、誰かが展示コーナーで流した原住民族の音楽を聴きながら、ぼーっとしていた。

途中で日本人のグループを見かけた。彼らは何やら建物を見ているようだ。ガイドが壁を指さし、「この部分は大理石です」とか、「この部分は日本統治時代から……」とか言っている。確かにこの建物は、そういう回り方も十分にできる建築だったと思うが、彼らは視察団か何かなんだろうか。

しばらくして、わたしは博物館の外へと出た。天気の具合が気になったのだ。といってもその前にミュージアムショップにより、古い台湾の地図が描かれたポストカードを買うかどうか迷っていたのだが。

案の定、外は全くもって変化していなかった。小雨、まとわりつくような暑さ、そして風。わたしは安心して公園を一周してみた。昨日よりはやはり人が少ないようだ。だが、思ったよりはいる。しばらく歩くと、徐々に雨が強くなっていくのを感じ、わたしは壊れかけのアンブレラをさすことにした。

ホテルの方へと歩いていると、何やらでかい石造りの建物があった。これもやはり何か日本時代のものなのだろう。よく見ると、そこは「国立台灣博物館」の分館だった。とりあえず入ろう。やることもない。そう思って、わたしは警備員に軽く会釈をして中に入ってみた。

ここの料金も30元である。先ほどのところも楽しかったし、正直、故宮博物院よりコスパがいい気もしてくる。どうやらこちらでも何やら視察があるらしく、今度はスーツやドレスで決めた台湾人が大勢いた。

分館の展示は、自慢の巨大な台湾出土の恐竜の骨を中心にしていた。確かにそのスケールは凄まじく、しかも上から見下ろしたり、近づいてみたりできる設計になっているため、かなりのものだった。とはいえ、それよりも面白い展示がそこにはあった。

それは入り口付近にある金庫室だった。この建物は、どうやら日本統治時代に、日本勧業銀行(現:みずほ銀行)が入っており、その後は台灣土地銀行という大きな銀行が入っていたようだ。そのため、その金庫室ではその時代の展示をしていた。昔のテレビ映画で日本の植民をたたえている映像を見るのは、日本人としては苦々しいものだったが、そういう時代もあったのだと感じられた。また、その時代の台北市の歌は、時代を感じられる代物であった。何より面白いのは、昔の機材があることだ。今の機械と比べて、昔の機械は美しい。機能美を備えている。そんな機械が数多く並んでいるのはなんとなく、男心をくすぐってきた。

金庫室を出て、巨大な恐竜の展示に感嘆し、戻ろうと部屋を出ようとすると、警備員のおっさんが、「こちらです」と日本語で言った。台湾では日本語が通じるというが、メニューの日本語表記以外だと、実はこの時が初めてだった。三日ぶりの母語の響きはくすぐったく、はにかみつつ、「ありがとう」とわたしは展示室を出た。だが、そこは出口ではなかった。今度は台湾独立後(正確には、台湾が日本の統治下から解放され、再び中華民国に戻った「光復」後)の銀行「台灣土地銀行」の展示があったのだ。当時の社内が再現された展示室には、当時の形の計算機が並んでいた。歯車式らしい。使い方の説明動画が流れていたので、わたしは食い入るように見つめてしまった。やはり古い機械は男のロマンだ。だが途中、例の視察団御一行様がやってきて身動きが取れなくなったので、足早に立ち去り、今度はこの建物の修復作業の展示を見た後で(当時の建築技術が説明されていて面白い)、わたしは博物館を後にした。

 

雨は激しくなっており、部屋に戻ったわたしは、昨日セブンイレブンで買った弁当を食べることにした。それは海苔の上に米をのせ、その上に台湾風な甘辛い味付けの鶏肉と、甘辛い味の染み込んだゆで卵をおき、その海苔を半分にぱたん通ってある、「おにぎらず」風のものだった。どうやらどこかの駅の駅弁の復刻版のようだ。日本統治時代に持ち込まれたらしい駅弁文化は、まだ健在のようである。

