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旅、映画、食べ物、哲学?

まだ『天才』ではない

私は『天才』という人の存在をあまり信じていない。

いや、それは嘘だ。天才は確かにいる。

ちょっと子供じみた表現を許していただけるならば、私はすべての人が天才なのだと思っている。だけど、いわゆる『天才』と言われている人は、自分の中にある天才的な部分を解放するのに生まれつき長けているか、そのように見えるのに対して、そうではない『凡人』にはそれがなかなかできないのだと思う。

 

天才以外に創造の才能がないという見方は間違っている。例えば、モーツァルトベートーヴェンを並べて、生まれつきの天才と努力の人というように言う場合があるが、それでは努力の人のベートーヴェンに才能がないといえば、皆さんはどう思われるだろう。ばかばかしいのではないか。ベートーヴェンは強烈な創造の才を持っている。いかにその音楽の形式が計算され尽くされていたとしても、あれだけの作品を作り上げる力を才能と呼ばずして何と言おう。

ベートーヴェンは、天才だ。だけどもっと一般大衆とかはどうだ。才能なんてない人たちもいっぱいいる。」と、いう人もいるだろう。申し訳ない。例えが悪かったみたいだ。だけど私が思うに、どの人にも個性があり、どの人にも何かしら表現したいものがある、あるいは既に表現してしまっているものがあるはずであり、それはそれぞれの「天才性」に裏付けられている。表現というと何やら芸術を想起させるけれど、事務仕事だってなんだって良い。その人にとってしっくりとくる仕事で、なおかつ、その人の人生をそこで表現できるもの。そこに天才性が現れている。だから、勘定の天才もいれば、作曲の天才もいれば、プロデュースの天才もいるし、マーケティングの天才もいる。

とはいえ、こういう言い方をすると誤解されそうなので付け加えておくと、決して天才性は職業と結びついたものではない。職業は自分の才能を発揮する方法の一つにすぎない。例えば、緻密の才能は事務仕事でも芸術活動でも生きてくるように、才能はもっとニュートラルなもので、それぞれの人の生活、働き、趣味、活動云々に滲み出てくるものだ。言ってしまえば、「その人らしさ」に近いのかもしれない。

まとめると、各人が各人の「天才性」をもっていて、それはそれぞれ独自のものだ。こうした言い方をしたくなるのは、私がゆとり教育最後の生き残りで、「金子みすゞ主義」「世界に一つだけの花主義」を引きずっているからかもしれない。だけど、やっぱり一抹にすぎないとしても、そこに真実はあるはずだ。単に口にするのが烏滸がましいだけで、ちょっとした部分を掘り下げてみれば、あなたも私も天才かもしれない。だってあなたも私も、それぞれの「やり方」をもって生きているじゃないか。

 

全ての人が「天才」であるとして、「天才/凡人」のような評価が生まれてしまう裏には何があるのか。それは、先ほども述べた「天才性」と「表現」の間の関係に関わるように思う。そこには、「天才」と「努力」の問題がある。

天才と努力。その二つは対比されることが多い。だけど、その「努力」と言うのは一体、何の努力なのだろう。私が思うに、それには二つの種類がある。

一つ目は、何かを生み出すための努力だ。絵を描くなら、絵具の使い方、キャンヴァスの使い方、そして様々な技法など。音楽を作るなら楽器の弾き方や、楽譜の使い方、楽典に関わることなど。他にもありとあらゆる活動には、その活動を成就させるためにどうしても必要なことがある。こうした技を学ぶために、人は努力する。

二つ目は、自分にはどんな才能があるのか見極める努力だ。これは目立たないことだが、人は人生を賭けてこの努力を絶えず行っているとも言えるし、多くの場合、失敗に終わるとも言える。どのように表現することで、自分の才能が一番発揮されるのか。どの仕事を選ぶか、どの方法論で何かを学び、何かを行うのか。こうした問いは私たちの人生の要所要所で登場し、悩ませる。答えを出すには並外れた努力を必要とする。

自分を知り、表現のための技術を手に入れ、そこからやっと、自分に合った表現ができるようになっていく。どちらがかけても意味がない。自分のうちにあるものをうまく表現できないと、不自由さに頭を抱えるだろうし、いくら技術があっても何を表現するのか見極められなければ、「なんて凡庸なんだ」と自分を責めることになる。スタート地点までいくのがしんどいが、そこまでいけば、天才も凡人もないはずなのだ。

『天才』と呼ばれる人は、この種の努力をあまり必要とせず、自分のもっているものを引き出すことができるという意味で「天才だ」と言われているように思われる。(音楽や語学ではありがちなのだが)幼少期からの蓄積があるのか、見えない努力を重ねているのか、あるいは本当になんの用意もなくなのか、『天才』は自分の才能を表現するやり方を心得ていて、表現する術を手元に持ち合わせている。裏を返せば、『天才』は才能に関わることではなく、もっと技術的な部分を要領よくこなせるかどうかにすぎないのではないか、と私は思う。

 

では、どうして『天才』、それも圧倒的で他を寄せ付けない『天才』というものが想定されることが多いのだろう。

自分と「すごい人」を比べる場合、なんらかの共通の尺度をもとにする必要がある。これは科学の基礎である。いきなりひよこと扇風機を比べろと言われても無理な話だ。色で比べるとか、重さで比べるとか、羽根の最大風速で比べるとか、基準を設定しないといけない。技能の場合、コンクールやコンテストなどで比べることが多い。

だが問題は、各人が持つ「天才性」はそもそもそれぞれ共通の尺度をもっているのかというところだ。漫才の賞レースやピアノコンクール、文学賞などでたいした成果を上げずとも、才能がある人はたくさんいる。コンクールでウケる才能を持った人もいれば、また別の才能を持った人もいる。それぞれが持つ天才性は互いに比較できないのだ。そういう意味で、冷静になって考えると、「彼/彼女は天才だ、到底自分は及ばない」というのは端的におかしな比較をしている。なぜなら比較できないものを比較しようとしているから。そういう意味で、その「彼/彼女」はあなたに到底及ばないはずだというのに。

 

『天才』と『凡人』を隔てるものはただ、自分の才能を自由に表現する術をもっているか、自分のことを心得ているかどうかにすぎない。私自身時々、自分の才能のなさに悲しく、悔しくなる。そういうときはできるだけ、これからは、自分にこう、声をかけてあげたい。

「まだ、精進が足りない。まだ、『天才』ではない。ゆっくり進もう」