さて、これはなかなかにうまかった。単純だが、肉はどことなくジューシー、そして米の炊き方もなかなかだ。日本で売ってもかなりの売れ筋になるのではなかろうか。わたしはそれをばくばくっと食べ、カットフルーツに手をつけた。南国風のフルーツが詰まったカットフルーツも、味がないグアバ以外はうまかった。

ふとテレビを見ると、台風が近づいている様子がわかる。どうやら南部では大変な被害を出しているようだ。こちらではちょっとした雨という感じだもんだから、変な気分である。映像で流れる南部の高雄の様子は、バイクが横転し、看板がバイクに激突し、歩いている人は風のせいで歩けなくなり、家にいるおばあさんは割れた窓のせいで流血していた。台湾は小さいと思っていたが、こうやってみるとかなり違うようである。家族や友人からも、大丈夫かという連絡が入ったが、こちらとしてはどうも現実感がわかなかった。

それどころか、だ。雨が小降りになると、外に出てみようという気にさえなった。

外に出てみると、どうだろう。人々は普通に生活し、店も普通に営業している。わたしは傘をさすのが面倒だったので、なんとか雨をしのげるルートを使って台北駅の站前地下街まで向かってみた。あの弁当だけではお腹が空いたのだ。

 

地下街もかなり普通に営業していた。いつも通りの場所で、いつも通りのおばさんが、いつも通りのいかがわしいカッパやシャツやバッグを売っている。そして、いつも通りの匂いがする。臭いような、いい匂いのような、そんな複雑な香りがした。わたしは以前から目をつけていた、「客家(ハッカ)料理」の店に行くことに決め、黄色い店内が目印のその店へと足を速めた。

客家とは、中国内陸部にもともとは住んでいた流浪の民のことである。各地を客のようにわたりあるくから、「客家」というわけだ。彼らはさながら「中国版ユダヤ人」というような感じで、各地で邪魔者扱いを受けつつも、たくましくコミュニティを作って生き延びてきた。そして彼らの優秀さ、特に他の定住する漢民族たちが抱きがちな古い考えからいとも簡単に抜け出てしまう「優秀」さも有名である。中華民国の父で、台湾では「国父」と呼ばれる孫文(台湾ではむしろ、「孫中山」という呼び名で通っているようだ)、中華人民共和国の父である毛沢東は、客家出身だと言われている。

そんな、客家の料理。台湾にもかなりの客家がいるらしい。わたしは店に入ると、この三日間で有効だと判断した、とりあえずメニューがないかどうか聞いてみる作戦を開始した(というのも、ヴェトナムでは一軒の店に着き一品しか出していなかったので、人数を言うだけで魔法のように料理が出たが、台湾ではそうはいかず、メニューがないとなんともできない。そのメニューは店先に貼ってあるのだが、読み上げることもできない。だから、ゆびさし用のメニューが欲しかったのだ)。

「よう・めいよう・つぁいたん?(めにゅハアリマスカ?)」とわたしは片言でいう。すると店先に立っていたおばさんとおばあさんの間という感じの人は、

「没要!(ないわよ!)」といい、何やら付け加えた。呆然としていると、おばさんは店の壁に書かれたメニューを指差す。なるほど、あれがメニュー代わりだ、というわけか。わたしは「しえしえ(アリガトゴザマス)」といい、店の中に入っていき、メニューを見た。今回ばかしは、本当に何かわからない。だから、とりあえず一番安くて(50台湾元=200円)、「客家」という言葉の書かれた一品を頼んでみた。

出てきた料理は、甘辛い茶色いタレがかかって、上にもやしがのったきしめんだった。わたしはこれを勝手に「客家フェットチーネ」と呼ぶことにした。だが幅はフェットチーネきしめんヤフォーなどより断然広く、どちらかといえば、「客家風ラザニア」というべきかもしれない。だが、煮て、ソースをかける調理法はラザニアではない。だから、フェットチーネである。よくメニューを見ると、「客家板麺」と書かれていた。この麺はフニャリとしていて、口当たりが柔らかく、甘辛のタレと良く合う。クニャッとしている感じは、日本の麺やパスタに慣れていると奇妙な感じもしなくはないが、あれが慣れてくるとうまいのだ。かなり美味しかった。初日二日目と牛肉麺を食いつづけ、あの八角風味のあの香りに少々飽きが来ていたところだったので(早いかもしれないが)、少々違う味の「客家フェットチーネ」は非常に満足できる味であった。付け合せで出てきた白濁したわんたんスープは、何かの骨のダシが出ている。これは身にも心にも染み渡る味だ。似たようなスープを、わたしは日本の「香港麺」の店で飲んだのだが、あれもうまかった記憶がある。ワンタンも中のつくねがプリッとしていてうまい。

客家料理に舌鼓を打った後、わたしはしばらく地下街を回って、外に出た。雨はもはや影すらもなかった。わたしはまだ小腹が空いていたので途中で肉まん(鮮肉饅頭。豚まんのことだが、日本のものよりも皮が饅頭に近い)を買い、セブンイレブンで念のために部屋で籠城したときのための食料を買った。昼に食ったやつと同じシリーズのもので、海苔とコメは同じだが、中身が違うものだった。そしてあのカットフルーツは同じである。それから、夜に部屋で飲むための台湾ビールも欠かせない。隠してわたしは台風のさなかの穏やかな台北から二畳以下の我が家へと戻ったわけだ。

テレビをつけ、ベッドに寝そべり(テレビを見るには、ベッドに寝そべるしかない。それくらいの狭さなのだ)、高雄を中心とした台湾南部の惨状を伝えるニュースを見ていた。そうこうするうちにわたしはだんだんと眠くなっていった……

 目をさますと、外は雨が降っていた。風も出てきたようで、ホテルの前にある信号がグラグラと揺れていた。少々恐怖感を感じたが、この信号を信じてやるしかあるまい。わたしは置いてあった肉まんを食べ、ウーロン茶を飲んだ。さてと。どうしようか。なぜだかわからないが、わたしは日本でも変な時間に寝てしまうと、人生を無駄にしたような惨めな気分になる。だから何かをしたくてたまらなくなる。テレビ画面の中では相変わらず、高雄の惨状を伝えている。わたしはとりあえずランドリーで洗濯をすることにした。三日目というと、一週間の中日であり、そろそろやっておいて損はない。わたしは洗濯物を抱え、最上階にあるランドリーへと向かった。

カナダで慣れたはずが、やはりところ変わればランドリーも変わる。難しいのだ。このランドリーでは、洗剤を直に入れるらしい。わたしは疑いつつも、とにかく洗剤を入れ、洗濯物を打ち込み、蓋を閉め、10元コイン4枚を入れて、ボタンを押した。しっかりと動いている。順調だ。わたしは一仕事終えた気分になって部屋へと降りていった。

と言ってもやることがあるわけでもない。天気もやっと台風らしくなっている。わたしは結局、スマートフォンを見ながら過ごしてしまった。なぜだかわからないが、わたしは日本でもスマートフォンを見て過ごしてしまうと、人生を無駄にしたような惨めな気分になる。わたしは30分経ったのでとりあえず洗濯物を取り出し、乾燥機に入れた。だが、乾燥機はもっとわからない。あたふたしていると、髭面のホテルのスタッフがたまたまやってきて、何やら中国語でわたしに話しかけた。なんどもいうが、慣れっこだ。わたしは首をかしげるだけでいい。そうると、

「Can I help you?(お手伝いしましょうか)」と英語に切り替えてくれた。わたしは、「yes, please」と答える。するとスタッフは何やら乾燥機をピピピッといじり、洗濯物の量を見せてくれという。わたしは蓋をぱかっと開けた。すると、「10 minutes is enough(10分で十分だと思いますよ)」と、日本語にすると駄洒落になってしまうことをいった。カナダの乾燥機が一時間かかったものだから、少々驚きつつ、わたしは「Thank you for your kindness(ご親切にありがとうございます)」と答えた。あの時はスタッフだと気付かなかったせいもある。わたしは10元を入れ、機械を作動させた。ただ、スタッフが乾燥機をいとも簡単にピピピッといじってくれたことが、数日後に思わぬ被害をもたらすのだが、それはまだ先のこと。

10分間はすぐに過ぎ去り、わたしは洗濯物を取り込んだ。とりあえず6時くらいになっていたので、わたしは例の「台湾版おにぎらず」を食べた。今度はコショウをまぶした鶏が入っていた。これもなかなかいける。コショウが食欲を誘った。だが、食欲を誘ったが故に、お腹が空いてしまった。そして素晴らしいことに、外の雨は再び回復していた。カットフルーツは、帰ってからのお楽しみ、としよう。

 

わたしは再び「站前地下街」へと向かった。あそこには何でもある。途中で台北駅大ホールの地ベタリアンたちにまざってみたり、本屋に寄ってみたり、少々寄り道をした。すると発見もある。いつも通っていたのは「站前地下街Z」という、マジンガーZのような名前の地下街だったわけだが、その隣には、「K區地下街」というもう一つの地下街があったのだ。そこは白っぽくてお洒落さのかけらもない「Z」にくらべ、暗い照明に、こぎれいな店が並ぶお洒落な界隈だった。そこにはでかい「誠品書店」という本屋があり、その系列店のステーショナリーショップがある。この「誠品」グループは各地にあり、お洒落な書店を経営していた。その影響だろう。K區がお洒落なのは。また、駅の改札の方へと進むと、ラーメンなどを出す日本食屋や、お洒落なカフェ、おしゃれな牛肉麺の店(!)がある。そして改札口とK區をつなぐ階段には多くの若者が座り、休憩していた。台北の若者は駅で時間を過ごすようで、座ってパソコンをしたりしている光景をよく見た。

夕食はもちろん、汚らしいZの方で食べた。ただ、誤算があった。入った店がヴェトナムフォーの店だったのだ。できるだけ台湾系の料理を食べようと思っていたから、それは誤算であった。まさか、「越南河粉」がフォーだとは思わない。越南がヴェトナムである位は知っていたが、フォーだとは。

だが食べてみるとその、無意味な「ガッカリ感」は吹き飛んだ、確かにフォーだが、味はどことなく台湾味なのだ。何とも説明のし難い、地下街Zに漂う匂いが染み付いている。ヴェトナム料理として食べると変な感じだが、文化の交差点として食べると面白い。そしてなにより、なかなか悪くない味なのだ。

食べ終わって地下街をぶらぶらしていると、やはり若者がダンスしている。地下街Zでも、K區でも、若者が集まってダンスしているのだ。昨日の朝公園に行った時、老人たちが体操しているのを見たが、若者たちはいなかった。やっと見つけた。若者たちは夜の駅中でダンスをしているのだ。それもヒップホップ、ストリート系のダンスを。この光景はヴェトナムでも見たものだから、とても面白かった。すくなくとも、日本ではありえないだろう。

部屋に戻り、ビールを飲む。そしてカットフルーツを食べた。相変わらずグアバはまずかったが、相変わらずドラゴンフルーツがうまかった。ビールもうまい。こういう気候には、台湾ビールのようなさらりとしたものがいいようである。

 

 

案外、帰国した今、台湾でいつが一番楽しかったかと聞かれたら、台風の日だと答えるかもしれない。たしかに、電車は使わなかった。そしてたしかに、あの博物館以外入っていない。だが動けなかったが故に、わたしはあの台北というと地で生活した実感があった。ちょっとした散歩をして、安い博物館を回り、身近な場所で食事をとり、洗濯をし、そして夜になるとビールを部屋で飲んでいる。そう、あの日だけは胸を張って言えるのだ。「わたしは旅行ではなく、旅をした」と。ここではないどこかで、自分の生活をした。ここではないどこかで、その土地の人と生活をした。それが、わたしの経験した「台風の日」だったのだ。そんな「台風の日」は、この日一日だけではなかった。望んでいたわけではないが、最終日もまた期せずしてそうなってしまった。そのことはまた書くと思うが、あの時も十分に旅を楽しめた気がする。

 

(台北滞在三日目、終了)